このようにして大和を平定された神武天皇は、橿原(かしはら)の地に宮殿を築かれ、初代天皇として即位されました。なお、現在の橿原神宮はこの伝承に基づいて明治時代に創建されたものです。また、ご即位の日は十干十二支(じっかんじゅうにし)で辛酉(しんゆう、別名を「かのととり」)の年の1月1日と伝えられており、日本書紀では、先述のとおり神武天皇のご即位の年を紀元前660年に定めています。現在、神武天皇が即位されて...
このようにして大和を平定された神武天皇は、橿原(かしはら)の地に宮殿を築かれ、初代天皇として即位されました。なお、現在の橿原神宮はこの伝承に基づいて明治時代に創建されたものです。また、ご即位の日は十干十二支(じっかんじゅうにし)で辛酉(しんゆう、別名を「かのととり」)の年の1月1日と伝えられており、日本書紀では、先述のとおり神武天皇のご即位の年を紀元前660年に定めています。現在、神武天皇が即位されて...
天皇は苦戦の末、紀伊(きい、現在の和歌山県)から海路で熊野(くまの、現在の三重県)に上陸されましたが、険しい山道のなかでいつしか道に迷われそうになりました。そんな神武天皇の軍勢の前に、いきなり巨大なカラスが現れました。それは三本足をもつ八咫烏(やたがらす)でした。八咫烏は天照大神の使いとして、天皇を大和まで先導して道案内の役割を果たしたのです。八咫烏は日本サッカー協会のシンボルマークとして用いられ...
では、日本書紀や古事記による神武天皇の東征はどのように書かれているのでしょうか。現代の天皇陛下は数えて第126代目となられますが、日本書紀あるいは古事記には、始祖(しそ)とされる神武天皇がご即位されるまでの様々な出来事が生き生きと描かれています。太陽を神格化した神であり、皇室の祖神たる天照大神(あまてらすおおみかみ)の直系の子孫であられる神武天皇(別名:神日本磐余彦尊=かんやまといわれひこのみこと)...
「方(まつ)に難波(なにわ)の碕(みさき)に到(いた)るときに、奔潮(はやなみ)有りて太(はなは)だ急(はや)きに会ふ」。現代語訳すれば「難波の碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変早く着いた」となりますが、この一文は、神武天皇の一行が河内潟の狭い開口部から流入する潮流に乗って一気に潟内部に進入し、難波の碕に着いたことを物語っています。こうした記述は、河内潟の時代でしか考えられません。なぜなら...
河内潟の頃は、現在の大阪城から南に延びる上町台地の北端が潟口(かたぐち)であり、引き潮の際には潟の水が開口部から勢いよく大阪湾に流れ出す一方で、満潮の際には開口部を通って海水が潟内部へ逆流していたと考えられます。実は、その様子が、8世紀に編纂(へんさん)された「日本書紀」にも書かれているのです。「因(よ)りて名(なづ)けて浪速国(なみはやくに)と為(い)ふ。亦(また)浪花(なにわ)と曰(い)ふ。今...
神武天皇のご存在を証明する手掛かりは、実はもう一つあります。それは戦後の様々な発掘調査がもたらしたものであり、神武天皇が遺(のこ)された足跡が「地質学的に確実に証明されている」ことを皆様はご存知でしょうか。その根拠の一つは「大阪」にあります。大阪湾の遠浅(とおあさ)の海岸沿いから広大な大阪平野が生駒山地まで続いている現在の大阪ですが、今から約20000年前には河内湾(かわちわん)と呼ばれる海が生駒山の...
5世紀の中国の南朝である宋(そう)の歴史家であった裴松之(はいしょうし)が「三国志(さんごくし)」に注釈を加えた際に、以下のような文章を書き残しています。「倭人(わじん)は歳(とし)の数え方を知らない。ただ春の耕作と秋の収穫をもって年紀としている」。当時の倭人、すなわち日本人は春分と秋分をそれぞれ一つの年紀として、つまり通常の一年を倍の二年として計算していたというのです。これを「春秋年(しゅんじゅ...
我が国では長いあいだ、神話が絶えず意識されてきました。しかし、GHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)による占領下で、日本を罪深い国に仕立て上げた「WGIP(=ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム、日本人に戦争犯罪者意識を刷り込む計画)」の呪縛(じゅばく)が、戦後から約80年を経た今もなお日本国と日本民族を洗脳し続けています。WGIPによる影響は我が国の歴史教科書にも確実に表れており、我が国初代の神武...
※今回より「古墳時代」の更新を開始します(3月25日までの予定)。3世紀後半頃の我が国では国家の統一が進み、大和(やまと、現在の奈良県)の豪族を中心とする強大な連合政権が誕生しました。これを大和朝廷(やまとちょうてい)と呼び、現代の皇室のルーツでもあります。大和朝廷が誕生したとされる当時は、大和地方を中心に巨大な古墳(こふん)が現れており、また各地の古墳も大和地方と同じ前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん...
※「第106回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(3月8日)からは「古墳時代」の更新を開始します(3月25日までの予定)。明治天皇の崩御から2年後の大正3(1914)年、皇后の昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)が崩御されました。両陛下はともに京都の桃山御陵にご埋葬されましたが、国民の間から東京で明治天皇並びに昭憲皇太后のご神霊(しんれい)をお祀(まつ)りしたいという熱い願いが自然と沸き上がりま...
明治天皇のご存在は、単なる国家元首としてのみならず、我が国が幕府による武家政権の封建体制から欧米列強に肩を並べる近代国家にまで短期間で一気に成長を遂(と)げた、いわば国家の興隆と繁栄の象徴でもあられたことから、明治天皇の崩御は「明治」という一つの時代の終焉(しゅうえん)を国民に強く印象づけることとなりました。例えば、夏目漱石は大正3(1914)年に発表した小説「こゝろ」の中で「其時(そのとき)私は明治...
明治45(1912)年7月、明治天皇は東京帝国大学の卒業式に行幸(ぎょうこう、天皇が外出されること)された頃からご体調が急に悪化され、同月18日夜に発熱された後に昏睡(こんすい)状態となられました。翌々日の7月20日には陛下のご不例(ふれい、この場合は天皇のご病気のこと)が国民に公表され、日本国内は憂色(ゆうしょく)に包まれました。多くの国民が陛下のご平癒(へいゆ)を願って続々と皇居に集まったほか、全国の神社...
この他にも、水戸の偕楽園(かいらくえん)、金沢の兼六園(けんろくえん)などが公園化されましたが、これらは従来の和風の庭園を活用したものであり、一から新しく西洋風の公園がつくられたのは、明治36(1903)年に開かれた日比谷(ひびや)公園が初めてでした。自然科学(特に医学)の発達によって、明治期には我が国でも近代的な病院がつくられるようになり、明治25(1892)年には北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)によって...
近代化を推進するためには、文化事業を興(おこ)して国民を啓蒙(けいもう、人々に新しい知識を与えて教え導くこと)することが不可欠だと考えた政府は図書館や博物館の建設を始め、旧幕府の紅葉山文庫(もみじやまぶんこ)や昌平黌(しょうへいこう)などの図書を集めたうえ、明治5(1872)年に湯島(ゆしま)の昌平黌講堂跡に書籍館(しょじゃくかん)を開きました。我が国初の官立公共図書館となった書籍館は、明治30(1897)...
西洋音楽は、幕末にまず軍楽として取り入れられた後、明治に入ってから文部省(現在の文部科学省)に音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)が設置され、日本音楽と西洋音楽との融合を目指して、音楽教育の立案や音楽教員の養成あるいは学校唱歌集の刊行がなされました。その後、明治20(1887)年に伊沢修二(いざわしゅうじ)を校長として東京音楽学校が設立され、本格的な音楽教育が始まりました。なお、東京音楽学校は現在の東...
自由民権運動の思想を芝居によって広めようと始められた壮士(そうし)芝居は、日清戦争の頃から新派劇(しんぱげき)と呼ばれるようになりました。新派劇では、川上音二郎(かわかみおとじろう)によるオッペケペー節が大流行したほか、新聞小説や流行小説から題材をとるようになり、ますます発展しました。日露戦争後には坪内逍遥らが文芸協会を設立したり、あるいは小山内薫(おさないかおる)や二代目市川左団次らが自由劇場を...
明治の世になって、演劇の世界にも新しい波が押し寄せてきました。江戸時代以来変わらぬ人気を集めてきた歌舞伎(かぶき)では、幕末の頃から第一線で活躍してきた河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)が、文明開化における風俗を題材として取り入れた新作を発表しました。また、明治の中期頃までには九代目市川団十郎(いちかわだんじゅうろう)や五代目尾上菊五郎(おのえきくごろう)、初代市川左団次(いちかわさだんじ)らの名優が...
一方、西洋画は工部美術学校の閉鎖もあって一時的に衰退を余儀なくされましたが、やがて「収穫」を描いた浅井忠(あさいちゅう)や「鮭(さけ)」を描いた高橋由一(たかはしゆいち)らによって、明治22(1889)年に我が国最初の西洋画の団体である明治美術会が設立されました。その後、明治29(1896)年に東京美術学校に洋画科が新設されたほか、同年にはフランス印象派の画風を学んだ「読書」や「湖畔(こはん)」で有名な黒田清...
殖産興業(しょくさんこうぎょう)の観点から西洋美術教育の必要性を考えた政府は、明治9(1876)年に工部(こうぶ)美術学校を開設しましたが、その後に起きた美術界における伝統回帰の風潮もあって、明治16(1883)年に廃止されました。一方、哲学のアメリカ人教師として来日した「お雇い外国人」のフェノロサは、我が国の伝統芸術を高く評価してその保存を訴え、助手の岡倉天心(おかくらてんしん)とともに、明治20(1887)年...
日露戦争の頃になると、ロシアやフランスの自然主義文学の影響を我が国も受けて、人間社会の現実をありのままに描写する風潮が主流となりました。当時の自然主義の作家としては、「牛肉と馬鈴薯(ばれいしょ)」の国木田独歩(くにきだどっぽ)、「蒲団(ふとん)」の田山花袋(たやまかたい)、「破戒(はかい)」の島崎藤村、「黴(かび)」の徳田秋声(とくだしゅうせい)などが挙げられます。また、明星派の影響を受けていた石...
日清戦争の前後には、感情や個性を尊(たっと)ぶロマン主義文学が次々と発表されました。例えば、森鴎外(もりおうがい)は「舞姫(まいひめ)」を発表したり、アンデルセンの「即興詩人(そっきょうしじん)」を翻訳したりしました。また、北村透谷(きたむらとうこく)が雑誌「文学界」を創刊したほか、令和6(2024)年まで我が国の五千円札の肖像画に採用された女流作家の樋口一葉(ひぐちいちよう)が「たけくらべ」や「にご...
明治18(1885)年に結成された硯友社(けんゆうしゃ)は「我楽多文庫(がらくたぶんこ)」を発刊し、坪内逍遥の写実主義を目指しながらも、文芸小説の大衆化を進めました。硯友社を結成した作家とその作品では、尾崎紅葉(おざきこうよう)の「金色夜叉(こんじきやしゃ)」や山田美妙(やまだびみょう)の「夏木立(なつこだち)」などが有名です。その後、尾崎紅葉の弟子である泉鏡花(いずみきょうか)が「高野聖(こうやひじり...
明治初期の文学は、江戸時代以来の戯作(げさく)文学の流れをくむ仮名垣魯文(かながきろぶん)の「西洋道中膝栗毛(せいようどうちゅうひざくりげ)」「安愚楽鍋(あぐらなべ)」や、自由民権運動を題材とした矢野龍渓(やのりゅうけい)の「経国美談(けいこくびだん)」などの政治小説が中心でした。これらに対し、坪内逍遥(つぼうちしょうよう)が明治18(1885)年に「小説神髄(しょうせつしんずい)」を発表して、それまで...
化学では、高峰譲吉(たかみねじょうきち)がアドレナリンや消化薬として有名なタカジアスターゼの創製に成功し、鈴木梅太郎(すずきうめたろう)がオリザニン(=ビタミンB1)の創製を行いました。また、下瀬正允(しもせまさちか)が研究した「下瀬火薬」が日露(にちろ)戦争の日本海海戦で使用され、ロシアのバルチック艦隊に壊滅的(かいめつてき)な打撃を与えました。これら以外の自然科学としては、地震学では大森房吉(お...
史学においては田口卯吉(たぐちうきち)が「日本開化小史(にほんかいかしょうし)」を著して、斬新な文明史論を展開しました。また、重野安繹(しげのやすつぐ)が東京帝国大学に国史学科を設置し、同大学の史料編纂掛(しりょうへんさんがかり)で「大日本史料(だいにほんしりょう)」や「大日本古文書(だいにほんこもんじょ)」といった基礎資料の体系的な編纂(へんさん)が進められました。その他、西洋の近代史学の影響を...
明治の初期に欧米から招かれた「お雇(やと)い外国人」を中心とした多くの外国人教師は我が国の近代的な学問研究の発達に大きな功績を残しましたが、彼らの指導を受けた日本人学者自身の手によって、後に優れた独自の研究が生み出されるようになりました。経済学においては、まずイギリス流の自由貿易を主体とした自由放任の経済政策を盛り込んだ経済学が導入され、その後はドイツ流の保護貿易や社会政策の学説が主流となりました...
教育に関する勅語(現代語訳)私(=天皇)が思うには、我が皇室の祖先の方々が国を始められたのは遥(はる)かに遠い昔のことであり、代々築かれてきた徳は深く厚いものがありました。我が国民が忠孝の道をもって万民が心を一つにし、今日に至るまで立派に歩んできたことは、我が国の優れた誉(ほま)れであるとともに、教育の根本もまたそこにあります。貴方たち国民は父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は仲良く協力し合い、友達...
教育勅語の全文と現代語訳は以下のとおりです。教育ニ関スル勅語(教育勅語)朕(ちん)惟(おも)フニ我ガ皇祖皇宗(こうそこうそう、天照大神と歴代の天皇のこと)國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ徳ヲ樹(た)ツルコト深厚(しんこう)ナリ。我ガ臣民(しんみん)克(よ)ク忠ニ克(よ)ク孝ニ億兆(おくちょう)心ヲ一(いつ)ニシテ世々(よよ)厥(そ)ノ美ヲ済(な)セルハ此(こ)レ我ガ国体(こくたい)ノ精華(...
ただし、排除・失効決議がなされたからといって、教育勅語そのものが「廃止」されたわけではありません。そもそも天皇陛下のお言葉である「勅語」を廃止できるのは陛下ご自身のみであり、それを国民の立場で勝手に廃止する行為は「不敬」以外の何物でもないからです。平成29(2017)年3月14日に、松野博一(まつのひろかず)文部科学大臣(当時)が記者会見において「憲法や教育基本法に反しないような配慮があって、教材として教...
教育勅語は当時の国民世論から大いに歓迎され、小学校修身科の教科書に掲載されたほか、学校行事において校長先生が奉読(ほうどく、つつしんで読むこと)するなど、多くの児童や生徒の日常の中にごく当たり前のものとして存在したのみならず、英・独・仏・中の各国語に翻訳され、海外にも広く紹介されました。ところで、昭和に入ってから勅語の文章中の「天壤無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運(こううん)」や「億兆(おくちょう...
明治22(1889)年2月11日に大日本帝国憲法(=明治憲法)が公布されたことで、我が国は憲法を有する近代国家となりましたが、大日本帝国憲法はそもそも法律であったがゆえに、道徳に関する規定がありませんでした。また、当時の教育界も道徳教育の基礎を何に置くかという根本的な問題について一致した見解を持っていなかったため、我が国伝統の倫理や道徳に関する教育が軽視される傾向にありました。この事態を重く受け止められた...
学校令が整備された後の明治20年代から30年代にかけて義務教育の就学率が急上昇し、明治35(1902)年には90%を超えましたが、これは学校令の制度が我が国の風土に合っただけではなく、近代産業の発達やそれに伴う経済の発展によって国民生活が向上し、児童が教育を受けやすい体制が整ったことも意味していました。また、教育費を国庫で補助したり、明治33(1900)年に義務教育期間の授業料を廃止したりするなどの政策にも大きな効...
明治5(1872)年に学制(がくせい)が発されたことで義務教育の就学率が次第に上昇しましたが、実学(じつがく、理論より実用性・技術を重んずる学問のこと)中心で我が国の伝統や道徳が軽視された内容であったことや、授業料が高額なこと、あるいは地方の実情を無視した画一的(かくいつてき)な統制に対する反発がありました。このため、政府は明治12(1879)年に新たに教育令を公布して学制を廃止しました。教育令はアメリカ風...
宗教界では、伝統的な神道(しんとう)や仏教あるいは西洋から流入したキリスト教との対立や競合がみられました。神道界では明治初年の神仏合同による国教化がうまくいかなかった一方で、政府の公認を受けた民間の教派神道が庶民を中心に広がりを見せました。仏教界では、明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐による大きな打撃から次第に立ち直りつつありました。浄土真宗の僧侶(そうりょ)であった島地黙雷(しまじもくら...
一方、三宅雪嶺(みやけせつれい)・志賀重昂(しがしげたか)・杉浦重剛(すぎうらじゅうごう)らは政教社をつくって雑誌「日本人」を創刊し、西洋かぶれの風潮を批判するとともに、我が国本来の優れた思想や文化を保存あるいは発展させながら新しい文化を創造すべきであるとする国粋(こくすい)保存主義を唱えました。また、陸羯南(くがかつなん)は新聞「日本」を発行し、政府による安易な欧化主義や外国人判事の任用など、欧...
我が国の独立を守り、欧米列強から侵略されないようにという目的から、我が国は明治初年から西洋文明を急速に受けいれました。こうした流れは庶民(しょみん)の生活にまで及び、いわゆる文明開化が花開いたほか、条約改正のために鹿鳴館(ろくめいかん)を建設して連日のように舞踏会を開くなどの欧化主義にも走るようにもなりました。しかし、こういった古来の我が国の伝統を軽視する風潮は明治20(1887)年前後になると治まり、...
自らの思想の達成のためには「天皇暗殺」すら何のためらいもなく実行しようという考えから起きた大逆事件は当時の我が国や政府に激しい衝撃を与えましたが、そもそも社会主義運動がこれだけ大きな騒ぎを引き起こした背景には、過酷な労働条件に苦しむ当時の賃金労働者たちの「声なき声」がありました。そう判断した政府は、大逆事件の判決が出た年と同じ明治44(1911)年に工場法を制定し、12歳未満の雇用の禁止や最長労働時間を12...
当時の刑法第73条に基づく大逆罪で起訴された幸徳ら26人に対して、裁判所は明治44(1911)年に全員に対して有罪判決を下し、幸徳を含む12人が処刑されました。ところで大逆事件の真相に関しては、幸徳がどこまで天皇暗殺にかかわっていたのかなど不明な点も多く、政府による捏造(ねつぞう)ではないかという見方もあるようです。ただ、当時の政府(第二次桂内閣)からしてみれば、前任者(第一次西園寺内閣)が社会主義に寛容だっ...
赤旗事件が起きた際、幸徳秋水は郷里の高知にいて難を逃れましたが、事件発生後に上京して勢力の立て直しをはかったことで、無政府主義者の秘密行動が活発化しました。しかし、無政府主義者の運動は思ったよりも伸び悩みました。産業革命によって我が国にも労働者階級と資産階級との貧富の差が生じつつありましたが、そもそも我が国には「天皇陛下の前では全員が平等である」、すなわち「八紘一宇(はっこういちう)」という国民の...
当初は労働運動の擁護が中心だった社会主義運動は、日露戦争を経て次第に政治運動へと傾いていきました。明治39(1906)年に日本社会党が結成されると、社会主義運動に寛容だった当時の第一次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣がこれを許可しました。しかし、間もなく日本社会党内部で対立が生じました。片山潜らが議会を通じて社会主義政策を達成すべきとする議会政策派だったのに対して、懲役後の渡米の際に無政府主義の影響...
さて、我が国で労働運動が展開しつつあった明治31(1898)年、安倍磯雄(あべいそお)や片山潜、幸徳秋水(こうとくしゅうすい)らが社会主義研究会を立ち上げ、次いで明治34(1901)年には木下尚江(きのしたなおえ)らを加えて我が国初の社会主義政党である社会民主党を結成しましたが、治安警察法によって直ちに解散を命じられました。その後、日露の対立が深まり戦争の可能性が高まると、黒岩涙香(くろいわるいこう)が発行し...
19世紀の欧米では工業化の進展に伴って労働問題が深刻化しましたが、そんな中で、資本主義社会を抜本的に改革しようとする社会主義の思想が広まりました。特に、マルクスによる「貧富の差を憎むとともに、私有財産制をやめて資本を人民で共有する」という共産主義の考えは、当時プロレタリアートと呼ばれた賃金労働者の人々から熱烈な支持を受けました。そもそもヨーロッパでは、長い歴史の中で王族や貴族あるいは騎士や商人などほ...
労働者は企業を支える貴重な労働力の対価として報酬を得ますが、その待遇に関しては使用者との間で様々な問題が発生するのが常(つね)でもあります。それは日清戦争の頃に本格化した我が国の産業革命の時期においても例外ではなく、待遇改善や賃上げを求めてストライキが行われるようになりました。そんな中、アメリカの労働運動を学んだ高野房太郎(たかのふさたろう)や片山潜(かたやません)らが帰国後の明治30(1897)年に労...
足尾鉱毒事件は当時の大きな社会問題となり、地元の衆議院議員の田中正造(たなかしょうぞう)が帝国議会で取り上げたことで政治問題に発展しました。議会において田中は毎回のように政府に鉱毒事件への善処と被害者の救済を主張し続けました。しかし、政府は対策に苦慮(くりょ)することになりました。田中の主張どおりに銅山での採掘を停止すれば、貴重な輸出品が失われるだけでなく、国内の生産力も低下し、全国の商工業におけ...
鉱山業は古くから我が国で行われており、貴重な鉱物資源を産出し続けましたが、江戸時代から明治にかけて特に多く産出したのが銅でした。銅は貿易における重要な輸出品のひとつで、外貨を得るための貴重な資源であるとともに、鉄と並んで重化学工業で幅広く使用されました。しかし、鉱山での肉体労働が著(いちじる)しく体力を消耗(しょうもう)するのみならず、副産物として発生する鉱毒にも長年悩まされ続けました。もし鉱毒が...
※今回より「第106回歴史講座」の内容を更新します(3月7日までの予定)。資本主義の発達によって、我が国でも賃金労働者が増加するようになりましたが、その多くは紡績(ぼうせき)業や製糸業で働いており、明治33(1900)年の段階での工場労働者数のほぼ6割を占(し)めていました。また、同じ明治33(1900)年の調査によって労働者の88%が女性であったことが分かっていますが、当時は女工(じょこう)や工女(こうじょ)と呼ば...
※「弥生時代以前」の更新は今回が最後となります。明日(1月30日)からは「第105回歴史講座」の内容を更新します(3月7日までの予定)。239年に卑弥呼が魏に使者を遣わすと、皇帝より「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号と金印を授けられ、多数の銅鏡(どうきょう)などが贈られました。卑弥呼は晩年、狗奴国(くなこく)の男王である卑弥弓呼(ひみくこ)と争った後に死亡し、後継として男の王が立つと国内が乱れました。その後、...
中国大陸では220年に後漢が滅び、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国時代となりましたが、このうち華北(かほく)を支配していた魏に使者を送ったのが、有名な邪馬台国(やまたいこく)でした。「三国志(さんごくし)」の「魏志」倭人伝(「ぎし」わじんでん)によると、2世紀後半から倭国では大きな争乱が続きましたが、邪馬台国の女王である卑弥呼(ひみこ)が諸国の同意によって立つと争乱が治まり、30か国ほどを従えた連...
当時の中国の歴史書には、我が国の小国が中国と様々な外交を展開したことが記されています。例えば、前漢(ぜんかん)の歴史をまとめた「漢書」地理志(「かんじょ」ちりし)によれば、紀元前1世紀頃の倭人(わじん)社会は百余国、つまり100余りの国に分かれ、楽浪郡(らくろうぐん)に使者を送ったとされています。楽浪郡とは先述のとおり朝鮮半島に置かれた四郡の一つで、当時は前漢の直轄地(ちょっかつち)でした。なお、「倭...
環濠(かんごう)集落は弥生(やよい)時代の大きな特徴の一つですが、この他にも、瀬戸内海沿岸や大阪湾岸にかけての平野部や、海を広く展望できる丘陵(きゅうりょう)には、見張りや砦(とりで)などの機能を持つ高地性集落が見られます。このような環濠集落や高地性集落が広まったのは、先述のとおり軍事的な緊張が高まったからでした。収穫物を求めるなどして我が国も争いの時代に入っていったのです。集落同士の争いは、より...
さらに付け加えれば、ピラミッドやパルテノン神殿などのように、世界四大文明あるいはその後のギリシャやローマの文明は石造建築の石が変わりにくいことに価値を置いており、しかもそれらの文明は「滅亡後に残された過去の遺物」でしかありません。一方、日本文明は伊勢神宮の式年遷宮(しきねんせんぐう)のように、物質に根拠を置かず、ある精神のかたち(木で全く同じものを20年ごとに新しく作り直すことを1000年以上も続ける)...
その後、弥生時代を迎えて水稲耕作が普及し、食料を備蓄し始めるようになると争い事が起き出したことから、我が国でも外国の進んだ文化を導入する必要に迫られました。しかし、我が国における青銅器(せいどうき)や鉄器の技術の進歩は目覚ましく、多くの鉄製農工具や武器、あるいは青銅製祭器(さいき)がつくられたのは先述したとおりです。つまり、我が国は外国の文化をありのままに受けいれるのではなく、日本流にアレンジして...
世界四大文明もしくはギリシャやローマにおける文明は確かに古くから優れた文化を持っていましたが、それは大規模な農耕や牧畜を行って食料を備蓄できたことで、他の地域に常に狙(ねら)われる危険があったからです。なぜなら、ユーラシア大陸は原則として地続きですから、やろうと思えばどこまででも遠征できるのであり、歴史的事実として、紀元前4世紀にマケドニアのアレクサンドロス大王がエジプトやペルシャを征服し、インダ...
アメリカの国際政治学者であったサミュエル=ハンティントンは「日本は日本だけで一つの文明圏(ぶんめいけん)である」と公言しており、ギリシャ・ローマから始まる「西洋文明」あるいは殷(いん)・周(しゅう)・秦(しん)・漢(かん)より続く「中国文明」などと対等な価値を持つ文明の一つと認識しています。つまり、我が国は世界とは全く異なる独自の「日本文明」をもっていたということになりますが、放射性炭素年代法など...
ところで、中学の歴史や高校の世界史で学習する「世界四大文明」という言葉については皆様の多くがご存知かと思われます。エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、中国文明の四つであり、これが世界の文明の黎明(れいめい)であると歴史教科書に現在も記載されています。その一方で、我が国の起源はいわゆる「四大文明」よりも遅れており、水稲耕作などの様々な文化も中国大陸や朝鮮半島から伝わったと教科書に書かれてい...
さらに、男性のみがもつ遺伝子の「Y染色体」を周辺諸国とともに調査したところ、日本人男子の約34%がもつY染色体が、他の地域にはほとんど存在しないことが分かりました。歴史を振り返れば、我が国は異民族に征服されたこともなければ、民族虐殺(ぎゃくさつ)を伴う惨劇を国内で経験したこともなく、また縄文時代以降に日本民族を圧倒するような移民もありませんでした。我が国には、古くからのY染色体が、その基本形を保ったま...
また、歴史教科書にはこのような記述も見られます。「弥生文化は、農耕社会を既(すで)に形成していた朝鮮半島から必ずしも多くない人々が新しい技術を携(たずさ)えて日本列島にやってきて、従来の縄文(じょうもん)人とともに生み出したものと考えられる」。上記のうち、朝鮮半島から農耕社会の技術が伝わったというのが実際には逆だったことは先述のとおりですが、では「渡来(とらい)した弥生人と従来の縄文人が共存した」...
【ハイブリッド方式】第106回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和7年1月)
「黒田裕樹の歴史講座」は対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。準備の都合上、オンライン式の講座のお申し込みは事前にお願いします。対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です。メインの主催者である「国防を考える会」のQRコードはこちらです。(クリックで拡大されます)(クリックで拡大されます)第106回黒田裕樹の歴史講座...
ところで、現在の歴史教科書では弥生(やよい)文化のはじまりについて概(おおむ)ね以下のような記述がなされています。「およそ2500年前(紀元前3世紀)、朝鮮半島に近い九州北部で水田によるコメ作りが始まった。こうした流れは、中国大陸から朝鮮半島を経て日本列島に波及したと考えられる」。つまり、日本列島における水稲(すいとう)耕作は今から約2500年前に朝鮮半島から伝わったと当然のように書かれているのですが、こ...
国産の青銅器のうち、銅鐸は近畿地方を中心に、銅矛・銅戈は北九州を中心に、平形銅剣は東瀬戸内海を中心に分布しており、青銅器が広まった地方はいずれも文化の先進地域として栄え、祭祀(さいし)を共通とする大きな連合体が作られていたと考えられています。なお、島根県の荒神谷(こうじんだに)遺跡は大量の青銅製祭器が発掘されたことで有名です。ちなみに、全国各地で青銅製祭器が広まったのは、集落の政治や軍事をつかさど...
弥生時代には、それまでの石器から新たに金属器が使われるようになりましたが、我が国では青銅器と鉄器がほぼ同時に伝来していたと見なされています。このため、通常ではまず青銅器が主流となった(=青銅器時代)後に、青銅よりも優れた金属である鉄器が用いられる(=鉄器時代)ようになるのですが、我が国においては鉄器が実用的な道具としてすぐに広まりました。つまり、我が国では石器時代から青銅器時代を飛び越えていきなり...
また、農作業は天候に左右されやすいため、人々は太陽や月・雨・風・水などの自然に霊が宿ると信じ、それらに祈る祭りを重んじるようになりましたが、そんな中で「神々に祈る」ことを主とする人々も見られるようになりました。このようにして、人々の間に権威を持つ統一者が現れるとともに、彼らの死後の墓も時代とともに大きく進化していきましたが、こうした流れが天皇のルーツになるとともに、全国各地に現在も見られる大きな古...
弥生時代の死者は、集落近くの共同墓地に大型の甕棺(かめかん)を用いた甕棺墓(かめかんぼ)や、大型の平らな石を配した支石墓(しせきぼ)などに葬(ほうむ)られましたが、縄文時代の屈葬(くっそう)と異なり、体全体を伸ばしたままで伸展葬(しんてんそう)された事例が多いのが特徴です。また、方形(ほうけい)の低い墳丘(ふんきゅう)の周りに溝(みぞ)をめぐらした方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)も各地でつくられ...
水稲耕作が中心の農耕社会の出現は、社会のしくみや人々の生活にも大きな変化をもたらしました。人々は水田の近辺で生活したほうが便利なことから、やがて平地に定住するようになりました。住居も縄文時代の竪穴(たてあな)住居から掘立柱の平地式建物が多くなり、住居が集まってつくられた集落の規模も次第に大きくなりました。集落が大きくなるにつれて問題となったのは、いかにして集落全体を外敵から守るかということでした。...
弥生時代が進むにつれ、農業の技術も次第に発達していきました。農具は初期の木製から鋤(すき)や鍬(くわ)、刀子(とうす)、斧(おの)などの鉄製農工具が現れ、水路の造成や耕地の開拓も進んで乾田(かんでん)の開発も進められました。弥生初期の湿田は地下水位が高いことから水の補給を必要としないのですが、土壌(どじょう)の栄養が少ないこともあって生産性が低いのが欠点でした。一方、乾田は地下水位が低いので灌漑(...
初期の水稲耕作は、もともと水分を多く含んだ低湿地(ていしっち)で行われていました。これを湿田(しつでん)といいます。当初は籾(もみ)を田んぼに直接まく直播(じきまき)を行っていましたが、やがて苗(なえ)を育てて水田に植えていく田植えが広まっていきました。耕作用の農具には木製の鋤(すき)や鍬(くわ)が用いられ、収穫の際には石包丁(いしぼうちょう)を使用して、稲が実った部分のみを直接刈り取る穂首刈(ほ...
弥生時代の大きな特徴の一つとして、先述した弥生土器が挙げられます。この時代の土器は縄文土器に比べて薄手(うすで)で赤褐色(せきかっしょく)であり、また良質の粘土を高温で焼いているために硬いものが多いです。弥生土器は主として煮炊(にた)き用の甕(かめ)や貯蔵用の壺(つぼ)、食物を盛る鉢(はち)や高杯(たかつき)などに用いられました。ところで、弥生土器の名称は、明治17(1884)年に東京市本郷区向ヶ岡弥生...
紀元前500年頃、中国大陸や朝鮮半島に近い北九州を中心に新たな文化が生まれました。この文化は、水稲耕作や金属器(青銅器や鉄器)を使用し、また縄文土器とは種類の異なる土器である弥生(やよい)土器が使用されました。これらの文化を弥生文化といい、3世紀末までのこの時代を弥生時代といいます。ただし、先述のとおり日本列島で水稲耕作が行われたのは今から約3000年前(紀元前10世紀頃)という見解も存在します。また、弥生...
中国大陸で群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の春秋・戦国時代の紀元前6世紀頃には、先述のとおり青銅器にかわって鉄器が普及し始め、紀元前3世紀には始皇帝(しこうてい)の秦(しん)が大陸を史上初めて統一し、始皇帝の死後に秦が滅亡すると、かわって漢(かん、または前漢=ぜんかん)が成立しました。なお、始皇帝の「始」は「最初(一番目)」の意味であり、始皇帝の後継者はその称号を一部受け継ぎ、世代が下がるごとに「二世皇...
※今回より「弥生時代以前」の更新を再開します(1月29日までの予定)。我が国で縄文(じょうもん)文化が長い時間をかけて発展し続けた頃、中国大陸では急速に文化が進展していきました。紀元前5000年~4000年頃までには、北方の黄河(こうが)中下流域の黄土(こうど)地帯でアワやキビなどの畑作がおこり、南の長江(ちょうこう)下流域でも水稲(すいとう)耕作(=水稲農耕)が始まって、農耕社会が成立しました。紀元前16世紀...
※「第105回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(1月7日)からは「弥生時代以前」の更新を再開します(1月29日までの予定)。日露戦争は多額の戦費を公債や外債でまかないましたが、賠償金をもらえなかったことが我が国の経済に深刻な影響をもたらしたことで、明治40(1907)年の恐慌をきっかけに企業の倒産が相次ぎ、不況が続くようになりました。そんな中、財閥と呼ばれた少数の企業家が我が国の経済を懸命に支...
重工業部門においては、政府による造船奨励政策によって、日清戦争後に三菱長崎造船所などの民間の大規模な造船所が建設されました。しかし、その材料となる鉄鋼は輸入に頼っており、19世紀後半の厳しい帝国主義の世界においては、武器の製造や造船業といった国家の諸産業にとって最重要となる鉄鋼の国産化、すなわち製鉄業を我が国のものとすることは喫緊(きっきん、差しせまって重要なこと)の課題でした。このため、政府は日清...
大量の物資や人員を一度に輸送できることから、鉄道業にも投資が集中しました。明治14(1881)年に華族(かぞく)を中心として設立された我が国初の私鉄である日本鉄道会社が明治24(1891)年に上野~青森間を開通させたのをはじめ、商人や地主らの会社設立ブームに乗ったかたちで鉄道会社の設立が相次ぎました。明治22(1889)年に官営の東海道本線(東京~神戸間)が全通した頃には、営業キロの総数で民間が官営を上回る勢いとな...
明治政府は旧幕府や諸藩が経営していた造船所や鉱山などの事業を引き継ぐとともに、殖産興業を目指して先述した富岡製糸場などの官営模範工場を次々と開設しました。しかし、官営事業の多くが赤字経営だったうえに、西南戦争による多額の出費で財政危機を迎えた政府は、明治13(1880)年に工場払下げ概則を公布して官営事業の民間への払下げを始めました。ところが、払下げの条件が厳しかったために進展が見られず、その流れのなか...
寄生地主の多くは企業を興したり、あるいは公債や株式に投資したりしましたが、彼らの行為は結果として形を変えて国家の収入を増やしたことになります。まさに「カネは天下の回りもの」ですね。もちろんすべての寄生地主が成功することはなく、様々な興亡を繰り返したうえで、より大きな寄生地主が誕生することになるのですが、成長した寄生地主がより多額のおカネを国内で投資することで、さらに国家全体の財政が潤(うるお)うと...
ところで、寄生地主制と関連して一般的な歴史教科書で必ずと言っていいほど紹介されている項目のひとつに当時の「小作農の生活」の様子があり、以下のような内容が一般的です。「高額な小作料の支払いに苦しむ小作農の中には、子どもを工場へ出稼ぎに出したり、副業をしたりして何とか生活を営(いとな)むという有様でした」。寄生地主と比較して貧富の差を強調することで、いわゆる「貧農史観」を前面に押し出す姿勢がみられます...
生糸輸出の増加は農村にも大きな変化をもたらし、生糸と関わりの深い桑(くわ)の栽培や養蚕が盛んとなりましたが、その一方で、安価な輸入品におされて綿(めん)や麻・菜種(なたね)などの生産は衰えました。また、松方財政によるデフレの影響で全農地における小作地率が増加していましたが、この傾向はこの後も続き、結果として大地主自身が農業を経営せずに小作人からの現物による小作料収入に依存(いそん)するという寄生地...
綿糸や綿織物の輸出が増加した我が国でしたが、原料の綿花や紡績機を全面的に輸入に頼っていたために、綿関係品全体としては輸入超過の拡大が続いていました。このこともあり、国産の繭(まゆ)を原料とした生糸を輸出することで多くの外貨を得ることができる製糸業が果たすべき役割は重要でした。農村による養蚕(ようさん)を基礎とする製糸業は、幕末の頃は簡単な手動装置の座繰(ざぐり)製糸が中心でしたが、輸出の激増によっ...
我が国の産業革命を支えたのは、綿糸を生産する紡績業でした。綿織物業は幕末の開国によって外国の安価な製品が輸入されたことで一時は衰退していましたが、輸入綿糸を用いた農村の問屋制家内工業で飛び杼(ひ)を導入して手織機(ておりばた)を改良したことで、次第に生産力が回復しました。綿織物業の業績回復は原料糸を供給する紡績業にも大きな発展をもたらし、明治16(1883)年に渋沢栄一(しぶさわえいいち)らが大阪紡績会...
四方を海で囲まれた我が国では、海洋国家を目指して大型の鉄鋼船を建造することが最重要の課題でした。このため、政府は明治29(1896)年に航海奨励(しょうれい)法や造船奨励法を公布し、鉄鋼船の建造や外国航路への就航に奨励金を交付することにしました。こうした海運業奨励政策によって、我が国では遠洋航路の開設が次々と行われましたが、なかでも日本郵船会社は明治26(1893)年にインドのボンベイ(現在のムンバイ)航路を...
日清戦争から三国干渉へと続いた歴史の流れは、我が国をしてロシアの圧力への対抗として軍事力を拡大せしめる結果となりましたが、軍事予算を確保しようと思えば、それだけ租税を多く徴収しなければいけません。しかしながら国民の負担にも限度がありますし、無い袖(そで)は振りようもありません。このため、政府は租税負担に耐えられるだけの経済力の育成にも力を入れることになりました。こうした政府の方針もあって、鉄道や紡...
会社設立のブームは株式への多くの払い込みをもたらしましたが、折からの米の凶作もあって資金の需要が巨額となり、各金融機関の資金が不足がちとなったところへ、景気の過熱に不安を持った日本銀行が金利を引き上げたことで株式が急激に下落してしまったことにより、明治23(1890)年には我が国最初の恐慌が発生してしまいました。その後に米の豊作や銀の価格の下落による生糸(きいと)などの輸出の回復などもあって不況を脱した...
西南戦争などを起因とした我が国の財政危機を立て直すために政府が「松方財政」を断行したことによって、全国でデフレや不況を引き起こしたり、あるいは自由民権運動が崩壊の危機を迎える遠因となったりしましたが、明治19(1886)年頃から好況へと転じ始めました。好況の背景には欧米列強の好景気がありました。松方財政によって我が国は銀本位制を確立させましたが、その銀の価格が下落したことで列強が日本の商品を求めやすくな...
さて、遼東(りょうとう)半島の旅順(りょじゅん)や大連(だいれん)の租借権をロシアから得たことによって、我が国は満洲の権益を持つことになりました。明治39(1906)年には関東都督府(かんとうととくふ)が旅順に置かれ、半官半民の南満洲鉄道株式会社(=満鉄)が大連に設立されました。満鉄は旧東清(とうしん)鉄道や鉄道沿線の鉱山や炭坑(たんこう)を経営して開発を行いました。なお、この場合の関東とは「旅順・大連...
日韓併合における重い負担は内政面も同様でした。日本政府は朝鮮半島内の生活水準を本国並みに引き上げることを目標としましたが、併合当時これといった産業が見当たらなかった朝鮮半島において、工業を興(おこ)してインフラを整備することは途方(とほう)もない大事業でした。結局、我が国は朝鮮に対して保護国の頃に当時の費用で1億円(現在の価値で約3兆円)を支援したのみならず、併合時代の35年間においても約20億円(現在...
さて、我が国は韓国を保護国にするという当初の思惑とは全く異なり、結果的に併合することになってしまいましたが、このことが軍事面や内政面などにおいて我が国の大きな負担となりました。なぜなら、日韓併合によって韓国は日本の領土となりましたから、朝鮮半島の安全保障も当然のように本国並みの基準に引き上げなければならないからです。日露戦争の勝利によってロシアは確かに朝鮮から手を引きましたが、だからと言って朝鮮半...
朝鮮が我が国に併合されたことで、日本政府は朝鮮内の衛生の改善や植林事業などを行いました。また、併合前から始めていた土地制度の近代化を目的とした土地調査事業も本格的に行い、土地の一部が東洋拓殖(たくしょく)会社に払い下げられるなどによって、大正7(1918)年までに完了しました。この他、明治45(1912)年には土地調査令を公布して、地税の公平な賦課(ふか、租税などを割り当てて負担させること)を実現するととも...
安重根による伊藤博文の暗殺という大事件は、我が国の世論を激怒させたのみならず、韓国を震撼(しんかん)させました。日本による報復行為を恐れた韓国政府や国民の反応は、韓国内の最大の政治結社であった一進会(いっしんかい)が日韓合併の声明書を出したこともあって、次第に併合へと傾くようになりました。しかし、我が国は併合に対してあくまで慎重でした。日韓併合(=韓国併合)が国際関係にどのような影響をもたらすのか...
明治42(1909)年10月26日、伊藤博文はロシアの外務大臣と会う目的で訪れた満洲のハルビン駅で、韓国人の民族運動家であった安重根(あんじゅうこん)にピストルで撃たれて殺されました。熱心な愛国家であったとされる安重根からしてみれば、初代統監として韓国を保護国化した伊藤の罪は重く、また伊藤こそが韓国を併合しようとしている首謀者だと考えたのかもしれません。しかし、伊藤が韓国人によって殺されるということは、現実...
ハーグ密使事件を受けて韓国への感情が悪化した我が国では、保護国ではなく韓国を日本の領土として併合するべきだという意見が強くなりましたが、そんな情勢に身体を張って反対したのが初代統監の伊藤博文でした。伊藤としては、韓国の独立国としてのプライドを守るために、近代的な政権が誕生するまでは外交権と軍事権のみを預かり、その後に主権を回復させる考えだったのです。教育者であるとともに植民地政策に明るかった新渡戸...
こうして韓国は我が国の保護国となりましたが、これは韓国皇帝の高宗(こうそう)にとっては屈辱的なことでした。このため、高宗は自身も認めた国際的な条約であったにもかかわらず、自国の外交権回復を実現するために、1907(明治40)年にオランダのハーグで開かれていた第2回万国平和会議に密使を送って第二次日韓協約の無効を訴えました。これを「ハーグ密使事件」といいます。しかし、会議に出席していた列強諸国が条約の違法...
日露戦争の勝利によって朝鮮半島からロシアが手を引いたことで、我が国はようやくロシアの南下政策を食い止めるとともに韓国の独立を保つことができました。しかしながら、清国(しんこく)からロシアへと事大主義に走る韓国をそのままの状態にしておけば、またいつ「第二、第三のロシア」が出現して、韓国の独立と我が国の安全保障が脅(おびや)かされるか分かったものではありません。そこで、我が国は韓国の独立を保ちながら軍...
列強による中国分割に出遅れたアメリカは「門戸(もんこ)開放・機会均等」を唱えるとともに満洲の権益を求め、我が国がポーツマス条約で得た長春(ちょうしゅん)以南のいわゆる南満洲鉄道(=満鉄)に対して、アメリカの鉄道王のハリマンが明治38(1905)年に共同経営を呼びかけました。ハリマンの申し出に対し、アメリカとの関係を重視した元老の井上馨(いのうえかおる)や伊藤博文あるいは首相の桂太郎らが賛同しましたが、外...
日露戦争での勝利は、結果として我が国の国際的地位を高めることにつながりましたが、それを裏づけるかのように明治38(1905)年にアメリカとの間で桂・タフト協定が結ばれ、アメリカのフィリピンにおける指導権と日本の韓国における指導権とをそれぞれ承認しました。また、同じ明治38(1905)年には日英同盟が改定され、イギリスのインドに対する支配権と引き換えに我が国の韓国への指導権をイギリスが承認しました。この他、ロシ...
また明治42(1909)年には内務省(ないむしょう)の主導で地方改良運動を始め、行政単位としての町村を中心に地方産業の振興を積極的に進めたほか、租税負担力の増加をはかるなど財政基盤(きばん)の立て直しを目指しました。なお、この運動と関連して地方の青年団が組織されたほか、明治43(1910)年には退役軍人の全国的な集まりとなる帝国在郷軍人会が誕生しています。この他、桂は明治43(1910)年に起きた大逆(たいぎゃく)...
明治34(1901)年に成立した第一次桂太郎内閣は、日英同盟の成立から日露戦争の終結まで長いあいだ政権を維持し続けましたが、日比谷焼打ち事件の影響で明治38(1905)年末に退陣しました。後を受けて翌明治39(1906)年に成立した第一次西園寺公望内閣は立憲政友会を与党として、鉄道や港湾の拡充(かくじゅう)を積極的に行うとともに、軍事的あるいは経済的な理由から鉄道国有法を成立させました(詳しくは後述します)。しかし...
さて、第二次山県内閣による様々な政策が与党であった憲政党の反発を招いたのを見た伊藤博文は、党利党略といった私益に走るのではなく、国益を重んじる政党を組織して、それまでの藩閥(はんばつ)政治の行政力と政党の立法力とを調和した新たな政権を確立する考えを持ちました。伊藤の考えに応じた憲政党は、明治33(1900)年に結成された「立憲政友会(りっけんせいゆうかい)」に合流するかたちで解党し、初代総裁となった伊藤...
第一次大隈内閣の後に成立したのは、第二次山県有朋(やまがたありとも)内閣でした。第二次山県内閣は憲政党(旧自由党系)と憲政本党(旧進歩党系)とに分裂した政党のうち憲政党を与党とし、懸案だった地租の税率を2.5%から3.3%に引き上げる地租増徴案を成立させるとともに、衆議院総選挙の選挙資格を直接国税15円以上から10円以上に引き下げました。前任の隈板内閣が短期間で崩壊(ほうかい)した現実を見た第二次山県内閣は...
第二次松方内閣の後を受けて明治31(1898)年に成立した第三次伊藤博文内閣は再び超然主義に戻り、財源確保のために地租(ちそ)の税率を上げるなどの増税案を議会に提出しましたが、これに反対した自由党と進歩党は合同して「憲政党(けんせいとう)」を結成し、衆議院で絶対多数を得る巨大政党が誕生しました。議会運営の見通しが立たなくなった第三次伊藤内閣は退陣に追い込まれ、我が国最初の政党内閣である第一次大隈重信内閣...
※今回より「第105回歴史講座」の内容を更新します(来年1月6日までの予定)。さて、明治27(1894)年から明治28(1895)年にかけて行われた日清戦争当時の我が国では、第二次伊藤博文(いとうひろぶみ)内閣が政治を行っていました。戦争という非常事態を受けて政府と政党は政争を中止し、全会一致で協力体制を整えましたが、こうした姿勢は日清戦争後も続けられました。なぜなら、日清戦争の勝利で得た巨額の賠償金に基づく軍事力...
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このようにして大和を平定された神武天皇は、橿原(かしはら)の地に宮殿を築かれ、初代天皇として即位されました。なお、現在の橿原神宮はこの伝承に基づいて明治時代に創建されたものです。また、ご即位の日は十干十二支(じっかんじゅうにし)で辛酉(しんゆう、別名を「かのととり」)の年の1月1日と伝えられており、日本書紀では、先述のとおり神武天皇のご即位の年を紀元前660年に定めています。現在、神武天皇が即位されて...
天皇は苦戦の末、紀伊(きい、現在の和歌山県)から海路で熊野(くまの、現在の三重県)に上陸されましたが、険しい山道のなかでいつしか道に迷われそうになりました。そんな神武天皇の軍勢の前に、いきなり巨大なカラスが現れました。それは三本足をもつ八咫烏(やたがらす)でした。八咫烏は天照大神の使いとして、天皇を大和まで先導して道案内の役割を果たしたのです。八咫烏は日本サッカー協会のシンボルマークとして用いられ...
では、日本書紀や古事記による神武天皇の東征はどのように書かれているのでしょうか。現代の天皇陛下は数えて第126代目となられますが、日本書紀あるいは古事記には、始祖(しそ)とされる神武天皇がご即位されるまでの様々な出来事が生き生きと描かれています。太陽を神格化した神であり、皇室の祖神たる天照大神(あまてらすおおみかみ)の直系の子孫であられる神武天皇(別名:神日本磐余彦尊=かんやまといわれひこのみこと)...
「方(まつ)に難波(なにわ)の碕(みさき)に到(いた)るときに、奔潮(はやなみ)有りて太(はなは)だ急(はや)きに会ふ」。現代語訳すれば「難波の碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変早く着いた」となりますが、この一文は、神武天皇の一行が河内潟の狭い開口部から流入する潮流に乗って一気に潟内部に進入し、難波の碕に着いたことを物語っています。こうした記述は、河内潟の時代でしか考えられません。なぜなら...
河内潟の頃は、現在の大阪城から南に延びる上町台地の北端が潟口(かたぐち)であり、引き潮の際には潟の水が開口部から勢いよく大阪湾に流れ出す一方で、満潮の際には開口部を通って海水が潟内部へ逆流していたと考えられます。実は、その様子が、8世紀に編纂(へんさん)された「日本書紀」にも書かれているのです。「因(よ)りて名(なづ)けて浪速国(なみはやくに)と為(い)ふ。亦(また)浪花(なにわ)と曰(い)ふ。今...
神武天皇のご存在を証明する手掛かりは、実はもう一つあります。それは戦後の様々な発掘調査がもたらしたものであり、神武天皇が遺(のこ)された足跡が「地質学的に確実に証明されている」ことを皆様はご存知でしょうか。その根拠の一つは「大阪」にあります。大阪湾の遠浅(とおあさ)の海岸沿いから広大な大阪平野が生駒山地まで続いている現在の大阪ですが、今から約20000年前には河内湾(かわちわん)と呼ばれる海が生駒山の...
5世紀の中国の南朝である宋(そう)の歴史家であった裴松之(はいしょうし)が「三国志(さんごくし)」に注釈を加えた際に、以下のような文章を書き残しています。「倭人(わじん)は歳(とし)の数え方を知らない。ただ春の耕作と秋の収穫をもって年紀としている」。当時の倭人、すなわち日本人は春分と秋分をそれぞれ一つの年紀として、つまり通常の一年を倍の二年として計算していたというのです。これを「春秋年(しゅんじゅ...
我が国では長いあいだ、神話が絶えず意識されてきました。しかし、GHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)による占領下で、日本を罪深い国に仕立て上げた「WGIP(=ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム、日本人に戦争犯罪者意識を刷り込む計画)」の呪縛(じゅばく)が、戦後から約80年を経た今もなお日本国と日本民族を洗脳し続けています。WGIPによる影響は我が国の歴史教科書にも確実に表れており、我が国初代の神武...
※今回より「古墳時代」の更新を開始します(3月25日までの予定)。3世紀後半頃の我が国では国家の統一が進み、大和(やまと、現在の奈良県)の豪族を中心とする強大な連合政権が誕生しました。これを大和朝廷(やまとちょうてい)と呼び、現代の皇室のルーツでもあります。大和朝廷が誕生したとされる当時は、大和地方を中心に巨大な古墳(こふん)が現れており、また各地の古墳も大和地方と同じ前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん...
※「第106回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(3月8日)からは「古墳時代」の更新を開始します(3月25日までの予定)。明治天皇の崩御から2年後の大正3(1914)年、皇后の昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)が崩御されました。両陛下はともに京都の桃山御陵にご埋葬されましたが、国民の間から東京で明治天皇並びに昭憲皇太后のご神霊(しんれい)をお祀(まつ)りしたいという熱い願いが自然と沸き上がりま...
明治天皇のご存在は、単なる国家元首としてのみならず、我が国が幕府による武家政権の封建体制から欧米列強に肩を並べる近代国家にまで短期間で一気に成長を遂(と)げた、いわば国家の興隆と繁栄の象徴でもあられたことから、明治天皇の崩御は「明治」という一つの時代の終焉(しゅうえん)を国民に強く印象づけることとなりました。例えば、夏目漱石は大正3(1914)年に発表した小説「こゝろ」の中で「其時(そのとき)私は明治...
明治45(1912)年7月、明治天皇は東京帝国大学の卒業式に行幸(ぎょうこう、天皇が外出されること)された頃からご体調が急に悪化され、同月18日夜に発熱された後に昏睡(こんすい)状態となられました。翌々日の7月20日には陛下のご不例(ふれい、この場合は天皇のご病気のこと)が国民に公表され、日本国内は憂色(ゆうしょく)に包まれました。多くの国民が陛下のご平癒(へいゆ)を願って続々と皇居に集まったほか、全国の神社...
この他にも、水戸の偕楽園(かいらくえん)、金沢の兼六園(けんろくえん)などが公園化されましたが、これらは従来の和風の庭園を活用したものであり、一から新しく西洋風の公園がつくられたのは、明治36(1903)年に開かれた日比谷(ひびや)公園が初めてでした。自然科学(特に医学)の発達によって、明治期には我が国でも近代的な病院がつくられるようになり、明治25(1892)年には北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)によって...
近代化を推進するためには、文化事業を興(おこ)して国民を啓蒙(けいもう、人々に新しい知識を与えて教え導くこと)することが不可欠だと考えた政府は図書館や博物館の建設を始め、旧幕府の紅葉山文庫(もみじやまぶんこ)や昌平黌(しょうへいこう)などの図書を集めたうえ、明治5(1872)年に湯島(ゆしま)の昌平黌講堂跡に書籍館(しょじゃくかん)を開きました。我が国初の官立公共図書館となった書籍館は、明治30(1897)...
西洋音楽は、幕末にまず軍楽として取り入れられた後、明治に入ってから文部省(現在の文部科学省)に音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)が設置され、日本音楽と西洋音楽との融合を目指して、音楽教育の立案や音楽教員の養成あるいは学校唱歌集の刊行がなされました。その後、明治20(1887)年に伊沢修二(いざわしゅうじ)を校長として東京音楽学校が設立され、本格的な音楽教育が始まりました。なお、東京音楽学校は現在の東...
自由民権運動の思想を芝居によって広めようと始められた壮士(そうし)芝居は、日清戦争の頃から新派劇(しんぱげき)と呼ばれるようになりました。新派劇では、川上音二郎(かわかみおとじろう)によるオッペケペー節が大流行したほか、新聞小説や流行小説から題材をとるようになり、ますます発展しました。日露戦争後には坪内逍遥らが文芸協会を設立したり、あるいは小山内薫(おさないかおる)や二代目市川左団次らが自由劇場を...
明治の世になって、演劇の世界にも新しい波が押し寄せてきました。江戸時代以来変わらぬ人気を集めてきた歌舞伎(かぶき)では、幕末の頃から第一線で活躍してきた河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)が、文明開化における風俗を題材として取り入れた新作を発表しました。また、明治の中期頃までには九代目市川団十郎(いちかわだんじゅうろう)や五代目尾上菊五郎(おのえきくごろう)、初代市川左団次(いちかわさだんじ)らの名優が...
一方、西洋画は工部美術学校の閉鎖もあって一時的に衰退を余儀なくされましたが、やがて「収穫」を描いた浅井忠(あさいちゅう)や「鮭(さけ)」を描いた高橋由一(たかはしゆいち)らによって、明治22(1889)年に我が国最初の西洋画の団体である明治美術会が設立されました。その後、明治29(1896)年に東京美術学校に洋画科が新設されたほか、同年にはフランス印象派の画風を学んだ「読書」や「湖畔(こはん)」で有名な黒田清...
殖産興業(しょくさんこうぎょう)の観点から西洋美術教育の必要性を考えた政府は、明治9(1876)年に工部(こうぶ)美術学校を開設しましたが、その後に起きた美術界における伝統回帰の風潮もあって、明治16(1883)年に廃止されました。一方、哲学のアメリカ人教師として来日した「お雇い外国人」のフェノロサは、我が国の伝統芸術を高く評価してその保存を訴え、助手の岡倉天心(おかくらてんしん)とともに、明治20(1887)年...
日露戦争の頃になると、ロシアやフランスの自然主義文学の影響を我が国も受けて、人間社会の現実をありのままに描写する風潮が主流となりました。当時の自然主義の作家としては、「牛肉と馬鈴薯(ばれいしょ)」の国木田独歩(くにきだどっぽ)、「蒲団(ふとん)」の田山花袋(たやまかたい)、「破戒(はかい)」の島崎藤村、「黴(かび)」の徳田秋声(とくだしゅうせい)などが挙げられます。また、明星派の影響を受けていた石...
そして、今回のような改定案が発表された背景には「今から20年近く前に、日本史学界の一部で唱えられた『聖徳太子虚構説』と呼ばれる学説」があると指摘し、この説の根拠が乏(とぼ)しいにもかかわらず「文科省は、この珍説が歴史学界の通説であるととらえてしまったようだ」と断じています。さらに、藤岡氏は「この説は日本国家を否定する反日左翼の運動に利用されているのであり、その触手(しょくしゅ)が中央教育行政にまで及...
ところが、新たに公表された次期学習指導要領には「『聖徳太子』は没後使われた呼称(こしょう)に過ぎないため、歴史学で一般的な『厩戸王(うまやどのおう)』との併記にする」と書かれていたのです。具体的には、伝記などで触れる機会が多く人物に親しむ小学校では「聖徳太子(厩戸王)」と、史実を学ぶ中学校では「厩戸王(聖徳太子)」と表記するとされていました。文科省が次期学習指導要領を発表して以来、一部の歴史学の関...
平成29(2017)年2月14日、文部科学省は小中学校の次期学習指導要領の改定案を公表しました。なお学習指導要領とは、学校教育法などに基づき児童生徒に教えなくてはならない最低限の学習内容などを示した教育課程の基準であり、約10年ごとに改定されており、教科書作成や内容周知のために告示から全面実施まで3~4年程度の移行期間があります。次期指導要領は翌3月末に告示され、小学校は令和2(2020)年度、中学校は令和3(2021)...
さて、内政においては我が国最初の成文法であり、後年の法典の編纂(へんさん)に多大な影響を与えた憲法十七条を制定し、外交においては当時の大国であった隋(ずい)との対等外交を実現した偉大な政治家である「聖徳太子(しょうとくたいし)」は令和4(2022)年に没後1400年を迎えましたが、彼の生涯には様々な伝説が残されていることでも有名です。例えば聖徳太子の母親が臨月の際に馬小屋の前で産気づいたため、彼が生まれた...
既(すで)に存在する大量の土砂を利用すれば、古墳も比較的早く完成しますし、また仁徳天皇のように善政を敷(し)かれた人物の陵(みささぎ)だからこそ、多くの国民が「進んで」天皇陵の建設に力を尽くしたのではないでしょうか。ちなみに、仁徳天皇陵の周囲に堀をめぐらせているのは、陵墓が大規模なものであることから大雨が降れば大量の土砂が流れ込む可能性があり、それを防ぐためという、いわば当然の理由があります。これ...
仁徳天皇陵については、ある建設会社が「完成までに15年6か月の年数と延べ800万人の労力を要する」と試算しました。それだけ巨大な天皇陵であることを証明する数字ではありますが、当時の日本列島の人口は約400~500万人と推定されていますから、天皇陵の完成までに多くの人々が果てしない労役に駆り出されたともいえそうです。このことから、仁徳天皇は「自分の天皇陵の建設に際して国民を強制的に労働させた人物」と否定的にとら...
このこと以来、仁徳天皇は「聖帝(ひじりのみかど)」と称され、やがて天皇が崩御されると、和泉国の百舌鳥野(もずの)の陵(みささぎ)をつくって葬り奉(たてまつ)ったと「日本書紀」に記載があります。ところで、仁徳天皇の善政は「民のかまど」のエピソードだけではないことを皆さんはご存知でしょうか。実は、以下のような輝かしい業績を残されておられるのです。1.難波(なにわ)の堀江(ほりえ)を開削(かいさく)したこ...
民のかまどがにぎわっているのを満足げに見つめられた仁徳天皇は、傍(かたわ)らにおられた皇后(こうごう)陛下に以下のように仰られました。「朕(ちん)は既(すで)に富んだ。喜ばしいことだ」。天皇のお言葉に対し、皇后陛下は怪訝(けげん)そうに仰られました。「宮殿のあちこちが崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだと言えるのですか」。皇后陛下のお言葉に対して、仁徳天皇は微笑(ほほえ)みながら仰られたそう...
さて、皆さんは大阪府堺市堺区に存在する、全長約486mを誇る世界最大級の古墳に葬(ほうむ)られておられるとされる「仁徳(にんとく)天皇」についてどのような印象をお持ちでしょうか。古代の天皇には、高いところにのぼって国を見渡し、その様子を褒(ほ)め称(たた)えることによって、天皇のお言葉で国を良くするという「国見(くにみ)」の風習がありました。ある日のこと、仁徳天皇は難波高津宮(なにわのたかつのみや)か...
こうした事実を考慮すれば、既(すで)に大日本帝国憲法以前において定着していた「人権思想」に対して、わざわざ西洋由来の天賦人権論を持ち込む理由が果たして存在するのでしょうか。歴史のみならず、我が国での真っ当な「公民教育」を目指すのであれば、その背骨として「我が国伝統の政治文化」を教えるのが当たり前のはずです。しかし、今の教育では、それこそ「革命思想」につながる西洋の民主政治が重視される一方で、革命を...
我が国の初代天皇であらせられる神武天皇が橿原宮(かしはらのみや)で即位された際に「八紘(はっこう、四方八方のこと)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむこと」と仰せられたと伝えられており、これが由来となって「八紘一宇(はっこういちう)」という言葉が生まれました。「八紘一宇」は「道義的に天下を一つの家のようにする」というのが大意であり、我が国だけでなく世界全体を一つの家として、神々のために祈られる天皇を中...
ところで、日本国憲法の三大原則のひとつに「基本的人権の尊重」がありますが、これは第11条や第97条において「侵(おか)すことのできない永久の権利」と規定されており、一般的にも「天賦(てんぷ)人権論」として知られています。しかし、こうした考えは「我が国の国柄」ではありません。天賦人権論の原理は西洋にあり、17世紀から18世紀の思想家であるイギリスのロックやフランスのルソーなどの社会契約説を由来として「すべて...
天皇御自らが政治を行われるのであれば、そこに徳川家が入り込む隙間(すきま)は全くありません。しかも、討幕派はその日のうちに矢継ぎ早に改革を行い、新たに創設された役職である「三職(さんしょく)」に慶喜の名がなかったばかりか、同日夜に行われた「小御所(こごしょ)会議」において慶喜の内大臣の辞任と領地の一部返上を決定しました。しかし、長年我が国の政治を引っ張ってきた旧幕府がその後に巻き返しを図り、小御所...
先述のとおり、朝廷から征夷大将軍に任じられたことで、幕府は政治の実権を「朝廷から委任される」、つまり「朝廷から預かる」という立場となりました。常識として、一度「預かった」ものはいずれ必ず「返す」ことになりますよね。だからこそ、朝廷から預かった「大政(=国政)」を「還(かえ)し奉(たてまつ)る」、すなわち「大政奉還」という概念が成立するとともに、幕府が存在しなくなったことで、薩長らの討幕の密勅がその...
朝廷(=公)の伝統的権威と幕府及び諸藩(=武)を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとした、いわゆる「公武合体」の立場をとり続けた土佐藩は、何とか徳川家の勢力を残したまま武力に頼らずに新政権に移行できないかと考えた結果、前藩主の山内容堂(やまうちようどう、別名を豊信=とよしげ)が「討幕派の先手を打つかたちで政権を朝廷に返還してはどうか」と慶喜に提案しました。このままでは武力討幕が避けられず、徳川...
討幕の密勅が下されたことによって、天皇の信任を得ていたはずの幕府が、自身が知らないうちに「天皇に倒される」運命となったのです。薩長両藩からすれば、それこそ待ちに待ったお墨付きだったことでしょう。しかし、討幕を実際に武力で行おうとすれば、江戸をはじめ全国各地が戦場と化すのは避けられず、またその犠牲者も多数にのぼることは容易に想像できることでした。いかに新政権を樹立するという大義名分があったとはいえ、...
そんな中、慶応(けいおう)2(1866)年旧暦1月に同盟を結んだ薩摩(さつま)・長州(ちょうしゅう)の両藩は、公家の岩倉具視(いわくらともみ)らと結んで武力による討幕を目指していましたが、実は、薩長側がどれだけ優位に展開していようが「いきなり幕府を倒す」ことは不可能でした。なぜなら、先述のとおり、幕府が成立した背景に天皇が深くかかわっておられるからであり、この事実をしっかり理解できなければ、本来は楽しく...
ところで、最近の歴史教育では「鎌倉幕府の成立」が従来の建久3(1192)年ではなく、例えば平氏が滅亡した後に頼朝が朝廷から守護や地頭の設置を認めてもらった文治(ぶんじ)元(1185)年など、様々な説が存在しています。その理由としては「実質的に源頼朝を中心とする支配体制が確立した時期こそが鎌倉幕府の成立にふさわしい」からだとされていますが、果たしてこれは本当に正しいと言い切れるでしょうか。実は、鎌倉幕府の成...
なお、西洋において「God」とは、例えばイエス=キリストのような「絶対神」あるいは「唯一神」であり、我が国のような「八百万(やおよろず、非常に多くの、という意味)の神」とは決定的に異なります。明治に入ってキリスト教が公認された際に「God」を「神」と訳したことによって、絶対神であるはずの「God」が八百万の神の一柱(ひとはしら、我が国では神様は「柱」と数えます)になってしまったことが、キリスト教の信者が思...
この流れを受けて、イギリスで国王を首長とするイギリス国教会が成立するなど、国家の利益と宗教とを切り離す傾向が西洋全体でみられたことで、政治的権力が教会から国王へと移行する一方で、教会は「権威」としてのみ存続するようになったのです。政治的権威と権力との分離が歴史的に完全になされた地域は、地球上では西洋と我が国しかありません。東欧やロシア、そして中国も、あるいは現代のチベットでさえも、こうした分離は実...