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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

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2012/08/07

1件〜100件

  • 戦国大名による領国支配 その2

    戦国大名の中には、家臣団を統制したり、あるいは領国を安定して支配したりするために、基本法となる分国法(ぶんこくほう、別名を家法=かほう)を制定する者もあらわれました。分国法はそれまでの幕府や守護によって定められた法を継承したほか、家の慣習法を成文化したものが多く、また私闘を行った当事者の双方を処罰してすべての紛争を大名による裁定に委ねるという喧嘩両成敗法(けんかりょうせいばいほう)によって、家臣団...

  • 戦国大名による領国支配 その1

    自らの地位を実力で手に入れた戦国大名は、武力によって領地や領民を強力に支配していきました。彼らは服属させた国人(こくじん)や地侍(じざむらい、大名や国人などと主従関係を結んだ有力農民のこと)らを新たに家臣に組み入れました。国人や地侍らの収入の基準には耕地に課せられた税を銭に換算した貫高(かんだか)が用いられ、彼らの地位や収入を保障する代わりに貫高に見合った一定の軍役(ぐんやく)を負担させました。こ...

  • 戦国大名の登場 その3

    北陸では、越前(えちぜん、現在の福井県北東部)の守護大名であった斯波(しば)氏が守護代の朝倉(あさくら)氏によって政治の実権を奪われました。また、越後(えちご、現在の新潟県)では関東管領の上杉氏の守護代であった長尾(ながお)氏から景虎(かげとら)が出て、後に関東管領を継いで「上杉謙信(うえすぎけんしん)」と名乗りました。甲斐(かい、現在の山梨県)では守護大名だった武田(たけだ)氏がそのまま戦国大名...

  • 戦国大名の登場 その2

    それでは、各地の戦国大名の動きを見てみましょう。まず関東ですが、鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利持氏(あしかがもちうじ)が永享(えいきょう)11(1439)年の永享の乱で敗死した後は、関東管領(かんとうかんれい)の上杉氏が実権を握っていました。しかし、後に鎌倉公方が下総(しもうさ、現在の千葉県北部など)の古河公方(こがくぼう)と伊豆(いず、現在の静岡県南東部など)の堀越公方(ほりごえくぼう)とに分裂する...

  • 戦国大名の登場 その1

    ※今回より「第91回歴史講座」の内容の更新を開始しますす(9月22日までの予定)。応仁の乱を経て室町幕府の権威は有名無実と化し、幕府の実権をめぐって内部の権力争いが激化しました。幕府の実権は、当初は管領(かんれい、将軍を補佐して幕政を統轄する役職のこと)の細川(ほそかわ)氏が握りましたが、細川晴元(ほそかわはるもと)が執事(しつじ)の三好長慶(みよしながよし)の台頭を許し、その長慶も家臣の松永久秀(まつ...

  • 大東亜戦争の始まり その11

    ※「昭和時代・戦中」の更新は今回で中断します。明日(8月11日)からは「第91回歴史講座」の内容を更新します(9月22日までの予定)。これまで述べてきたように、大東亜戦争の緒戦において我が国は快進撃を見せており、もし戦局が有利な段階で諸外国との講和が結ばれていれば、戦争を勝利のうちに終わらせることは十分に可能でした。大東亜戦争は決して「無謀な戦争」ではなく、当時の軍事力や国力の比較からすれば、日清戦争ある...

  • 大東亜戦争の始まり その10

    統帥権干犯問題によって、事実上「軍部は政府のいうことを聞く必要がない」こととなりましたが、では「陸軍と海軍とが対立した場合」はどうなるのでしょうか。実は、陸海軍お互いが同等の統帥権を持っていたがゆえに、その場合の根本的な解決方法は何も存在しませんでした。例えば、陸軍大将でもあった東條英機首相は陸軍大臣も兼任していましたが、彼が海軍に命令することはできませんでした。東條首相は後に陸軍の軍令機関のトッ...

  • 大東亜戦争の始まり その9

    ところが、当時の野党であった立憲政友会が「政争の具」として軍部と一緒になって当時の内閣を攻撃したことが、憲政を擁護(ようご)する立場であるはずの政党政治に致命的な打撃を与えてしまいました。なぜなら、政党政治を行う立場である政党人自らが「軍部は政府のいうことを聞く必要がない=内閣は軍に干渉できない」ことを認めてしまったからです。事実、この問題をきっかけとして、我が国では軍部の独走を事実上誰も止められ...

  • 大東亜戦争の始まり その8

    日露戦争と大東亜戦争とを比較した場合、まず目立つのは「人材の差」です。日露戦争の頃には明治天皇の厚い信任を受けた「維新の元勲(げんくん、国家に尽くした大きな功績のある人のこと)」たる「元老(げんろう)」が存在しており、戦争の際に彼らが指導権を握ることが当然と思われていました。しかし、昭和に入る頃には元老の多くが死に絶えており、権威が必然的に低下したことで、彼らが推薦して組織された内閣の指導力も同時...

  • 大東亜戦争の始まり その7

    他国と戦争となった場合、勝利を得るために「戦略」を練って戦い続けるのは軍人の役割ですが、彼らには戦争を終わらせることができません。戦争終結は外交努力の結果であり、それは「政略」を行う政治家の仕事です。我が国が日露戦争で勝利できたのも、この「大原則」に従ったからであり、明治政府は我が国の国力の限界を見極めたうえで、長期戦と化して日本軍が劣勢(れっせい)となる前に戦争を終わらせるため、ロシアとの開戦前...

  • 大東亜戦争の始まり その6

    大東亜戦争より前に、我が国は圧倒的な国力の差がある相手と戦った経験がありました。もちろん日露(にちろ)戦争のことです。日露戦争において我が国は様々な戦いを苦労の末に勝ち抜いてきましたが、奉天(ほうてん、現在の瀋陽=しんよう)会戦を制し、また日本海海戦に勝利したあたりで戦力が限界に達しました。このまま戦いを続ければ、国力に勝るロシアの逆襲も十分に考えられましたが、国内の政情不安に悩まされたロシアがア...

  • 大東亜戦争の始まり その5

    我が国では、毎年正月に皇族の方々や一般の国民が、一つのお題に対して和歌を詠(よ)む「歌会始(うたかいはじめ)」という行事がありますが、大東亜戦争が始まった直後の昭和17(1942)年の歌会始で、昭和天皇は以下の御製(ぎょせい、天皇による和歌のこと)をお詠みになられました。「峰つづき おほふむら雲 ふく風の はやくはらへと ただいのるなり」厚い雲のように世界全体を巻き込んだ戦争が早く終わってほしい、という...

  • 大東亜戦争の始まり その4

    昭和17(1942)年4月、東條英機(とうじょうひでき)内閣の下で、前回からの任期を1年間延長したうえで、大東亜戦争中に唯一となった衆議院の総選挙が行われました。この選挙では、阿部信行(あべのぶゆき)元首相を会長とする翼賛(よくさん)政治体制協議会が推薦(すいせん)する候補者が、定員の466人中381議席(全体の8割強)を得て絶対多数となり、協議会に所属する議員は選挙後に翼賛政治会を結成し、政府による政策に協力...

  • 大東亜戦争の始まり その3

    大東亜戦争における緒戦の勝利によって、日本軍は開戦後わずか半年で東南アジアと西・南太平洋の広大な地域を占領下に置きました。日本軍の快進撃によって、かつての欧米列強の植民地は次々と解放されましたが、搾取(さくしゅ)を中心とした劣悪(れつあく)な環境で過ごしてきた現地の人々は、憎悪(ぞうお)の対象であった白色人種の列強の兵士が、自分たちと同じ有色人種の日本軍によって駆逐(くちく)される様子に歓喜しまし...

  • 大東亜戦争の始まり その2

    さて、真珠湾攻撃が行われた同じ昭和16(1941)年12月8日未明、マレー半島に上陸した日本陸軍は、山下奉文(やましたともゆき)陸軍中将の指揮の下でイギリスを相手に快進撃を続けた一方で、12月10日には、日本海軍航空隊がマレー沖の航空戦によって、イギリスが世界に誇る新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」並びに巡洋戦艦「レパルス」を撃沈(げきちん)しました。東洋艦隊を壊滅状態に追い込んだことで対英戦争の大勢を決...

  • 【ハイブリッド方式】第91回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和4年7月)

    黒田裕樹の歴史講座は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合が...

  • 大東亜戦争の始まり その1

    先述のとおり、昭和16(1941)年12月8日(日本時間)に日米開戦となりましたが、開戦直後に日本政府は、この戦争の名称を、昭和12(1937)年に始まった日華(にっか)事変(=日中戦争)も含めて「大東亜戦争」と命名したほか、自存自衛と東亜新秩序の建設をその目的と定め、戦争の遂行(すいこう)に欠かせない資源を確保するために、アメリカやイギリス、あるいはオランダが植民地を有する南方諸地域への進出を強めました。日本...

  • 真珠湾攻撃に秘められた真実 その11

    さて、ここまでフランクリン=ルーズベルト大統領のアメリカに対する功績などを振り返りましたが、その一方で、当時の我が国にルーズベルト大統領の工作や謀略などに太刀打ちできるだけの人材が存在しなかったことが、当初は望んでもいなかった日米開戦を行わざるを得なかったという歴史の流れにつながったとも考えられます。繰り返しますが、私たち日本国民が、ルーズベルト大統領による一連の手法を「卑劣」であると一方的に断じ...

  • 真珠湾攻撃に秘められた真実 その10

    これらの歴史の流れを考慮すれば、フランクリン=ルーズベルト大統領が手段を選ばずにアメリカの国益だけを追求したからこそ、経済復興を成し遂げることができたのは間違いなく、その意味においては、ルーズベルト大統領が「アメリカの最高責任者」としての役割を十分に果たしたと言えるでしょう。ただし、アメリカのもう一つの悲願であった「東アジアにアメリカの権益を構築する」ことは、ルーズベルト大統領が1945(昭和20)年に...

  • 真珠湾攻撃に秘められた真実 その9

    1933(昭和8)年にアメリカ大統領に就任したフランクリン=ルーズベルトは、世界恐慌(きょうこう)がもたらした不況にあえぐアメリカ経済を立て直すためにニューディール政策を始めましたが次第に行きづまり、失業者が増加するなど経済的に疲弊(ひへい)していました。こうした事態を打開するためには、イギリスの要請を受けて第二次世界大戦に参加し、戦争がもたらす様々な特需によって経済を発展させるしかないとルーズベルト...

  • 真珠湾攻撃に秘められた真実 その8

    ところで、先制攻撃させるよう我が国を過剰に追いつめただけでなく、真珠湾攻撃の際に自国の兵士数千人を「見殺し」にしたフランクリン=ルーズベルト大統領の当時の行動に対して、私たち日本人の多くが卑劣であると強く思うのは分からなくもありません。しかし、大統領の行動を卑劣と感じるということは、裏を返せば、我々が第二次世界大戦当時から「全く成長していない」ことを示している、とも言えるのではないでしょうか。なぜ...

  • 真珠湾攻撃に秘められた真実 その7

    当時のイギリスは、勢いに乗るドイツの攻撃によって、本土を空爆されるなど追いつめられていました。こうした事態を打開するためには、アメリカをヨーロッパ戦線に引き込む以外にないと覚悟を決めたチャーチル首相は、フランクリン=ルーズベルト大統領と連携(れんけい)して、日本にアメリカを先制攻撃させるよう仕向けてきました。そして我が国が真珠湾攻撃を行うと、チャーチルは「これで戦争に勝った」と心から喜ぶとともに「...

  • 真珠湾攻撃に秘められた真実 その6

    では真珠湾攻撃が行われた前後に、アメリカの最高責任者であるフランクリン=ルーズベルト大統領は何をしていたのでしょうか。暗号の解読によって事前に攻撃されるのが分かっている以上、ルーズベルト大統領をはじめ政府首脳は、日本軍による攻撃の回避や、あるいはアメリカからの先制攻撃の可能性を探るなど、それこそホワイトハウスに缶詰状態となって最大限の努力を重ねるのが当然のはずです。しかし、実際に彼が攻撃前夜に取っ...

  • 真珠湾攻撃に秘められた真実 その5

    もしフランクリン=ルーズベルト大統領が、我が国による真珠湾攻撃を事前に察知していたのであれば、かけがえのない自国民や兵隊らを守るために最大限の努力をするのが当然のはずですが、現実に彼がとった行動は、疑問符が付くようなことばかりでした。まず真珠湾攻撃の以前、アメリカがハル・ノートを我が国に通告した直後に、真珠湾を母港とする2隻(せき)の航空母艦(=空母)すべてが、本国の命令によって新鋭艦を伴って出港...

  • 真珠湾攻撃に秘められた真実 その4

    さて、これまでに述べたように、昭和16(1941)年12月8日に我が国がハワイの真珠湾を攻撃したことによって、日米はついに開戦を迎えることになりました。その際、我が国の大使館員の怠慢によって、フランクリン=ルーズベルト大統領が「日本軍による騙し討ち」と喧伝して「リメンバー・パールハーバー」と唱えたことで、それまで反戦気分の強かったアメリカ国民の我が国に対する敵愾心(てきがいしん)を一気に高め、国家を挙げて...

  • 真珠湾攻撃に秘められた真実 その3

    我が国が奇襲で真珠湾攻撃を行ったと「誤解」されたこと自体は、戦後に開かれた極東国際軍事裁判(=東京裁判)において「日本が真珠湾攻撃を事前に通告する意思があった」と認められましたが、こうした「日本に有利な事実」は、我が国や世界の常識となる機会に恵まれず、フランクリン=ルーズベルト大統領が喧伝した「リメンバー・パールハーバー」の精神が今もなおアメリカの間で広がりを見せています。一方、これだけの弁解の余...

  • 真珠湾攻撃に秘められた真実 その2

    開戦前日(現地時間で12月6日)の午前中に、外務省は野村吉三郎(のむらきちさぶろう)駐米大使に向けて、「これから重大な外交文書を送るから準備しておくように」という予告電報を送りました。当時は開戦前夜の雰囲気(ふんいき)がいやがうえにも高まっていることから、万全の態勢を整えて電報の到達を待つのが常識のはずでした。ところが、日本大使館の職員が、同僚の送別会を行うために総出で引き上げてしまったことで、国交...

  • 真珠湾攻撃に秘められた真実 その1

    ※今回より「昭和時代・戦中」の更新を開始します(8月10日までの予定)。昭和16(1941)年12月8日(日本時間)、山本五十六(やまもといそろく)司令長官率いる日本海軍連合艦隊は、ハワイ真珠湾に停泊していたアメリカ太平洋艦隊を攻撃しました。かくして日米両国がついに戦争を始めた訳ですが、日本軍による真珠湾攻撃を「卑怯(ひきょう)な奇襲」とフランクリン=ルーズベルト大統領が主張したことによって、アメリカの世論は...

  • 室町文化 その16

    ※「第90回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(7月20日)からは「昭和時代・戦中」の更新を開始します(8月10日までの予定)。ところで、この当時の一向宗や日蓮宗、さらには比叡山延暦寺の天台宗(てんだいしゅう)といった宗教勢力同士の争いの背景には、布教地における莫大な利権がありました。宗教勢力は、布教地の要所ごとに関所を置いて通行税を徴収したり、あるいは布教地に座(ざ)を設けて、商売を許可...

  • 室町文化 その15

    一方、当初は東国を中心に発展した日蓮宗(にちれんしゅう、または法華宗=ほっけしゅう)は、室町時代には京都にも勢力を伸ばしましたが、蓮如と同じ頃に出た日親(にっしん)は、他の宗派を厳しく非難したことでしばしば迫害を受けました。日親が6代将軍の足利義教の前で説法(せっぽう)した際には、激怒した義教に煮えたぎった熱い鍋を頭からかぶせられたという伝説が残っています。京都の商工業者を中心に支持を受けた日蓮宗...

  • 室町文化 その14

    鎌倉仏教の一つである浄土真宗(じょうどしんしゅう)は「一向宗(いっこうしゅう)」とも呼ばれ、室町時代には農民から運送業者や行商人あるいは手工業者などにも広まりました。本願寺(ほんがんじ)の蓮如(れんにょ、別名を兼寿=けんじゅ)は、応仁の乱の頃に「阿弥陀仏(あみだぶつ)の救いを信じれば誰でも極楽往生(ごくらくおうじょう)できる」という教えを「御文(おふみ)」と呼ばれた平易な文章で説いて、各地で「講(...

  • 室町文化 その13

    鎌倉時代に広まった新仏教の各派は、室町時代に入ると教団としての組織を完成させ、武士や庶民に、そして都市や農村へと勢力を拡大していきました。当初は幕府の保護を受けた臨済宗の五山が大いに栄えましたが、応仁の乱などで幕府が衰退すると、その勢いが失われていきました。これに対して、より自由な活動を求めて地方への布教を目指した禅宗諸派が、地方の武士や庶民の支持を受けて各地に広がっていきました。禅宗諸派は「叢林...

  • 室町文化 その12

    応仁の乱によって京都が焼け野原になり、公家や僧侶(そうりょ)が戦火を逃れて続々と地方へ下るようになると、領国の内政が充実して中央の文化を受け入れるだけの余裕が生まれていた戦国大名などの地方の武士が積極的に彼らを迎えたことで、戦国時代の頃には文化が地方にまで広がっていきました。なかでも日明貿易で莫大(ばくだい)な利益を上げていた周防(すおう、現在の山口県東部)の大内氏が有名であり、本拠地の山口では儒...

  • 室町文化 その11

    南北朝時代に和歌と同様の地位を築いた連歌は、応仁の乱後に宗祇(そうぎ)が全国を回って普及に努め、正風連歌(しょうふうれんが)を確立しました。宗祇が編集した「新撰莬玖波集(しんせんつくばしゅう)」が先述した二条良基の「莬玖波集」と同様に勅撰(ちょくせん、天皇や上皇の命令で歌集などを編集すること)に準ぜられたほか、弟子たちと詠(よ)みかわした連歌を集めて「水無瀬三吟百韻(みなせさんぎんひゃくいん)」を...

  • 室町文化 その10

    室町時代には、惣村(そうそん)の成立などによって庶民の社会的地位が向上したこともあって、それまでの武家や公家のみならず、庶民が文化の担い手として広く参加するようになりましたが、それらはやがて地方へも波及して、近世の我が国の文化の基礎ともなっていきました。当初は3代将軍足利義満の保護を受けるなど上流社会に愛好された能も、時が経つにつれてより素朴(そぼく)で娯楽性(ごらくせい)が強いものが各地の祭礼な...

  • 室町文化 その9

    我が国の伝統文化を代表する茶道(ちゃどう、または「さどう」、別名を茶の湯)や花道(かどう、別名を華道=かどう、あるいは生花=いけばな)も、この時代に基礎がつくられました。茶の湯では、奈良の村田珠光(むらたじゅこう)が質素な茶室で心の平静を求めるという茶と禅による精神の統一を主張した侘茶(わびちゃ)を始めました。この後、侘茶は堺の武野紹鴎(たけのじょうおう)が発展させ、千利休(せんのりきゅう)によっ...

  • 室町文化 その8

    書院造のような新しい住宅様式の成立は、掛軸(かけじく)や襖絵(ふすまえ)などの絵画や、床の間を飾る生花(いけばな)や工芸品などの座敷の装飾を発展させる効果をもたらしました。絵画では、北山文化で発達した水墨画が、この頃に活躍した僧の雪舟(せっしゅう)が日本的な水墨画様式を創造して全盛期を迎えました。また大和絵(やまとえ)では応仁の乱後に土佐光信(とさみつのぶ)が出て土佐派を再興したほか、狩野正信(か...

  • 【ハイブリッド方式】黒田裕樹の東京歴史塾のお知らせ(令和4年7月)

    黒田裕樹の東京歴史塾は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...

  • 室町文化 その7

    北山文化で開花した室町文化は、その芸術性が生活の中に取り込まれたことで新たな独自の文化を根付かせました。義満の孫にあたる8代将軍足利義政は、政治的には応仁の乱の原因をつくるなど失策ばかりでしたが、その一方で京都の東山に「銀閣(ぎんかく)」を建てました。現在は慈照寺(じしょうじ)として知られる銀閣は、書院造(しょいんづくり)と禅宗様の仏殿(ぶつでん)から成り立っており、当時の文化を象徴する建築である...

  • 室町文化 その6

    神事(しんじ)芸能として平安後期の院政時代から行われてきた田楽(でんがく)や猿楽(さるがく)などが能楽(のうがく)という舞台芸術として大成されたことで、多くの人々に親しまれるようになったのも北山文化の頃でした。能の発達は、やがて寺社の保護を受けて専門的に能を演じる能楽師(のうがくし)を生み出し、興福寺(こうふくじ)などを本所とした観世(かんぜ)・宝生(ほうしょう)・金春(こんぱる)・金剛(こんごう...

  • 室町文化 その5

    五山の禅僧にはチャイナからの渡来(とらい)僧やチャイナから帰国した留学僧が多かったことから、彼らの間で宋学(そうがく)の研究や漢詩文の研究が盛んとなり、義満の頃に中巌円月(ちゅうがんえんげつ)や絶海中津(ぜっかいちゅうしん)、義堂周信(ぎどうしゅうしん)らの学僧によって「五山文学」が成立しました。また、宋からもたらされた木版(もくはん)に文章や絵を彫(ほ)って版をつくる木版技術によって禅の経典や漢...

  • 室町文化 その4

    室町幕府3代将軍の足利義満は、京都の北山に壮麗(そうれい)な山荘である北山第(きたやまてい、別名を北山殿=きたやまどの)を建てましたが、そのうちの「金閣(きんかく)」は我が国の伝統的な寝殿造(しんでんづくり)と禅宗寺院の禅宗様(ぜんしゅうよう)とを折衷(せっちゅう)したものであり、当時の文化を代表する建築として知られていることから、この時代の文化を「北山文化」といいます。鎌倉時代に栄西によって武家...

  • 室町文化 その3

    「此頃(このごろ)都(みやこ)ニハヤル物 夜討(ようち) 強盗 謀(にせ)綸旨(りんじ、側近が出す天皇の命令書のこと)」で始まる「二条河原落書(にじょうがわらのらくしょ)」は、建武の新政当時の混乱する政治や社会を風刺(ふうし)した落書(らくしょ)として有名ですね。南北朝時代の頃までには、和歌における「五・七・五・七・七」の韻律(いんりつ)を基盤として複数の作者が連作する形式でつくられた「連歌(れんが...

  • 室町文化 その2

    朝廷が二つに分裂した南北朝の動乱期には、激しい戦いが続いたことによって高まった緊張感や、南朝に悲劇がもたらされたという複雑な歴史が、様々な特色をもった歴史書や軍記物語などの文学作品を生み出しました。後醍醐(ごだいご)天皇の信任が厚かった南朝の公卿(くぎょう)の北畠親房(きたばたけちかふさ)は、伊勢神道(いせしんとう)の理論を背景として、南朝の立場から我が国の長い歴史を通じて皇位が継承されてきたこと...

  • 室町文化 その1

    室町時代の文化には、南北朝の動乱期を背景とした南北朝文化や3代将軍の足利義満の時代を中心とした北山(きたやま)文化、8代将軍足利義政の時代を中心とした東山(ひがしやま)文化があります。これらの文化の大きな特徴として、それまで東国を中心に栄えていた武家文化が、室町幕府が京都に置かれたことで公家(くげ)文化と融合したほか、我が国の伝統的な文化が、明や朝鮮など東アジアとの活発な交流に伴って大陸文化と融合し...

  • 朝鮮・琉球・蝦夷との交易 その4

    一方、蝦夷地(えぞち)では、14世紀の頃に渡島(おしま)半島在住のアイヌが津軽との間を往来して、鮭・昆布・毛皮などの北海の産物を我が国にもたらしていました。これらは津軽の十三湊(とさみなと、現在の青森県五所川原市)と畿内とを結ぶ日本海交易によって、京都にまで運ばれました。やがて奥州の住人の中から蝦夷ヶ島(えぞがしま)と呼ばれた北海道の南部に進出し、渡島半島に館(やかた)をつくって移住する人々も現れま...

  • 【ハイブリッド方式】黒田裕樹の日本史道場のお知らせ(令和4年7月)

    黒田裕樹の日本史道場は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...

  • 朝鮮・琉球・蝦夷との交易 その3

    15世紀に入った頃の沖縄島では、北山(ほくざん、別名を山北=さんほく)・中山(ちゅうざん)・南山(なんざん、別名を山南=さんなん)のいわゆる三山(さんざん)による勢力争いが続いていましたが、中山王の尚巴志(しょうはし)が永享(えいきょう)元(1429)年に三山を統一して、首里(しゅり)を王府とする琉球王国をつくり上げました。琉球は明との藩属国(はんぞくこく、明を宗主国とすること)の関係を保ちながら我が国...

  • 朝鮮・琉球・蝦夷との交易 その2

    朝鮮は日朝貿易のために富山浦(ふざんほ、現在の釜山=ふざん)・乃而浦(ないじほ、別名を薺浦=せいほ)・塩浦(えんぽ、現在の蔚山=うるさん)の三浦(さんぽ、三つの港のこと)を開いて、また我が国からの使節の接待と貿易の管理を行うために、首都の漢城(かんじょう、別名を漢陽=かんよう、現在のソウル)に倭館(わかん)を設けました。日朝貿易は、応永26(1419)年に朝鮮が倭寇の本拠地を対馬と誤認して襲撃した「応永...

  • 朝鮮・琉球・蝦夷との交易 その1

    14世紀後半以降の朝鮮半島では、倭寇の討伐で名を挙げた李成桂(りせいけい)が1392年に高麗(こうらい)を倒して、新たに「朝鮮」を建国しました。朝鮮が我が国に倭寇の禁止と通交とを求めると、足利義満がこれらに応じたので、日朝両国は国交を開きました。我が国と朝鮮との日朝貿易は、幕府の他にも守護大名や有力国人(こくじん、地方豪族のこと)、あるいは商人までもが参加したために、貿易船の数が非常に多くなりました。こ...

  • 倭寇と日明貿易 その3

    貿易における我が国からの輸出品は刀剣や鎧(よろい)などの武具、銅や硫黄(いおう)などの鉱産物、扇や屏風(びょうぶ)などの工芸品が中心であり、輸入品は銅銭(どうせん)が圧倒的に多く、その他には生糸(きいと)や高級織物などが輸入されました。なお、銅銭は先述のとおり「明銭(みんせん)」として普及し、我が国の貨幣の流通に大きな影響をもたらしました。しかし、明の永楽帝(えいらくてい)の名が入った「永楽通宝」...

  • 倭寇と日明貿易 その2

    14世紀の半ば頃までには元の勢力は衰え、1368年に朱元璋(しゅげんしょう)によって明(みん)が建国されました。明は倭寇の鎮圧や密貿易の禁止のために海禁政策をとるとともに、チャイナにとって伝統的な中華思想に基き近隣諸国に対して朝貢外交を求めると、前回(第89回)述べたとおり、3代将軍の足利義満がこれに応じるかたちになりました。こうして始まった日明貿易ですが、明から交付された勘合(かんごう)という証明書を両...

  • 倭寇と日明貿易 その1

    13世紀に起きた元寇(げんこう)の後、元(げん)と我が国との間に正式な外交関係は存在しませんでしたが、私的な商船の往来が続けられていました。正中(しょうちゅう)2(1325)年には建長寺(けんちょうじ)の再建費用を得るために北条(ほうじょう)氏によって建長寺船が、南朝の興国(こうこく)3年/北朝の康永(こうえい)元(1342)年には天龍寺(てんりゅうじ)の建立(こんりゅう)費用のために、足利尊氏によって天龍寺...

  • 農業や商工業の発達 その5

    貨幣経済の発達は金融機関の活動をうながしました。酒屋などの富裕な商工業者が高利貸しである土倉(どそう)を兼ねるようになり、幕府は彼らを保護する代わりに土倉役(どそうやく、別名を倉役=くらやく)や酒屋役(さかややく)などの営業税を課しました。なお、本来はお酒を造っていた酒屋でしたが、売上げが伸びて多額の資本を持ったことで、次第に金貸しなどの様々な業種を扱うようになりました。また土倉の名は、金貸しが質...

  • 農業や商工業の発達 その4

    商品経済の発達は必然的に貨幣(かへい)の流通をもたらしましたが、国内で貨幣が発行されなかったために、従来の宋銭(そうせん)とともに永楽通宝(えいらくつうほう)などの明銭(みんせん)が大量に輸入されました。また、遠隔地の取引が拡大したことで、現金を直接送付する場合のリスクを避けるため、為替(かわせ)手形の一種である割符(さいふ)の利用も盛んとなりました。その一方で、需要の増大とともに粗悪(そあく)な...

  • 農業や商工業の発達 その3

    商品経済の発達によって、各地における取引が盛んとなりました。地方においても、それまでの月に三度開かれた三斎市(さんさいいち)から、応仁の乱後には月に六度の六斎市(ろくさいいち)が一般的になりました。また、連雀(れんじゃく)商人や振売(ふりうり)と呼ばれた行商人が各地で活動し、薪(まき)や炭などを頭に乗せて売り歩く大原女(おおはらめ)などの女性の活躍も目立ちました。この他、京都や奈良・鎌倉などの大都...

  • 農業や商工業の発達 その2

    農民による物資の需要がもたらした商品経済の発達は地方の産業の繁栄につながり、その結果として加賀や丹後(たんご、現在の京都府北部)の絹織物や美濃(みの、現在の岐阜県南部)の美濃紙(みのがみ)、尾張(おわり、現在の愛知県西部)や近江の陶器(とうき)、河内(かわち、現在の大阪府東部)の鍋(なべ)など各地の特色を生かした様々な特産品が製造されるようになりました。製塩(せいえん)は瀬戸内海の沿岸で盛んに行わ...

  • 農業や商工業の発達 その1

    室町時代の農業は、生産性を高める目的で集約化あるいは多角化が進められたのが大きな特徴です。灌漑(かんがい)や排水設備が整備されたことで、畿内ではそれまでの二毛作(にもうさく)に加えて米・麦・蕎麦(そば)の三毛作(さんもうさく)が行われるようになりました。また、水稲(すいとう)の改良が進んだことで、早稲(わせ)・中稲(なかて)・晩稲(おくて)など地方の風土に応じた品種が栽培(さいばい)されるようにな...

  • 惣村の形成と土一揆 その3

    正長の土一揆をきっかけとして、近畿地方やその周辺各地において実力による強引な債務放棄や売却地の取戻しがたびたび発生し、中には正長2(1429)年の「播磨(はりま、現在の兵庫県南西部)の土一揆」のように、領主である守護の赤松(あかまつ)氏の軍に国外退去を迫るといった政治的要求を掲(かか)げるものもありました。足利義教が暗殺された後の政治の混乱時に起きた嘉吉(かきつ)元(1441)年の「嘉吉の土一揆(嘉吉の徳...

  • 惣村の形成と土一揆 その2

    惣による強い団結心を持つようになった惣村の農民は、折からの下剋上の風潮とも相まって、不法を働く荘官(しょうかん)などの役人の免職や不作の場合の年貢の減免を求めて、一定の集団の盟約行為や連帯行動全般を意味する「一揆」を結びました。農民たちは正式な手続きを踏まずに領主のもとに押しかける強訴(ごうそ)や、全員が耕作を放棄して他領や山林に逃げ込むという逃散(ちょうさん)を行ったり、さらには武力によって反抗...

  • 惣村の形成と土一揆 その1

    鎌倉時代末期から室町時代にかけて、畿内(きない)やその周辺地域では荘園領主や守護、あるいは盗賊に対する自衛のために地域的な村落(そんらく)が自然発生しましたが、やがてそれらは農民たちによる自治的あるいは自立的な組織となりました。このような村を「惣(そう)」あるいは「惣村(そうそん)」といいます。惣村では、結合の中心となった宮座(みやざ)と呼ばれる神社の氏子(うじこ)組織による村の神社の祭礼や農業に...

  • 応仁の乱と下剋上 その5

    応仁の乱は約10年間続きましたが、守護大名が京都で戦っているうちに、先述のとおり大名の領国では守護代や国人たちが力を伸ばし、大名から領国の支配権を奪っていきました。また、国人たちは領主権を確保するために、地域的な集団として各地で「国人一揆(いっき)」を結成しましたが、その範囲は一部の地域から国内、さらには隣国へと広がるとともに、地域住民も広く組織に入れて周辺の秩序を守る「国一揆(くにいっき)」を結ぶ...

  • 応仁の乱と下剋上 その4

    義視が西軍に属したことで、応仁の乱の戦いの構図は、当初の「足利義政―足利義視―細川勝元vs.日野富子―足利義尚―山名宗全」から「細川勝元―足利義政―日野富子―足利義尚vs.山名宗全―足利義視」という形式となり、敵と味方とが完全に「ねじれ現象」となってしまいました。これでは何のために戦っているのか分かりません。戦いの当事者たちにもいつしか厭戦(えんせん、戦争をするのをいやに思うこと)の気分が盛り上がってきましたが...

  • 応仁の乱と下剋上 その3

    応仁の乱が起きた後、有力な守護大名が細川氏あるいは山名氏に所属したり、あるいは分裂して両軍それぞれについたりしたので、戦いの規模はますます大きくなりました。なお、両者の位置関係から細川氏側が東軍、山名氏側が西軍と呼ばれており、また京都の「西陣(にしじん)」という地名は、山名氏が京都の堀川(ほりかわ)より西に陣を置いたことが由来となっています。緒戦の戦いは山名氏に優位に展開しましたが、細川氏が巻き返...

  • 応仁の乱と下剋上 その2

    一日も早く隠居がしたかった義政は、弟の足利義視(あしかがよしみ)を養子として後継者に迎えましたが、その直後に日野富子との間に男子(後の足利義尚=あしかがよしひさ)が生まれてしまいました。義視からすれば、一度約束された将軍後継の地位を反故(ほご)にされてはたまったものではありませんし、義尚(よしひさ)の母の富子からすれば、自分がお腹を痛めて産んだ我が子が将軍後継になれないことほど愚かな話はありません...

  • 応仁の乱と下剋上 その1

    ※今回より「第90回歴史講座」の内容の更新を開始します(7月19日までの予定)。足利義教(あしかがよしのり)の死後に幕府の権威が著しく低下した理由の一つに「将軍の後継者不足」がありました。義教は天台座主(てんだいざす)から還俗(げんぞく、一度出家した者がもとの俗人に戻ること)して将軍になったため、暗殺された当時に二人いた男子がまだ幼かったのです。義教の後を継いで嘉吉(かきつ)2(1442)年に7代将軍となった...

  • ついに開戦へ その8

    ※「昭和時代・戦前」の更新は今回が最後となります。明日(6月14日)からは「第90回歴史講座」の内容を更新します(7月19日までの予定)。さて、開戦のご聖断が下ったことによって、アメリカとイギリスに宣戦布告するための開戦の詔勅(しょうちょく、天皇の意思を表示する文書のこと)が発表されました。漢文体で書かれた詔勅の原案が東條内閣によって作成されましたが、その文面をご覧になった昭和天皇が「お言葉」を付け加えら...

  • ついに開戦へ その7

    ハル・ノートによって我が国は対米交渉への望みを完全に断たれたことになりますが、その内容の厳しさに関しては、後年に極東国際軍事裁判(=東京裁判)で裁判官を務めたパルが、アメリカの現代史家の言葉を引用して「モナコやルクセンブルクでさえもアメリカに対し矛(ほこ)をとって立ち上がったであろう」と言明しています。しかも、先述したケロッグ国務長官の「経済封鎖は戦争行為そのものである」という言葉を借りれば、先の...

  • ついに開戦へ その6

    幕末の開国に伴って欧米列強から不平等条約を押しつけられて以来、我が国はいつ他国の侵略を受けて植民地化されるかという亡国の危機と背中合わせになりながら、血のにじむような努力で急速な近代化を達成し、気が付けば大日本帝国は世界の一等国として列強と肩を並べるまで成長を遂げました。しかし、いわゆるハリマン問題などを原因としてアメリカとの間に出来た溝が人種差別に基づく日本人敵視政策を生みだし、また昭和初期のア...

  • ついに開戦へ その5

    もしハリー=ホワイトが本当にソ連のスパイであったとすれば、彼がフランクリン=ルーズベルト大統領に取り入ったことで日米間に埋めようもない深い溝を構築し、日米開戦を誘発したことになりますが、果たしてソ連にそのようなメリットが存在したでしょうか。先述のとおり、アメリカはかねてから東アジアにおける権益を狙っており、そのための障害となっていた日本を敵視し続け、第二次世界大戦に勝利したことによって我が国を中国...

  • ついに開戦へ その4

    野村・来栖両大使が持ち帰ったハル・ノートを確認した日本政府の首脳は、東郷外相が「自分は目もくらむばかりの失望にうたれた」と述べるなど、それぞれがその内容に仰天しました。それにしても、なぜアメリカはこうした「最後通牒(つうちょう)」ともいえるハル・ノートを我が国に突き付けたのでしょうか。アメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領は、自国の疲弊した経済の打開やイギリスを助ける意味などもあって日本との戦...

  • ついに開戦へ その3

    ハル・ノートは10か条から成り立っていましたが、その内容は日米交渉がそれまでに積み上げてきたものをすべて無視するばかりか、根底から覆すというまさに言語道断なものであり、特に以下の内容は我が国が絶対に認められないものでした。1.中国大陸や仏印(=フランス領インドシナ)からの全面撤兵2.蒋介石の重慶国民政府以外の中国における政府の否認3.日独伊三国同盟の破棄もしこれらの条件を我が国が受けいれれば、満州を含む我...

  • ついに開戦へ その2

    日米交渉の窓口であった駐米大使の野村吉三郎(のむらきちさぶろう)は軍人出身であったので、日本政府はベテラン外交官の来栖三郎(くるすさぶろう)をアメリカに派遣し、野村・来栖の両大使は昭和16(1941)年11月17日にフランクリン=ルーズベルト大統領と直接会談しました。来栖大使はルーズベルト大統領に我が国の苦しい立場を素直に表明して、交渉に応じるよう懸命に説得しましたが、大統領は言葉を適当にはぐらかしてやんわ...

  • ついに開戦へ その1

    さて、第三次近衛内閣の崩壊後に組閣の大命が下った東條英機でしたが、このことは彼自身にとってまさに青天の霹靂(へきれき)でした。昭和天皇の戦争回避のご意思を拝聴した東條は、それまでの開戦派的姿勢を改め、帝国国策遂行要領を白紙に戻して再検討することとしました。昭和天皇に絶対の忠誠を誓っていた東條首相ならではの方針の転換でしたが、さらに東條は外務大臣に対米協調派の東郷茂徳(とうごうしげのり)を選んだほか...

  • 行きづまる日米交渉 その9

    こうして誕生した東條内閣でしたが、新内閣発足と前後して日本国内でとんでもない謀略事件が発覚しました。いわゆる「ゾルゲ事件」のことです。昭和16(1941)年秋、特別高等警察(=特高)はソ連のスパイ組織が日本国内で諜報(ちょうほう)並びに謀略活動を行っていたとして、ゾルゲや尾崎秀実(おざきほつみ)らを逮捕しました。ゾルゲはドイツの新聞記者として昭和8(1933)年に来日し、ドイツ大使の信頼を得るなどして巧(た...

  • 行きづまる日米交渉 その8

    頼みの綱だった首脳会談が幻(まぼろし)に終わり、対米交渉の外交期限も近づいた昭和16(1941)年10月12日、近衛首相は東條英機(とうじょうひでき)陸軍大臣らと話し合いましたが物別れに終わり、同月18日に第三次近衛内閣は総辞職しました。ところで、これまでに述べた歴史の流れを振り返れば「アメリカが我が国を大東亜戦争に追い込んだ」という見方も成立しそうですが、これは「日本が一方的に侵略した」という「自虐(じぎゃ...

  • 行きづまる日米交渉 その7

    しかし、昭和に入った頃からの我が国においては、敵国と化したアメリカやイギリスあるいはオランダなどを離反あるいは分断させるような工作や謀略が、政府によって熱心に研究されたような形跡が今も見つかっていません。戦国時代や幕末あるいは明治期において数々の工作や謀略を成功させてきた我が国が、なぜこの時期になって先人の経験を生かすことができなかったのでしょうか。その理由として考えられることは、そうした先人の智...

  • 行きづまる日米交渉 その6

    人間というものは、一般的に戦争など目に見える大きな出来事に心を奪われがちですが、一つの戦闘行為の裏には数えきれないほどの下準備や謀略(ぼうりゃく)などが隠されているものです。それは我が国においても例外ではなく、動乱の戦国時代を最終的に制した者は、単なる戦(いくさ)上手だけではなく、ありとあらゆる謀略を使ったうえで200年以上の長きにわたる平和を築き上げた徳川家康(とくがわいえやす)でした。また、開国...

  • 行きづまる日米交渉 その5

    御前会議の終了後、対米関係の悪化に苦慮(くりょ)していた近衛文麿首相は、事態打開のためにフランクリン=ルーズベルト大統領と直接会談しようとしました。駐日大使のグルーは首脳会談の早期実現を本国に強く訴えましたが、大西洋憲章で対日戦争に関する協議を行っていたアメリカはこれに応じず、昭和16(1941)年10月2日に会談の拒否を我が国に通告しました。ところで、そもそも世界情勢というものは、今も昔もほんのわずかな...

  • 行きづまる日米交渉 その4

    アメリカが我が国への石油禁輸を決めた直後の1941(昭和16)年8月9日、フランクリン=ルーズベルト大統領はイギリスのチャーチル首相と大西洋上で極秘に会談を行い、同月14日に両国は「大西洋憲章」を結びました。憲章において米英両国は大戦終結後の世界秩序の構想を決定したとされていますが、憲章を結んだ段階でアメリカはまだ第二次世界大戦に参戦していないことから、実質的には両国首脳が対日戦争に関する協議を行ったといえ...

  • 行きづまる日米交渉 その3

    先述したように、当時のアメリカとイギリスは、日本をアメリカと戦争させ、なおかつ第一撃を日本に撃たせるよう、すなわち先制攻撃を我が国にさせるべく画策していました。そのために石油などの重要な資源を輸出しない、すなわち「売らない」ことで我が国を追いつめようとしていたのです。一方、南部仏印を含む南洋ルートはゴムや錫(すず)などの天然資源が豊富であり、コメの生産も盛んでした。北進論を断念した我が国にとって、...

  • 【ハイブリッド方式】第90回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和4年5月)

    黒田裕樹の歴史講座は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合が...

  • 行きづまる日米交渉 その2

    アメリカによって昭和15(1940)年に日米通商航海条約を廃棄させられた我が国は、物資や石油などの重要な資源の不足に悩まされたことで、蘭印に対して戦略物資の輸入交渉を続けましたが、先述のとおりABCDラインでアメリカやイギリスとつながっていたオランダによって交渉は暗礁(あんしょう)に乗り上げました。このため、我が国はフランスに対して植民地である仏印の南部に日本軍を進駐させるよう交渉を続けました。南部仏印はタ...

  • 行きづまる日米交渉 その1

    日華事変の泥沼化や日独伊三国同盟の締結、さらには北部仏印進駐にABCDラインの形成など、様々な戦闘行為や外交状況が重なるなかで我が国とアメリカとの関係はますます悪化していきました。こうした事態を打開するため、第二次近衛文麿内閣は昭和16(1941)年に日米交渉を本格化させました。日米交渉における我が国側の窓口となったのは、駐米大使の野村吉三郎(のむらきちさぶろう)でした。野村はフランクリン=ルーズベルト大統...

  • 三国同盟と日ソ中立条約 その10

    1941(昭和16)年6月に独ソ戦が始まった際に、我が国はドイツを助けてソ連を攻撃する(=北進論)か、あるいは石油などの資源を確保するために南方に進出する(=南進論)かという大きな岐路(きろ)に立たされました。しかし、いかにドイツやイタリアと三国同盟を結んでいたとしても、日ソ中立条約が結ばれてからわずか2か月でソ連を攻撃すれば国際的な非難が集中するのは明白でした。結局我が国は翌7月に昭和天皇ご臨席のもとで...

  • 三国同盟と日ソ中立条約 その9

    話が先走りますが、第二次世界大戦に勝利することでアメリカは悲願であった東アジアに対する権益を持つことができると確信していました。自国が手を伸ばそうとした地域に対して先に日本が不当に支配(実際には正当な権益でしたが)していたのを憎んだからこそ、多大な犠牲を払いながらも我が国を叩き潰したのです。しかし、満州を含む中国大陸では蒋介石が追われて中国共産党の毛沢東(もうたくとう)が中華人民共和国を建国し、朝...

  • 三国同盟と日ソ中立条約 その8

    第二次世界大戦の開戦直後のドイツはフランスを降伏させるなど破竹の勢いで勝ち進み、イギリスは本土を空爆されるまで追いつめられていましたが、そんな折に首相に就任したチャーチルは、イギリスがドイツに勝利するためには、アメリカを味方につけてヨーロッパの戦争に引きずり込むしかないと考えるようになっていました。一方、アメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領も「攻撃を受けた場合を除いて絶対に戦争はしない」と公...

  • 三国同盟と日ソ中立条約 その7

    アメリカやイギリスを中心とする重要資源の輸入制限に悩まされた我が国は、蘭印(らんいん、オランダ領東インド、現在のインドネシア)に対して戦略物資の輸入の交渉を始めましたが、当時のオランダは裏でアメリカやイギリスとつながっており、断続的に行われた交渉は最終的に失敗に終わりました。こうして、アメリカ(America)・イギリス(Britain)・中華民国(China)・オランダ(Dutch)といった東アジアに権益を持つ国々が、...

  • 三国同盟と日ソ中立条約 その6

    昭和12(1937)年に勃発した日華事変は、同年12月に首都の南京(ナンキン)が陥落(かんらく)し、蒋介石(しょうかいせき)が重慶(じゅうけい)に逃げ込んだ後も泥沼化していましたが、その最大の要因は、日華事変に関しては中立国のはずであったアメリカやイギリス・フランスを中心として、蒋介石に対する経済的・軍事的な援助が続いていたことにありました。我が国は蒋介石への援助を断ち切るためチャイナの沿岸を封鎖しました...

  • 三国同盟と日ソ中立条約 その5

    当時の外務大臣だった松岡洋右には、日独伊三国同盟を結ぶことによってアメリカにプレッシャーをかけ、泥沼化していた日華事変の解決や難航していた日米交渉をまとめようという思惑がありました。松岡外相はアメリカを説得するため、ドイツと不可侵条約を結んでいたソ連にも接近して昭和16(1941)年4月に「日ソ中立条約」を締結しましたが、そのわずか2か月後の6月にドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻したため、外相の目...

  • 三国同盟と日ソ中立条約 その4

    かくして我が国はドイツやイタリアと日独伊三国同盟を結んだわけですが、この三国が急接近した背景には、かつての世界恐慌がもたらしたブロック経済が大きくかかわっていました。ブロック経済は、アメリカやイギリスあるいはフランスなどのように広大な領土や植民地を有する「持てる国」であれば自給自足が可能ですが、広大な領土や植民地を「持たざる国」であった我が国やドイツ・イタリアなどにとっては、まさに死活問題でした。...

  • 三国同盟と日ソ中立条約 その3

    阿部信行内閣の後を受けて昭和15(1940)年1月に成立した米内光政(よないみつまさ)内閣は親英米派であるとともにドイツとの同盟に反対していましたが、同年6月に勢いに乗るドイツがフランスを降伏させると、陸軍が米内内閣の陸軍大臣を辞任させて後任者を推薦(すいせん)しなかったため、軍部大臣現役武官制によって米内首相は同年7月に内閣を総辞職せざるを得ませんでした。米内にかわって内閣を組織したのは、元枢密院(すう...

  • 三国同盟と日ソ中立条約 その2

    アメリカが日米通商航海条約の廃棄を通告してきた理由は「言いがかり」に等しいものでしたが、我が国の懸命の交渉も実らず条約の廃棄が翌昭和15(1940)年1月から発効したため、日華事変の遂行(すいこう)などに必要な物資の多くをアメリカからの輸入に依存していた我が国は大打撃を受けました。我が国がアメリカから理不尽ともいえる仕打ちを受けていた頃、第二次世界大戦を始めたドイツは破竹の勢いで緒戦を制し、大いなる強さ...

  • 三国同盟と日ソ中立条約 その1

    独ソ不可侵条約の締結を理由に平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)内閣が総辞職し、昭和14(1939)年8月に阿部信行(あべのぶゆき)が新たに内閣を組織した直後の同年9月1日に、ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)しましたが、阿部首相は日華(にっか)事変(=日中戦争)の解決を優先して大戦不介入の方針をとりました。阿部内閣はアメリカとの関係改善をめざして交渉を続けましたが、すでに対日戦略を...

  • 第二次世界大戦の勃発 その12

    当時の欧米列強を揺(ゆ)るがした世界恐慌をはじめ、我が国でも昭和初期からの金融恐慌や昭和恐慌などが相次いだことで、世界においてそれまでの自由主義経済が行きづまったと認識された一方で、圧倒的な国力を背景に社会主義国のソ連が大きな成長を続けているように見えたことから、当時の世界の大きな流れが社会主義に傾きつつあったということを私たちは忘れてはいけません。さらには、ソ連が体制維持のためにコミンテルンを組...

  • 第二次世界大戦の勃発 その11

    これまで述べてきたように、結果だけを見れば宥和政策を続けたことが第二次世界大戦の引き金になったのは疑いようがないものの、だからと言って宥和政策そのものが「間違いであった」とは決めつけられない一面もありますね。史実においては、第二次世界大戦で我が国やドイツとイタリアが徹底的に叩き潰されたわけですが、イギリスやフランス、あるいはアメリカなどにとっての「本当の敵」は果たしてどの国だったのでしょうか。もし...

  • 【オンライン式】黒田裕樹の東京歴史塾のお知らせ(令和4年5月)

    黒田裕樹の東京歴史塾は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、本来は従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しておりますが、今回は諸般の事情によりオンライン式の講座のみとさせていただきます。ご了承ください。オンライン式講習会のお申し込み方法の詳細は追記に掲載しておりま...

  • 第二次世界大戦の勃発 その10

    ドイツとソ連とがやがて戦争を始める運命にあったということは、当初の宥和政策の目的の一つであった「ソ連を倒すためにドイツを利用する」ことが決して間違っていなかったということにもなります。実際にドイツがポーランドに侵攻したことで自国の安全保障に重大な懸念が生じたわけですから、イギリスやフランスがドイツに宣戦布告をしたというのも決して無理はありません。しかし、ドイツとソ連とがいずれは衝突するという読みが...

  • 第二次世界大戦の勃発 その9

    ヒトラー率いるドイツのナチスと、スターリンを中心とするソ連の共産党とは、いずれも「国家が経済を完全にコントロールし、自由な経済活動を一切認めない」という点において全く同じでした。両国の違いは、ナチスが「国家が主体となって行う社会主義」を目標としたのに対し、ソ連が「人民が主体となって行う社会主義」を目標としただけであり、しかもソ連において実際に政治を動かしていたのは「共産党=国家」であったのですから...

  • 第二次世界大戦の勃発 その8

    以上のように考えれば、宥和政策は確かに失敗だったと言わざるを得ないかもしれませんが、その一方で結果だけを見たり、あるいは現代の価値観だけで物事を考えたりすることが本当に正しいでしょうか。先述のとおり、当時はチェンバレン政権のイギリスのみならず、主要国のほとんどが第一次世界大戦のトラウマから厭戦(えんせん)ムードとなっており、宥和政策の転換をためらっていたことを忘れてはいけませんし、そんな中でイギリ...

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