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  • 読売新聞の書き方

    読売新聞に限ったことではないが、私は「内容」よりも書き方に対して頭に来ることがある。最近話題になっている自民党の裏金づくり。「派閥」に限定して報道されているが、それは派閥の問題ではなく、自民党の問題だろう。つまり、岸田に責任があるのだ。それを書いているときりがないので、きょう取り上げるのは、次の文章。(2023年読売新聞12月22日朝刊、14版、西部版)「派閥幹部の立件に壁、指示・了承の証拠が焦点に…裏金疑惑任意聴取へ」という見出しで、こう書いてある。自民党派閥のパーティーを巡る政治資金規正法違反事件は、東京地検特捜部が「清和政策研究会」(安倍派)幹部らに対する任意の事情聴取に乗り出すことで、「派閥主導」とされる裏金疑惑の本格的な解明に移る。焦点は、直近5年間で5億円規模に上る不記載に国会議員の関与があっ...読売新聞の書き方

  • デジタル化という罠

    パソコンがダウンした。電源を切ろうにも、マウスも反応しない。私はたまたま予備のパソコンをもっていたから対応できるが、予備のパソコンのないひとはどうするのだろうか。ウィルス対策のメーカーと話していてわかったのだが、パソコンの(ハードディスクの)寿命は4-5年くらいらしい。もちろん、こまめなメンテナンスをすれば、もっとのびるのだろうけれど。しかし、そんなことを熟知してパソコンを買うひとが何人いるだろうか。そう思ったとき、また、別の風景が見えてきた。私は年金生活者で、預金もない。こういう人間が、デジタル社会にどう対応すればいいのか。パソコンが動いているあいだはなんとか社会についていけるかもしれない。スマートフォンが動いているあいだは、やはりついていけるかもしれない。しかし、そういうものがいったん故障したら?動か...デジタル化という罠

  • Estoy Loco por España(番外篇416)Obra, Jesus Coyto Pablo

    Obra,JesusCoytoPablo¿Quiénhizolapreguntaquéeselcolor?Y¿quiénrespondióqueesalgoquetrasciendelaforma?O¿quiénhizolapreguntaquéeslaforma?Y¿quiénrespondióqueesalgoquesustentaelcolor?Loquerecuerdoesqueeldiálogoerasimilaraunapreguntayrespuestasobrequéesunametáfora.Cuandoalgoobjetoseexpresaporotracosa(porejemplo,laopacidaddelazul,laformairregulardeunpapelrasgadoo...EstoyLocoporEspaña(番外篇416)Obra,JesusCoytoPablo

  • 「ノルマ」ということば(その2)

    ノルマについて書いた途端、読売新聞のオンラインに、「自民の元派閥幹部「パーティー券100枚、200万円分がノルマ」…届かなければ自腹も」という記事が書かれた。https://www.yomiuri.co.jp/politics/20231214-OYT1T50255/そこには、こう書いてある。自民党のある派閥幹部経験者が読売新聞の取材に応じ、派閥のパーティー券販売の実態などについて証言した。この元派閥幹部の場合、パーティー券100枚(1枚2万円)200万円分がノルマだった。企業などに購入を依頼するが、ノルマに届かない分は自らが負担することもあったという。「ノルマをこなすのは大変だ。多くの議員はそこまで余裕をもって売れていなかったはずだ」と話す。どんな世界でも「ノルマ」が課せられれば、それが達成できないとき...「ノルマ」ということば(その2)

  • 「ノルマ」ということば

    安倍派の「裏金問題」が話題になっている。誰が主導したか、があれこれいわれているが、私が不思議に思ってしようがないのが、これがどうしていままで表沙汰にならなかったかということである。2023年12月16日の読売新聞(西部版・14版)に、こういう表現がある。関係者によると、安倍派ではパーティー券販売のノルマ超過分を議員側に還流し、派閥側、議員側双方の収支報告書に収支を記載せず裏金化していた疑いがある。還流分は2018~22年の5年間で計5億円に上るとみられている。「ノルマ」ということばがある。このことばは、このニュースが報じられた最初のころからつかわれていた。ノルマということばは、何を意味するか。「義務」である。ノルマが設定されるとき、同時にノルマが達成されないときには罰則がある。それは裏を返せば、達成すれば...「ノルマ」ということば

  • Estoy Loco por España(番外篇415)Obra, Juancarlos Jimenez Sastre

    Obra,JuancarlosJimenezSastreTÍTULO:COMOELAIRELlamamiatenciónelpilarcuadrado.Tieneunaformamuymaravilla.Loescribícomouncuadrado,peropodríaserunprismatriangular.Ounpilarsemicircular.Haypartesinvisibles,porloquenosélaformaexacta.Yesestehechodeque“haypartesinvisibles(haycosasquenosepuedenver)”loquehacehermosaestaobra.¿Cómoseconectaelcírculoosemicírculodelfondo...EstoyLocoporEspaña(番外篇415)Obra,JuancarlosJimenezSastre

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(60)

    「理解」。労務者がハーモニカを吹いている。女がとおりすぎる。そのとき、女がおはようと誰かに言ってる。実に単純で自然な「おはよう」。実に単純で自然な「おはよう」というのは、「説明」である。詩なのだから、説明はないほうがいい、かもしれない。しかも、この説明は「実に/単純で/自然な」と、とても念入りである。「実に」はなくてもいいかもしれない。「単純」か、「自然」のどちらだけでも十分だろう。でも、リッツッスは、ことばを重ねている。もしかすると、この重複は、中井が考えたことかもしれない。ひとは、「実に/単純で/自然な」ことを理解できないときがある。そして、そのとき理解することを求められているのは、それが「実に/単純で/自然な」ことである。いま、ガザ(パレスチナ)では悲惨なことが起きている。ニュースを読みながら思うの...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(60)

  • Estoy Loco por España(番外篇414)Obra, Jesus Coyto Pablo

    Obra,JesusCoytoPablofullmoon¿Veráslalunaqueyovienochohoras?¿Vistelalunaqueestoymirandohaceochohoras?Ochohoras.Pero,¿adóndeviajalalunaduranteeseochohoras?¿Viajaalfuturooalpasado?Alaluzazulsepuedeveruntechorojo,comoelbordedeluniversoquenadiehavistoantes.Esunacasaconocidasóloporlaluna.Eltechodeunapequeñacasaenlacaraocultadelaluna.Eneláticoduermeunsueñoenferm...EstoyLocoporEspaña(番外篇414)Obra,JesusCoytoPablo

  • 和辻哲郎の「公平」(そして向田邦子)

    和辻哲郎『日本古代文化』の「初版序」におもしろいことが書いてある。和辻はこの本を書くまで日本の古代文化のことを研究してきたわけではない。それでも書かずにはいられなかった。どういう立場で、書くか。自分は、一個の「人間」として最も公平だと思われる立場に立って、自分の眼をもって材料に向かった。この文章をどう読むかはひとによって違うだろうが、私は「公平」ということばにつきうごかされた。一個の人間として公平とはどういうことか。古代文化の研究をしている人間と、それをしてこなかった人間は「学問的」には「公平」ではない。前者は「知識」をもっている。後者は「知識」をもっていない。しかし、同じ人間だから「公平」に「眼」をもっている。その「公平である眼」をたよりに、つまり「知識」にたよらずに、古代文化に向き合った、というのであ...和辻哲郎の「公平」(そして向田邦子)

  • 坂多瑩子『教室のすみで豆電球が点滅している』

    坂多瑩子『教室のすみで豆電球が点滅している』(阿吽塾、2023年11月04日発行)坂多瑩子『教室のすみで豆電球が点滅している』は、現代詩書下ろし一詩篇による詩集、懐紙シリーズ第十一集、という。未発表の(書き下ろしの)長い詩一篇で構成されている。で、坂多は何を書いているか。人と共有できないことばをただわりたくなるガラスのようにただ投げつけたくなる傷つくようにおびえて大真面目にね大馬鹿にね4ページ目に登場する一連。最後の二行は嫌いだなあ。でも、この二行を書かないと、尾崎豊になってしまうのだろうか。尾崎豊、知っているわけじゃないんだけれどね。どこかで、いくつか聞いただけだけれどね。私が気に入っているのは三行目「ただ」。「ただ」は一行目にも出てきている。一行目の「ただ」はことばの勢いのなかに埋没している。無意識に...坂多瑩子『教室のすみで豆電球が点滅している』

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(59)

    「いつの日か、おそらく」。二人が会話している。しかし、ことばはかみ合わない。せめてあなたは眼で見ないで、と私は言いたいの。「あなたは眼で見ないで」の前に「せめて」ということばがある。このことばのつかい方はむずかしい。ふたりの会話そのもののように、なんだか、ほかのことばとかみ合わない。「せめて」あなただけは、なのか。「せめて」眼では、なのか。あるいは「せめて」見ないで、なのか。これは、区別しても仕方がないことなのだと思うが。なにかことばでは言いあらわせないものがあって、しかし、どうしても言わずにはいられないことがあって、その「何か」を指し示すようにして「せめて」が動いている。「眼で見ないで」という表現自体「理不尽」なのものだが、その理不尽に通じるような、屈折した思い、撞着した思いがこのことばを動かしていると...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(59)

  • 和辻哲郎の「正直」

    私は和辻哲郎の文章が好きだ。なぜ、好きか。『桂離宮』のなかで、和辻はこう釈明している。さまざまなことを和辻は書いているが、専門家の所説に基づいたところもあるが、主としてわたくしの現状から受けた印象によったのであって、歴史的に確証があったわけではない。林達夫なら絶対に書かないことを和辻は書いていることになる。「確証がない」ことを書く、というのは、著述家にとっては間違ったことかもしれない。しかし、「印象」には、「歴史的事実」とは別の真実があるだろう。生きている人間の真実、そのひとが生きてきた仮定で身につけてきた、そのひとの真実(事実)である。和辻は、客観的な歴史よりも、彼自身の歴史(個人の歴史)を優先する。そこから「歴史」へ近づいていく。和辻自身の「いのち」をひきずって、「歴史」へ近づいていく。「印象」は「推...和辻哲郎の「正直」

  • Estoy Loco por España(番外篇413)Obra, Alfredo Bikondoa

    Obra,AlfredoBikondoaArquitecturaypoéticadeladesaparición.(2023)DerepentepenséenunedificioenGazaquehabíasidobombardeado.Luegotratédeponerloenpalabras.ふと、爆撃されたガザのビルを連想した。そして、それをことばにしてみた。(ParalaparejadeGaza/ガザの恋人たちのために)¿Cuálfuelamúsicaqueescuchécontigo?Norecuerdoelnombredelasinfoníaquemedijistequequeríasescucharantesdemorir.Esasinfoníadondealfinalseelevaelso...EstoyLocoporEspaña(番外篇413)Obra,AlfredoBikondoa

  • Estoy Loco por España(番外篇413)Obra, Joaquín Llorens

    Obra,JoaquínLlorensDosniñosestánmirandoeltrabajo.Conlamismaropa.Talvezseanhermanos.Elhermanomenorcolgólasmanosynosemueve..Nisiquierapuedopreguntar:"¿Quéesesto?"Elhermanomayor(o,susmanos)buscaensubolsillolaspalabrasquedecirleasuhermanomenor.Laesculturamirafijamentealosdos.Comodiciendo:"¿Sabenloquesoy?"Unsilenciomisterioso,peromuyíntimo,conectalaobraylosniñ...EstoyLocoporEspaña(番外篇413)Obra,JoaquínLlorens

  • 「教養」とは何か(和辻哲郎と向田邦子)

    父の詫び状(文春文庫む1-1)向田邦子文藝春秋和辻哲郎『桂離宮』を読んでいると、八条宮という人物が出てくる。「教養」のある人間だ。その「定義」のようなものとして「源氏物語」「古今集」などの「古典」精通というようなことが書いてある。このときの精通とは単に熟読している、知識を持っているということではないだろう。「味わうことができる」ということだろうと思う。「味わう」ということは、どういうことか。その「ことば」の世界を、生きて動いていくことだろう。それは、「ことば」の動きのなかにある「自然に動き出してくる力」にあわせて、自分を動かすということだろう。世界は「ことば」に満ちている。世界に満ちている「ことば」のなかにはむだなもの、余分なものもある。それを適切に切り捨てれば、「ことば」は自然に美しく輝き出す。この「切...「教養」とは何か(和辻哲郎と向田邦子)

  • 青柳俊哉「ハキリアリ」ほか

    青柳俊哉「ハキリアリ」ほか(朝日カルチャーセンター、2023年11月20日)受講生の作品。ハキリアリ青柳俊哉海馬の中へ太陽を無数に通過させる酵母の床に葉を散らしつづけてキノコの列柱の先日蝕のかげのような傘から脂粉の霧が黒い胸郭にふりかかるこの広大な洞でわたしは暮らしてきた湖の鯨が月の光にうねっている原野を永遠に氷狼が横切っていくわたしは星の眼でみる女王からうまれつづけるわたしの視床の中の霧と葉の深さをいつもは作者に質問せず(作者の意図を無視して?)、どう読んだか、を中心に感想を語り合うのだが、今回は、詩のなかでわからない部分について質問し、そのあとで感想を語るという形で詩を読み進めた。「ハキリアリとは?」「海馬とは?」「わたしは星の眼でみる、とは?」ハキリアリは、蟻の種類。葉を切り刻み、酵母菌をまき、キノ...青柳俊哉「ハキリアリ」ほか

  • Estoy Loco por España(番外篇412)Obra, Sergio Estevez

    Obra,SergioEstevezCrucedecaminosNosélosmaterialesexactosutilizadosenestaobra.Perorecuerdohabervistotodaslascosascuandoeraniño.Habíansidoabandonadosenunrincóndelacasadelcampo.Penséqueyanoerarelevante.Sinembargo,cuandomiroesascosas,medoycuentadequehayalgodentrodemíqueresuenaconlosdeseosdelaspersonasquelascrearon.Tambiénrecuerdohaberjugadoahacercosasusandoes...EstoyLocoporEspaña(番外篇412)Obra,SergioEstevez

  • 和辻哲郎と林達夫

    人はどんなふうにしてあることばと出会い、それを好きになり、その「好き」が広がっていくのか。自分のことであっても、よくわからない。私は、いろんな著述家のいろんな文体が好きだが、和辻哲郎の『古寺巡礼』を読んでいて、ふと林達夫を思い出した。薬師寺の薬師如来の作者が誰なのかわからないが、そのことについて、和辻は、あれこれ想像している。(岩波版、全集、123ページ)当時の文化はむしろ書紀に名を録せられない中流の知識階級によって担われていたと見られるべきである。たとえばわれわれはあらゆる民家に仏壇を造るべき命令が下ったことを知っている。この命令はある程度まで遵奉せられたであろう。そこには盛んな需要がある。供給者もまたなくてはならぬ。もしこの仏壇の最も優秀な例を玉虫の厨子や橘夫人の厨子に認め得るとすれば、仏壇の標準がす...和辻哲郎と林達夫

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(58)

    「夏」。ヒナゲシは夏の手首にはまった腕時計。この「はまった」は原語では何と書いてあるのだろうか。ふつうは、手首に「はめた」かもしれない。ボタンをはめる、は、ボタンをとめる。ある決まった位置に「はめる」。その位置でなければならない。真夏の強い光のなかで、すべてが「定位置」に存在する。この強烈な感じが、他の行に登場する「吊るされている」「宙吊りにする」という不思議なことばをいっそう印象づける。「吊るされている」「宙吊りにする」をゆるぎないものにするためには、「はまった」の一言が絶対に必要なのだ。他動詞「はめる」ではなく、自動詞「はまる」が。「びったり、はまる」。書かれていないが、「ぴったり」が、「吊るされている」「宙吊りにする」を「ぴったり」に変える。それでしかあり得ないものに変える。************...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(58)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(57)

    「顔」。たとえば鏡を見ていると仮定する。鏡のなかで「きみ」が涙を流す。きみは、それを見ているのか。それとも鏡のなかの「きみ」から見られているのか。涙は、二筋ほほを伝う。そして、きみは知らない。どちらの水がきみの心をいちばん動かそうとしているのかを。「答え」を探し始めるとき、「いちばん」ということばが気にかかる。選択肢はいくつあるのか。「いちばん」ということばがなければ、たぶん、悩まない。「いちばん」ということばがなければ、たとえば私は、その「顔」が鏡のなかにあるとも思わなかったかもしれない。「いちばん」ということばのなかにあるのは「ひとつ」。しかし、その「ひとつ」ということばが、「複数」の選択肢を生み出してしまう。カヴァフィスのことば、世界には選択肢はひとつしかない。しかし、リッツォスの世界には、いつも選...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(57)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(56)

    ここからはヤニス・リッツォスの詩。カヴァフィスとは、声(音)の響きが違う。カヴァフィスの詩のように一行だけ抜き出して、そこからリッツォスの魅力を語るのは難しいかもしれない。しかし、一行だけ、をつづけてみる。最初の詩は「単純性の意味」。(きみに語るためにこういう言い方になるのです)「文体」がストレートではない。カヴァフィスのことばはまっすぐだけで構成される。そして、そのスピードは、とても速い。リッツォスはスピードに抑制がある。そして、その抑制がストレートさえも微妙に揺らいでいるように見せかける。「きみに語るためにこういう言い方になる」でも「きみに語るためにこういう言い方になります」でもない。「なるのです」。追加された「のです」が、この詩の独特のスピードである。************************...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(56)

  • 田原『犬とわたし』

    犬とわたし田原澪標田原『犬とわたし』(絵・いがらしみきお)(澪標、2023年11月20日発行)田原『犬とわたし』は絵本。犬と出会い、犬と別れる。思い出が残る。思い出は死なない。死なないというよりも、何度でも生き返ってくる。思い出が生き返るとき、また、犬も生き返る。しかし、このとき、そこには「哲学」がない。「思想」がない。そして、その「哲学がない、思想がない」ということこそ、「絶対的な哲学」なのだ。世界で存在しうる(存在に耐えられる)たったひとつの「事実」だ。こう言い直そう。哲学なしに、思想なしに、どんないのちも生きてはいけない。生きているいのちは、みんな哲学、思想をもっている。それをことばにするか、ことばにしないか、だけである。ことばにしなかったからといって、そこに思想がないとは言えない。ことばをもたない...田原『犬とわたし』

  • 粕谷栄市『楽園』

    楽園粕谷栄市思潮社粕谷栄市『楽園』(思潮社、2023年10月25日発行)粕谷栄市『楽園』の、一連の詩を「森羅」で読み始めたとき、「困ったなあ」と思った。感想はあるのだが(そして何回か書いたことがあると思うのだが)、ほんとうの感想はないのだ。「あ、これは、おわらないなあ」と思う。簡単に言えば「夢をみた」、その夢を書いているのだが、「夢をみた」ということを繰り返し読んでも、それから先に進まない。「ああ、そういう夢をみたんですね」と言えば、それでお終い。いや、そうじゃないんだなあ。「要約」してしまえば、そうなってしまうが、その「要約」を拒んで、ただ、そこにことばがある。「要約」を粕谷はすでに知っていて、それでもことばを書いている。「要約」したとき、そこからこぼれおちるもの(?)こそが詩だからである。こぼれおちる...粕谷栄市『楽園』

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(55)

    「半時間」。詩人は、バーでミューズに会う。半時間を過ごす。そして、それを詩に書いた。分かってらしたのだと思います。分かっていることが、分かっている。そのことを念押しをするようにして書いているのだが、「分かっていたんだと思う(思います)」とは印象が違う。「事実関係」はかわりないのだが、その「事実」に対する「関わり方」が違う。この「……てらした」という言い回しは、女性的で、その情勢的な部分を「控え目」と言い直すと、「女性=控え目」という定義を押しつけることになり、いまの時代にはそぐわないかもしれないが、この「控え目」な関わり方に、何か絶対的な真実がある。絶対的な「生き方」、行動の仕方がある。そこには、カヴァフィスの絶望と、あきらめもある。そして、その絶望、あきらめが、カヴァフィスのことばを絶対的なものにしてい...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(55)

  • Estoy Loco por España(番外篇411)Obra, Xose Gomez Rivada

    Obra,XoseGomezRivada"Noimportaloquerepresente.Loqueimportaescómointeractúaconloquehayallí",respondióelhombre.¿Setratadelobjetoodelmaterial?"Lascosascreadasopintadasnosonobjetosnimateriales.Existenseparadamentedelosobjetosymateriales.Mirandolascosascreadasopintadas,eimaginandosuexistencia(modelos)yaesunafaltadeimaginación",añadióelhombre."Elarteoelartistas...EstoyLocoporEspaña(番外篇411)Obra,XoseGomezRivada

  • Estoy Loco por España(番外篇410)Obra, Joaquín Llorens

    Obra,JoaquínLlorensTécnica,hierroa,d.55x27x10A,S,Y.Estetrabajoparecehabersurgidodeformanaturalenlugardehabersidocreado.Nohayningúnartificiosa.Hay"MUSIN(osin-corazón)".PreguntóJoaquínmientrastocabalaschatarrascercanas."¿Quéformaquierestener?"Lachatarranoresponde,perosusmanosquetocaaelhierrosientenlarespuesta.Susmanossemuevenmientrasoyendolasvocesdeloshierr...EstoyLocoporEspaña(番外篇410)Obra,JoaquínLlorens

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(53)

    中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(53)「ギリシャより帰郷する」。このタイトルは微妙だ。不思議な矛盾、愛憎が、ここに存在する。ギリシャが嫌いなのか、好きなのか。絡み合っている。なぜ黙りこくっている。胸に尋ねてみな。嫌いというとき、胸は好きと叫んでいる。好きというとき胸は嫌いと叫んでいる。原文がどういうことばをつかっているのか私は知らないが、「こころ」ではなく「胸」と、中井は訳したのだと思う。「胸」の方が「こころ」よりも肉体に近い。「こころ」が思っていることを「胸」は隠すとも言える。この一行に、私が驚くのは、「胸」と書いた次の行には「心」ということばがあるからだ。つまり、中井は「胸」と「心」をつかいわけているのだが、カヴァフィスがそのつかいわけをしているとは、私には感じられない。中井はカヴァフィスの詩を日...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(53)

  • Estoy Loco por España(番外篇409)Obra, Jesus Coyto Pablo

    Obra,JesusCoytoPabloHaycosasquesoninvadidasportiempo.Yhaycosasquenosoninvadidasportiempo.Elhombredijo.Haycosasquesiguenexistiendoaunqueseanabandonadas.Elhombrecontinuódiciendo.¿Quées?Cuandolepregunté,elhombresefuesinresponder.Sóloquedabatiempo.Quedabatiempoquenosevioafectadoporningunaexistencia,ningúnrecuerdo,nisiquieraelamor,elodiooalrencor.Comolatristez...EstoyLocoporEspaña(番外篇409)Obra,JesusCoytoPablo

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(52)

    「人知れぬもの」。その人が「わかる」、その手がかりは何か。私の一番ベールを被せた書き物、ただの「書き物(ことば)」ではない。「ベールを被せた」という修飾がある。秘密、暗示。しかも、「一番」ということばも重ねられている。この「一番」は、直前の行にも書かれている。同じことばが二度書かれている。しかも、目立つ形で。それがとてもおもしろい。「人知れぬもの」は、「一番」知ってもらいたいことなのだが、この「一番」という音の響きが、なんともいえず軽くていい。「最も」だともったいぶった感じになる。中井の訳の魅力が、ここにある。中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(52)

  • Estoy Loco por España(番外篇408)Obra, Juan Manuel Arruabarrena

    Obra,JuanManuelArruabarrenaTécnicamixtasobremadera,Medidas125x95(2023)Hayunaextrañasensacióndeperspectiva,comomiraruncuadrodentrodeotrocuadro.Porejemplo,unapequeñacasasituadaenunallanuravacía.Sutecho,susparedes,susventanasysuspuertasreflejanelmundo.Eltechoreflejalanochequeaúnestáporllegar,lasparedesreflejanelvientodeayer,lasventanasreflejanelmarlejanoquen...EstoyLocoporEspaña(番外篇408)Obra,JuanManuelArruabarrena

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(51)

    「アントニウスの最後」。女たちが泣き叫んでいる。「泣くな」と告げることばは、こうつづいている。おちぶれはしても、おれはみじめにおちぶれはせぬ。強い誇りがある。「おちぶれる」というのは「みじめ」なものである。しかし、「みじめにおちぶれはせぬ」という。ことばにすれば、まるで、事実(現実)か違うものになるかのように。実際に、ことばにすれば、現実は違ってくる。ことばこそが現実である。いや、ことばは現実を超え、真実をつくる。だからこそ、「泣くな」とも告げたのである。「誉め歌」を歌えとも告げる。この、ことばへの強い意思は、カヴァフィスそのものの声でもあるだろう。カヴァフィスは、最後に言うだろう。「おちぶれはしても、おれはみじめにおちぶれはせぬ。」と。**********************************...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(51)

  • Estoy Loco por España(番外篇407)Obra, Miguel González Díaz

    Obra,MiguelGonzálezDíazUnhombrecapturado.Nopuedemoverse.Quizásnofuecapturadoporalguien,sinoporelhombremismo.Porsupropiopensamiento.¿Estoymirandoaunhombrecapturado?¿Oestoyviendoelpensamientodequeestáatrapado?Sinohubieraventanasredondasalrededordesucara(cabeza),yonopensaríaenesto.¿Quiénhizoesaventanaredonda?¿Alguienquecapturóalhombreparamostrarloenpúblico?¿...EstoyLocoporEspaña(番外篇407)Obra,MiguelGonzálezDíaz

  • 緒加たよこ「夕べのごぼう今朝の白菜」ほか

    緒加たよこ「夕べのごぼう今朝の白菜」ほか(朝日カルチャーセンター、2023年11月6日)受講生の作品、ほか。夕べのごぼう今朝の白菜緒加たよここうして台所にいると2時間もたっていて夕べのごぼう今朝の白菜ごはんつくるの?と訊かれるけれどつくるよだってだんだんきついいやになるずっとこうして暮らしてたあのひとはなにも言い残しはしなかったけれどこうして時間は残りときどきはいつも家にいればこうしてときどきはいつも家にいればこうして「こうして」の繰り返しに感想が集中した。時間がうつりゆく。日常を省みる。独り暮らしの寂しさ、無聊。繰り返されていることばは、ほかにもある。「残る」。最初は「言い残し(残す)」という形のなかに隠れている。それが一連目の最後に「残り」という形で静かにあらわれる。そして、最終行。「こうして」のあと...緒加たよこ「夕べのごぼう今朝の白菜」ほか

  • Estoy Loco por España(番外篇406)Obra, Joaquín Llorens

    Obra,JoaquínLlorens"Cuandovoyaeselugar,puedoescucharvocesdesombrabrillanteysombraoscurahablandoentresí.Nopuedooírnadamás".Medijisteentucarta."Entoncesnopodíaescucharnadamásqueelsilencio.Porquetodavíanoestabaacostumbradoavocestansilenciosas".Aquellugar.Dondelassombrasbrillantesyoscurasseencontrabanyseseparaban.Siemprevasaeselugaraunahoradeterminada.Ymientr...EstoyLocoporEspaña(番外篇406)Obra,JoaquínLlorens

  • Estoy Loco por España(番外篇405)Obra, Kawata Yoshiki 川田良樹

    Obra,KawataYoshiki川田良樹湯上がりに180×55×36スペインの友人の作品ではなく、私の高校時代の友人の作品。富山県在住。川田は着衣の作品を手がけている。素肌とバスロブの布の感触の違いがおもしろい。布の起伏が素肌のなめらかさ、湯上がり特有の湿気を含んだ肌の艶やかさを引き立てている。肉体の左右の非対称と、バスロブの非対称が作品に動きを与えている。頭部を含め上半身のきっちりした印象と、バスロブの裾の、少し緩んだ感じ、腰のリボンの左右の非対称もおもしろい。肉体のラインが表現されているわけではないが、バスロブの変化から、肉体のあり方が自然に浮かび上がってくる。Untrabajodeunamigomíodelbachillerato.ViveenlaprefecturadeToyama.Esint...EstoyLocoporEspaña(番外篇405)Obra,KawataYoshiki川田良樹

  • 服部誕『祭りの夜に六地蔵』

    祭りの夜に六地蔵服部誕思潮社服部誕『祭りの夜に六地蔵』(思潮社、2023年10月10日発行)服部誕『祭りの夜に六地蔵』に「風の石」という作品がある。「酒船石異聞」というサブタイトルからわかるように、石造りの遺構を訪ねたときのことを書いている。遅れている時の到着を待つあいだわたしは石の冷たさにしばし倚りかかるこれに類似したことばが、そのあと出てくる。おおきく伸びをしたわたしは軽いめまいを石に預けた背でささえる第三者から見れば、石と「わたし」の関係は、どちらも同じ姿に見えるだろう。しかし、服部は書き分けている。「倚りかかる」と「石に預けた/背でささえる」とに書き分けている。この変化に詩がある。これは、この後の連を読むと、さらにはっきりするのだが、それは後で書くことにして……。石と「わたし」の関係は、後者の場合...服部誕『祭りの夜に六地蔵』

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(50)

    「一九〇三年十二月」は「一九〇三年九月」のつづき。だから「一九〇三年九月」ということばも出てくる。つまり、あれから三か月。よしんばきみの黒髪を、くちびるを、眼をうたえぬとしても、カヴァフィスは、ひとつの恋をあきらめたのだ。そして、そのとき「よしんば」ということばをつかっている。なぜ、「たとえ/かりに」ではなく「よしんば」なのか。「たとえ/かりに」では言いあらわせないことが、そこに含まれている。「強い」感情が含まれている。語りたいのだ。歌いたいのだ。黒髪を、くちびるを、眼を。だからこそ、黒髪、くちびる、眼ということばを書いている。「うたえぬ」といいながら、すでに語っている。つまり、これは「撞着語」というか「撞着文体」なのである。それを「よしんば」ということばが強調している。もし、この一行にことばを補うとした...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(50)

  • 藤井貞和「書評 詩のことばの隠喩的世界切開力」

    藤井貞和「書評詩のことばの隠喩的世界切開力」(「イリプスⅢ」5、2023年10月10日発行)藤井貞和「書評詩のことばの隠喩的世界切開力」は、野沢啓の『言語隠喩論』への書評。とても気になる文章があったので、そのことについて書く。日/欧で言語学の用語が分かれていては、不都合だということもあって、野沢にしろ、私(藤井)にしろ、欧米の言語学を絶えず鏡のように映し出す参照項目にして、日本語のそれを考察しようとしてきた、という経緯はある。(略)日本語から立ち上げることに、かりに成功したとして、そこを理解しようとすると、またもや西洋言語学に拠るほかなくなる。つまり理解過程を含めて、言語学そのものを最初からやり直す覚悟をしなければ。だから、一旦は日本語から離れることが必要なのだろう。しかも欧米的な言語哲学に舞い戻るのでな...藤井貞和「書評詩のことばの隠喩的世界切開力」

  • 池田清子「レモンあい詩」ほか

    池田清子「レモンあい詩」ほか(朝日カルチャーセンター、2023年10月16日)受講生の作品を中心に。レモンあい詩池田清子セイロンティーにレモンの輪切り青い空にたくさんのレモンの輪切り紅茶の海にたくさんのレモンの輪切り刈ったばかりの田に立てかけられてるレモンの輪切り緑の木々に斜めにささったレモンの輪切りすずめ達と群れて旋回しているレモンの輪切り本当はレモンティーよりミルクティーよりストレートティーが好き檸檬ではない「最後の一行だけ、漢字。作者のこだわりがあるのだが、どんなこだわりだろうか」「レモンの輪切りのバリエーション。イメージをふくらませた詩。漢字の檸檬は輪切りにそぐわない」「刈ったばかりの田に立てかけられてる、が好き」「緑の木々に斜めにささった、はイメージしにくいので好き」。タイトルについては、「あい...池田清子「レモンあい詩」ほか

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(49)

    「一九〇三年九月」。あまたたび、ああ、あれほども、あのひとの近くに、「あ」の音が繰り返される。「あ」は「あのひと」の「あ」に向かって、まっすぐに動いていく。この繰り返される「あ」の声のなかに、いったい、いくつの「あ」の変化があるだろうか。「ああ」は、ことば(意味)を探している。「意味(ことば)」は見つからないが、感情があふれてくる。「あ」、その単純な音。口を大きく開き、喉を開き、いや、意思で口を開き、喉を開くのではない。感情が、開かせてしまうのだ。その感情に酔っている。その感情に酔いたくて「あ」を繰り返している。中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(49)

  • 野沢啓「吉本隆明の言語認識--『言葉からの触手』再読」

    野沢啓「吉本隆明の言語認識--『言葉からの触手』再読」(「イリプスⅢ」5、2023年10月10日発行)野沢啓「吉本隆明の言語認識--『言葉からの触手』再読」が、これまでの「言語暗喩論」とほんとうに連続している(関係している)のかどうか、私にはわからない。野沢の「言語暗喩論」を私なりに整理すると、こうなる。ひと(野沢は「詩人」と限定し、詩と詩人を特権化しているか、私は「ひと」と読んでおく)が、直接的に自己のいのちを生きるとき、ひとはいのちの本質(まだ名づけられていない深奥・根源)と合致している。それは既成のことば(表象/表現の仕方)ではあらわすことができないから、ただ暗喩的にのみ表現される。こう整理してみると、何のことはない、それはすでに誰それが言っていることのように思える。言い直せば、私はどこかで読んだこ...野沢啓「吉本隆明の言語認識--『言葉からの触手』再読」

  • Estoy Loco por España(番外篇404)Obra, Jesus del Peso

    Obra,JesusdelPesoMientrasmequitolaúltimaropainterior,micuerpovacilaenelespejoalsentirtumirada.No,¿esmicorazónelquevacila?Enelmomentoenquepenséenello,micuerposecongelóenelespejo.Esfríoyagudo,comouncorazónhelado.Noeselcuerposinoelcorazónloquesereflejaenelespejo.Tengomiedodemiraratrás.Simedoylavuelta,encontrarétumirada.Tumiradanomiramicuerpo,sinomicorazónref...EstoyLocoporEspaña(番外篇404)Obra,JesusdelPeso

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(48)

    「精神の成長のためには」何をすべきなのか。どうすべきなのか。法(社会)に「違反せよ」ということばが途中にある。そうであるなら、官能の喜悦こそ大いなる教育。というときの「官能」は、世間(社会)に認められている官能ではないだろう。世間が否定する官能、そしてその「喜悦」が精神を成長させる、つまり精神を教育することになる。この書き方は、論理的である。それは、その論理が、誰でもが認める公理であるという意味ではない。別のことばでは「超越(する)」とも言う。だから、この詩には「超越せよ」ということばも出てくる。そもそも「官能の喜悦」とは、官能の超越でもある。**********************************************************************★「詩はどこにあるか」オ...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(48)

  • マーティン・スコセッシ監督「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」(★)

    マーティン・スコセッシ監督「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」(★)(中州大洋、スクリーン1、2023年10月21日)監督マーティン・スコセッシ出演レオナルド・ディカプリオ、ロバート・デ・ニーロこの映画がつくられるというニュースを知ったとき、見たいと思った。予告編を見たとき、期待できないと思った。そして、実際に見て、がっかりを通り越して、スコセッシもディカプリオもデ・ニーロも、もう見なくていいと思った。映画としては、まず、あ、このシーンをもう一度みたいという衝撃的な美しさを感じさせるシーンがない。(ラストの、上空からとったシーンが、反動で?、美しく見えてしまう。)映画はただストーリーを追っていくだけ。それに3時間半もつきあっていると、ただただ、疲れる。ディカプリオ。昔は気がつかなかったたが、歯が汚い。歯...マーティン・スコセッシ監督「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」(★)

  • Estoy Loco por España(番外篇403)Obra, Luciano González Diaz

    Obra,LucianoGonzálezDiazElhombresediolavueltaparaocultarsutristeza.Noqueríamostrarmislágrimas.Noqueríaquevierasuslabiostemblorosos.Queríaocultarhastalamásmínimavoz.Sinembargo,latristezanoloperdonará.Latristezaletorciólaespaldaytratódedesbordarsedesuespalda.Aunquepodíacubrirselacara,susmanoserandemasiadopequeñasparacubrirsuespalda.Elhombrenoentiendeesacosa...EstoyLocoporEspaña(番外篇403)Obra,LucianoGonzálezDiaz

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(47)

    「ユリアノスと神秘」。こう言われて、このアホウは、この一行だけでは、ユリアノスが、いつ、どこで、誰に、なぜ、何を言われたのかわからないのだが、つまり、私の引用は、とても不親切でどうしようもないものになってしまうのだが。それでも、カヴァフィスがユリアノスをバカにしていることは、はっきり伝わってくる。「このアホウ」ということばの、強さ。よほど嫌いだったのだろう。そう感じるからこそ、「このアホウ」という訳語を中井は選んでいる。詩を読めば、何もかもわかるのだが、そして、それがわかったとき、読者もやはり「このアホウ」と思うかどうか。ユリアノスの行動と、そのときの周辺のひとの言動に引っ張られて、歴史の一こまを思い浮かべてしまうかもしれない。それでは、まずい。なんとしても、カヴァフィスのユリアノス嫌いを明確にする必要が...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(47)

  • 林達夫と「勉強」

    ようやく「林達夫著作集」の再読を終えた。これから読み始める本(中井久夫や林達夫より古い本)のための、なんというか、「ウォーミングアップ」のつもりで、中井久夫のエッセイ、中井久夫著作集、林達夫著作集と読み進んできたのだが、正月から10か月もかかってしまった。このままでは、死ぬまでに読みたい本を読み終えることができない、とかなしくなる。福大病院の検診には、診察券もマスクも忘れてしまった。物忘れが激しくなったし、検査の結果も、予想はしていたがつらいものがあった。でも。林達夫には励まされる。晩年になってから、ロルカに出会い、スペイン語の勉強をはじめている。NHKのラジオ講座で。かつて勉強したことがあるロシア語もラジオ講座で復習している。何歳になっても、勉強している。そういえば。林達夫の文章には、よく「勉強」という...林達夫と「勉強」

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(46)

    「紀元前二百年」。我等の共通ギリシャ語、「我等のギリシャ語」ではなく、「我等の共通ギリシャ語」。こういうとき、その「我等」のなかには「異質」が存在するということである。「異質」を超えて「共通」がある。そのとき、単に「我等の共通言語」といわずに「ギリシャ語」という。ここには乱暴な「思い上がり」のようなものがある。その「思い上がり」のために、たぶん、ギリシャはローマに屈した。中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(46)

  • Estoy Loco por España(番外篇402)Obra, Joaquín Llorens

    Obra,JoaquínLlorensElcírculodelcentrosemuevelibremente,subiendoybajando.Lacurvaenlapartesuperiortambiénsemuevelibrementehaciaarribayhaciaabajo,yaseadeacuerdoconestemovimientooencontradelcírculo.Avecespuedegirarunavezenelaireyregresaralcírculo.Enesemomento,¿lacurvainferiorsimplementesoportaestosdosmovimientos?Nomepareceasí.Laimaginacióndelacurvadeabajopued...EstoyLocoporEspaña(番外篇402)Obra,JoaquínLlorens

  • 山之口獏「大儀」、すぎえみこ「かたえくぼ」ほか

    山之口獏「大儀」、すぎえみこ「かたえくぼ」ほか(朝日カルチャーセンター、2023年10月02日)受講生が、みんなと一緒に読みたいという作品、山之口獏「大儀」を持ってきた。大儀山之口獏躓づいたら転んでゐたいのであるする話も咽喉の都合で話してゐたいのであるまた、久し振りの友人でも短か振りの友人でも誰とでも逢へば直ぐに、さよならを先に言ふて置きたいのであるあるいは、食べたその後は、口も拭かないでぼんやりとしてゐたいのであるすべて、おもふだけですませて、頭からふとんを被って沈殿してゐたいのである言いかえると、空でも被って、側には海でもひろげて置いて、人生か何かを尻に敷いて、膝頭を抱いてその上に顎をのせて背中を丸めてゐたいのである。「空でも被って、何かを尻に敷いて、がいいなあ。面倒なことを放り出していたい。後半が大...山之口獏「大儀」、すぎえみこ「かたえくぼ」ほか

  • Estoy Loco por España(番外篇401)Obra, Jesus Coyto Pablo

    Obra,JesusCoytoPablo"aquellugar"100X811990,ÓleolinoMedijolavoz:"Estaréesperandoenaquellugar",ylavozcolgóelteléfono.Eralavozquehabíaescuchadoantes,peronopodíaidentificarquienmellamó.Aunquenosabíadóndeestabaaquellugar,lorecordé.Aquellugardondeteperdí.Medijistequeabrieralosojos,ycuandolohice,unanegruragloriosametragóaquellugar.Unaluznegrailuminóunaciudadcomo...EstoyLocoporEspaña(番外篇401)Obra,JesusCoytoPablo

  • 原田眞人監督「BAD LANDS バッド・ランズ」(★★)

    原田眞人監督「BADLANDSバッド・ランズ」(★★)(ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン3、2023年10月10日)監督原田眞人出演安藤サクラ安藤サクラを見たくて行ったのだが。タイトルが出てくるまでの部分は、まあ、おもしろかった。詐欺グループも、捕まらないように工夫しているのか、スパイ映画みたいだな、と妙に感心した。しかし、それからあとがおもしろくない。いちばんの問題は、登場人物の、「詐欺」の仕事以外の部分がぜんぜんわからないことだ。安藤サクラの「過去」は、いちおう映画の中で語られるが、ほかの人物には「過去」がない。つまり、「役」を納得させる「存在感」がない。映画の中で、自分を見せるのではなく、単に「役」を演じて見せているだけ。映画にしろ、芝居にしろ、もちろん「役」も見るのだけれど、「役」を...原田眞人監督「BADLANDSバッド・ランズ」(★★)

  • 神原芳之「熱帯夜」

    神原芳之「熱帯夜」(「午前」2023年10月25日発行)神原芳之「熱帯夜」、荒川洋治「枇杷の実の上へ」、工藤正廣「賛歌」と読み進んで、あれ、三人は申し合わせでもしたのだろうか、と思ってしまった。書いていることは違うのだが、私には、同じことをことを書いているように思えた。簡単に要約すれば、とりかえしのつかないことをしてしまった、という気持ちが、ことばの奥に動いている。とりかえしがつかないことは忘れてしまえばいいのだが、忘れられない。そのときの、忘れられないという気持ちのどうしようもなさ。荒川洋治の作品が、いつものながらに手が込んでいて(ことばが、論理=意味になる前に肉体の方へ引き返してきて)刺戟的なのだが、神原芳之「熱帯夜」について書くことにする。眠りに入ったと思ったら眠りから放り出されてしまった夢の門が開...神原芳之「熱帯夜」

  • 石毛拓郎「母乳、余滴。」

    石毛拓郎「母乳、余滴。」(「ココア共和国」2023年10月号)石毛拓郎「母乳、余滴。」には長いサブタイトルがついている。それは省略する。その終わりの方の部分。いまは、大潮の赤帯のそよぎでざわめいている。その気配で、馬鹿貝は赤い泡を吐き出して、跳ぶのだ。跳びあがれないで、土左衛門になってしまうものは海中の砂楼閣、貝塚をしつらえる。貝を探す者の足裏に当たる、主人を失くした殻よ。(土佐意識と観念は、このように何気なく隠れている)この部分と、私がこれから引用する林達夫の文章とどういう関係があるのか、実は、私にもわからない。ただ、突然、思い出してしまったのだ。「ちぬらざる革命」という文章の中にある。(林達夫著作集5)君は不服そうな顔をしているが、それは君の時代を見る目が、下らぬ新聞や雑誌の見出し(ヘッドライン)にし...石毛拓郎「母乳、余滴。」

  • Estoy Loco por España(番外篇400)Obra, Juancarlos Jimenez Sastre

    Obra,JuancarlosJimenezSastre¿Dóndeestabanestosárboles,piedrasyhierroantesdequesereunieronaquí?¿Queestabanhaciendo?Habríanvividodeunaformadiferentealaqueexistenaquíahora.No,esposiblequelohayandesechadoporconsiderarlosalgoinútiles.Sinembargo,inclusosisetiraalasbasuras,hay"vida"enellos."Losrecuerdos"permanecen.El“tiempo”continúa.Yestoscontinuarán.Nosientoque...EstoyLocoporEspaña(番外篇400)Obra,JuancarlosJimenezSastre

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(45)

    「さるギリシャ大植民地にて、紀元前二百年」。とてもおもしろい一行がある。重箱の隅までつつかれ、刻まれ、粉々だあ。ギリシャに「重箱」はないだろう。だから、これは意訳。さて。ここからが問題。「重箱」がないとして、それでも「重箱の隅までつつく」に類似した言い方はないといえるか。他の部分に書いてあるが、「些細なことを問題にし」難癖をつけるというのは、どの世界にもあることだからね。だからね……というのは、私の飛躍なのだが。だからね、ことばを読むときは「動詞」を中心にして読まないといけないのだ。動詞とは、つまり肉体の動きだが、その肉体の動きは、どのひとにも共通するものがある。肉体にできることは限られているからね。肉体は「概念」ではないから、他人とまったく違ったことができる人は限られている。みんな、似たりよったり。だか...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(45)

  • 林達夫「イタリア・ファシズムの教育政策」

    林達夫「イタリア・ファシズムの教育政策」(林達夫著作集5)(平凡社、1982年3月23日、初版第12刷発行)林達夫「イタリア・ファシズムの教育政策」を読んでいて、次の文章に出会う。昔は気がつかなかった。読み落としていた。ファシスト教育はあらゆる手段を以て資本主義体制を防衛し、ブルジョアジーの階級的支配を確保することに重点を置いている(30ページ)ここでいう「ブルジョアジー」とはいわゆる「資本家」のことである。労働者階級の地位を徹底的に劣悪化することによって(賃金値下げ、労働時間延長、合理化強行)辛うじて命脈を保ってきたイタリア資本主義は、今日、深刻な経済恐慌の渦中にあって気息奄々としている。(35ページ)「イタリア資本主義」を「アベノミクス」に変えれば、日本の現状にぴったり合致する。いま岸田は、「賃上げ」...林達夫「イタリア・ファシズムの教育政策」

  • 青柳俊哉「ブドウを想う」ほか

    青柳俊哉「ブドウを想う」ほか(朝日カルチャー講座、2023年09月18日)受講生の作品。ブドウを想う青柳俊哉広大な石の野で整然と水晶を啄む鳥たち羽の内部で地の百合の花の匂いと風景の背後から降るなにものかの囁きがやむ一面に響きわたる雨音渇いた深夜にひとつぶの甘美なブドウを想うすべて鳥たちは澄んでいく肉体の果てにひそやかな囁きを握りしめよどの行が好きか。「風景の背後から降るなにものかの囁きがやむ」「ひとつぶの甘美なブドウを。ひとつぶが印象的」「3連目全体。一行なら、ひそやかな囁きを握りしめよ。美しい風景が思い浮かぶ。鳥、羽、囁きが印象に残る」私はいくつかの「対比」と「呼応」がいいと思った。特に2連目が複雑でおもしろい。羽(飛ぶ、空)と地、内部と匂い(匂いは外に漏れると同時に内にこもる、ここではその、こもる静け...青柳俊哉「ブドウを想う」ほか

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(44)

    「小アジアの田舎にて」。戦争後の「宣言起草」、結果は思いもかけないことに。しかし、あわてることはない。なんとなれば、名前のところだけ変えればいい。この詩は、事実にもとづくというよりも、「寓話」(寓詩)である。だからこそ、そこには不思議な「真実」がある。「事実」を超える「真実」がある。それは、いつでも、どこでも、だれに対しても「ぴったり」重なる。この「ぴったり」は、この詩に書かれているのだが、その「ぴったり」を含む行を取り上げるか、「名前」の行を取り上げるか、私は、ずいぶん悩んだ。「ぴったり」の方に中井の、訳語の工夫があるかもしれない。工夫といえば。タイトルの「小アジアの田舎にて」にも工夫がある。中井の訳か、カヴァフィスの選択か判断できないが、「小」のなかには「大」が含まれている。どんな小さなところにも「真...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(44)

  • 松岡政則『ぢべたくちべた』

    ぢべたくちべた松岡政則思潮社松岡政則『ぢべたくちべた』(思潮社、2023年07月31日発行)松岡政則『ぢべたくちべた』の「通りすがり」。その書き出し。ひるめしは道端食堂で塩ゆでの田螺をピリ辛ダレで喰うたじんわりと情の深まる滋味で「じんわり」はだれでもがつかうことばである。「じわり」というときもあるが、「じわり」よりも重い感じが私にはする。重いといえば「ずしり(ずっしり)」という表現もあるが、「じんわり」の方がゆっくりだ。私の印象、私が自分の思っていることをつたえるとしたら。なぜ、こんなことを書くかというと。私はときどき詩の講師をしている。そして、受講生に対して、「この『じんわり』を自分自身のことばで言い直すとなると、どうなる?」と質問する。これに対する答えは、なかなかむずかしい。「じんわり」で「わかってし...松岡政則『ぢべたくちべた』

  • 室園美音「ミーハオ」

    室園美音「ミーハオ」(現代詩講座、2023年09月16日)受講生の作品。「ミーハオ」は、教師の家庭訪問の体験を書いている。彼女が訪ねていく小学生の紹介にはじまり、直前の訪問先で待っている児童につれていかれるようにして家庭訪問する。「時系列」通りに、そのときのことが描かれている。「ニーハオ」という中国語の挨拶の言葉を新鮮に使っていたころ原爆ドームからほど近い小学校で三年生の担任をしていたクラスの中ではやや小さめで魅力的な笑顔で笑うかわいい男の子がいたその子の苗字が三原であることから休み時間などみんなに「ミーハオ」と呼ばれていて人気者だった家庭訪問のとき三原くんの家は校区外だったのでその日の最後に予定を組んだ彼は仲の良い最後から二番目の女の子の家で待っていてくれて一緒に家に向かったお母さんは家の外で待っていて...室園美音「ミーハオ」

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(43)

    主人公は「名哲学者の学校出」。サッカスのもとで哲学を学んだ。しかし、厭きた。政治に首を突っこんでみた。つまらなかった。キリスト教の教会にも顔を出した。曖昧宿の常連にもなった。顔のよさが幸運をもたらした。でも、将来は?いつでも誂え向きのがあるさ。「誂え向き」以外に、ことばがあるだろうか。この詩の主人公、甘えん坊にぴったりのことばではないか。甘えん坊とは、いつも「誂え向き」の世界に受け入れられて、のうのうと生きて行ける人間のことだが、なぜだろう、そういう人間と、その手の世界は「一体」になっているようにも感じる。それこそ「誂えた」ように。そして、そのことばはまた、この詩のために「誂え」られたもののようにも感じてしまう。「一体」になっている。************************************...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(43)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(42)

    「ダレイオス大王」。詩人フェルナセスが、ダイオレスがペルシャの王位を奪う詩を書いている。ダイレオスは、そのとき何を思うか。そして、詩が完成する寸前に戦争が起こる。ダイオレスは逃げ出す。そのさなかに、詩のハイライトで悩んでいたことばが、確かなものになる。驕りと陶酔--これだ、一番確かなのは。この一行にある、絶対的な皮肉。もちろん戦争に勝ったとき「驕りと陶酔」がダレイオスを包む。しかし、敗北したときもまた「驕りと陶酔」が炸裂する。それは、思い出として。この一行を読んだ瞬間、私は、またも「船上にて」を思い出すのだ。恋をしていたあのときの、「驕りと陶酔」。それは恋人を失ったことでさらに絶対的なものになる。それしか残されていないのだ。「驕りと陶酔」、それだけが確かなのだ。この詩には「恋」の「この字」も書かれていない...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(42)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(41)

    「亡霊たちを招く」。ロウソクを一本だけつけて、淡い光のなかで愛の亡霊を招くのだが、この「招く」を、こう言い直している。この深い夢うつつの中で私はまぼろしを作る、「作る」。これは「招く」よりも強い。招いても来ないかもしれない。しかし、作れば、そこに存在する。「船上にて」のスケッチ(素描)と同じである。思いのままに、そこに存在させることができる。「亡霊」など存在しない。「まぼろし」も存在しないからこそ「まぼろし」というのかもしれないが、それは作ってしまえば存在するのだ。そのとき「愛の亡霊」はかつての恋人ではなく、詩人の「恋心」、「恋した瞬間の思い」にほかならない。**********************************************************************★「詩は...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(41)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(40)

    「船上にて」。一枚の素描を見ている。だれが描いたのか、中井の訳では分からない。「甲板で一気に描いた」という行がある。他の男が描いたのかもしれない。カヴァフィスが描いたのかもしれない。日本語は「主語」を省略できるので、そういう書き方ができる。そのあとに、こういう一行がある。似ている。でも奴はもっと美男だった。私ならもっと美男に描く、と読むことができる。しかし、そうではないだろう。私のスケッチはへたくそだ。彼はもっと美男だった、もっと美男に描くべきだったという後悔いが込み上げてくるのだ。もし「主語」が明示されていたら、生々しくなりすぎる。思い出しているということが、切実になりすぎる。でも奴はもっと美男「である」になってしまうかもしれない。「似ている」という現在形、「美男だった」という過去形。その「時制」の変化...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(40)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(39)

    「午後の日射し」。珍しく「女ことば」で訳されている。なんとなく、べたっとした響きに聞こえる。ああいう古い物って、まだ身のまわりに漂っているのね、きっと。この「漂う」という動詞が、それこそ「身のまわりに」からみついてくるようで、重たい。それに追い打ちをかけるように、「きっと」がつづく。もし「男ことば」として訳するなら、「きっと」は行末ではないだろうなあ、と思う。この「きっと」には、追いかけてくるような「未練」がある。そして、実際、この詩は未練の詩である。そう思うと、この詩を「女ことば」として訳したのは、深い配慮があるのだ。**********************************************************************★「詩はどこにあるか」オンライン講座★メール、s...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(39)

  • Estoy Loco por España(番外篇399)Obra, Luciano González Diaz

    Obra,LucianoGonzálezDiaz"Lahuida"Realizadaenbroncepatinado,hierropatinado,mide2mx75x50cm"Lahuida".¿DedóndeyadóndehuyeestehombredeLuciano?¿Dearribahaciaabajo?¿Deabajohaciaarriba?Imaginounmovimientodeabajohaciaarriba.Laesferaesunasemilla.Deellacreceunbrote.Nadiesabehastadóndecrecerá.Subehastadondecrece.¿Quéveráentonceselhombre?Noesunmundovistoatravésdeunaes...EstoyLocoporEspaña(番外篇399)Obra,LucianoGonzálezDiaz

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(38)

    「九時から」は、ちょっと複雑な詩である。十二時半。九時からの時間の早さ。九時から何かをし始め、十二時半になった。時がたつのは速い。主人公(カヴァフィス)は何をしたのか。何もしない。ただ思い出していた。そして、思い出すのは、若かったときだ。だから、ここに書かれているのは、実は九時から十二時半までの三時間半ではない。彼の長い年月のことを書いているのだが、では、なぜ九時からなのだろうか。十二時半までなのだろうか。たぶん。九時から十二時半まで、彼は楽しんだのだ。あるいは、十二時かもしれないが。毎日。それは、日課だったのだ。中井は「早さ」という表現を一行目でつかっているが、最後の方では「疾き」という表現をしている。わざと、「速さ」を「早さ」と、書いているだと思う。「十二時半、帰らなくては」「まだ早いじゃないか」。そ...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(38)

  • Estoy Loco por España(番外篇398)Obra, Jesus del Peso

    Obra,JesusdelPesoEstaobradeJesústambiénesextraña.Existeenunaformainestablesobreunapiedrainestable.Normalmente,estaobracaería.Peroahísigue.Comosiserinestablefueraelestadomásestable.Contradicción.Eldescubrimientodecontradiccionespuedeserelarte.No,elartenoeseldescubrimientodecontradicciones,sinolacreacióndecontradicciones.Creaalgoquenoexiste.Nohaycontradicci...EstoyLocoporEspaña(番外篇398)Obra,JesusdelPeso

  • 細田傳造「ヴァージャイナ」「西新宿断截」

    細田傳造「ヴァージャイナ」「西新宿断截」(「雨期」81、2023年08月30日発行)細田傳造「ヴァージャイナ」「西新宿断截」。後者にブローディガンが登場する。ブローティガンを読んでいるのかもしれない。はっきり覚えているわけではないが、細田のこんかいのことばはブローティガン共通するものがある。(私は日本語訳で読んだので、こういう書き方は、かなりいい加減なものだが、まあ、詩だから、いい加減なことを書いた方が、間違いを侵さずにすむかもしれない。)何が共通しているか。ことばが詩になる前に動き出す。その動きに引っ張られて、あ、この「直接性」が詩なのかと気づく。詩は、ことばと遅れてやってくる。「ヴァージャイナ」の一連目。スカートをつけてハイヒールをはいてエルメスのバッグをさげてコツコツコツ路上に靴音をたててヴァージャ...細田傳造「ヴァージャイナ」「西新宿断截」

  • 山本育夫『ことばの薄日』

    ことばの薄日月録詩集2019.09-2020.02山本育夫思潮社山本育夫『ことばの薄日』(思潮社、2023年08月20日発行)『ことばの薄日』には、「博物誌」に発表されたときに感想を書いたものもある。書いたかどうか忘れたものもある。「しの居場所」の「し」は「詩」か。しがありそうなところにはしはないみんながしだとおもっているところにはしはいないしじんがしだとおもっているところにはしはいないしは薄い薄い皮膜のようなところにひっそりと棲息しているしはかぎりなくふつうのことばのふりをしている「ない」「いない」が「棲息している」「ふりをしている」にかわる。なぜ、私たちは「否定形」のまま語り続けることができないのか。どうして「いる」のような「肯定形」をつかわないと何かを語れないのか。しかし、この肯定形は積極的(?)な...山本育夫『ことばの薄日』

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(36)

    「忘れるな、身体よ……」は、自分自身の「身体」に呼びかける詩である。忘れるな、ああ、きみを見つめていた眼の中の、あの憧れのきらめきよ。「ああ」が美しい。「あ」の「あ」こがれのということばのなかで、「ああ」が繰り返される。いや、「ああ」が「あ」の「あ」こがれのという音を先取りしているのだ。「ああ」がなくても「意味」はかわらない。しかし、詩は「意味」ではない。「あの」ということばは、話者と聞き手が「あの」について共通の認識をもっているときにつかわれる。自分自身の身体なのだから、詩人と共通の認識をもってるのは当然なのだが、その共通の「あの」の「あ」が和音となって重なり、和音となって散らばる。この重なりと分散が、ああ、美しい。********************************************...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(36)

  • 山本育夫『こきゅうのように』

    こきゅうのように月録詩集2020.04-2022.01山本育夫思潮社山本育夫『こきゅうのように』(思潮社、2023年08月20日発行)山本育夫『こきゅうのように』は『ことばの薄日』と同時に刊行された。以前「博物誌」に何篇かの詩の感想を書いた。しかし、『HANAJI』(2022年2月)以降は、感想を書いていない。「博物誌」で、たしか「私の好きな詩」というエッセイの特集をやったはずだが(私は山本かずこの詩集を取り上げ感想を書いたはずだが)、その特集号のときから、「博物誌」が私のところには届かなくなったからである。たくさんの有名詩人が寄稿しており、他の詩人に寄贈したら、部数がなくなったということかもしれない。山本が多忙になったのか、あるいは病気が重くなったのかもしれない。というわけで、ひさびさに山本の詩を読んだ...山本育夫『こきゅうのように』

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(35)

    「カイサリオン」。この詩のテーマは「事実とは何か」である。だからこそ、次の行が登場する。きみの魅力は不確定性にある。「事実がわからない」。では、そのとき、ひとはどうするか。カヴァフィスは、どうしたのか。私の好きなことばで言えば「誤読する」。誤読には、誤読することでしかたどりつけない「真実」がある。「不確定性」は「誤読」を推奨する。その結果、どうなったか。詩を読んだ人だけがわかる。それでいい。詩を読まないひとに、結果を知らせる必要などない。**********************************************************************★「詩はどこにあるか」オンライン講座★メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。メール(宛て先=yachisyuso...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(35)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(34)

    「アチュルの月に」は若くして死んだレウキオスの墓碑銘を読む詩。古い墓碑銘なので、ところどころの文字が欠けている。自然に欠けたのか、だれかが消したのか、それはわからない。その文字を拾いながら、読む。ふたたび「涙」「その友たる(われらの)愁い」。(われら)はカヴァフィスが補ったことばである。ほんとうは違う文字だったかもしれないが、カヴァフィスは詩の登場人物に、そう読ませている。そのとき、カヴァフィスは「われら」になる。想像力に加担することは、その想像力の人物になるということだ。もし、「われら」が「誤読」だとしたら、それは「加担」を通り越して、想像力を「引き受ける」ことである。引き受けなければならないカヴァフィスの「真実」、「間違わなければたどりつけない真実」がある。**********************...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(34)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(33)

    「宵闇」は終わってしまった恋の詩。その最終行。せめて思いを散じたかった。和泉式部の「君恋ふる心は千々にくだくれど一つも失せぬものにぞありける」を思い出した。しかい、意味(論理)は逆になるかもしれない。カヴァフィスは、恋しい気持ちが強すぎるので、いろいろなものの上に思い散らすことで、安らぎを得ようとしている。もちろん、散らしたところで、散らばって消えていくものではなく、やはり「ひとつ」として失せず、無数なのに「ひとつ」に感じてしまうのが恋だろう。だが、そういった論理(意味)ではなく、私は、「散ずる/散じる」ということば、その音に、私は引きつけられる。意味はわかるが、私はぜったいにつかわない。そして、私のつかわないことばの存在が、詩に不思議な距離感をもたらす。主観的な共鳴を拒んでいるようにも感じられる。和泉式...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(33)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(32)

    「彼等の神々の一柱」。「彼等」は「私たち」ではない。そこには明確な区別がある。そして、「神」とは、「私たち」がけっしてなれぬ存在である。二重に「私たち」ではない。だから「彼等の神」ということばを発するとき、そこには拒絶がある、と言えるかもしれない。あるいは、蔑視が。人々は首を傾げた。ありゃどの神さまだ。「ありゃ」には、「違った存在」に対する蔑視が露骨にあらわれている。それなのに、その蔑視をそのまま受け入れているのは、カヴァフィスには「わしら」のことは「きみら」にはけっしてわからないという矜持があるからだろう。中井は、この矜持を「ありゃ」という口語、他者の発したことばのなかに籠めている。複雑に交錯した愉悦が駆け抜けていく詩である。***************************************...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(32)

  • 木谷明「パスポートセンターで」ほか

    木谷明「パスポートセンターで」ほか(朝日カルチャーセンター、2023年08月21日)受講生の作品。パスポートセンターで木谷明台風の前日にすでに旅先のような顔をしている人達がなにをそんなに話し込まれて立ちんぼで待たされてひときわ一人だけ友人なのかと見つめてしまう親しげに話す№8の窓口の女性の菱形の髪型にみとれていたそこに呼ばれてしまった美しいその人は書類をてきぱきこなす全部事項の謄本をわたしは閉じたまま渡す写真を出して免許証を返されてその手と口でいまわたし何を返しましたっけ同じ作業の繰り返しで分からなくなって何でも聞いてくださいにっこりしていうと国内連絡先は娘さんなんですね遠方の住所に目を落とし出来上がりは十六日ですお使いの予定はないとのことですからお忘れにならないでくださいね不規則の一瞬は除籍こうしてパス...木谷明「パスポートセンターで」ほか

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(31)

    「詩人アンモネス、六一〇年没、享年二九歳に」。詩人ラファエルに、詩人アンモネスの墓碑銘を依頼する。依頼するのは親しかった仲間だ。わしらの生活を行間に籠めてくれ。「わしら」とは「私とアンモネス」のことではない。「わしらとアンモネス」のことだ。このとき、アンモネスは「飾り」で、「わしら」そのものが主役なのだ。あるいは「生活」そのものが主役なのだ。個人(故人)ではなく、その「生活」。「街路にて」に「その子」が登場したが、「詩人アンモネス」は「その子」と呼ばれるひとりなのだ。ある人間を「その子」と呼ぶとき、「その」によって共有されるものがある。「その生活」がある。「わしらの生活」とは「その生活」なのだ。********************************************************...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(31)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(30)

    「イグナチオスの墓」。墓碑銘。そのなかに、わが二八年、まさに消去さるべし。いつも、こころが震える。この詩は、「過去は消し去り、以後は聖職者として生きた」とつづくのだが、私はまったく違う意味で受けとめ、こころが震えるのだ。私は何年生きることになるのか。知らない。しかし「わが〇〇年、まさに消去さるべし。」というのは、私の理想の死だ。だれかが消し去ってくれるわけではない。自分自身で自分を消し去らなければならない。すべてを、ただ消し去りたい。墓碑銘はもちろん、墓もいらない。何もない、「完璧な無」を知りたいという欲望があって、なかなか死ねないという矛盾を私は生きている。**********************************************************************★「詩は...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(30)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(29)

    「街路にて」。短い詩だが、魅力的な行に満ちている。すべてが緊密な関係にあり、この一行を選ぶのがむずかしいのだが。その子は漂って行く、街路を、あてどなく、全体のなかでは印象が薄い行かもしれない。「漂っていく」と「あてどなく」はつきすぎているというか、同じことを別のことばで言い直しているだけだ、と批判的なことばを書こうとして、私の意識はふと立ち止まる。「違う」と、私のなかのだれかが告げる。もう一度、読み直す。すると。その子が、くっきりと見えてくる。この詩の主役。「彼」でも「青年」でもなく、「その子」。「あの子」でも、「この子」でもない。「その」という中途半端な位置にいる。しかし、「その」ということばを思わずつけてしまう、引きつける力がある。カヴァフィスは、「その子」を直接知らないかもしれない。しかし、その姿を...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(29)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(28)

    「マヌエル・コムニノス」皇帝は、ある日、自分の死期が近いことを覚る。そして、帝は宗教の古い教えを思い出されて目立たぬ衣裳を纏い、この世を去る。「古い」の一語がとてもいい「思い出す」という動詞とも関係しているが、それは彼が昔聞いた教えだ。彼が聞いたときは、すでに「古い」教えだっただろう。つまり、ひとからひとへと語り継がれてきたものがそのなかに生きている。彼は「天国」へ行くわけではない。この世を「去る」のでもない。ひとに共有されてきた思想のなかへ、思想を語り継いできた無名のひとのなかへ還るのだ。「ひとのなかへ還る」ときの安らぎがここにはある。これを「幸い」という。**********************************************************************★「詩は...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(28)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(27)

    「オロフェルネス」の美しい肖像は、四ドラクマ銀貨に刻まれている。銀貨に刻まれるくらいなのだから、「偉い」人物なのだろう。そして、彼には複雑な「歴史」があるのだが、その「歴史」を中井久夫は一言で要約する。ところが、ある日、思いもよらぬ考えがもちろんそれはオロフェルネスの考えのことだが、生きているのはオロフェルネスひとりではない。あらゆるひとが、ある日、「思いもよらぬ」考えを実行するのだ。そこからドラマが始まる。歴史が始まる。そのいちばんの「思いもよらぬ考え」のひとつが、オロフェルネスの肖像を銀貨に刻み込むことだろう。彼は彼の美貌が銀貨に刻まれることなど思いもしなかっただろう。そして、この「思いもよらぬ考え」を統一するのが、そうなのだ、オロフェルネスの美貌なのだ。カヴァフィスは、まさか銀貨に刻まれた肖像を見て...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(27)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(26)

    「テオドトス」。よっく用心しろ、自分の偉くなる時には。このことばは、少しずつ変形しながら、何度か繰り返される。「偉いと思ったらお終いさ。」「だからといってないとは限らぬ/今みたいなこと、恐ろしい目覚ましいことが。」「偉くなる」「偉い」「目覚ましい」。それは自分が自分でなくなる、つまり「恐ろしい」ことでもある。だから「用心しろ」。「よく」ではなく「よっく」。この強い口語と「偉い」という口語がとても似合う。「具体的な地位」ではなく「偉い」という一言が、なんともいえず「人間的」だ。人間的な、あまりにも人間的な、悲劇が待っている。**********************************************************************★「詩はどこにあるか」オンライン講座★メール、...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(26)

  • Estoy Loco por España(番外篇397)Obra, Jesus del Peso

    Obra,JesusdelPesoLaobradeJesúsnotienepeso.Hayunaligerezadeimaginaciónquesuperaelpesodelhierro,yesestaligerezalaquepermitequelaobradeJesúsfloteenelaire.Lomismoocurreconlospájaros.Elcuerpodelpájarotienepeso,peroelpájaropuedevolar.Enelcasodelpájaro,lasalasproducenflotabilidad,peroenlaobradeJesús,laimaginacióndelaformaproduceflotabilidad.Laimaginaciónestambié...EstoyLocoporEspaña(番外篇397)Obra,JesusdelPeso

  • 林達夫「三つの指輪の話」(林達夫著作集3)

    林達夫「三つの指輪の話」(林達夫著作集3)(平凡社、1979年12月01日、初版第7刷発行)林達夫「三つの指輪の話」には、林達夫の「文体(思想)」の特徴があらわれている。林達夫は、彼自身の考えを彼自身のことばでは書かない。他者の考え、他者のことばを紹介することで、自分の考えを語る方法(文体)をつくりだした。「三つの指輪の話」には、それが美しい形で実現している。林達夫は、読者を迷路に誘い込む。この世界、この世界に存在するものは、迷路という規則(理性)をもっていることを明るみに出す。その迷路をつくりために林は妥協を知らない。迷路の設計図を、正確に描くのである。その設計図ができあがったとき、それは迷路ではない。つまり設計図がわかれば、迷路は存在しないのだが、その設計図を林は「完成図」としては提示しない。「結論」...林達夫「三つの指輪の話」(林達夫著作集3)

  • Estoy Loco por España(番外篇396)Obra, Joaquín Llorens

    Obra,JoaquínLlorensLasmanosdeJoaquínconocenelmaterial(hierro)conelquetrabajansusmanosysuexperienciadecómoelmaterialestransformadoporsutrabajodelamismamanera.Veeltrabajodesupadreydesuabuelo,procesandoelhierroparahacercosasalrededordesuvida.AhíresideelconocimientodeJoaquín,elpuntodepartidadelhombre.Elhombrehacecosas.Nohacecosagrandedesdeelprincipio,sinohace...EstoyLocoporEspaña(番外篇396)Obra,JoaquínLlorens

  • Estoy Loco por España(番外篇396)Obra, Xose Gomez Rivada

    Obra,XoseGomezRivadaSérieSeñorita"LULÚ",PinturasobrePasspartue50x40Lamujerteníadoscaras.Unaestabaocultaporelmaquillajeylaotraporunvestidohermoso.Lacaramaquilladateníaojosyboca.Losojosestabanabiertosylabocaintentabadeciralgo.Sepodríadecirque,debidoalmaquillaje,suexistenciasehabíavueltoabstracta.Abstractopuedereformularsecomosignificado.Losojosdelacara,ocul...EstoyLocoporEspaña(番外篇396)Obra,XoseGomezRivada

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(24)

    「朝の海」。エーゲ海の美しい朝。青と金色の輝き。光。ここに立たせておいてくれ。こういうもの皆を見るふりをさせといてくれ。ほんとうに見ているのは「朝の海」ではない。「ふり」をしている。ほんとうは別のものを見ている。そういう詩なのだが、それを強調するのが「皆」である。ほんとうに見ているのは「ひとつ」なのだ。その「ひとつ」とは何かは最終行であきらかにされるのだが、「ふり」からわかるように、それは肉眼では見ることのできないものであり、同時に肉眼に刻み込まれたものなのだ。ことばが加速して、気持ちが強く響いてくる。いらだちを含んだ、とりかえしのつかない悲しみがあふれる。そばにいる友人に言っているのではない。自分のこころに、あるいは理性に、そう呼びかけているのだ。そうするしかないのだ。声のわずかな変化、意味を超える変化...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(24)

  • 林達夫「切支丹運動の物質的基礎」

    林達夫「切支丹運動の物質的基礎」(林達夫著作集2)(平凡社、1982年03月23日、初版第9刷発行)林達夫「切支丹運動の物質的基礎」は、キリスト教の布教は、どうやって日本でおこなわれたのか。彼らが日本で布教できたその背景の、経済的基盤はどうなっていたのか、ということについて書いている。私は学校教育の「歴史」は好きではないが、こういう文章を読むと「歴史」というのはとてもおもしろいと思う。「過去」のできごとではなく、「いま」の問題としても見えてくる。いや、実際、彼らが日本に来て、どうやって布教したのか。「情熱」や「使命感」だけではできない。そこには何らかの「戦術」というか「政略」がないと、できない。林達夫は、彼らが、日本とポルトガルとの貿易のなかに割り込んで、商人となることで金を稼いだということを明らかにして...林達夫「切支丹運動の物質的基礎」

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(23)

    「はるかな昔」。青春時代の、恋人を思い出す。眼だけは思い出せる――青――だったと思う。「思う」ということばに触れて、私は、とてつもない悲しみを覚える。西脇風に、淋しさ、と言ってもいいかもしれない。なぜ、「青だった」ではないのか。「思う」とことばを重ねるとき、青という色だけではなく、「思う」その気持ちが動く。「思う」ということを、したいのだ。その青に対し、どう思ったのか。もう一度、「思い」たいのだ。その「思った時間」というか「思う」のなかにある時間が、西脇の言う「淋しさ」のように、そこに存在するのだ。存在して「くる」のだ。中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(23)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(22)

    「店のためには」。店のためには、のあとにはどんなことばがつづくのか。店のためにはいいことなのか、悪いことなのか。それは、気にしないのだ。彼は貴金属店で働いている。そこで、装飾品を包んでいる。たぶん、彼自身がつくったものを。おのれの好み、おのれの思うとおりに、繰り返しがてともいい。「おのれの」が繰り返され、「好み」が「思うとおり」と言い直されて繰り返される。そのあと、もう一度「おのれの考え」と繰り返される。好み、思い、考えとことばが動いていく。ことばは動かずにはいられないものなのだ。動きながら、深まっていく。ひとによっては、同じことを繰り返すな、一回にしろ、簡潔に書けというかもしれない。しかし、動きを動きのまま、正確に伝えるというのは大事なことだ。ことばの動き、その変化を追いながら、その奥にあるものをつかみ...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(22)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(21)

    「せめて出来るだけ」。同じことばが何度も出てくる。一度だけ書かれることばもこころに残るが、きょうの私は、人生の品質を下げぬようにと。この一行の中にある「人生の品質」ということばの前で立ち止まる。「人生の品質を下げぬ」ために何をすべきか。私は「本を読む」を選ぶ。「ことばを読む」。せめて、できるだけ。**********************************************************************★「詩はどこにあるか」オンライン講座★メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。★メール講座★随時受け付け。週1篇、月...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(21)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(20)

    中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(20)「教会にて」の「にて」ということばのつかい方は、私には何かしら古風なものに聞こえる。「口語」ではなく、「文語」だね。意味は即座にわかるが、私は会話で「にて」をつかったことがない。この「文語」の響き、歴史を感じさせることばが、次の行にとても似合う。私の思いは返る、我が民族の偉大に。「返る」という動詞につきうごかされて、過去に、歴史に返る。「民族の偉大」。そして、それには「我が」ということばがしっかりと結びついている。この緊密な緊張感が「にて」から始まっている。「にて」に呼応して「私の思いは」が動いている。「私」と書き始めて「私たちの」ではなく「我が」と動いていく。この変化が、とてもおもしろい。「私」と「我」のつかいわけが、とても強く響いてくる。***********...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(20)

  • Estoy Loco por España(番外篇395)Obra, Calo Carratalá

    Obra,CaloCarrataláÁrbolverdeenlaescalera,242cmx186cm.Lápiz.2023LoscuadrosdeCalosonmuygrandes.Sondemasiadograndesparacolgarlosenmicasa.Peroestecuadroesdiferente.Laparedalfinaldelasescaleras.Elárbolverdepintadoallí.Notengoquepreocuparmeporeltamaño,porqueCalolohapintadoalamedidadelapared.Peroencuantolovi,sentívértigo.Noesunárbolpintadoparallenarunaparedestre...EstoyLocoporEspaña(番外篇395)Obra,CaloCarratalá

  • Estoy Loco por España(番外篇394)Obra, Luciano González Diaz y Miguel González Díaz

    Obra,LucianoGonzálezDiazyMiguelGonzálezDíazExposicióndeLucian,Miguelyotroescultor.Lasalóndeexposiciónycharlaentornoalasobras.Alverlasfotografías,mesorprendí.¿Esésteeltamañorealdeesaobra?Habíavistosusobrasensustalleres.Inclusolashetocado.Enotraspalabras,heconfirmadoeltamañoconmipropiocuerpo.Creíaqueconocíalostamaños.Sinembargo,eltamañoqueconozcoparecedifer...EstoyLocoporEspaña(番外篇394)Obra,LucianoGonzálezDiazyMiguelGonzálezDíaz

  • Estoy Loco por España(番外篇393)Obra, Joaquín Llorens

    Obra,JoaquínLlorensUnacitadeperros.Losperroshuelenlasnalgasdelprimerperroqueconocen.Perolosperrosqueseconocennosesaludanasí.Sebesancomopersonas.LaobradeJoaquínmerecuerdaesascitasdeperros.Segúnelángulodesdeelquesemiren,cadaperropareceunpocodistinto.Medalaimpresióndequelamiradadeldueñomiraacadaperro.Así,lasmiradasdeperrosydepersonassefunden.Cuandoescriboest...EstoyLocoporEspaña(番外篇393)Obra,JoaquínLlorens

  • Estoy Loco por España(番外篇392)Obra, Juancarlos Jimenez Sastre

    Obra,JuancarlosJimenezSastreTÍTULO:VIDAHIERROYPIEDRAPiedrayhierro.Hevistopiedrasenlanaturaleza.Enlasmontañas,enlosríosoenelmar.Sueleestarahí.Estáabandonada.Peronuncahabíavistohierroenlanaturaleza.Elhierrosiempretieneunaformaartificial.Yaveceslohevistodesechadocomounapiedra.Enlasmontañas,enloscampos.Inclusoenlaciudad,loslugaresdondesearrojabaelhierroparecí...EstoyLocoporEspaña(番外篇392)Obra,JuancarlosJimenezSastre

  • 青柳俊哉「余韻」ほか

    青柳俊哉「余韻」ほか(朝日カルチャーセンター、2023年07月17日)受講生の作品。余韻青柳俊哉冬の木から水鳥がはばたく月に鷺が響く水のような夜明け空の端から端へ伸びる雲の暗い紫言葉が瞬時にめざめる枯野の草は柔らかく葉音は一面に潮を引いて空へむかう水鳥の中へ太陽は落ちていった空と海は葉の潮に溺れる光は光を演じ水は水を演じる人は言葉を鳥は水の音を光と水の余韻が刻印する鏡冬の情景が端的に描かれている。「一面に潮を引いて空へむかう」には飛躍があって楽しい。光と面を感じる。宇宙の静けさを感じる。「光と水の余韻が」という行には、対象に余韻ということばが集中している。「光は光を演じ水は水を演じる」という一行、自然からことばがやってくるという感じに満ちている。「光と水の余韻が」には、そのもののもつ力を感じる、というよう...青柳俊哉「余韻」ほか

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(19)

    中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(19)「帰ってくれ」というタイトルは、なかなか難しい。二つの意味に取れる。ギリシャ語では、二つの意味になるかどうかわからないが、日本語では二つの意味になる。ひとつは、「もうここから帰ってくれ」という拒絶。もうひとつは「ここへ帰って(来て)くれ」という願望。二行目は、こう書かれている。帰って来て私を捉えてほしい感覚よ。これが、またまた、難しい。「帰って来て(くれ)」と呼びかけられているのは「感覚」である。感覚って、だれの感覚?基本的には自分の感覚だろう。他人の感覚に対して「帰って来てくれ」と呼びかけるとしたら、それはたとえば死んだひとに対してであろう。生きているひとの感覚に対して「帰って来てくれ」、そして「捉えてほしい」というのは、もう一度愛してほしいという意味だろうか。...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(19)

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