鬱蒼とした樹々の写真を撮ってきました。近所の学芸大学の構内です。撮ってきた写真をお送り致します。「鬱蒼と生えている樹木の写真」
小樽は何度行っても旧懐の情や哀愁の情が掻き立てられます。郷愁というかノスタルジアというか、心の奥の方にささやかな赤い火がポッと灯ります。まず暗い運河の写真を示します。2010年の6月17日の夕暮れに家内が撮りまた。1番目の写真は暗い運河と石造りの倉庫です。この倉庫の中は土産物屋になっています。2番目の写真は土産物屋になっている倉庫の外壁です。蔦や雑草に覆われていますが内部には明るい照明が輝き綺麗な商品が並んでいるのです。倉庫群がそのまま商業施設になっています。小樽のその他の商店の風景を示します。3番目の写真は石造りの倉庫がそのまま菓子店になっている風景です。内部は明るい色彩に溢れています。4番目の写真は海運業者のビルをそのままガラス細工の土産物屋に使っている風景です。内部にはベネチアから運んで来たゴンドラ...「哀愁漂う小樽の写真」
北海道の東部根室市の北に、多量のサケの遡上で有名な標津川(シベツガワ)があります。その南に幅が数十メートルから数百メートルしか無い砂洲で出来た野付半島が、湾曲しながら26kmも伸び野付湾を囲んでいます。砂洲の上には舗装道路が延々と続き、野付灯台まで車で入れます。そして野付灯台の手前にはトドワラとナラワラという枯れたトドマツの原とナラの原が広がっている場所があります。地盤沈下で海水に漬かってしまったトドマツの木とナラの木が枯れて、白い骸骨のように立っています。不気味です。その白骨のような林が野付湾を一層荒涼とさせています。人間の住む世界ではありません。しかし野付湾には美味しい縞エビが棲んでいて、夏と秋にはその味を楽しむことが出来ます。今日は荒涼とした最果てのトドワラ、ナラワラの不気味な風景と野付湾の縞エビ漁...「北海道の最果てトドワラ、ナラワラの不気味さ」
北海道の魅力の一つは摩周湖、オンネトー、阿寒湖などの静かな湖です。私は何故か北海道にある湖に憧れていました。白樺の樹々に囲まれた静かな湖というイメージが心に一生焼き付いているのです。そんな風景を求めて旅に出ると必ずのように湖を訪れます。仕事を止めた後は北海道に魅せられてしまい何度も行きました。特に北海道には美しい湖が沢山あります。訪れたところを書くと次のようなります。洞爺湖、摩周湖、知床五湖、オンネトー、阿寒湖、支笏湖、屈斜路湖、サロマ湖、網走湖、大沼、風蓮湖、塘路湖など。今日は紅葉した摩周湖、オンネトー、阿寒湖の風景写真をお送りいたします。自分で撮った写真は下手なのでインターネットでいろいろ検索して美しい写真を探しました。丁寧に探すとインターネットには鮮明で綺麗な写真があります。北国の湖の周囲は美しい紅...「北海道の魅力、摩周湖、オンネトー、阿寒湖」
その川は北海道の東海岸にある標津川です。毎年30万匹の鮭や鱒が遡上することで有名です。中標津町という町に流れているあまり大きくない平凡な川です。しかしサケやマスの遡上する量は日本一と言われています。下にその標津川の河口の写真を示します。写真の上の方にはるかに太平洋が写っています。この写真は2012年9月に撮りました。上の写真は「サーモン科学館」の高い塔の頂上から撮ったものです。標津町は鮭漁からの収入で立派な「サーモン科学館」を作りました。そこには遡上する鮭や鱒を観光客へそのまま見せる魚道があります。標津川から魚道を「サーモン科学館」の中へ導き、そしてその側面をガラスにした施設です。下にその魚道の側面の写真を示します。お客はその日に海から標津川へ遡上してした鮭や鱒をガラスの向こうに見ることが出来るのです。い...「北海道の日本一、秋サケの遡る川」
仕事をやめてから観光旅行で日本の各地をいろいろ訪れました。それぞれの地方には違う歴史がありいろいろな魅力があります。妻も一緒に旅を楽しんでいました。まず初めに北海道に行きました。札幌を訪れました。札幌はロマンティックな風景に富んだ北の都です。名所が沢山あり感動的な街です。今日はロマンあふれる札幌をご紹介したいと思います。札幌の街の真ん中に広大な大通り公園があります。そして観光名所がたくさんあるのです。明治期の道庁の建物、美しい時計台、北海道大学のポプラ並木と植物園、広い開拓村、手稲山のジャンプ台、サッポロビール園、そしてアイヌ文化の博物館などなどです。何度か札幌へ行ってこれらの所を丁寧に見てまわりました。まず北海道大学のポプラ並木の写真と大通り公園のイルミネーションの写真を示しす。その後であまり人の行かな...「ロマンティックな風景の札幌の素晴らしさ」
仕事をやめてから観光旅行で日本の各地をいろいろ訪れました。それぞれの地方には違う歴史がありいろいろな魅力があります。妻も一緒に旅を楽しんでいました。まず初めに北海道に行きました。札幌を訪れました。札幌はロマンティックな風景に富んだ北の都です。名所が沢山あり感動的な街です。今日はロマンあふれる札幌をご紹介したいと思います。札幌の街の真ん中に広大な大通り公園があります。そして観光名所がたくさんあるのです。明治期の道庁の建物、美しい時計台、北海道大学のポプラ並木と植物園、広い開拓村、手稲山のジャンプ台、サッポロビール園、そしてアイヌ文化の博物館などなどです。何度か札幌へ行ってこれらの所を丁寧に見てまわりました。まず北海道大学のポプラ並木の写真と大通り公園のイルミネーションの写真を示しす。その後であまり人の行かな...「ロマンティックな風景の札幌の素晴らしさ」
石川啄木は1886年(明治19年)岩手県日戸村で住職の長男に生まれ、翌年渋民村へ移った。1912年(明治45年)に結核で没した。享年26歳。まず彼が作ったを短歌を読んでみよう。短歌を三行書きにするという新しい形を産み出した。歌われたのは孤独・望郷・貧困など自己の内面を描き出したものが多い。東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむるたはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまずはたらけどはたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざりぢつと手を見る友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆくかにかくに渋民村は恋しかりおもひでの山おもひでの川やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくにふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの...「26歳で夭折した石川啄木の詩の世界」
岩手の誇りはなんといっても宮沢賢治です。賢治の作品は現在読んでも胸が熱くなります。随分と昔に亡くなった人ですが、彼の作品は時代を越えて現在の日本人の心に澄んだ美しい鐘の音を打ち鳴らし続けています。賢治は悲しい美しい物語を沢山書きました。物語の基調低音は「他人の幸福のための自己犠牲」というものでした。38歳で亡くなるまでの短い人生を苦しんだのです。宮沢賢治の少年の頃の写真をお送りいたします。宮沢賢治の生家跡と幼い頃や学生の頃の賢治です。出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%B2%A2%E8%B3%A2%E6%B2%BBです。それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)1番目の写真は花巻市豊川町にある賢治の生家跡地...「宮沢賢治の少年の頃の写真」
「宮沢賢治の初版本『注文の多い料理店』、そして『銀河鉄道の夜』」
宮沢賢治の初版本『注文の多い料理店』を出版した会社は盛岡の北上川にそった場所にある光原社です。光原社の創業者は宮沢賢治と親交があり賢治の「注文の多い料理店」を出版しました。この本が賢治の生前のたった一つの出版本だったのです。1番目の写真は「注文の多い料理店」の初版本です。さて賢治は悲しい美しい物語を沢山書きました。物語の基調低音は「他人の幸福のための自己犠牲」というものでした。38歳で亡くなるまでの短い人生を苦しんだのです。「銀河鉄道の夜」の物語は、星祭りの夜のカンパネルラの水死から始まります。そしてストーリーは夏の夜空にかがやく銀河の列車に乗ってくるいろいろな人の話として展開して行きます。人間は死んで天に登り、星になります。ですから銀河鉄道の汽車に乗って来る人は皆な死んだ人です。主人公のジョバンニ少年も...「宮沢賢治の初版本『注文の多い料理店』、そして『銀河鉄道の夜』」
太平洋を一望できる美しい五浦海岸に建つ美術館です。岡倉天心や横山大観をはじめとする五浦ゆかりの作家たちの業績を顕彰するとともに、優れた作品を鑑賞することができます。また展望ロビーやカフェテリアからは、大小の入江と美しい松林が見事な景観の五浦海岸や六角堂の眺望も楽しむことができます。近現代の日本画を中心とした企画展を随時開催するほか、館内の岡倉天心記念室では、近代日本美術の発展に貢献した岡倉天心の生涯を書簡や遺品などによって紹介しています。そして横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山ら五浦ゆかりの作家たちの作品も紹介しています。美術館の近くには有名な六角堂もあります。岡倉天心はその生涯の前半において日本文化の近代化に努め、華々しく活躍しました。そして生涯の後半においては西洋を追いかけるばかりの近代化の動きに...「岡倉天心が愛した五浦海岸の岡倉天心美術館」
今日はカトリック松原教会のミサにあずかりました。東京のカトリック松原教会の今日の動画配信は下記です。https://www.youtube.com/watch?v=fd9kGU9JSDQ...カトリック松原教会、〒156-0043東京都世田谷区松原2丁目28番5号TEL.03-3321-0941FAX.03-3321-0009matsubara-church@gray.plala.or.jp京王線・井の頭線「明大前」駅下車徒歩4分「東京のカトリック松原教会のミサにあずかりました」
松方コレクションは川崎造船所の社長を務めた実業家の松方幸次郎(1865-1950)が1916年頃からの10年余に、イギリス、フランス、ドイツ等で収集した美術コレクションです。西洋近代の絵画・彫刻と日本の浮世絵が主体ですが、中世ヨーロッパの板絵やタペストリーも含んでいます。西洋美術コレクション約3000点については散逸・焼失した作品も多いが、このうち、フランス政府から返還された近代フランス絵画・彫刻等370点を基礎として、1959年に東京・上野に国立西洋美術館が開設されました。特にロダンの「地獄の門」、「考える人」、ルノアールのアルジュの女と睡蓮の絵を示します。「国立西洋美術館にある松方コレクション」
見て感動したのは大原美術館と国立西洋美術館です。展示作品が豊富で素晴らしいのです。今日は上野にある国立西洋美術館をご紹介したいと思います。国立西洋美術館のコレクションは、1959年に370点におよぶ松方コレクションが核となって始まりました。現在では、絵画、彫刻、素描、版画、写本、工芸などの分野にわたり、およそ6,000点の作品を所蔵しています。中世末期から20世紀初頭にかけての西洋絵画と、ロダンを中心とするフランス近代彫刻を本館、新館、前庭で年間を通じて展示しています。上野にある国立西洋美術館は自宅から1時間と近いので何度も訪れました。早速、建物の写真と展示絵画の写真をお送りいたします。この国立西洋美術館の大部分は松方コレクションです。松方コレクションは、日本の実業家であった松方幸次郎が大正初期から昭和初...「展示作品が豊富で素晴らしい国立西洋美術館」
上野の森美術館は1972年(昭和47)4月に開館した私立美術館です。常設展示は行わず、企画展や公募展を随時開催し、海外の美術館所蔵作品や重要文化財などさまざまな美術作品を紹介しています。1994年からは、40歳以下の若手作家による新作を紹介する「現代美術展(VOCA展)」を主催しました。ほかにも「上野の森美術館大賞展」や「日本の自然を描く展」など、さまざまなテーマに応じた公募展を積極的に行い、現代美術作家の発掘や育成に力を入れている美術館です。上野の森美術館の写真や展示の写真をお送り致します。場所はJR「上野」駅公園口から徒歩約3分です。東京メトロ・京成電鉄「上野」駅から徒歩約5分です。私は展示している絵画の種類にあまり興味が無いので行ったことがありません。「海外の美術館所蔵作品などの上野の森美術館」
よくあることですが、テレビの美術番組で初めの解説が長すぎて肝心の作品の写真がなかなか出て来なくてイライラすることがあります。そこで今日は平山郁夫の心静まる風景画の写真から始めます。1番目の写真は玄奘三蔵法師をテーマにした『仏教伝来』です。東京藝術大学で助手を務めていた1959年ごろの制作です。平山郁夫はインドへ旅した三蔵法師を尊敬していました。この制作が切っ掛けになり中国とローマを結ぶシルクロードに強い興味を持ちその風景画を沢山描くようになります。2番目の写真は先週訪ねた甲斐小泉の平山郁夫シルクロード美術館に展示してあった「月光砂漠行」です。平山郁夫は1968年以降シルクロードに関連する国々を数十回訪問し各地の風景画を描いています。訪れた国は中国、中央アジア、西アジア、東南アジア、地中海地域などシルクロー...「平山郁夫の心静まる風景画」
箱根・芦ノ湖畔にある成川美術館は1988年(昭和63年)4月に開館しました。日本画の魅力が分かる美術館です。箱根に行くたびに気軽に何度も寄りました。成川美術館は、文化勲章受章画家・山本丘人の代表作150点余りを核に、平山郁夫作の作品を40点余、他現代日本画を中心としたコレクションを4000点以上所蔵しています。堀文子、岡信孝、牧進、関口雄揮、吉田善彦、毛利武彦、平岩洋彦、岡崎忠雄、小林済、前本利彦、牛尾武、柳沢正人らの作品数は、日本一を誇ります。成川美術館は現代日本画に焦点を絞りその魅力を世に問う美術館です。特に戦後の日本画のすばらしさを広めることを設立の目的としているのです。それでは成川美術館の寫眞と展示絵画をご紹介致します。箱根の成川美術館で日本画をゆっくり見た後はいつもコーヒー飲みました。芦ノ湖畔や...「日本画の魅力が分かる箱根の成川美術館」
大原美術館は、倉敷で幅広く活躍した事業家大原孫三郎が画家児島虎次郎を記念して1930(昭和5)年に設立しました。日本で最初の西洋美術の私立美術館です。孫三郎は、友人の児島虎次郎の才能を高く評価し、三度にわたる渡欧を支援しました。そこで児島虎次郎はヨーロッパの美術作品を選び取るという作業をしました。彼は、エル・グレコ、ゴーギャン、モネ、マティス等、今も大原美術館の中核をなす作品を丁寧に選び、倉敷にもたらします。大原美術館は、その後も、倉敷の地にあって活発な活動を続け、西洋の近代から現代の美術作家たちの仕事等にコレクションを広げ民間総合美術館として大原美術館を作ったのです。私どもも大原美術館を訪れ、その絵画の数の多さと美しさに感動しました。はるばる倉敷まで行ったかいがありました。それでは写真で大原美術館をご紹...「日本で最初の西洋美術館の大原美術館」
大原美術館は、倉敷で幅広く活躍した事業家大原孫三郎が画家児島虎次郎を記念して1930(昭和5)年に設立しました。日本で最初の西洋美術の私立美術館です。孫三郎は、友人の児島虎次郎の才能を高く評価し、三度にわたる渡欧を支援しました。そこで児島虎次郎はヨーロッパの美術作品を選び取るという作業をしました。彼は、エル・グレコ、ゴーギャン、モネ、マティス等、今も大原美術館の中核をなす作品を丁寧に選び、倉敷にもたらします。大原美術館は、その後も、倉敷の地にあって活発な活動を続け、西洋の近代から現代の美術作家たちの仕事等にコレクションを広げ民間総合美術館として大原美術館を作ったのです。私どもも大原美術館を訪れ、その絵画の数の多さと美しさに感動しました。はるばる倉敷まで行ったかいがありました。それでは写真でお大原美術館をご...「日本で最初の西洋美術館の大原美術館」
岡鹿之助の『雪の発電所』は私の好きな絵なのでお送り致します。岡鹿之助は1898年(明治31年)に生まれ1978年(昭和53年)に没しました。昭和時代に活躍した洋画家で文化勲章受章者です。1956年には『雪の発電所』が現代美術日本展最優秀賞を受けます。また1957年には毎日美術賞も受けました。なお小松裕文さんの感想文を読むとこの絵が描かれた場所が分かります。https://www.danube4seasons.com/search/013/01.html「岡鹿之助の『雪の発電所』」
東京都新宿区下落合にあった中村彝のアトリエを1988年に茨城県近代美術館の敷地内に新築復元しました。アトリエでは大正期に活躍した茨城県水戸市出身の洋画家、中村彝の遺品や資料を展示してあります。中村彝は1887年にまれ192年に没しました。3番目の写真は絵を描く中村彝です。「中村彝のアトリエ」
佐伯祐三の原画の数十枚をまとめて見たことが一度だけあります。2008年、横浜そごうデパートでの特別展でした。油彩画の原画には絵の具が盛り上がり、画家の熱い息づかいが感じられるのです。30歳で客死した佐伯祐三の情熱が直接伝わって来るのです。彼はパリに魅せられ狂ったように絵を描き続けました。最後は文字通り狂って彼の地の精神病院で息を引き取りました。たった10年間ほどの画歴でした。粛然とした想いで佐伯祐三の油彩画の写真をお送りいたします。1番目の写真は「パリ街景」です。原画の大きさは38.1×45.4cmです。2番目の写真も「パリ街景」です。1927年作で大きさは65×81cmです。3番目の写真は「郵便配達夫」です。1928年の作品です。原寸は80.8×65.0cmです。4番目の写真は「ラ・クロッシュ」です。1...「30歳でパリに客死した佐伯祐三の油彩画」
レオナール藤田嗣治の油彩画をお送りいたします。藤田嗣治は1886年に東京で生まれ1968年に没しました。現在もフランスにおいて最も有名な日本人画家です。彼の一生は3つの時期に分けて考えられます。第一期はパリの画壇で活躍した時期、第二期は日本に帰国して偏狭な愛国心で戦争に協力した時期、そして第三期は愛国心を捨てフランスに帰化して神の愛の中に生きた時期です。この3つの時期に描れた油彩画をご紹介します。1番目の写真は『眠れる女』と題される作品です。サロン・ドートンヌでセンセーションを巻き起こしたそうです。この絵で藤田は一躍パリの画壇の寵児になった有名な油彩画です。2番目の写真は『カフェにて』という作品で顔、手、胸もとの肌が藤田の独特の透きとおるような筆致で描いてあります。これも藤田の第一期の作品です。3番目の写...「レオナール藤田嗣の油彩画」
この美術館は伊豆半島の山の中、美しい一碧湖の畔にあります。車で行くと道中が風光明媚で楽しいのです。さて池田20世紀美術館をご紹介したいと存じます。この美術館は本格的現代美術館です。1975年5月伊豆の一碧湖の岸辺にできました。この美術館の土地、建物と約1400点の所蔵作品の大半は、ニチレキ(株)の創立者池田英一氏が寄付したものです。建物は彫刻家井上武吉氏の設計で、展示館外壁は日本ではじめてのステンレススチール張りです。入口から出口まで連なる展示作品が大へん観賞しやすい美術館です。所蔵作品は20世紀に制作された絵画・彫刻で《人間》をテーマとするものを中心に約1400点収蔵しています。館内には、ルノワールをはじめ、ボナール、ピカソ、マティス、レジェ、シャガール、アンディ・ウォーホール、ミロ、ダリ、デ・クーニン...「一碧湖の畔にある池田20世紀美術館」
はじめに碌山美術館の写真をご覧ください。この1番目の写真は蔦のからんだ赤レンガの美術館で、2017年5月に家内が撮ったものです。教会風のロマンチックな建物です。この碌山美術館は信州の安曇野にあります。背景には夏でも雪のある北アルプスの山稜が見えています。その近くには湧き水が豊かに流れるワサビの畑が広がっているのです。周囲の風景だけでも楽しい場所なのです。次に萩原碌山の彫刻をお送り致します。写真は順に、「文覚」「北條虎吉像」、「女」、「坑夫」です。この碌山美術館は若かった妻が私に彫刻の美しさを教えてくれた場所です。それまで彫刻をあまり見たことのなかった私は碌山の彫刻を見て、その魅力を知ったのです。それ以来、信州に旅をするたびに何度も訪れた小さな美術館です。萩原碌山は明治12年、長野県安曇郡東穂高村に生まれ3...「信州、安曇野にある碌山美術館」
箱根、仙石原にあるルネ・ラリック・ミュージアムにフォード社の初期の車の実物が2台あります。公道は走れませんがエンジンは動き、構内は走れるそうです。。今日はその2台の車の写真をお送り致します。自分が以前に撮った写真です。「箱根のラリック美術館にある初期のフォード車の実物」
エミール・ガレ(1846-1904)やドーム兄弟の独創的なガラス器の作品を700点も収蔵、展示してあるのが諏訪湖のほとりにある北澤美術館です。その展示品はフランスのアール・ヌーヴォー期のガラス工芸品です。芸術的な工芸品です。バルブ製造会社で財をなした北澤利男氏が設立し、1983年に開館したのです。隣にはやはり北澤利男氏が設立したサンリツ服部美術館があります。エミール・ガレやドーム兄弟はガラス工芸の新しい技法を次々と創作していったことが素晴らしいと思うのです。深い芸術性を感じるのです。今日は北澤美術館に展示してあるエミール・ガレやドーム兄弟の作品をご紹介いたします。1番目の写真は一夜茸というキノコを模した作品です。高さ83cmの大きなものです。北澤美術館で非常に大切にしていて、貸し出し厳禁の展示品です。北澤...「諏訪湖の湖畔の北澤美術館とエミール・ガレの作品」
箱根に行くと必ず「彫刻の森」という近代彫刻の野外展示場を訪問します。起伏のある緑の芝生の上に大きな彫刻が展示してあります。作品群が周囲の山々の風景と響き合って作品の美いさを引き立てています。それでは私どもが撮った写真でこの「彫刻の森」をご紹介致します。1番目の写真は「彫刻の森」に入場してすぐにある芝生の広場です。西洋の有名な近代彫刻家の作品が点々と展示されています。このような展示場が山の斜面を上手に利用して、他にも数ケ所あります。そしてピカソの作品だけを展示した「ピカソ館」やステンドグラスの塔や特別展示をしている本館ギャラリーもあります。その全体をご紹介するわけにいきませんので、下に私が気に入った6点の近代彫刻の写真を示します。2番目の写真はイギリス人のヘンリ-・ムーア(1898年ー1986年)の1970...「感動的な箱根の彫刻の森」
何故か分りませんが私は蓮の花が大好きです。色合いが心を誘い大輪の花が初夏の風に揺れている光景は幻想的です。一面に広がる蓮田の中に花が咲いています。大きな葉が揺らぎ涼しい香が漂って来ます。そんな風景は埼玉県の行田の「古代蓮の里公園」でも見ることが出来ます。今日は「古代蓮の里公園」の美しい蓮の花の写真をお送りいたします。写真は小生と家内が2008年の6月に写したものです。「古代蓮の里公園」では10万株も植えてありその上、世界中の蓮の花を集めています。以前に3,4度訪れたことがあります。1番目の写真は行田にある「古代蓮の里公園」です。2番目の写真は「古代蓮の里公園」に咲いていた蓮の花です。さて蓮の花には数種の色合いがあります。それらの花の写真を示します。写真の出典は、https://iwalkedblog.co...「美しい蓮の花と行田への旅」
以前に霞ヶ浦でヨットをしてました。その頃よく行ったのは蓮田に囲まれた「うなぎの山中」でした。懐かしいので霞ヶ浦の蓮田とうなぎの山中の写真をお送りいたします。「霞ヶ浦の蓮田とうなぎの山中の写真」
夏になると睡蓮や蓮の花が美しく咲きます。以前にあちこちで撮った写真をお送りいたします。写真をお楽しみいただければ幸いです。「夏は睡蓮と蓮の花の季節」
毎年、毎年、7月になると小金井市の真蔵院の蓮の花が美しく咲きます。ピンクや白い大輪の花が本堂の周りを埋めています。金色の蕊が風に揺れています。もう何十年もここに来て蓮の花の写真を撮り続けています。それでは自分が撮った写真をお送りします。お楽しみ頂けたら嬉しく思います。毎年、7月に感謝しながら蓮の花の写真を撮っています。このお寺の住職さんとはお会いしたことがありません。しかし、どうぞ花の写真を撮って下さいと歓迎しているようです。山門の前に駐車場も用意し、境内も掃き清めてあり静かな場所です。本堂の裏には小金井公園の見事な雑木林が続き借景になっています。本堂前には、何時も真言宗豊山派の広報誌の「光明」という冊子が置いてあります。毎回持ち帰り読むことにしています。このお寺の住職さんは座禅会などもしていて真面目に、...「美しい蓮の花と施餓鬼供養のはなし」
チベット仏教の風景の写真をお送りいたします。写真はインターンットからお借りしました。チベット仏教は7世紀以来、チベットで独自に発展した仏教で、現在もチベット民衆に根強く続いている。インドで起こった仏教の中で、北伝仏教とも言われる大乗仏教が、7世紀ごろ、チベット(吐蕃)に伝わりソンツェン=ガンポ王の保護を受け、チベット固有の土着宗教であるボン教という呪術的な宗教と融合して独自に発達し、チベット仏教となった。吐蕃王朝は衰退したが、チベット仏教はその後モンゴルやネパールにも広がった。特にモンゴル帝国ではフビライなど歴代のハンがチベット仏教を保護したため、チベット仏教はモンゴルにも定着した。現在もチベットを中心に、内モンゴル、ネパール、ブータンなどに信者がひろがっている。17世紀からはチベット仏教の教主としてダラ...「チベット仏教の風景」
欧米人とビールを飲んで雑談していると、よく仏教とはどんな宗教ですかと聞かれます。仏教の教義はどのようなものですかと聞られます。答えに戸惑う問いです。困った質問です。仏教の全体を分かり易く説明することは容易ではありません。そこで今日は『仏教』を分かりやすく説明しようと思います。分かりやすい資料をご紹介したいと思います。さて日本ではお盆になると墓参りをします。春、秋のお彼岸にも墓地の掃除をして先祖の供養をします。みな仏教の風習です。私は仏教のことが好きでよく仏教に関連した記事を書いています。そんな場合参考にしている資料があります。それは『仏教へのいざない』というホームページ、(http://todaibussei.or.jp/asahi_buddhism/01.html)です。大変分り易く仏教全体のことを過不...「『仏教』を分かりやすく書いた資料の紹介」
パナイ島イロイロ市の西方にあるミアガオ市にあるローマ・カトリック教会で、イロイロの人気観光スポットの一つです。「サントトマスデヴィラヌエバ教会」としても知られています。1797年に建てられ、要塞としての役割も果たしていた場所でもあります。バロック様式に中国・フィリピンの様式が混ざった他に類を見ない教会で、その古い構造と歴史から「フィリピンのバロック様式教会群」のひとつとして、1993年12月11日、マニラのサンアグスチン教会とともにユネスコ世界遺産に登録されました。https://philippinetravel.jp/miag-ao-church/「フィリピンのミアガオ教会の写真」
昔、南ドイツに住んでいた頃は近くのスイスにはよく行ったものです。懐かしい風景の写真をお送りいたします。写真はインターンットからお借りしました。「スイスのルツェルン湖とアルプスの山と教会の写真」
東京のカトリック・イグナチオ教会の今日のミサの風景の写真をお送りいたします。https://www.youtube.com/live/dNiVQheuMkU「東京のカトリック・イグナチオ教会の今日のミサの風景」
東京のカトリック松原教会の今日のミサの動画配信です。https://matsubara-cath.chu.jp/ja/online-mass/写真は松原教会景です。「東京のカトリック松原教会の今日のミサの動画配信」
今日は日曜日です。日曜日には宗教に関する軽い記事を書くことにしています。今日は欧米のキリスト教と日本のキリスト教はどのように違うかということを考えてみたいと思います。まず同じ花でも植えた場所によって違ってしまうということを考えてみます。日本の楚々とした花でも西洋に移植すると派手な色の洋花になります。育つ場所の土壌と気候によって、花々は同じ種類のものでも変わるのです。樹木の場合は材質も変わります。それは自然なことです。自然現象として当然です。明治維新以来、日本は西洋文化を輸入して来ました。しかし日本の文化的土壌はヨーロッパと違います。輸入した文化が日本に入ってくると大きく変化するのが当然です。宗教も例外ではありません。佛教の場合もミャンマー、タイ、カンボジア、ベトナムに伝わった仏教は出家を重視した戒律の厳し...「欧米のキリスト教と日本のキリスト教の違い」
夏になると妻が思い出すのは群馬県の下仁田小学校のことです。それは小さい、小さい昭和の歴史の一駒です。昭和20年7月頃、当時海軍の文官だった家内の父は、鎌倉の海水浴場にアメリカの上陸用舟艇が砂浜につき海兵隊が襲って来ると予想したそうです。当時、家内の一家は鎌倉に住んでいました。まだ少女だった妻は鎌倉の御成小学校に行っていました。そして1945年の夏に妻の一家は、群馬県の山の中のネギで有名な下仁田町に疎開しました。終戦後も進駐軍の横暴を恐れて昭和22年夏まで山国にひそんでいました。下仁田国民学校に転校した家内は海浜の生活から山里の生活に変わり、毎日が新鮮で楽しかったそうです。しかしそこは米が一切採れず、麦と芋と野菜しか採れない山里でした。ある地主の家に疎開したのですが、その家の毎日の主食はオキリコミでした。小...「夏になると妻が思い出す群馬県の下仁田小学校」
毎年、夏になると感動することがあります。冷蔵庫と冷凍技術の進歩です。戦後の日本の技術革新の成果です。おかげで私どもの暮らし方が随分と変わりました。戦前に家庭の冷蔵庫と言えば断熱材の木で出来た箱で中の上の段に大きな氷を入れ下の段に食品を入れておきました。しかし戦後、冷凍技術が次第に進歩して安価な冷蔵庫が出来るようになったのです。気体を圧縮して急に膨張させると温度が下がる原理を利用したのです。しかし気体を圧縮すれば温度が上がります。温度が上がった部分を外気で冷やし、温度が下がった部分を冷蔵に利用するのです。文章で書けば簡単そうですが、温度が上がった部分と下がった部分を分離するのが技術的に難しいのです。この困難を克服したのが現在の家庭用の冷蔵庫です。中の上の段は氷が出来る氷室なっていて下が食品を冷蔵するスペース...「夏になると感動する冷蔵庫と冷凍技術の進歩」
夏の海辺と山の風景です。夏といえば海水浴と登山を楽しむ人が多いと思います。そこで夏の風景の写真をお送りいたします。写真はインターネットからお借りしました。「夏の海辺と山の風景」
暑いと何となく体を動かすのがおっくうになります。今日も朝から太陽が照りつけて暑い日になりそうです。そこで元気が出る花園の写真をお送りいたします。標高1250mの富士見高原花の里です。ここに示した写真は「富士見高原花の里の写真」を検索してインターネットにある多くの写真から選びました。富士見高原花の里の住所です。〒399-0101長野県諏訪郡富士見町境12067中央道・諏訪南I.Cから約15分中央道・小淵沢I.Cから約8分「元気が出る富士見高原花の里の写真」
白鳥は人に懐く野生の鳥のようです。今日は私自身が白鳥一家と仲良くなった不思議な体験をご紹介したいと思います。日本で見られる白鳥は冬になると遥々シベリアのアムール河の河口付近から飛んで来ます。しかし幾羽かの白鳥は日本に棲みついています。春になってもシベリアに飛んで行かないのです。私が霞ヶ浦でヨットをしていた頃、そこに棲みついている白鳥の4羽の一家と仲良くなったのです。それは不思議な体験でした。白鳥は霞ヶ浦だけでなく猪苗代湖や屈斜路湖など全国の湖や川に沢山来ます。白鳥のいる風景は日本の冬の風物詩です。さて仲良くなった4羽の一家は夏になってもシベリアに帰らないで霞ヶ浦に棲みついていたのです。当時私は土浦港にヨットを係留していました。その係留していた岸壁から湖沿いに600mほど歩いた芝生のところに2007年の春か...「白鳥は人に懐く、仲良くなった不思議な体験」
冬の日本の風物詩はシベリアから渡って来るハクチョウ、ツル、カモ、ガン、カモメなどの冬鳥が湖沼河川に群れ遊ぶ風景です。国境を自由に越えて、はるばる4000キロメートルくらいも飛んで来るそのロマンを感じ心が楽しくなります。私はカモメ類は漁港に棲んでいて冬になると内陸の湖や川に飛んでくると思っていました。しかし冬鳥、夏鳥、留鳥、漂鳥などの分類を調べてみると大部分のカモメ類は日本とシベリアの間を渡っている冬鳥なのです。毎年毎年、悪天候の中長距離を飛んで来ることを想像すると胸が締め付けられる感慨も覚えます。1番目の写真は霞ヶ浦の岸辺を飛んでいるカモメが群れです。私の車を覆うように沢山のカモメが舞っていました。2番目の写真もは霞ヶ浦の岸辺を飛んでいるカモメが群れです。岸辺の地面には鳩の大群がまかれた餌をしきりについば...「白鳥などの渡り鳥のロマン」
私たち日本人は豊かな野鳥たちに囲まれています。美しい野鳥たちに囲まれています。しかし毎日が忙しくて美しい野鳥たちに気がついていません。そこで今日は自然界に身を置いて美しい野鳥たちと一緒に遊んでみようと思いました。1番目の写真は自分で撮った写真です。霞ヶ浦の沖には無数の水鳥が列を作って遊んでいる光景です。春になるとアムール河のさらに北へ渡っていく白鳥やカモメやカモの群れです。私たちはこんなにも多くの野鳥たちに囲まれて住んでいるのです。多くの人々はこの豊かな自然に囲まれていることに気がついていません。しかしバードウオッチングを趣味にしている人々はこの豊かな野鳥の世界を楽しんでいるのです。その様子は、「日本野鳥の会」のHP(http://www.wbsj.org/about-us/summary/about/)...「豊かな野鳥たちに囲まれている日本人の幸せ」
「日本最大の猛禽類、天然記念物、絶滅危惧種オオワシの生態と写真」
私共は豊かな野生の鳥たちに囲まれて生活しています。渡り鳥もいますし棲み着いている留鳥もいます。日本を通過するだけの旅鳥もいます。間違って日本へやって来た迷鳥もいます。さらに渡り鳥の一部が日本に住み着いているものもいます。例えばコハクチョウは霞ヶ浦や牛久沼やあちこちの湖沼に少しずつ棲みついて日本で繁殖します。さて冬の日本で見られるオオワシは大変珍しい鳥なので少し調べてみました。日本最大の猛禽類で、1970年1月23日にオジロワシと同時期に天然記念物とされましたが今や絶滅危惧種に指定されています。(http://www.kagiken.co.jp/new/kojimachi/bird-ohwashi_large.html)オオワシ(大鷲)は、タカ目タカ科ウミワシ属の鳥です。体は雌の方が大きいのです。全身黒褐色...「日本最大の猛禽類、天然記念物、絶滅危惧種オオワシの生態と写真」
「渡り鳥、旅鳥、漂鳥、留鳥そして迷鳥・・・区別して考えて見る」
鳥の世界は奥が深いようです。いろいろ調べてみると渡り鳥、旅鳥、漂鳥、留鳥そして迷鳥などという言葉が出て来て混乱します。しかしその違いを簡単に言ってしまうと以下のようになると思います。渡り鳥・・・日本を中心にしてシベリアや中国大陸北部へ渡る冬鳥と東南アジア各地に渡る夏鳥のことです。夏鳥主として繁殖のために日本より南の国から渡ってきて、夏を日本で過ごし、繁殖期が終わると再び越冬のために南の国に渡って行く鳥。ツバメ、アマサギ、オオルリ、キビタキ、クロツグミ、ハチクマ、サシバなど。2、冬鳥主として越冬のために日本より北の国から渡ってきて、冬を日本で過ごし、冬が終わると再び繁殖のために北の国に渡って行く鳥。ツグミ、ジョウビタキ、ユリカモメ、マガモ、オオハクチョウ、マナヅル、オオワシなど。旅鳥・・・シベリアや中国大陸...「渡り鳥、旅鳥、漂鳥、留鳥そして迷鳥・・・区別して考えて見る」
アジサイはドイツでも咲いています。アジサイはドイツ語でHortensie(ホルテンジエ)と言い、英語ではHydrangea(ハイドランジア)と言います。日本だけでなく欧州でも広く普及してます。いろいろな派生種があります。水が酸性かアルカリ性かによって、花の色が変わるのは、有名な話ですね。示した写真の出典は、https://minkara.carview.co.jp/userid/314846/blog/44079793/です。「アジサイはドイツでも咲いています」
アジサイの原産地は日本で、その元はガクアジサイです。アジサイは日本から中国にわたり、シルクロードを伝わってヨーロッパへと伝わっていき、イギリスなどで東洋の花として人気が出て、品種改良が進んだのです。写真はアジサイの原産地、日本のガクアジサイです。「アジサイの原産地は日本」
鎌倉は古都で魅力ある場所です。そのうえ家内が生まれ育った所なので何度も訪れました。アジサイが美しい古都です。鎌倉のアジサイの花の写真をお送り致します。写真の出典は、https://travel.rakuten.co.jp/mytrip/amazing/ajisai-kamakuraです。写真は順に長寿寺、円覚寺、成就院、長谷寺のアジサイです。「鎌倉にはアジサイがあちこちに咲いている」
この季節はアジサイが静かに美しく咲ています。私の家の庭にも咲いています。梅雨が降りかかり一層あざやか色です。日本の梅雨の季節の美しい風物詩です。今日は美しいアジサイの写真をお送り致します。1番目の写真は美しい古刹として知られる鎌倉の長谷寺のアジサイです。写真の出典は、https://clubtravelerjapan.com/article/spot/9430/です。まったく余談ですが家内はこの近所で生まれ育ちました。2番目の写真は山里の梅雨の季節の霧の中のアジサイです。写真の出典は、https://ganref.jp/m/tkrphoto/portfolios/photo_detail/2156726です。3番目の写真は滋賀県長浜市のお寺の山門とアジサイです。出典は、https://www.excite...「日本の梅雨とアジサイの詩的な風景」
仙台で生まれ育ったので松島の瑞巌寺へは何度か行きました。松島の瑞巌寺は国宝で伊達家の菩提寺です。懐かしいので写真を示します。写真はインターネットからお借りしました。写真は順に、本堂、庫裏,総門、お寺の前の杉並木です。「平安時代に創建された松島の瑞巌寺の写真」
『人間国宝美術館』とは変な名前の美術館です。怪しい作品が展示してあるのではないかと恐る恐る訪れました。ところが重要無形文化財保持者(人間国宝)が創った絵画や焼き物の展示に感動しました。これらの美術品を蒐集した館主の山口伸廣さんの審美眼にと収集品の確かさに感動したのです。展示品の数も多く4階にわたる展示室も充分です。写真撮影が自由にできるのも嬉しいものです。最後に有名陶芸家の作品の中から自分の好きな茶碗を選んで、その茶碗で抹茶を楽しめるサービスに感心しました。心憎い気配りです。ホームページ(http://www.nikobi.com/cont/about.html#02)も良く出来ています。館長矢部良明さんの「ごあいさつ」をそのホームページから下に示します。「高級な美に触れて快い、時間を過ごすことは、多忙な...「箱根の麓の湯河原温泉にある「人間国宝美術館」のご紹介」
幕末から明治にかけての箱根の風景の写真をお送り致します。写真はインターンットからお借りしました。「幕末から明治にかけての箱根の風景」
箱根の芦ノ湖の風景の写真をお送り致します。芦ノ湖は奈川県南西部にある県内最大の湖です。水源の大部分が湖底からの湧き水です仙石原から流れ出る早川の水源です。写真の出典は、https://stock.adobe.com/jp/search?k=%E7%AE%B1%E6%A0%B9です。「箱根の芦ノ湖の風景」
箱根は昔から温泉として有名でした。江戸時代には関所が置かれていました。現在は車だけでなく小田急ロマンスカーや箱根登山電車などで気軽に行けます。私どもも何十回も訪れました。今日は私どもが撮った写真にしたがって箱根をご紹介したいと思います。1番目の写真は箱根観光の中心的な芦の湖です。奥に富士山が写っています。2番目の写真は旧東海道の杉並木です200m位よく保存されています。3番目の写真は復元されている江戸時代の箱根の関所です。4番目の写真は元箱根にある成川美術館です。日本画の収集が抜群でした。5番目の写真は芦の湖の畔に立つ「山のホテル」です。1963年に新婚の妻と一緒に泊まりました。当時は木造の小さなホテルでした。箱根へ行くと泊まる定宿のようなホテルでした。6番目の写真は強羅公園です。「山のホテル」の他に強羅...「魅力溢れる箱根を巡る旅」
美しい竹林の写真を撮りに行って来ました。小金井には規模が小さいながらも美しい竹林があります。武蔵野公園の近くです。先程その写真を撮って来ました。「美しい竹林の写真を撮りに行く」
鰻は美味しい魚なのでアジア諸国だけでなくイギリス、ベルギー、イタリア、オランダ、スウェーデン、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどではよく食べられています。昔ドイツに居た頃は生き鰻を売っていました。買って蒲焼きにしました。欧米人はウナギを燻製にして食べます。そして、ぶつ切りにしてスープにして食べます。蒲焼きは面倒なのでしません。欧米人がよく食べるウナギの燻製とウナギ入りのスープの写真をお送り致します。写真はインターンネットからお借りしました。「ドイツのウナギ料理の写真」
先程、駅前のウナギ専門店に行って撮ってきました。「ウナギの蒲焼きいろいろな写真」
今年の夏の土用の丑の日は2日あり、2024年7月24日(水)と8月5日(月)です。夏の土用の丑の日は立秋前に訪れ、毎年日付は変わります。季節の変わり目で体調を崩しやすい時期に、うなぎなど栄養のある食べ物を食べて英気を養いましょう。うなぎ以外にも、「うどん」「梅干し」「瓜科の野菜」「牛肉」など「う」のつく食べ物を食べて、健康を願いながら土用の丑の日を過ごします。土用丑の日にウナギを食べる習慣の発祥には江戸時代の平賀源内説や春木屋善兵衛説や蜀山人説があります。現在のように蒲焼にして食べる風習は江戸時代に広く普及したことには間違いありません。しかし夏痩せを防ぐためにウナギを食べる風習は万葉集の出来た時代にもあったのです。痩(や)す痩すも生けらばあらむを将(はた)やはた鰻(むなぎ)を漁(と)ると河に流れな大伴家持...「間もなく土用丑の日、ウナギも蒲焼きにまつわる話」
小金井の金蔵院の蓮の花は毎年必ず咲きます。先程今年の蓮の花の写真を撮ってきました。美しい色合いをお楽しみ下さい。「今年も咲きました蓮の花」
エドワード・モースは大森貝塚の発見で有名ですが、それ以上に日本の陶磁器の収集と民具や風景写真の収集でも偉大な功績を上げました。ボストンの近くのセイラムという港町に終生住んでいて、その町にあるピーボディー博物館に収集品を保存し、展示しました。彼の収集品には約130年前の日本の風景写真が数多く含まれています。その風景写真を編集して出版したのが小学館です。それは、「百年前の日本」(1983年11月25日初版発行)という写真集です。今日は、昔の箱根の風景、江の島の風景、そして農村の人々の写真を7枚お送りします。撮影時期は1980年(明治13年)から1990年(明治23年)頃と考えられています。1番目の写真は現在の関所跡から北方面へ伸びる町並の風景写真です。手前の左近辺には現在、遊覧船の桟橋があり車の駐車場が広がっ...「明治時代の箱根の風景、江の島の風景、そして農村」
今日はインターネットを通して東京のカトリック松原教会のミサにあずかりました。カトリック松原教会にのミサの風景写真をお送り致します。「今日は東京のカトリック松原教会のミサにあずかりました」
五島列島のカトリック教会の風景写真です。写真はインターネットからお借りしました。1番目の写真は楠原教会の写真です。リブ・ヴォールト天井で、レンガ造りのゴシック様式。下五島に現存する教会としては、堂崎教会に次ぐ2番目に古い教会です。2番目の写真は堂崎教会です。五島のシンボル的教会。県指定有形文化財です。3番目の写真は水の浦教会です。ロマネスク、ゴシック、和風建築が混合した白亜の美しい教会です。4番目の写真は江上天主堂の写真です。世界文化遺産「奈留島の江上集落」構成資産。国指定重要文化財です。「五島列島のカトリック教会の風景」
人間はだれでも高齢になると病気がちになります。退職して年金生活をしているのでお金の心配もあります。体力が無くなるのでスポ-ツなどの趣味は出来なくなります。ですから一生の間で一番不幸な時期と考える人がいても不思議ではありません。しかし老境ほど一番はなやかで幸せなときは無いという人もいます。私自身もそのように思います。私だけでなくこのような記事にコメントを下さる方々は皆元気溌剌で幸せそうです。その上毎週一回通っているリハリビ施設で会う15人位の80歳、90歳の高齢者も意識の上では若々しいのです。これらの高齢者を毎週一年以上仔細に観察しました。そうしたら男女にかかわらず達観の境地にあるようです。勿論、達観していると言っても人間なので迷いもあり愚痴もこぼします。しかし全体的に観察していると高齢者ほど達観の境地に近...「老境の幸せと達観の境地の具体的な説明」
何度通っても飽きない野川沿いの散歩道です。不思議に思います。そんな散歩道の写真をお送り致します。「何度通っても飽きない散歩道」
武蔵野公園への散歩道に人が死に絶えて門だけが残った屋敷跡があります。建物は朽ちて消えてしまい鬱蒼とした森になっています。立派な門だけがムジナ坂の下にあります。その門の前を通るたびに人の世のはかなさを感じます。そんな風景の写真を撮って来たのでお送り致します。「人が死に絶えて門だけが残った」
「皆消えてしまった我が故郷にあった東洋館、鹿落温泉旅館など」
私は昭和11年年生まれで24歳まで仙台の向山の長町越路という所に住んでいました。向山という地域は非常に複雑な地形の小山が重なり合っています。伊達藩の時代は、伊達家代々の墓がある大年寺以外は人家のまばらな淋しい所だったようです。向山という地域は市街地の南端を蛇行しながら流れる広瀬側の南側にあり、広瀬川の岸からいきなり高さ40、50メートルの断崖がそびえたっています。向山はその断崖の上にあります。市街地から見ると向こうの山地なので向山と言ったのでしょう。明治維新後は人家も少しずつ増えて来たようです。この小高い向山の断崖の上に立つと、広瀬川の向こうに仙台の白い街が一望できます。風光の良い高台だったので、料亭や割烹旅館がポツリポツリと散在していました。伊達正宗の墓の瑞鳳殿のある経ケ峰から数百メートルずつ離れて、東...「皆消えてしまった我が故郷にあった東洋館、鹿落温泉旅館など」
山本量太郎神父と成城教会を懐かしく思い出します。山本量太郎神父さまは2000年から2010年迄の10年間、私共のカトリック小金井教会の主任司祭をして下さった方です。イエスさまが傍にいるような感じになるような説教をなさいます。起承転結の明快な感動深い説教です。小金井教会の後、本部の関口教会の主任司祭を6年なさってから成城教会に着任されました。山本神父様は私共がカトリック立川教会で塚本金明神父様に洗礼を受けた時、代父をして下さった山本大二郎先生のご子息です。そして随分前に関口教会で山本神父の叙階式に参列したことを鮮明に憶えています。今日は恩人の塚本金明神父様や、代父をして下さった山本大二郎先生の為に神に祈りました。人生における人間の絆の不可思議さを想います。写真は2016年にカトリック成城教会で撮りました。山...「山本量太郎神父の思い出」
夏に咲く花は、バリエーションが豊かで、さまざまな特徴をもつ種類が多いです。熱帯地域が原産の品種を選ぶことで、夏の強い日差しにも負けない花を育てられます。詳しくは、https://magazine.cainz.com/article/43295をご覧下さい。少し珍しい夏の花々の写真をお送り致します。出典は、https://magazine.cainz.com/article/43295です。。1,ガザニア2,ポーチュラカ3,トレニア4、ペンタス「少し珍しい夏の花々」
ムニ神父さまは1951年に司祭叙階の後すぐに日本の四日市カトリック教会に主任司祭として着任し、それから1972年までの21年間を四日市で活躍していたのです。四日市市の夜景とカトリック四日市教会とムニ神父の写真をお送り致します。「カトリック四日市教会とムニ神父の写真」
カトリック小金井教会は1975年に発足しました。現在は加藤神父様が主任司祭をなさっています。私共は1975年の小金井教区の正式認可以前に着任したヨゼフ・ムニ神父のもとで古い木造の会堂でのミサに出席していましたので、もう50年もこの教会に通ったことになります。この小金井教会にはいろいろな思い出があります。今日はその中から初代主任司祭ムニ神父様の思い出を書いてみたいと思います。ヨゼフ・ムニ神父さまはボストン生まれのいかにもアメリカ人らしく気さくな、そして情熱的な方でした。私共の家にも何度か来てくださり、ある時は大相撲のテレビを一緒に見たこともあります。めったに故郷に帰らないので弟さんが様子を見にいらしてました。その弟さんと一緒に食事をしたことも楽しい思い出です。そして1988年の夏に突然のように帰天したのです...「カトリック小金井教会の初代司祭ムニ神父様の思い出」
1975年まで「霞ヶ浦」でヨットをしていました。あの頃は元気でした。そのヨットの風景です。青空の写真をお楽しみ頂ければ嬉しくおもいます。「霞ヶ浦でヨットをしていた頃の懐かしい風景」
カトリック立川教会の写真をお送り致します。写真はインターネットからお借りしました。1番目の写真は私が洗礼を受けた頃の写真です。2,3,4番目の写真は現在のカトリック立川教会の写真です。「カトリック立川教会の写真」
最近は空海や日蓮のことや仏教のことを書いてきました。しかし今日からはキリスト教に関することを数回書いてみたいと思います。はじめに書きますが私はカトリックの信者です。洗礼は受けましたが狂信者ではありません。宗教とはほどほどの距離を置くようにしています。さて今日は私が洗礼を受けたカトリック立川教会の塚本金明神父さまの思い出を書きたいと思います。塚本金明神父さまは現在府中市にあるカトリック墓地に眠っています。さて私ども夫婦は1971年に塚本神父様から洗礼を受けました。塚本神父様は1954年から1976年までカトリック立川教会の初代主任司祭をされた方です。1番目の写真は昔ののカトリック立川教会です。幼稚園の子供とお母さんたちです。2番目の写真はカトリック小金井教会です。1975年からずうっと行っている私どもの教会...「神父さまの思い出(1)塚本塚本金明神父」
ずいぶん以前に高野山を訪ねたことがあります。懐かしいので風景写真を検索しました。「空海が開いた高野山の思い出」
空海の歩いた足跡に伝説が付き纏う、此れほどまでに伝説・伝承の多い人物は稀です。全国津々浦々に空海伝説があり、その数約300編を越えるといわれています。伝説は真実ばかりでは無く、実際に起きた出来事のように書かれたものもあります。一つの例を示します。『東京の多摩の二度栗』です。===「多摩の二度栗」===============昔、武州多摩郡の山の根の村には、たいそうできのよい大型の栗がたくさん取れたそうだ。ある秋のこと、腹をすかせた旅の乞食坊主が、ふらふらとやってきておいしそうに栗を食い散らかしている村の子供たちに「栗を一粒めぐんでくれ」とたのんだそうだ。子供たちはそのみすぼらしい乞食坊主をみて「いいとも食え」といって空の食い残しの殻をほおったそうだ。その乞食坊主は悲しい顔をして次に村の中にある大きなお屋敷...「弘法大師の説話、『東京の多摩の二度栗』」
昔、武州多摩郡の山の根の村には、たいそうできのよい大型の栗がたくさん取れたそうだ。ある秋のこと、腹をすかせた旅の乞食坊主が、ふらふらとやってきておいしそうに栗を食い散らかしている村の子供たちに「栗を一粒めぐんでくれ」とたのんだそうだ。子供たちはそのみすぼらしい乞食坊主をみて「いいとも食え」といって空の食い残しの殻をほおったそうだ。その乞食坊主は悲しい顔をして次に村の中にある大きなお屋敷にきたそうだ。そこでは大人たちが縁側に腰掛けて栗を食べていたそうだ。乞食坊主は大人達に声をかけて「栗をひとつめぐんでくれ」といったが、大人たちは「いいとも食え」といって空の食い残しの殻を投げつけたそうだ。乞食坊主はたいそう悲しい顔をして村の外れにあるそれは見るからに貧しい小屋にやってきたそうだ。小屋には17才ほどの若者を頭に...「弘法大師の説話、『東京の多摩の二度栗』」
日本人に一番親しみられている僧侶は空海と思います。弘法大師のことです。「弘法も筆の誤り」とか「弘法筆を選ばず」ということは多くの人がよく知っています。私は空海のことを調べたり書いたりすると何故か嬉しくなります。幸せになります。今日は空海、すなわち弘法大師のことを書きたいと思います。難しい仏教の郷里はよく理解出来ませんが空海のことを書きます。空海は774年に生まれ835年に60歳で亡くなりました。平安時代の初期のお防さんでした。天台宗の開祖の最澄とともに奈良仏教から平安仏教へと変えたのです。中国に留学して真言密教を日本へ紹介しました。中国で伝授を受けた奥義や経典・曼荼羅などを体系立てた形で日本に伝えました。空海は人々を愛し全国の津々浦々を行脚して回ったのです。弘法大師に関する伝説は、北海道を除く日本各地に5...「全国を行脚して人々に慕われた空海(弘法大師)」
「全国の津々浦々にある日蓮宗のお寺」日蓮宗のお寺は全国の津々浦々にあります。日蓮宗の寺院は全国に4600を超え、身延山久遠寺を総本山として、北は北海道から南は沖縄まで全国に散在しております。例えば長崎には次のようなお寺があります。霜田寺〒811-5154長崎県壱岐市郷ノ浦町渡良東触216国昌寺〒817-0024長崎県対馬市厳原町大手橋1128妙光寺〒850-0011長崎県長崎市鳴滝3-420本蓮寺〒850-0052長崎県長崎市筑後町2-10昭徳寺〒850-0063長崎県長崎市飽の浦町8-18長照寺の写真を示します。長照寺は、東京都大田区にある日蓮宗の寺です。「全国の津々浦々にある日蓮宗のお寺」
日蓮が流罪になった佐渡の風景の写真をお送り致します。佐渡流罪、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE・・・文永8年(1271年)10月10日に依智を出発した日蓮護送の一行は、10月28日、佐渡に到着し、11月1日、配所である塚原三昧堂に入った。野原に建てられた粗末な小堂で、冬は雪が吹き込む建物であり、与えられた食糧も乏しく、極めて厳しい環境だった。配所に到着した日蓮は、直ちに「開目抄」の執筆に着手、翌年2月に完成させた。執筆の背景には法難によって多くの門下が信心に疑問を持ち、退転していった状況があった。門下の疑問とは、法華経の行者には諸天の加護があるはずであるのに何故日蓮とその門下に加護がなく迫害を受けるのか、というものであった。日蓮は、今後の布教...「日蓮が流罪になった佐渡の風景」
日蓮は承久4年(1222年)に生まれ弘安5年(1282年)に60歳で没しました。鎌倉時代の仏教の僧で鎌倉仏教のひとつである日蓮宗(法華宗)の宗祖です。日蓮宗は法華経の行者日蓮聖人の教えを信奉する宗派です。日蓮は釈尊が説かれた多くの経典のなかから『妙法蓮華経(略して法華経という)』を選び根本聖典としました。今日は日蓮宗の総本の身延の久遠寺をご紹介致したいと思います。以前の訪問地でした。小金井から中央道と圏央道で行きます。日蓮宗総本山、身延の久遠寺まで3時間の行程です。訪問した時は丁度桜が満開でした。桜の写真に続いて久遠寺の本堂や鐘楼の写真をお送りします。日蓮様は偉大な僧でした。鐘楼の下のベンチに長い間座って日蓮宗がなぜ人々の信仰を集めているか考えていました。法華経を大切にして、人間がこの世をいきいきと生きる...「日蓮宗の総本山、身延の久遠寺を訪問」
『老人と海』はアメリカの作家アーネスト・ヘミングウェイによる中編小説で、出版は1952年でした。(ErnestMillerHemingway、1899年7月21日-1961年7月2日)この作品により、ヘミングウェイは1953年にピューリッツァー賞、1954年にはノーベル文学賞を受賞しました。あらすじです。キューバの老漁夫サンチャゴは、長い不漁にもめげず、小舟に乗り、たった一人で出漁する。残りわずかな餌に想像を絶する巨大なカジキマグロがかかった。4日にわたる死闘ののち老人は勝ったが、帰途サメに襲われ、舟にくくりつけた獲物はみるみる食いちぎられてゆく……。徹底した外面描写を用い、大魚を相手に雄々しく闘う老人の姿を通して自然の厳粛さと人間の勇気を謳う名作です。アーネスト・ヘミングウェイの「老人と海」
私は50歳で江の島の小型ヨットスクールへ通い、53歳の時、琵琶湖へ行ってヤマハ19という中古のクルーザーを初めて購入しました。長さが5m90cmの小さなクルーザーで操船が簡単そうでした。そのヨットを水郷汽船(株)経営の霞ヶ浦マリーナへ陸送しました。ヨットをクレーンで吊って水に入れてくれたのがマリーナの佐藤敏郎さんです。それ以来、23年間、2012年の秋にヨットを止めるまで佐藤さんにお世話になったのです。優しい性格でいつも笑顔を絶やさずヨットの修理の仕方や扱い方を根気よく教えてくれました。はじめのヨットをあけび号と命名し、家内とよくセイリングしたものです。1番目の写真は家内と一緒に帆走中のあけび号です。霞ヶ浦で10年間乗った「あけび号」を群馬県のカヤシマさんという方へ売りました。「あけび号」を手放してから今...「25年間のヨットの趣味を振り返って」
元気な中年の頃、私は江ノ島や葉山の海でヨットに乗っていました。25年間の趣味でした。懐かしいのでヨットの写真をお送り致します。写真はインターンットからお借りしました。「元気にヨットに乗っていた頃が懐かしい」
夏の海辺の風景の写真をお送り致します。写真はインターンットからお借りしました。「夏の海辺の風景」
今年も暑い夏が巡って来ました。夏が来るといろいろなことを想います。疎開した田舎の夏。学校で聞いた玉音放送。田畑での手伝い。蝉取り。海水浴。海辺から見た大海原の風景。崩れる大波の音。高い青空に輝く太陽。もうあの時は返ってこないセピア色の思い出です。いろいろな事がありましたが、今日は海水浴の思い出を書いてみようと思います。当時は仙台に住んでいましたので海水浴と云えば近くの荒浜や菖蒲田の浜でした。そして松島の向こうには野蒜海水浴場があり、遠路にもかかわらず出掛けて行ったものです。その上、塩釜からポンポン船に乗って松島湾の桂島や宮戸島の海水浴場に何度も行きました。ポンポン船と呼ぶ理由は、焼き玉エンジンの音がポンポンというからです。その音に合わせて白い煙を船のエントツから青空へ吐き出すのです。とても長閑な風景でした...「夏が来れば想う大海原と大空の風景」
上総の佐原の商人、伊能忠敬が隠居後、幕府の許可と支援を得て、自費で北海道から始めて、全国を測量したのです。歩いた距離は約五千万歩と言われています。測量は1800年から17年かかりました。作成した大図、中図、小図を精密に復元し、2010年の5月3日に東京都小金井市総合体育館に展示しました。靴下を履いた足で踏みながら地図を見れるのです。展示会には驚きました。感動しました。凄い探検旅行です。55歳で引退した後の、伊能忠敬の情熱に圧倒されました。いろいろな理由で衝撃をうけました。(1)自分が実際に測量した所だけを精密に描いています。想像したことは絶対に描いていません。実験実証主義の権化のような人です。私は職業として実験科学を30年以上して来ましたので彼の実験科学者としての天才的才能が少し分かります。まずその事に感...「200年前に全国を測量した伊能忠敬の日本地図」
アメリカでの七夕まつりです。日系人の多い地では七夕まつりをします。ロサンジェルスの七夕飾りの写真をお送り致します。写真はインターンットからお借りしました。「アメリカでの七夕まつり」
七夕は神話に登場する牛郎と織女の逢瀬を祝う中国の祭りでした。中国の旧暦7月7日に行われました。このお祭りは中国の神話に由来しており、機織りの少女織女と牛飼いの牛郎という2人の恋人のロマンチックな伝説を祝うものです。牛飼いと機織り娘の物語は漢の時代から七夕祭りで祝われてきたのです。古い文献は2600年以上前にさかのぼり、『詩経』の詩の中で語られています。台湾では、7月7日は七娘媽(織女)の誕生日とされています。幼児の守護神のを祀る風習があり、幼児を持つ家庭はこの晩に床母を祭り、紙銭のを焼く風習があります。近年では、バレンタインデーと同様に男女がプレゼントを交換する日とされています。韓国では七月七夕(칠월칠석)といい、この日に牽牛と織女が1年ぶりに会ってうれし涙を流すため、絶対に雨が降ると信じられています。そ...「中国や韓国の七夕祭り」
「水郷佐原あやめパーク」ではあやめの見ごろに合わせ、水郷佐原あやめ祭りが開催されます。2024年は5月25日(土)~6月23日(日)に実施。園内では約400品種150万本もの花菖蒲が咲き誇ります。江戸系、伊勢系、肥後系など花の種類も豊富。一面が紫色の絨毯のようです。https://www.andtrip.jp/article/003301.html「水郷佐原のあやめの写真」
館山市は南房総にある美しい海岸町です。その館山の風景の写真をお送り致します。写真は、https://travel.yahoo.co.jp/.../prefecture.../area-tateyama/からお借りしました。1番目の写真は休暇村館山の目の前に広がる、長さ約200m、奥行き約100mの海水浴場です。2番目の写真は沖ノ島です。サンゴ生息の北限域として知られる自然環境区域・南房総国定公園内にある海水浴場です。3番目の写真は須藤牧場です。バター作りや羊毛を使ったクラフト体験ができる観光農場です。4番目の写真は戦国時代の武将・里見氏の居城を復元した城です。城は八犬伝博物館になっています。「房総半島の館山の風景」
房総の鴨川は泊りがけで遊びました。懐かし海岸です。インターネットからお借りして風景写真をお送り致します。「房総半島の鴨川の風景」
千葉県の房総半島は近いのですが何故か遠方の地と感じられます。山がちで交通の便が悪いのです。しかし何度も行きました。今日は房総半島の仁右衛門島への旅の思い出を書きたいと思います。20年くらい以前に行ったのですがとても印象深い旅でした。仁右衛門島は房総半島の北端にあります。海にぽっかりと浮かぶ小いさな島です。昔から平野仁右衛門だけ住んでいることが面白いと思い丁寧に見てまわりまわりました。千葉県指定の名勝で新日本百景の地としても選ばれております。仁右衛門島は源頼朝や日蓮聖人の伝説で知られ、松尾芭蕉などの句碑や歌碑もあります。面白いところなので写真をお送り致します。写真はインターネットからお借りしました。1番目の写真は仁右衛門島を俯瞰した写真です。2番目の写真は仁右衛門島を渡し舟の発着場から見た写真です。3番目の...「房総半島の仁右衛門島への旅の思い出」
若い頃は生活に追われていましたが中年になると余裕が出てきました。はじめに伊豆半島の東の入り口の稲取温泉へ行きました。稲取の銀水荘に泊まりました。伊豆半島はその後何度も行きましたがはじめは稲取温泉でした。伊豆半島の稲取温泉と特産のキンメダイの写真を紹介したいと思います。1番目と2番目の写真はインターネットからお借りしました。3番目と4番目の写真は自分で撮った写真です。1番目の写真は高台から見下ろした稲取の漁港です。初めて泊まった旅館からの眺めと同じような風景です。この稲取漁港はキンメダイで有名な漁港です。魚の干物専門の徳造丸本店からキンメダイの干物を買って来ました。2番目の写真は稲取漁港に水揚げされるキンメダイです。3番目の写真はキンメダイやアジを取りに行く漁船です。4番目の写真は稲取漁港に舫う漁船です。今...「伊豆半島の稲取温泉とキンメダイの写真」
伊豆半島の旅のために知っておきたいことはこの半島の地質学的な歴史です。伊豆半島は何百万年も前に太平洋から流れついたのです。伊豆半島は本州で唯一、フィリピン海プレートの上にのっているのです。かつては南洋にあった火山島や海底火山の集まりで、プレートの北上に伴い火山活動を繰り返しながら本州に衝突し誕生しました。この半島では、現在も火山活動や地殻変動が続いており、これによって温泉や変化に富んだ地形になっているのです。こんな伊豆半島に旅をすると、樹木が亜熱帯的なのです。土地が溶岩で出来ています。1番目の写真は伊豆半島がフィリピン海プレートの北の端に乗っていることを示す図面です。この図の出典は、http://izugeopark.org/izugeomain/です。伊豆半島の歴史は地層などの証拠などによって約2000...「伊豆半島は太平洋から流れ着いた」
「夏の西伊豆の魅力、写真で見る三津浜、戸田、土肥、堂ヶ島、松崎」
伊豆半島は遥か遠い地です。山が連なって交通の便も悪いところです。特に伊豆半島の西側は鉄道も無く、その上道路が細くて不便です。東京からの観光客もあまり行きません。おおげさに言えば陸の孤島です。そこがかえって西海岸の魅力と感じて何回か旅しました。私の好きな土地です。今日は伊豆半島の西海岸をご紹介したいと思います。西伊豆の三津浜、戸田、土肥、堂ヶ島、松崎、妻良などをご紹介致します。美しい所が連なっています。西伊豆には沼津から入り、海岸沿いに南下します。私どもが撮った写真でご紹介いたします。1番目の写真は駿河湾に面した美津浜から見た富士山です。西伊豆の海岸沿いを走っているとこのように富士山が見えます。2番目の写真は美津浜の沖に係留してあるヨットです。3番目の写真は展望台の上から見た戸田港です。湾を囲んでいる岬は砂...「夏の西伊豆の魅力、写真で見る三津浜、戸田、土肥、堂ヶ島、松崎」
ウエストン卿は日本の山々を愛し数多くの山に登ったのです。私は忘れるべきでないと思い彼の登山歴をお送り致します。1861年12月25日-イギリスのダービー市に生まれる。1890年(明治23年)-イギリス時代から持っていた趣味として国内での登山活動を開始。富士山、阿蘇山、霧島山、桜島、日光白根山などに登頂。1891年(明治24年)-軽井沢を出発し浅間山を経て松本から日本アルプスの一角、槍ヶ岳に初登頂。その後翌年にかけて飛騨山脈、木曽山脈、赤石山脈などを巡った。また、富士山にも複数回登頂した[2]。1893年(明治26年)-前穂高岳に登頂。このときの案内役で地元猟師の上條嘉門次との友情関係は、多く語り継がれている。またこの年の5月11日に、前宮ルートより恵那山に登頂した。同年8月には、立山登山を長野県側から立山...「日本の数多くの山に登ったイギリス人のウエストン卿の偉業」
ヒマラヤの山々と麓を歩く人々の写真をお送り致します。写真の出典は、https://www.yamakei-online.com/yama-ya/detail.php?id=162です。「ヒマラヤの山々の写真」
夏の大雪山には高山植物の花が咲き素晴らしい眺めです。その写真をお送り致します。出典は、https://yuyupippu.com/?p=1073です。「夏の北海道の大雪山の写真」
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鬱蒼とした樹々の写真を撮ってきました。近所の学芸大学の構内です。撮ってきた写真をお送り致します。「鬱蒼と生えている樹木の写真」
日本4大アヤメ園とは、広大な敷地に多数の品種が植えられ、特に大規模なあやめ園として知られる4つの場所を指します。具体的には、山形県長井あやめ公園、茨城県水郷潮来あやめ園、千葉県水郷佐原あやめパーク、そして新潟県新発田市五十公野公園あやめ園です。1,長井あやめ公園(山形県長井市):120種以上のあやめが植えられ、毎年6月には「長井あやめまつり」が開催されます。2,水郷潮来あやめ園(茨城県潮来市):150種類以上のあやめが咲き誇り、6月には「水郷潮来あやめまつり」が開催され、花菖蒲にちなんだイベントも行われます。3,水郷佐原あやめパーク(千葉県香取市):300品種以上のあやめが植えられ、見頃には一面の花菖蒲が広がります。4,五十公野公園あやめ園(新潟県新発田市):300品種、60万本のあやめが咲き競う...「日本の4大アヤメ園」
一面にアヤメが咲いている場所はもう一つ東村山市にもあります。北山公園のアヤメです。撮ってきた写真をお送り致します。撮影は2013年6月6日でした。「東村山市北山公園のアヤメの花々」
毎年、茨城県の潮来では『潮来あやめ祭り』を開催しています。それは色とりどりのアヤメが一面に咲く華やかな花まつりです。今年も潮来のあやめ祭りの季節になりました。この『潮来あやめ祭り』は以前から関東地方では有名でした。そして昭和30年に美空ひばりさんの「娘船頭さん」のロケが水郷潮来で行われたのがきっかけとなり、その名は全国的にも知られるようになったのです。美しい娘さんが船頭になった小さな船に観光客が乗り、水郷を巡りながらアヤメの花を楽しむのです。何かロマンチックで美しい風景です。私も長い間、潮来につながる霞ヶ浦でヨットをしていたので一度行って見たいと思っていました。そこでついに2008年の6月17日に行ったのです。それでは写真に従ってお話を進めて行きたいと思います。1番目の写真は妻をヨットに乗せ、霞ヶ浦の沖に...「今年も潮来のあやめ祭りの季節になりました」
庭の花の写真です。10年以上前に潮来から買って来たアヤメが今年も咲きました。他の花の写真も含めてお送り致します。「庭の花の写真」
今日の小金井公園の風景です。小金井公園は東西に2kmあります。今日行った場所は西の端の部分です。撮ってきた写真をお送り致します。「今日の小金井公園の風景」
毎年、お盆のころになると日本のあちこちで灯篭流しや精霊流しがあります。この世を去ってしまった家族や友人の魂を弔うのです。あの世で平安に暮らしていることを祈るのです。そして故人があの世から暗い水面をゆらゆら揺れて流れてていく灯を見て慰められるのです。それは日本の夏の美しい風物詩です。そんな光景を下の写真で示します。真は灯篭流しと精霊流しの画像検索によって転載させて頂きました。1番目の写真は長崎と佐賀県の一部で作られる精霊船を町中を引いて海辺に運んでいる様子です。2番目の写真は佐世保市の灯篭流しです。3番目の写真は曹洞宗本山、永平寺の灯篭流しです。4番目の写真は灯篭流しと精霊流しの画像検索によって転載させて頂きました。それはそれとして、毎年、実際に灯篭流しをしている人はそんなに多くありません。テレビや新聞で灯...「灯篭流し、精霊流しは夏の美しい風物詩」
我が故郷、仙台の広瀬川の灯篭流しは江戸時代から引き続き灯ろう流しは行われ、昭和に入ると花火大会も同時に開催されるなど、「夏の終わりを告げるの風物詩」として親しまれるようになりました。仙台市内有数の夏祭りです。その風景写真をお送り致します。「我が故郷、仙台の広瀬川の灯篭流し」
今年も7月になるとお盆が来て各地で精霊流しをします。お盆の期間は、8月13日~16日の4日間(8月盆)が一般的ですが、東京をはじめとする一部地域では、7月13日~16日の4日間(7月盆)で行われます。また、東京の多摩地区では7月31日〜8月2日に行う場合もあります。お盆には、お盆提灯やキュウリ・ナスで作った牛馬など、お盆独自のお飾りをして故人様をおもてなしする風習があります。ご自宅の玄関先・庭先やお墓などの場所で「迎え火」を焚き、ご先祖様の霊をお迎えします。迎え火と同様にお盆が終わると、玄関先・庭先やお墓などの場所で「送り火」を焚き、ご先祖様の霊をお見送りします。そしてお盆の風物詩は「精霊流し」です。有名なのは長崎の江迎千灯籠祭りです。毎年8月23日と24日に行われる祭りです。3000個以上の灯籠で飾られ...「今年もお盆が来て精霊流しをします」
家内の夏の思い出と言えばまず由比ヶ浜での海水浴、親類の若者が大勢泊りに来て砂浜にビーチパラソルを立てて、水浴びしたり海の家で食事やかき氷を食べたり小屋掛けの射的・ボットル落としや楽焼をした楽しい思い出をよく話しています。戦争末期に群馬県の下仁田町に疎開したのですがそこでも楽しい思い出が沢山あるようです。本来楽天的というか人懐こく物おじしない性格なので山あいの生活や小学校にすぐ慣れて、友達とカブラ川へ水浴びに行き、帰りに河原の桑の実を食べるのがとても楽しかったそうです。ママのお土産にしようとポケット一杯摘んで帰ったら白いワンピースのポケットが真っ赤に染まってしまったそうです。川の上流の浅瀬でバチャバチャしていたら流されて大渕という深みまで行って溺れていたら、大岩の上にいた3歳上の姉が飛び込んで救ってくれた。...「家内の夏の思い出」
1945年の7月10日にB29の空襲があり仙台はすっかり焼け野原になってしまいました。そしてB29の焼夷弾空襲によってし全国の200市町村が焼け野原になってしまったのです。まず東京大空襲の写真をお送りいたします。東京大空襲は1945年(昭和20年)3月10日のアメリカ空軍による夜間空襲でした。その7枚の写真をお送り致します。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2です。1番目の写真は東京を空襲しているB-29爆撃機です。多量の焼夷弾を落としています。2番目の写真は1945年1月27日の空襲で数寄屋橋上を逃げ惑う親子です。この日の爆撃の主目標は郊外にあった中島飛行機武蔵製作所でしたが、...「夏の思い出はB29の空襲と焼け野原の光景」
夏の思い出は我が故郷仙台の七夕祭りもあります。仙台の七夕まつりは、江戸時代に仙台藩祖・伊達政宗公が婦女子の文化向上を奨励するために始めたのが由来とされており、以来仙台の伝統行事として民衆に広まり現在に至ります。故郷の仙台の七夕祭りは毎年、8月6日、7日、8日と開催されます。夏が来ると思い出します。毎年、幼少の頃から七夕飾りを見に行った東一番丁や大町通りの光景を思い出すのです。結婚して東京に住むようになってからも毎年、家内や子供連れで仙台の七夕飾りを見に帰りました。父母が健在だったあいだは毎年仙台に帰省していました。ですから七夕飾りは私の故郷の光景として心の中に焼き付いています。それではその七夕飾りが夏風に揺れている写真をお送りいたします。1番目の写真の出典は、https://blogs.yahoo.co....「夏の思い出は我が故郷仙台の七夕祭り」
何故か知りませんが夏が来るとしきりに思い出すのが幼い頃の光景です。昔の茶の間、花火遊び、夜店、金魚売り、海水浴などの光景です。私の幼い頃は戦前、戦後にまたがっていました。エアコンは勿論、電気冷蔵庫も無い時代でしたので暑かったに違いありませんが、不思議に暑くて困ったという記憶がないのです。当時の茶の間には柱時計、茶箪笥、ちゃぶ台がありました。テレビはありませんでした。夜になると「ちゃぶ台」をかたずけ、蚊帳を吊り、布団を敷いて寝ます。当時は網戸が無いので、寝ていると迷ったセミやハンミョウなどが開け放した廊下から飛び込んで来ます。寝る前には近所の子供たちとよく花火遊びをしたものです。1番目の写真は子供たちの花火遊びの写真です。この写真の出典は、http://www.kobe-np.co.jp/news/shak...「夏の思い出は花火、金魚売、海水浴」
小屋は山梨県の西端の甲斐駒岳の麓にあります。その付近の新緑の写真をお送り致します。写真は2008年の5月に撮りました。なお2枚目の写真には家内と息子と幼い頃の3人の孫がが写っています。左の白服が家内で右端が小学校野球部の一番上の孫です。黒服の男が息子で傍にちいさい二人の下の孫が写っています。17年前は3人の孫も児童でした。一番上の孫は父親になりました。時の流れは早いものです。3番目の写真は山林の中の小屋の前の小川に手作りしたヤマメの魚道です。「山林の中の小屋の近くの新緑の写真」
東京の街街には一種独特な雰囲気がまとわり着いているところが多く有ります。江戸時代の屋台が連なったような浅草の仲見世通り、寅さん映画で有名な柴又の帝釈天の参道、昭和のモダンな雰囲気が漂う日本橋三越界隈、新宿駅東口から中村屋、紀伊国屋書店、伊勢丹へと続くなにか懐かしい雰囲気の通り、そして原宿や竹下通りの気楽な若者の群れる町。それぞれ独特の雰囲気があります。そして新橋駅を出て西側の広場へ出る度に、ああ戦後の雰囲気がまだ残っているなあ、と感じるのです。広場は綺麗に舗装され、向こうに蒸気機関車が飾ってある平凡な広場なのです。何故、終戦後の雰囲気があるのでしょう?そんなことを感じるのは私だけかも知れません。写真を3枚掲載します。ご意見を頂ければ嬉しいです。(終わり)添付の写真は浅草の仲見世通りと戦後の雰囲気が漂う新橋...「戦後の雰囲気が漂う新橋駅前、江戸時代の仲見世通り」
人間は老境になると昔のことが非常に懐かしくなるようです。家内が昔のことより現在や将来のことを考えたらとよく言います。しかし昔の懐かしいものについて今日も書きたいと思います。懐かしい台所、真空管ラジオ、蒸気機関車、市電、小さな連絡船、青函連絡船、などです。まずこれらの写真を示しましょう。1番目の写真は昭和時代の台所です。昭和11年に生まれた私の祖父の兵庫県のお寺の台所はこのようでした。懐かしいです。一方、私の自宅は仙台市にありましたので台所は近代的でした。2番目の写真は真空管のラジオの裏側です。高校生の頃の趣味は真空管のラジオを作ることでした。最後に写真のようなスーパーヘテロダインを作りました。大きな電蓄も作ったもです。3番目の写真は私が中年になるまで東北本線を走っていた蒸気機関車に引かれた列車です。新幹線...「懐かしい台所、真空管ラジオ、蒸気機関車、市電、小さな連絡船、青函連絡船、など」
夏になると若い頃の北アルプス縦走を思い出します。若い頃の登山の思い出です。その北アルプス縦走の思い出を写真に従ってお送り致します。しかし私は当時写真機を持っていなかったので、インターネットからお借りしました。さて縦走は大糸線の穂高駅から中房温泉への登高から始まりました。そこに一泊して燕岳、大天井、西岳、槍の肩の小屋で一泊し、南岳、キレット渡り、北穂高、涸沢、横尾と歩いて上高地に降りて来ました。歩いた行程は全部で2泊3日の山歩きでした。毎日10時間ほど歩きました。写真で説明します。1番目の写真は中房温泉から1時間ほど登ると突然見える燕岳です。この地点から槍ヶ岳を遥かに見ながら縦走路を行くのです。2番目の写真は燕岳と大天井岳の間の尾根から見える槍ガ岳です。まだ遠方です。3番目の写真は大天井岳の肩を回りこみ近く...「夏になると思い出す北アルプス縦走」
今日は爽快な白帆漁の写真をお送りいたします。お楽しみ頂ければ大変嬉しく思います。以前の夏、霞ヶ浦で撮影したものです。土浦観光協会で検索し観光のために出漁する日時をお確かめの上、お出かけ下さい。見物は観光船、ホワイトアイリスに乗船して船上から見るのが良いと思います。今日も皆様のご健康と平和を心からお祈り申し上げます。藤山杜人幅の広い大きな網を船の横に入れ、船の長さいっぱいの巨大な白帆で網をゆっくり引いて行きます。数キロメートルも引いて行きます。ワカサギを取っていますが、10月になると透明な白魚をとります。霞ヶ浦に江戸時代からあった伝統的な漁法だそうです。ワカサギは佃煮にします。沖宿でも売っていますが、土浦駅ビル地下食品売り場の小魚佃煮専門店でも売っています。白魚の生の刺身は蓮田の中の「うなぎの山中」(電話0...「夏の風物詩、霞ヶ浦の伝統的な白帆漁」
このところ湿気が多く暑いですね。間も無く本格的な夏が来るのでしょう。。そのせいか美ヶ原高原美術館の涼しさ、爽快さを思い出します。霧が流れる高原のロマンです。今日は美ヶ原高原美術館をご紹介したいと思います。この美術館は遥かに遠い天空の上の美術館なのです。標高は2004mです。4万坪の屋外展示場に350点あまりの現代造形作品を常設展示しています。1981年6月に、「箱根・彫刻の森美術館」の姉妹館として開館しました。長野県の上田市にあります。この彫刻群を楽しむため一番重要なことは天気予報を注意深くしらべ、寒い雪の日、強風の日、猛暑の日は行かないようにします。私達が訪れたのは2008年の8月5日でした。霧が流れ、幻想的な日でした。高原の丘一面に遊歩道がひろがり世界中の作品が展示されています。すべて野外で鑑賞するた...「夏の風物詩、霧が流れる美ヶ原高原美術館のロマン」
蓮の花の咲く景色は夏の風物詩です。お寺の境内、各地の城のお堀や一面に広がる蓮根畑に咲いています。夏の陽に輝く白い花が風に揺れている光景は心に刻み込まれています。私は霞ヶ浦でヨットをしていたので周囲に広がる蓮根畑の白い花が忘れられません。そして同級生の大泉君と一緒に見た小田原城の堀に咲く花は背景の天守閣の風景とともに忘れません。その上家内と一緒に行った行田の蓮の公園に一面に咲いていた蓮の花には感動したものです。そこで今日はこれら3ケ所の蓮の花の写真をお送り致します。1番目の写真は霞ヶ浦の蓮根畑の写真です。2008年の夏に撮ったものです。2番目の写真は小田原城の堀に咲く蓮の花です。観賞用の花なので種々の色の花が咲いています。出典は、https://www.jalan.net/kankou/spt_14206a...「夏の風物詩、あちこちに蓮の花が咲く風景」
今日の散歩は小金井公園まででした.今日は曇りですが乾燥した軽やかな風が吹いていました。気分爽快に小金井公園まで行って来ました。「今日の散歩は小金井公園まで」
郷愁を誘う昔の町の面影をお送り致します。郷愁を誘う昔の町の写真が沢山掲載されているブログを見つけました。https://4travel.jp/travelogue/11815459です。そこから4枚の写真をお借りして示します。「郷愁を誘う昔の町の面影」
安曇野の奥、木崎湖や青木湖のさらに奥の白馬東急ホテルに泊ったことがありました。そのホテルはスイスの山岳ホテルのような三角屋根の木造でした。部屋は屋根裏部屋の感じのような内装で、小さな縦型の窓がついていました。バルコニーの椅子に座って眺めると、芝生に覆われた広い庭の向こうは森になっています。ヨーロッパの古いホテルの雰囲気でした。写真をお送り致します。1番目の写真は白馬東急ホテルの玄関です。写真はインターネットからお借りしました。2番目の写真は私どもが泊まった部屋と同じような部屋の写真です。写真はインターネットからお借りしました。ここのホテルを出て、暗い森の中を歩き、崖の道を下るとゴンドラの駅があり八方池まで登れたのです。そ八方池まで登る道からは、八方尾根の向うに広がる白馬鑓ケ岳、杓子岳、白馬岳、小蓮華岳など...「安曇野の奥の白馬東急ホテルの寫眞」
大糸線の大町駅から白馬駅の間に車窓から3つの湖が見えます。その周囲には何も無い静かな湖沼群で標高が一番高い西端の青木湖から中綱湖、そして木崎湖と農具川でつながっていて、木崎湖から流れ出ているのも農具川といい、それは高瀬川に合流し、信濃川になります。この仁科三湖は透明度の高い水で、遥か遠方には残雪の白馬連山が横たわっています。そんな美しい水をたたえた風景写真をお楽しみ下さい。大糸線の車窓から撮った写真です。そして下の写真はこの仁科三湖と北アルプスの山々ととの位置関係を示しています。この写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E6%B9%96です。「安曇野の仁科三湖、木崎湖、中綱湖、青木湖の寫眞」
思い出ばかり書いているのは老人の悪い傾向です。と知りながら今日も書きます。安曇野の風景と大きな水車の思い出です。思い出すたびにすがすがしい気分になります。元気が出ます。そして老境を格調高く生きることが出来るのです。1番目の写真は残雪が輝く北アルプス連峰です。写真の出典は、https://www.kabegamikan.com/p/i.php?url=www.kabegamikan.com%2Fimg%2Fna14%2F169619.jpgです。2番目の写真は北アルプスの麓に広がる水田の風景です。写真はインターンットからお借りしました。続いて自分が2017年6月に撮った安曇野の清流と水車の写真をお送りいたします。3番目の写真は訪れた安曇野の山葵園の脇にある美しい流れの光景です。川底の藻がゆらゆら揺れていて、...「安曇野の風景と大きな水車の思い出」
武蔵野公園までの道すがら撮った写真です。順に真蔵院、小金井市立美術館、昔風の農家の写真です。「今日の散歩道の風景」
初夏の陽に輝く草原の風景です。今日は初夏の碧い空が広がっています。先程、その写真を撮って来ました。「初夏の陽に輝く草原の風景」
牡丹は花びらを何枚も重ね大輪の花を咲かせます。牡丹の花言葉は「王者の風格」「富貴」「恥じらい」です。原産国の中国では、観賞用の花として牡丹が大人気です。唐代の詩人・白居易は牡丹の人気を「街中の人が狂ったようだ」と記しています。その大きく鮮やかな花姿から、牡丹は「花王」「花神」とも呼ばれ、中国でもっとも格式の高い花とされました。その牡丹の花の写真をお送り致します。写真の出典は、https://news.biglobe.ne.jp/trend/0222/mwk_230222_4045486843.htmlです。「中国人が大好きな牡丹の花」
皆様ご存知のように中国は共産党独裁の国です。ですから民主主義の日本の仮想敵国でしょうか?しかし私はその中国の数人の人と親しく付き合っていました。今日は中国の周恩来、鄧小平、胡耀邦、温家宝などの思い出を書いてみたいと思います。私は1981年に北京と瀋陽に行きました。私を紫禁城(故宮)、頤和園、明の13陵、万里の長城、天壇、北京原人の周口店、瀋陽の清朝の発祥の宮殿、そして文化大革命で荒らされたキリスト教の教会(天主堂)などなどに行きました。西安の大雁塔や玄奘法師の墓のある慈恩寺も行ました。1番目の写真は紫禁城、故宮です。この故宮は多くの日本人も観覧していますので説明は省略します。そして頤和園のいかにも離宮らしいロマンチックな雰囲気に圧倒されました。湖も山上の楼閣も素晴らしいのですが、特に美しい左右の風景を見な...「周恩来、鄧小平、胡耀邦、温家宝などの思い出」
昔の武蔵野にあった農家はそれぞれ屋敷森に囲まれていました。そんな屋敷森に囲れている家が現在の小金井市に数軒あります。今日は北はずれにある屋敷森の写真を撮ってきました。家は森に隠れて写真には写っていません。「昔の武蔵野の屋敷森の写真を撮って来た」
ある時代に繫栄していたが現在はすっかり忘れられている町が沢山あります。時代の変化についていけず寂れてしまうのです。私はそんな町を訪れて繁栄していた頃の様子を偲ぶのが好きです。現在住んでいる人の静かな息づかいが感じられ、しみじみと旅愁を憶えます。そんな町の一例に北海道の松前藩の松前町があります。北海道の南端にあります。以前に独りで旅をした曾遊の地です。今日はこの松前藩の歴史と独り旅の思い出を書いてみたいと思います。松前藩は徳川幕府に正式に認められた北海道唯一の藩でした。慶長九年(1604年)に徳川家康から安堵状が与えられ、蝦夷地の領地権、蝦夷地の交易の独占権を得ます。こうして日本最北の藩、松前藩が成立しました。(town.matsumae.hokkaido.jp)しかし領内に米の生産がないので、幕府の『武鑑...「北海道の魅力(2)松前藩の盛衰と現在の寂しい町の風景」
北海道は魅力溢れる旅先です。特に夏の北海道は暑くなく旅行が快適です。私も何度も旅を楽しみました。北海道には美しい湖や原野が広がっています。今日は美しい洞爺湖と隣接する新しい昭和新山をご紹介します。そして洞爺湖を見下ろすザ・ウインザー・ホテル洞爺をご紹介します。この地は千歳空港から近いので何度も訪れました。さて洞爺湖ですが、この湖は北海道の虻田郡の洞爺湖町にあります。周辺は支笏洞爺国立公園に指定されています。また、「日本百景」や「美しい日本の歩きたくなるみち500選」にも選ばれている美しい湖です。1番目の写真は洞爺湖の全景です。湖の中心に島のある大きなカルデラ湖です。2番目の写真は湖の中心の中島の近景です。島にはエゾシカが棲んでいます。洞爺湖には在来種のアメマス、ウグイ、ヨシノボリ、ハナカジカ等が棲んでいま...「北海道の魅力(1)洞爺湖、昭和新山、ザ・ウインザー・ホテル」
近所の道沿いに咲いているムクゲの花です。道沿いに沢山咲いています。素晴らしい7眺めです。「近所の道沿いに咲いているムクゲの花」
狭い庭にも花々が今年も綺麗に咲きました。家内が世話をしている花々です。「庭に綺麗に咲いた花々」
カトリック松原教会の今日のミサの動画配信は、https://www.youtube.com/watch?v=NQfCUMTgGW8にあります。「カトリック松原教会の今日のミサの動画配信」
今日は広島の教会も東京の教会も動画配信が遅れましたので、先週のイグナチオ教会のミサにあずかりました。その風景の写真をお送り致します。「今日はイグナチオ教会のミサにあずかりました」
旅に出ると時々教会に寄ります。その地方の人々の気持ちが分かるようで楽しいのです。今日は懐かしいカトリック韮崎教会の思い出を書いてみたいと思います。2012年のことでした。山梨県の甲斐駒の麓の小屋へ行く途中にあるカトリク韮崎教会の思い出です。その教会の庭で神父さんらしい若い人が花壇の手入れをしていました。ちょっとお祈りさせて下さいと挨拶をしました。どうぞ、どうぞ。何処からいらっしゃいましたか?東京です。旅先では時々教会による習慣があるものですから。どうぞごゆっくり。下に御堂の中の写真と、信者さん達の集合写真を示します。1番目の写真はカトリック韮崎教会の内部です。中は立派な教会です。机の下のお祈りの冊子を手にとって、主の祈りを唱えました。ついでに信仰宣言も。2番目の写真は窓と窓の間にはイエス様の道行きの彫刻が...「懐かしいカトリック韮崎教会の思い出」
広島のカトリック幟町教会の今日のミの動画配信です。6月9日広島のカトリック幟町教会の今日のミの動画配信です。https://www.youtube.com/watch?v=zSTtJ21fqp4第広島のカトリック幟町教会の住所、広島市中区幟町4番42号原爆犠牲者を追悼し、世界平和の実現を祈念する教会堂です。「広島のカトリック幟町教会の今日のミの動画配信」
我が散歩道は野川沿いの道です。その先に武蔵野公園があるのです。先程撮った写真をお送り致します。「我が散歩道に咲く花々の写真」
武蔵野の面影を保全した都立武蔵野公園で写真を撮って来ました。気分が爽快になりました。「広々とした武蔵野の風景を撮りに行く」