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  • Estoy Loco por España(番外篇440)Obra, Calo Carratalá

    Obra,CaloCarrataláEnelmomentoenquevioestaspinturasdeCalo,mesientomareado.Cadaunodepaisajeestámuylejos.Ysientoquecadaunodeelloses"detamañoreal".Sinembargo,eltérmino"tamañoreal"significa"eltamañorealdelpaisajevistodesdeaquí".Lascosasqueestánlejosparecenmáspequeñas.Esapequeñezeseltamañomismoquesevedesdeaquí.Voyaescribirloconotraspalabras.Hayunespaciomuchomás...EstoyLocoporEspaña(番外篇440)Obra,CaloCarratalá

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(98)

    「海の洞の中には……」。きみが誰かも分からず、きみも私を知らずに。恋の始まり。さて。「分かる」と「知る」。ギリシャ語では区別があるか。ギリシャ語が「分かる」「知る」を使い分けていたから、中井はそれにあわせて使い分けたのか。ギリシャ語には使い分けがないが、中井が使い分けたのか。これは大事ではない。大事なのは、中井が使い分けているということである。同じことばであっても訳し分けることはできるし、違うことばであっても同じ語(ことば)にすることもできる。だから、これは「中井語」そのものなのである。「私」は「私を知っている」。たとえば「きみが誰かも分からない」のが「私のいまの状態であると知っている」。その意識が「私」と「知る」を結びつけ、「きみ」は「私を知らない」ということばを選ばさせるのだ。「私は私が誰であるか知っ...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(98)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(97)

    「過酷な瞬間と瞬間との……」。きみの表情が次の表情にかわるあいだに、いちばん短い「瞬間」とは、どういうものだろうか。きみの「どんな表情」が「どんな表情」にかわったのか。この詩では「かわった」ではなく「かわる」と書いてある。このときの「かわる」は日本語では「現在形」ではなく「未来形」である。まだ「かわっていない」、「かわりつつある」のでもない。しかし「かわる」ことがわかっている。「かわる」ことを詩人は何度も見てきている。そして予測している。その予測は「過酷」と関係しているのか。その「過酷」がどういうものかわかるのは、私が引用した行の、次の行である。それは読んでもらうしかないのだが、そこに書かれていることは未来形「かわる」と同じように、いわゆる動詞の「原形(活用しない形)」で書かれている。ギリシャ語のことはわ...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(97)

  • こころは存在するか(33)

    和辻哲郎はハイデガーについて言及することが多い。「風土」はハイデガーの「存在と時間」を念頭に置いている。ハイデガーは人間存在を時間をもとに考える。空間性を考えない。しかし、和辻は常に空間を考える。その「空間性」を「間柄」という、とても日本的なことばで考え続ける。だからだと思うが、私の知っているコスタリカ人は「風土」を読み、これは日本人論だと言った。そこから私は、ハイデガーの「時間論」に引き返し、「風土」が日本人論ならば「存在と時間」は「西洋人論」なのではないか、と思った。「西洋人論」というのは変な言い方になるが、別の言い方をすれば「キリスト教の人間論」(一神論の人間論と言った方がいいかもしれない)になる。コスタリカ人を「西洋人」とは、日本人はたぶん呼ばないが、コスタリカはキリスト教が信じられている国、一神...こころは存在するか(33)

  • Estoy Loco por España(番外篇439)Obra, Jesus Coyto Pablo

    Obra,JesusCoytoPablo¿Cambiarádeazulaamarillo?¿Cambiarádeamarilloaazul?¿Dedóndevienenelazuldelcieloyelamarillodeloscampos?Duranteeltiempoquetardóelazulenconvertirseenunazulbrillante,¿elamarilloestabacerradosuscapulloscomosiesperarasuamante?¿Habríasoportadoelazullasoledadduranteeltiempoquetardóelamarilloenabrirseenformadepétalos?Cuandoelazulyelamarilloseenc...EstoyLocoporEspaña(番外篇439)Obra,JesusCoytoPablo

  • こころは存在するか(32)

    和辻哲郎の「倫理学」。こんなことを書いている。(私のノートに残っているメモなので、正確な引用ではない。)個人と全体者(社会)とは、それ自身では存在しない。他者と関連において存在する。個人は社会を否定し、個人になる。社会は個人を否定し、社会になる。否定という行為をとおして、個人も社会も、その姿をあらわす。ここには二重の否定、相互否定がある。この否定の否定、絶対的否定性から、和辻は「空」ということばを引き出している。あるいは「空」ということばに結びつけて考えている。「色即是空/空即是色」の「空」である。「混沌」、あるいは「無」ではなく「空」を思考(ことばの運動)のなかに取り込んでいる。「空」は、私にとっては「無」よりも「理念的」である。「無」は定まった姿のあらわし方がない(無)であり、つまり、そこからはどんな...こころは存在するか(32)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(96)

    「もう少し先に行けば見えるよ……」。ちょっと背伸びしていい?行く手を阻むのは丘だろうか。背伸びをすれば、視線が丘の頂点を越えて、その向こうが見える。でも、丘でなくても、何か遠くを見るとき、見えないものを見るとき、思わず爪先立つ。つまり背伸びをすることがある。待ちきれないのだ。この「肉体感覚」が、私には、とてもうれしい。読んだ瞬間に、私の肉体が動いてしまう。思わず背伸びをしてしまう。背伸びをして、遠くを、いまは見えないものを見たとき、見ようとしたときを思い出してしまう。**********************************************************************★「詩はどこにあるか」オンライン講座★メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」で...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(96)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(95)

    「眠り」。魅力的な行が多い。そのなかから、中井独特の「語感」をもった行を選ぶとすれば、でもきみの影が伸び縮みしつつ他の影の間に消えるのを見ていた、「でも」は非常に口語的だ。一方「……つつ」はどちらかといえば文語的(書きことば的)だ。「でも」と書き始めたひとは、たぶん「伸び縮みしながら」と書くと思う。「伸び縮みしつつ」を優先させるひとなら、「でも」ではなく「しかし」と書くのではないか。私の印象では、この一行は、なんとなく「ちぐはぐ」である。しかし、それがおもしろい。この詩のタイトルは「眠り」だが、書かれていることはけっして「眠り」ではない。「半覚醒/半眠」という「はざま」の雰囲気がある。正反対のものが出会って、「半分」のところ(中間点?)で動いている感じ。それが「でも」と「……つつ」の出会いに、なんとなく似...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(95)

  • 杉惠美子「うごく」ほか

    杉惠美子「うごく」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年04月01日)受講生の作品ほか。うごく杉惠美子白木蓮の落下のあとに寂しさはない拡がる一筋のぬくもりとその気配は春をあつめ私の部屋へと春を届ける行間に落ちる花びらが潤いと時の動きを告げ遅れてやってきた風は少しはにかみながら今を届けるあらゆるものを忘れて落ち着いた時がうごく「尺八の音が聞こえてくる。精神性が落ち着いている。白木蓮の落下に春のすがすがしい空気を感じる」「一連目『特に寂しさはない』がいい。三連目の『行間に落ちる』という表現が好き」「落下ということばが具体的で強い響きを持つ。気配や時間が動く。『行間に落ちる』という表現が詩的。最終連、春らしく、ゆっくりした空気がいい」「最終連にこころを動かされた」三連目、時の動きと漢字で書かれているのが最...杉惠美子「うごく」ほか

  • こころは存在するか(31)

    神谷美恵子「生きがいについて」(著作集1、みすず書房)を読んでいて、「人格」ということばにであった。死刑囚にも、レプラのひとにも、世のなかからはじきだされたひとにも、平等にひらかれているよろこび。それは人間の生命そのもの、人格そのものから湧きでるものではなかったか。「人格」ということばは、何度も何度も和辻哲郎の本のなかに出てくる。その定義はむずかしいが、私は、ひとが実践をとおして肉体の内部にかかえこむひろがりと感じている。「おおきな人格」というのは、実践がそのひとを「おおきく」見せるのだと思う。そして、その「おおきさ」は客観的には測れないが、自然にわかってしまう「おおきさ」であり、「おおきなもの」は大きな引力をもっているから、それに引きつけられてしまう。神谷は「人格」を「生命そのもの」とも呼んでいるが、こ...こころは存在するか(31)

  • イタリアの青年と「論語」を読みながら

    いま、イタリアの青年といっしょに「論語」を読んでいる。中国語ではなく、日本語で。テキストは岩波文庫(金谷治訳注、和辻哲郎が「孔子」を書くときにつかったテキスト)。私は中国の歴史をまったく知らないので彼からいろいろ教えてもらうことが多い。日本語は私の方が彼よりも詳しいので、日本語教師としていっしょに読んでいるのだが、きょう、とてもおもしろいことを体験した。イタリアの青年は「論語」を読むくらいなのだから、ふつうの日本語はほとんど問題がない。会話は、博多弁(福岡弁)が得意で、私よりも上手だ。その彼が、つぎの文章でつまずいた。子曰く、已んぬるかな。吾れ未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり。先生がいわれた、「おしまいだなあ。わたしは美人を好むように徳を好む人を見たことがないよ。」イタリアの青年は「現代語...イタリアの青年と「論語」を読みながら

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(94)

    「アルゴナウトの人たち」は、突然はじまる。どんな詩も(文学も、あるいは芸術は)突然はじまるものかもしれないけれど。して、魂よ、「して」は「しかして」「しこうして」が縮まったものなのかもしれないが、それが「しかして」「しこうして」、あるいは「そうして」であったとしても、やはり突然感間がある。「しかして」が接続詞なのに、その前に何もない。何かが切断されたまま、接続詞が動いて、次のことばがあふれてくる。そうなのだ。それは、接続詞には違いないのだが、前に何が書かれてあったかよりも、これから書くことの方が大事なのだ。実際、この詩では、引用し、何かを書きたいという行が次々に登場するのだが、それについて書くよりも、やはり書くべくことは「して」なのである。「しかして」よりもさらに短く、「して」のみ。ここには、漢文体が口語...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(94)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(93)

    ここからはヨルゴス・セフェリスの作品。最初は「愛の歌」。風のバラが無知なぼくらをさらったのだね。この一行の「意味」はわかったようで、わからない。風、バラ、無知、ぼくらということば交錯する。「さらう」という動詞が、その交錯をさらに攪拌する。万華鏡をのぞいたときのように、何か、とてもあざやかなものを見たという印象がある。しかし、それを論理的に説明することはできないこの一瞬の混乱、そしてその混乱を美しいと思うとき、そこに詩が存在する。中井のように論理的な人間が、この混乱を混乱のまま一行にしているところに、中井の訳詩のおもしろさがある。「論理的に説明してもらえますか?」と質問してはいけないのである。**********************************************************...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(93)

  • 自民党のキックバック問題

    自民党の裏金、パーティー券収入のキックバック問題。いまでは、だれもキックバック問題とは言わないようなのだが。2024年03月31日の読売新聞(西部版・14版)を見ながら(読みながらではない)、私は不思議な「フラッシュバック」に襲われた。見出しに「安倍派元幹部離党勧告へ」。どうやら、安倍派の大物(?)を処分することで、問題にカタかつけようとしているのだが、ふと私の頭の中に蘇ってきたのが、田中首相の逮捕である。表向きは、やっぱり金銭問題。ロッキードから金をもらっていた。それを適正に処理しなかった。それからロッキード問題はさらに拡大もしたのだが。でも、田中が失脚したのは、ほんとうは金が原因ではない。アメリカがベトナムへの自衛隊派遣を要請したのに対し、田中は憲法をタテに拒否した。それを怒ったアメリカが田中を追い落...自民党のキックバック問題

  • 「オッペンハイマー」の問題点、その2

    物理学者、数学者は、核分裂、核融合の夢を見るとき、あの映画のような光が飛び回るシーンを夢見るか、という疑問を書いた。私は彼らはイメージではなく、数式で夢見ると思ったからだ。これに対し、ある友人が「それではふつうのひとにはわからない」と言った。なるほど。では、ふつうのひとはあのシーンで、核分裂や核融合の仕組み、あるいはブラックホールのことがわかるのだろうか。私はふつうのひとのように想像力が豊かではないのか、あんなシーンを見ても、何も感じない。「もの」のなかで、電子や素粒子があんなふうに動いているとは想像できない。たしかに数式を書き並べられても、それが何を意味するかわからないが、しかし、彼らは数式で世界を理解しているということは理解できる。だって、アインシュタインはオッペンハイマーが持ってきた数式を一目見ただ...「オッペンハイマー」の問題点、その2

  • クリストファー・ノーラン監督「オッペンハイマー」(★)

    クリストファー・ノーラン監督「オッペンハイマー」(★)(Tジョイ博多、スクリーン9、2024年03月29日)監督クリストファー・ノーラン出演キリアン・マーフィ、ロバート・ダウニー・Jr、エミリー・ブラント私は数学者でも物理学者でもないから、私の想像が間違っているのかもしれないが、オッペンハイマー(キリアン・マーフィ)の頭の中で繰り広げられる「核爆発」の映像(イメージ)がなんとも理解できない。星が爆発し(死に)、ブラックホールが誕生するという映像(イメージ)も信じがたい。あんな、アナログのイメージで物理世界を見ているのか。私は、勝手な想像だが、数学者や理論物理学者は「数学」(数字の動き)で世界をとらえていると思っていた。頭の中で、つぎつぎに数式が動いていく。その変化、そのときの美しさに夢中になっている。いま...クリストファー・ノーラン監督「オッペンハイマー」(★)

  • こころは存在するか(30)

    「ことばは人間とともに生きている。語る相手を待ってのみ発達していく。」という文章が和辻哲郎全集第十巻のなかにある。相手を「持って」ではなく「待って」。「待つ」と「持つ」は漢字が似ているが、意味とずいぶん違う。「待つ」とき、「待っている人(ことば)」にできることは何もない。「ことば」は語る相手=聞いてくれる相手のなかで発達していく。新しいことばになっていく。筆者が書けば「新しいことば」になるのではなく、「相手のことば」のなかで変化することで「新しくなる」。これは、「聞いてくれるひと」の、それまでのことばが否定され(破壊され)、新しく生まれ変わるということだ。ことばは、常に、発した人を超越し、他者のことばを否定しながら生まれ変わり、そのあとで話者に帰ってくるものなのだ。「間柄の本質」については、こう書いている...こころは存在するか(30)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(92)

    「アクシオン・エスティ、創世記より」。この世界。この小さな世界の大きさ!「この世界」と呼ばれているものは、世界のなかにある「ひとつ」の存在である。たとえばオレンジの花。それは世界のなかにあることによって、世界と向き合っている。そのとき、「この世界(ひとつの存在)」は、それをとりまく世界(複数のつながり)に比べると確かに「小さい」。しかし、世界と向き合っている限り、そこには世界に対応するだけの「秘密」がある。その「秘密」は世界に存在するすべての「秘密」に同時につながっている。「秘密」ということばを詩人はつかっていない。中井の「訳」のなかには登場しない。しかし、私は、その書かれていない「ことば」を読んでしまう。「小さい(な)」と「大きさ」が結びつく一瞬に。「小さな世界」のなかに「大きな世界」が吸収され、どこま...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(92)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(91)

    中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(91)「石と血と鉄とで……」。心の樹は枝を広げて行く。それが私の眼に見える。ここに書かれている「眼」は「肉眼」のことである。けっして「心眼」ではない。「心の樹」と比較すると、その意味がわかる。「心の樹」は、いわば「想像」である。つまり、実在するのではない。それを「心の眼」で見れば、それら「空想の空想」になってしまう。「肉眼で見る」とき、「心の樹」という非現実(空想)は「肉体」の力よって現実の世界に引っ張りだされてくる。つまり「実在」になる。詩人は「見る」、そして「ことばにする」。そうすると、それは「現実」になる。ここには何か、ソクラテス、プラトンの時代からの、偉大な(強靱な)ギリシャ人の集中力がある。真摯な力がある。他の部分では「きみ」「僕」ということばをつかっているが...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(91)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(90)

    「日がな一日野を歩いた……」。生命の眼を覗く。生命の眼は我等の眼差を返す。同じことばと違うことばが交錯する。あえて書くと、「我等の眼が生命の眼を覗く。生命の眼は、我等の眼に、我等の眼差しを返す」。生命の眼のなかで、我等の眼差が反射し、帰ってくる。我等が覗いたのは、我等の生命の眼。そして、それは「反射する」ではなく、もっと積極的な「返す」という動き。「反射する」なら、鏡や水でもできる。しかし、「返す」は違う。そこには「動き」がある。「覗く」が動きだから、やはり動きとしての「返す」が絶対的に必要なのだ。繰り返される同じことばが、違うことばのなかにある「本質的な同じもの」を強烈に浮かび上がらせる。生きていることは、「動く」ことである。「動く」ものは死なない。つまり、決して消えない。なくならない。それを「生命」と...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(90)

  • こころは存在するか(28)

    「絵は我々が見ないときでも美しい。酒は我々が飲まないときでもうまい」というのはほんとうか。私は、そもそも「絵を見ないとき、その絵は存在しない。酒を飲まないとき、その酒は存在しない」と考えている。「見る」「飲む」のかわりに「想像する」をつかえば、「ある絵を想像する(想起する)とき、その絵は存在する。ある酒を想像する(想起する)とき、その酒は存在する」と言えるが、それはあくまで「想像のなか」に存在するのであって、現実に存在するかどうかはわからない。いろいろ考えるとめんどうくさくなるので、便宜上「どこかに存在している」という形で対応してはいるが、こんなことは何の意味もない。和辻は、「絵は我々が見ないときでも美しい。酒は我々が飲まないときでもうまい」ということばから、別のことを考えている。「美しい」「うまい」とい...こころは存在するか(28)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(89)

    「マルメロの林にたゆとう風……」。蘇りの形象は二連目の、第一行。これだけでは何のことかわからない。主語(あるいはテーマ)が提示されているだけである。つまり「文(名詞+動詞)」になっていない。しかし、「文」にならないことによって、逆にドキリとさせるものを含んでいる。この一行に、ほんとうに「動詞」は存在しないか。「蘇り」のなかに「蘇る」という動詞がある。ギリシャはいつでも「蘇る」と詩人は言っているのだ。それは、どんな風にか。この詩に書かれている「形」に。詩人が「形象」と呼んでいるすべての「形」に蘇る。だれも、それを壊せない。だれも、それを阻止できない。なぜなら、それはことばとして生きているからである。この一行は、もっとわかりやすい形に翻訳できたかもしれない。しかし、中井は、ここではあえて「わかりにくい」形で翻...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(89)

  • 池田清子「もっと向こう」ほか

    池田清子「もっと向こう」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年03月19日)受講生の作品。「三連目がユニーク。際限のない甘えが印象に残る。最後の一行で悲しさがあふれてくる」「一連目は谷川俊太郎みたい。最終連は、気持ちが解放されて書かれている」「すんだ青い空、純粋さが昇華されている。最終連の泣くには、泣いていられる喜びに近いものがある」「空を見たときのピュアな気持ちを思い出す」最終行の「泣こうか」は、受講生が指摘したように、「がまん」と「甘え」が交錯し、そこに不思議な美しさがある。三連目☆★彡とそれを取り囲む円。ここから何を感じるか。「絵画的」「視覚的」という声が多かった。「ことばにしなくてはいけないのに、ことばにできない」と作者は言ったが……。私は、この「ことばのない世界」を「絵画」というよりは、「...池田清子「もっと向こう」ほか

  • Estoy Loco por España(番外篇438)Obra, Joaquín Llorens

    Obra,JoaquínLlorensMegustanlasobrasdeformassimplesdeJoaquín.Enlugardecrearunaforma,elhierroqueyaestabaallísetransformanaturalmenteenunanuevaforma.Joaquínloapoyatranquilamente.Hayalgoasícomolamiradadeunpadrequevecrecerasuhijo.Elhierroessufamilia.Sabedehierrocomolospadressabendeniños.YJoaquíncreaenelpoderdelhierro.Ahora,estehierroestáapuntodeconvertirseenun...EstoyLocoporEspaña(番外篇438)Obra,JoaquínLlorens

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(88)

    「私は愛する名に生きた……」にも「再生」に通じる一行がある。我が生命(いのち)尽きるとも変わらぬ海の轟きの中に。一行と書いたが、この一行は一連目の最後と最終連の最後にある。つまり、繰り返されている。だから二行ということもできるのだが。海の轟きは変わらない。だから、私はいのちが尽きても「再生する」と私は「誤読」するのである。そして、「我が生命」の「我が」とは「私」ひとりではなく、「我々」なのである。「我々」だからこそ、「私」はいつでも「我々」なかに「再生」する。「我々」とは「海の轟き」である。ギリシャは海と共にある国だ。ギリシャ人は海と共に生きている。ところで。この「再生」ということばを抱え込むこの三篇には、もうひとつ、共通するものがある。タイトルがいずれも書き出しの一行と重複する。ただし、本文に「……」は...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(88)

  • こころは存在するか(27)

    「人間の存在は行為である」。これは和辻哲郎全集(9)に出てくることばだが、「論語」のなかに書かれていたとしても疑問に思わない。カントにしろハイデガーにしろ和辻にしろ、ひとは結局同じことを、それぞれのことば(孔子語、カント語、ハイデガー語、和辻語)で語る。これは、ふつうは「翻訳」というかもしれない。しかし、私は「誤読」と呼ぶ。違っているが、重なり合う。重なり合うが、ずれてしまう。ひとの肉体は、それぞれ「個別」だからである。「理念(イデア?)=精神」が「一致する」という考えに、私は与しない。「肉体は個別でも共通(一致する)精神、理念がある」とは、私は考えない。肉体と精神(こころ)を分けて考える必要はない。肉体と精神(こころ)--それがあると仮定して--は同じものである。肉体を、ときどきひとは「精神」と呼んだり...こころは存在するか(27)

  • Estoy Loco por España(番外篇437)Obra, Jesus Coyto Pablo

    Obra,JesusCoytoPabloElpaisajedelaciudadsesuperponeconelperfildelhombre.Elperfildelhombresesuperponeconelpaisajedelaciudad.¿Cuáleselpasado(memoria)ycuáleselpresente?Estapreguntanotienesentido.Eltiempoquellamamos"elpasado"realmentenoexisteenningunaparte.Porqueeltiemponuncapasa.Todaslasmemoriassiempreexistenconeltiempodel"ahora".Sesuperponenynuncaabandonanel...EstoyLocoporEspaña(番外篇437)Obra,JesusCoytoPablo

  • こころは存在するか(26)

    時間は存在する。しかし、過去を考えるとき、時間は存在しない。「過去」という時間は存在しないというか、「過去」を考えるとき、時間のなかで「過去」「現在」「未来」という区別はなくなる。言い換えよう。過去の行為がいつまでも苦痛であるのは、時間とともに「過去」が過ぎ去らないからである。いつも「現在」として、私のそばにある。私を取り囲んでいる。時間は人間の意思、感情を無視して、人間のなかで「時制」を破壊して存在し続ける。物理や数学のときにつかっている時間、人間の意思や感情とは関係のない時間について考えても、意味はない。時間は存在しない、とはそういう意味である。和辻は、カントは「有るものと、単に考えられるにすぎないものを区別する」というようなことを書いている。単に考えられるにすぎぬもの、とは何か。数学的、物理学的な時...こころは存在するか(26)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(87)

    「コリントの太陽を飲む……」にも「再生」ということばが登場する。これも、終わりから二行目である。ずいと見渡せば世界は再生する、一行のみの引用と決めて書き始めたので、方針は変えないが、もし二行引用すれば、この詩と「艶やかな日、声のホラ貝……」の最後の二行がとても似ていることがもっと明確になる。ここに書かれている世界は「わが愛するもの」のことであり、それはギリシャということになる。詩人はいつもギリシャを見渡している。彼にはギリシャの全部が見える。「ずいと」ということばが、なんともいえず、肉体を刺戟してくる。実際に、見渡している、そのときの目つきが生きている。だから「世界は再生する」は、そのまま「肉体は再生する」という感じで響いてくる。「ずいと」をギリシャ語でなんというのか知らないが、詩人がなんと書いているのか...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(87)

  • こころは存在するか(25)

    カントの「実践理性批判」について、和辻がいろいろ書いている。それを読んでいる途中に、私はノートにこんなことを書いている。人を殺す。それが善いことか悪いことかは、実際にそれが行われたあとで判断される。もちろん「人を殺すことは悪いことである」。しかし、こういう道徳というか、定義というか、よくわからないが、それが真実かどうか、私は自分の肉体をとおして語ることができない。私は殺されたくない。だから、それを悪いことと感じている。つまり、利己心から、自己中心的な感覚から言っていることになる。しかし、実際に「人を殺す」、あるいは「人を殺すことにかかわる」場合は違うだろう。私が「頭のなか」で考える善悪を超えて、実際に人を殺したひとの肉体に何かが押し寄せてくるだろうと思う。もし、その「殺人」がボタンひとつで可能ならば、これ...こころは存在するか(25)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(86)

    「艶やかな日、声のホラ貝……」の最終連、その終わりから二行目。わが愛するものはすべて絶えず再生し、この「すべて」は二連目で繰り返されている「ギリシャ」のことである。なぜ、「すべて」と書くのか。「すべて」が破壊されたからである。だから「すべて」と書かずにはいられない。そこには強い祈りがこめられている。「絶えず」も同じである。破壊されても、破壊されても、そのつど再生する。そういう「意味」とは別に。私は「わが愛する」の「わが」の表記に、ふいに胸をつかれた。「わが」に似たことばは、この詩では「私」が出てくる。「男」が出てくる。それから「我が手」「我が空」のように漢字で「我が」と書かれた部分がある。また、「わが」とは別の「きみ」ということばもある。たぶん、この「きみ」が「わが」に含まれている。つまり「わが」とひらが...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(86)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(85)

    「夏の身体」。不死の一瞬を再発見する。「不死」は「いのち」。生きているということ。しかし、この行が「生を再発見する」、あるいは「いのちを再発見する」だとしたら、たぶん、印象は弱くなる。「不死」は単純な「いのち/生」を意味しない。「不死」のなかにある「死」ということばが否定されることで、その奥から「いのち/生」が新しくよみがえってくる。「死」を越えて、よみがえってくる。この超越の運動が、詩の、ことばのいのちである。この詩には「比喩」がたくさんある。「ヴィーナスの丘」とは「恥丘」のことだが、こういう「比喩」は何かをあらわすのではなく、何かを隠すことによって、逆に隠されたものを思い出させるという働きをしている。「恥丘」(このことばは、もはや死語かもしれない)を「ヴィーナスの丘」ということばで隠す。すると、人間と...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(85)

  • Estoy Loco por España(番外篇437)Obra, Sergio Estevez

    Obra,SergioEstevezlaserie"Amoresinternos"EstaobradeSergiotambiéntieneuna“sensacióndecantidad”devida.Todavíanohadecididoquéformatomaráestetrabajo.Sinembargo,hay"señales".Estáacostadabocaabajo,conlaespaldaarqueada.Sucabezaysuspiesestánenelaire.Tienelacabezatorcidayelrostrovueltohaciaunlado,mirandoaunhombre.Quizáseste"inacabado"noseaelpuntodepartida,sinoelfi...EstoyLocoporEspaña(番外篇437)Obra,SergioEstevez

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(84)

    「その夜をもはや知らぬ……」に、矛盾がある。その夜をもはや私は知らぬ、死の恐ろしい無名性を。「もはや知らぬ」ということば自体が矛盾である。「もはや知っている」という表現は可能でも、「もはや知らぬ」とは言えない。「知る」ことによって「状況/状態」が変わってしまうからである。「きみのことは、もう知らない」という言い方はある。これは、「私はもう関係しない」という意味である。いちばん近い言い方には「もう忘れた」がある。だが、この「もう忘れた」は、たとえば「昔、その本を読んだが、ストーリーはもう忘れた」という「忘れた」とはずいぶん違う。「きみのことは、もう知らない(きみのことは、もう忘れた)」というとき、「きみ」を「忘れようとしている」であって、実際は「忘れてはいない」。それは言いなおせば、「まだ覚えている」であり...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(84)

  • こころは存在するか(24)

    フォイエルバッハから和辻が引き出していることばでは、「思惟は有から出る。有が思惟から出るのではない」が刺戟的である。「有」と呼んでいるものは「人間存在」であるが、これを「肉体(あるいは実践)」と読み替えると、「思惟は肉体(実践)から生まれる。思惟から肉体が生まれるのではない」になる。人間とは、まず「肉体」なのである。「思惟」や「ことば」は嘘をつくかもしれないが、「肉体」は基本的に嘘がつけない。机の上にコップがある。水がある。喉が渇いている。その水が安全かどうか、わからない。しかし、目の前の相手がそれを飲んで見せてくれたら、「ことば」が通じなくても(相手が外国人だとしても)それは安全だとわかり(直観することができ)、飲むことができる。もちろん相手があらかじめ「解毒剤」のようなものを飲んでいて「安全」について...こころは存在するか(24)

  • こころは存在するか(23)

    和辻哲郎全集9。「人間の学としての倫理学」のなかで、和辻は「歴史学」とは「実践哲学」である、と書いている。私が知っている「学校教育」では「歴史」は「ストーリー」で、たしかに誰が、いつ、どこで、何をしたかを教えられたが、それは「実践」ではなかった。歴史上の人物の「実践」について教えられたが、それは「私の実践」とは何の関係もなかった。「歴史上の人物」はいたが、個人はどこにもいなかった。だから、私には「学校教育の歴史」というのもがぜんぜん理解できなかった。私が「歴史」がおもしろいと感じたのは、和辻の「鎖国」を読んでからだ。そこには「歴史上の人物」のほかに、無名の「個人」がいた。スペインを出発し、世界を一周してきた船が、スペイン(だったと思う)近づく。スペインの船と出会う。そのとき、「きょうは何月何日」という話が...こころは存在するか(23)

  • こころは存在するか(22)

    和辻哲郎全集9。「倫理」について考えながら、和辻は、こんなことを書いている。〈間・仲〉は生ける動的な間であり、従って自由な創造を意味する。この「自由な創造」ということばを読みながら、私は、そこにベルグソンとの共通性を感じる。「生きる」とは「自由な創造」をすることである。和辻は「日本語」にこだわって、ことばの「意味」をおいかけているが、きょう読んだ部分では「存在」、「存」と「在」の区別が刺戟的である。「存する」「在る」は、ともに「ある」という意味でつかっているが、そのつかい方は微妙に違う。「存」の反対のことばは「失」であり、それは時間的な意味をもつ。「生存」ということばの反対のことばは「忘失」である。「生存」とは主体的な行動をすること(創造すること)である。その「創造」には「自己自身」と「もの」を含む。一方...こころは存在するか(22)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(83)

    「狂えるザクロの木」は強烈な詩である。朝の中庭。南風が吹き抜けている。そこに、一本の木。おお、あれが狂ったザクロの木か、これは一行全体ではなく、一行の後半部分であり、この「おお、あれが狂ったザクロの木か、」ということばが詩のなかで何回も繰り返される。しかし、それは正確な繰り返しではない。二度目からは「おお、あれが狂ったザクロの木か?」と疑問符がつく。最初の「おお、あれが狂ったザクロの木か、」と疑問符ではなく、読点「、」である。これは非常に大きな違いである。中井は、その「違い」を書き分けている。(原文に疑問符があるか、ないか。私は、それを知らないが。)最初の「おお、あれが狂ったザクロの木か、」は疑問ではなく、確信である。見た瞬間に「狂ったザクロの木」と直観した。その直観を明確に示しているのが「あの」という指...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(83)

  • Estoy Loco por España(番外篇436)Obra, Lola Santo

    Obra,LolaSantosHayuna“sensacióndecantidad”devida.Sientolaenergíaquenaciódelatierrayseguiránaciendo."Material"queaúnnohatomadoformayseacumuladebajodelasrodillas.Éstasahoracambiarányseconvertiránenpatas.Enesemomentonacenbrazosycabezasalmismotiempo.Caderas,glúteosysenosfuertes.Elcuerpodeunamujercreaun"cuerpocompleto"queaúnnoexiste.Estaobramuestralafuerzadela...EstoyLocoporEspaña(番外篇436)Obra,LolaSanto

  • こころは存在するか(21)

    行動は自分に欠けているものの獲得を目指すか、存在しないものの創造を目指す、とベルグソンは書くのだが、この「存在しないもの」を単にいまそこにないものではなく、「無」と考えるとどうなるか。「無を創る」。「無になる」とか「無我の境地」ということばが日本語にはあるが、「無を創る」というのは、それとは違う。「有」の否定(「有」からの解放)ではなく、「有」とは関係なく(「有」を踏まえず、「有」を基盤とせず)、「無を創る」。ベルグソンのなかに「絶対的な無」ということばが出てくる。これは「全体の観念」であり、しかもそこに精神のひとつの運動が加わっている。「否定」という運動だ。ある事物から他の事物へと飛び移る。飛躍する。ひとつのところに身を置くことを拒む。ひとつのところに身を置くことを否定する。そして、自分の「現在」の位置...こころは存在するか(21)

  • Estoy Loco por España(番外篇436)Obra, Jesus Coyto Pablo

    Obra,JesusCoytoPabloSerie"Protocolos"años90,Oxidooleosobrehierro,90x70cmLoscoloresempiezanadesmoronarse.Haycosasquesobreviveninclusocuandosedesmoronanloscolores.Noestristeza.Noessoledad.Essimilaralatristeza,peronosepuedellamartristeza.Essimilaralasoledad,peronosepuedellamarsoledad.Algoqueséperonopuedoexpresarconpalabras.Esoesloquenace.Ysequédaahí.Nisiquie...EstoyLocoporEspaña(番外篇436)Obra,JesusCoytoPablo

  • こころは存在するか(20)

    私は多なる一であり、一なる多であるこのことばがベルグソンのなかに出てくる。「なる」を「即」と「誤読」すれば「多即一、一即多」であり、「多」を「色」と、「一」を「理(空)」読み替えれば「色即是空、空即是色」になるだろう。このとき「なる」は英語で言えば「be動詞」になるのかもしれないが、「なる」を「なす」、つまり「為す」あるいは「生す」と読み替えれば、それはすべて「私」という「肉体」によって誕生する世界になる。私がベルグソンに親近感を覚えるのは、こういう「誤読」を誘ってくれるからである。ベルグソンのことばのどこかに、私が知らずになじんできた「東洋」のことばがある。「多」を「色」と私は書き換えたが、これは「私が出会った、私以外の存在」であり、それは「意識が存在として分類しているもの」というものであり、「私(肉体...こころは存在するか(20)

  • 「転落の解剖学」(3)

    他殺か自殺か。裁判(初審)は自殺と判断した。ストーリーの「展開」に満足するだけの観客なら、この映画の結末は「腑に落ちない」だろう。すっきりしないだろう。「ああ、よかった」と満足しないだろう。しかし、映画に限らず、どんな作品であり、あらゆる評価は終わったところからはじまる。終わったところから受け手が何を考えるか。監督も役者も、もう動かない。観客を誘導しない。動くのは観客の考え(ことば)だけである。さて。私の考えるのは、こういうことである。男が自殺した。「事実」がそうであるとして、女(妻)は本当に自由になれるか。「無罪」判決が出たからといって、女は本当に自由になったのか、という問題が残る。簡単に言い換えれば、女には、なぜ自殺を防ぐことができなかったのか、夫をなぜ救えなかったのかという問題が残る。これは、たとえ...「転落の解剖学」(3)

  • Estoy Loco por España(番外篇435)Obra, Luciano González Diaz

    Obra,LucianoGonzálezDiazUnamujerconlasrodillassobreelringylasmanosagarrandolapartesuperiordelring.¿DedóndepartióLucianoalcrearestaformademujer?Lasmanossemueven,lospiessemueven,lascaderassemueven,elpechosemueve,lacarasemueve.Naceunanuevavida.Loquesemueveenesemomentoeselcuerpodebronce,ytambiénelpropiocuerpodeLuciano.LasmanosdeLucianocreanlamujerdebronce,yen...EstoyLocoporEspaña(番外篇435)Obra,LucianoGonzálezDiaz

  • 池田清子「ロウム」ほか

    池田清子「ロウム」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年02月19日)受講生の作品。ロウム池田清子古代ローマ帝国の初代皇帝はオクタウィアヌス(アウグストゥス)という人らしい私の中のローマは映画の中「ベン・ハー」「十戒」強大なローマ帝国の司令官メッサラがユダヤ人の貴族ベン・ハーをガレー船に送る復讐の戦車レースの為に馬を提供したのはアラブ人の豪商ヘブライ人の男の子を拾って育てたのはエジプトの王女モーゼと名付けた若いチャールトン・ヘストン最高!「シンドラーのリスト」「サウンドオブミュージック」「アラビアのロレンス」ユダヤ、アラブの人たちの苦難を私は映画で知ったほんの上っ面な理解かもしれないけれどイスラエルとガザ楽しいものもある「ローマの休日」イタリア訪問中の王女が記者会見で言う「一番印象に残った訪問地は?...池田清子「ロウム」ほか

  • こころ(精神)は存在するか(19)

    ベルグソンのことばも、和辻のことばも、「変わらない」。つまり、彼ら自身がもう書き換えることはない。だから私は、彼らがもうそのことばを書きないということを知っていて(そして「反論」も絶対にしないことを知っていて)、「私のことば」に変換していく。つまり「誤読」していく。「私自身のことば」を書き換えていく。「変わっていく」のは私のことばである。「読書日記」はその「わがままな記録」である。「創造的進化」のなかに、こんなことばがある。母性愛が示しているのは、どの世代も、つぎに続く世代に身をのりだしているということである。この「身をのりだす」という表現がおもしろい。「身をのりだす」とき、ひとは、自分を忘れている。だから、「身をのりだした」ひとに向かって「危ない」と叫ぶときがある。注意するときがある。ベルグソンの書いて...こころ(精神)は存在するか(19)

  • こころ(精神)は存在するか(18)

    ベルグソンのことばは刺戟的である。目は見るだけではない。目で見たものが有効だと判断すれば、そのときひとは存在に近づくのだが、このとき目は実質的に肉体を動かしている。ここに「脳が判断し、手足を動かしている(手足に動けと命令している)」ということばを挿入したとすれば、それは「付け足し」だろうと私は思う。あらゆる運動、それが激しい肉体の運動ではなくても、ある瞬間目だけが動くのではない。手だけが動くのでもないし、足だけが動くのでもない。ことによると性器も動くのである。それも同時に、いくつもの場所(肉体の部署)で動いている。心臓とか内臓とか、そういう「不随意」の器官(組織)だけではなく、あらゆる肉体が動いている。なかには動くのを怠けている部分もあるかもしれないが。こころ(精神)は存在するか(18)

  • こころ(精神)は存在するか(17)

    和辻のことばにヒントを得たのか、ベルグソンのことばにヒントを得たのか、はっきりしないが、たぶん和辻のことばだと思う。こんなメモがノートにあった。どんな独創的な比喩であろうも、それがいったんことばにされれば、それはその比喩をとりまくさまざまなことばによって説明、把握されてしまう。これは逆に言えば、どんな独創的な比喩・暗喩も、それを比喩・暗喩としてささえる「過去」を持っているということである。いいかえれば、すでに「ことば」が存在しなければ「比喩のことば」が生まれることはない。「ことば」とは論理でもある。そして、「ことば」とは肉体でもあるからだ。詩だけではない。小説も、哲学も。これは、野沢啓が書いている「言語暗喩論」への批判のためのメモだと思う。なぜ、和辻のことばの影響なのか、ベルグソンのことばの影響なのか、私...こころ(精神)は存在するか(17)

  • こころ(精神)は存在するか(16)

    和辻哲郎全集8「イタリア古寺巡礼」。ミケランジェロとギリシャ彫刻の違いについて、303ページに、おもしろい表現がある。この相違は鑿を使う人の態度にもとづくのかもしれない。和辻は、技術、技巧とは言わずに「態度」と言っている。これは、人間とどうやって向き合うか、人間の(肉体の)何を評価するかということ、「道」につながることばだろう。ミケランジェロ(あるいはローマの彫刻)が、表面的(外面的)であるのに対し、ギリシャの彫刻には「中から盛り上がってくる」感じがあると言い、「中からもり出してくるものをつかむ」とも書いている。「中から」は「肉体の中から」である。「中にあるもの」とは「生きる有機力」だろう。それを「つかむ」という態度(向き合い方/生き方/人間の評価の仕方)が違うと和辻はとらえている。「知識(技巧/技術)」...こころ(精神)は存在するか(16)

  • こころ(精神)は存在するか(15)

    人はだれでも、自分の求めていることばを探して本を読む。その求めていることば、探していることばとは、直観としてつかんでいるが、まだことばになっていないものである。それはたとえて言えば、昆虫の新種や、未発見の遺跡のようなものかもしれない。あるはず、と直観は言っている。和辻哲郎全集8。「風土」にも、そういうものがある。あ、このことばは和辻が探していたものに違いないと感じさせることばが。たとえば、ヘルデルの文章の中から引き出している「生ける有機力」ということば。それを引き継いで、和辻は、こう言いなおしている。我々自身は知らずとも、我々の肉体の内にそれは溌剌と生きている。「知らず」は意識できない、ということだろう。だから、こうつづける。理性の能力というごときものは、この肉体を道具として働いてはいるが、しかし肉体を十...こころ(精神)は存在するか(15)

  • 「転落の解剖学」(つづき)

    前回書いた感想の「つづき」。というよりも、前回書いたものは「メモ」である。この映画は「音」が全体を動かしている。いわば、映画のエネルギー源は「音」である。「ストーリー」の本質は、音のなかにある。象徴的なシーンが、前回も書いた少年の弾くピアノの音。音楽。練習しているときは、ぎこちない音楽である。ところが、最終証言の前に弾くそのピアノの音が、一瞬、透明な音楽、とても美しい音楽にかわる。これは少年の心が「澄みきった」ことを象徴している。少年には事件のすべてがわかったのである。この「わかった」は、少年が「結論を出した」ということである。それを裏付けるのが、判決の日のテレビ放送。少年の家でもテレビをつけている。しかし、そのときレポーターの声が聞こえない。少年は判決を聞く必要がないのだ。母親が無罪かどうか、裁判がどう...「転落の解剖学」(つづき)

  • 「世界のおきく」のつづき。

    「世界のおきく」に問題があるとすれば、「さぼる」ということば以上に大きな問題がある。「さぼる」は「表現されたミス」だが、もう一つの問題は「表現されなかった何か」にある。「循環型の世界」を描いたと傑作といわれる映画だが、あの映画には「描かれなかった大事なもの」がある。ユーチューブの「批判者」は「糞尿のつまった樽(桶)を手で触るなんて、おかしい。汚いだろう」と言っていたが、問題は、その「汚い糞」をどうやって「美しい肉体」から引き離すか。つまり、どうやって「肉体」を清潔に保つか。糞をしたあと、どうやって、肉体にこびりついている「汚れ」を引き剥がしたか。いまならトイレットペーパーがある。ウォシュレット(これは、商品名か)というさらに進んだ装置もある。江戸時代は、どうしていた?ウォシュレットがないのはもちろん、トイ...「世界のおきく」のつづき。

  • ジュスティーヌ・トリエ監督「落下の解剖学」

    ジュスティーヌ・トリエ監督「落下の解剖学」(2024年02月23日、キノシネマ天神、スクリーン3)山荘で男が死ぬ。自殺か、他殺か、目撃者はいない。第一発見者は男の息子、視覚障害がある。殺人なら男の妻が犯人だ。裁判になる。裁判劇のようだが、、、、。映画が始まってすぐ、男の妻がインタビューを受けている時、大音響の音楽。男(夫)が大工仕事をしながら、かけている。この音楽を聴いた瞬間から、この映画は映像ではなく、音の映画だと気づく。実に繊細に音が拾われている。山荘での会話には屋外の風の音が混じりこむ。必要がない音だが、観客に耳をすませと要求する。音を聞き逃すな、と。実際、裁判の最初のクライマックスは、男が録音していた夫婦喧嘩の声、物音である。それを、どう理解するか。しかし、これは見かけのトリックというか、ほんとう...ジュスティーヌ・トリエ監督「落下の解剖学」

  • こころ(精神)は存在するか(14)

    和辻哲郎全集8。「風土」のつづき。大事なことは、だれでも、それを繰り返して言う。書く。そして、そのとき、そこには不思議な変化がある。飛躍がある。たとえば。明朗なるギリシャ的自然が彼らの肉体となったとき、彼らはこの隠さない自然から「見る」ことを教わった。(81ページ)ここから、こう変わる。「観る」とはすでに一定しているものを映すことではない。無限に新しいものを見いだしていくことである。(89ページ)「見いだしていく」という動詞をつかっているが、この「見いだす」は「創造する」の方が近いだろう。私は「見いだす」を「創造する」と「誤読」して、理解する。最初の引用の「肉体」という表現も、私はとても気に入っている。和辻はここでは「身体」とは書かずに「肉体」と書いている。「肉体」で見る。「肉体」で「創造する」。「見いだ...こころ(精神)は存在するか(14)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(81)

    「青い記憶の歳」。「年」ではなく「歳」なのは、そこに「人間」がいるからである。詩人は思い出している。「ある年」ではなく「あの歳」を。悲しみである。ほかの行は、それぞれに長い。だから、そこに「意味」を見つけ出すことができる。つまり感情移入することができる。感情移入することで、読者は、そのことばを書いた詩人になることができる。しかし、この「悲しみである。」という一行は、それができない。「悲しみ」は、だれもが知っている感情である。そして、その「悲しみ」にはいろいろなものが含まれている。「悲しみ」だけでは、そのいろいろがわからない。だから感情移入できない。ここでは、詩人は読者を拒んでいる。詩の中には、いろいろな「悲しみ」につながることばが書かれている。どのことばも「悲しみ」につながる。しかし、その肝心の「悲しみ」...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(81)

  • Estoy Loco por España(番外篇434)Obra, 川田良樹 Kawada Yoshiki

    Obra,川田良樹KawadaYoshiki初雪primeranevada140×47×33CuandomiroestaesculturadeYoshikiKawata,losdesnivelesmeparecenmisteriosos.Engeneral,losdesnivelesdanlaimpresióndeserduros.Mismanosseasustancuandotocolosdesniveles.Noessolosentidotáctil.Visualmentedeberíacausarunaimpresiónsimilar.Losdesnivelesprovocanunasensaciónáspera,duraeincómoda.Sinembargo,enlaobradeKawadaoc...EstoyLocoporEspaña(番外篇434)Obra,川田良樹KawadaYoshiki

  • 江戸時代は、いつまでか

    私は他人の「評判」を気にしないのだが、知人にすすめられて、ちらりと聞いたユーチューブでの「世界のおきく」の「評判」が、とんでもないものだった。何がひどいといって、発言者のだれもが「田舎の生活(昔の生活)」を知らない。この映画について、私はすでに「さぼる」ということばは江戸時代にない、と批判した。それに類似したことを批判しているのだが。たとえば、(1)あの時代、おきくが食べているご飯があんなに白いはずがない(2)糞尿をつめた樽(桶)を手に持って、糞尿をばらまくというのは変だ。せめて足で蹴るくらいだろう、というものがあった。(1)について言えば、モノクロ映画なので、ご飯がどれくらい白いかはわからない。他のものとの対比で白を強調して撮影したかもしれない。それに、彼らは江戸時代の白米を実際に見たことがあるのか。「...江戸時代は、いつまでか

  • 細田傳造「まじめなマンション」

    細田傳造「まじめなマンション」(「妃」25、2023年12月28日)細田傳造「まじめなマンション」を読みながら、「まじめ」の定義はなかなかむずかしい、と思う。税務申告はやく済ませましょうまじめなことに税金をつかっていただきましょうさよならおげんきでまたね家に還ってNHK正午のニュースを見る政治家のお顔が映っているまじめかしらついつい疑ってしまうこれは、まあ、だれもが考える「まじめ」の部類かなあ。このあとに、細田の「まじめ」がぬっと顔を出す。信頼しなくてはいけませんよねともだちもじぶんの近々の邪念を語るあれからずっとセックスしていないのしなさいよ誰と返事につまるもうかれこれ一年前から彼女のつれあいは天国にいらっしゃる天国でなさいなさいよとはいえないこの世で誰かとしちゃえばともいえない「この世で誰かとしちゃえ...細田傳造「まじめなマンション」

  • 杉惠美子「茜さす」ほか

    杉惠美子「茜さす」ほか(朝日カルチャー講座福岡、2024年02月15日)受講生の作品。茜さす杉惠美子夕焼けに染まる海岸線は一面の古代色その輝きの静けさと儚さ遠い光の淋しさと懐かしさ色となり影となり音となり風となり消え入るほどに我をなくす波音に吸い込まれて音をなくす波頭を飛び渡って静謐の時に溺れている「最後の2行が目に見える。色が印象的。ことばが最終行に収斂していく。きれいな、静かな景色が思い浮かぶ」「最初の2行と最後の2行が詩を生かしている」「古代色ということばのインパクトが強い。最終行の結び方が抽象的だが、古代色と静謐の対比が静けさをかもしだしている。途中の変化、対比が少し書かれすぎかも。少し抽象的かもしれない。そのため響いてこない」最後の感想は三連目だろうか。この部分を他の受講生は、どう読んだか、聞い...杉惠美子「茜さす」ほか

  • こころ(精神)は存在するか(14)

    和辻哲郎全集8。「風土」はハイデガーの「存在と時間」への批判として書かれたもの。空間性に排除した時間性は真の時間性ではない。ハイデガーのいう存在は個人にすぎない、という視点から「空間」を含めた「人間存在」を描こうとしたもの。このとき「空間」というのは「社会(生活)」を含む。人間は個人であると同時に社会的存在(他人といっしょに生きている)ということ。15ページに、ベルグソンに通じることばがある。人間存在は無数の個人に分裂することを通じて種々の結合や共同態を形成する運動である。この分裂と統合とはあくまでも主体的実践的なものであるが、しかし主体的な身体なしに起こるものではない。従って主体的な意味における空間性・時間性が右のごとき運動の根本構造をなすのである。ここに空間と時間とがその根源的な姿において捕らえられ、...こころ(精神)は存在するか(14)

  • こころ(精神)は存在するか(13)

    ベルグソン・メモ(つづき)。誰もがつかうことばに「時間」「空間」がある。二つをあわせて「時空間」というときもある。これは「四次元」をあらわすと私は理解しているが、ベルグソンは、時間=と=空間という表記をつかっている。(訳語だから、フランス語ではどう書いているか、私は知らない。私はベルグソンの研究をしているのではないから、厳密には考えない。というか、前に書いたように、私は私の考えを整えたいのだから、ベルグソンが言っていることよりも、そのことばが触発してくるものに関心がある。)どうして、ここに「と」が入ってくるのか。「と」とは何か。この「時間=と=空間」は「空間であるとともにまた時間でもある」と言いなおされ、さらに「時間であるとともに空間である」とも言いなおされる。言いなおすとき、何が変わっているか。ベルグソ...こころ(精神)は存在するか(13)

  • こころ(精神)は存在するか(12)

    ベルグソンは書いている。ただ一つの実在的時間が存在し、他のすべての時間は虚構の時間である。「実在的時間」は「生きられた時間」を言いなおしたものである。個人個人によって「生きられた時間」だけがほんとうの時間であり、そのほかは虚構の時間である。私はこれを利用して逆に言いなおす。「実在的」とは「生きられたもの/体験されたこと」である、と。「実在的ことば」とは「生きられたことば」であり、その対極に「虚構のことば」がある。「実在的肉体(ベルグソンは、実在的身体、と書くかもしれない)」は「生きられた肉体」であり、その対極に「虚構の肉体」である。「虚構のことば」「虚構の肉体」であるにもかかわらず、私がそのことば、肉体に反応するとすれば、それはその虚構のなかに私の「体験」を直観するからである。実感するからである。*また、...こころ(精神)は存在するか(12)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(80)

    「岩の小舟溜まり」。聞け。言葉は老いたる者の叡知。この一行は、不思議だ。突然「言葉」が登場する。「言葉は叡知」を「叡知は言葉」と読み直すこともできるだろう。そのとき「老いたる者の」という修飾語を必要とするかどうかは、わからない。いや、そうではなく、この一行では「老いたる者」が、間接的に、重要なのかもしれない。間接的に重要、というのは奇妙な言い方になるが。言いなおそう。もし「老いたる者」のかわりに「若者の」ということばがこの一行にあったとしたら、その前後の表現はどうなるのだろうか。「肉体は若者の叡知」とならないだろうか。「叡知は肉体」である。それは「肉体は叡知」にかわり、そして、その「叡知」は「無知(恐れを知らない)」かもしれない。そこには輝かしい「いのち」がある。「いのち」は「叡知」など必要としない。その...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(80)

  • 野沢啓「文法的詩学との交差点--藤井貞和試論との対話」

    野沢啓「文法的詩学との交差点--藤井貞和試論との対話」(「イリプスⅢ」6、2024年01月20日発行)私は「誤読」が大好きな人間であるから、他人の誤読を指摘しても意味はないのだが、しかし、まあ、驚いた。あらためて認識しよう。詩とはそれぞれが起源の言語とならなければならない。この部分だけを取り出せば、野沢がこれまで書いてきた「言語隠喩論」の「復習」と読めないわけではないのだが(野沢はそのつもりだろうが)、ここで書かれている「起源」というのは、実は藤井貞和の書いた文章からの借用である。「イリプスⅢ」5で藤井が野沢の「言語隠喩論」に対する好意的な批評を書いたので、今度は野沢が、藤井の論を紹介しながら藤井を持ち上げているのだが、藤井の書いている「起源」は「一般的」なものではない。藤井は「和歌」をとりあげ、「類歌」...野沢啓「文法的詩学との交差点--藤井貞和試論との対話」

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(79)

    「サントリーニ島讃歌」。世界に躍り出た初子。「初子」には「ういご」のルビがついている。いまも多くの人がつかうことばかどうか、私は知らないが、自分ではつかわないし、聞いた記憶もない。しかし、読めば、意味はわかる。音を聞いてだけでも、たぶん、文脈から意味はわかる。このあとには「海の産んだ子。」という補足的な一行もある。そして、たぶんその補足的な一行があるからこそ、「初子」ということばを中井は選んだのかもしれない。つまり、ここでは「わかりにくさ」が選ばれているのだ。わかりにくいことばで読者を立ち止まらせる。そして、いったん立ち止まったあと、簡単なことばで想像力を後押しする。ことばの動きに緩急が生まれる。想像力に緩急が生まれる。そのリズムに合わせて世界が豊かになる。中井は、さまざまなことばで「意味」を超える。「意...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(79)

  • こころ(精神)は存在するか(11)

    ベルグソンにかぎらないが、私がベルグソン、あるいは和辻哲郎を正しく理解しているかどうか(私の読み方を他人が正しいと思うかどうか)は、私には問題ではない。私は私の考え(ことば)を整えたいのであって、ベルグソンや和辻をだれかに紹介したいわけではない。私が紹介しなくても、ほかのひとが「正しく」紹介しているだろう。「連続」を、ベルグソンは「充足している流出と以降の連続性」と定義したあとで、「充足」を「流れるものを含まない、移行しない」と言い直し、そこから「持続=記憶」と再定義している。このときの「記憶」とは「変化そのものの内的な記憶」である。ここから「内的時間」というものが生まれてくる。そのあと、こう書いている。われわれの内的生の各瞬間には、われわれの身体の、そしてそれと「同時」の回りの全物質の瞬間が、対応してい...こころ(精神)は存在するか(11)

  • こころ(精神)は存在するか(10)

    ベルグソン全集3(白水社)、「持続と同時性」を読む。ベルグソンと和辻哲郎をつなぐ「ことば」は「直観」である。ベルグソンは「直観」と同時に「直接」ということばの方を好むかもしれない。アインシュタインの理論に触れながら、「知覚」について、こんなことを書いている。人が走るとき、人が地球の上を走るのだが、これは他者から見れば人の足の下を地球が動くととらえることもできる。これはもちろん物理(数学/論理)の可能性の問題である。しかし、実際に走る人(行為する人)は、自分の行為を「直接」知覚している。この知覚は意識と呼ぶこともできる。それは「内的絶対性」であり、「事実」である。運動する人(走る人)にとって、これはその人の内部で起きる「直接」の感覚(知覚)であり、この「直接」は「確実」であって、ゆるぎがない。そして、この「...こころ(精神)は存在するか(10)

  • Estoy Loco por España(番外篇433)Obra, Juan Gamino

    Obra,JuanGaminoUnhombreyunamujerteniendosexo.Inclusosilosantiguosescultoresgriegoshubierancreadoaunhombreyunamujerteniendosexo,probablementenohabríancreadoalgocomoesto.TampocoMiguelÁngelquerenovólaesculturagriega.NiRodin,niGiacometti.Hayuna"forma",peroloqueveonoesuna"formaexterna".Entonces,¿seexpresala“formainterna”?Enotraspalabras,¿representaelcorazónyel...EstoyLocoporEspaña(番外篇433)Obra,JuanGamino

  • 九段理江「東京都同情塔」

    東京都同情塔九段理江新潮社九段理江「東京都同情塔」(文藝春秋、2024年03月号)九段理江「東京都同情塔」は第百七十回芥川賞受賞作。AIの文章が活用されているとか。そのことへの「好奇心」で読んだのだが。読んで、時間の無駄だった。この作品は「ことば」が重要なテーマになっているのだが、そのテーマは「ストーリー」として動いているだけで、哲学の深みに降りていかない。名前は物質じゃないけれど、名前は言葉だし、現実はいつも言葉から始まる。という一行がある(306ページ)。小説のタイトルにもなっている「東京都同情塔」という名称に関する考えを述べた部分だ。登場人物のひとり、女の建築家の口をから出ている。九段が思いついた一行なのか、借り物の一行なのか、わからない。わからないが、私は「借り物」と判断している。「現実はいつも言...九段理江「東京都同情塔」

  • こころ(精神)は存在するか(9)

    父が死んだ年齢に近づいてきたせいか、しきりに死について考えるようになった。私は父の死に目(臨終)には立ち会っていないのだが、葬式のあと、いや焼骨のあと自宅に帰ったとき、姉が「父が自宅の前の道から碁石が峰を見ていた」とぽつりと漏らした。それは死ぬ直前のことではなく、たぶん手術後、いったん退院したときのことなのだろうが、まるで碁石が峰を見ながら死んでいったという具合に聞こえた。私はすぐに父がいただろう道に出てみた。道の向こうに田んぼが広がり、その向こうに山が見える。いつも見える山である。見慣れた山である。しかし、驚いた。それは変わらぬ山であったが、何かが違う。違うものが見える。山を見ていた父の姿が消え、父が隠していたものが見える、と感じたのである。父の肉体の形が透明になり、その透明ななかに碁石が峰が見えた。そ...こころ(精神)は存在するか(9)

  • ビクトル・エリセ監督『瞳をとじて』 (★★★★★)

    ビクトル・エリセ監督『瞳をとじて』(★★★★★)(キノシネマ天神スクリーン3、2024年02月09日)監督ビクトル・エリセ出演マノロ・ソロ、ホセ・コロナド、アナ・トレントアナ・トレントが、また「アナ」という役で出演している、というのは、もしかするとどうでもいいことではなく、とても重要なことかもしれない。テーマが「記憶」だからね。私は、アナ・トレントはいつ出てくるんだ、出てこないんじゃないかと、半分不安な気持ちで見ていた。というのも、最初の部分は、なんといえばいいのか、いかにも「仕掛け」という感じのつくり方になっているからだ。人間を見せるというよりも、「ストーリー」を仕掛けの新しさで見せるという映画に見えなくもないからだ。「哀れなるものたち」を、ちょっと思い出してしまったのだ。しかし。後半がすごいなあ。映画...ビクトル・エリセ監督『瞳をとじて』(★★★★★)

  • Estoy Loco por España(番外篇432)Obra, Jesus Coyto Pablo

    Obra,JesusCoytoPablo"Paisajeinterior"serie,Acrílicolienzo,70x70cm."¿Quéeselinterior?Cuandoelinteriorexiste,¿dóndeestáelexterior?""Existealmismotiempoquelaconcienciadelinterior.Elexterioreselinteriorconsciente"."¿Noexisteelexterior?""Cuandoelinteriorrechazaelserinteriorybrotadelinterior,naceelexterior".*Unanotaquequedóprofundamentegrabadaenlamemoria.Deveze...EstoyLocoporEspaña(番外篇432)Obra,JesusCoytoPablo

  • こころ(精神)は存在するか(8)

    和辻哲郎全集第七巻。「ボリス的人間の倫理学」。この本は、和辻によれば、先人の研究などをたよりに、その考えを「まとめたものにすぎない」(「序」、153ページ)。だから、これは意地悪い見方をすれば「剽窃」の部類かもしれないが、こうしたことを「剽窃」と呼ばないのは、林達夫の「タイスの『饗宴』」が書いている通り。林達夫と和辻は、この「剽窃」かどうかをめぐる「構想力」という考え方で共通していると思う。また、人間の「構想力」を考察するときに、個人を社会に還元しながらとらえるところで共通すると私は感じている。その「構想力」について、和辻は「構想力」ということばをつかっているわけではないのだが、183ページに、こんなことを書いている。ポリスは(略)部族と部族との結合によって漸進的に成ったものとはいえない。それはむしろ氏族...こころ(精神)は存在するか(8)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(78)

    「日の青春」。「青春の日」ではない。しかし、「青春の日」であり「日の青春」でもあるだろう。それは融合している。その融合は、東西南北の風にという一行にもある。あるいは、この一行にこそ象徴されているというべきか。現実には「東西南北の風」というのはない。しかし、中空は東西南北に開かれている。そこにはどんな風が吹いてもいい。可能性、しかも開かれた可能性が存在する場所がある。同じように、開かれた可能性としての時間がある。青春だ。もしかするとエリティスは「東西南北の風」とは書いていないかもしれない。あらゆる方向に吹く風のように書いているかもしれない、と私は想像してみる。それから、もし中井があらゆるということばをつかうなら「凡ゆる」と漢字で書くかもしれない、と思ったりした。***********************...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(78)

  • 最果タヒ『落雷はすべてキス』

    落雷はすべてキス最果タヒ新潮社最果タヒ『落雷はすべてキス』(新潮社、2024年01月30日発行)最果タヒは「谷川俊太郎」である。こう書くと、最果タヒにも谷川俊太郎にも不満があるかもしれないが、とても似ていると思う。たとえば、「指輪の詩」。遠くのほうで死んでしまった恋人たちの指輪が、土星の輪よりも、ずっと遠くで、無人で回転していた、愛してるって言って、伝わらない間、その言葉は唯一、永遠のことばになる。最後の二行の中にある矛盾。愛してるということばが伝わって永遠になるのではなく、「伝わらない間」「永遠」になる。この矛盾のあり方が、私には谷川のことばの運動と同じものに思える。そして、その矛盾を「死んでしまった恋人たち」という一種の違和感のあることばで誘い出す構造も、同じことばの構想力だと思う。しかしもちろん最果...最果タヒ『落雷はすべてキス』

  • こころ(精神)は存在するか(7)

    「日記」を書くというのも、なかなか時間がかかる。書きたいことはたくさんあったのだが、時間がとれない。和辻哲郎全集第七巻。「原始キリスト教の文化的意義」を読む。私はキリスト教徒ではない。和辻もキリスト教徒ではない。だから、キリスト教を、あるいは「聖書(新約、旧約)」を「宗教」としてではなく「作品(文学)」として読み進み、そこからことばを展開する。聖母マリアについて書いた部分がとても刺戟的だ。聖母マリアを「想像の所産」と断定し、こう書いている。本質の把握にとっては、与えられているものが知覚的経験的に与えられているか、あるいは想像力によって与えられているかは問わない。(147ページ)聖母マリアが「歴史的人物」ではない、つまり「事実」ではないとしても、そこに「本質」があれば、それで問題ではない。人間にとって重要な...こころ(精神)は存在するか(7)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(77)

    「エレニ」は恋人の名前だろう。この詩も長いのだが、後悔はもう、見えない音楽、暖炉の火、壁の大きい時計のチャイムに変わった。この一行が、私にはいちばん印象に残る。「後悔(する)」と「変わった」が呼応する。そう、何かが「変わった」のだ。「変わる」という動詞は、この詩の中に、ここに一回だけ出てくる。しかし、それは随所に隠れている。「見えない音楽、暖炉の火、壁の大きい時計のチャイム」の三つの「もの」は、どうつながっているか。つないでいたのは「エレナ」だろう。つまり「エレナ」が「変わった」言うことなのかもしれないが、詩人が「変わった」のだとエレナは言うかもしれない。それは、区別がつかない。ただ「変わった」ということだけがある。そして、悲しいことに「変わった」と理解するのは「変わらない」何かである。それが「後悔」を支...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(77)

  • Estoy Loco por España(番外篇431)Obra, Luciano González Diaz

    Obra,LucianoGonzálezDiazDospersonasbailando.Elhombre(probablemente)estádepieylamujerdoblasucuerpo.Sinembargo,tiendoaconfundirloconunhombrequeelevaaunamujerenalto.Apartirdeahora,elhombrevaalevantaralasmujeresenelaire.Quizáslosdosesténtrabajandojuntosparaalcanzarlugaresmásaltosalosquenopuedenllegarsolos.Elhombrelevantaalamujer,ylamujerlevantadasacaalhombred...EstoyLocoporEspaña(番外篇431)Obra,LucianoGonzálezDiaz

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(76)

    「記念日」は長い詩である。四連で構成されている。どの連も、私の人生もここまで来た。と、始まる。なぜ繰り返したのか。書いても書いても書き切れないからだ。書く度に、書いたことの奥から、また書かなければならないことが現われてくる。それは、詩人がいるところへ打ち寄せる波のように。それは一行であって、一行ではない。そして四回繰り返されているのだが、四行というわけでもない。絶対的な一行なのだ。繰り返すことで、ほかのすべてのことばを飲み込み、融合させてしまう。**********************************************************************★「詩はどこにあるか」オンライン講座★メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。メール(宛て先=y...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(76)

  • 青柳俊哉「ひまわりのみずうみ」ほか

    青柳俊哉「ひまわりのみずうみ」ほか(朝日カルチャーセンター福岡「現代詩講座」、2024年01月29日)受講生の作品。ひまわりのみずうみ青柳俊哉地下から吸い上げた水が顔へ湛えられていく風が水面をゆっくりと撫ぜてそれぞれの花びらの形を縁取る溢れだす水はひまわりの花と種子額も頬もゆるやかにひらかれて太陽へ吸われていくひとつにむすばれる地下水と太陽維管束から空へみちあふれていく環状の洪水虹の帯のように空をおおっていくひまわりのみずうみこの作品は、二バージョンあった。第四連が、少し違う。もうひとつの作品は「ひとつにむすばれる地下水と太陽/ひまわりのみずうみ/維管束から空へみちあふれていく/環状の洪水」。「環状の洪水」で終わる方が切れがいい、という意見があった。作者の意図も、水の運動を象徴するものとしての虹(地下水が...青柳俊哉「ひまわりのみずうみ」ほか

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(75)

    「七つの夜想曲」は文字通り七つの作品群。書き出しの「夢は夢に続いて」のことばどおり、ことばがことばにつづいて広がる。象徴的な一行なので、この書き出しについて書こうかとも思ったのだが、朝残ったは消えそうな影、「Ⅱ」の二連目に登場する、この行。「夜想曲」なのに「朝」が出てくる。そのあとに、一字分の空白、一字空き。「残ったは」の「は」のつかい方というか、「残ったのは」ではなく「残ったは」という言い方、そして行末の読点「、」。非常に工夫が凝らされている。この詩では、中井は、読点、句点を駆使してリズムに変化を与えている。行末に句読点がないものもあるが、それは句読点がないのではなく、一字空きが見えない形で書かれているのかもしれない。もしそうであるなら、「朝残ったは消えそうな影、」は「改行」を隠していることになる。句読...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(75)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(74)

    ここからはオジッセアス・エリティスの作品。最初は「エーゲ海」。三つの断章で構成されている。しかも、その一行一行が短く、体言止めの行が多い。イメージが並列しながら世界が展開する。そのなかから一行だけを選び出すのはあまりにも乱暴すぎるかもしれないが。花嫁、船を待つ。「Ⅰ」の部分の二連目の最後の行。読み方は二通りに可能だろう。助詞「が」を補って花嫁「が」船を待つ。「と」を補って花嫁「と」船を待つ。後者の場合、花嫁といっしょに船を待つことになるのだが、意識の重心は「船を待つ」ではなく、「花嫁」になるだろう。船を待っている、ただ待っているのではなく、花嫁と待っている。意識は花嫁を離れない。花嫁と一体になっている。詩人が花嫁の気持ちになっている、という感じか。どっちだろう。手がかりは「が」を補ったときの印象である。(...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(74)

  • Estoy Loco por España(番外篇430)Obra, Emilio Sanchez Garcia

    Obra,EmilioSanchezGarciaSólopuedoreconocerloqueyasé.Además,sólopuedoreconocerlascosascomoquieroreconocerlas.Porejemplo,estasobrasdeEmilio.Noquieroreconocerlascomohierro,piedraomadera.Nopuedoevitarreconocerlascomopájaros.¿Mepreguntoamimismoporque?Estasobrasnoponenhuevos.Novuelanenelcielo.Sinembargo,losreconozcocomopájaros.Lacognición,elcerebro,esextremadam...EstoyLocoporEspaña(番外篇430)Obra,EmilioSanchezGarcia

  • ヨルゴス・ランティモス監督「哀れなるものたち」(★★)

    ヨルゴス・ランティモス監督「哀れなるものたち」(★★)(中洲大洋スクリーン1、2024年01月29日)監督ヨルゴス・ランティモス出演エマ・ストーン、マーク・ラファロ、ウィレム・デフォー簡単に言ってしまえば、これは映画ではなく「安直な文学(大衆小説)」です。つまり、スクリーンで展開されていることをことばに置き換え、ストーリーにすると、それなりにおもしろい。趣向が変わっているので「純文学」と思い、ストーリーがよくわかるというので、絶賛する人がいるかもしれない。ちなみに、映画COMには、ストーリーをこんなふうに要約している。「不幸な若い女性ベラは自ら命を絶つが、風変わりな天才外科医ゴッドウィン・バクスターによって自らの胎児の脳を移植され、奇跡的に蘇生する。「世界を自分の目で見たい」という強い欲望にかられた彼女は...ヨルゴス・ランティモス監督「哀れなるものたち」(★★)

  • こころ(精神)は存在するか(6)

    和辻哲郎全集第六巻。「ホメーロス批判」の125ページに「まとめなおす」ということばが出てくる。「まとめる」という動詞と「なおす」という動詞が組み合わさったことばである。「イリアス」を完成させたのは誰か。複数の人間が、現在残っている形に「ととのえおなした」のではないか。そこには複数の人物の「構想力」が交錯しているのではないか。この「まとめる」という動詞は170ページにも登場し、「まとめなおす」は171ページでは「整理して」「編み込む」という形で出てくる。私が「構想力」ということばで呼んだものを、和辻は「見渡す」ということばをつかいながら「全体の構図を見渡す」(177ページ)と書いている。「全体の構図(全局ということばが178ページにある)」を見渡す力が「構想力(和辻のつかっている構図ということばのなかに、同...こころ(精神)は存在するか(6)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(73)

    「陶工」。壺や鍋をつくっている陶工。土が残った。だから、女を造った。乳房を硬く大きくした。ギリシャ語では、どう書いてあるのだろうか。たぶん、句点「。」ではなく読点「、」でつながる一行、いや、読点さえもないかもしれない。それ以上に気になるのが「硬く」ということばである。粘土でつくるおんな。乳房がやわらかいわけがない。どうしたって硬い。そこで、思うのだ。たとえばミロのビーナスの乳房。あれは硬いか、やわらかいか。大理石だから、触れば硬い。しかし、見かけはどうか。どれくらいのやわらかさか。ここには、男(陶工)の夢が託されている。それは詩を最後まで読むとわかるのだが、「硬さ」というひとことで、詩の展開を「予言」させているところがとてもおもしろい。そのポイントを緊張感のあることば、文体で中井は訳出している。中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(73)

  • Estoy Loco por España(番外篇429)Obra, Joaquín Llorens

    Obra,JoaquínLlorensCuandoviestaobra,meacordédelaobra"人,opersona"quepresentéel1deenero.Aquíunadela人(probablementeJoaquín)sostienealaotra.Podríasersuesposa.Podríasersuhijo.Lapersonaensusbrazossesientecompletamentealiviadaysucuerpoflotaenelaire.Susrostrosestánmuyjuntoscomosiestuvieranapuntodebesarse.Elpequeñoobjetoatrapadoentredoscuerpospuedeserunhijo.Enotra...EstoyLocoporEspaña(番外篇429)Obra,JoaquínLlorens

  • 杉惠美子「ハプニング」ほか

    杉惠美子「ハプニング」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年01月14日)受講生の作品を中心に。ハプニング杉惠美子接触事故で電車が止まった復旧の目途は立っていませんとアナウンス駅のホームには既に並ぶ人々こんな待ち時間は何と説明するのだろうおみやげにもらった饅頭を食べたいけれどそういう訳にもいかない別に焦る気持ちもないけれど黙って待つより他はない少しずつ夕暮れ時の空に包まれ寒気がしてきたビルの明かりがより明るくなり時間を取られたのかもらったのかと考えた昔、たまたま帰りの電車で父と一緒になった時の、父の横顔を思い出した「三連目、時間を取られたのかもらったのかと考えた、がおもしろい。二連目の、実際に起きた出来事に、作者の気持ちが重なっていく部分が、とても自然に読むことができる」「日常的な時間の流れ、待つと...杉惠美子「ハプニング」ほか

  • こころ(精神)は存在するか(5)

    和辻哲郎全集第六巻。43ページ。「ホメーロス批判」の「序言」にケーベル先生のことばを引用している。Philosophie(哲学)は非常に多くのことを約束しているが、自分は結局そこからあまり得るところはなかった。Philologie(文学)は何も約束していないが、今となってみれば自分は実に多くのものをそこから学ぶことができたこれは、和辻自身が自分の体験を語っていることばのようにも思える。私が和辻の文章を読むのは、それが「文学」でもあるからだ。私のつかっている「文学」ということばは、引用した文章に出てくる「文学」とはかなり意味が違うと思うが、まあ、気にしない。私は「学問」として和辻を読んでいるわけではないのだから、そういうことは気にしないのである。この文章で印象に残るのは、「哲学」「文学」ということばと同時に...こころ(精神)は存在するか(5)

  • Estoy Loco por España(番外篇428)Obra, Jesus Coyto Pablo

    Obra,JesusCoytoPabloSólounavezhevistoesecolorantesdequelollamaranazul.Esecolorsealejó,ocultándosedetrásdelrojoyelblanco.Eralaformaenqueunamantesealejabadiciendo:"Sirealmentemenecesitas,venabuscarme".¿FueunpintordeRusoquedijoquecuandoyanopuedeverelcolor,estesevuelvemáspuroenlamemoria,ounpintordeunpaísquecombinaloscomplejossonidosdelalrededordeRuso?Nadierec...EstoyLocoporEspaña(番外篇428)Obra,JesusCoytoPablo

  • こころ(精神)は存在するか(4)

    和辻哲郎全集第五巻。545ページ。法華経は文学と哲学との合い子であって、純粋の文芸作品でもなければ、また純粋の哲学書でもないのである。同じようなことはプラトーンの対話篇についても言える読みながら、これは和辻の文章についても言えるのではないか、と思う。和辻の文章には、文学的魅力と哲学的魅力がある。逆に言った方がいいかもしれない。哲学的魅力と文意学的魅力がある。別な言い方をすると、哲学(論理)を追究して言って、ある瞬間に、論理を打ち破って感覚が世界を広げる瞬間がある、と私は感じる。そして、その感覚が押し広げた世界は、いままで存在しなかった論理を待っている感じがする。論理の予感がある。いま引用した文章にプラトン(対話篇)が登場するが、これも私が和辻に惹かれる理由である。私はいつでもプラトンを読み返したい。ここ何...こころ(精神)は存在するか(4)

  • ウッディ・アレン監督「サン・セバスチャンへ、ようこそ」

    ウッディ・アレン監督「サン・セバスチャンへ、ようこそ」(★★★★)(2024年01月20日、KBCシネマ1)監督ウッディ・アレン出演ヨーロッパ映画、ウォーレス・ショーン、ジーナ・ガーション「インテリア」を見たとき、ああ、ウッディ・アレンがベルイマンのまねをしている、と思ったけれど。ああ、ほんとうにベルイマンが好きなんだねえ。「野いちご」まで出てきた。「第七の封印」「鏡の中の女(だと思う、私ははっきり覚えていない)」も。ほかにも、フェリーニも、トリュフォーも、ゴダールも。いいなあ、昔の映画は。やっぱり「主演」は、ヨーロッパ映画だね。あ、「市民ケーン(オーソン・ウェールズ)」はアメリカか。例外だね。しかし、まあ、笑いっぱなしだったなあ。他の観客は、ひとり、一回笑った人がいたけれど、みんな「沈黙」。どうして?お...ウッディ・アレン監督「サン・セバスチャンへ、ようこそ」

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(72)

    「井戸のまわりで」。女たちが水を汲みにきている。誰か(恋人かもしれない)が小石を投げる。壺に当たってしまう。壺が壊れる。しかし、水はこぼれない。水はそのままだった。これは非現実的だが、一瞬のこととしてならあり得る。こぼれる前、水は壺の形のまま、そこに立っている。映画の、ストップモーションのよう。そのまま動かない。そこに緊張がある。心臓が止まりそうなくらいの。「水は」の繰り返しが、その緊張を高める。原文は「水は」を繰り返していないかもしれない。一行一文かもしれない。しかし、中井は、それを二文に分けた。分けながら、「水は」を繰り返すことによって緊張感を高めている。「分断」と「接続」の、緊張した時間。とりかえしのつかない時間。というのも。たぶん、その井戸のまわりには、石を投げた男をつかまえようと待ち構えている敵...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(72)

  • 精神(こころ)は存在するか(3)

    和辻哲郎全集第五巻の464ページ。最後の一句は、乗門道人親戚工師細民とあって、わたくしにはちょっと読みこなせないのであるが、この「読みこなせない」ということばが、とてもおもしろい。「読めない」ではない。「読む」ことは、読む。このとき、いったい何が起きるのだろうか。先の引用とは直接関係があるわけではないのだが、476ページには、こういう表現がある。思うにこの答えはそういう矛盾を示そうとするものではないであろう。「思うに」ということばがある。強引に言えば、「読みこなせない」とき、その「読みこなせない」部分を「思う」のである。想像するのである。「思う」ことで「道」をつくる。497ページには、こんな文章がある。古い形の法華経を一つの作品として鑑賞し、分析し、この作品の構造や、その根底に存する想像力の特性等を明らか...精神(こころ)は存在するか(3)

  • 精神(こころ)は存在するか(2)

    和辻哲郎を読んでいると「道」ということばが、しばしば出てくる。「道」に最初に出会ったのは『古寺巡礼』だった。仏像や寺を見て回るのだが、仏像や寺の印象を語るまえに「道」が出てくる。「二」の部分で、和辻の父が「お前のやっていることは道のためにどう役立つのか」と問う。和辻は、それに即答はしないのだが、このやりとりが私の頭の中にいつまでも残っている。私は私の父から「お前の道はどうなっているのだ」というようなことは聞かれたことがないが、まるで自分が質問されているように感じてしまう。「道」とは何か。いろいろな答え方があるだろうが、(和辻の父の問いから飛躍するが)、きのう書いた「肉体=ことば=世界」を利用して言えば、このイコール(=)が道である。きのうは、それを「法」と書き換えたが、肉体とことばと世界の関係を成り立たせ...精神(こころ)は存在するか(2)

  • 精神(こころ)は存在するか(1)

    2024年01月018日(木曜日)精神(こころ)は存在するか(1)「精神(こころ)は存在するか」というのは、私がいつも考えていることである。考えがまとまってから書けばいいのかもしれないが、まとまるまで待っていたら書くことができないと思うので、(その前に死んでしまうと思うので)、少しずつ書いていくことにする。仏教というのか、東洋思想と呼べばいいのかよくわからないが、五感+心(意識)で世界を把握する。目耳鼻舌身は視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、それは独立している。それを統合するものとして「意識(精神/こころ)」があるというのだが、どうして「意識(精神/こころ)」という目に見えないものを持ち出すのか、これが私には疑問なのである。なぜ「頭(脳)」を目耳鼻舌身に追加し、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚+ことば(意識=知覚...精神(こころ)は存在するか(1)

  • Estoy Loco por España(番外篇427)Obra, Juan Manuel Arruabarrena

    Obra,JuanManuelArruabarrenaSentíqueestabasoñando.Laflorartificialfrentealaobranoeraflorartificialalprincipio.Eraunaflorordinaria.Sinembargo,enelmomentoenquesecolocófrentealapintura,seconvirtióenunaflorartificialdebidoalainfluenciadelapintura.Esmás,setratadeunaflorartificialúnica.Notengoideadeloquerepresentalapinturadetrásdelaflor.Penséenunpaisajedeshidrat...EstoyLocoporEspaña(番外篇427)Obra,JuanManuelArruabarrena

  • Estoy Loco por España(番外篇426)Obra, Joaquín Llorens

    Obra,JoaquínLlorens¿Esesteunárbol,unahierba(flor)ounapersonaquebaila?Mepareceunaplantaquehabrotadodelatierra,balanceándoseycreciendoconlaluzyelviento,opareceunserhumanoquenopuedecontenersualegríaycomienzaabailarconlaluzyelviento.Yaseanplantasohumanos,hayalgoencomún.Unavidaquenacecambiaamedidaqueinteractúaconelmundo;estaobracapturaelmovimientonaturalqueocu...EstoyLocoporEspaña(番外篇426)Obra,JoaquínLlorens

  • 吉田義昭「余命」

    吉田義昭「余命」(「みらいらん」13、2024年01月15日発行)吉田義昭「余命」は「正しい土地で死にたい」という一行で始まり、何度も「正しい」が繰り返される。正しい死に方で死にたい余命三ヶ月なかなか日も暮れていかない正しい黄昏の時間なのか波打ち際を漂っていた彼が波音に消され語りだす声私に語りかけてはいない「正しい死に方で死にたい」の「正しい」は彼の言った「正しい」。一方、「正しい黄昏の時間なのか」は吉田が考えている「正しい」。それは、一致しているとは言えない。それは吉田が、彼の言った「正しい」を正確に受け止めていないからだ。「正しいって、いったい、どういうことなんだろう。何が正しいのだろう」という疑問が吉田には残っているからだ。では、いったい彼が言いたい「正しい」は何なのか。それは「正しい」としか言いよ...吉田義昭「余命」

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(71)

    「仕事を果たす」。「仕事」は何を指しているか。読者の想像力に任されている。木の葉が一枚。その微かなそよぎ。もうそこからおれは入れる。「そこ」とはどこか。これも読者の想像力に任されているのだが、「そこへ入ること」、それが「おれの仕事」だとわかる。それは誰もができる仕事ではない。彼にしかできない。詩は「そこ」を起点にして、劇的に変化するのだが、この劇的な変化の前に、「木の葉が一枚」と書き、それを「その」で受け止めながら「微かなそよぎ」へ「入っていく」という運動がある。すでに運動が始まっていて、そのあとで「そこ」からということばがつづく。この畳みかけるスピードが、読者の想像力を引っ張っていく。すべては読者の想像力に任されているのだが、一方で、その想像力は強い力でリッツッォスに引っ張られている。この呼吸を、中井は...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(71)

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