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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)
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https://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005
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日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。
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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)さんの新着記事

1件〜30件

  • 嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(45)

    *(わたしが夢のなかで手折つた花を見せましよう)これをあなたの心の一輪ざしに挿しましようすると未知の世界がそつとあなたのものとなるでしよう美しいイメージだが、このイメージを「厳密」に追いかけようとすると、かなり困惑する。「あなたの心に」花を挿すのは、「わたし(嵯峨)」の空想である。その空想のなかで「未知の世界」が「あなたのものとなる」。これもまた空想なのである。でも、きっと、そんなふうには「厳密」に考えない。「あなたのために花を持ってきました。あなたのこころに挿してください。そうすればあなたのこころに、未知の世界が広がるでしょう」と呼びかけている、いや呼びかけようとしている嵯峨の姿を思い浮かべる。同時に、その花を受け取った女の気持ちにもになる。ことばのなかでは作者と読者はあっと言う間に入れ代わるし、作品のなかの...嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(45)

  • 2019年12月12日(木曜日)

    ルシアーノ・ゴンサレスの作品は「ことば」である、と書き始めてみる。それぞれの部位を、たとえば目、鼻、口(唇)、額、頬、首ということばで指し示す。指し示されたものは固有の形を持った具体的なものである。しかしその具体的な部位は現実ではない。ルシアーノの作品は、私が「ことば」と呼ぶものと同じように、現実の目ではない、鼻ではない、口ではないが、その形から私は私の知っている目、鼻、口を思い出し、それを結びつけている。目、鼻、口という「ことば」から、私が現実に存在する目、鼻、口を思い描くように。ルシアーノの作品と向き合うとき、思い描く意識、結びつける意識、その「思い描く」「結びつける」という意識のあり方(動き)そのものが問われていることになる。なぜなら、ルシアーノの作品は「具象」的ではあるが、彼の作品と同じ顔(頭)をした人...2019年12月12日(木曜日)

  • 嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(44)

    *(われは海に住む青銀の飛び魚)きみは空に咲く一抹の雲の花「ぼく」と「あのひと」から、「われ」と「きみ」へと呼称が変わっている。この詩は、こうつづく。あこがれて飛びはすれど落ちてはかなしもとの寂しら描かれるのは「われ」のことだけである。「きみ」はどうなったか書かれない。そして、「われ」の描写には、意味がわからないわけではないけれど、いつもとは違うことば(ふるめかしいことば)がつかわれる。「かなしも」「寂しら」直接的な「響き」がない、と感じるのは私だけだろうか。*詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)『誤読』販売のページ定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。私あてにメール...嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(44)

  • estoy loco por espana (番外33)

    LucianoGonzalezの作品Tengoalgoquequieroescribirsobreestetrabajo.Peroaúnnopuedohablarlo.Taldeseoyansiedadsemuevenenmícuandoveoestetrabajo.Elartemehacequerer.Elartemeponeansioso.Perotodavíanosécuálesmideseo.Todavíanosécuálesmiansiedad.ルシアーノの作品の特徴のひとつは全体が細いこと。この作品も細い。頭部(顔)なのだが、細くて長い。細さのために、目はひとつしかない。耳もない。具象であるけれど、抽象でもある。具象と抽象が共存している。目は好奇心に見開かれている。口は官能的である。唇が濡れ、何か言...estoylocoporespana(番外33)

  • 嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(43)

    *(薊の花が蝶をひきつけるように)愛情が時間をひきつけるこのとき「時間」とは何だろうか。「過去」だろうか、「未来」だろうか、「いま」だろうか。時間をひきつけると時間は、どうなるのだろうか。「愛情」ということばは抽象的すぎるが、愛のさなか、とくに肉体の愛のさなかには、時間は消える。時間を忘れてしまう。ひきつけられたものは、自分の存在を忘れてしまう。「愛情」にひきつけられ、「愛情」は「愛情」がどういうものであるか、忘れてしまうだろうか。簡単には言えないのは、「愛情」も「時間」もかわりつづけるものだからだろうか。水が空気をひきつけるように憎悪が壁をひきつける「憎悪」は「愛情」、「壁」は「時間」を言い直したものか。*詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。オンデマンドで販売していま...嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(43)

  • 桜を見る会の問題点(FBからの転載10)

    朝日新聞デジタル版(https://www.asahi.com/articles/ASMDB5J3KMDBUTFK018.html)(2019年12月10日19時17分)に次のように書かれている。政府は10日、首相主催の「桜を見る会」に出席していたとされ問題になった「反社会的勢力」について、「あらかじめ限定的かつ統一的に定義することは困難」とする答弁書を閣議決定した。↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑この決定は二つの問題点を含んでいる。①「反社会的勢力」の定義が揺らぐのは当然だとしたら、いま、「反社会的勢力」をどう定義するかが語られていない。いまの「定義」をいわずに、「あらかじめ限定的かつ統一的に定義することは困難」といってもしようがない。これは、次のように言い換えることができる。問題の桜を見る会に参加していたひと(菅と...桜を見る会の問題点(FBからの転載10)

  • 2019年12月10日(火曜日)

    考えの対象になることを好まない、という書き置きをして、その「ことば」は一冊の本のなかから逃げ出した。その「ことば」は、その本のなかには存在しないが、その本のことを考える読者の思索のなかには存在する。あるいは、その「ことば」について考えるひとの思索のなかに存在する。「ことば」の意志に反して、そういうことが起きる。「ない」というのは、そういうことだ。「ない」になろうとした「ことば」がある。そして、その「ない」ということに反するように、「ある」が存在してしまう。可能的なものは、その根底に非存在を持つのか。(安部公房『他人の顔』を、このことばから対象化できるか。)これは、また別のメモである。2019年12月10日(火曜日)

  • 萩野なつみ「うたかた」

    萩野なつみ「うたかた」(「ガーネット」89、2019年11月01日発行)萩野なつみ「うたかた」。「うたかた」ということばは聞いたことがある。しかし、私は、自分の口からそのことばを発したことはない。朗読や引用のことばとして聞いたことはあるが、現実のなかで、何かを指し示すことばとして聞いたこともない。知人の声を通して、現実にはなされるのを聞いたことがない。つまり、知識としては知っているが、肉体としてはそれをおぼえていない。どんなふうに萩野はつかうのか。その爪にいつかしのばせた海が息絶える時の色をおぼえていてこの「おぼえている何か」が「うたかた」かもしれない。「うたかた」を先取りしてことばが動いているのだろう。有名な「よどみにうかぶうたかたの」と「海」は水という部分で重なるし、「かつきえ、かつむすび」(あるいは「かつ...萩野なつみ「うたかた」

  • 嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(42)

    *(花藤の下に立つて)朝に夕にあのひとを憎むこころは癒えない「花藤の下に立つても」ではない。花藤の下に立って、憎むこころが、その憎しみを暴走させているのを見ているのだ。想像しているのだ。こころは、どんなふうに、あのひとを憎むのか、と。砂の上にその名を書きちらしはては罵りつつ力をこめて踏みつける「名」を踏みつけるとき、こころを踏みつけるのだろう。あのひとの、こころを。そのとき、嵯峨のこころと、あのひとのこころが直に触れ合うのだ。*詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)『誤読』販売のページ定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。私あてにメール(yachisyuso@gmail...嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(42)

  • 2019年12月09日(月曜日)

    精神は見えない。見えないものを「絶対」と規定することは危険だ。もし精神が間違えても、その間違いを知ることができるひとは少ない。精神(ことば)を過信しない方がいい。感性も同じではないか。見えているのは「感性(感覚)」ではなく、感性がとらえたものである。感性が間違えても、その間違いを指摘できるかどうか、わからない。感性によってとらえられたものが「ことば」として表現されないかぎり、それは他者には認識されないからである。これは、しかし「ことば」で書かれていること、つまり「精神」の錯乱が噴出しているだけなのではないか。2019年12月09日(月曜日)

  • 若尾儀武「どんど焼き」

    若尾儀武「どんど焼き」(「タンブルウィード」6、2019年09月20日発行)若尾儀武「どんど焼き」は、全行を引用すれば、もうそれだけで、感想や批評は何も書かなくていい作品である。だからこそ、私は、あえて「ぶつぶつ」に切って、感想を書く。タモッちゃんゆうたらいつもいつも端(はじ)にいてこっち来(き)いとゆうた時だけ心持ち寄ってきて何べんゆうても次にはまた端に戻るそんなところからなんぼ手ぇ伸ばしても温くうなれへん方言である。というより、口語といった方がいいだろうなあ。いや、口調の方がいいかもしれない。自然にしゃべっている感じがする。しゃべるのは、ひとと近づくためである。そういうことを感じさせる、「開かれた」口調。「こっき来(き)い」というために、ひとは声を出すのだと思う。輪をつくって座ったら誰にでも自分の尻ぴったり...若尾儀武「どんど焼き」

  • 嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(41)

    *(一輪の花ということはできよう)「一輪の花」は比喩。女を「一輪の花」ということはできる。嵯峨は、その「一輪の花」を、次のように言い直す。瞬時の風ということはできよう比喩を重ねるとき、比喩を貫くものは何だろうか。感覚か、知性(精神)か。区別はむずかしいが、そこに「ない」ものを結びつけることで、いままでつかみきれなかったものを明確にする。それは精神の運動といえるだろう。ことばは「精神」なのだ。だから、こんな描写が可能になる。あのひとはつつましい足どりで感情のうえをたち去つていつた女を対象としてみているだけではなく、「感情」を対象としてみている。「精神」で世界をとらえなおしている。嵯峨の感情の上をと読むのが一般的だろうが、私は、女が女の感情の上を、と読みたい。愛が消えるとは、女そのものが変わることだからだ。*詩集『...嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(41)

  • 2019年12月08日(木曜日)

    「それ」は存在するか。「それ」を存在させようとする意思(ことば)がある。ことばが動き始める。「それ」が存在するとしたら、「それ」はことばを動かす「私」のなかにある。「私」の外にあるのではない。外には「ない」からこそ、「それ」を客観化できないのだが、その「ない」はいつでも主観的には確実に「ある」。そして、この「ない」を「ある」に変えようとする力は、あらゆる対象に対して働きかけを試みる。このとき「主観」は「主観」のままではいられない。何らかの「客観」として動かなければ、対象に作用することはできない。ここにいちばんの問題があるのだが。「主観」は、すでにそこに「ある(客観)」を否定し、それを「ない」と断定した上で、それを「私のなかにあるもの」、つまり「私の外にないもの」に変えようとする。主観によって「ある」を変質させて...2019年12月08日(木曜日)

  • 嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(40)

    *(いつになつたらぼくの口の中が銀色の夜明けになるのだろう)これは、どういう感覚なのか、私にはわからない。後半に女との交渉が「今日もまだぼくの舌は海鼠のように腫れあがつている」ということばとともに書かれているから、セックスの疲れが口の中にも広がっているということか。「銀色の夜明け」は疲れがとりはらわれる感じだろうか。しかし、冒頭の一行は、二日つづきの休日が晴れた日と雨の日で、ぼくは黒白の市松模様に染まつてしまつたとつづいている。これが、わからなさに、さらに拍車をかける。*詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)『誤読』販売のページ定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。私あ...嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(40)

  • 堤美代『日の傘』

    堤美代『日の傘』(詩的現代叢書38)(書肆山住、2019年11月16日発行)堤美代『日の傘』の「招魂」。柄杓で水を汲むように手のひらの淵でホタルの青い光を汲もうとしたおおかたは手のひらの外の草の闇にこぼしてしまった「水を汲む」という手の動きを思い出す。水が零れないようにするのだけれど、一方で上の方は開かれている。「水を汲む」は「水を閉じ込める」ではない。同じ動きがホタルをつかまえるときにも起きている。完全に閉じ込めるのではなく、開かれたところを残して、そっとつつむ。逃げるなら逃げてかまわない。三連目で「おおかたは」「こぼしてしまった」と書いているが、むしろ、こぼすことが目的ではなかったかとさえ思える。それはつかまえるではなく、触れ合うということにもなるだろう。手のひらに一瞬おさまる。手のひらを一瞬照らして、すー...堤美代『日の傘』

  • 嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(39)

    *(夕虹のような)一枚の春のスカーフにぼくは巻き込まれたこの「春のスカーフ」は幸福というよりは、幸福の記憶である。それは虹が消えるように消えてしまう。一瞬、美しいものを見せて。人は、幸福なときに、幸福な情景に出会うとは限らない。雨の日に遠い田舎へ帰つて行こう虹と春のスカーフに、嵯峨は自然を思い描く。田舎は、たぶん、虹が出なくても美しい。都会と違って。*詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)『誤読』販売のページ定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(39)

  • 山本テオ「チューとも言わない」

    山本テオ「チューとも言わない」(「gui」118、2019年12月01日発行)山本テオ「チューとも言わない」はネズミの死骸を見たときのことを書いてる。日陰のない時間毛並みのいいネズミが一匹警察署の脇で死んでいた突っ伏して顔をそむけアスファルトの熱を確かめるように「毛並みのいい」がおかしい。「警察署の脇」もおかしい。ネズミの死骸と警察署と、どちらを先に気づいただろうか。わからないけれど、山本はネズミにかえっていく。「アスファルトの熱を確かめるように」が、なんというか、「親身」である。それが、非常におかしい。途中を省略して。急に風と大粒の雨警察署の前に戻るとさっきのネズミがいない生き返って走り去ったのかポリスが見つけて検死に回したかネズミだとしても死骸が雨にうたれるのは忍びないが私は濡れてもかまわない生きているから...山本テオ「チューとも言わない」

  • 嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(38)

    *(午後になると顔が火照つてくる)わが肺臓のうえに穴のように休んでいるものはなんであろう小さな蝶のように息づいているものは何んであろう「穴」は「小さな蝶」と言い直され、「休む」は「息づいている」と言い直される。「なんであろう」「何んであろう」と疑問が、その言い直しを束ねる。書かれていないが「小さな蝶」の前には「わが肺臓のうえに」が省略されている。わが肺臓のうえに穴のように「息づいている」ものはなんであろうわが肺臓のうえに小さな蝶のように「休んでいる」ものは何んであろう「休んでいる」と「息づいている」を入れ替えると、「穴」が「小さな蝶」に変身、生まれ変わっていることがわかる。「穴」は「欠乏/虚無」をあらわすかもしれない。それが「小さないのち/希望」に生まれ変わる。そういう変化を生み出す「肉体」の力に、嵯峨は顔を火...嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(38)

  • 2019年12月05日(木曜日)

    抽象的なことがらだけではなく、たとえば「水」について書かれたものを読むときにだけ「水」というものがわかる。そして、その「わかった」ことを自分のことばで言おうとすると、あいまいになる。つまり「わかっていない」ということが、わかる。ことばは、この「わかる」と「わかっていない」をつなぐ。2019年12月05日(木曜日)

  • 一方井亜稀『青色とホープ』

    一方井亜稀『青色とホープ』(七月堂、2019年11月01日発行)一方井亜稀『青色とホープ』には、書き出しが「外国小説(翻訳小説)」のような作品がある。「遠景」も、そのひとつ。すれ違う電車に人の影は認められず吹き溜まりの埃は揺れているがらんどうの車内は夜の口にすっぽりと収まり遥か向こうにコンビニの灯りが見える失う前に与えられていないということがなぜ喪失の文字を伴って目の前を遠く押しやるのか「人影は認められず」。ふつうにつかうことばかもしれない。しかし、わたしはそこにつまずく。「認められず」は「肉体」のことばではなく、精神(知性)のことばである。「肉体のことば」では「見えない」という。一方井は、つまり、一気に「知性」の世界へ入っていく。このスピードが、私には「翻訳小説」の文体に近いように思える。「目の前」(七行目に...一方井亜稀『青色とホープ』

  • 嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(37)

    *(あなたの手紙の余白は)ふたたび「あなた」にもどって、詩はつづく。夕顔の花のような匂いがするこの一行は不思議である。「夕顔の花のような」は「匂い」を修飾している。そして「夕顔の花のような」というのは、そのまま「比喩」でもある。だが。それは「余白」の「比喩」なのか。「余白」の「比喩」は「匂い」ではないのか。ことばが動いている。「意味」の「固定化」を拒否している。そして、こんなふうに展開する。昨日も今日も晴れた日も雨の日も*詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)『誤読』販売のページ定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。私あてにメール(yachisyuso@gmail.co...嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(37)

  • 嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(36)

    *(ぼくはおまえの部厚い白い胸を力いつぱい踏みつけたい)「白」がつづいている。しかしこの部分では「あなた」ではなく「おまえ」ということばがつかわれている。「おまえの部厚い白い胸」の「おまえ」はこれまで書かれてきた「あなた」とは違う人間なのか。「ぼく」はあいかわらず「ぼく」であるが、同じ「ぼく」であると言えるのか。きのう「転調」ということばをつかったが、この詩では「転調」しているのだ。おまえの弾力のある白い胸をぼくは天までとどけと踏みつけたい「天までとどく」のは何だろうか。「白い胸」ではないだろう。白い胸は踏みつけられている。天に届くはずがない。踏みつけられる「おまえ」の「声」か。あるいは踏みつける「ぼく」の「声」か。「怒り」か。「踏みつけたい」ということばに目を向けてみる。「踏みつける」ではなく「踏みつけたい」...嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(36)

  • 「読解力」低下を批判できるのか

    「読解力」低下を批判できるのか自民党憲法改正草案を読む/番外309(情報の読み方)2019年12月04日の読売新聞(西部版・14版)の1面と3面。国際学力調査の結果が載っている。1面の見出し。日本「読解力」急落15位/長文読み書き減要因か3面の見出し。「情報探し出す」苦手私は、この見出しを見て笑い出してしまった。「長文の読み書き」をさせないようにしているのは誰か。「情報の探し出し」をさせないようにしているのは誰か。「現実」の問題から考えてみよう。「桜を見る会」で安倍の「公金私物化」が問題になった。いろいろなひとが、いろいろな「情報」を探し出してきて、問題点を指摘した。「招待者名簿」を野党が要求した。ホテルニーオータニの「前夜祭」の参加料金が5000円というのは、ホテルニューオータニの「宣伝資料」と比較すると安す...「読解力」低下を批判できるのか

  • 甲田四郎『大森南五丁目』

    大森南五丁目行甲田四郎土曜美術社出版販売甲田四郎『大森南五丁目』(土曜美術出版販売、2019年05月30日発行)甲田四郎『大森南五丁目』の「床屋」。床屋にいったときのことを書いている。客の来ない床屋だ。「理髪店」ではなく。ここがポイント。大声出したらしばらくしておじさんが出てきた客がない時は寝ているんだ私のように「私のように」が味わい深い。「おじさん」は「寝ていた」とは説明しない。でも、わかってしまう。「おじさん」ではなく「おじいさん」なのだが、「私」は「私をおじさん」と思っているから(そういう気持ちが残っているから)、「おじさん」と呼ぶのである。「私のように」おじさん、と。この三行のなかに、そういう「書かれていないこと」が「書かれている」。どっちも自分の腕で食う細々と生き残って味わっている平和である「どっちも...甲田四郎『大森南五丁目』

  • 嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(35)

    *(あなたは直立ている)日光と空気とをあつめた太い白樺の幹のように白樺の幹のなかには千の蜜蜂の唸りがきこえるここでも「白」が目立つ。「日光」の「日」は「白」に似ている。しかし、「蜜蜂」の比喩を経たあと、「白」は変化する。あなたの豊かな肉体のなかには海のような熱量の響がする。「あなたの肉体」は「白い肌」を持っているだろう。海は「白い波」を持っているだろう。それは隠されて、かわりに「唸り」からはじまった比喩が「響」になる。「千」は「熱量」と言い直され、「響」も抽象的になる。「転調」の準備だ。*詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)『誤読』販売のページ定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続き...嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(35)

  • 表現と主張(私は猫ではない)

    表現と主張(私は猫ではない)自民党憲法改正草案を読む/番外308(情報の読み方)2019年12月02日の読売新聞(西部版・14版)の1面から2面にかけて、山崎正和の寄稿が載っている。「表現と主張履き違え」というタイトルがついている。そこに書かれている「表現」と「主張」の定義が、とても奇妙である。表現は本来的に謙虚な営みであって、最初から表現相手に対する敬意を前提にしている。ひとは相手の好意を得ようとして顔かたちや仕草をととのえるわけだが、その相手が自分の尊敬する人でなければ努力の意味がない。(略)(だから)猫を相手に身繕う人はいない。主張は一種の自己拡張行為であって、根本的に相手に影響を与えて変えようとする動機に基づいている。敵意からであれ好意からであれ、相手を啓蒙・教育して、自分の考えに従わせようとする。早い...表現と主張(私は猫ではない)

  • 嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(34)

    *(白樺の幹から)雨雲がずりおちるようにあなたの白い豊満(ゆたか)な肩から重い衣裳がずりおちる「ずりおちる」は「ずれて、おちる」。そこにあるべきものが、そこから「ずれて」、その結果「落ちる」ということだと思うが、私はこの音になじめない。「ずれる」は「すれる(こすれる)」でもあると思う。接触がある。摩擦がある。それがそのまま「音」になる感じだ。重苦しい音だ。不快な音だ。この印象は、次の行の展開と不思議な向き合い方をする。嘘のなかのしずかな雪渓よ舞い落ちる沈黙よ「しずかな」「沈黙」。ふたつのことばには「音」がない。「ずりおちる」といっしょに音は書かれていないが、私は音を感じる。その、私の感じた音を消すように「しずかな」と「沈黙」がある。「雪渓」は、どう動いているのか。「しずかに」とどまっているのか。「沈黙」は舞い落...嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(34)

  • たなかあきみつ『静かなるもののざわめき P・S』

    たなかあきみつ『静かなるもののざわめきP・S』(七月堂、2019年11月20日発行)たなかあきみつ『静かなるもののざわめきP・S』を読む。わからない。何がわからないかというと「意味」がわからない。しかし「意味」というものは、ひとりひとりにとって違うから、「意味がわかる」ということなど、実際にはありえない。どこかで完全に違っている。そう考えてしまうと、「読む」こと、つまり感想を書くことは、むずかしくはない。「意味がわからない」というのは「たなかの書いている意味」と「私の読んでいる意味」にはつながりがない。重なり合うもの、共有できるものがない、ということであり、それは逆に言えば、これから書くことは「たなかの意味」ではなく、あくまでも「私(谷内)の意味」にすぎない。私が書いているのは、いつでもそういうことだから、とく...たなかあきみつ『静かなるもののざわめきP・S』

  • 嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(33)

    田舎の雨*(雨が降りしきつている)そのはしばしに白い数字を連らねながら雨は単一の思想を現わしている白い雨、ならば秋の雨だろうか。「白い数字」は「思想」の比喩と思って読む。その思想の特徴は「単一」であるということか。「数字」は0から無限まであるが、それを貫いているのは「単一」の思考である。1+1が無限につづいていく。だが、この詩は、そういう読み方を裏切って、次のように閉じられる。--雨は昨日の感情のうえに降りつづけるなぜ「きょう」ではなく「昨日」なのか。なぜ「知性(理性)」ではなく「感情」なのか。考えてみなければならないのは、「昨日の感情」というのは、「いつ」存在しているかということだ。「昨日の感情」をきょう思い出すとき、それは「きょうの感情」ではないのだろうか。きょう思い出しているにもかかわらず、それを「昨日の...嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(33)

  • 中曽根の死

    中曽根の死自民党憲法改正草案を読む/番外307(情報の読み方)2019年11月28日の読売新聞(西部版・14版)の1面に中曽根康弘元首相の死亡記事が載っている。いろいろ書かれているが、注目したのが渡辺恒雄のコメントだ。私が平記者、中曽根さんがまだ陣笠代議士の頃から、毎週土曜日にはきまって読書会をして、良書を読みあさった。「良書」が具体的に何を指しているかはわからないが、本を読んでいたことだけはたしかである。そして、語り合っている。コメントは、こうつづいている。夜二人で酒を飲むときも、話題は読書の話、政治の話ばかりだった。あのような勉強家、読書家は他に知らない。20行足らずの記事のうち、半分近くを占める。「読書家」の印象が強いのだろう。「読書」というのは単に他人のことばを読むことではない。他人のことばにふれて、自...中曽根の死

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