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  • 杉惠美子「秋の階段」ほか

    杉惠美子「秋の階段」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年11月18日)受講生の作品。秋の階段杉惠美子秋の階段を登ったら銀杏の色に染まってしまって自分を見失ってしまった秋の階段を降りたら川に落ちて落ち葉と一緒に流れてしまった秋の風は窓を探して迷ってしまって空に舞い上がったやがて秋の風は人の心を優しく包み穏やかな風となってあたりを静かに包んだその白い風の中から私は何かを手繰り寄せたいと思った離れて自分を観る今年の秋がそこにあるかもしれない受講生の声。「連の進み方が詩。秋の風は、春や夏の風と違って白い。その白い風がいい」「途中で風が主体になる。最後の、あるかもしれない、が印象的」「四連目までは、杉さんらしい詩的表現。最後の二連に飛躍がある」「終わりから二連目の、何か、というのはわからないもの。そのわから...杉惠美子「秋の階段」ほか

  • 谷川俊太郎の死(4)

    谷川俊太郎が出演する映画「谷川さん、詩をひとつ作ってください。」という映画が完成したとき、そのパンフレットにおさめる「紹介文(コメント)」の依頼が来た。映画そのものを見ているひとも少ないだろうし、私のコメントを読んでいるひともほとんどいないだろうから、全文を引用しておく。相馬の高校生が津波被害にあった自分の家を訪ねる。「最初は風呂があったんだけれど、今はもうなくなった。残っているのはこれだけ」と家の土台を示す。また「こっち側が畑、こっちは家」とか「ここに小さいときの机があって、大きくなったらこっち」と、空き地で間取りを説明する。その瞬間、私は「今、詩が生まれている」と感じた。彼女が体で覚えていることが、ことばになって彼女のなかから出てきている。そこにないものに向かって、ことばが生まれている。あ、こんなこと...谷川俊太郎の死(4)

  • ヌリ・ビルゲ・ジェイラン「二つの季節しかない村」(★★★★★)

    ヌリ・ビルゲ・ジェイラン「二つの季節しかない村」(★★★★★)(KBCシネマ2、2024年11月26日)監督ヌリ・ビルゲ・ジェイラン出演デニズ・ジェリオウル、メルベ・ディズダル、ムサブ・エキチ、エジェ・バージ冒頭、主人公の教師が雪のなかを村へ帰ってくる。このときの雪。これが、絶望的に冷たい。美しくはない。ただ冷たいだけである。雨が混じっていて、やりきれない音が聞こえる。白く輝く雪ではなく、灰色に沈む雪。この「灰色」がこの映画のテーマであると私は直感する。この雪に似た雪は、一度映画で見たことがある。「スウィートヒアアフター」(アトム・エゴヤン監督)。この映画もまた灰色の冷たい雪、凍った雪が私を閉じ込めて放さない。「二つの季節しかない村」には、小学校の校庭で雪をぶつけ合う楽しいシーンもあるのに、その楽しさは人...ヌリ・ビルゲ・ジェイラン「二つの季節しかない村」(★★★★★)

  • 谷川俊太郎の死(3)

    谷川俊太郎の『こころ』を読む谷内修三思潮社『女に』が谷川俊太郎との「最初の出合い」だとすれば、『こころ』は「二度目の出合い」である。朝日新聞に「こころ」が連載されていたとき、何度かブログに感想を書いていた。連載が一冊になったとき、全部の感想書き直してみようと思った。ただし、「書き直す」(整え直す)という感覚ではなく、「初めて読む感覚」で書き直してみようと思った。最初は数篇をまとめてとりあげたが、そのあとは一日一篇、書く時間は15分、長くても30分と決めて書き始めた。「評論」でなく、「評論以前」を目指していた。詩を読むとき、だれも評論を書こうとは思わずに読み始めるだろう。その感じを、ことばにしてみたいと思った。詩に限らないが、どんなことばでも、それを読んだときの状況によって印象が違う。その「違う」ということ...谷川俊太郎の死(3)

  • 「一読者」を叱る(谷川俊太郎の死とその報道その2)

    「谷川俊太郎の死とその報道」という文章を11月20日に書いた。この文章に対して、「一読者」というひとから、コメントがあった。22日の午前3時12分という、たいていのひとが眠っている時間に書き込まれていた。新聞が違います(一読者)2024-11-2203:12:53東京では「20日の朝刊」ではなく、朝日、毎日、日経、読売の「19日の夕刊」で谷川さんの事が詳しく報道されていました。読売は19日の朝刊にも簡単な情報が出てました。あなたが住んでいる地域とは新聞の発行事情が違っています。そうことも考えた上で書いたほうがいいと思いますよ。谷川賢作さんの19日朝のfacebookの書き込みを読みましたか。葬儀は18日だったそうで、この時点では読売の報道はされていません。当然、静かに家族で見送ったことでしょう。あなたが怒...「一読者」を叱る(谷川俊太郎の死とその報道その2)

  • 谷川俊太郎の死(2)

    女に:谷川俊太郎詩集谷川俊太郎マガジンハウス谷川俊太郎の「ことば」に初めて出合ったのは、いつか。私の場合、はっきり言うことができる。『女に』(マガジンハウス、1991年)を読んだときである。もちろん、「鉄腕アトム」は、それよりもはるか以前に知っている。しかし、それは「谷川俊太郎のことば」という意識とは関係がない。何も知らずに出合っている。『二十億年の孤独』も、その他の詩集も、『女に』以前に読んでいる。いや、読んでいるは正しくない。目を通している。しかし、それは「出合い」ではない。私のまわりに、偶然存在していたにすぎない。『旅』にしろ、『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』にしろ、あるいは『定義』『コカコーラ・レッスン』にしろ、読んでも感想を書くことはなかった。ラジオやテレビから聞こえる「流行歌」のよ...谷川俊太郎の死(2)

  • 谷川俊太郎の死(1)

    谷川俊太郎には、四回か、五回、会ったことがある。忘れられないのは、やはり、一回目のときである。私はもともと谷川を含め詩人とはつきあいがない。たまたま、谷川が福岡へくることをポスターか何かで知った。(新聞の小さな案内だったかもしれない。)なぜだかわからないが会ってみたい気がした。大胆にも、私ははがきで「福岡の催しのとき、楽屋に訪ねていっていいですか?」と問い合わせた。すると自宅に電話がかかってきて「いいよ」。直接声を聞いたのが初めてだったこともあり、まさか電話で返事が聞けるとは思っていなかったので、とても驚いた。これからが、たいへんだった。私は、情報収集(?)のために、池井昌樹に電話で訪ねた。「谷川って、どんなひと?」「おまえなあ、谷川はたいへんなひとだぞ。若いときから詩ひとすじで苦労してきたひとだからなあ...谷川俊太郎の死(1)

  • 谷川俊太郎の死とその報道

    谷川俊太郎が死んだ。(私は、敬称もつけないし、「死亡した/亡くなった」とも書かない。敬称つけたり、「死亡した/死去した」というようなことばをつかうと、谷川が遠い存在になってしまうと感じるからだ。)私がその報道に、最初に触れたのは11月19日読売新聞朝刊(西部版、14版)だった。谷川俊太郎の死以上に、その「報道」に私は衝撃を受けた。ふつうの「死亡記事」とはまったく違っていたからだ。こう書いてある。日本の現代詩を代表する詩人で、「二十億光年の孤独」や「朝のリレー」など数多くの親しみやすい詩が人々に愛された谷川俊太郎(たにかわ・しゅんたろう)さんが、18日までに死去した。92歳だった。ふつうは、こうは書かない。どう書くか。朝日新聞(11月20日朝刊、西部版、14版)は、こう書いている。「朝のリレー」「二十億光年...谷川俊太郎の死とその報道

  • 谷川俊太郎「感謝」

    谷川俊太郎「感謝」(朝日新聞朝刊、2024年11月17日)朝日カルチャー講座(福岡・朝日ビル8階)で、谷川俊太郎の「感謝」を読んだ。目が覚める庭の紅葉が見える昨日を思い出すまだ生きてるんだ今日は昨日のつづきだけでいいと思う何かをする気はないどこも痛くない痒くもないのに感謝いったい誰に?神に?世界に?宇宙に?分からないが感謝の念だけは残る「生きていることへの感謝が書かれている」「感謝は、ひとのしたことへの感謝。ひとに対する感謝が書かれている」「多くのひとの最期につながる。多くのひとを思い出す」という声。一方で「二連目のことばはつらい。もし、こんな気持ちになったら、私は死んでしまうかもしれない」という声もあった。そうした気持ちがあるからこそ、感謝が強くなるのだろう。私は最終連に引きつけられた。「分からないが」...谷川俊太郎「感謝」

  • 橋本篤『Touch 山・友・家族』

    橋本篤『Touch山・友・家族』(編集工房ノア、2024年11月01日発行)巻頭の「ジャン・バルジャン」には、橋本篤の、長所と短所が、いっしょになっている。もっとも長所・短所といっても、それは私の判断で、ほかのひとは私が長所と呼んだところを短所と呼び、短所と呼んだところを長所と言うかもしれない。同志社大学の小講堂のどこかだったクリスマス演劇だったように思う母に手をひかれて行ったのだったジャン・バルジャンが賑やかな店から追い出され暗く冷たいパリの街路をさまよい幸せであるはずのクリスマス・イブに不幸へ落ちて行くように舞台の袖へと消えていったのだ一幕目が終わったところで母は出ようかと私をつれ出した京都の冬の河原町はいつものように底冷えしていた私は母に何度も言ったというなあお母ちゃんあのおじちゃん行くとこないんや...橋本篤『Touch山・友・家族』

  • 東田直樹「光の中へ」ほか

    東田直樹「光の中へ」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年11月04日)光の中へ東田直樹光の中へただ光の中へ僕は入りたいたとえそこが現実の世界でなくても光が僕を誘う僕の分子を呼ぶ細胞のひとつひとつが光に向かって伸びていくこの手がこの目が光をつかまえる一瞬の喜びどこにでも光はあるのに僕が望む真実の光は永遠に存在しないカラスは黒い東田直樹自分のすべてで隠している本当の気持ちを悔しいけれど仕方ない僕は黒いカラスだから(『ありがとうはぼくの耳にこだまする』)受講生が、みんなと一緒に読むためにもってきた詩。「カラスは黒い」の方が人気があったのだが、「光の中へ」について感想を書いておく。「光の中へ」については、「真実の光は/永遠に/存在しない」ということばに「希望がない」「断定に違和感がある」という声があったの...東田直樹「光の中へ」ほか

  • 池田清子「歩こう歩こうⅡ」ほか

    池田清子「歩こう歩こうⅡ」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年10月21日)受講生の作品。歩こう歩こうⅡ池田清子五年前に何のために生きるのか問うた何十年もあいまいなまま生きたので心の中への入り方を忘れてしまった心の外へは出ていけたような気がする何のために生きるかよりどう生きるのかずっときっと片道五分が往復三十分になった五年前、この講座で書いた「歩こう歩こう」。五年後に書く「歩こう歩こうⅡ」。一番の変化は、三連目。「心の中への入り方を忘れてしまった/心の外へは出ていけたような気がする」。この二行は、詩でしか書けない。詩でしか書けないことばを書くようになった、というのが一番の変化である。散文でも書けないことはない、というひともいると思うが、散文の場合は、この二行の前後に、いくつかの「説明」がついてまわ...池田清子「歩こう歩こうⅡ」ほか

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