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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
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2012/08/07

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  • 飛鳥文化 その2

    ところで、聖徳太子は若い頃から仏教を深く信仰していましたが、仏教を積極的に受けいれようとする崇仏派(すうぶつは)の蘇我馬子(そがのうまこ)と、禁止しようとする廃仏派(はいぶつは)の物部守屋(もののべのもりや)との間で、先述のとおり587年に大きな争いが起きてしまいました。聖徳太子(当時は厩戸皇子=うまやどのみこ)はこのときまだ14歳の少年ながら戦闘に参加しましたが、戦いは蘇我氏にとって不利な状況が続き...

  • 飛鳥文化 その1

    さて、聖徳太子(しょうとくたいし)が内政や外交に大活躍していた頃の我が国では、仏教が朝廷の篤(あつ)い保護を受けて急速に発展した時代でもありました。この時代の文化を「飛鳥(あすか)文化」といいます。飛鳥文化は仏教文化を中心として、中国の南北朝時代の文化と我が国の古墳時代の文化が融合し、当時の西アジアやエジプトあるいはギリシャにもつながる特徴をもっていました。聖徳太子は、自ら高句麗(こうくり)の高僧...

  • 聖徳太子をめぐる昨今の諸問題 その6

    今回の改定により、小中学校の教科書において、少なくとも10年は「聖徳太子」の記載が守られることになりました。このこと自体は大きな前進といえるかもしれませんが、実は、高校の歴史教育において使用される有名な教科書において、既(すで)に「厩戸王」という表現が使用されているのです。私が歴史教育の世界に身を投じて、これまでに積み重ねてきた講演を振り返ってつくづく思うのは、いわゆる「プロパガンダ」は近現代史だけ...

  • 聖徳太子をめぐる昨今の諸問題 その5

    今回の学習指導要領の改訂案に関して、文科省は国民の意見を「パブリックコメント(意見公募)」として平成29(2017)年3月15日まで募集しましたが、その結果として改定案の見直しが行われて「聖徳太子」の名称が「復活」することになりました。学校現場に混乱を招く恐れがあるなどとして、文科省が現行の表記に戻す方向で最終調整していることが明らかになったのです。文科省が改定案公表後にパブリックコメントを実施したところ...

  • 聖徳太子をめぐる昨今の諸問題 その4

    藤岡氏が指摘した「聖徳太子抹殺計画」に続くかたちで、平成29(2017)年2月27日には、産経新聞が「主張」において、今回の改定案に疑問を呈(てい)しました。「主張」では「国民が共有する豊かな知識の継承を妨(さまた)げ、歴史への興味を削(そ)ぐことにならないだろうか。強く再考を求めたい」と最初に指摘したほか、今回の改定の理由である「聖徳太子は死後につけられた呼称で、近年の歴史学で厩戸王の表記が一般的である...

  • 聖徳太子をめぐる昨今の諸問題 その3

    文科省が次期学習指導要領を発表して以来、一部の歴史学の関係者やマスコミからは、これは「聖徳太子抹殺計画」ではないか、という厳しい批判が見られるようになりました。拓殖大学客員教授を務めた藤岡信勝(ふじおかのぶかつ)氏は、平成29(2017)年2月23日付の産経新聞の「正論」欄において、今回の学習指導要領の改訂案における聖徳太子の表記について「国民として決して看過できない問題」であると指摘したほか「日本史上重...

  • 聖徳太子をめぐる昨今の諸問題 その2

    平成29(2017)年2月14日、文部科学省は小中学校の次期学習指導要領の改定案を公表しました。なお学習指導要領とは、学校教育法などに基づき児童生徒に教えなくてはならない最低限の学習内容などを示した教育課程の基準であり、約10年ごとに改定されており、教科書作成や内容周知のために告示から全面実施まで3~4年程度の移行期間があります。次期指導要領は翌3月末に告示され、小学校は令和2(2020)年度、中学校は令和3(2021)...

  • 聖徳太子をめぐる昨今の諸問題 その1

    ※今回より「飛鳥時代」の更新を再開します(7月31日までの予定)。さて、内政並びに外交の両面において今日の我が国を形づくった偉大な政治家である聖徳太子(しょうとくたいし)は令和4(2022)年に没後1400年を迎えましたが、彼の生涯には様々な伝説が残されていることでも有名です。例えば聖徳太子の母親が臨月の際に馬小屋の前で産気づいたため、彼が生まれた後に「厩戸皇子(うまやどのみこ)」と名付けられたという話があり...

  • 文学と芸術の動き その5

    ※「第108回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(7月6日)からは「飛鳥時代」の更新を再開します(7月31日までの予定)。美術では日本画の横山大観(よこやまたいかん)や下村観山(しもむらかんざん)、安田靫彦(やすだゆきひこ)らによって、大正3(1914)年にそれまで解散状態だった日本美術院が再興され、現在も続く院展(=日本美術院主催の展覧会のこと)が開催されました。なお、横山大観は「生々流転(せ...

  • 文学と芸術の動き その4

    演劇の世界では、大正13(1924)年に小山内薫(おさないかおる)や土方与志(ひじかたよし)らによって築地(つきじ)小劇場がつくられ、知識人層を中心に新劇運動が大きな反響を呼びました。音楽では、山田耕筰(やまだこうさく)が本格的な交響曲の作曲や演奏を行い、大正14(1925)年には我が国初の交響楽団である日本交響楽協会を設立しました。その後、大正15(1926)年には日本交響楽協会から近衛秀麿(このえひでまろ)が脱...

  • 文学と芸術の動き その3

    第一次世界大戦を経て、社会主義運動や労働運動が高まりを見せたのに伴ってプロレタリア文学運動がおこり、雑誌「種蒔(たねま)く人」「戦旗」などが創刊され、小林多喜二(こばやしたきじ)の「蟹工船(かにこうせん)」、徳永直(とくながすなお)の「太陽のない街」などが読まれました。大正時代には、庶民(しょみん)の娯楽としての読み物である大衆文学も流行しました。大正14(1925)年に大衆雑誌の「キング」が創刊され、...

  • 文学と芸術の動き その2

    明治43(1910)年に創刊された雑誌の「白樺(しらかば)」では、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)や志賀直哉(しがなおや)、有島武郎(ありしまたけお)らが活躍し、個人主義や人道主義あるいは理想主義を追求する作風を示して「白樺派」と呼ばれました。武者小路実篤は「その妹」、志賀直哉は「暗夜行路(あんやこうろ)」、有島武郎は「或(あ)る女」などの作品が有名です。一方、雑誌「スバル」では独自の唯美(ゆいび...

  • 文学と芸術の動き その1

    大正期の文学は、「こゝろ」や「明暗」などの作品を残した夏目漱石(なつめそうせき)や「阿部一族」などを発表した森鴎外(もりおうがい)の影響を受けた若い作家たちが次々と登場しました。人間社会の現実をありのままに描写する自然主義が、作者自身を写しとるだけの私小説へと変化していったのに対し、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)や菊池寛(きくちかん)らは雑誌「新思潮」を発刊し、知性を重視して人間の心理を鋭く...

  • 大衆文化の広がり・学問と教育の発展 その5

    自然科学では、野口英世(のぐちひでよ)による黄熱(おうねつ)病の研究や、本多光太郎(ほんだこうたろう)のKS磁石鋼(じしゃくこう)の発明、八木秀次(やぎひでつぐ)による今のテレビ用アンテナの原型となる八木アンテナの発明などの業績がありました。また、研究機関として理化学研究所が大正6(1917)年に創立されたり、航空研究所・鉄鋼研究所・地震研究所などが相次いで設立されたりしました。ところで、この当時の教育...

  • 大衆文化の広がり・学問と教育の発展 その4

    大正時代には、学問も各分野において様々な発展を遂げました。人文科学においては、東洋史学の白鳥庫吉(しらとりくらきち)や内藤虎次郎(ないとうとらじろう、別名を湖南=こなん)が、日本古代史の研究として津田左右吉(つだそうきち)らが現れました。それ以外には、政治学で先述のとおり吉野作造が「民本主義」を唱えたほか、法学では美濃部達吉(みのべたつきち)が、民俗学では柳田国男(やなぎだくにお)らが現れました。...

  • 大衆文化の広がり・学問と教育の発展 その3

    大正時代には新聞や雑誌が発行部数を飛躍的に伸ばしました。大正末期には「大阪朝日新聞」や「大阪毎日新聞」など発行部数が100万部を超える新聞もあったほか、「中央公論」や「改造」などの総合雑誌が知識人層を中心に急速な発展を遂(と)げました。1920(大正9)年にアメリカで定期放送が始まったラジオ放送は、その5年後の大正14(1925)年に東京・大阪・名古屋で開始されると翌年には日本放送協会(=NHK)が設立され、ニュー...

  • 大衆文化の広がり・学問と教育の発展 その2

    産業構造の変化によって労働者人口が増加したことで「俸給(ほうきゅう)生活者(=サラリーマン)」などの一般勤労者が誕生したほか、バスガールや電話交換手など女性が「職業婦人」として社会に進出しました。また都市内では市電や市バス、円タク(1円均一の料金で大都市を走ったタクシーのこと)などの交通機関が発達し、東京と大阪では地下鉄も開通しました。なお、地下鉄は大阪が全国初の公営(大阪市)として開業しています...

  • 大衆文化の広がり・学問と教育の発展 その1

    明治から大正にかけて、我が国の人口は大幅に増加しました。明治初年には約3,300万人に過ぎなかったのが、我が国初の国勢調査が行われた大正9(1920)年には約5,600万人近くにまで増えたのです。こうした人口増加の背景には、明治以後に農業生産力が増大して多くの人口を養えるだけの食糧が確保できたことや、目覚ましい工業化に伴う経済発展や国民の生活水準の向上、加えて医学の進歩や内乱のない平和な社会の構築などが挙げられ...

  • 社会運動の展開 その4

    大正デモクラシーの流れを受けて、婦人運動も次第に活発となりました。明治44(1911)年には平塚(ひらつか)らいてうが女流文学者の団体として「青鞜社(せいとうしゃ)」を結成しました。青鞜社が発行した「青鞜」発刊の辞である「元始、女性は太陽であった」という言葉が有名です。青鞜社の活動は次第に文学運動の枠を超え、市民の生活に結びついた婦人解放運動へと発展していきました。大正9(1920)年には平塚や市川房枝(い...

  • 社会運動の展開 その3

    「冬の時代」から立ち直りつつあった社会主義勢力の内部では、ロシア革命の影響もあって共産主義者が大杉栄らの無政府主義者を抑えて影響力を著(いちじる)しく強め、大正11(1922)年にはソビエトのコミンテルンの指導によって、堺利彦(さかいとしひこ)や山川均(やまかわひとし)らが「日本共産党」を秘密裏(ひみつり)に組織しました。しかし、当時の日本共産党は「コミンテルン日本支部」としての存在でしかなく、また結成...

  • 社会運動の展開 その2

    東京帝国大学の吉野作造(よしのさくぞう)教授は、大正5(1916)年に中央公論誌上で「政治の目的は民衆の幸福にあるので、政策の決定は民衆の意向に従うべきである」とする「民本(みんぽん)主義」を提唱しました。民衆の政治参加や普通選挙制・政党内閣制の実現を説いた民本主義は、いわゆる「大正デモクラシー」の先駆けとなり、吉野が大正7(1918)年に「黎明会(れいめいかい)」を結成して自らの考えを広めると、知識人層を...

  • 社会運動の展開 その1

    第一次世界大戦の前後から、我が国でも民主主義を求める動きが活発化したほか、ロシア革命などをきっかけとして共産主義(あるいは社会主義)の風潮が急速に高まるとともに、様々な社会運動が見られるようになりました。大戦景気による産業の大きな発展は我が国における労働者の大幅な増加をもたらしましたが、それは同時に、賃金引き上げなどを要求する労働運動や労働争議の多発をも招くことになりました。こうした流れを受けて、...

  • 大戦景気と戦後恐慌・関東大震災 その3

    第一次世界大戦が終結してヨーロッパ諸国の産業が復興すると、アジア市場は再びヨーロッパの商品であふれるようになったことで、我が国は大正8(1919)年から再び輸入超過となり、特に重化学工業の輸入品の増加が国内の生産を圧迫しました。そして、大正9(1920)年には株価の暴落をきっかけとして「戦後恐慌」が起こり、銀行で取り付け騒ぎが続出したほか、綿糸や生糸の相場が半値以下に暴落したことで、紡績業や製糸業が事業を縮...

  • 大戦景気と戦後恐慌・関東大震災 その2

    電力業では猪苗代(いなわしろ)水力発電所が完成して、猪苗代~東京間の長距離送電が成功したことで工業エネルギーの電化が進み、大戦中には工場用動力の馬力数で電力が蒸気力を上回ったほか、電灯の農村部への普及が進みました。また、電気機械など機械産業の国産化も進んで、重化学工業が工業生産全体の約30%を占めるようになりました。大戦景気は我が国の工業生産の構造をも変えてしまったのです。さらには輸出の拡大が繊維業...

  • 大戦景気と戦後恐慌・関東大震災 その1

    第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)によって、我が国は連合国への軍需品の供給に追われる一方で、ヨーロッパ列強が戦争によって後退したアジア市場には綿織物などを、好景気だったアメリカには生糸などを次々と輸出したことで、貿易は大幅な輸出超過となりました。大正元(1912)年には11億円近い債務国だった我が国が、大正9(1920)年には27億円以上の債権国となるなどその影響は凄まじく、日本国内は史上空前の「大戦景気」を迎...

  • 第一次国共合作と幣原外交の挫折 その4

    南京事件の発生からわずか10日後の昭和2(1927)年4月3日、我が国の水兵と中国の民衆との衝突をきっかけとして、暴徒と化した中国の軍隊や民衆が漢口の日本領事館員や居留民に暴行危害を加えるという事件が起きました。これを「漢口事件」といいます。イギリス租界といい、南京といい、また漢口といい、国際的な条約によって列強が保有していた租界に対して暴徒が押しかけて危害を加えたり略奪(りゃくだつ)を働いたりする行為は...

  • 第一次国共合作と幣原外交の挫折 その3

    大正13(1924)年に加藤高明内閣が成立した際に外務大臣となった幣原喜重郎は、我が国の権益を守りつつも中国には配慮し、また欧米との武力対立を避けながら、貿易などの経済を重視するという外交を展開しました。幣原外相による外交は今日では「幣原外交」あるいは「協調外交」と呼ばれ、一般的な歴史教科書では肯定的な評価が多く見られますが、その平和的な姿勢が相手国にとっては「軟弱外交」とも映ったことで、結果として我が...

  • 第一次国共合作と幣原外交の挫折 その2

    1925(大正14)年に孫文が死去した後に国民革命軍総司令となった蒋介石(しょうかいせき)は、翌1926(大正15)年に、未だに軍閥が支配していた北京に向かって攻めることを決断しました。これを「北伐(ほくばつ)」といいます。国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。こ...

  • 第一次国共合作と幣原外交の挫折 その1

    1911(明治44)年に辛亥(しんがい)革命が起きて清国(しんこく)が滅亡し、孫文(そんぶん)によって中華民国が建国されましたが、その後の中国は軍閥割拠(ぐんばつかっきょ)の北方派(=北京政府)と、国民党を結成した孫文率いる南方派とに分裂し、果てしない権力抗争が続いていました。中国大陸の混乱を共産主義化の好機と見たソビエト政権のコミンテルンは、1921(大正10)年に「中国共産党」を組織させたほか、大陸制覇に...

  • ワシントン会議とアメリカの野望 その8

    先述のとおり、アメリカの対日感情は年を経るごとに悪化していきましたが、それに追い打ちをかけたのが、パリ講和会議において我が国が提出した人種差別撤廃案でした。白色人種の有色人種に対する優越を否定する案に激高したアメリカは、ますます日本を追いつめるようになったのです。1920(大正9)年にはカリフォルニア州で第二次排日土地法が成立し、日本人移民自身の土地所有の禁止だけでなく、その子供にまで土地所有が禁止さ...

  • ワシントン会議とアメリカの野望 その7

    ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調を目指したものであり、当時は「ワシントン体制」と呼ばれました。ワシントン体制はヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄...

  • ワシントン会議とアメリカの野望 その6

    ワシントン海軍軍備制限条約と並行して、条約を結んだ5か国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルが加わって、大正11(1922)年に「九か国条約」が結ばれました。この国際条約によって、アメリカが提唱していた中国の領土と主権の尊重や、経済活動のための中国における門戸(もんこ)開放・機会均等の原則が成文化されましたが、これは我が国が九か国条約より先にアメリカと結んだ「石井・ランシング協定」に明らかに反する...

  • ワシントン会議とアメリカの野望 その5

    さて、四か国条約が結ばれた翌年の大正11(1922)年には、条約を結んだイギリス・アメリカ・日本・フランスにイタリアを加えた5か国の間に「ワシントン海軍軍備制限条約」が結ばれ、主力艦の保有総トン数をアメリカ・イギリスが5、日本が3、フランスとイタリアが1.67の割合に制限しました。我が国の海軍は米英への対抗のため対7割(米英5、日3.5)を唱えましたが、海軍大将でもあった全権の加藤友三郎がこれを抑えるかたちで調印し...

  • ワシントン会議とアメリカの野望 その4

    ところで、現代では日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みによる「クアッド(=QUAD)」が進められており、自由や民主主義、法の支配といった共通の価値観に基づいて連携(れんけい)を強化するとともに、インフラや海洋安全保障、テロ対策、サイバーセキュリティなどの分野で協力し、さらに海洋進出を強める中華人民共和国を念頭に「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指しています。21世紀のクアッドと20...

  • ワシントン会議とアメリカの野望 その3

    我が国が日英同盟を破棄することに応じたのは、軍縮問題を会議の中心と考え、四か国条約が世界平和につながると単純に信じた全権大使の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)による軽率な判断があったからだといわれています。なお、幣原はこの後に「幣原外交」あるいは「協調外交」という名の「相手になめられ続けるだけだった弱腰外交」を展開し、我が国に大きな影響を与えることになります。理由はどうあれ、日英同盟の破棄によっ...

  • ワシントン会議とアメリカの野望 その2

    ワシントン会議でまず槍玉(やりだま)に挙げられたのが日英同盟でした。明治35(1902)年に初めて結ばれた日英同盟は、日露戦争の終結後も第一次世界大戦で我が国がドイツへ参戦するきっかけとなるなど、日英両国にとって価値の高いものでした。しかし、我が国を激しく憎むアメリカにとって、将来日本と戦争状態となることを想定すれば、日英同盟は邪魔(じゃま)な存在でしかなかったのです。このためアメリカはドイツが敗れて同...

  • ワシントン会議とアメリカの野望 その1

    第一次世界大戦への参戦をきっかけに世界での発言権を高めることに成功したアメリカは、大戦後の体制を自国主導の下に構築しようと考え、イギリスを抜く世界一の海軍国を目指して艦隊の増強計画を進めました。アメリカの思惑(おもわく)に気付いた我が国は、これに対抗する目的で艦齢8年未満の戦艦8隻(せき)と巡洋戦艦8隻を常備すべく、先述した「八・八艦隊」の建造計画を推進していましたが、果てしない軍拡競争に疲れたアメ...

  • 護憲三派内閣の成立 その5

    ところが、大正14(1925)年に普通選挙法が成立したことにより、支持政党を持たず、プライドもなく、政治に無関心な有権者が一気に誕生しました。このような人々から票を集めようと思えば、それこそ大規模なキャンペーンを行わなければならず、一回の選挙にかかる費用の激増をもたらしたのは、むしろ必然でもありました。しかし、政党にそんな多額の費用を負担する余裕などあるはずもなく、当時の財閥(ざいばつ)などからの大口の...

  • 護憲三派内閣の成立 その4

    「日本では1925(大正14)年になって、男子のみではあったもののようやく普通選挙が実現しました。選挙権が財産や性別などで制限されている選挙では国民の意思を政治に生かすことはできませんから、長い歴史を経て誕生した普通選挙制度は大切な制度なのです」。高校での一般的な歴史・公民教科書(あるいは副読本)には概(おおむ)ね以上のように書かれており、普通選挙制度の重要性を訴えるのが通常となっていますが、確かに制限...

  • 護憲三派内閣の成立 その3

    加藤高明内閣は大正14(1925)年に「普通選挙法」を成立させ、それまでの納税制限を撤廃(てっぱい)して満25歳以上の男子すべてが選挙権を持つようになり、選挙人の割合も全人口の5.5%から4倍増の20.8%と一気に拡大しました。一方、加藤高明内閣は「治安維持法」も成立させました。これは、同年に日ソ基本条約を締結してソ連との国交を樹立したことや、普通選挙の実施によって活発化されることが予想された共産主義運動を取り締...

  • 護憲三派内閣の成立 その2

    第二次山本内閣が総辞職した後は、枢密院(すうみついん)議長だった清浦奎吾(きようらけいご)が首相になりましたが、政党から閣僚を選ばずに貴族院を背景とした超然内閣を組織しました。清浦がこの時期に超然内閣を組織したのは、衆議院の任期満了が数か月後に迫っており、選挙管理内閣として中立性を求められたために貴族院議員を中心とせざるを得なかったという側面もありました。しかし、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部のい...

  • 護憲三派内閣の成立 その1

    ※今回より「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。大正10(1921)年11月に首相の原敬(はらたかし)が暗殺されると、後継として大蔵大臣を務めていた高橋是清(たかはしこれきよ)が首相を兼任し、その他の閣僚をすべて引き継ぐというかたちで新たに内閣を組織しました。しかし、高い政治力を誇っていた原が急死した影響は大きく、間もなく与党の立憲政友会内部で対立が深刻化したこともあって高橋内閣は短命...

  • 聖徳太子の外交 その9

    ※「飛鳥時代」の更新は今回で中断します。明日(6月2日)からは「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。ところで、例えば「至誠は天に通じる」といったような、我が国の伝統的な思想として「ひたすら低姿勢で相手のことを思いやり、また争いを好まず、話し合いで何事も解決しようとする」考えがありますが、そういったやり方は、たとえ国内では通用しても、国外、特に外交問題では全くといっていいほど通用し...

  • 聖徳太子の外交 その8

    明くる608年、聖徳太子は3回目の遣隋使を送りましたが、この際に彼を悩ませたのが、国書の文面をどうするかということでした。一度煬帝を怒らせた以上、中国の君主と同じ称号を名乗ることは二度とできませんが、だからといって、再び朝貢外交の道をたどることも許されません。考え抜いた末に作られた国書の文面は、以下のように書かれていました。「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」。我が国が皇帝の文字を避...

  • 聖徳太子の外交 その7

    裴世清からの国書は「皇帝から倭皇(わおう)に挨拶(あいさつ)を送る」という文章で始まります。「倭王」ではなく「倭皇」です。これは、隋が我が国を「臣下扱いしていない」ことを意味しています。文章はさらに続きます。「皇(=天皇)は海の彼方(かなた)にいながらも良く民衆を治め、国内は安楽で、深い至誠(しせい、この上なく誠実なこと)の心が見受けられる」。朝貢外交にありがちな高圧的な文言(もんごん)が見られな...

  • 聖徳太子の外交 その6

    中国の皇帝が務まるほどですから、煬帝も決して愚かではありません。だとすれば、聖徳太子の作戦が理解できて、自分に対等外交を認める選択しか残されていないことが分かったからこそ、より以上に激怒したのかもしれませんね。さて、煬帝は遣隋使が送られた翌年の608年に、小野妹子に隋からの返礼の使者である裴世清(はいせいせい)をつけて帰国させましたが、ここで大きな事件が起こってしまいました。何と、小野妹子が隋からの...

  • 聖徳太子の外交 その5

    そんな状況のなかで、無理をして我が国へ攻め込んでもし失敗すれば、国家の存亡にかかわるダメージを与えかねないことが煬帝をためらわせましたし、我が国が高句麗や百済と同盟を結んでいることが、煬帝には何よりも大きな足かせとなっていました。こうした外交関係のなかで隋が我が国を攻めようとすれば、同盟国である高句麗や百済が黙っていません。それどころか、逆に三国が連合して隋に反撃する可能性も十分に考えられますから...

  • 聖徳太子の外交 その4

    我が国が隋に強気の外交姿勢を見せた一方で、かつて隋と激しく戦った高句麗は、自国が勝ったにもかかわらず、その後もひたすら低姿勢を貫き、屈辱的な言葉を並べて許してもらおうとする朝貢外交を展開し続けていました。隋に勝った高句麗でさえこの態度だというのに、敢えて対等な関係を求めるという、ひとつ間違えれば我が国に対して隋が攻め寄せる口実を与えかねない危険な国書を送りつけた聖徳太子には、果たして勝算があったの...

  • 聖徳太子の外交 その3

    今から2200年以上前に大陸を史上初めて統一した秦(しん)の王であった政(せい)は、各地の王を支配する唯一の存在として「皇帝」という称号の使用を始め、自らは最初の皇帝ということで「始皇帝(しこうてい)」と名乗りました。これが慣例となって、後の大陸では支配者が変わるたびに自らを「皇帝」と称し、各地の有力者を「王」に任命するという形式が完成しました。そして、この構図はやがて大陸周辺の諸外国にも強制されるこ...

  • 聖徳太子の外交 その2

    さて、煬帝をここまで怒らせた国書は、以下の内容で始まっていました。「日出(ひい)ずる処(ところ)の天子(てんし)、書を日没(ひぼっ)する処の天子に致す。恙無(つつがな)きや(=お元気ですか、という意味)」。果たしてこの国書のうち、どの部分が煬帝を怒らせたのでしょうか。国書を一見すれば「日出ずる」と「日没する」に問題があるような感じがしますね。「日の出の勢い」に対して「日が没するように滅びゆく」とは...

  • 【ハイブリッド方式】第108回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和7年5月)

    「黒田裕樹の歴史講座」は対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。準備の都合上、オンライン式の講座のお申し込みは事前にお願いします。対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です。メインの主催者である「国防を考える会」のQRコードはこちらです。(クリックで拡大されます)(クリックで拡大されます)第108回黒田裕樹の歴史講座...

  • 聖徳太子の外交 その1

    我が国の内政における思い切った改革に成功した聖徳太子(しょうとくたいし)は、いよいよ外交問題の抜本的な解決へと乗り出しましたが、そのための手段として、隋(ずい)に対し共同で対抗するために、朝鮮半島の高句麗(こうくり)や百済(くだら)と同盟を結びました。事前の様々な準備を終えた聖徳太子は小野妹子(おののいもこ)を使者として、607年に満を持して2回目の遣隋使(けんずいし)を送りました。この頃、隋の皇帝は...

  • 聖徳太子の内政 その6

    例えば第1条の「和の尊重」ですが、言葉自体は非常に耳に心地よい響きがするものの、これには「蘇我氏だけで勝手に物事を進めずに、他の者の同意を得てから行うように」という意味も含まれているのです。また、第3条や第8条については、この条文を入れることによって、蘇我氏にも「天皇への忠誠」や「役人の心得」を従わせることに成功しているだけでなく、それを破れば「憲法違反(といっても現代とは意味が異なりますが)」にな...

  • 聖徳太子の内政 その5

    さて、憲法十七条では第1条や第17条で示した「和の尊重」の他にも、様々な規範を示しています。例えば、第2条では「篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え」として、仏教への信仰を説いています。なお、三宝とは仏・法理(ほうり)・僧侶(そうりょ)のことで、仏教の三つの宝物(ほうもつ)とされています。また第3条では「天皇の命令には必ず従いなさい」と天皇への忠誠を説くなど、儒教の道徳思想に基づく心構えを示している条文...

  • 聖徳太子の内政 その4

    冠位十二階によって「朝廷が役人に対して冠位を授与する」という明確な姿勢を示した聖徳太子でしたが、公地公民制の実現へ向けての次の手段として、朝廷と豪族との間における「順位の上下」を明らかにするための正式な規則をつくろうと考えました。こうして編み出されたのが、我が国最初の成文法であるとともに、後年の法典の編纂(へんさん)にも多大な影響を与えたとされる、604年に制定された「憲法十七条」でした。憲法十七条...

  • 聖徳太子の内政 その3

    そうこうしているうちに、聖徳太子が朝廷での人事権を握って、自身が抜擢(ばってき)してきた優秀な若者をどんどん増やしていけば、自分の影響力が少しずつ削られていくのを蘇我氏はそれこそ指をくわえて黙って見ているしかないのです。おそらくは蘇我氏も地団駄(じだんだ)を踏んで悔しがったことでしょう。それにしても、オモテの世界で堂々と大義名分を述べながら、ウラでは蘇我氏打倒のために色々と策謀(さくぼう)を練り続...

  • 聖徳太子の内政 その2

    しかしながら、聖徳太子もなかなかの「食わせ者」でした。曲がりなりにも昇進が可能な身分制度ができたことにより、冠位を授ける立場の朝廷の権力が向上した一方で、相対的に蘇我氏の権力が後退する遠因をつくったことにもなったからです。冠位十二階の制度によって、朝廷の権力向上と蘇我氏の衰退が同時に起きるとなぜ言い切れるのでしょうか。ここで、冠位十二階による様々な波及効果を検討してみましょう。蘇我氏を冠位十二階か...

  • 聖徳太子の内政 その1

    公地公民制という国家の最終的な目標の実現や、隋(ずい)にも負けない優秀な人材を集めるため、聖徳太子(しょうとくたいし)は時間をかけて豪族あるいは民衆の立場や意識を改革していくという作戦に出ました。603年に制定された「冠位十二階(かんいじゅうにかい)」もその例です。冠位十二階は、朝廷に仕える人々に対する新しい身分秩序でした。まずは階級として「徳(とく)」・「仁(にん)」・「礼(らい)」・「信(しん)...

  • 聖徳太子の登場 その4

    まず内政面においてですが、蘇我氏による横暴を打開するためには、最終的に朝廷がすべての土地や民衆を所有する「公地公民制」を目指すという思い切った改革を行うしかないと決断しました。しかし、現状でいきなり大ナタをふるえば、蘇我氏などの豪族の猛反発を受けるのは必至であり、慎重な手続きが必要であると同時に考えていました。また、外交面においては、何よりも大国である隋の実力を知ることが重要であると考えた聖徳太子...

  • 聖徳太子の登場 その3

    まず内政面においては、当時は朝廷と蘇我氏のような豪族とがお互いに土地や民衆を所有していましたが、聖徳太子が摂政になった頃には蘇我氏の支配地が朝廷を脅(おびや)かすほどに大きくなっており、政治上のバランスが不安定になっていました。この状態を放置していれば、蘇我氏の勢力が朝廷を大きく上回ることでやがて両者に争いが起こり、罪もない民衆が迷惑する可能性が高かったのです。また外交面では、先述のとおり隋(ずい...

  • 聖徳太子の登場 その2

    崇峻天皇の崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)を受け、馬子によって新たに天皇として即位されたのは、先に崩御された30代の敏達(びだつ)天皇の皇后で、自らも29代の欽明(きんめい)天皇の娘であり、母親が馬子の姉でもあった額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)でした。我が国初の女帝となった33代の推古(すいこ)天皇は、593年に甥(おい)にあたる厩戸皇子(うまやどのみこ)を皇太子並び...

  • 聖徳太子の登場 その1

    ※今回より「飛鳥時代」の更新を開始します(6月1日までの予定)。587年に物部守屋(もののべのもりや)との激しい戦いに勝った蘇我馬子(そがのうまこ)は、自分の血縁である泊瀬部皇子(はつせべのみこ)を32代の崇峻(すしゅん)天皇として即位させました。初めのうちは馬子と共同で政治を行っていた崇峻天皇でしたが、次第に馬子の専横が目立つようになると、天皇は政治の実権を持てない自身の待遇に次第に不満を持たれるように...

  • 大和朝廷の6世紀 その4

    ※「古墳時代」の更新は今回が最後となります。明日(5月14日)からは「飛鳥時代」の更新を開始します(6月1日までの予定)。大和朝廷が動揺(どうよう)しつつあった6世紀の後半には、東アジアでも大きな動きが見られました。中国大陸では南北朝時代などによって混乱状態が続いていましたが、北朝からおこった隋(ずい)が589年に大陸を約300年ぶりに統一したのです。この事実は、それまで朝鮮半島で独立を保っていた高句麗や百済...

  • 大和朝廷の6世紀 その3

    対外政策の失敗によって大伴金村を始めとする大伴氏が失脚すると、大連(おおむらじ)の物部(もののべ)氏と大臣(おおおみ)の蘇我(そが)氏が政治の実権を握るようになりました。朝廷における軍事力を担当していた物部氏に対して、蘇我氏は欽明天皇などの外戚(がいせき)となって財産権を握り、帰化人系の民族と交流して勢力を伸ばしました。なお、外戚とは自分の娘を天皇の妃(きさき)とすることで天皇の血縁者となることで...

  • 大和朝廷の6世紀 その2

    皇統断絶の危機を脱した大和朝廷でしたが、対外政策では大きな試練を迎えていました。朝鮮半島では、5世紀後半から6世紀にかけて北方の高句麗(こうくり)が勢力拡大を目指して南進を繰り返し、その圧迫を受けた新羅(しらぎ)とともに、我が国が以前から勢力を伸ばしていた任那(みまな)を攻め続けました。我が国は新羅を攻めるために任那へ援軍を送ろうとしましたが、この動きを知った新羅が現在の福岡県の地方行政官にあたる筑...

  • 大和朝廷の6世紀 その1

    我が国で初めての統一政権として着実に勢力を伸ばしてきた大和朝廷(やまとちょうてい)でしたが、6世紀初頭に最大の危機を迎えました。25代の武烈(ぶれつ)天皇が崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)された際に後継となる男子がおられなかったのです。この非常事態を救ったのが大連(おおむらじ)の大伴金村(おおとものかなむら)でした。大伴金村は、15代の応神(おうじん)天皇の五世の孫...

  • 大和朝廷の政治制度 その3

    当時の有力な豪族は「田荘(たどころ)」と呼ばれる私有地や「部曲(かきべ)」と呼ばれる私有民をもっており、それらを経済的な基盤(きばん)としていました。一方、朝廷も直属の民である「名代(なしろ)」「子代(こしろ)」を持ち、彼らに生産物を納めさせるとともに、直轄地(ちょっかつち)である「屯倉(みやけ)」を各地に設けて「田部(たべ)」と呼ばれた人々に耕作させました。朝廷には祭祀(さいし)や軍事などの様々...

  • 大和朝廷の政治制度 その2

    姓(かばね)の種類は多岐にわたっていました。例えば、蘇我(そが)や葛城(かつらぎ)のように地名を氏(うじ)の名とする畿内(きない)の有力豪族や、出雲(いずも)や吉備(きび)などの地方の伝統ある豪族には「臣(おみ)」が与えられました。また、大伴(おおとも)や物部(もののべ)あるいは中臣(なかとみ)のように武力など特定の能力を持った有力豪族には「連(むらじ)」が与えられ、筑紫(つくし)や毛野(けの)な...

  • 大和朝廷の政治制度 その1

    5世紀末から6世紀にかけて、大和朝廷(やまとちょうてい)は大王(おおきみ)と呼ばれた天皇を中心とする政治の仕組みをつくり上げていきました。朝廷に従った豪族たちは、血縁集団としての同族関係をもとに構成された「氏(うじ)」と呼ばれる組織に編成されました。彼らは共通の祖先神である氏神(うじがみ)を祀(まつ)り、一族の長たる氏上(うじのかみ)が氏に属する氏人(うじびと)を統率(とうそつ)しました。朝廷は各氏...

  • 古墳文化の変容 その6

    天候などの自然条件に左右されやすい農耕生活の発達は、様々な祭祀(さいし)の重要性を高めるとともに、古墳文化の重要な要素となりました。春にその年の豊作を祈る祈年祭(としごいのまつり、または「きねんさい」)や、秋に一年の収穫を感謝する新嘗祭(にいなめのまつり、または「にいなめさい」「しんじょうさい」)は特に重要な行事であり、この頃までに我が国に流入した外来文化とも融合して我が国独自の伝統文化が形成され...

  • 古墳文化の変容 その5

    古墳時代の人々は、豪族などの有力者が掘立柱(ほったてばしら)を用いた平地住居を建てていたのに対して、普通の人々はそれまでの竪穴住居で暮らすのが一般的だったようです。住居の中には、粘土で固めた竃(かまど)が使用されていました。日常生活では、古墳時代の前期から中期にかけては弥生(やよい)土器の系統に属する赤焼きの土師器(はじき)が用いられましたが、5世紀中頃には朝鮮半島から伝わったとされる硬質で灰色の...

  • 古墳文化の変容 その4

    古墳時代の後期には副葬品にも大きな変化がありました。それまでの武具や馬具(ばぐ)のほかに生前の日用品である土器などがおさめられるようになり、埴輪(はにわ)もそれまでの円筒(えんとう)埴輪や家形(いえがた)埴輪とともに、人間や動物をあしらった形象(けいしょう)埴輪が用いられました。家族墓的な性格を持つようになって葬送儀礼(そうそうぎれい)が変化したことで、副葬品もそれまでの故人の権威を示すという意味...

  • 古墳文化の変容 その3

    6世紀に入って古墳時代も後期になると、古墳自体にも大きな変化が現れました。従来の巨大な前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)が畿内でつくられる一方で、全国各地では小規模な円墳(えんぷん)が山の中腹や丘陵(きゅうりょう)の斜面などにまとまってつくられるようになりました。これらの古墳を群集墳(ぐんしゅうふん)といいます。群集墳の爆発的な増加は、大和朝廷の勢力が全国に拡大することによって当時の国民の生活レベ...

  • 古墳文化の変容 その2

    漢字がもたらした「文字で記録を残す文化」は、やがて6世紀半ば頃に「帝紀(ていき、皇室の系譜)」や「旧辞(きゅうじ、神話伝説など)」といった我が国古来の歴史をまとめる事業をもたらし、これらが「古事記(こじき)」や「日本書紀(にほんしょき)」といった我が国最古の歴史書へとつながりました。また、6世紀に入ると百済(くだら)から五経博士(ごきょうはかせ)が来日し、我が国に医学・易学(えきがく)・暦学(れきが...

  • 古墳文化の変容 その1

    古墳(こふん)時代中期の5世紀前後には、朝鮮半島の戦乱から逃れるために数多くの帰化人(きかじん、または渡来人=とらいじん)が我が国に渡来(とらい)しました。大和朝廷(やまとちょうてい)は彼らを厚遇して畿内(きない)やその周辺に居住させ、彼らから大陸の進んだ文化を積極的に学びました。例えば、大陸の進んだ土木技術が大規模な治水(ちすい)や灌漑(かんがい)事業を可能にしたり、優れた鉄製農具をつくることを...

  • 大和朝廷と東アジア その5

    倭の五王の一人である「武」とされる雄略天皇の時代までに、大和朝廷の勢力は関東から九州南部まで広がっていたと考えられています。なぜなら埼玉県の稲荷山(いなりやま)古墳と熊本県の江田船山(えたふなやま)古墳から出土した鉄剣(てっけん)に、それぞれ「獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)」と読める銘文(めいぶん)が発見されたからです。なお、雄略天皇の別名は「大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)」で...

  • 大和朝廷と東アジア その4

    朝鮮半島にまで勢力を伸ばした大和朝廷は、5世紀に入ると中国の南朝である宋(そう)や斉(せい)とも積極的に外交を行いました。いわゆる「倭(わ)の五王(ごおう)」の時代のことです。「宋書」倭国伝(「そうじょ」わこくでん)などによれば、倭王の讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)が相次いで南朝の宋や斉に使者を遣わし、朝鮮半島南部への軍事指揮権を認めてもらおうとしています。要するに、我が...

  • 大和朝廷と東アジア その3

    さて、好太王の碑から4世紀後半から5世紀前半にかけての朝鮮半島をめぐる情勢のおおよそをつかむことが出来ますが、実は我が国の歴史書である「古事記(こじき)」や「日本書紀」からも知ることが可能です。14代の仲哀(ちゅうあい)天皇が崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)された後、后(きさき)であった神功皇后(じんぐうこうごう)が身ごもっているにもかかわらず朝鮮半島へ出兵し、新羅...

  • 大和朝廷と東アジア その2

    三国が形成された当時の朝鮮半島(特に南部)には豊富な鉄資源や先進技術が存在していました。大和朝廷は百済との友好関係を足がかりとして、4世紀後半には統一国家のなかった弁韓地方の任那(みまな)に勢力を伸ばしました。なお、任那は「加羅(から)」もしくは「伽耶(かや)」とも呼ばれています。また、当時の朝鮮半島南部には大和朝廷の出先機関として「任那日本府(みまなにほんふ)」が置かれていたという記述が「日本書...

  • 大和朝廷と東アジア その1

    ※今回より「古墳時代」の更新を再開します(5月13日までの予定)。我が国で大和朝廷(やまとちょうてい)が国内統一を進めていたとされる3世紀から4世紀にかけて、中国では三国時代の後に魏(ぎ)を倒した晋(しん)が280年に大陸を統一しましたが、4世紀に入ると晋は北方民族の侵入を受けて南方へ移り、やがて南北朝時代となりました。大陸の混乱状態によって周辺の諸民族に対する中国の影響力が弱まると、それを待っていたかのよ...

  • パリ講和会議と民族運動 その5

    ※「第107回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(4月26日)からは「古墳時代」の更新を開始します(5月13日までの予定)。我が国は国際的にも正当な手法において日韓併合(=韓国併合)を行い、朝鮮を自国の領土としましたが、それが合法的なものであったとしても、朝鮮半島の人々の自尊心が傷つけられたことに変わりはなく、朝鮮独立を求める声が高まっていました。大正8(1919)年、アメリカのウィルソン大統領...

  • パリ講和会議と民族運動 その4

    先述のとおり、パリ講和会議ではオブザーバーの立場に過ぎなかった中華民国でしたが、アメリカの支持を受けて我が国の権益の無効を主張したほか、ヴェルサイユ条約の調印をも拒否しましたが、アメリカによる支援は中国大陸内にも及び、日本人と日本製品の排斥(はいせき)運動が次々と起こりました。また、これも先述しましたが、講和会議以前の1915(大正4)年に我が国が中国に対して行った提案を袁世凱が「二十一か条の要求」と...

  • パリ講和会議と民族運動 その3

    パリ講和会議において、我が国は世界史上初めて「人種差別撤廃(てっぱい)案」を提出しました。当時はアメリカで多くの日本人移民が排日運動によって迫害されていたこともあり、有色人種への謂(い)われなき差別を解消するには、同じ有色人種の国でかつ第一次世界大戦の戦勝国という強い立場だった日本が果たすべき責任がある、と強く自負していたのです。我が国が提出した撤廃案は、会議に出席した16か国のうち11か国の多数の賛...

  • パリ講和会議と民族運動 その2

    我が国は連合国の一員としてパリ講和会議に参加しましたが、会議において最も発言権が強かったのはアメリカでした。なぜなら、先述したように、ヨーロッパ本土で多くの血を流して共に戦ったアメリカと山東半島や地中海など限定的な戦闘に留まった我が国とでは、他の主要な連合国であるイギリスやフランスの感謝度が全く違ったからです。かくして、講和会議はアメリカ・イギリス・フランスを中心に行われただけでなく、アメリカは自...

  • パリ講和会議と民族運動 その1

    さて、4年以上も続いた第一次世界大戦でしたが、アメリカ大統領ウィルソンが提唱した「十四か条の平和原則」をドイツが1918(大正7)年11月に受けいれたかたちによって、ようやく休戦となりました。翌1919(大正8)年1月にフランスのパリで講和会議が開かれましたが、我が国も連合国の一国として、当時の原敬内閣が西園寺公望を全権として会議に派遣しました。会議の結果、同年6月にドイツと連合国との間で講和条約が結ばれました...

  • 政党内閣の成立 その5

    原内閣は軍部における改革にも着手し、朝鮮総督府や台湾総督府の長官である総督に文官がなれるようにするなど軍部による影響力の削減にも成功しましたが、選挙が行われたのと同じ大正9(1920)年に起きた「戦後恐慌(きょうこう)」がそれまでの大戦景気を吹き飛ばして、我が国が一気に財政難へと転落すると、原内閣は財政的に行き詰まりを見せるようになりました。また、この頃までに立憲政友会に関係した汚職事件が続発したこと...

  • 政党内閣の成立 その4

    原内閣は大正8(1919)年に選挙法を改正し、それまでの直接国税10円以上を「3円以上」に引き下げたほか、小選挙区制を導入した選挙制度に改めました。しかし、憲政会などの野党が主張した納税による制限を設けない普通選挙法案に関しては「時期尚早(しょうそう)」と拒否し、衆議院を解散しました。原が普通選挙を拒否した理由としては、野党側からの要求という政争問題もありましたが、大正9(1920)年に起きた普通選挙を要求し...

  • 政党内閣の成立 その3

    一般庶民が暴徒と化した米騒動の影響は、寺内内閣総辞職後の政局にも大きく及びました。政党嫌いの山県有朋が、衆議院第一党の立憲政友会総裁である原敬(はらたかし)を次期首相として認めざるを得なかったのです。指名を受けた原は、陸・海軍大臣と外務大臣以外のすべての閣僚を政友会員で固めるなど、我が国初めての本格的な政党内閣を組織しました。また原自身が歴代の首相と異なり、爵位(しゃくい)を持つ華族でもなければ、...

  • 政党内閣の成立 その2

    大正7(1918)年7月、富山県の漁村の主婦らが米の販売を求めて米穀商(べいこくしょう)に押しかけると、これがきっかけとなって全国で約70万人もの庶民(しょみん)が米屋や高利貸しなどを次々と襲うようになりました。これらの動きは、今日では「米騒動」と呼ばれています。米騒動のうち、京都や神戸などで起きた暴動が大規模になったことで、政府は鎮圧に軍隊を出さざるを得なくなったり、騒動の余波を受けて兵庫県で行う予定だ...

  • 政党内閣の成立 その1

    大正5(1916)年10月に第二次大隈重信内閣が総辞職すると、元老の山県有朋は長州閥の陸軍大将であり自分の後輩にあたる寺内正毅に、政党をよりどころとしない超然内閣を組織させました。このため、野党となった立憲同志会(後に憲政会を結成)などの反発を受けましたが、翌大正6(1917)年の衆議院総選挙で第一党となった立憲政友会が準与党的立場を維持しました。軍閥割拠となった中国大陸における影響力の拡大を目指した寺内内閣...

  • 中国とロシアの動向・後編 その6

    コミンテルンの主な目的は、各国の知識人や労働者をそそのかして共産主義の革命団体を世界中に旗揚げし、そのすべてをソビエトからの指令によって動かすことで各国の内部を混乱させ、共産革命を引き起こそうというものでした。コミンテルンはやがて目標の一つを東アジアに定め、中国大陸内で民衆に共産主義を広めたほか、我が国にも「コミンテルン日本支部」ともいうべき組織を「日本共産党」という名称で大正11(1922)年に秘密裏...

  • 中国とロシアの動向・後編 その5

    ロマノフ王朝による帝政ロシアの時代に、当時の民衆は支配者たる王朝の圧政に苦しめられ続けました。だからこそ、彼らはマルクスによる「貧富の差を憎むとともに私有財産制を否定して、資本を人民で共有する」という共産主義思想に憧れてロシア革命を引き起こしたのです。しかし、共産党による一党独裁の政治を始めたソビエトは、共産主義社会の実現を名目として反対する民衆を裁判にかけることもなく有無を言わさず大量に虐殺しま...

  • 中国とロシアの動向・後編 その4

    後になって、ソビエトの革命政府が事件の非を認めてパルチザンの責任者を処刑しましたが、我が国が求めた賠償を革命政府が拒否したこともあって、現地での安全保障を重視した我が国は大正11(1922)年までシベリアから撤兵ができませんでした。シベリア出兵は最終的に当時で約10億円を費(つい)やしたほか、将兵約72,000人を現地に派遣し、そのうち約3,500名を失うこととなりましたが、結果としては何も得るものがなかったばかり...

  • 中国とロシアの動向・後編 その3

    樺太(からふと)の対岸に位置し、黒竜江(こくりゅうこう、別名を「アムール川」)がオホーツク海に注ぐ河口に位置する沿海州(えんかいしゅう)のニコライエフスクには、日本人居留民や日本軍守備隊など合わせて約七百数十名が駐留していましたが、大正9(1920)年1月下旬に革命軍のパルチザン(=非正規の戦闘集団のこと)が包囲攻撃を仕掛けてきました。パルチザンは我が国の守備隊といったんは講和しましたが、やがて共産主義...

  • 中国とロシアの動向・後編 その2

    いわゆる「ロシア革命」を成功させたソビエト政権は、それまで対立していたドイツと休戦し、1918(大正7)年3月に「ブレスト=リトフスク条約」を結んで、第一次世界大戦の東部戦線から軍を撤退させましたが、これはドイツが西部戦線に兵力を集中させることが可能になったことを意味していました。ドイツに戦力を集中されることを恐れたイギリス・フランス・イタリアの三国は、当時シベリアで孤立していたチェコスロバキア(現在の...

  • 中国とロシアの動向・後編 その1

    日露戦争の敗北は、ロシアを支配していたロマノフ王朝にとって大きなダメージとなっていましたが、その後も第一次世界大戦でドイツに敗北を重ねたことや、生活物資の不足にあえいだことなどによって不満を爆発させた民衆が1917(大正6)年3月に大規模な暴動を起こし、それがきっかけとなってロマノフ王朝が倒されました。これを「三月革命」といいますが、ロシアが当時使用していた暦に合わせて「二月革命」とも呼ばれています。三...

  • 中国とロシアの動向・前編 その5

    大正5(1916)年、我が国とロシアは第四次日露協約を結び、極東における両国の特殊権益の擁護を相互に再確認したほか、両国の軍事同盟的な関係を強化しました。また、翌大正6(1917)年にはイギリスとの間に覚書を交わして、山東省におけるドイツの権益を我が国が継承することを承認させました。一方、我が国の中国への進出に対して最も警戒し、かつ批判的であったアメリカとの間においても、同じ大正6(1917)年に前外務大臣の石...

  • 中国とロシアの動向・前編 その4

    さて、1916(大正5)年に袁世凱が急死すると中国は軍閥割拠(ぐんばつかっきょ)の時代となり、多くの軍閥が独自の活動を見せるようになりましたが、第二次大隈重信内閣の後を受けた寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣は、軍閥のうち北京政府に積極的に関わろうとしました。寺内内閣は西原亀三(にしはらかめぞう)を北京に派遣して、袁世凱の後継となった段祺瑞(だんきずい)政権に対して巨額の借款(しゃっかん)を与えました。...

  • 中国とロシアの動向・前編 その3

    嘉永(かえい)6(1853)年にペリーが我が国に来航して以来、アメリカは我が国に対して一定の理解を示し続けた国でした。だからこそ、我が国は日露戦争の終結へとつながったポーツマス条約の締結を、アメリカのセオドア=ローズヴェルト大統領に斡旋(あっせん)してもらったのです。しかし、我が国が日露戦争に勝利したという事実は、アメリカをして我が国に警戒感を植え付けせしむ結果をもたらしましたし、戦争後に鉄道王ハリマ...

  • 中国とロシアの動向・前編 その2

    我が国からの提案内容そのものは、当時の国際情勢から考えても不当な要求をしたとは決して言えず、また提案を受けた側の袁世凱自身も大筋では妥当(だとう)な内容であると考えていました。しかし、少しでも我が国からの干渉を逃れたいと思った袁世凱は、極秘のはずだった提案内容を外部へ漏(も)らして「日本からの一方的な要求は不当である」と喧伝(けんでん、盛んに言いふらすこと)しました。これらの動きに敏感に反応した中...

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