黒田裕樹の歴史講座
住所
北区
出身
北区
ハンドル名
黒田裕樹さん
ブログタイトル
黒田裕樹の歴史講座
ブログURL
http://rocky96.blog10.fc2.com/
ブログ紹介文
受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。
自由文
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ブログ村参加:2012/08/07

黒田裕樹さんの人気ランキング

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黒田裕樹さんのブログ記事

  • 源氏の暗転と北条氏の台頭 その12

    時は流れ、春になったある日のこと、幕府から「急ぎ鎌倉に集まれ」という命令が関東の御家人たちに向けて発せられました。源左衛門は真っ先に鎌倉へ駆け付けましたが、そのみすぼらしい姿は他の武士の失笑を買いました。そんな源左衛門が幕府首脳から呼び出しを受けて前へ進むと、そこで待っていたのは、何とあの時の旅の僧でした。「源左衛門、よくぞ参った。いつぞやの大雪の日には大変世話になったな」。そう話しかけてきた旅の...

  • 源氏の暗転と北条氏の台頭 その11

    源左衛門のもてなしに感激した旅の僧は、さぞかし名のある武士ではないかと思って源左衛門の身の上をたずねました。「私は佐野源左衛門常世と申します。かつてはこのあたり一帯を治めておりましたが、一族の者に領地を奪われ、今はご覧のとおりに落ちぶれてしまいました」。源左衛門の話を聞いていた旅の僧が周囲を見渡すと、立てかけられた大きな薙刀(なぎなた)や、鎧(よろい)が入っていると思われる大きな箱を見つけました。...

  • 源氏の暗転と北条氏の台頭 その10

    ところで、時頼の頃の武士の様子が分かる有名な謡曲(ようきょく)「鉢(はち)の木」を皆さんはご存知でしょうか。なお、謡曲とは能(のう)の脚本、またはそれに節(ふし)をつけて謡(うた)うことです。上野国佐野(こうずけのくにさの、現在の群馬県高崎市)に住む貧しい老いた武士である佐野源左衛門常世(さのげんざえもんつねよ)の家に、ある雪の夜、旅の僧が一夜の宿を求めました。僧の話を聞くと、信濃(しなの、現在の...

  • 源氏の暗転と北条氏の台頭 その9

    一方、時頼は当時増加していた御家人達の所領をめぐる訴訟(そしょう)を迅速(じんそく)に処理するため、建長元(1249)年に評定衆の会議である評定のもとに引付(ひきつけ)という役職を新たに設けるとともに、引付衆(ひきつけしゅう)を任命して評定衆を補佐させました。なお、幕府の求めによって、朝廷でも同時期に後嵯峨上皇によって院評定衆(いんのひょうじょうしゅう)が置かれましたが、院評定衆は幕府の承認を得て任命...

  • 源氏の暗転と北条氏の台頭 その8

    式目は、従来の律令(りつりょう)に比べて非常に平易(へいい)な文章で書かれており、内容も実用的なものが多く、後世にまで大きな影響を与えました。ただし、式目の適用は武家社会に限られており、朝廷の支配下では律令の後身(こうしん、もとの形から変わって現在の姿になったもの)である公家法(くげほう)が、荘園領主の支配下では本所法(ほんじょほう)が引き続き効力を持っていました。なお、御成敗式目は当時の年号にち...

  • 源氏の暗転と北条氏の台頭 その7

    幕府は、乱後の京都に六波羅探題(ろくはらたんだい)を置き、朝廷を監視するとともに西国の御家人の裁判や軍事などの統轄(とうかつ、多くの人や機関を一つにまとめて管轄すること)にあたらせる一方、上皇の味方をした公家や武士の所領の3,000余か所を没収し、戦功のあった御家人らをその地の地頭に任命しました。なお、乱後の地頭は新たな給分(きゅうぶん、給付される領地や米、銭などのこと)を定めた新補率法(しんぽりっぽ...

  • 源氏の暗転と北条氏の台頭 その6

    北条政子の名演説に勇気百倍の東国武士は、北条義時の子である北条泰時(ほうじょうやすとき)を中心とする大軍で京へ攻めのぼり、朝廷側は圧倒的な幕府の武力の前に敗退しました。なお、当時の年号からこの戦いを「承久の乱」もしくは「承久の変」といいます。乱の後、後鳥羽上皇と子の土御門(つちみかど)上皇並びに順徳(じゅんとく)上皇は、北条氏によってそれぞれ隠岐(おき)、土佐(とさ)、佐渡(さど)へと流されました...

  • 源氏の暗転と北条氏の台頭 その5

    期待されていた実朝の暗殺に気落ちされていた後鳥羽上皇でしたが、源氏の血が絶え、摂家将軍を迎えるという不安定な状態にある現在こそ幕府を倒す好機を考えられ、承久(じょうきゅう)3(1221)年に北条義時追討の院宣(いんぜん、上皇からの命令書のこと)を出されました。関東の御家人は自身たちが朝敵(ちょうてき、朝廷にそむく敵のこと)となったことで動揺(どうよう)しましたが、ここで一人の女性が一世一代の演説をした...

  • 源氏の暗転と北条氏の台頭 その4

    これに対して、政治の実権を北条氏に奪われた将軍の源実朝は、京都の公家(くげ)から妻をもらった影響もあって、和歌を趣味として日々を過ごしていました。これに目をつけられた後鳥羽上皇は、幕府を事実上の朝廷の支配下にしようと計画されました。しかし、建保(けんぽう)7(1219)年旧暦1月に、実朝は鎌倉の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で、頼家の遺児であった僧の公暁(くぎょう)に暗殺されてしまいました。この直...

  • 源氏の暗転と北条氏の台頭 その3

    頼家は有力御家人である比企能員(ひきよしかず)の娘を妻としており、頼家は自分の後ろ盾として比企氏を頼りとしていました。しかし、頼家と比企氏の接近に危機を感じた北条氏は、建仁(けんにん)3(1203)年に比企能員を滅ぼし、返す刀で頼家を伊豆の修善寺(しゅぜんじ)に幽閉(ゆうへい、閉じ込めること)したうえで暗殺しました。北条時政は頼家の弟である源実朝(みなとものさねとも)を3代将軍に就任させると、自分は政所...

  • 源氏の暗転と北条氏の台頭 その2

    結果的に頼朝の思惑は失敗に終わりましたが、鎌倉の武士団からすれば、頼朝の行為は「重大な裏切り」であり、到底許されないものでした。その後の頼朝は、落馬事故が原因で建久10(1199)年旧暦1月に死亡したことになっていますが、いかに戦争が不得意であったとはいえ、武家の棟梁(とうりょう)が生命に関わる落馬事故を起こすとは思えません。史料にも頼朝の死の前後の記載があやふやになっているなど、詳しい死因は現在も分か...

  • 源氏の暗転と北条氏の台頭 その1

    前回(第72回)述べたとおり、建久(けんきゅう)3(1192)年に朝廷から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられて鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)でしたが、いくら朝廷の公認を受けているとはいえ、天皇や朝廷を差し置いて政治を行うことに対する「後ろめたさ」を感じていました。また、自分の没後も源氏が将軍として政治を行うための「後ろ盾(だて)」が欲しいとも考えていました。政権を握るまでは夢中で...

  • 初期の外交問題と領土の画定 その13

    幕末に我が国とロシアとの間で日露和親条約を結んだ際、樺太(からふと)は国境を定めず両国の雑居地とした一方で、千島(ちしま)列島は択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とし、択捉島以西は日本領、得撫島以東はロシア領とすることで、両国の国境を一度は画定しました。しかし、雑居地とした樺太において、ロシアの横暴による紛争が激しくなると、朝鮮や琉球の問題を同時に抱えていた政府は、ロシアとの...

  • 初期の外交問題と領土の画定 その12

    現代において、もし沖縄がチャイナの支配を受けてしまえば、チャイナの軍艦が東シナ海から太平洋へ抜けて、我が国の近海に容易に接近できることでしょう。もしそうなれば、我が国の安全保障に深刻な影響をもたらすことになります。それが分かっていたからこそ、当時の日清両国は沖縄の帰属問題についてお互いに一歩も引きませんでしたし、またアメリカが第二次世界大戦後に沖縄を長期に渡って占領し、我が国返還後も沖縄の基地を手...

  • 初期の外交問題と領土の画定 その11

    それにしても、薩摩藩による支配を受けてから、沖縄県として我が国に編入されるまで、琉球王国は、我が国と清国とのはざまで時の流れに翻弄(ほんろう)され続けました。琉球にとっては悲劇ともいえる歴史に同情する人々も多いようですが、その背景として、琉球=沖縄が抱える地政学上の宿命があることをご存知でしょうか。沖縄や朝鮮半島、あるいは中国大陸が含まれている日本地図をお持ちの方がおられましたら、一度地図を逆さに...

  • 初期の外交問題と領土の画定 その10

    清国の煮え切らない態度に激怒した政府は、明治7(1874)年に西郷従道(さいごうつぐみち)が率いる軍隊を台湾に出兵させました。これを「台湾出兵」または「征台(せいたい)の役(えき)」といいます。出兵後、事態の打開のために大久保利通が北京へ向かって清国と交渉を行うと、イギリスの調停を受けた末に、清国が我が国の行為を義挙と認めて賠償金を支払い、我が国が直ちに台湾から撤兵することで決着しました。台湾出兵によ...

  • 初期の外交問題と領土の画定 その9

    廃藩置県の終了後にわざわざ琉球藩を置いたのは、表向きは独立した統治が認められる藩とすることによって、我が国の琉球への方策に対する、清国からの抗議をかわそうとした政府の思惑がありましたが、そのような小手先の対応に清国が納得するはずがありません。清国は琉球が自らの属国であることを政府に主張し続けましたが、そんな折に、日清両国間での琉球の処遇を決定づける事件が起きました。明治4(1871)年、琉球の八重山諸...

  • 初期の外交問題と領土の画定 その8

    自らを宗主国として朝鮮を属国とみなし、独立国と認めようとしない清国(しんこく)の存在は、南下政策を進めるロシアとともに、我が国にとって外交上の大きな問題でした。先述のとおり、明治4(1871)年に我が国は日清修好条規を結んで清国と国交を開きましたが、間もなく琉球(りゅうきゅう)王国をめぐって紛争が起きてしまいました。琉球王国はそもそも独立国でしたが、江戸時代の初期までに薩摩藩の支配を受けた一方で、清国...

  • 初期の外交問題と領土の画定 その7

    ところで、一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対し、欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や、歴史的な意義を見出すことができません。確かに日朝修好条規には、朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別...

  • 初期の外交問題と領土の画定 その6

    一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には、外遊組の意図が理解できませんでした。まさに「百聞は一見に如(し)かず」であったとともに、彼らには、朝鮮との戦争によって、それまで活躍の場をなくしていた士族を救済したい、という思惑もあったのです。征韓論は政府を二分する大論争となった末に、太政大臣代理となった岩倉によって、先の閣議決定が覆(くつがえ)されました。自身の朝鮮派遣を否定された西郷は政府を辞職...

  • 初期の外交問題と領土の画定 その5

    このような朝鮮の排他的な態度に対して、明治政府の内部から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。こうして政府内で高まった「征韓論(せいかんろん)」ですが、その中心的な存在となったのが西郷隆盛でした。しかし西郷はいきなり朝鮮に派兵するよりも、まずは自分自身が朝鮮半島に出かけて直接交渉すべきであると考えていました。その意味では、征韓論というよりも「遣韓論(けんかん...

  • 初期の外交問題と領土の画定 その4

    政府は早速、当時の朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、ここで両国にとって不幸な行き違いが発生してしまいました。朝鮮国王は、我が国からの外交文書の受け取りを拒否しました。なぜなら、文書の中に「皇(こう)」や「勅(ちょく)」の文字が含まれていたからです。当時の朝鮮は清国(しんこく)の属国であり、チャイナの皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の字を我が国が使うことで、「日本が朝...

  • 初期の外交問題と領土の画定 その3

    不平等条約の改正と肩を並べる重要な外交問題として、我が国が欧米列強からの侵略や植民地化をいかにして防ぐかということがありましたが、特に深刻だったのは、ロシアの南下政策でした。当時のロシアの主要な領土は、北半球でも緯度の高いところが中心でしたが、極寒の時期になると、港の周辺の海が凍ってしまうのが大きな悩みでした。このため、ロシアは冬でも凍らない不凍港を求め、徐々に南下して勢力を拡大しつつあったのです...

  • 初期の外交問題と領土の画定 その2

    ようやく全権委任状を入手できた使節団でしたが、アメリカから新たな条約項目の提案を受けるなどの難題が多かったこともあり、条約改正の交渉は結局打ち切られてしまいました。その後の使節団は、その目的を欧米視察に切り替え、近代国家の政治や産業など多くの見聞を広め、欧米の発展した文化を政府首脳が直接目にしたことで、我が国が列強からの侵略を受けないためにも、内政面における様々な改革が急務であることを痛感しました...

  • 第73回黒田裕樹の歴史講座(大阪講演のみ)のお知らせ

    いつも「黒田裕樹の歴史講座」をご覧いただきまして有難うございます。天皇と政治の関わりの歴史を語る「まつりごと」、次回は「鎌倉時代~南北朝時代」です。源頼朝が築きあげた鎌倉幕府は、なぜ源氏から北条氏へと権力が移ったのか。また、南北朝の2つの朝廷の誕生に秘められた真実などについて、いつもの黒田節で明確に迫ります。 (クリックで拡大されます)第73回黒田裕樹の歴史講座 「まつりごと ~天皇と政治の関わりの歴...

  • 初期の外交問題と領土の画定 その1

    明治政府にとって何よりも重要な外交問題は、旧幕府が欧米列強と結ばされた不平等条約を改正すること、すなわち「条約改正」を実現することでした。一方、西洋の進んだ文明や文化を学ぼうと思えば、留学生だけではなく、政府の首脳が直接海外に出かけて視察する必要がある、と考えました。そこで、明治4(1871)年旧暦11月に、右大臣の岩倉具視(いわくらともみ)を全権大使とし、大久保利通(おおくぼとしみち)や木戸孝允(きど...

  • 文明開化 その6

    文明開化の風潮が様々な分野での近代化をもたらしたことで、国民の生活に大きな変化が起こりましたが、それらは決して良いことばかりではありませんでした。例えば、旧来の風習が文明開化によって一新されたことで、我が国の歴史や伝統を軽視する風潮が見られるようになり、仏像や浮世絵などの貴重な芸術作品の多くが海外に流出するという結果をもたらしたのです。また、西洋の思想が全面的に受けいれられたことによって、それまで...

  • 文明開化 その5

    太陽暦の導入が国民に発表されたのは、明治5(1872)旧暦11月9日(新暦12月9日)でした。新暦の正月まであと3週間という押しつまった時期に、何の前触れもなく、いきなり知らされたのです。国民の生活に深くかかわった暦の変更は、多方面に様々な影響をもたらしました。すでに翌年の暦を販売していた業者が、出版のやり直しを強いられて大きな被害を受けた一方で、福沢諭吉が太陽暦の解説本を新たに発行して、ベストセラーになると...

  • 文明開化 その4

    政府が西洋の風俗を積極的に採用し、また推奨(すいしょう)したことで、都市部を中心として国民の生活は大きく様変わりしました。始めは軍隊、後に官吏(かんり)や巡査が着用したことがきっかけで、洋服や靴の習慣が広まったほか、明治4(1871)年に政府が散髪令を出したことで、髷(まげ)を切った「ざんぎり頭」が増えました。「ざんぎり頭を叩いてみれば文明開化の音がする」という言葉が現代でも有名ですね。その他としては...

  • 文明開化 その3

    明治維新の変革は、宗教界においても例外ではありませんでした。神道(しんとう)によって国民意識の統一をはかることをめざした政府は、明治元(1868)年に「神仏分離令」を出し、我が国古来の神仏習合を否定して、神社から仏教色を排除しようとしました。しかし、政府のこうした動きは、国民による仏教の否定にもつながり、全国各地で仏像が破壊されるなど「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の嵐が吹き荒れる騒ぎとなってしまいま...