昔、南ドイツに住んでいたことがあります。スイスにはよく遊びに行きました。そしてアルプスの山々と花畑を眺めたmぽのです、アルプスの山々と花畑の写真をお送り致します。写真は、「スイスのアルプスの花畑の写真」を検索してインターンットからお借りしました。「スイスのアルプスの山々と花畑の写真」
小金井の滄浪泉園は近所なので何度も散歩しました。懐かしい場所です。中を散策するために風景の写真をお送り致します。写真の出典は、https://blog.goo.ne.jp/musashinosanpo180/e/93ea0e5bdb215b565d7ccf4a2d1b624fです。小金井の滄浪泉園の中の風景」
先程撮って来た写真です。この庭園は、明治・大正期に三井銀行の役員、外交官、衆議院議員などを歴任し、活躍した波多野承五郎(雅号・古溪)氏の別荘の庭園で、小金井市の歴史と共に歩んできた「はけと湧水」をたくみに生かした由緒ある緑地です。滄浪泉園の門標文字は犬養毅元首相自筆によるものです。園内は武蔵野の面影を十分とどめ、野鳥の鳴き声が一年中絶えることなく、こんこんと湧く清水をたたえた池にはカモ等も飛来します。「小金井の滄浪泉園の森と坂道の写真」
小金井市内は東西に走る国分寺崖線(ハケ)という10mを越える崖で坂上と坂下に大きく二分されています。この崖にはこれまでに「小金井の坂」としてアップした30近い坂道があります。坂下はハケからの湧水や、それを集めて流れる野川の水で古くから稲作が行われ、昔から人々が住んでいました。一方坂上は関東ロームと呼ばれる厚い火山灰層で農作には適していませんでしたが、江戸時代前半の玉川上水の開通に伴い、そこからの分水によって次第に開墾が進んでいきます。坂上、坂下にそれぞれ人々が多く住むようになって、その間の交流はこの崖の坂道を通して活発に行われるようになります。そして沢山の坂道がこの崖に出来たものと思われます。(https://koganei-kanko.jp/maron/archives/2956)「小金井の坂」として3...「江戸時代を想わせる小金井の坂道の名前」
カトリック葛西教会の今日の10時のミサの風景の写真をお送り致します。今日はインターンットをとうしてカトリック葛西教会のミサにあずかりました。「カトリック葛西教会の今日の10時のミサの風景」
2024年6月30日(日)10時年間第13主日ライブ配信https://www.youtube.com/watch?v=T8uCSriUmjwカトリック葛西教会〒134-0083東京都江戸川区中葛西1-10-15「カトリック葛西教会の今日の10時のミサの動画配信」
山梨の甲斐駒岳と鳳凰三山の麓にハイジの村がります。私の山の小屋に近いので度々よりました。花が沢山咲いているので写真をお送り致します。桔梗屋グループでは、2006年に山梨県から委託を受け、指定管理者として「ハイジの村」(旧山梨県立フラワーセンター)の管理運営を行なっています。詳しくは、Topofハイジの村(haiji-no-mura.com)をご覧下さい。「山梨にあるハイジの村の写真」
京都府の日本海側の宮津市にるカトリック宮津教会は明治29年に建てられました。国宝の大浦天主堂は明治12年に建てられたので、それに次いで日本で2番目に古い教会になります。そして現役の木造教会としては日本一古い教会なのです。ステンドグラスの美しい畳敷きの教会です。信者は入り口で靴を脱いで畳の上を静かに歩きます。畳敷きの教会も良いものです。少し寛いで自然な気持ちで祈ることが出来るのです。写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。出典は、http://pupa.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_f70a.htmlです。この教会の歴史です。1888(明治21)年、パリ外国宣教会のルイ・ルラーブ神父は宮津に居を定めて、宣教を開始しました。ルラーブ神父の当時の受け持ち区域は、若狭(福井...「美しい木造で1番古いカトリック宮津教会」
明治維新を1968年とすると今年は150年になります。幕末の戊辰戦争などの国内戦争、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、日中戦争、第二次世界大戦と戦争が続き、終いには日本中が焼け野原になって敗戦になりました。この敗戦から72年、日本は平和が続き工業技術が進歩し経済も大いに成長しました。この150年間の日本の人々の輝きと悲しみを長崎の小高い丘の上から静かに見つめて来た建物があります。それは幕末に建てられた大浦天主堂です。戦前の昭和8年に洋風建築として初めて国宝に指定された日本の文化遺産です。フランス人が幕末の1865年に作った国宝です。そして現在は観光名所として長崎を訪れる人は必ずのように行く場所になっています。今日はこの国宝、大浦天主堂にまつわるお話を書きたいと思います。始まりは文久2年(1862年)の事...「幕末に建てられた国宝、大浦天主堂と潜伏キリシタンの物語」
仙台に1936年に生まれ1960年まで住んでいました。境内でよく遊んだ仙台の長徳寺の写真をお送り致します。「境内でよく遊んだ仙台の長徳寺の写真」
家内の実家のお墓は日野市の大昌寺にあります。一昨年までは何度も墓参りに行きました。大昌寺は浄土宗知恩院末のお寺で、江戸開府の前年、慶長7年(1602)、八王子の大善寺の開山である中秀助給和尚が隠棲の場所として建立したといわれています。江戸時代、大昌寺の梵鐘は日野宿に時を告げ親しまれていました。日野宿の名主を務めていた、新選組の育ての親である佐藤彦五郎(家内の親戚)の子孫の墓もあります。毎年この大昌寺に墓参りに来ると時の流れの早いことに驚いたものです。その大昌寺の写真をお送り致します。それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)「日野の大昌寺の写真」
海岸寺この寺は、享保年間にこの地一帯に移住した農民の、寺院建立の熱心な要望によってできたものである。この地はもともと江戸南泉寺の抱地で、宝林庵という小庵があった。南泉寺の弟子円備、済松寺弟子禅育らはこの農民の要望をいれ、元文元年(1736)10月、寺社奉行の許可を得て、武蔵国秩父郡三峰山境内にあった本明宗全禅師開創の越中(富山県)国泰寺の末寺である海岸寺の末寺である海岸寺の引寺に成功した。しかし堂宇が建立できなかったので、元文4年(1739)江戸済松寺の末寺となり、同寺6世石慧堅禅師を中興開山として、瑞雲山海岸寺の礎を確立し、円備首座が堂宇を建立した。現在の本堂は、昭和33年(1958)に建替えられたもので木造瓦葺である。また山門は170〜180年前の建立で、渡り大工の作といわれている。鎌倉様式が取り入れ...「近所の海岸寺の写真」
今日の散歩でも中村研一記念館の前を通ったので彼の油彩画をいろいろ思い出しました。私の好きな絵を1枚だけお送り致します。中村研一は絢爛とした派手な絵を描かない画家です。どちらかと言うと地味な堅実な絵画です。しかし地味ながらも油彩画の奥深い確かな美しさが魅力です。3番目の写真は静物です。2018年に『はけの森美術館』で開催された企画展、「没後50年中村研一の制作―日常風景とともに」に展示された絵です。出典は、https://ameblo.jp/artony/entry-12365570503.htmlです。写真は、中村研一「車を停む」1932年、北九州市立美術館蔵、です。中村研一は50歳の時に、東京の空襲で代々木初台のアトリエは焼失したのです。その後、彼は自然豊かな小金井の“はけ”の地に移り住みました。以後、...「今日の散歩でも中村研一記念館の前を通った」
今日は曇りで蒸し暑い日でした。散歩は武蔵野公園の丸池まででした。「今日の散歩、武蔵野公園の丸池まで」
30年戦争を主題にした油彩画の写真をお送り致します。当時は写真がまだ無かったので油彩画でした。ここに示す油彩画の出典は、https://jacyou.com/society/tory/thirty-years-war-5-greatest-battles/です。「30年戦争を主題にした油彩画」
スウェーデンの草原に咲く花の写真をお送り致します。写真の出典は次の通りです。https://www.istockphoto.com/.../%E3%83%9D%E3%83%94%E3%83...「スウェーデンの草原に咲く花の写真」
四季折々登った蔵王山です。仙台に住んでいたので私は何度も蔵王山に登りました。夏には宮城県側から登りました。冬は山形県側の懺悔坂の樹氷の間で毎年スキーをしました。私の一番想いの深い山です。蔵王山は奥羽山脈の中にあって宮城県と山形県の県境にあります。火山活動によって出来た山です。その夏の写真をインターンットからお借りしてお送り致します。「夏の蔵王山の写真」
昨日の掲載記事の「若い頃の夏の日の思い出」をもう一度、見ていると日本を取り囲む海の美しさに感動します。群青の海が緑の島々をかこむように広がっているのです。日本は海も綺麗です。しかし陸地にある山々も美しい風景です。絶景です。今日は美しい日本の山々の風景の写真をお送り致します。若い頃日本の北アルプスと南アルプスの縦走しました。山々の写真に私の感想文も添えました。日本のアルプスの縦走は私のささやかな青春の冒険だったのです。自分の人生を振り返ってみると、「北アルプス表銀座縦走」の思い出が非常に重要だったと思います。その思い出は私の人生のエネルギー源になったのです。北アルプス表銀座は特に素晴らし縦走コースです。そのルートの山々の景観雄大でした。後年見たヨーロッパのアルプスのようです。そして高山植物の花々も華麗に咲い...「日本の夏の山々の絶景」
隣りの韓国も日本と同様に祭りが沢山あります。そこで夏の夜の祭りの写真をお送り致します。1番目の写真はソウルのお祭り「ソウルランタンフェスティバル」です。ソウル特別市鍾路区の清渓広場と清渓川一帯で灯りをテーマに繰り広げられるお祭りです。2番目の写真もソウルのお祭り「ソウルランタンフェスティバル」です。1番目の写真は2番目の写真の出典は、https://s-koreanschool.com/column/c20220904_jp.htmlです。3番目の写真は統営(トンヨン)閑山大捷祭りです。大海戦の一つである閑山島海戦を閑山島沖で再現する祭りです。8月11日から15日まで慶尚南道統営市で開かれます。写真の出典は、https://japanese.korea.net/NewsFocus/FoodTravel/v...「韓国の夏の夜の祭りの写真」
いよいよ夏です。そこで夏の風物詩の花火、金魚売の光景を写真で示します。今は消えてしまった懐かしい風物詩です。夏が来るとしきりに思い出すのが昔の茶の間、花火遊び、夜店、金魚売り、海水浴などの光景です。私の幼い頃は戦前、戦後にまたがっていました。食べるものも少なかった貧しい時代でしたが夏の日々がめっぽう楽しかったのです。エアコンは勿論、電気冷蔵庫も無い時代でしたので暑かったに違いありませんが、不思議に暑くて困ったという記憶がないのです。近所の子供たちとよく花火遊びをしたものです。1番目の写真は子供たちの花火遊びの写真です。この写真の出典は、http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201508/p1_0008264353.shtmlです。花火遊びで一番魅了されたものが線香花火で...「夏の風物詩の花火、金魚売の光景」
「早わかり、カトリック、ロシア正教、聖公会、プロテスタント諸宗派」
今日は日曜日ですので宗教に関する記事を書きます。キリスト教の諸宗派を簡単に説明します。キリスト教の宗派は、カトリリック、ロシア正教、英国聖公会、プロテスタント諸教会の4つに分類されます。日本に全部あります。1番目の写真は世界のキリスト教の諸宗派が分離した年号を示す図面です。この図の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/キリスト教諸教派の一覧です。さてカトリリック、ロシア正教、英国聖公会、プロテスタント諸教会の4つはどの様にして日本へ入って来たのでしょうか?カトリックは1549年、ザビエルの訪日以来、スペイン、ポルトガルから伝承されました。ロシア正教は幕末にニコライによってロシアから伝わりました。英国聖公会、プロテスタント諸教会は明治維新後に日本へやって来たのです。特にプロテス...「早わかり、カトリック、ロシア正教、聖公会、プロテスタント諸宗派」
長崎の大浦天主堂のミサの風景です。写真はインターンットからお借りしました。「長崎の大浦天主堂のミサの風景」
「広島のカトリック幟町教会の2024年6月23日のミサ の風景」
今日は広島のカトリック幟町教会のミサにインターンットを通してあずかりました。ミサの風景の写真をお送り致します。「広島のカトリック幟町教会の2024年6月23日のミサの風景」
「広島のカトリック幟町教会の2024年6月23日のミサ の動画配信」
年間第12主日ミサhttps://www.youtube.com/live/7se3ShejEY0第1朗読ヨブ記38章1、8~11第2朗読コリントの信徒への手紙二5章14~17節福音朗読マルコによる福音書4章35~41節カトリック幟町教会〒730-0016広島県広島市中区幟町4−42「広島のカトリック幟町教会の2024年6月23日のミサの動画配信」
気温が上がったので花々の色があざやかになってきました。その写真をお送り致します。「庭の花も色あざやかになりました」
初夏の陽気でした。今日の散歩は小金井公園の花園までした。ユリが見事です。写真をお楽しみ下さい。「今日の散歩、小金井公園の花園まで」
私は2009年1月に冬の波荒れる八丈島へ独りで旅をしました。帰りの船が悪天候で欠航したので非常に印象深い旅になりました。芝浦の桟橋から遥か286Kも船に揺られて翌朝辿り着いたのです。着いてみると八丈島は想像以上に大きな島です。島の東に10万年前の噴火山の三原山があり、西に1万年前に出来た八丈富士があり、その間が平野で農村が広がっています。そして西の海上には八丈小富士という急峻な火山が突き出ています。この3つの山が近過ぎず、遠過ぎず、丁度良い距離でどっしりと座っています。この配置が雄大な景観を作っています。1番目の写真は2009年1月に撮った写真です。東の三原山の中腹から西の八丈富士を撮った写真です。レンタカーを借りて江戸幕府の島役所跡や古い集落や秀吉の家老だった宇喜多秀家のお墓にも行きました。そして八丈島...「八丈島の写真と團伊玖磨氏の別荘」
我が小金井の夏祭りは阿波踊りです。小金井では毎年7月の22日と23日に小金井阿波踊りが開催されます。阿波踊りは、阿波国(現・徳島県)を発祥とする盆踊りです。高知のよさこい祭りと愛媛の新居浜太鼓祭りと並ぶ四国三大祭りであり日本三大盆踊りの一つとしても言います。現在は、阿波国以外にも伝播し、東京都などでも大規模に開催されるようになりました。阿波踊りは約400年の歴史を持つ日本の伝統芸能のひとつです。踊る阿呆(あほう)に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らな損々…と唄われます。我が町、小金井でも7月の22日と23日に開催されます。小金井の阿波踊りの写真を示します。自分が撮った写真です。阿波踊りの起源は精霊踊りや念仏踊りが原形であるといわれています。徳島藩が成立して以後、盛んに踊られるようになったのです。天正14年(158...「我が小金井の夏祭り、阿波踊り」
今日は日本中に何故、廃村や無人島がどんどん増加するか考えてみたいと思います。日本全国に打ち捨てられた古里が沢山あるのです。1970年頃から始まった経済の高度成長で廃村が急増しました。現在の日本の人々はそんな事を忘れてしまったのでしょうか?10年ほど前に八丈島へ一人旅をしました。見ると沖に八丈小富士という離島があります。昭和44年までは小学校や中学校があり2つの集落があったそうです。牧畜や漁業で生計を立てていたのです。それが完全に廃村になっているのです。八丈小富士の島を示します。10年前に私が撮った写真です。1番目の写真は八丈小富士のある島です。この美しい島に渡るには船をチャーターしなければなりません。人の住んで居ない島へは定期船などありませんでした。心を残しながら帰って来ました。ところが全国の廃村を訪ね歩...「日本中に何故、廃村や無人島がどんどん増加するか?」
5月15日に「日本中に何故、廃村や無人島がどんどん増加するか?」という記事を掲載しました。その冒頭に次のように書きました。・・・農村の若者が都会に出るのは就職口が地元に無いからです。その上、農村や山村では若者の個人の自由を認めない雰囲気があるからなのです。田舎社会の実態は江戸時代とあまり変わりません。今日は日本中に何故、廃村や無人島がどんどん増加するか考えてみたいと思います。・・・そうしたら、この記事に対して「でいしゅう」さんから以下のようなコメントを頂きました。・・・田舎まで行かなくても、50年ほど前に開発された団地、私の住む団地でも同じ現象です。団地ですから、田畑山林の持ち主はいません。それでも、子供たち(正確には3代目)は都会に出て行き、帰ってきません。就職先が無いのです。私たち世代(2代目)は、何...「過疎化は都会の中でも、消えた商店街」
今日の散歩は都立武蔵野公園まででした。曇り日ですが乾いた風が吹いていました。気分爽快でした。「今日の散歩、都立武蔵野公園まで」
戦後に日本全国津々浦々にテレビが普及するまでの約30年間は映画全盛の時代でした。当時は邦画や洋画の看板が映画館にはなやかに飾ってあったものです。戦前に仙台で生まれ、戦後育ちの私は映画が大好きでした。今日はテレビが普及する前の懐かしい戦後の日本映画のポスターの写真と、それぞれの「あらすじ」をお送りいたします。私の記憶に鮮明に残っている感銘深い映画を七つ選びました。まず7枚のポスターの写真だけをご覧ください。興味深い映画を選んで「あらすじ」をお読み下さい。次に原作の文学作品の全文を読みたくなったら「青空文庫」を検索すれば全文を読むことが出来ます。「青空文庫」の総合インデックス、https://www.aozora.gr.jp/index_pages/index_top.htmlの作家別か作品別に希望の名前をク...「テレビが普及する前の懐かしい戦後の日本映画」
仙台は私が生まれた故郷です。1936年に生まれ1960年にアメリカへ留学するまで24年間住んでいた懐かしい故郷です。今日はこの仙台の近世の歴史、郷土史をご紹介致します.(1)伊達政宗が青葉山に仙台城を作り城下町を作った。近世になるまでの仙台市域の大部分は国分氏の支配下にありました。国分氏は現在の多賀城市や仙台市岩切などを拠点とする留守氏と激しく対立していたのです。しかし戦国時代に入ると両氏とも戦国大名として台頭してきた伊達氏の軍門に下り伊達氏に隷属してしまいます。当時は仙台は「千代(せんだい)」と呼ばれていました。慶長5年(1601年1月28日)に伊達政宗が青葉山に仙台城を作り城下町を整備します。そして名前を「仙臺(仙台)」と改称したのです。これが仙台の都市としての始まりでした。62万石の仙台藩は、加賀藩...「遥かなる我が故郷、仙台の近世の歴史」
4月4日は家内が鎌倉で生まれた日です。数年前に車を走らせて、鎌倉の海を見て鉢の木という和食処で妻の誕生日の食事をしました。写真は海の風景1枚と続いて鉢の木での写真3枚です。鎌倉は何時行ってものどかな昔の日本の風情があって良いものです。「鎌倉の和食処の『鉢の木』の思い出」
ビガン歴史都市などフィリピン国内には、文化遺産・自然遺産あわせて6つの世界遺産があります。写真を示します。1番目の写真はバロック様式教会群です。2番目の写真はフィリピン・コルディリェーラの棚田群です。3番目の写真はビガン歴史都市です。ビガンは、ルソン島の北部にある港町です。16世紀後半にスペインの植民都市として、中国やメキシコとの交易で繁栄しました。ここはスペインの伝統的な都市設計と同じく碁盤の目のようになっていて、2つの広場や大司教の宮殿、市庁舎、議事堂なども配置され、合計で233の歴史的建造物が残り、現在もスペインの植民地時代の名残が見られます。ビガンは太平洋戦争中に一度、崩壊の危機を迎えたことがあります。当時、この街に日本軍が籠城したことでアメリカ軍によって破壊される寸前でしたが、日本軍の中には現地...「フィリピンの世界遺産」
今日は以前ドイツに住んでいた頃に訪問した美しいバンベルクの町をご紹介致します。1000年以上古い町です。その町バンベルクはレグニッツ川の中洲にあります。古都です。神聖ローマ皇帝のハインリヒ2世が1007年に司教座を置いてキリスト教の町として発展しました。石畳の路地に軒を連ねる家々が中世の町並みのままです。第二次世界大戦の戦禍を免れたバンベルク旧市街は1993年に世界遺産に登録されました。写真をご紹介致します。1番目の写真はンベルクの司教は市庁舎です。レグニッツ川の中州に建っています。2番目の写真はレグニッツ川の中洲の庶民の街インゼルシュタットです。3番目の写真も川の中洲の庶民の街インゼルシュタットです。4番目の写真はバンベルクの町です。人口8万人ほどの小さい町で中世の趣が感じられる古い町です。2度の世界大...「美しい世界遺産のバンベルクの町」
縄文時代は日本人が好きな時代のようです。試しに「縄文まつり」を検索すると、全国のあちこちでOO縄文まつりの情報が沢山出てきます。縄文人は日本人の祖先です。弥生時代や古墳時代にアジア各地から移住して来た人々と混血して日本人になりました。一方、北海道の縄文人は擦文土器時代を経てアイヌ文化を作ったのです。ですから縄文時代に限ってみると北海道と北東北は共通の縄文文化が栄えたのです。勿論、縄文土器は八ヶ岳山麓を含めて全国から出土しますが、北海道と北東北は間違いなく縄文文化の栄えた一つの地域でした。そんな理由から、北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群が、ユネスコの世界文化遺産になっているのです。北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群は北海道・青森県・岩手県・秋田県の1道3県に点在しています。構成資産一覧を示します。北海...「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群は世界遺産」
昆明湖の北岸に沿って伸びる長い長い回廊が懐かしいです。1980年に家内と歩きました。「長廊」は長さ728メートルの道です。その梁には、花鳥画、風景画、歴史画など14000枚もの絵が描かれているのです。写真の出典は、https://www.travel.co.jp/guide/article/9771/です。「それにしても懐かしい世界遺産の頤和園の長い廊下」
中国は57の世界遺産があり世界の第二位です。その幾つかの写真を示します。出典は、https://www.travel.co.jp/guide/matome/1599/です。1番目の写真は中国の湖南省に位置する世界遺産「武陵源(ぶりょうげん)」です。2番目の写真は4世紀から約1000年に渡り造られた石窟が集まる仏教遺跡「莫高窟」です。3番目の写真は田んぼのど真ん中にある世界遺産「開平の望楼群と村落」です。4番目の写真は明と清の時代に歴代皇帝が五穀豊穣を願って祭祀を行った祈りの場所「天壇」です。5番目の写真は清朝第6代皇帝の乾隆帝が、母親の還暦を祝って造営した北京最大の皇族庭園「頤和園」です。「中国の世界遺産の写真」
日本にある世界遺産は全部25です。それに対してイタリーには世界最多の58もあります。中国は57で世界の第二位です。今日は日本とイタリーの世界遺産をご紹介したとおもいます。まず日本の世界遺産一覧をご紹介致します。1法隆寺地域の仏教建造物奈良県平成5年文化2姫路城兵庫県平成5年文化3屋久島鹿児島県平成5年自然4白神山地青森県・秋田県平成5年自然5古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市)京都府・滋賀県平成6年文化6白川郷・五箇山の合掌造り集落岐阜県・富山県平成7年文化7原爆ドーム広島県平成8年文化8厳島神社広島県平成8年文化9古都奈良の文化財奈良県平成10年文化10日光の社寺栃木県平成11年文化11琉球王国のグスク及び関連遺産群沖縄県平成12年文化12紀伊山地の霊場と参詣道三重県・奈良県・和歌山県平成16年文...「日本にある世界遺産とイタリーの世界遺産」
今日は武蔵野公園まで行って来ました。真夏のように暑い日でした。「今日の散歩」
今日はグナチオ教会のミサにインターンットを通してあずかりました。イグナチオ教会の今日のミサの風景の写真をお送り致します。「東京のイグナチオ教会の今日のミサの風景」
大浦天主堂は、幕末の開国にともなって造成された長崎居留地に、在留外国人のために建設された中世ヨーロッパ建築を代表するゴシック調の教会で、現存するものでは国内最古となります。聖堂内を飾るステンドグラスの中には、約100年前のものもあります。また、建立直前の1862年に聖人に列せられた日本二十六聖人に捧げられた教会であり、天主堂の正面は殉教の地である西坂に向けて建てられています。設計指導者はフランス人宣教師のフューレとプティジャンの両神父で、施工は天草の小山秀之進(のちに、「秀(ひいで)と改名」)です。1864年末に竣工し、翌年2月に祝別されました。「国宝の大浦天主堂の写真」
6月16日https://www.youtube.com/live/acVQoM00Tcc【本日の聖書朗読箇所】第1朗読エゼキエルの預言(エゼキエル17:22-24)第2朗読使徒パウロのコリントの教会への手紙(2コリント5:6-10)福音朗読マルコによる福音(マルコ4:26-34)カトリック麹町聖イグナチオ教会https://www.ignatius.gr.jp/index_j.html「東京のイグナチオ教会の今日のミサの動画配信」
何故かこんな風景が美しく見えます。写真はインターネットからお借りしました。「托鉢僧の写真です」
平成29年3月10日、国の文化審議会が文部科学大臣の諮問に対し、深大寺の銅造釈迦如来倚像(飛鳥時代)を国宝に指定することを答申しました。深大寺釈迦如来倚像は博物館や美術館を除いて、関東の寺院所蔵の国宝仏では、鎌倉大仏に次ぐ二例目、制作年数は鎌倉大仏より約500年古く、東日本最古の国宝仏となります。深大寺開創の天保5年(733)より前に文化の中心であった畿内地域において、作られたと考えられます。白鳳時代(飛鳥後期645-710)同時期の傑作である奈良県新薬師寺薬師如来立像(香薬師)、奈良県法隆寺観音菩薩立像(夢違観音)と深大寺釈迦如来倚像は銅の成分が極めて近似するなど共通する部分が多く認められ、同一の工房又は同系統の工人によって作られたと考えられます。「深大寺の銅造、釈迦如来倚像(飛鳥時代)は国宝」
今日は少し有名な深大寺をご紹介します。国宝の飛鳥時代の銅造釈迦如来像(白鳳仏)もあります。深大寺は733年に創建され、浅草寺と並んで東京では最も古いお寺の一つです。天台宗別格本山の寺です。武蔵国の国分寺は760年代始め頃に完成していますので、それより20年も古いお寺です。以前に撮った門前の店と山門などの写真をお送りします。1番目の写真は山門の左にある店です。門前には名物の「深大寺ソバ」の蕎麦屋や土産物屋が沢山並んでいます。深大寺ソバは家内と何度も食べました。この土産物屋だけ特に示した理由は店の右に坂道があり、そこを登ると神代植物公園の東口があるからです。2番目の写真は深大寺の山門です。3番目の写真は本堂です。阿弥陀如来が本尊の本堂です。4番目の写真は本堂の左にある元三大師堂です。天台座主、元三慈恵大師の像...「東京で最古の寺、深大寺の写真」
私は1936年に仙台で生まれ24歳まで仙台に住んでいました。その間に何度も蔵王山に登りました。蔵王山は故郷の山なのです。その蔵王山に咲く花をインターネットで調べ幾つかみつけました。その写真をお送り致します。写真の出典は、https://www.yamakei-online.com/yama-ya/detail.php?id=1493です。1番目の写真はハクサンイチゲです。2番目の写真はシラネアオイです。3番目の写真はユキワリコザクラです。4番目の写真はミヤマオダマキです。「我が故郷、懐かしい蔵王山に咲く花の写真をお楽しみ下さい」
松島は故郷の仙台から仙石線の電車で1時間くらいです。仙台に住んでいた頃はよく行った曾遊の地です。そこで四季折々の美しい松島の写真をお送り致します。写真は、「松島の景色の写真」を検索して、出て来た多くの写真から美しいものを選びました。お楽しみ頂けたら嬉しく思います。1番目の写真は松島湾を一望出来る大仰寺の庭からの眺めです。大仰寺は標高116メートルの山頂にあります。山を背に東、南、西の三方向が開けていて、島々が湾内に連なる様子が見えます。2番目の写真は松島湾の東側、宮戸島の大高森の山頂からの風景です。何度も登った山頂です。松島湾の向こうには遠く奥羽山脈の山々も望めます。3番目の写真は寒い冬が終わり桜が満開になっている松島の夕暮れ風景です。「西行戻しの松公園」という公園からの風景です。写真は、https://...「我が故郷、松島の四季折々の写真をお楽しみ下さい」
今日の散歩は小金井公園まででした.今日は曇りですが乾燥した軽やかな風が吹いていました。気分爽快に小金井公園まで行って来ました。「今日の散歩は小金井公園まで」
郷愁を誘う昔の町の面影をお送り致します。郷愁を誘う昔の町の写真が沢山掲載されているブログを見つけました。https://4travel.jp/travelogue/11815459です。そこから4枚の写真をお借りして示します。「郷愁を誘う昔の町の面影」
安曇野の奥、木崎湖や青木湖のさらに奥の白馬東急ホテルに泊ったことがありました。そのホテルはスイスの山岳ホテルのような三角屋根の木造でした。部屋は屋根裏部屋の感じのような内装で、小さな縦型の窓がついていました。バルコニーの椅子に座って眺めると、芝生に覆われた広い庭の向こうは森になっています。ヨーロッパの古いホテルの雰囲気でした。写真をお送り致します。1番目の写真は白馬東急ホテルの玄関です。写真はインターネットからお借りしました。2番目の写真は私どもが泊まった部屋と同じような部屋の写真です。写真はインターネットからお借りしました。ここのホテルを出て、暗い森の中を歩き、崖の道を下るとゴンドラの駅があり八方池まで登れたのです。そ八方池まで登る道からは、八方尾根の向うに広がる白馬鑓ケ岳、杓子岳、白馬岳、小蓮華岳など...「安曇野の奥の白馬東急ホテルの寫眞」
大糸線の大町駅から白馬駅の間に車窓から3つの湖が見えます。その周囲には何も無い静かな湖沼群で標高が一番高い西端の青木湖から中綱湖、そして木崎湖と農具川でつながっていて、木崎湖から流れ出ているのも農具川といい、それは高瀬川に合流し、信濃川になります。この仁科三湖は透明度の高い水で、遥か遠方には残雪の白馬連山が横たわっています。そんな美しい水をたたえた風景写真をお楽しみ下さい。大糸線の車窓から撮った写真です。そして下の写真はこの仁科三湖と北アルプスの山々ととの位置関係を示しています。この写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E6%B9%96です。「安曇野の仁科三湖、木崎湖、中綱湖、青木湖の寫眞」
思い出ばかり書いているのは老人の悪い傾向です。と知りながら今日も書きます。安曇野の風景と大きな水車の思い出です。思い出すたびにすがすがしい気分になります。元気が出ます。そして老境を格調高く生きることが出来るのです。1番目の写真は残雪が輝く北アルプス連峰です。写真の出典は、https://www.kabegamikan.com/p/i.php?url=www.kabegamikan.com%2Fimg%2Fna14%2F169619.jpgです。2番目の写真は北アルプスの麓に広がる水田の風景です。写真はインターンットからお借りしました。続いて自分が2017年6月に撮った安曇野の清流と水車の写真をお送りいたします。3番目の写真は訪れた安曇野の山葵園の脇にある美しい流れの光景です。川底の藻がゆらゆら揺れていて、...「安曇野の風景と大きな水車の思い出」
武蔵野公園までの道すがら撮った写真です。順に真蔵院、小金井市立美術館、昔風の農家の写真です。「今日の散歩道の風景」
初夏の陽に輝く草原の風景です。今日は初夏の碧い空が広がっています。先程、その写真を撮って来ました。「初夏の陽に輝く草原の風景」
牡丹は花びらを何枚も重ね大輪の花を咲かせます。牡丹の花言葉は「王者の風格」「富貴」「恥じらい」です。原産国の中国では、観賞用の花として牡丹が大人気です。唐代の詩人・白居易は牡丹の人気を「街中の人が狂ったようだ」と記しています。その大きく鮮やかな花姿から、牡丹は「花王」「花神」とも呼ばれ、中国でもっとも格式の高い花とされました。その牡丹の花の写真をお送り致します。写真の出典は、https://news.biglobe.ne.jp/trend/0222/mwk_230222_4045486843.htmlです。「中国人が大好きな牡丹の花」
皆様ご存知のように中国は共産党独裁の国です。ですから民主主義の日本の仮想敵国でしょうか?しかし私はその中国の数人の人と親しく付き合っていました。今日は中国の周恩来、鄧小平、胡耀邦、温家宝などの思い出を書いてみたいと思います。私は1981年に北京と瀋陽に行きました。私を紫禁城(故宮)、頤和園、明の13陵、万里の長城、天壇、北京原人の周口店、瀋陽の清朝の発祥の宮殿、そして文化大革命で荒らされたキリスト教の教会(天主堂)などなどに行きました。西安の大雁塔や玄奘法師の墓のある慈恩寺も行ました。1番目の写真は紫禁城、故宮です。この故宮は多くの日本人も観覧していますので説明は省略します。そして頤和園のいかにも離宮らしいロマンチックな雰囲気に圧倒されました。湖も山上の楼閣も素晴らしいのですが、特に美しい左右の風景を見な...「周恩来、鄧小平、胡耀邦、温家宝などの思い出」
昔の武蔵野にあった農家はそれぞれ屋敷森に囲まれていました。そんな屋敷森に囲れている家が現在の小金井市に数軒あります。今日は北はずれにある屋敷森の写真を撮ってきました。家は森に隠れて写真には写っていません。「昔の武蔵野の屋敷森の写真を撮って来た」
ある時代に繫栄していたが現在はすっかり忘れられている町が沢山あります。時代の変化についていけず寂れてしまうのです。私はそんな町を訪れて繁栄していた頃の様子を偲ぶのが好きです。現在住んでいる人の静かな息づかいが感じられ、しみじみと旅愁を憶えます。そんな町の一例に北海道の松前藩の松前町があります。北海道の南端にあります。以前に独りで旅をした曾遊の地です。今日はこの松前藩の歴史と独り旅の思い出を書いてみたいと思います。松前藩は徳川幕府に正式に認められた北海道唯一の藩でした。慶長九年(1604年)に徳川家康から安堵状が与えられ、蝦夷地の領地権、蝦夷地の交易の独占権を得ます。こうして日本最北の藩、松前藩が成立しました。(town.matsumae.hokkaido.jp)しかし領内に米の生産がないので、幕府の『武鑑...「北海道の魅力(2)松前藩の盛衰と現在の寂しい町の風景」
「北海道の魅力(1)洞爺湖、昭和新山、ザ・ウインザー・ホテル」
北海道は魅力溢れる旅先です。特に夏の北海道は暑くなく旅行が快適です。私も何度も旅を楽しみました。北海道には美しい湖や原野が広がっています。今日は美しい洞爺湖と隣接する新しい昭和新山をご紹介します。そして洞爺湖を見下ろすザ・ウインザー・ホテル洞爺をご紹介します。この地は千歳空港から近いので何度も訪れました。さて洞爺湖ですが、この湖は北海道の虻田郡の洞爺湖町にあります。周辺は支笏洞爺国立公園に指定されています。また、「日本百景」や「美しい日本の歩きたくなるみち500選」にも選ばれている美しい湖です。1番目の写真は洞爺湖の全景です。湖の中心に島のある大きなカルデラ湖です。2番目の写真は湖の中心の中島の近景です。島にはエゾシカが棲んでいます。洞爺湖には在来種のアメマス、ウグイ、ヨシノボリ、ハナカジカ等が棲んでいま...「北海道の魅力(1)洞爺湖、昭和新山、ザ・ウインザー・ホテル」
近所の道沿いに咲いているムクゲの花です。道沿いに沢山咲いています。素晴らしい7眺めです。「近所の道沿いに咲いているムクゲの花」
狭い庭にも花々が今年も綺麗に咲きました。家内が世話をしている花々です。「庭に綺麗に咲いた花々」
カトリック松原教会の今日のミサの動画配信は、https://www.youtube.com/watch?v=NQfCUMTgGW8にあります。「カトリック松原教会の今日のミサの動画配信」
今日は広島の教会も東京の教会も動画配信が遅れましたので、先週のイグナチオ教会のミサにあずかりました。その風景の写真をお送り致します。「今日はイグナチオ教会のミサにあずかりました」
旅に出ると時々教会に寄ります。その地方の人々の気持ちが分かるようで楽しいのです。今日は懐かしいカトリック韮崎教会の思い出を書いてみたいと思います。2012年のことでした。山梨県の甲斐駒の麓の小屋へ行く途中にあるカトリク韮崎教会の思い出です。その教会の庭で神父さんらしい若い人が花壇の手入れをしていました。ちょっとお祈りさせて下さいと挨拶をしました。どうぞ、どうぞ。何処からいらっしゃいましたか?東京です。旅先では時々教会による習慣があるものですから。どうぞごゆっくり。下に御堂の中の写真と、信者さん達の集合写真を示します。1番目の写真はカトリック韮崎教会の内部です。中は立派な教会です。机の下のお祈りの冊子を手にとって、主の祈りを唱えました。ついでに信仰宣言も。2番目の写真は窓と窓の間にはイエス様の道行きの彫刻が...「懐かしいカトリック韮崎教会の思い出」
広島のカトリック幟町教会の今日のミの動画配信です。6月9日広島のカトリック幟町教会の今日のミの動画配信です。https://www.youtube.com/watch?v=zSTtJ21fqp4第広島のカトリック幟町教会の住所、広島市中区幟町4番42号原爆犠牲者を追悼し、世界平和の実現を祈念する教会堂です。「広島のカトリック幟町教会の今日のミの動画配信」
我が散歩道は野川沿いの道です。その先に武蔵野公園があるのです。先程撮った写真をお送り致します。「我が散歩道に咲く花々の写真」
武蔵野の面影を保全した都立武蔵野公園で写真を撮って来ました。気分が爽快になりました。「広々とした武蔵野の風景を撮りに行く」
昭和18年10月の神宮外苑での学徒出陣の写真を見る度に涙が出てきます。当時はまだ幼かったので、その映像は戦後の映画やテレビで見ました。何度も見て心に焼き付いてしまったのです。暗い秋雨の降る日です。関東地方の旧制専門学校と大学の文化系の学生が卒業を繰り上げて、死を覚悟で出征するのです。25000人の学生が三八式小銃をかついで行進をします。女子学生を前列に5万人の観衆が学生の出征を送ります。壇上には東条英機首相が前の行進を暗い顔で見降ろしています。行進した25000人の学生のうち何人が無事故郷へ帰ることが出来たのでしょう。1番目の写真は昭和18年10月の神宮外苑での学徒出陣の壮行会です。手前の壇上に立っているのが東条英機首相です。敗戦後、東条英機首相はアメリカによって絞首刑にされました。2番目の写真は出陣する...「夏が来ると思い出す戦争(4)学徒出陣の悲劇」
100年に一度だけ咲くアガベ・ベネズエラの花の写真です。写真の出典は、https://blog.goo.ne.jp/.../f0ef4569be3ef2dd95fe7828385c9e49です。「100年に一度だけ咲くアガベ・ベネズエラの花」
小金井市は北半分がちょっとした高台で南半分が坂下で野川が流れています。今日の散歩は坂を下り野川まで行って来ました。いつもは行かないコースでした。「今日の散歩、坂下の野川まで行って来ました」
戦争というものの無駄と悲劇の大きさを客観的に深く理解するためには敵、味方、双方の立場に立って考えなければなりません。満州事変と満州建国、敗戦、シベリア抑留、引揚にまつわる悲劇を中国と日本の双方の立場にたって考えて見ようと思います。今日は中国人の立場に立ったら満州事変や満州建国をどのように見えるかを書いてみます。勿論、私は日本人ですから、完全に中国人の立場になることは不可能です。しかしその立場になったらどう感じるか想像は出来ます。1931年(昭和6年)満州の瀋陽市郊外で関東軍が起こした鉄道爆破事件、すなわち柳条湖(溝)事件が満州事変の発端になりました。関東軍は短期間で満州全土を占領します。しかし一般には1933年の停戦条約までを満州事変としています。この柳条湖事件を中国人は九一八事変と呼んで学校の教科書で現...「夏が来ると思い出す戦争(3)満州での中国人の悲劇」
フィリピンではキリスト教が全体の90パーセント以上です。そのうちカトリックが約80%、10%がプロテスタントを占めています。そんな国はアジアでは唯一です。フィリピンには、スペイン植民地時代に建てられたカトリック教会や大聖堂などが点在しています。それではフィリピンのカトリック教会の写真をお送り致します。1番目の写真はサンタマリア教会です。1993年に「バロック様式教会群」のひとつとして世界遺産に登録されました。教会全体を包む巨大な赤レンガが印象的で厳かな雰囲気です。2番目の写真はサントニーニョ教会です。1565年にスペインの植民者レガスピとウルダネタによって建てられたフィリピン最古の教会です。3番目の写真はサンアウグスチン教会の内部です。マニラで唯一の世界遺産に登録されている歴史的建造物です。1599~16...「フィリピンのカトリック教会の写真」
いろいろな国の人々の考え方を理解するためにはその国の宗教事情を知ることは欠かせません。それは重要な事です。今日はフィリピンの宗教事情をご紹介したいと思います。フィリピンは16世紀から1900年頃までスペインの植民地でした。その後はアメリカの植民地でした。本当に独立国になったのは第二次大戦後です。フィリピンの宗教を決定したのは長らく植民地にしていたスペインでした。フィリピンは東南アジアでは珍しくキリスト教の国です。キリスト教はスペイン植民地時代にカトリックが普及したのです。今でも人々のほとんどが、ローマ・カトリックの信者です。キリスト教信徒はフィリピンの全人口の90%以上を占めています。2000年の国勢調査では、カトリックが82.9%、福音派2.8%、その他で実質上カトリック国です。その国勢調査でのキリスト...「カトリック国のフィリピンの宗教事情と風景写真」
樹々がひそやかに息をしているような風景の写真を撮って来ました。都立小金井公園です。「武蔵野で樹々がひそやかに息をしている風景」
1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃と同時にマレー沖でイギリスのプリンス・オブ・ウェールズも日本空軍の攻撃で沈没しました。12月10日でした。帆足正音予備少尉が指揮する九六陸攻(元山空、索敵)がイギリスのZ部隊を発見して通報した。同機の誘導により、まず美幌空の九六式陸攻8機が水平爆撃を敢行し、レパルスに爆弾1発が命中して小破した。続いて元山空の九六式陸攻の雷撃がはじまる。第2波空襲開始早々、プリンス・オブ・ウェールズに魚雷2本が命中したのです。ウェールズでは13時15分に総員退去が命じられ、13時20分に転覆、沈没したのです。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E6%B2%96%E6%B5%B7%E6%...「開戦早々にイギリスのプリンス・オブ・ウェールズも沈没」
人間の心に悪魔が住みつくと戦争を始めます。戦争は悪魔の仕業です。狂気の沙汰です。1941年12月8日の日本軍による真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争も狂気の沙汰です。1番目の写真は1941年12月8日の真珠湾攻撃で炎上するアメリカの太平洋艦隊です。2番目の写真は1945年1月1日、リンガエン湾に向けて航行中にスールー海で神風特攻隊旭日隊の特攻を受け炎上する護衛空母オマニー・ベイです。この後に沈没しました。3番目の写真は1945年6月10日、特攻機が至近弾となって大きく傾いた駆逐艦ウィリアム・D・ポーター(en:USSWilliamD.Porter(DD-579))です。復旧作業も実らずこの後に横転し沈没しました。4番目の写真は1944年10月30日神風特攻隊葉桜隊の零戦1機の特攻を受け艦載機が次々と炎上してい...「真珠湾攻撃とその他燃えるアメリカ艦艇の写真」
アメリカのB29と東京の焼野原の写真です。B-29の日本軍にによる損失数は資料によって異なり、日本の戦後の統計では損失合計714機[です。延べ数での出撃した全数は33,000機でした。「アメリカのB29と東京の焼野原の写真」
戦前の昭和11年に生まれた私は毎年、夏が来ると太平洋戦争のことをいろいろと思い出します。太平洋戦争は日本民族の歴史において空前絶後の大事件でした。日本人が310万人死に、中国人は1000万人、アメリカ人も40万人も死んだのです。朝鮮の人は軍人が22万人、一般人が2万人死亡しました。台湾人は軍人が18万人、一般人が3万人死亡しました。今日は日本の200の都市が焦土になった写真を示します。そしてB29の搭乗員として何度も空襲に来たアメリカ空軍の大佐と戦後に親友になった話を書きます。戦争の虚しさと不条理を考えさせます。あれから79年経過しましたが戦争の悲劇の大きさにますます心が痛みます。米国空軍のB29爆撃機による無差別絨毯爆撃はすさまじいものでした。1945年7月10日、仙台市はB29による焼夷弾攻撃で一夜に...「夏が来ると思い出す戦争(1)焦土の日本とB29の搭乗員」
初夏の花5種の写真をぉ送り致します。お楽しみ下さい。写真の出典は、https://greensnap.jp/article/7824です。1番目の写真はガクアジサイ(額紫陽花)です。アジサイ科アジサイ属のガクアジサイ。その名の通りアジサイの仲間ですが、アジサイ(ハイドランジア)やアナベルとは異なり、特徴的な花を咲かせます。2番目の写真はダリアです。白、黄、オレンジ、赤、ピンク、紫、複色など色とりどりの花が魅力のダリア。品種により、大・中・小と花の大きさも様々です。3番目の写真は,トケイソウ(時計草)です。時計の文字盤に似た花が特徴的なトケイソウ。白、黄、赤、ピンク、紫色の花を咲かせる熱帯植物です。4番目の写真はアスターです。お盆の頃に開花し、夏の花のイメージが強いアスター。素朴な花姿と白、赤、ピンク、青、...「初夏の花5種の写真をお楽しみ下さい」
青空に誘われて武蔵野公園まで散歩して来ました。今日は暑いくらいの初夏の天気です。写真の出典は、https://kids.rurubu.jp/article/72700/です。「青空に誘われて武蔵野公園まで散歩して来ました」
「友人たちが先に旅立つ、仙台の愛宕中学校の亡くなった友人たち」
2012年10月に仙台市愛宕中学校の第二回生の同窓会が秋保温泉でありました。私は卒業以来61年目に初めて仙台の同窓会に出席しました。若くして仙台を出てアメリカへ留学した私はそれ以来61年間仙台の中学校の同窓会へは不義理を重ねてきました。今回をもって最後にしますという案内状に誘われて出席しました。61年目に再会した懐かしい友人が皆笑顔で迎えてくれたのです。その折に幹事が配った名簿に物故者の名簿がありました。その中に一緒に遊んだ友だちが数人もいたのです。亡くなったことも知らなかった私をお許し下さい。内海範夫君。君は長身で知的な少年でした。今回の大津波で流された宮城県の名取市の閖上港町から汽車通学していたので心配していました。同窓会に出ていた友人に君の事を聞きました。石巻日赤病院に医者として定年まで勤めていたそ...「友人たちが先に旅立つ、仙台の愛宕中学校の亡くなった友人たち」
十年位以前に仙台の中学校の同期会がありました。卒業後62年目の会でした。同期生300余人のうち、すでに70名以上の人が旅立っていました。新幹線で仙台駅におりたった私は大町を通り抜けて、一番丁で右折し、三越のそばの会場まで歩いて行きました。昔のことを思い出しながらゆっくり歩いていきました。仙台での一番の繁華街なので昔あった店を探しながら行ったのです。しかし存続していたのはたった2軒です。メガネの相沢と井ケ田茶店だけです。あとは見知らぬ店々がえんえんと続いているのです。そしてメガネの相沢に店員として働いていた水元君のことを思い出したのです。水元君は南米へ移民してしまった友人でした。水元君は評定河原橋のそばに母一人、子一人で住んで居た色白のやさしい子供でした。生活が苦しいので南米に移民するという夢を何度も話して...「友人たちが先に旅立つ、今は亡き萩生田君などのの思い出」
村木良彦君の思い出を書きたいと思います。彼とは中学と高校が一緒でした。仙台の愛宕中学校と仙台一高で同級でした。寡黙で色の白い少年でした。一緒に演劇部に入っていました。村木君は演技力があり舞台ではしばしば主役を務めていました。高校の頃は東8番丁にあった彼の家に何度か遊びに行きました。母親が病で床についていると彼が淋しそうに言います。父は裁判官でした。親しくしていましたが仙台から去ってしまいました。東京大学の文学部に行ってしまったのです。大学生の頃東京で会いました。大井町駅の前の店でトンカツをご馳走してくれたのです。大学を卒業すると彼は赤坂のTBS社に入社します。また会って赤坂で一緒に何度か飲みました。その後はお互いに仕事が忙しくて会っていません。しばらくすると村木君はTBS社のデレクターとして活躍していまし...「友人たちが先に旅立つ、今は亡き村木良彦君の思い出」
老境になると昔の友人たちが3人、4人と旅立つて行きます。老いればそれが自然です。私も達観の境地というものが少し見えてきたような気がします。何事も自然の摂理のままに日々が流れてゆくのです。しかし時々は亡くなった友人たちのことを思い出します。そこで今日は不運にも富士山で遭難死をしたOT君の思い出を書いてみたと思います。高校時代から親友だったOT君が富士山で行方不明になったという報らせがありました。2018年のことでした。彼はその年の9月2日の午前4時半に山行きの服装で家を出発したそうです。そして富士山8合目の山小屋に記帳しています。その後、行方不明になったのです。遺体は6年経過した現在でも発見されていません。優しい性格で寡黙な人でした。OT君とは大学の同じ金属工学科を1958年に卒業しました。そして彼は当時の...「友人たちが先に旅立つ、そして初島への航海の思い出」
どういう訳か私は墓地が好きです。静かです。空気がさわやかです。今日の散歩は都立多磨墓地へ行って来ました。以前によく行った都立多磨墓地の無縁仏の墓まで散歩して来ました。多磨墓地には、東京都内で亡くなった無縁仏のお墓が年代順に並んでいます。1番目の写真は東京都内で亡くなった無縁仏のお墓です。亡くなった年代順に写真の右の方へ並んでいます。2番目の写真も無縁仏のお墓です。3番目の写真も東京都内で亡くなった無縁仏のお墓です。4番目の写真も無縁仏のお墓です。この墓には「倶会一処」と書いてあります。倶会一処とは、阿弥陀仏の極楽浄土に往生したものは、浄土の仏や菩薩たちと一緒に出会うことが出来るという意味です。お釈迦様の慈悲は全ての人々へ分け隔てなくふり注ぎます。宗教の原点は死者へ対するわけ隔て無い尊敬です。釈迦の慈悲です...「今日の散歩、都立多磨墓地へ行く」
今日の散歩は府中市にある多磨墓地の無縁仏の墓まででした。写真はその無縁仏の墓です。東京都内で亡くなった無縁仏のお墓が年代順に写真の右の方へ並んでいます。多摩寺と慈光寺の代々の住職さんが春秋のお彼岸に卒塔婆を供え、読経をしてくれます。亡くなれば人は皆一緒に安らかに眠るという意味の「倶会一所」(くえいっしょ)と彫り込んであります。今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人「今日の散歩は多摩墓地の無縁仏の墓まで」
ヨットの中でローソクの灯火をつけ、クラシック音楽を聴くと一段と感動します。以前ヨットに乗ってた頃はヨットの中でよくクラシック音楽を聴いたものです。もうヨットも止めましたが懐かしく思い出します。このヨットには音質の良いステレオ装置がついていたのでです。懐かしいです。撮影日時:2010年10月7日夜、撮影場所:茨城県土浦港に係留しているヨットの中、(終わり)「ヨットの中でローソクの灯をつけ、クラシック音楽を聴く」
昔は元気だったので、NHKホールなどの都心にあるホールへクラシックの音楽を聴きに行っていました。老年になり、都心まで夜、出掛けるのが億劫になり、そんな機会も無くなりました。ところが、世の中よくしたもので、近隣の府中市や国分寺市の音楽ホールへ一流の演奏家が出向いてくれるようになりました。ある時、家内と国分寺市の「いずみホール」でのベートーヴェンの弦楽四重奏とシューマンのピアノ五重奏を聴きに行きました。その時は他にソプラノ歌手とテノール歌手の独唱と二重唱もありました。出演者が皆働き盛りの一流の音楽家です。素晴らしい音質です。緩急自在に旋律が踊ります。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ピアノの生の音に酔います。そして人の声の美しさに吃驚します。ヨーロパの華麗な文化が舞台の上に溢れるように再現されています。ああ、や...「華麗なヨーロッパ文化の溢れるクラシック音楽」
「貧しい家でトッカータとフーガをフルートで吹く少年の思い出」
あれは昭和28年のことでした。まだ焼け跡があちこちに残る仙台の貧しい野田君の家でバッハのトッカータとフーガを聞いたのです。友人の野田君がフルートで吹いたのです。美しい銀色のフルートの音が貧しい家に響きました。野田君も私も仙台一高の2年生でした。それが私がクラシック音楽をじかに聞く初めてのことでした。演奏を終えた野田君が曲目は「トッカータとフーガ」だと一言だけ言ったのです。彼は寡黙な少年でした。父が戦死して母と2人だけで暮らしていました。トッカータとフーガに魅了された私はクラシック音楽が好きになりました。それ以来仙台公会堂でのクラシック音楽の演奏会にしばしば行くようになります。仙台一高を卒業する頃に偶然野田君に会いました。これから中小企業で働くと言います。でもフルートを時々吹いて頑張ると言います。野田君に会...「貧しい家でトッカータとフーガをフルートで吹く少年の思い出」
小雨の中を武蔵野公園まで行って来ました。午後の散歩として小雨の中を武蔵野公園まで行って来ました。写真の出典は、https://www.bbqjp.com/portfolio/musasinokoen/です。「小雨の中を武蔵野公園まで行って来た」
今日は小雨です。しかし庭の花々は鮮やかに咲いています。そんな写真です。「小雨の庭の花々の写真」
韓国の人口は5千107万人で、22.8%が仏教徒で18.3%がプロテスタント教徒、そして11.0%がカトリック教徒で残りの人々は様々な少数派の宗教、例えば道教、儒教、そして円仏教などを信奉しています。ですからプロテスタントとカトリックを合わせたキリスト教全体では29.2%となって仏教より信者の数が多いのです。キリスト教信者数は約1376万人となります。したがって韓国はフィリピンと同じくキリスト教国なのです。しかしその一方、韓国の宗教を信じている人は人口の53.1%で無宗教は46.9%です。すなわち宗教を信じない人も日本と同じように沢山住んでいのです。さてキリスト教の朝鮮半島への伝道活動は18世紀に始まりました。カトリック教会の方がプロテスタント各派よりも早かったのです。パリ外国宣教会が宣教を担っていました...「隣の韓国はキリスト教国、そしてカトリック教会の写真」
長崎の観光名所の一つに日本26聖人像があります。今日はこの26聖人の事を書いてみようと思い写真を検索して、探していました。そうしたら鮮明な写真に素晴らしい文章のついたブログを発見しました。江島達也さんのブログ:http://hayabusa-3.dreamlog.jp/です。このブログの中から観光名所になっている、26聖人像の写真をお借りして以下に示します。(出典」は、http://hayabusa-3.dreamlog.jp/archives/51207384.htmlです)。有名な彫刻家の船越保武氏が4年余の歳月をかけて昭和37年に完成した芸術作品です。余談ながら私はカトリックなのでこの像の前に立ったり、写真をみるのが好きです。祈っているのです。・この26人は1597年2月5日、長崎の西坂で十字架には...「長崎の26聖人にまつわる話」
今日はインターンットを通じて広島のカトリック幟町教会のミサにあずかりました。今日のミサの写真をお送り致します。「広島のカトリック幟町教会の今日のミサの写真」
6月2日キリストの聖体(祭日)広島のカトリック幟町教会の今日のミの動画配信です。https://www.youtube.com/watch?v=zSTtJ21fqp4第1朗読出エジプト記24章3~8節第2朗読ヘブライ人への手紙9章11~15節福音朗読マルコによる福音書14章12~16、22~26節広島のカトリック幟町教会の住所、広島市中区幟町4番42号原爆犠牲者を追悼し、世界平和の実現を祈念する教会堂です。「広島のカトリック幟町教会の今日のミの動画配信」
何故か幸せな気分になって小金井公園をを散歩して来ました。大きな樹々の写真をお楽しみ下さい。「大きな樹々の写真を撮って幸せな気分になる」
「函館トラピスチヌ修道院」でのミサの風景をお送り致します。写真はインターネットからお借りしました。「函館トラピスチヌ修道院の風景写真」
函館トラピスチヌ修道院の写真をお送り致します。日本初の女子観想修道院として1898(明治31)年に創立された「厳律シトー会天使の聖母トラピスチヌ修道院」。函館山と中心市街地を挟んで対面する高台に、ひっそりとたたずんでいます。煉瓦の外壁、半円アーチの窓などゴシックとロマネスクの混在するデザインが印象的です。修道女らは祈り、労働、聖なる読書を日課の3本柱に共同生活を送っています。祈りは3時半の起床から、19時45分の就寝までに7回。毎年12月24日・25日の「クリスマス・ご降誕のミサ」、3月末~4月初めの「復活徹夜祭」、8月15日の終戦記念日の「平和の祈りの集い」には、一般参加者の募集があり、聖堂に招かれて臨席することができます。「函館トラピスチヌ修道」
函館の寒冷の地に戒律が厳しい自給自足の修道院を作った人がいたのです。フランスの戒律の厳しいことで有名な厳律シトー派の流れを汲むトラピスト派の数人の修道士が1896年、明治29年に津軽海峡を見降ろす丘の上に来ました。石ころの多い熊笹の原野や深い森を切り開いて乳牛の放牧場を作り、レンガ造りの建物を建設したのです。場所は函館の西、30Kmほどの所にある渡島当別駅のそばです。不便な所なので観光客の少ない深閑とした林の中に修道院本館と大きな牛舎が高い塀の中に見えます。その外は一面に牧草が生えた放牧場です。2012年の4日間に4回も訪問しました。周囲の景観が素晴らしかったのです。この修道院はローマ法王傘下のカトリック組織の一部ですが、戒律が厳しい事で有名です。修道士は一生の間、修道院敷地から出ません。早朝から夜まで、...「北海道のトラピスト修道院の自給自足」
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昔、南ドイツに住んでいたことがあります。スイスにはよく遊びに行きました。そしてアルプスの山々と花畑を眺めたmぽのです、アルプスの山々と花畑の写真をお送り致します。写真は、「スイスのアルプスの花畑の写真」を検索してインターンットからお借りしました。「スイスのアルプスの山々と花畑の写真」
蔵王山は奥羽山脈の中にあって宮城県と山形県の県境にあります。火山活動によって出来た山です。仙台で生まれ育った私は何度も蔵王山の樹氷の間でスキーをしたことがあります。当時は仙山線で山形駅に行き、そこからバスで高湯温泉(現在の蔵王温泉)に上がりました。高湯温泉からはスキーを履いてドッコ沼の山小屋に逗留するのです。ドッコ沼の上の懺悔坂から地蔵岳までが樹氷地帯なのです。地蔵からの帰りは急坂の懺悔坂は怖いので、なだらかな大平コースを下ります。夕日を浴びた茜色の樹氷の光景が今でも私の網膜に焼き付いています。あれから茫々60年以上も経ちました。毎年、懺悔坂の怖さと夕日の樹氷の姿を思い出します。今日は皆様に蔵王山の美しい樹氷の写真をお楽しみ頂きたいと思います。お送りする写真は「山形蔵王の樹氷写真集」、http://www...「我が青春の山、蔵王山の樹氷の写真」
南アルプスの主峰3つは北岳(富士山の次に高い3193M)、間ノ岳、農鳥岳(白峰三山)です。その前山は甲斐駒、地蔵、観音、薬師です。このうち離れている甲斐駒を除き、地蔵、観音、薬師を鳳凰三山と言います。学生時代、北の穂高、大キレット、槍、常念、と縦走し、南アルプスの甲斐駒、地蔵、観音、薬師に登りました。その後、仕事が忙しくなり、南アルプスの主峰連山(上写真)に登れなくなりました。年をとり体力が衰え、もう登れません。1番目の写真は地蔵、観音、薬師の鳳凰三山です。撮影場所:中央高速道路の釈迦堂サービスエイリア(下り)裏の階段より、西方角を撮る。2番目の写真は甲斐駒岳です。「南アルプスの鳳凰三山の写真」
夏になると若い頃の北アルプス縦走を思い出します。その北アルプス縦走の思い出を写真に従ってお送り致します。しかし私は当時写真機を持っていなかったので、インターネットからお借りしました。さて縦走は大糸線の穂高駅から中房温泉への登高から始まりました。そこに一泊して燕岳、大天井、西岳、槍の肩の小屋で一泊し、南岳、キレット渡り、北穂高、涸沢、横尾と歩いて上高地に降りて来ました。歩いた行程は全部で2泊3日の山歩きでした。毎日10時間ほど歩きました。写真で説明します。1番目の写真は中房温泉から1時間ほど登ると突然見える燕岳です。この地点から槍ヶ岳を遥かに見ながら縦走路を行くのです。2番目の写真は燕岳と大天井岳の間の尾根から見える槍ガ岳です。まだ遠方です。3番目の写真は大天井岳の肩を回りこみ近くなった槍ガ岳です。4番目の...「夏の北アルプス縦走の写真」
月日の流れは早いものです。私の青春は1960年代1970年代でした。今朝はその頃のことを思い出しています。谷川岳の一ノ倉沢の岩登りが若者の胸を熱くした時代でした。今日は1960年代1970年代のことを書きたいと思います。その頃は谷川岳が流行っていました。谷川岳の一ノ倉沢の岩肌を命がけで登っている人がいる一方、街には安保闘争のデモが渦巻いていました。デモは学生の情熱でした。若者が燃えていた時代でした。そんな時代の空気が懐かしいです。あの空気は二度と来ません。その頃、ある山の遭難記事を掲載しましたところその時代の空気をまざまざと思い出させるコメントを2人の方から頂きました。非常に活き活きした文章なのでそのまま転載致します。(1)すけろくさんから2018年10月06日に頂いたコメント若い頃は毎週のように谷川岳東...「懐かしい谷川岳がはやり安保闘争デモの時代」
外国の火祭りは聖ヨハネの前夜祭です。洗礼者ヨハネの誕生日とされる「聖ヨハネの日」に世界の各地でキリスト教徒が祝う火祭りです。キリスト教と関係ない各地の夏至祭と結びつき、火祭りとして祝われる例も多いようです。「外国の火祭り」
吉田の火祭りの写真と全国の火祭りの一覧表です。吉田の火祭り(鎮火祭)は北口本宮冨士浅間神社と諏訪神社の両社のお祭りで、毎年8月26日、27日に行われます。450年以上の歴史を持ち、日本3奇祭、日本10大火祭りにもなっております。全国の火祭りの一覧表オロチョンの火祭り-北海道網走市青森ねぶた-青森県青森市竿燈-秋田県秋田市松明あかし-福島県須賀川市大日向の火とぼし-群馬県南牧村愛宕社の火祭り-富山県魚津市、魚津神社滑川のネブタ流し-富山県滑川市向田の火祭り-石川県七尾市能登島、伊夜比咩神社鬼ヶ嶽火祭り-福井県越前市、大虫神社左義長まつり-福井県勝山市吉田の火祭-山梨県富士吉田市、北口本宮冨士浅間神社・諏訪神社(境内社)南部の火祭り-山梨県南巨摩郡南部町中里の火の花祭-東京都清瀬市中里、中里の富士塚秋葉の火ま...「吉田の火祭りの写真と全国の火祭りの一覧表」
北海道は空気が澄んでいるので花々が生き生きと咲いています。北海道の夏の花の写真をお送り致します。写真の出典は、https://prezo.jp/column/2837です。1番目の写真は大通公園のライラックです。2番目の写真は網走郡大空町の芝桜公園です。3番目の写真は紋別郡遠軽町丸瀬布水谷町のまるせっぷ藤園です。4番目の写真は北海道のシンボルフラワーはハマナスです。「夏の北海道の生き生きとした花の写真」
山梨の甲斐駒の麓に小さな山の家を作りました。1974年に作りました。その小屋を中心としたて上高地や軽井沢や白馬などへ旅行を楽しみました。今日は白馬山麓の白馬東急ホテルと周囲の美しい風景をご紹介いたしたいと思います。1番目の写真は白馬東急ホテルです。後ろの山々は白馬鑓ケ岳、杓子岳、白馬岳、小蓮華岳などです。2番目の写真はホテルの庭から見た客室です。3番目の写真は泊った客室の写真です。バルコニーに出て庭の向こうの山々を見ながらビールを何度も飲んだものです。家内の両親と一緒に泊ったこともありました。4番目の写真は八方尾根に上がるゴンドラです。このゴンドラの終点は標高が1400mと高く、その大きな展望台からは北に戸隠山や飯綱山まで見えます。5番目の写真はゴンドラの終点、標高1400mの展望台です。残雪に輝く白馬鑓...「白馬東急ホテルと周囲の美しい風景」
関東の山々ではとっくに散ってしまいましたが、白馬山の麓では大雪渓から下る水が冷温で、松川のそばだけ季節が遅れているようです。白馬山の麓に咲く小さな花の写真をお楽しみ下さい。・「白馬山の麓に咲く小さな花の写真」
以前によくドライブしていた頃は諏訪湖から登る白樺湖高原、車山高原、霧ケ峰高原へはよく行きました。風景が雄大で可憐な草花が咲いているのです。標高2000m位の高原の連なりには白いシシウド、ギボシ、青いツリガネニンジン、ピンクのヤナギラン、オレンジのキスゲ、オニユリ、そしてフジバカマ、アザミ、などなどの花の群れが咲いています。写真を撮っていると乾いた涼風が吹き渡り花々が揺れています。都会の暑さが嘘のようです。涼しい風をご想像されながら写真の花々をお楽しみ下さい。今日は2008年8月に撮影した写真をお送りいたします。それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)「夏の白樺湖高原、車山高原、霧ケ峰高原の草花の群れ」
旧友の馬場駿さんから『岩礁』33号が送られてきました。詩や小説などの文芸作品がぎっしり詰まっています。数編読みました。完成度の高い作品です。馬場駿さんとは甲斐駒岳の麓の山林の中で知り合いました。情熱的な文学青年でした。その後『岩礁』を創刊し33号まで続けてきたのです。立派な人生です。文学のお好きな方へお勧めします。購入申し込みは;電話とFax共通で、0558-76-5582へ。会員は主に伊東市なので挿絵代わりの写真は伊東マリーナの風景写真をお送りいたします。「総合文芸誌、『岩礁』33号のご紹介」
小金井市にも夏祭りがあります。多くの家族連れがワイワイ楽しそうにしています。そして全国のは各地に賑やかな夏祭りがあります。末尾に全国のお祭りの8月の一覧表を示します。ご覧下さい。全国の8月の表ですから非常に数多くあります。私はその数の多さに吃驚しました。小金井市のような小さな納涼祭りはこの一覧表には入っていません。従って小さな夏祭りの数まで含めると全国には数百の夏祭りがあるのではないでしょうか?この数の多さは日本だけかも知れません。私は祭りに関しては素人ですが、欧米の祭りはそんなに数多くは無いように思っています。狭い経験ですが自分が住んだオハイオ州ではStateFair(州の農産物市場)という大規模なイベントが年に一回あり、それには数多くの出店や見世物小屋が並んで日本の夏祭りのようです。そして南ドイツでは...「全国の夏祭り一覧表と日本の祭り文化」
夏祭りの印象深い一つの例を示します。能登半島の津々浦々のキリコ祭りです。ご紹介致します。キリコ祭りは能登地方の住民にとって最も重要な祭りです。能登地方で生まれて東京や大阪などに出て行っている人たちが、自分の町でキリコ祭りがある時には戻ってきて、祭りに参加するのです。祖父母に孫たちを会わせ家族全員でキリコ祭りを楽しむのです。キリコは巨大な灯籠のことです。背が高い直方体で、前面中央部には漢字3文字で表した「キリコ吉祥文字」と呼ばれる地区ごとの願いや祈りを込めた文字が書かれています。写真に七尾市で行われる石崎奉燈祭(キリコ祭り)の様子を示します。写真は「七尾市、石崎奉燈祭の写真」を検索して鮮明な写真を選んで転載させて頂きました。若い人でも賢い人は祭りを大切にしています。重要だと思っています。老境に至って全国の地...「夏の風物詩、能登地方のキリコ祭り」
盆踊りの季節になりました。いろいろな盆踊りを思い出します。故郷の仙台の盆踊りや旅先の盆踊りを懐かしく思い出します。特に印象が深かったのは「郡上八幡の盆踊り」でした。今日は郡上市の盆踊りをご紹介いたいと思います。岐阜県の郡上市の「郡上八幡の盆踊り」を見ったのは15年ほど前でした。人がいっぱい楽し気に踊っている光景に圧倒されました。郡上の市役所の女性が駒下駄をカラカラと響かせて踊っています。観光客も加わって踊っています。賑やかで楽しい盆踊りです。木曽の谷間に盆踊りの唄が木霊しています。その上、踊りの振り付けが洒脱で軽妙です。曲も楽しいのです。例えば「春駒」という踊りはいかにも可憐で躍動感に満ちて居ます。ほかにも「ヤッチク」「げんげんばらばら」など歌詞も曲も面白いものです。郡上八幡に住んでいる人々の創意工夫が溢...「懐かしい郡上八幡の盆踊り」
中国の瀋陽訪問の直後の1981年に、東北工学院の金応培先生を東京の私の研究室へ招んだのです。一年間の研究留学です。金応培先生は中国東北地方に散在している朝鮮族自治区の出身の朝鮮族でした。日本の朝鮮併合のあと、彼の両親が朝鮮を脱出し中国の東北地区へ移住したのです。新しい農村に少し落ち着いたら、今度は満州帝国建国で再び悲劇が起きたのです。日本の武装開拓団が金さん一家の農地を強制的に安く買い上げたのです。戦後は暫くは旧満州の奥地に住んでいましたが、その後は瀋陽に引っ越しました。私が瀋陽の東北工学院を訪問したとき、金さんはその大学で助教授をしていました。私は金応培さんの案内で瀋陽市にあるカトリック教会のミサに出ました。金応培さんは瀋陽のいろいろな所へ私を観光に連れて行ってくれました。瀋陽は何と言っても、清朝の発祥...「中国の瀋陽の金応培先生の思い出」
筆者を1980年から何度も北京へ招待してくれたのは北京鋼鉄学院の周教授でありました。もう故人になってしまいましたが友情の深い、年上の男でした。1945年頃には既に天津の北洋大学の学生だったそうです。学生共産党員として天津を国民党の軍隊から解放する作戦へ参加し、解放後は天津市の行政に参加した時期もあったと話していました。善い共産党員の見本のような人で、何時も北京の貧しい人々への同情を話していました。よく私を庶民的な北京ダック専門店へ招待してくれました。そして北京ダックの美味しい店は少し汚くて、観光客の来ない所ですと教えてくれます。彼は北京鴨が自慢なのです。縦長の白い顔は眉が太く、昔の中国の大人の風貌です。いつも静かな微笑みを浮かべ、ゆっくりした英語で話し合いました。以下は1980年代の終わりころ、残留孤児が...「北京ダックと周栄章さんの思い出」
中国は古い歴史があります。しかも現在の中国は世界2位の経済大国なのです。その事実を以下に示します。世界の名目GDP(USドル)ランキングです。出典は、https://ecodb.net/ranking/imf_ngdpd.html#CNです。1位アメリカ29,184.90-北米2位中国18,748.01-アジア3位ドイツ4,658.53-ヨーロッパ4位日本4,026.21-アジア5位インド3,909.10-アジア6位イギリス3,644.64-ヨーロッパ7位フランス3,162.02-ヨーロッパ8位イタリア2,372.06-ヨーロッパ9位カナダ2,241.25+1北米10位ブラジル2,171.34-1中南米11位ロシア2,161.21-ヨーロッパ12位韓国1,869.71-アジア13位メキシコ1,852.72...「そして現在の中国は世界2位の経済大国になった」
西安の近くには紀元前246年に作られ始めた秦の始皇帝陵と兵馬俑があります。私は1982年に西安に泊り郊外の秦の始皇帝陵と兵馬俑を訪れ非常に感動しました。特に兵馬俑坑にある武人像の表情が千差万別で活き活きとしていることに感動したのです。始皇帝陵と兵馬俑の写真を示します。写真は「秦の始皇帝陵」と「兵馬俑」を検索して出て来た数多くの写真から鮮明な写真を選びました。1番目の写真は西安から約30Kmにある秦の始皇帝陵です。陵の小山にはわけなく登れました。頂上には幾つかの石像が祀られていました。眺めが良かったです。2番目の写真は始皇帝陵から1Kmはなれた兵馬俑坑です。巨大な覆いの屋根がかけてあります。武士俑は等身大の素焼きで8000体あるそうです。3番目の写真は軍馬と武人の像です。馬の手綱まで精巧に出来ています。4番...「秦の始皇帝陵と兵馬俑の写真」
近くに始皇帝陵墓と兵馬俑がある西安の風景写真をお送り致します。始皇帝陵墓と兵馬俑は西安の北東30kmの驪山北側にあります。以前に西安に旅して4番目の写真にある塔に登ったことを懐かしく思い出します。西安の風景写真と塔の写真をお送り致します。「近くに始皇帝陵墓と兵馬俑がある西安の風景を懐かしく思う」
白鳥は人に懐く野生の鳥のようです。今日は私自身が白鳥一家と仲良くなった不思議な体験をご紹介したいと思います。日本で見られる白鳥は冬になると遥々シベリアのアムール河の河口付近から飛んで来ます。しかし幾羽かの白鳥は日本に棲みついています。春になってもシベリアに飛んで行かないのです。私が霞ヶ浦でヨットをしていた頃、そこに棲みついている白鳥の4羽の一家と仲良くなったのです。それは不思議な体験でした。白鳥は霞ヶ浦だけでなく猪苗代湖や屈斜路湖など全国の湖や川に沢山来ます。白鳥のいる風景は日本の冬の風物詩です。さて仲良くなった4羽の一家は夏になってもシベリアに帰らないで霞ヶ浦に棲みついていたのです。当時私は土浦港にヨットを係留していました。その係留していた岸壁から湖沿いに600mほど歩いた芝生のところに2007年の春か...「白鳥は人に懐く、仲良くなった不思議な体験」
冬の日本の風物詩はシベリアから渡って来るハクチョウ、ツル、カモ、ガン、カモメなどの冬鳥が湖沼河川に群れ遊ぶ風景です。国境を自由に越えて、はるばる4000キロメートルくらいも飛んで来るそのロマンを感じ心が楽しくなります。私はカモメ類は漁港に棲んでいて冬になると内陸の湖や川に飛んでくると思っていました。しかし冬鳥、夏鳥、留鳥、漂鳥などの分類を調べてみると大部分のカモメ類は日本とシベリアの間を渡っている冬鳥なのです。毎年毎年、悪天候の中長距離を飛んで来ることを想像すると胸が締め付けられる感慨も覚えます。1番目の写真は霞ヶ浦の岸辺を飛んでいるカモメが群れです。私の車を覆うように沢山のカモメが舞っていました。2番目の写真もは霞ヶ浦の岸辺を飛んでいるカモメが群れです。岸辺の地面には鳩の大群がまかれた餌をしきりについば...「白鳥などの渡り鳥のロマン」
私たち日本人は豊かな野鳥たちに囲まれています。美しい野鳥たちに囲まれています。しかし毎日が忙しくて美しい野鳥たちに気がついていません。そこで今日は自然界に身を置いて美しい野鳥たちと一緒に遊んでみようと思いました。1番目の写真は自分で撮った写真です。霞ヶ浦の沖には無数の水鳥が列を作って遊んでいる光景です。春になるとアムール河のさらに北へ渡っていく白鳥やカモメやカモの群れです。私たちはこんなにも多くの野鳥たちに囲まれて住んでいるのです。多くの人々はこの豊かな自然に囲まれていることに気がついていません。しかしバードウオッチングを趣味にしている人々はこの豊かな野鳥の世界を楽しんでいるのです。その様子は、「日本野鳥の会」のHP(http://www.wbsj.org/about-us/summary/about/)...「豊かな野鳥たちに囲まれている日本人の幸せ」
私共は豊かな野生の鳥たちに囲まれて生活しています。渡り鳥もいますし棲み着いている留鳥もいます。日本を通過するだけの旅鳥もいます。間違って日本へやって来た迷鳥もいます。さらに渡り鳥の一部が日本に住み着いているものもいます。例えばコハクチョウは霞ヶ浦や牛久沼やあちこちの湖沼に少しずつ棲みついて日本で繁殖します。さて冬の日本で見られるオオワシは大変珍しい鳥なので少し調べてみました。日本最大の猛禽類で、1970年1月23日にオジロワシと同時期に天然記念物とされましたが今や絶滅危惧種に指定されています。(http://www.kagiken.co.jp/new/kojimachi/bird-ohwashi_large.html)オオワシ(大鷲)は、タカ目タカ科ウミワシ属の鳥です。体は雌の方が大きいのです。全身黒褐色...「日本最大の猛禽類、天然記念物、絶滅危惧種オオワシの生態と写真」
鳥の世界は奥が深いようです。いろいろ調べてみると渡り鳥、旅鳥、漂鳥、留鳥そして迷鳥などという言葉が出て来て混乱します。しかしその違いを簡単に言ってしまうと以下のようになると思います。渡り鳥・・・日本を中心にしてシベリアや中国大陸北部へ渡る冬鳥と東南アジア各地に渡る夏鳥のことです。夏鳥主として繁殖のために日本より南の国から渡ってきて、夏を日本で過ごし、繁殖期が終わると再び越冬のために南の国に渡って行く鳥。ツバメ、アマサギ、オオルリ、キビタキ、クロツグミ、ハチクマ、サシバなど。2、冬鳥主として越冬のために日本より北の国から渡ってきて、冬を日本で過ごし、冬が終わると再び繁殖のために北の国に渡って行く鳥。ツグミ、ジョウビタキ、ユリカモメ、マガモ、オオハクチョウ、マナヅル、オオワシなど。旅鳥・・・シベリアや中国大陸...「渡り鳥、旅鳥、漂鳥、留鳥そして迷鳥・・・区別して考えて見る」
アジサイはドイツでも咲いています。アジサイはドイツ語でHortensie(ホルテンジエ)と言い、英語ではHydrangea(ハイドランジア)と言います。日本だけでなく欧州でも広く普及してます。いろいろな派生種があります。水が酸性かアルカリ性かによって、花の色が変わるのは、有名な話ですね。示した写真の出典は、https://minkara.carview.co.jp/userid/314846/blog/44079793/です。「アジサイはドイツでも咲いています」
アジサイの原産地は日本で、その元はガクアジサイです。アジサイは日本から中国にわたり、シルクロードを伝わってヨーロッパへと伝わっていき、イギリスなどで東洋の花として人気が出て、品種改良が進んだのです。写真はアジサイの原産地、日本のガクアジサイです。「アジサイの原産地は日本」
鎌倉は古都で魅力ある場所です。そのうえ家内が生まれ育った所なので何度も訪れました。アジサイが美しい古都です。鎌倉のアジサイの花の写真をお送り致します。写真の出典は、https://travel.rakuten.co.jp/mytrip/amazing/ajisai-kamakuraです。写真は順に長寿寺、円覚寺、成就院、長谷寺のアジサイです。「鎌倉にはアジサイがあちこちに咲いている」
この季節はアジサイが静かに美しく咲ています。私の家の庭にも咲いています。梅雨が降りかかり一層あざやか色です。日本の梅雨の季節の美しい風物詩です。今日は美しいアジサイの写真をお送り致します。1番目の写真は美しい古刹として知られる鎌倉の長谷寺のアジサイです。写真の出典は、https://clubtravelerjapan.com/article/spot/9430/です。まったく余談ですが家内はこの近所で生まれ育ちました。2番目の写真は山里の梅雨の季節の霧の中のアジサイです。写真の出典は、https://ganref.jp/m/tkrphoto/portfolios/photo_detail/2156726です。3番目の写真は滋賀県長浜市のお寺の山門とアジサイです。出典は、https://www.excite...「日本の梅雨とアジサイの詩的な風景」
仙台で生まれ育ったので松島の瑞巌寺へは何度か行きました。松島の瑞巌寺は国宝で伊達家の菩提寺です。懐かしいので写真を示します。写真はインターネットからお借りしました。写真は順に、本堂、庫裏,総門、お寺の前の杉並木です。「平安時代に創建された松島の瑞巌寺の写真」
『人間国宝美術館』とは変な名前の美術館です。怪しい作品が展示してあるのではないかと恐る恐る訪れました。ところが重要無形文化財保持者(人間国宝)が創った絵画や焼き物の展示に感動しました。これらの美術品を蒐集した館主の山口伸廣さんの審美眼にと収集品の確かさに感動したのです。展示品の数も多く4階にわたる展示室も充分です。写真撮影が自由にできるのも嬉しいものです。最後に有名陶芸家の作品の中から自分の好きな茶碗を選んで、その茶碗で抹茶を楽しめるサービスに感心しました。心憎い気配りです。ホームページ(http://www.nikobi.com/cont/about.html#02)も良く出来ています。館長矢部良明さんの「ごあいさつ」をそのホームページから下に示します。「高級な美に触れて快い、時間を過ごすことは、多忙な...「箱根の麓の湯河原温泉にある「人間国宝美術館」のご紹介」
幕末から明治にかけての箱根の風景の写真をお送り致します。写真はインターンットからお借りしました。「幕末から明治にかけての箱根の風景」
箱根の芦ノ湖の風景の写真をお送り致します。芦ノ湖は奈川県南西部にある県内最大の湖です。水源の大部分が湖底からの湧き水です仙石原から流れ出る早川の水源です。写真の出典は、https://stock.adobe.com/jp/search?k=%E7%AE%B1%E6%A0%B9です。「箱根の芦ノ湖の風景」
箱根は昔から温泉として有名でした。江戸時代には関所が置かれていました。現在は車だけでなく小田急ロマンスカーや箱根登山電車などで気軽に行けます。私どもも何十回も訪れました。今日は私どもが撮った写真にしたがって箱根をご紹介したいと思います。1番目の写真は箱根観光の中心的な芦の湖です。奥に富士山が写っています。2番目の写真は旧東海道の杉並木です200m位よく保存されています。3番目の写真は復元されている江戸時代の箱根の関所です。4番目の写真は元箱根にある成川美術館です。日本画の収集が抜群でした。5番目の写真は芦の湖の畔に立つ「山のホテル」です。1963年に新婚の妻と一緒に泊まりました。当時は木造の小さなホテルでした。箱根へ行くと泊まる定宿のようなホテルでした。6番目の写真は強羅公園です。「山のホテル」の他に強羅...「魅力溢れる箱根を巡る旅」
美しい竹林の写真を撮りに行って来ました。小金井には規模が小さいながらも美しい竹林があります。武蔵野公園の近くです。先程その写真を撮って来ました。「美しい竹林の写真を撮りに行く」
鰻は美味しい魚なのでアジア諸国だけでなくイギリス、ベルギー、イタリア、オランダ、スウェーデン、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどではよく食べられています。昔ドイツに居た頃は生き鰻を売っていました。買って蒲焼きにしました。欧米人はウナギを燻製にして食べます。そして、ぶつ切りにしてスープにして食べます。蒲焼きは面倒なのでしません。欧米人がよく食べるウナギの燻製とウナギ入りのスープの写真をお送り致します。写真はインターンネットからお借りしました。「ドイツのウナギ料理の写真」
先程、駅前のウナギ専門店に行って撮ってきました。「ウナギの蒲焼きいろいろな写真」
今年の夏の土用の丑の日は2日あり、2024年7月24日(水)と8月5日(月)です。夏の土用の丑の日は立秋前に訪れ、毎年日付は変わります。季節の変わり目で体調を崩しやすい時期に、うなぎなど栄養のある食べ物を食べて英気を養いましょう。うなぎ以外にも、「うどん」「梅干し」「瓜科の野菜」「牛肉」など「う」のつく食べ物を食べて、健康を願いながら土用の丑の日を過ごします。土用丑の日にウナギを食べる習慣の発祥には江戸時代の平賀源内説や春木屋善兵衛説や蜀山人説があります。現在のように蒲焼にして食べる風習は江戸時代に広く普及したことには間違いありません。しかし夏痩せを防ぐためにウナギを食べる風習は万葉集の出来た時代にもあったのです。痩(や)す痩すも生けらばあらむを将(はた)やはた鰻(むなぎ)を漁(と)ると河に流れな大伴家持...「間もなく土用丑の日、ウナギも蒲焼きにまつわる話」
小金井の金蔵院の蓮の花は毎年必ず咲きます。先程今年の蓮の花の写真を撮ってきました。美しい色合いをお楽しみ下さい。「今年も咲きました蓮の花」
エドワード・モースは大森貝塚の発見で有名ですが、それ以上に日本の陶磁器の収集と民具や風景写真の収集でも偉大な功績を上げました。ボストンの近くのセイラムという港町に終生住んでいて、その町にあるピーボディー博物館に収集品を保存し、展示しました。彼の収集品には約130年前の日本の風景写真が数多く含まれています。その風景写真を編集して出版したのが小学館です。それは、「百年前の日本」(1983年11月25日初版発行)という写真集です。今日は、昔の箱根の風景、江の島の風景、そして農村の人々の写真を7枚お送りします。撮影時期は1980年(明治13年)から1990年(明治23年)頃と考えられています。1番目の写真は現在の関所跡から北方面へ伸びる町並の風景写真です。手前の左近辺には現在、遊覧船の桟橋があり車の駐車場が広がっ...「明治時代の箱根の風景、江の島の風景、そして農村」