chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
arrow_drop_down
  • 青柳俊哉「仮晶」ほか

    青柳俊哉「仮晶」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年09月16日)受講生の作品。仮晶青柳俊哉惹かれて野花の咲く原へ月へむかって花の成分がながれだすひとつの茎が指にふれるかたい腺毛の奥のしずけさ唇を花びらが噛む苦みのある繊維質の霧のような香気月がしぐれて舌崩れる多孔質スポンジ状の子房の中へそそがれて種子へ結晶する接合されて野花と生きはじめる「月へむかって花の成分がながれだす」は、青柳の「詩語法(詩文法)」の特徴である。肉眼では見ることのできない運動が、言語によって実現されている。「花の成分」は具体的に何を指すか。それは読者の想像力に任されている。この詩には、ほかにもおもしろい語法がある。「ひとつの茎が指にふれる」「唇を花びらが噛む」。「ふれる」「噛む」という動詞の主語は「茎」「花びら」。人間ではない...青柳俊哉「仮晶」ほか

  • 奥山大史監督「僕はイエス様が嫌い」(★★★)

    奥山大史監督「僕はイエス様が嫌い」(★★★)(キノシネマ天神、スクリーン3、2024年09月28日)監督奥山大史出演佐藤結良、大熊理樹冒頭、おじいさんが障子に穴をあけて、外を覗いている。このシーンがラストで少年にかわる。少年が障子に穴をあけて、外をのぞく。おじいさんが何を見たかは描かれない。少年が見たのは、少年が大好きな友人と雪の上でサッカーをしている姿である。このシーンは、「ぼくのお日さま」を思い出させる。「見る」とは、何か、ということを考えさせる。見る。目で見る。だから、目が直接見ることができないものは、自分の目である。しかし、目で見るとき、そこには「自分」が反映される。つまり、それは単に「自分以外」を見るのではなく、実は「自分」を見ることでもある。少年は、障子の穴をとおして、彼と友人が夢中になって(...奥山大史監督「僕はイエス様が嫌い」(★★★)

  • 細田傳造特集

    細田傳造特集(「阿吽」復刊01、2024年08月25日発行)「阿吽」復刊01の「細田傳造特集」を見た瞬間に(読んだ瞬間にではない)、笑い出してしまった。表紙に「書下ろし一〇詩篇と十二の論考」とある。そして、その「論考」の執筆者が全員女性なのである。(名前だけで判断したので、間違っているかもしれないが。)で、これが、笑い出した原因。私はだいぶ前から、細田傳造の詩は「おばさん詩」であると言っている。「論考」を書いている詩人のなかには、私が「おばさん詩」と呼んでいる詩を書いているひともいる。そうか、やっぱり細田の詩について、何かまともなことを(まともな反応を)書くとすれば(それを期待すれば)、「おばさん」以外にいないのだなあと思ったのだが、これは私だけの印象ではなく、編集者もそう思っているのかと直覚したのだ。そ...細田傳造特集

  • 奥山大史監督「ぼくのお日さま」(★★★★★)(3)

    ユーチューブ「シネマサロン、ヒットの裏側」批判のつづき。(この記事の下に、1、2があります。)https://www.youtube.com/watch?v=ywPcv9iU9LM美、純粋、透明などいろいろな「概念」が指し示すものをつかみとるには「直覚」が必要だ。美や純粋、透明といったものを「論理」で説明しても、それは単なる「論理」であって「本質」ではない。それは「論理」で説明してもしかたがないものである。直覚できるかどうかが問題である。こういうことを書きながら、「シネマサロン、ヒットの裏側」ユーチューバーの語っていることを、ことばで批判するのは、まあ、矛盾のようなものであるが、書いておく。「シネマサロン、ヒットの裏側」ユーチューバーは、簡単に言えば、透明、純粋、美に対する直覚が欠如している。彼らには、透...奥山大史監督「ぼくのお日さま」(★★★★★)(3)

  • 奥山大史監督「ぼくのお日さま」(★★★★★)(2)

    (この記事の下にある「ぼくのお日さま」の感想のつづきです。先に下の記事を読んでください。)私は他人の批評は読まないのだが、ある人が、ユーチューブの「ぼくのお日さま」の批評について、わざわざ教えてくれた。「シネマサロン、ヒットの裏側」https://www.youtube.com/watch?v=ywPcv9iU9LMこれが、とんでもない「批評」。「最後の詰めが甘い」というのだが、その詰めのシーンで彼らはいちばんのポイントを見落としている。ラストシーンは、少女が遠くから歩いてくる。少年がその姿を見つける。ふたりは、久々に出合う。そのとき少年は何かを語ろうとする。そこで映画は終わる。少年が何を語ったかは、わからない。でもねえ。この少年は何を持っていたか。ただ学生鞄を持っていただけか。胸に大事にかかえていたのは...奥山大史監督「ぼくのお日さま」(★★★★★)(2)

  • 奥山大史監督「ぼくのお日さま」(★★★★★)

    奥山大史監督「ぼくのお日さま」(★★★★★)(2024年09月23日、キノシネマ天神、スクリーン2)監督奥山大史出演越山敬達、忍足亜希子、池松壮亮傑作。冒頭の初雪のシーン。とても美しい。透明な空気のなかの水分が結晶して、舞うように空から降ってくる。それが繊細で、美しい。純粋そのものが結晶になって舞っている感じ。みつめる少年の目が、同じように透明で純粋で美しい。この印象が、最初から最後まで、まっすぐにつづく。ひたすら透明、ひたすら美しい。純粋。少女の嫉妬、そしてそこからはじまる「裏切り」さえも透明で美しい。この場合の透明は、何もかもがはっきり見えるということである。はっきり見えるから、それを否定できない。少女は自分の気持ちを裏切ることなどできない。純粋な気持ちが、嫉妬さえも貫くのである。嫉妬が間違っていると...奥山大史監督「ぼくのお日さま」(★★★★★)

  • 呉美保監督「ぼくが生きてる、ふたつの世界」(★★★+★)

    呉美保監督「ぼくが生きてる、ふたつの世界」(★★★+★)(2024年09月22日、KBSシネマ、スクリーン2)監督呉美保出演吉沢亮、忍足亜希子「侍タイムスリッパー」の対極にある映画。「侍タイムスリッパー」は幕末を生きていた侍が現代にタイムスリップしてきて「時代劇」を体験する。江戸時代と現代、現実と虚構というふたつの世界を主人公が生きている。一方の「ぼくが生きてる、ふたつの世界」は、耳と口が不自由な両親から生まれた主人公が、耳が聞こえる世界と、耳が聞こえない人の世界をつなぐ。「ふたつの世界」を生きているという意味では似ている。しかし。「ぼくが生きてる、ふたつの世界」を紹介する記事は、私の読んだ限り(あるいはたまたま知人から聞いた範囲内では)、五十嵐大の自伝的エッセイ「ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界...呉美保監督「ぼくが生きてる、ふたつの世界」(★★★+★)

  • Estoy Loco por España(番外篇456)Obra, Laura Iniesta

    Obra,LauraIniestaMixedmediaoncanvasandcrystalresin30x30cmNegro,rojoyblanco.Onegro,blancoyrojo.No,rojo,blancoynegro.¿Cuántascombinacioneshaydeestostrescolores?"Matemático"puedecontenerlarespuesta.Perorechazandoesarespuesta,Lauradiría:"UNO."Entiendomalesarespuestacomo"infinita".Esciertoquelacombinaciónaquíes"única"y,enesesentido,es"UNO".Sinembargo,nosientoq...EstoyLocoporEspaña(番外篇456)Obra,LauraIniesta

  • Estoy Loco por España(番外篇455)Obra, Alfredo Collado

    Obra,AlfredoCollado“Galileo”(AlfredoColladoesargentino.)Unametáforaesunanegación.Unavezquelametáforaniegaloquenuestrosojosven,lametáforahabladeunanuevaexistenciabasadaenloquenuestrosojosnopuedenver.Laaccióndenegaciónrevelalalógicadetrásdeloquevenlosojos,lalógicaocultaporloquevenlosojos.Unanuevaafirmaciónlógicaatravésdelanegacióneslametáfora.Noeslaforma.Ni...EstoyLocoporEspaña(番外篇455)Obra,AlfredoCollado

  • 杉惠美子「おいしいごはん」ほか

    杉惠美子「おいしいごはん」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年09月02日)受講生の作品。おいしいごはん杉惠美子日日草がお陽さまに向かって本当を語ろうとするありったけの一瞬があったからっぽになったときおなかがすいた何かが終わった日に夕立が激しく音を立てた雷が止んだときおなかがすいた夏の角を曲がって海に落ちたときずぶぬれになって私まるごとを感じたときおなかがすいた十三年が経ってようやく気付いたことがある私の中で透明な風となって空を飛んだときおなかがすいた一連目が非常に魅力的である。「本当」「ありったけ」「からっぽ」が拮抗する。「本当」「ありったけ(すべて)」は似通うものがある。しかし、それは「からっぽ」とは矛盾する。このみっつのことばは、からみあって「撞着語」になる。それは「一瞬」のことであり、その...杉惠美子「おいしいごはん」ほか

  • 安田淳一監督「侍タイムスリッパー」(★★★)

    安田淳一監督「侍タイムスリッパー」(★★★)(2024年09月14日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン9)監督安田淳一出演山口馬木也一館上映で始まった映画だが、人気が人気を呼び、全国で上映されるようになった作品とか。予告編を見た印象は、とても効率よくつくられた作品。スクリーンに映っているシーン以外に「余分」はない、という感じだったが、本編を見てもその印象は変わらない。ていねに、しっかりとつくられた映画だが、なんというか「奥行き」がない。カメラに写っているシーン以外に、何もない。もちろん、それでもいいのだが、私は「余分」を期待して映画を見ている。「余分」がないと、味気ない。100点の映画だが、それはミスがないという意味でしかない。スタッフ一覧を見てみると。安田淳一が監督、脚本、撮影、編集と四役...安田淳一監督「侍タイムスリッパー」(★★★)

  • 増田耕三『庭の蜻蛉』

    増田耕三詩集庭の蜻蛉(ことばのリレー・次世代に手渡したい詩叢書)増田耕三竹林館増田耕三『庭の蜻蛉』(現代日本詩人選100、NO4(竹林館、2024年09月01日発行)増田耕三『庭の蜻蛉』の巻頭の詩「こおろぎ橋」。こおろぎ橋を渡ったのは三十年ほど前のことまだ妻も子もなく若さを失いかけた私が昼のなかの橋を渡った別れたのちの届けようのない想いがりんりんと染みるように歩み去ったひとのかかとの音が響いていた橋のたもとこおろぎ橋を渡ったのは三十年ほど前のこととてもていねいに書かれていて、とてもよくまとまっている。二連目の「若さを失いかけた私」というのは、いまの感想というよりも、青春独特の「喪失の先取り」のような感覚だと思う。センチメンタルというのは、ほんとうは失っていないのに失ったと思うときに、みょうな輝きを見せる。...増田耕三『庭の蜻蛉』

  • こころは存在するか(42)

    「こころ(精神)は存在しない」という私の考える私が、こんなことを書くと矛盾していることになるのだが。「心」ということばが出てくる文章に感動したのである。いま、日本語を勉強しているイタリアの青年と孟子を読んでいる。その「告子章句上」(講談社学術文庫)の361ページに、「心」をふくむ次のことばがある。(私のワープロでは出てこない感じがあるので、一部は変更してある。)人、鶏犬の放すること有れば、則ち之を求むるを知る。心を放すること有りて、求るを知らず。学問の道は他なし。其の放心を求むるのみ。逆説的な言い方になるのかもしれないが。「こころがない」という考えに達したから、その「ないこころ」(なくしたこころ)を取り戻すために、私は本を読むのかもしれない。孟子を読みながら、突然、そう思ったのである。そして、それが勘当の...こころは存在するか(42)

  • こころは存在するか(41)

    谷川俊太郎の詩集に『世間知ラズ』というのがある。私は、これを「世間知(せけんち)・ラズ」と読んでいた。「ラズ」と呼ばれている「世間知(世間の常識、だれもが知っていること)と理解し、さて、「ラズ」って、何?そこで、ずいぶん悩んだ。もちろんこれは「世間知らず(せけんしらず)」と読むのだが、カタカナ語が苦手な私は「せけんしらず」ということばが思いつかなかったのである。笑い話にもならない、どうでもいいことなのだが。でも、私はなぜ「世間知(せけんち)・ラズ」というような、常識はずれの「読み方」をしてしまったのか。カタカナ難読症が原因と簡単に断定できるのだろうか。このことを、和辻哲郎「自叙伝の試み」を再読していて、突然、思い出したのである。姫路生まれ、姫路育ちの西脇が、東京に出てきたときのことを「半世紀前の東京」のな...こころは存在するか(41)

  • こころは存在するか(40)

    和辻哲郎「自叙伝の試み」に、何度も何度も読み返してしまう文章がある。和辻の母が蚕から生糸をつくり、それをさらに織っていく。それは「本質的」に、工場でつくるものとかわりがない。自分で紡いだ生糸を、母たちは、好きな色に染めて、機にかけて、手織りで織ったのである。織物としての感じは非常におもしろいものであったように思う。今ああいうものを作れば、たぶん非常に高価につくであろう。しかし母たちの時代の人にとっては、自分たちの労力を勘定に入れないので、呉服屋で買うよりもずっと安かったわけである。「労力を勘定に入れない」。このことばが、いつも胸に迫ってくる。たしかに昔の人は、「労力を勘定に入れない」で仕事をした。いまは「休憩」さえも勘定に入れる。どちらが正しいというのではなく、ただ、私は、その「労力を勘定に入れない」とい...こころは存在するか(40)

  • 青柳俊哉「バラを解く」ほか

    青柳俊哉「バラを解く」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年08月19日)受講生の作品。バラを解く青柳俊哉バラの深部へむかう。交配を重ねるものの寓意として、バラがあまりにも人間的な美にとざされているから。表層から花芯へ一枚一枚花弁を摘みとる。秘密を被うように重なりあい密集するものの中へ分け入る。蜜のながれる花糸を一つ一つ解いていく。裸になった花柱を摘みとる。指先は黄色い脂粉にぬれた。花冠は消失しても、茎の内部にはさらに深いバラの層がひろがり、花弁は透けて重なり、肉体の空へ屈折している。この細い透明な維管束をながれるものは何か。美の影がながれる。生の個別性から死の全体性へ回帰しようとする意志、隠された内的な欲動---。バラは遥かな先行者であり、人はバラの表象である。一行目に「寓意」ということばがある。...青柳俊哉「バラを解く」ほか

  • Estoy Loco por España(番外篇454)Obra, Javier Messia

    Obra,JavierMessiaSeencuentranlasarenasylasolasennuestraplaya.Cuandolaluzdelsollatoca,reflejaoro,ycuandolasombradelalunalatoca,sevuelveazulclaro.Lasarenasylasolasseseparandespuésdetocarse,yelsolylalunasemiranparasepararse.Labellezaestabaentodaspartes,perolaeternidadnoestabaenningunaparte.Comosabíamos,siemprellegaelmomentoenquenoloestamosesperando.¿Pusepodr...EstoyLocoporEspaña(番外篇454)Obra,JavierMessia

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)さんをフォローしませんか?

ハンドル名
詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)さん
ブログタイトル
詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)
フォロー
詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用