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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

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2012/08/07

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  • 中央集権化の完成 その2

    版籍奉還の後、旧藩主は新たに「知藩事(ちはんじ)」に任命され、そのまま藩政を行いました。つまり、版籍奉還によって藩は領地や領民は返上したものの、徴税や軍事といった政治の実権は従来どおり知藩事たる旧藩主が握ったということを意味していました。藩が持っていた「領地」「領民」「政治の実権」のうち、政府が領地と領民を返上させる一方で政治の実権を藩に残した背景には、いきなりすべての権利を奪(うば)ったのでは各...

  • 中央集権化の完成 その1

    さて、明治政府は戊辰(ぼしん)戦争などによって没収した旧幕府領を直轄地(ちょっかつち)としたほか、東京・大阪・京都などの要地を「府」とし、その他を「県」としましたが、諸藩は各大名が従来どおり統治することを認めていました。しかし、欧米列強による侵略から我が国の独立を守るためには権限と財源の政府への一元化を、すなわち政府の命令を全国津々浦々にまで行き届けるために「中央集権化」を目指す必要がありました。...

  • 明治新政府の発足 その8

    明治元(1868)年旧暦7月、明治天皇の名において江戸は「東京」と改められ、東京府が置かれました。翌8月には京都で明治天皇の即位の礼が行われ、翌9月8日には元号がそれまでの慶応(けいおう)から「明治」へと改められました。明治の元号は慶応4年旧暦1月1日からさかのぼって適用され、以後は天皇一代につき元号一つと決められました。これを「一世一元(いっせいいちげん)の制」といいます。一世一元の制によって、天皇が交代...

  • 明治新政府の発足 その7

    ところで、桓武(かんむ)天皇が延暦(えんりゃく)13(794)年に平安京へ遷都(せんと)されて以来、一時的な例外を除いて京都は我が国の首都でしたが、大政奉還から王政復古の流れのなかで、政治の刷新という意味も込めて新しい首都を定めようという雰囲気(ふんいき)が高まりました。新政府の内部では、大久保利通(おおくぼとしみち)が大坂(=現在の大阪)への遷都を主張しましたが、江戸城が無血開城となり、江戸の街が戦...

  • 明治新政府の発足 その6

    五箇条の御誓文で新しい政治の基本方針を示した明治政府でしたが、その一方で、国内の治安維持をどうするかということも緊急を要する課題でした。幕末以来の政治の激変が深刻な社会不安をもたらしたところへ、曲がりなりにも260年以上続いていた幕府が崩壊(ほうかい)したことによって、さらなる混乱が予想されたからです。そこで、政府は応急の措置(そち)として、五箇条の御誓文が発表された翌日の明治元(1868)年旧暦3月15日...

  • 明治新政府の発足 その5

    明治元(1868)年旧暦閏(うるう)4月、新政府は「政体書(せいたいしょ)」を公布し、五箇条の御誓文で示された方針に基づく政治組織を整えました。具体的には、王政復古の大号令で定められた総裁・議定(ぎじょう)・参与のいわゆる「三職」を廃止し、太政官(だじょうかん)にすべての権力を集中させ、その下に立法権を持つ議政官(ぎせいかん)・行政権を持つ行政官・司法権を持つ刑法官を置くとする「三権分立制」を採り入れ...

  • 明治新政府の発足 その4

    御誓文には、明治新政府の当面の基本方針を「天皇が神々に誓われる」という形式にすることによって、国民に信頼感や安心感を与えるという意味も込められていました。そして、それだけの覚悟を決めたマニフェストは簡単に破ることが許されず、絶対に実行しなければならないものだったのです。なお、御誓文の内容は参与の由利公正(ゆりきみまさ)や福岡孝弟(ふくおかたかちか)が起草したものに、木戸孝允(きどたかよし)が修正を...

  • 明治新政府の発足 その3

    明治元(1868)年旧暦1月、新政府は兵庫に欧米列強の代表を集め、王政復古と今後は天皇が外交を親裁(しんさい、君主が自分で裁決すること)することを通告するとともに、旧幕府が列強と結んだ条約を引き継ぐことを約束して対外関係を整理しました。新政府からすれば、自分たちが政治の実権を握る前に江戸幕府が諸外国に無理やり結ばされた不平等条約など引き継ぎたくはありませんでしたが、政権が交代しても国家間のルールをその...

  • 明治新政府の発足 その2

    「このままでは我が国も他国の植民地とされてしまうのではないか」という強い危機感をもった明治新政府は、欧米列強と肩を並べるためにも一刻も早い近代国家としての確立を目指さなければなりませんでした。しかし、それまで260年以上も政治を行ってきた江戸幕府に比べ、産声(うぶごえ)をあげたばかりの新政府がいくら優れた政策を実行しようとしたところで、果たしてどれだけの国民がついてくるというのでしょうか。そこで、新...

  • 明治新政府の発足 その1

    ※今回より「第101回歴史講座」の内容を更新します(5月13日までの予定)。ペリーによる黒船来航のいわゆる幕末の頃から、明治新政府によって我が国が近代国家として新たな歩みを始める一連の歴史の流れを一般的に「明治維新」といいますが、当時は「御一新」と呼ばれました。徳川家による江戸幕府の「大政奉還(たいせいほうかん)」から「王政復古の大号令」を経て政治の実権を握った明治新政府でしたが、その前途は多難であり、...

  • プロパガンダは近現代史だけとは限らない その3

    ※「第100回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(4月10日)からは「第101回歴史講座」の内容を更新します(5月13日までの予定)。物事には「プラスとマイナス」があり、また「光と影」があります。それは歴史においても例外ではなく、両方をバランスよく学ぶことで「本当の歴史」を初めて理解できるはずです。しかし、今の歴史教育はあまりにも「マイナス」や「影」の部分を強調し過ぎではないでしょうか。一方的...

  • プロパガンダは近現代史だけとは限らない その2

    4世紀には「朝廷」がなく、また「天皇」も当時は「大王(おおきみ)」と呼ばれていたのだから、政権の名前は「ヤマト王権」こそが正しいのであり、また「自分の陵(みささぎ)の建設に際して国民を強制的に労働させた」仁徳天皇のような人物の古墳が今も存在するかどうかは非常に疑わしく、さらには聖徳太子も存在せず、中国の皇帝を怒らせた「厩戸王」を美化しただけに過ぎないということになります。鎌倉幕府は源頼朝が守護や地...

  • プロパガンダは近現代史だけとは限らない その1

    私が歴史教育の世界に身を投じて間もなく16年を迎えますが、これまでに積み重ねてきた経験を振り返ってつくづく思うのは、いわゆる「プロパガンダ」は近現代史だけとは限らない、ということです。今回の講演で述べた数々の歴史的事実を、もし「自虐史観」に染まりきった内容で語って、いや「騙(かた)って」しまえば、果たしてどのような表現になってしまうのでしょうか。日本の起源はいわゆる「世界四大文明」よりも遅れており、...

  • 朝鮮出兵の真実・後編 その10

    秀吉が死亡した慶長3(1598)年にさかのぼること10年前の1588年、イスパニアの無敵艦隊がイギリスとのアルマダの海戦で敗北しました。この戦いは、イスパニアとイギリスとの勢力が逆転するきっかけとなり、これ以降のイスパニアは東洋に軍事力を割(さ)く余裕がなくなってしまったのです。もしイスパニアがアルマダの海戦に勝利していれば、明の征服も成功していたかもしれません。そうなれば、我が国の運命がどうなったのか見当...

  • 朝鮮出兵の真実・後編 その9

    秀吉と同じように海外に遠征したアレクサンドロス大王やチンギス=ハーンにしても、英雄としての顔を持つ一方で、彼らによって虐殺されたり滅ぼされたりした民族が大勢いるという現実を考えれば、我が国に関わらず、違う国同士で共通した歴史認識を持つということがどう考えても不可能ではないかという思いがします。だからといって、その国にはその国で語り継ぐべき歴史が存在する以上、他国の歴史認識を一方的に間違いと決め付け...

  • 朝鮮出兵の真実・後編 その8

    しかしながら、秀吉が朝鮮半島へ攻め込んだ本当の理由は「イスパニアへの対抗として明を先制攻撃しようと計画した際に、その通り道となることを朝鮮が拒否したから」であることを忘れてはいけません。可能性の有無はともかくとして、仮に朝鮮が我が国の「唐入り」に協力していれば、秀吉から攻められることはなかったでしょう。秀吉の最終目標はあくまで「明の征服」であり、朝鮮半島そのものを侵略するという意図はなかったといえ...

  • 朝鮮出兵の真実・後編 その7

    その後、我が国と朝鮮や明との間で和平交渉が行われましたが、文禄5(1596)年に我が国に使者を送った明が「秀吉を日本国王に封ずる」という一方的な内容の国書を送り返したこともあり、失敗に終わりました。翌慶長(けいちょう)2(1597)年に秀吉は再び朝鮮半島を攻めました。これを「慶長の役」といいますが、日本軍は当初から苦戦を強いられました。その後、慶長3(1598)年に秀吉が亡くなったことで休戦となり、我が国は朝鮮...

  • 朝鮮出兵の真実・後編 その6

    秀吉のこうした決断は、天下が統一されたことで今後の領土獲得の機会を失い、力を持て余していた兵士たちに好意的に迎えられました。古代マケドニアのアレクサンドロス大王や、モンゴルの英雄チンギス=ハーンがかつて挑んだ「巨大な兵力を持つ人間が当然のように行う」遠征という名の道を、彼らと同じように秀吉も歩み始めたのです。自ら計画した明の征服に対して「唐入(からい)り」と名付けた秀吉でしたが、先述したように我が...

  • 朝鮮出兵の真実・後編 その5

    明がイスパニアによって征服されるのを黙って見ているわけにはいかないとすれば、秀吉にはどのような策があるのでしょうか。我が国への侵略の前提として明を攻めようとしたイスパニアでしたが、中国大陸へ直接攻め込めるだけの大きな軍艦は所有していたものの、それこそ地球の裏側まで多数の兵を連れて行くことができず、キリシタン大名の兵力を借りなければならないと考えるほどの兵力不足でした。一方の我が国ですが、兵力や鉄砲...

  • 朝鮮出兵の真実・後編 その4

    後に徳川家康がカトリックを信仰しないオランダやイギリスと交流を深めたことで江戸幕府とオランダとの交易が実現し、カトリックの信仰国であるイスパニアやポルトガルとの関係を完全に断ち切ることが可能となったことを考えれば、あまりにも大きな差でした。なお、文禄(ぶんろく)5(1596)年にイスパニアの商船が土佐(とさ、現在の高知県)に漂着した際に、乗組員が世界地図を示して「イスパニアは領土征服の第一歩として宣教...

  • 朝鮮出兵の真実・後編 その3

    次に秀吉を待ち受けていたのは、キリシタン大名の領内において無数の神社や寺が焼かれていたという現実でした。これらはカトリックの由来であるキリスト教が「一神教」であり、キリスト以外の神の存在を認めなかったことによって起きた悲劇でもありましたが、秀吉の目には「我が国の伝統や文化を破壊する許せない行動」としか映りませんでした。さらに秀吉を驚かせたのが、ポルトガルの商人が多数の日本人を奴隷(どれい)として強...

  • 朝鮮出兵の真実・後編 その2

    天正15(1587)年、島津氏を倒すために九州平定に乗り込んだ秀吉を、カトリックのイエズス会の宣教師が当時の我が国に存在しない最新鋭の軍艦を準備して出迎えました。その壮大さに驚いた秀吉は、イエズス会による布教活動には我が国への侵略が秘められているのではないかとの疑念を持ち始めました。そして、現地を視察した秀吉が「3つの信じられない出来事」を目にしたことによって、疑念が確信へと大きく変化したのです。秀吉が...

  • 朝鮮出兵の真実・後編 その1

    永禄(えいろく)3(1560)年の桶狭間(おけはざま)の戦いで名を挙げ、破竹の勢いで天下取りに向かって前進していた織田信長(おだのぶなが)は、南蛮貿易による権益や西洋の進んだ文化や技術を手に入れるために、キリスト教(=カトリック)を保護しました。ちなみに、カトリックの宣教師から地球が丸いことを知らされた信長は、すぐにそれを理解したそうです。16世紀の日本人とはとても思えない、信長の柔軟な発想力がうかがえ...

  • 朝鮮出兵の真実・前編 その7

    ポルトガル船がカトリックの布教を認めた大名領にしか入港しなかったこともあって、各地の戦国大名の多くは南蛮貿易による権益の欲しさから宣教師の布教活動を保護するばかりでなく、なかには自らが洗礼を受けて「キリシタン大名」となるものも現れました。キリシタン大名のうち九州の大友宗麟・大村純忠(おおむらすみただ)・有馬晴信(ありまはるのぶ)はイタリア人宣教師のヴァリニャーニの勧めによって、天正10(1582)年に伊...

  • 朝鮮出兵の真実・前編 その6

    我が国との南蛮貿易も布教活動と一体化されており、天文18(1549)年にイエズス会のフランシスコ=ザビエルが鹿児島に到着すると、領主である島津貴久(しまづたかひさ)の許可を得て布教活動を開始しました。ザビエルは鹿児島から京都にのぼった後、山口の大内義隆(おおうちよしたか)や豊後府内の大友宗麟(おおともそうりん、別名を義鎮=よししげ)らの大名の保護を受けてキリスト教(=カトリック)の布教活動を続けました。...

  • 朝鮮出兵の真実・前編 その5

    南蛮貿易は、先に我が国に上陸したポルトガルを主体にして行われました。我が国には鉄砲やその火薬・香料・生糸(きいと)などが輸入され、我が国からの輸出品としては、当時生産量が増加していた銀のほか、金や刀剣がありました。また当時の貿易港としては、松浦(まつら)氏の平戸や大村(おおむら)氏の長崎、大友(おおとも)氏の豊後府内(ぶんごふない、現在の大分市)など、九州地方が中心でした。大航海時代のきっかけのひ...

  • 【ハイブリッド方式】第101回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和6年3月)

    「黒田裕樹の歴史講座」は対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。準備の都合上、オンライン式の講座のお申し込みは事前にお願いします。対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です。なお、令和5年5月より会場が「貸会議室プランセカンス」に変更となっているほか、メインの主催者が「国防を考える会」に変更されています。QRコード...

  • 朝鮮出兵の真実・前編 その4

    鉄砲の出現は、それまでの弓や槍(やり)、あるいは騎馬隊を主力とした戦闘方法が、鉄砲による歩兵戦が中心になるなどの大きな変化をもたらました。また、鉄砲は雨が降ると使用できないという弱点を持つ一方、雨の心配のない城の中ではいくらでも撃(う)てることから籠城戦(ろうじょうせん)に最適とされ、城の構築方法も、それまでの山城(やまじろ)から平山城(ひらやまじろ)、あるいは平城(ひらじろ)へと変化していきまし...

  • 朝鮮出兵の真実・前編 その3

    地球をまるで饅頭(まんじゅう)を二つに割るかのような、ある意味とんでもない発想ですが、これは当時の白人至上主義による人種差別に基づく当然の思想でもありました。そして両国は条約の取り決めを守りながら着実に植民地化を進め、その過程では南アメリカ大陸西側にあったインカ帝国や、メキシコ中央部にあったアステカ帝国という二つの国が滅ぼされ、国民の生命や財産あるいは文化が永遠に失われてしまうという悲劇が生じてい...

  • 朝鮮出兵の真実・前編 その2

    イスパニアはアメリカ大陸に植民地を広げると、16世紀半ばには太平洋を横断して東アジアに進出し、フィリピン諸島を占領して、ルソン島のマニラを根拠地としました。一方、ポルトガルはインド洋で貿易を行っていたアラブ人を追い出すと、インド西海岸のゴアを根拠地として東へ進出し、マレー半島のマラッカから中国の明(みん)のマカオにも拠点を築きました。要するに、イスパニアは西廻(まわ)りで、ポルトガルは東廻りでそれぞ...

  • 朝鮮出兵の真実・前編 その1

    我が国における「国防の歴史」を語る際に欠かせないのが13世紀後半に起きた「元寇(げんこう)」ですが、その一方で、我が国が侵略を受ける前に先手を打って外国へ攻め込んだこともありました。豊臣秀吉(とよとみひでよし)による二度にわたる「朝鮮出兵」のことです。しかし、多くの歴史教科書で秀吉の行為を「朝鮮侵略」と断じているばかりか、秀吉が結果的に「朝鮮の人々に多大な迷惑をかけた」ことばかりを強調するような歴史...

  • 聖徳太子抹殺計画 その7

    聖徳太子は1000年を遥(はる)かに超える長い年月のあいだ、ずっと我が国の人々に語り継がれた立派な偉人です。近現代においても、我が国のお札の肖像画(しょうぞうが)として最多の7回も採用されています。特に、昭和32(1957)年から我が国最初の五千円札に使用され、さらに翌昭和33(1958)年から昭和59(1984)年まで26年の長きにわたって現在の最高額紙幣である一万円札に使用されたという事実が、聖徳太子の我が国における...

  • 聖徳太子抹殺計画 その6

    文科省が改定案公表後にパブリックコメントを実施したところ、呼称の変更に批判的な意見が多かったほか、教員からも「小中で呼称が異なれば子供たちが混乱する」「指導の継続性が損なわれる」といった意見が出ていたそうです。こうした状況を踏まえ、文科省は小中ともに聖徳太子の表記に統一し、中学では古事記や日本書紀に聖徳太子の本名である「厩戸皇子」などと表記されていることも明記する方向で調整することになりました。そ...

  • 聖徳太子抹殺計画 その5

    また、大阪の四天王寺(してんのうじ)や奈良の法隆寺(ほうりゅうじ)をはじめとした全国各地の聖徳太子ゆかりの寺院の存在を「現在もなお、太子を信仰したり敬慕(けいぼ)したりする善男善女でにぎわっている。それは、日本の仏教史や精神文化史などを顧(かえり)みる上で極めて重要なことである」と肯定的に評価しています。さらには、同じく没後に諡(おくりな)をされた弘法大師(=空海)を例に挙げて「弘法大師の名を知ら...

  • 聖徳太子抹殺計画 その4

    そして、今回のような改定案が発表された背景には「今から20年近く前に、日本史学界の一部で唱えられた『聖徳太子虚構説』と呼ばれる学説」があると指摘し、この説の根拠が乏(とぼ)しいにもかかわらず「文科省は、この珍説が歴史学界の通説であるととらえてしまったようだ」と断じています。さらに、藤岡氏は「この説は日本国家を否定する反日左翼の運動に利用されているのであり、その触手(しょくしゅ)が中央教育行政にまで及...

  • 聖徳太子抹殺計画 その3

    ところが、新たに公表された次期学習指導要領には「『聖徳太子』は没後使われた呼称(こしょう)に過ぎないため、歴史学で一般的な『厩戸王(うまやどのおう)』との併記にする」と書かれていたのです。具体的には、伝記などで触れる機会が多く人物に親しむ小学校では「聖徳太子(厩戸王)」と、史実を学ぶ中学校では「厩戸王(聖徳太子)」と表記するとされていました。文科省が次期学習指導要領を発表して以来、一部の歴史学の関...

  • 聖徳太子抹殺計画 その2

    平成29(2017)年2月14日、文部科学省は小中学校の次期学習指導要領の改定案を公表しました。なお学習指導要領とは、学校教育法などに基づき児童生徒に教えなくてはならない最低限の学習内容などを示した教育課程の基準であり、約10年ごとに改定されており、教科書作成や内容周知のために告示から全面実施まで3~4年程度の移行期間があります。次期指導要領は翌3月末に告示され、小学校は令和2(2020)年度、中学校は令和3(2021)...

  • 聖徳太子抹殺計画 その1

    さて、内政においては我が国最初の成文法であり、後年の法典の編纂(へんさん)に多大な影響を与えた憲法十七条を制定し、外交においては当時の大国であった隋(ずい)との対等外交を実現した偉大な政治家である「聖徳太子(しょうとくたいし)」は令和4(2022)年に没後1400年を迎えましたが、彼の生涯には様々な伝説が残されていることでも有名です。例えば聖徳太子の母親が臨月の際に馬小屋の前で産気づいたため、彼が生まれた...

  • 八紘一宇と民のかまど その8

    既(すで)に存在する大量の土砂を利用すれば、古墳も比較的早く完成しますし、また仁徳天皇のように善政を敷(し)かれた人物の陵(みささぎ)だからこそ、多くの国民が「進んで」天皇陵の建設に力を尽くしたのではないでしょうか。ちなみに、仁徳天皇陵の周囲に堀をめぐらせているのは、陵墓が大規模なものであることから大雨が降れば大量の土砂が流れ込む可能性があり、それを防ぐためという、いわば当然の理由があります。これ...

  • 八紘一宇と民のかまど その7

    仁徳天皇陵については、ある建設会社が「完成までに15年6か月の年数と延べ800万人の労力を要する」と試算しました。それだけ巨大な天皇陵であることを証明する数字ではありますが、当時の日本列島の人口は約400~500万人と推定されていますから、天皇陵の完成までに多くの人々が果てしない労役に駆り出されたともいえそうです。このことから、仁徳天皇は「自分の天皇陵の建設に際して国民を強制的に労働させた人物」と否定的にとら...

  • 八紘一宇と民のかまど その6

    このこと以来、仁徳天皇は「聖帝(ひじりのみかど)」と称され、やがて天皇が崩御されると、和泉国の百舌鳥野(もずの)の陵(みささぎ)をつくって葬り奉(たてまつ)ったと「日本書紀」に記載があります。ところで、仁徳天皇の善政は「民のかまど」のエピソードだけではないことを皆さんはご存知でしょうか。実は、以下のような輝かしい業績を残されておられるのです。1.難波(なにわ)の堀江(ほりえ)を開削(かいさく)したこ...

  • 八紘一宇と民のかまど その5

    民のかまどがにぎわっているのを満足げに見つめられた仁徳天皇は、傍(かたわ)らにおられた皇后(こうごう)陛下に以下のように仰られました。「朕(ちん)は既(すで)に富んだ。喜ばしいことだ」。天皇のお言葉に対し、皇后陛下は怪訝(けげん)そうに仰られました。「宮殿のあちこちが崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだと言えるのですか」。皇后陛下のお言葉に対して、仁徳天皇は微笑(ほほえ)みながら仰られたそう...

  • 八紘一宇と民のかまど その4

    さて、皆さんは大阪府堺市堺区に存在する、全長約486mを誇る世界最大級の古墳に葬(ほうむ)られておられるとされる「仁徳(にんとく)天皇」についてどのような印象をお持ちでしょうか。古代の天皇には、高いところにのぼって国を見渡し、その様子を褒(ほ)め称(たた)えることによって、天皇のお言葉で国を良くするという「国見(くにみ)」の風習がありました。ある日のこと、仁徳天皇は難波高津宮(なにわのたかつのみや)か...

  • 八紘一宇と民のかまど その3

    こうした事実を考慮すれば、既(すで)に大日本帝国憲法以前において定着していた「人権思想」に対して、わざわざ西洋由来の天賦人権論を持ち込む理由が果たして存在するのでしょうか。歴史のみならず、我が国での真っ当な「公民教育」を目指すのであれば、その背骨として「我が国伝統の政治文化」を教えるのが当たり前のはずです。しかし、今の教育では、それこそ「革命思想」につながる西洋の民主政治が重視される一方で、革命を...

  • 八紘一宇と民のかまど その2

    我が国の初代天皇であらせられる神武天皇が橿原宮(かしはらのみや)で即位された際に「八紘(はっこう、四方八方のこと)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむこと」と仰せられたと伝えられており、これが由来となって「八紘一宇(はっこういちう)」という言葉が生まれました。「八紘一宇」は「道義的に天下を一つの家のようにする」というのが大意であり、我が国だけでなく世界全体を一つの家として、神々のために祈られる天皇を中...

  • 八紘一宇と民のかまど その1

    ところで、日本国憲法の三大原則のひとつに「基本的人権の尊重」がありますが、これは第11条や第97条において「侵(おか)すことのできない永久の権利」と規定されており、一般的にも「天賦(てんぷ)人権論」として知られています。しかし、こうした考えは「我が国の国柄」ではありません。天賦人権論の原理は西洋にあり、17世紀から18世紀の思想家であるイギリスのロックやフランスのルソーなどの社会契約説を由来として「すべて...

  • 幕府の誕生と終焉でつながる歴史 その6

    天皇御自らが政治を行われるのであれば、そこに徳川家が入り込む隙間(すきま)は全くありません。しかも、討幕派はその日のうちに矢継ぎ早に改革を行い、新たに創設された役職である「三職(さんしょく)」に慶喜の名がなかったばかりか、同日夜に行われた「小御所(こごしょ)会議」において慶喜の内大臣の辞任と領地の一部返上を決定しました。しかし、長年我が国の政治を引っ張ってきた旧幕府がその後に巻き返しを図り、小御所...

  • 幕府の誕生と終焉でつながる歴史 その5

    先述のとおり、朝廷から征夷大将軍に任じられたことで、幕府は政治の実権を「朝廷から委任される」、つまり「朝廷から預かる」という立場となりました。常識として、一度「預かった」ものはいずれ必ず「返す」ことになりますよね。だからこそ、朝廷から預かった「大政(=国政)」を「還(かえ)し奉(たてまつ)る」、すなわち「大政奉還」という概念が成立するとともに、幕府が存在しなくなったことで、薩長らの討幕の密勅がその...

  • 幕府の誕生と終焉でつながる歴史 その4

    朝廷(=公)の伝統的権威と幕府及び諸藩(=武)を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとした、いわゆる「公武合体」の立場をとり続けた土佐藩は、何とか徳川家の勢力を残したまま武力に頼らずに新政権に移行できないかと考えた結果、前藩主の山内容堂(やまうちようどう、別名を豊信=とよしげ)が「討幕派の先手を打つかたちで政権を朝廷に返還してはどうか」と慶喜に提案しました。このままでは武力討幕が避けられず、徳川...

  • 幕府の誕生と終焉でつながる歴史 その3

    討幕の密勅が下されたことによって、天皇の信任を得ていたはずの幕府が、自身が知らないうちに「天皇に倒される」運命となったのです。薩長両藩からすれば、それこそ待ちに待ったお墨付きだったことでしょう。しかし、討幕を実際に武力で行おうとすれば、江戸をはじめ全国各地が戦場と化すのは避けられず、またその犠牲者も多数にのぼることは容易に想像できることでした。いかに新政権を樹立するという大義名分があったとはいえ、...

  • 幕府の誕生と終焉でつながる歴史 その2

    そんな中、慶応(けいおう)2(1866)年旧暦1月に同盟を結んだ薩摩(さつま)・長州(ちょうしゅう)の両藩は、公家の岩倉具視(いわくらともみ)らと結んで武力による討幕を目指していましたが、実は、薩長側がどれだけ優位に展開していようが「いきなり幕府を倒す」ことは不可能でした。なぜなら、先述のとおり、幕府が成立した背景に天皇が深くかかわっておられるからであり、この事実をしっかり理解できなければ、本来は楽しく...

  • 幕府の誕生と終焉でつながる歴史 その1

    ところで、最近の歴史教育では「鎌倉幕府の成立」が従来の建久3(1192)年ではなく、例えば平氏が滅亡した後に頼朝が朝廷から守護や地頭の設置を認めてもらった文治(ぶんじ)元(1185)年など、様々な説が存在しています。その理由としては「実質的に源頼朝を中心とする支配体制が確立した時期こそが鎌倉幕府の成立にふさわしい」からだとされていますが、果たしてこれは本当に正しいと言い切れるでしょうか。実は、鎌倉幕府の成...

  • 権威と権力との分離 その7

    なお、西洋において「God」とは、例えばイエス=キリストのような「絶対神」あるいは「唯一神」であり、我が国のような「八百万(やおよろず、非常に多くの、という意味)の神」とは決定的に異なります。明治に入ってキリスト教が公認された際に「God」を「神」と訳したことによって、絶対神であるはずの「God」が八百万の神の一柱(ひとはしら、我が国では神様は「柱」と数えます)になってしまったことが、キリスト教の信者が思...

  • 権威と権力との分離 その6

    この流れを受けて、イギリスで国王を首長とするイギリス国教会が成立するなど、国家の利益と宗教とを切り離す傾向が西洋全体でみられたことで、政治的権力が教会から国王へと移行する一方で、教会は「権威」としてのみ存続するようになったのです。政治的権威と権力との分離が歴史的に完全になされた地域は、地球上では西洋と我が国しかありません。東欧やロシア、そして中国も、あるいは現代のチベットでさえも、こうした分離は実...

  • 権威と権力との分離 その5

    かくして我が国では「権威」と「権力」との分離が完成しましたが、これは、大日本帝国憲法下において天皇が統治権を取りまとめてもつという「権威」としてご存在する一方で、実際の政治は立法・行政・司法の三権に任せる立憲君主であり続けたという、我が国が近代的立憲主義を容易に受けいれるという効果ももたらしました。さらにこの流れは、現在の日本国憲法第6条における「国家の最高政治権力者である内閣総理大臣を国家の象徴...

  • 権威と権力との分離 その4

    要するに、我が国では鎌倉幕府という軍事政権が誕生しても、天皇と対立して滅ぼそうとするどころか、逆に天皇の権威を活用することで政権を確立しようという、諸外国では考えられないような独自のシステムが存在していたということになります。鎌倉幕府以後、我が国の政治権力者は天皇の権威を活用しましたが、それゆえに、天皇のもとで築かれてきた古い文化を破壊することは少なく、むしろ「民安かれ」という天皇のご意思を受け止...

  • 権威と権力との分離 その3

    鎌倉幕府が成立した年は一般的に建久3(1192)年とされていますが、これには大きな意味があります。そもそも「幕府」という言葉の本来の意味は、中国における「王に代わって指揮を取る将軍の出先における臨時の基地」です。この場合、中国の皇帝は円滑に戦争を進めさせるため、将軍に対して、本来は皇帝の権限である徴税権や徴兵権を委任していました。つまり、頼朝は自らを「幕府の将軍」になぞらえることによって、朝廷から独立...

  • 権威と権力との分離 その2

    西洋の歴史において、そもそも民主政治は「人民が国家と争って勝ち取ったもの」でした。つまり、西洋の民主政治は「国家vs.人民」の歴史でもあったわけですが、我が国において「国家の元首が国民と直接争った」ことは一度もありません。我が国の伝統的な政治文化には、言うまでもなく「天皇陛下」が存在しておられます。天皇の古来の重要な役割は国民のために「祈る」ことであり、かつては実際に政治を行う権力もお持ちでした。そ...

  • 権威と権力との分離 その1

    ところで、学校で一般的に勉強する中学や高校の「公民の授業」では我が国独自の内容がほとんど教えられていません。それどころか、民主政治も基本的人権も「西洋が由来であり、我が国は遅れて広まった」と言わんばかりなのです。教科書を見ると、出だしから「日本国憲法の骨格をなす民主政治は」と、我が国における民主政治が日本国憲法から始まり、それ以前は非民主的(あるいは軍国主義的)であったと解釈できます。また、20世紀...

  • 神武天皇が実在された理由 その6

    「方(まつ)に難波(なにわ)の碕(みさき)に到(いた)るときに、奔潮(はやなみ)有りて太(はなは)だ急(はや)きに会ふ」。現代語訳すれば「難波の碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変早く着いた」となりますが、この一文は、神武天皇の一行が河内潟の狭い開口部から流入する潮流に乗って一気に潟内部に進入し、難波の碕に着いたことを物語っています。こうした記述は、河内潟の時代でしか考えられません。なぜなら...

  • 神武天皇が実在された理由 その5

    河内潟の頃は、現在の大阪城から南に延びる上町台地の北端が潟口(かたぐち)であり、引き潮の際には潟の水が開口部から勢いよく大阪湾に流れ出す一方で、満潮の際には開口部を通って海水が潟内部へ逆流していたと考えられます。実は、その様子が8世紀に編纂(へんさん)された「日本書紀」にも書かれているのです。「因(よ)りて名(なづ)けて浪速国(なみはやくに)と為(い)ふ。亦(また)浪花(なにわ)と曰(い)ふ。今し...

  • 神武天皇が実在された理由 その4

    神武天皇のご存在を証明する手掛かりは、実はもう一つあります。それは戦後の様々な発掘調査がもたらしたものであり、神武天皇が遺(のこ)された足跡が「地質学的に確実に証明されている」ことを皆さんはご存知でしょうか。その根拠の一つは「大阪」にあります。大阪湾の遠浅(とおあさ)の海岸沿いから広大な大阪平野が生駒山地まで続いている現在の大阪ですが、今から約20000年前には河内湾(かわちわん)と呼ばれる海が生駒山...

  • 神武天皇が実在された理由 その3

    5世紀の中国の南朝である宋(そう)の歴史家であった裴松之(はいしょうし)が「三国志(さんごくし)」に注釈を加えた際に、以下のような文章を書き残しています。「倭人(わじん)は歳(とし)の数え方を知らない。ただ春の耕作と秋の収穫をもって年紀としている」。当時の倭人、すなわち日本人は春分と秋分をそれぞれ一つの年紀として、つまり通常の一年を倍の二年として計算していたというのです。これを「春秋年(しゅんじゅ...

  • 神武天皇が実在された理由 その2

    我が国では長いあいだ、神話が絶えず意識されてきました。しかし、GHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)による占領下で、日本を罪深い国に仕立て上げた「WGIP(=ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム、日本人に戦争犯罪者意識を刷り込む計画)」の呪縛(じゅばく)が、戦後75年以上を経た今もなお日本国と日本民族を洗脳し続けています。WGIPによる影響は我が国の歴史教科書にも確実に表れており、我が国初代の神武(...

  • 神武天皇が実在された理由 その1

    古代史のプロパガンダは他にも存在します。現代の皇室のルーツである大和朝廷(やまとちょうてい)について、中学校の学習指導要領では「大和朝廷(大和政権)」と記載されているのに対して、高校の一般的な歴史教科書では「ヤマト政権」あるいは「ヤマト王権」などの表記がされているのです。「大和朝廷」をなぜ「ヤマト政権(あるいはヤマト王権)」と表現するかといえば、一般的には以下の理由が知られています。・「大和」とい...

  • 日本文明のあけぼの その8

    ところが、現在の歴史教科書では弥生文化の始まりについて、先述のとおり概(おおむ)ね以下のような記述がなされています。「およそ2500年前(紀元前3世紀)、朝鮮半島に近い九州北部で水田によるコメ作りが始まった。こうした流れは、中国大陸から朝鮮半島を経て日本列島に波及したと考えられる」。つまり、日本列島における水稲耕作は今から約2500年前に朝鮮半島から伝わったと当然のように書かれているのですが、我が国で稲作...

  • 日本文明のあけぼの その7

    青森県の大平山元I((おおだいやまもといち)遺跡で平成10(1998)年に行われた発掘調査によって複数の土器片(どきへん)が見つかりましたが、この土器片を「放射性炭素年代法(炭素14年代測定法)」で調査した結果、今から約16500年前のものであることが翌平成11(1999)年に判明しました。これによって、我が国の縄文文化における土器の技術が世界最古クラスであることが明らかになっています。また、昭和21(1946)年に相沢...

  • 日本文明のあけぼの その6

    さらに付け加えれば、ピラミッドやパルテノン神殿などのように、世界四大文明あるいはその後のギリシャやローマの文明は石造建築の石が変わりにくいことに価値を置いており、しかもそれらの文明は「滅亡後に残された過去の遺物」でしかありません。一方、日本文明は伊勢神宮の式年遷宮(しきねんせんぐう)のように、物質に根拠を置かず、ある精神のかたち(木で全く同じものを20年ごとに新しく作り直すことを1000年以上も続ける)...

  • 日本文明のあけぼの その5

    考えてみれば、人々の生活の発展には水や植物などの自然の存在が欠かせませんが、世界四大文明がいずれも河川の近辺から文化が栄えているなど、乾いた土地が多くて植物が育ちにくい環境に比べて、水源や山林が豊富にある我が国が大変恵まれているのがよく分かりますね。その後、弥生時代の始まりまでに水稲耕作が普及し、食料を備蓄し始めるようになると争い事が起き出したことから、我が国でも外国の進んだ技術を導入する必要に迫...

  • 日本文明のあけぼの その4

    世界四大文明もしくはギリシャやローマにおける文明は確かに古くから優れた文化を持っていましたが、それは大規模な農耕や牧畜を行って食料を備蓄できたことで、他の地域に常に狙(ねら)われる危険があったからです。なぜなら、ユーラシア大陸は原則として地続きですから、やろうと思えばどこまででも遠征できるのであり、歴史的事実として、紀元前4世紀にマケドニアのアレクサンドロス大王がエジプトやペルシャを征服し、インダ...

  • 日本文明のあけぼの その3

    アメリカの国際政治学者であったサミュエル=ハンティントンは「日本は日本だけで一つの文明圏(ぶんめいけん)である」と公言しており、ギリシャ・ローマから始まる「西洋文明」あるいは殷(いん)・周(しゅう)・秦(しん)・漢(かん)より続く「中国文明」などと対等な価値を持つ文明の一つと認識しています。つまり、我が国は世界とは全く異なる独自の「日本文明」をもっていたということになりますが、後述する「放射性炭素...

  • 日本文明のあけぼの その2

    中学の歴史や高校の世界史で学習する「世界四大文明」という言葉については皆さんの多くがご存知かと思われます。エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、中国文明の四つであり、これが世界の文明の黎明(れいめい)であると歴史教科書に現在も記載されています。その一方で、我が国の起源はいわゆる「四大文明」よりも遅れており、水稲(すいとう)耕作(=水稲農耕)などの様々な文化も中国大陸や朝鮮半島から伝わったと...

  • 日本文明のあけぼの その1

    ※今回より「第100回歴史講座」の内容の更新を開始します(4月9日までの予定)。神話の時代を含めれば2680年以上の歴史と伝統を誇る我が国ですが、昭和20(1945)年に大東亜戦争(=太平洋戦争)に敗北してからは、特に近現代史の分野において史実とあまりにもかけ離れた、それこそ「捏造(ねつぞう)」と断言しても差し支えない内容が一般的に知られています。例えば「南京大虐殺(ぎゃくさつ)」「三光(さんこう)作戦」「731部...

  • 昭和から平成へ その5

    ※「昭和時代・戦後」の更新は今回が最後となります。明日(2月8日)からは「第100回歴史講座」の内容を更新します(4月6日までの予定)。昭和64(1989)年1月7日に昭和天皇が崩御されると、皇太子明仁(あきひと)親王が直ちに皇位を継承され、第125代天皇となられました。また、元号法の規定に基づいて、翌1月8日から元号が「昭和」から「平成」に改まりました。新たな元号となった「平成」は、チャイナの古典である「史記」の「...

  • 昭和から平成へ その4

    昭和天皇の崩御に際して、多くの国民が悲しみに包まれました。崩御から約1か月半後の2月24日に新宿御苑でおごそかに行なわれた大喪(たいそう)の礼では、折からの氷雨にもかかわらず、世界164か国・28国際機関の弔問(ちょうもん)使節が世界各国から参集しました。わずか半世紀近く前に世界の多くの国を相手に激しく戦った国の元首であるにもかかわらず、恩讐(おんしゅう)を越えて昭和天皇に弔意(ちょうい)を示したのです。...

  • 昭和から平成へ その3

    御用邸から皇居に戻られて間もない9月19日の夜、昭和天皇は大量の吐血をされてご重体となられました。天皇陛下のご不例に際し、各地で計画されていた祭りや祝賀行事などが一斉に中止になるなど、日本国内は自粛(じしゅく)モード一色になりました。その余りもの自粛ぶりに、一部の国民やマスコミからは不満の声も上がりましたが、国民のことのみをずっとお考えになり、自らを顧(かえり)みられることのなかった陛下がご重体とな...

  • 昭和から平成へ その2

    実はこの当時、昭和天皇は病魔に蝕(むしば)まれておられました。宮内庁は陛下の玉体(ぎょくたい、天皇などの身分の高い人物のからだのこと)にメスを入れる決断を下しました。手術は成功して昭和天皇はお元気を取り戻されましたが、翌昭和63(1988)年の夏頃から急激に体調が悪化されました。終戦記念日の8月15日に日本武道館で行なわれた全国戦没者追悼式に際して、昭和天皇はご療養先の那須御用邸(なすごようてい)からヘリ...

  • 昭和から平成へ その1

    先述のとおり、昭和20年代にかけて全国をご巡幸(じゅんこう)なさった昭和天皇でしたが、昭和47(1972)年にアメリカから返還された沖縄県へのご巡幸が達成できていませんでした。昭和62(1987)年に沖縄で秋の国民体育大会が行われることになり、開会式ご出席も兼ねてようやく念願のご行幸(ぎょうこう)が実現できると思われましたが、その直前に、ご病気によって中止となってしまいました。陛下(へいか)のご無念のお気持ちは...

  • 戦後の文化 その4

    活字文化では、終戦後のGHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)による占領政策の影響もあり、マルクス主義に対する制約がなくなったこともあって、学会や論壇ではマルクス主義的な思想が流行しましたが、その流れを受けて丸山眞男(まるやままさお)や大塚久雄(おおつかひさお)らが執筆した「世界」が創刊されたほか、戦時下で休刊していた「中央公論」や「改造」も復刊されました。安保闘争が激化した1960年代に革新的な立場の「...

  • 戦後の文化 その3

    戦後の放送メディアでは、昭和26(1951)年にラジオの民間放送が始まったほか、昭和28(1953)年には日本放送協会(=NHK)がテレビ放送を開始しました。歌謡曲では、終戦後の混乱期に並木路子(なみきみちこ)の「りんごの唄」に代表される軽快かつ明るい歌が流行したほか、美空(みそら)ひばりが多くの流行歌を生み出し、国民に長く愛されました。大衆娯楽としての映画は、戦後に黄金時代を迎えました。昭和29(1954)年には黒...

  • 戦後の文化 その2

    科学や芸術の分野においては、中断していた文化勲章の授与が昭和21(1946)年に復活し、昭和23(1948)年以降は毎年11月3日の「文化の日」に授与されるようになりました。また、昭和24(1949)年には理論物理学者の湯川秀樹(ゆかわひでき)が日本人で初めてノーベル賞(物理学賞)を受賞し、敗戦後の国民に大きな勇気を与えました。同年には、あらゆる分野の科学者を代表する機関としての「日本学術会議」が設立されています。一...

  • 戦後の文化 その1

    大東亜戦争の敗北によって我が国は大きな痛手をこうむることになりましたが、戦後の復興は、文化の様々な分野での新しい流れを生み出しました。文学では、社会常識や既成のリアリズムに挑戦したり、自身の戦争体験を表現したりするといった、戦後の新しい価値観を代表した、太宰治(だざいおさむ)や坂口安吾(さかぐちあんご)、大岡昇平(おおおかしょうへい)や野間宏(のまひろし)などの作品が当時の人々の話題を呼びました。...

  • 貿易摩擦とバブル景気 その4

    ところで、バブル景気といえば、一般的には「投機的な面が強く、実態とかけ離れていた」という否定的なイメージが強いようです。確かに、バブル景気には経済の実態を反映していない側面がありましたが、自由経済の下ではこうした事態は有り得ない話ではなく、時間が経てば自然に落ち着くか、あるいは政策によって緩やかに収束させれば良いのです。バブル景気で株価や地価が上がって大儲(もう)けをした人がいたのも事実ですが、そ...

  • 貿易摩擦とバブル景気 その3

    円高不況の到来に伴い、日本銀行は公定歩合を引き下げました。なぜなら、公定歩合を下げることによって銀行が企業にお金を貸しやすくなり、企業が不況を乗り越えやすくなるからです。また、円高の加速によって我が国が内需拡大型の経済転換を強(し)いられたことで、公共事業の拡大や、所得税減税による内需拡大・低金利政策などが矢継ぎ早に実施されました。これらの政策が功を奏すると同時に、輸出産業がマイクロ=エレクトロニ...

  • 【ハイブリッド方式】第100回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和6年1月)

    「黒田裕樹の歴史講座」は対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。準備の都合上、オンライン式の講座のお申し込みは事前にお願いします。対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です。なお、令和5年5月より会場が「貸会議室プランセカンス」に変更となっているほか、メインの主催者が「国防を考える会」に変更されています。QRコード...

  • 貿易摩擦とバブル景気 その2

    我が国における農産物の輸入自由化を実現したアメリカでしたが、貿易摩擦がその後も続いたこともあって、平成元(1989)年からの「日米構造協議」において、アメリカは「貿易の不均衡の原因は両国における諸制度や構造そのものにある」として、我が国の経済構造の改革を求めました。また、それ以前の昭和60(1985)年には、アメリカの呼びかけで国際通貨基金(=IMF)の五大国(日本・アメリカ・西ドイツ・フランス・イギリス)に...

  • 貿易摩擦とバブル景気 その1

    1980年代前半の我が国は、第2次石油危機を省エネルギー化の成功で乗り切ったこともあり、低率ながら安定した成長を続けました。また、省エネルギー化をもたらした優れた技術を持つ日本製の工業製品が世界を席巻(せっけん)したことで、我が国の輸出が拡大しましたが、それは同時に欧米先進国の日本に対する輸入超過となり、特にアメリカは毎年膨大(ぼうだい)な額の対日貿易赤字を続けました。このため、アメリカは我が国に自動...

  • 保守政権の動揺 その12

    ところで、中曽根首相が昭和60(1985)年に終戦記念日である8月15日に靖国神社を公式に参拝した際に、教科書誤報事件と同様に中韓両国などによる猛反発を受けたことで、以後の参拝を中止しました。このことが、我が国の一部マスコミが中心となって歴代首相や大臣らが靖国神社に参拝することをためらわせる風潮をつくり上げるきっかけとなったのではないか、と考えられており、現代の内閣にまでその影響が続いています。なお、中曽...

  • 保守政権の動揺 その11

    昭和57(1982)年11月、鈴木善幸にかわって中曽根康弘(なかそねやすひろ)が首相となり、内閣を組織しました。「戦後政治の総決算」を唱えた中曽根内閣は「行財政改革」を推進して、電電公社と専売公社を昭和60(1985)年に民営化(現在のNTTとJT)したほか、昭和62(1987)年には国鉄(=日本国有鉄道)を分割民営化(現在のJRグループ)させました。また、昭和59(1984)年には首相直属の諮問(しもん、意見を求めるという意味...

  • 保守政権の動揺 その10

    ところで、この鈴木内閣の時代に我が国の教育や国益そのものを著しく損ねる出来事が起きてしまったのをご存じでしょうか。いわゆる「教科書誤報事件」のことです。鈴木内閣時代の昭和56(1981)年に、政府与党の自民党が教科書制度改革案を発表しましたが、これに危機感を抱いた人々によって「日本が再び軍国主義の道を歩む」などと政治問題化されたとともに、わざわざ中華人民共和国や韓国に「ご注進」が行われました。そして、翌...

  • 保守政権の動揺 その9

    1979(昭和54)年2月にイラン革命が起きると、これをきっかけに石油生産が中断されたことを受けて、原油価格が大幅に上昇しました。これを「第2次石油危機」といいます。2度にわたる石油危機において、企業は「省エネルギー」を進めたほか、新規採用の抑制やパート労働への切り替えなどで人件費を削減した「減量経営」を行いました。こうした努力の結果、第2次石油危機の影響は、かつての第1次石油危機と比べるとそれほど大きいも...

  • 保守政権の動揺 その8

    福田内閣の後を受けて昭和53(1978)年12月に成立した大平正芳(おおひらまさよし)内閣は、国会における「保革伯仲」状態と与党の内紛が続く中で、財政再建をめざしました。ところで、大平内閣時代の昭和54(1979)年4月に、我が国の伝統文化に根差すとともに、日本人の歴史観の根幹を形成してきた元号が法制化されました。いわゆる「元号法」のことです。大化の改新の始まりでもある「乙巳(いっし)の変」が起きた645年に我が国...

  • 保守政権の動揺 その7

    昭和51(1976)年12月に成立した福田内閣は、当時の円高不況や欧米との貿易摩擦の解消、あるいは東南アジア諸国との関係強化をめざすとともに、昭和47(1972)年に国交正常化させた中華人民共和国との条約交渉に臨み、昭和53(1978)年8月に「日中平和友好条約」を結びました。条約において、主権・領土の相互尊重や相互不可侵・相互内政不干渉が明記されるとともに、中華人民共和国側からの賠償金請求が放棄されました。しかし実...

  • 保守政権の動揺 その6

    首相の政治資金調達をめぐる疑惑となった「金脈問題」によって田中角栄内閣が昭和49(1974)年12月に総辞職すると、かわって三木武夫(みきたけお)内閣が成立しました。三木内閣は「クリーン政治」をスローガンに掲げて、政治資金規正法を全面的に改正しました。しかし、昭和51(1976)年にアメリカ・ロッキード社の航空機売り込みをめぐった田中内閣時代の汚職事件が明るみになり、田中前首相が逮捕されるという事態が発生しまし...

  • 保守政権の動揺 その5

    ところで、原油価格の高騰は我が国のみならず世界経済にも大打撃を与え、1973(昭和48)年を境に経済成長率の低下や物価あるいは失業率を上昇させるなど、深刻な事態をもたらしました。このため、日本・アメリカ・西ドイツ(後のドイツ)・イギリス・フランス・イタリアの6か国の首脳による「先進国首脳会議(サミット)」が1975(昭和50)年に開催され、経済成長や貿易問題などの先進国間での経済政策を調整しました。先進国首脳...

  • 保守政権の動揺 その4

    第1次石油危機に見舞われた我が国では、昭和48(1973)年11月に第二次田中内閣が石油緊急対策要綱を閣議決定して総需要抑制策を行いました。この結果、我が国の消費が低迷するともに、大型公共事業が凍結あるいは縮小されることとなりました。また、田中内閣は一般企業に対して石油・電力の20%削減を要請しましたが、大混乱の中で企業がこぞって原材料を買い占(し)めたこともあって「物不足」が喧伝(けんでん、盛んに言いふら...

  • 保守政権の動揺 その3

    田中内閣は、当時太平洋沿岸に集中していた工業地帯を全国各地の拠点都市に分散させるとともに、これらの間を新幹線や高速道路などの高速交通網で結ぶとする「日本列島改造論」を掲(かか)げて、公共事業を積極的に推進しました。しかし、これらの政策は将来の事業化を見込んでの土地投機などによる地価の高騰を招き、社会問題と化しました。そんな折、我が国はおろか世界中に大打撃を与える事態が発生しました。1973(昭和48)年...

  • 保守政権の動揺 その2

    米中の歴史的和解を受けて、田中首相も中華人民共和国との国交樹立に向けて動き出し、内閣成立からわずか3か月足らずの昭和47(1972)年9月に、首相自らが訪中して周恩来首相と会談して「日中共同声明」を発表し、いわゆる「日中国交正常化」を実現させました。一方、日中共同声明の直後に、日本政府が「日華平和条約は存続の意義を失い、終了したものと認められる」と表明したことにより、台湾の国民党政府が我が国との外交関係の...

  • 保守政権の動揺 その1

    ※今回より「昭和時代・戦後」の更新を再開します(2月7日までの予定)。昭和47(1972)年7月、7年8か月続いた佐藤栄作(さとうえいさく)内閣に代わって、田中角栄(たなかかくえい)が「決断と実行」をキャッチフレーズとして内閣総理大臣に就任しました。田中内閣が誕生する頃、世界情勢は大きな変化を遂げていました。同じ1972(昭和47)年2月に、アメリカのニクソン大統領が中華人民共和国を訪問して、毛沢東(もうたくとう)...

  • 院政期の文化 その3

    ※「第99回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(1月14日)からは「昭和時代・戦後」の更新を再開します(2月7日までの予定)。絵画では、大和絵(やまとえ)の様式によって時間の経過に従って絵や詞書(ことばがき)を織り交ぜながら物語を描くという絵巻物(えまきもの)が発達し、「源氏物語絵巻(げんじものがたりえまき)」や「伴大納言絵巻(ばんだいなごんえまき)」「信貴山縁起絵巻(しぎさんえんぎえまき...

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