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黒田裕樹さんのプロフィール

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ブログタイトル
黒田裕樹の歴史講座
ブログURL
http://rocky96.blog10.fc2.com/
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受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。
更新頻度(1年)

375回 / 365日(平均7.2回/週)

ブログ村参加:2012/08/07

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黒田裕樹さん
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黒田裕樹の歴史講座
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黒田裕樹の歴史講座

黒田裕樹さんの新着記事

1件〜30件

  • 幕府と藩の行政機構 その1

    江戸幕府は、約400万石(17世紀末頃)の直轄地(ちょっかつち)である天領(てんりょう)からの年貢(ねんぐ)による収入を財政の基本としたほか、佐渡(さど)金山や但馬生野(たじまいくの)・石見大森(いわみおおもり)の銀山などの鉱山からの収入も大きいものがありました。幕府は、産出した金銀を使用して貨幣(かへい)の鋳造権(ちゅうぞうけん)を独占して財政をコントロールするとともに、江戸や京都・大坂・長崎・堺な...

  • 幕藩体制の確立 その3

    寛永(かんえい)11(1634)年、3代将軍徳川家光は自らの軍事指揮権を天下に示すために、全大名に対して石高(こくだか、大名の領地をコメの収穫で示した単位のこと)に応じて一定の兵馬(へいば、兵士と軍馬のことだが、ここでは軍備を意味する)による軍役(ぐんやく)を課したうえで、30万余りの兵力を率いて上洛(じょうらく、京へ向かうこと)しました。翌寛永12(1635)年には新たな武家諸法度となる「寛永令」を発布して、...

  • 【ハイブリッド方式の講座です】黒田裕樹の講演のお知らせ(令和2年8月)

    新型コロナウィルス感染症拡大防止のため、黒田裕樹の歴史講座は従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施することになりました。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合がございますのでご留意ください。①会場入り口に備...

  • 幕藩体制の確立 その2

    江戸時代に徳川将軍家と主従の関係を結んだ者のうち、領地が1万石以上の者を「大名(だいみょう)」といいました。大名の中で、家康が晩年に産ませた男子を始祖(しそ)とする徳川家一門の者は「親藩(しんぱん)」と呼ばれ、水戸(みと)・尾張(おわり)・紀伊(きい)に領地を持つ「御三家(ごさんけ)」と称されました。また、関ヶ原の戦い以前から徳川家に従っていた旧来の家臣出身の大名は「譜代(ふだい)」と呼ばれ、関ヶ...

  • 幕藩体制の確立 その1

    江戸幕府は大坂の役で豊臣家を滅亡させると、返す刀で諸大名の統制を力ずくで進めました。慶長20(1615)年、2代将軍の徳川秀忠が「一国一城令」を出して、大名が使用する居城以外の城の取り壊しを命じました。さらに幕府は元和(げんな)元(1615)年に「武家諸法度(ぶけしょはっと)」を制定して、新たに城を築くことや勝手に城を修築することを禁止したほか、大名間の婚姻(こんいん)も幕府の許可を必要としたり、大名同士で...

  • 江戸幕府の成立 その6

    戦いに備えて、豊臣方は牢人(ろうにん、別名を「浪人」)を金でかき集めて軍備を整えました。徳川方は激しく攻め立てましたが、さすがに天下の名城と謳(うた)われた大坂城はそう簡単には落ちません。業(ごう)を煮やした家康は、豊臣方の戦意を喪失させる目的で、城めがけて昼夜関係なく大砲を撃ち続けました。この作戦が功を奏して、家康は大坂城の外堀を埋めるという、徳川方にとって有利な条件で講和に持ち込むことに成功す...

  • 江戸幕府の成立 その5

    梵鐘の銘文には「君臣豊楽(くんしんほうらく)」「国家安康(こっかあんこう)」の文字が刻まれていましたが、これは「君主も家臣も豊かでありますように」「国家がいつまでも安泰でありますように」という意味であり、取り立てて問題視するようなものではありません。ところが、家康は「『君臣豊楽』と書いて豊臣家の繁栄を願う一方で『国家安康』と書くことで家康の名を二つに割って呪いをかけている」と言い出して、豊臣家を非...

  • 江戸幕府の成立 その4

    慶長10(1605)年、家康は自分が将軍になってわずか2年後に、その地位を子の徳川秀忠(とくがわひでただ)に譲りました。これは、徳川家が以後も将軍職を世襲(せしゅう)することを天下に示すためであり、豊臣家への大きな牽制(けんせい)となりました。家康は駿府(すんぷ、現在の静岡)に移りましたが、前の将軍を意味する大御所(おおごしょ)として政治の実権を握り続けました。やがて関ヶ原の戦いから10年以上が経過して、...

  • 江戸幕府の成立 その3

    関ヶ原の戦いに勝利し、豊臣家に味方した大名に対する処分を終えた家康は、豊臣家から政治の実権を完全に奪(うば)う決意を固めました。室町幕府が滅亡した後、信長は天下を統一する前に死亡し、秀吉は関白として公家(くげ)の一員となることで世の中を支配しようとしましたが、家康は武家の棟梁(とうりょう)として朝廷から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられるという、鎌倉幕府や室町幕府と同じ手法で天下を統一し...

  • 江戸幕府の成立 その2

    三成は物事に対して常に正確さを求め、また不正義な行動を許さない性格を持っていました。彼のこうした一面によって、秀吉による太閤(たいこう)検地を完全に実行することができたという大きな効果をもたらすなど、文治的な才能は非常に高いものがありました。しかしその一方で、自身が完璧であると確信していたことで、自己より能力が劣ると判断した相手には横柄に振る舞うという欠点もありました。特に軍事面に強い武将とは相性...

  • 江戸幕府の成立 その1

    豊臣秀吉(とよとみひでよし)の死後、政治の実権を握ったのは徳川家康(とくがわいえやす)でした。家康は幼い頃から織田家(おだけ)、次いで今川家(いまがわけ)に人質として預けられるという厳しい人生を過ごしましたが、永禄(えいろく)3(1560)年の桶狭間(おけはざま)の戦いをきっかけとして織田信長(おだのぶなが)と同盟を結び、先祖伝来の地であった三河(みかわ、現在の愛知県東部)を中心に勢力を拡大しました。...

  • 教育制度の整備と教育勅語 その7

    教育に関する勅語(現代語訳)私(=天皇)が思うには、我が皇室の祖先の方々が国を始められたのは、遥(はる)かに遠い昔のことであり、代々築かれてきた徳は深く厚いものがありました。我が国民が忠孝の道をもって万民が心を一つにし、今日に至るまで立派に歩んできたことは、我が国の優れた誉れであるとともに、教育の根本もまたそこにあります。貴方たち国民は父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は仲良く協力し合い、友達とは互...

  • 教育制度の整備と教育勅語 その6

    (付録)教育勅語の全文と現代語訳教育ニ関スル勅語(教育勅語)朕(ちん)惟(おも)フニ我ガ皇祖皇宗(こうそこうそう、天照大神と歴代の天皇のこと)國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ徳ヲ樹(た)ツルコト深厚(しんこう)ナリ。我ガ臣民(しんみん)克(よ)ク忠ニ克(よ)ク孝ニ億兆(おくちょう)心ヲ一(いつ)ニシテ世々(よよ)厥(そ)ノ美ヲ済(な)セルハ此(こ)レ我ガ国体(こくたい)ノ精華(せいか)ニシ...

  • 教育制度の整備と教育勅語 その5

    ただし、排除・失効決議がなされたからといって、教育勅語そのものが「廃止」されたわけではありません。そもそも天皇陛下のお言葉である「勅語」を廃止できるのは陛下ご自身のみであり、それを国民の立場で勝手に廃止する行為は「不敬」以外の何物でもないからです。平成29(2017)年3月14日に、松野博一(まつのひろかず)文部科学大臣(当時)が、記者会見において「憲法や教育基本法に反しないような配慮があって、教材として...

  • 教育制度の整備と教育勅語 その4

    教育勅語は当時の国民世論から大いに歓迎され、小学校修身科の教科書に掲載されたほか、学校行事において校長先生が奉読(ほうどく、つつしんで読むこと)するなど、多くの児童や生徒の日常の中にごく当たり前のものとして存在したほか、英・独・仏・中の各国語に翻訳され、海外にも広く紹介されました。ところで、昭和に入ってから勅語の文章中の「天壤無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運(こううん)」や「億兆(おくちょう)心ヲ...

  • 教育制度の整備と教育勅語 その3

    明治22(1889)年2月11日に大日本帝国憲法(=明治憲法)が公布されたことで、我が国は憲法を有する近代国家となりましたが、大日本帝国憲法はそもそも法律であったがゆえに、道徳に関する規定がありませんでした。また、当時の教育界も、道徳教育の基礎を何に置くかという根本的な問題について一致した見解を持っていなかったため、我が国伝統の倫理や道徳に関する教育が軽視される傾向にありました。この事態を重く受け止められ...

  • 教育制度の整備と教育勅語 その2

    学校令が整備された後の明治20年代から30年代にかけて義務教育の就学率が急上昇し、明治35(1902)年には90%を超えましたが、これは学校令の制度が我が国の風土に合っただけではなく、近代産業の発達やそれに伴う経済の発展によって国民生活が向上し、児童が教育を受けやすい体制が整ったことも意味していました。また、教育費を国庫で補助したり、明治33(1900)年に義務教育期間の授業料を廃止したりするなどの政策にも大きな効...

  • 【ハイブリッド方式の講座です】 第79回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ

    新型コロナウィルス感染症拡大防止のため、黒田裕樹の歴史講座は従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施することになりました。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合がございますのでご留意ください。①会場入り口に備...

  • 教育制度の整備と教育勅語 その1

    明治5(1872)年に学制が発されたことで義務教育の就学率が次第に上昇しましたが、実学(じつがく、理論より実用性・技術を重んずる学問のこと)中心で我が国の伝統や道徳が軽視された内容であったことや、授業料が高額なこと、あるいは地方の実情を無視した画一的(かくいつてき)な統制に対する反発も強いものがありました。このため、政府は明治12(1879)年に新たに教育令を公布して学制を廃止しました。教育令はアメリカ風の...

  • 思想界・宗教界の動向 その3

    宗教界では、伝統的な神道や仏教、あるいは西洋から流入したキリスト教との対立や競合がみられました。神道界では、明治初年の神仏合同による国教化がうまくいかなかった一方で、政府の公認を受けた民間の教派神道が庶民を中心に広がりを見せました。仏教界では、明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐による大きな打撃から次第に立ち直りつつありました。浄土真宗の僧侶(そうりょ)であった島地黙雷(しまじもくらい)は、...

  • 思想界・宗教界の動向 その2

    一方、三宅雪嶺(みやけせつれい)・志賀重昂(しがしげたか)・杉浦重剛(すぎうらじゅうごう)らは政教社をつくって雑誌「日本人」を創刊し、西洋かぶれの風潮を批判するとともに、我が国本来の優れた思想や文化を保存あるいは発展させながら新しい文化を創造すべきであるとする国粋(こくすい)保存主義を唱えました。また、陸羯南(くがかつなん)は新聞「日本」を発行し、政府による安易な欧化主義や外国人判事の任用など、欧...

  • 思想界・宗教界の動向 その1

    我が国の独立を守り、欧米列強から侵略されないようにという目的から、我が国は明治初年から西洋文明を急速に受けいれました。こうした流れは庶民(しょみん)の生活にまで及び、いわゆる文明開化が花開いたほか、条約改正のために鹿鳴館(ろくめいかん)を建設して、連日のように舞踏会を開くなどの欧化主義にも走るようにもなりました。しかし、こういった古来の我が国の伝統を軽視する風潮は明治20(1887)年前後になると治まり...

  • 社会運動の発生 その10

    自らの思想の達成のためには「天皇暗殺」すら何のためらいもなく実行しようという考えから起きた大逆事件は、当時の我が国や政府に激しい衝撃(しょうげき)を与えましたが、そもそも社会主義運動がこれだけ大きな騒ぎを引き起こした背景には、過酷な労働条件に苦しむ当時の賃金労働者たちの「声なき声」がありました。そう判断した政府は、大逆事件の判決が出た年と同じ明治44(1911)年に工場法を制定し、12歳未満の雇用の禁止や...

  • 社会運動の発生 その9

    当時の刑法第73条に基づく大逆罪で起訴された幸徳ら26人に対して、裁判所は明治44(1911)年に全員に対して有罪判決を下し、幸徳を含む12人が処刑されました。ところで、大逆事件の真相に関しては、幸徳がどこまで天皇暗殺にかかわっていたのかなど不明な点も多く、政府による捏造(ねつぞう)ではないかという見方もあるようです。ただ、当時の政府(第二次桂内閣)からしてみれば、前任者(第一次西園寺内閣)が社会主義に寛容だ...

  • 社会運動の発生 その8

    赤旗事件が起きた際、幸徳秋水は郷里の高知にいて難を逃れましたが、事件発生後に上京して勢力の立て直しをはかったことで、無政府主義者の秘密行動が活発化しました。しかし、無政府主義者の運動は思ったよりも伸び悩みました。産業革命によって我が国にも労働者階級と資産階級との貧富の差が生じつつありましたが、そもそも我が国には「天皇陛下の前では全員が平等である」という国民の根強い思いがあったことや、無政府主義の長...

  • 社会運動の発生 その7

    当初は労働運動の擁護(ようご)が中心だった社会主義運動は、日露戦争を経て次第に政治運動へと傾いていきました。明治39(1906)年に日本社会党が結成されると、社会主義運動に寛容だった当時の第一次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣がこれを許可しました。しかし、間もなく日本社会党内部で対立が生じました。片山潜らが議会を通じて社会主義政策を達成すべきとする議会政策派だったのに対して、懲役後の渡米の際に無政府...

  • 社会運動の発生 その6

    さて、我が国で労働運動が展開しつつあった明治31(1898)年、安倍磯雄(あべいそお)や片山潜、幸徳秋水(こうとくしゅうすい)らが社会主義研究会を立ち上げ、次いで明治34(1901)年には木下尚江(きのしたなおえ)らを加えて、我が国初の社会主義政党である社会民主党を結成しましたが、治安警察法によって直ちに解散を命じられました。その後、日露の対立が深まり戦争の可能性が高まると、黒岩涙香(くろいわるいこう)が発行...

  • 社会運動の発生 その5

    19世紀の欧米では、工業化の進展に伴って労働問題が深刻化しましたが、そんな中で、資本主義社会を抜本的に改革しようとする社会主義の思想が広まりました。特に、マルクスによる「貧富の差を憎むとともに、私有財産制をやめて資本を人民で共有する」という共産主義の考えは、当時プロレタリアートと呼ばれた賃金労働者の人々から熱烈な支持を受けました。そもそもヨーロッパでは、長い歴史の中で王族や貴族、あるいは騎士や商人な...

  • 社会運動の発生 その4

    労働者は、企業を支える貴重な労働力の対価として報酬を得ますが、その待遇に関しては、使用者との間で様々な問題が発生するのが常(つね)でもあります。それは日清戦争の頃に本格化した我が国の産業革命の時期においても例外ではなく、待遇改善や賃上げを求めてストライキが行われるようになりました。そんな中、アメリカの労働運動を学んだ高野房太郎(たかのふさたろう)や片山潜(かたやません)らが、帰国後の明治30(1897)...

  • 社会運動の発生 その3

    足尾鉱毒事件は当時の大きな社会問題となり、地元の衆議院議員の田中正造(たなかしょうぞう)が帝国議会で取り上げたことで政治問題に発展しました。議会において、田中は毎回のように政府に鉱毒事件への善処と被害者の救済を主張し続けました。しかし、政府は対策に苦慮(くりょ)することになりました。田中の主張どおりに銅山での採掘を停止すれば、貴重な輸出品が失われるだけでなく、国内の生産力も低下し、全国の商工業にお...

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