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黒田裕樹さんのプロフィール

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北区
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ブログタイトル
黒田裕樹の歴史講座
ブログURL
http://rocky96.blog10.fc2.com/
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受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。
更新頻度(1年)

386回 / 365日(平均7.4回/週)

ブログ村参加:2012/08/07

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黒田裕樹さん
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黒田裕樹の歴史講座
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黒田裕樹の歴史講座

黒田裕樹さんの新着記事

1件〜30件

  • 積極外交への転換 その3

    昭和3(1928)年5月3日朝、済南の国民革命軍の兵士が突如(とつじょ)として居留民を襲撃し、多数の日本人が、およそ血の通った人間がやったとは思えないような惨(むご)たらしい手法よって虐殺されました。国民革命軍による非人道的な虐殺行為に激高した我が国は、直ちに「第三次山東出兵」を行って済南城を攻撃すると、革命軍は夜陰に乗じて城外に脱出し、日本軍が済南を占領しました。これら一連の流れは「済南事件」と呼ばれ...

  • 積極外交への転換 その2

    我が国による第一次山東出兵に対し、チャイナによる居留地への襲撃に我が国と同じように悩まされていた欧米列強は歓迎の意を示すとともに出兵を評価しましたが、当時のチャイナに存在した北方軍閥による北京政府や、国民党の容共派(=共産主義に理解を示して協力する一派のこと)と共産党からなる武漢(ぶかん)政府、さらには蒋介石の南京政府の3つに分かれていた政府がいずれも抗議声明を出すとともに、排日運動が激しくなりま...

  • 【ハイブリッド方式】第85回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和3年7月)

    黒田裕樹の歴史講座は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合が...

  • 積極外交への転換 その1

    陸軍大将で立憲政友会総裁の田中義一(たなかぎいち)が昭和2(1927)年4月に内閣を組織すると、首相自らが外務大臣を兼任した田中内閣は、それまでの幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)外相による「協調外交」から、チャイナにおける日本の権益を守るために「積極外交」へと方針を大きく転換しました。昭和2(1927)年の中国大陸では、蒋介石(しょうかいせき)の国民革命軍による北伐(ほくばつ)が急激に進み、北京・天津(て...

  • 昭和の始まりと金融恐慌 その7

    大正末期から昭和初期にかけての日本経済は、第一次世界大戦後の戦後恐慌を始めとして、関東大震災による恐慌や金融恐慌も重なり、いわば慢性的な不況が続いていました。度重なる恐慌で銀行の休業や倒産が相次いだことや、政府が弱小銀行や不良銀行の整理に着手したことによって、いわゆる大銀行に多くの預金が集中することになりました。三井・三菱・安田・住友・第一のいわゆる五大銀行への預金は昭和4(1929)年には全体の35%...

  • 昭和の始まりと金融恐慌 その6

    金融恐慌における台湾銀行の救済を含む様々な政策は、憲政会の第一次若槻礼次郎内閣では認められず、政権交代後の立憲政友会の田中義一内閣でようやく成立しましたが、その裏には二大政党制による政党内閣の宿命ともいえる「政争」がありました。恐慌を起こした政権の責任はともかくとして、金融政策は本来であれば一刻も早く実施しなければならないものです。しかし、現実には野党の立憲政友会が「政争の具」として枢密院に「待っ...

  • 昭和の始まりと金融恐慌 その5

    第一次若槻内閣の総辞職を受けて、陸軍大将で立憲政友会総裁の田中義一(たなかぎいち)が内閣を組織しました。田中内閣の大蔵大臣となった高橋是清(たかはしこれきよ)は、手形の決済や預金の払い戻しなどを一時的に猶予する支払猶予令(しはらいゆうよれい、別名を「モラトリアム」)を出すための緊急勅令を直ちに枢密院に諮問(しもん、意見を求めること)しました。今度は枢密院も勅令を許可して3週間のモラトリアムが発せら...

  • 昭和の始まりと金融恐慌 その4

    貿易商として出発した総合商社の鈴木商店は、第一次世界大戦がもたらした大戦景気において急激に業績を伸ばし、三井や三菱などの財閥(ざいばつ)と肩を並べるまでに成長しましたが、大戦が終わると戦後恐慌のあおりを受けて経営難に陥(おちい)り、昭和2(1927)年4月に倒産してしまいました。鈴木商店の倒産は、同社に巨額の金銭を貸し付けていた台湾銀行が資金繰りに苦しむようになるなど深刻な影響を与えましたが、他の中小銀...

  • 昭和の始まりと金融恐慌 その3

    片岡蔵相が「東京渡辺銀行の破綻」を口走ったのには、遅々(ちち)として進まない審議に業(ごう)を煮やしたことで「対応が遅れれば遅れるほど、東京渡辺銀行のように破綻に追い込まれる金融機関が出てくることになる」と牽制(けんせい)する狙(ねら)いがあったとされています。しかし、当日の決済を終えていた東京渡辺銀行は、現実には破綻していなかったのです。にもかかわらず、議会において「破綻した」と口走ったのは、片...

  • 昭和の始まりと金融恐慌 その2

    昭和2(1927)年3月14日、当日の決済のための資金繰りに苦しんでいた東京渡辺銀行の関係者が午後に大蔵次官を訪問して「何らかの救済がなければ今日中にも休業を発表せざるを得ない」と陳情しました。次官は大蔵大臣の片岡直温(かたおかなおはる)に対応を相談しようとしましたが、議会で審議中のため面会できず、事情を書面に記して蔵相に言付(ことづ)けました。一方、大蔵省からの助力が得られないと判断した東京渡辺銀行は改...

  • 昭和の始まりと金融恐慌 その1

    ※今回より「昭和時代・戦前」の更新を開始します(8月8日までの予定)。大正15(1926)年12月25日、かねてより病気療養中であられた大正天皇が47歳で崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)されました。深いお悲しみの中、摂政宮(せっしょうのみや)で皇太子の裕仁(ひろひと)親王が直ちに践祚(せんそ、皇位の継承のこと)されて第124代天皇(=昭和天皇)となられ、元号も「昭和」と改められま...

  • 幕末期の動乱を繰り返さないために その12

    ※「第84回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(7月18日)からは「昭和時代・戦前」の更新を再開します(8月8日までの予定)。新型コロナウィルス感染症の蔓延は世界中に大きな不幸をもたらしましたが、それが「庚子」の年に起こったことで、我が国が一丸となって国難を乗り越えようとする、すなわち「これまでとは全く異なる動きが発生する中で将来に備える」ことができるのではないでしょうか。アメリカの動きが...

  • 幕末期の動乱を繰り返さないために その11

    つまり、中華人民共和国があっという間にGDPで我が国を追い越し、アメリカ打倒を視野に入れている一方で、我が国は緊縮財政や消費税率の上昇などによってGDPが横ばいを続けていることになりますが、これはまさに「鎖国による平和ボケが続いた後の黒船来航前夜」と同じではないでしょうか。もしこの状態がこのまま続いて、どこかの国がある日突然ペリーのように恫喝(どうかつ、人をおどして恐れさせること)外交を行えば、果たして...

  • 幕末期の動乱を繰り返さないために その10

    アメリカの独立が事実上確定した1781年から240年の時を経て、同じ「庚子」→「辛丑」の流れの中で、そのアメリカに重大な危機が発生しています。昨年行われたアメリカ大統領選挙において、民主党のバイデン氏が当選して今年から大統領に就任しましたが、選挙における開票作業などをめぐって様々な問題が発生するなど、就任当初から何かと周辺が騒がしくなっています。また、昨年は新型コロナウィルス感染症が世界中に蔓延(まんえん...

  • 幕末期の動乱を繰り返さないために その9

    しかし、江戸幕府の長い「平和ボケ」によって他国に無理やり開国させられるといった、我が日本民族の特性ともいえる「極限状態になるまで決断できなかった」ことによって、かねてより存在していた「日本における不文憲法」を説明する余地がなかったことが、我が国の将来に暗い影を落とすことになりました。かくして我が国は、まるで屋上屋(おくじょうおく)を重ねるように、本来は全く不必要な大日本帝国憲法を制定し、さらにそれ...

  • 幕末期の動乱を繰り返さないために その8

    国家の基本法たる憲法といえば、例えば大日本帝国憲法や日本国憲法、あるいはアメリカ合衆国憲法のように、正式な立法手続を経た成文の形式をとっている、いわゆる「成文憲法」が多く見られます。しかしその一方で、イギリスのように「マグナ・カルタ」や「権利の章典」などといった、議会決議や裁判所の判例、国際条約、あるいは慣習などのうち、国家の性格を規定するものの集合体として存在し、憲法典としては制定されていない「...

  • 幕末期の動乱を繰り返さないために その7

    江戸幕府を倒した末に新たに誕生した明治新政府でしたが、その前途は多難であり、なさねばならない課題が山積していましたが、なかでも新政府に重くのしかかったのが、江戸幕府が諸外国から結ばされた「不平等条約」の「改正」でした。政府による血のにじむような努力の末、領事裁判権が明治27(1894)年に撤廃され、関税自主権が明治44(1911)年に回復するなど、半世紀以上もの時間をかけてようやく条約改正を達成することができ...

  • 【ハイブリッド方式】黒田裕樹の東京歴史塾のお知らせ(令和3年7月)

    黒田裕樹の東京歴史塾は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...

  • 幕末期の動乱を繰り返さないために その6

    さらに安政5(1858)年にアメリカ軍艦のミシシッピ号が長崎に入港した際に、同船していた乗組員からコレラが広まりました。被害は日本中に拡大して、江戸だけで約10万人、全国で約20万人以上の犠牲者を出してしまいました。なお、コレラの被害はその後も続き、文久(ぶんきゅう)2(1862)年には江戸で約7万人が死亡したほか、明治初期にも何度も流行して多数の犠牲者が出ています。こうした流れを受けて、庶民の怒りは外国に対す...

  • 幕末期の動乱を繰り返さないために その5

    大量の金貨の海外流出に慌(あわ)てた幕府は、小判の大きさや重さをそれまでの約3分の1にして、海外の金銀相場と合わせた「万延(まんえん)小判」を発行することで被害の拡大を防ごうとしました。いわゆる「万延貨幣改鋳(かいちゅう)」ですが、これは同時に「貨幣の価値自体も3分の1に低下する」ことを意味していました。貨幣の価値が下がれば物価が上昇するのは当たり前です。しかも、好景気時に貨幣における金の含有量を下げ...

  • 幕末期の動乱を繰り返さないために その4

    幕末当時の金銀の比価は、外国では1:15だったのに対して、日本では1:5でした。当時外国で使用されていたメキシコドル1枚(1ドル)の価値が、日本で使っていた一分銀(いちぶぎん)3枚と同じだったのです。しかし、幕府は自身の信用で一分銀4枚を小判1両と交換させていました。つまり実際の価値を度外視した「名目貨幣(めいもくかへい)」として一分銀を使用していたのですが、こうした「価格」と「価値」との違いが外国には理解...

  • 幕末期の動乱を繰り返さないために その3

    我が国と他国との本格的な貿易は、安政6(1859)年より横浜・長崎・箱館(現在の函館)の3港で始まりました。我が国からの主な輸出品は生糸(きいと)・茶・蚕卵紙(さんらんし、カイコの卵が産み付けられた紙のこと)や海産物などで、海外からは毛織物・綿織物などの繊維(せんい)製品や、鉄砲・艦船(かんせん)などの軍需品(ぐんじゅひん)を輸入しました。貿易は大幅な輸出超過となり、輸出品の中心となった生糸の生産量が追...

  • 幕末期の動乱を繰り返さないために その2

    また、関税とは輸入や輸出の際にかかる税金のことですが、外国からの輸入品に税金をかけることは、自国の産業の保護につながるのみならず、税の収入によって国家の財政を助けることにもなります。このことから「自国の関税率を自主的に定めることができる権利」である関税自主権は非常に重要なものでした。例えば、国内において100円で販売されている商品に対し、外国の同じ商品が60円で買える場合、関税を30円に設定して合計90円...

  • 幕末期の動乱を繰り返さないために その1

    しかし、現実に我が国はペリーの黒船来航をきっかけに、何の準備もなく無理やり開国させられてしまいました。その悪影響は多岐にわたっていますが、まずは前回(第83回)紹介した内容を復習してみましょう。安政(あんせい)5(1858)年旧暦6月に我が国とアメリカとの間で結ばれた「日米修好通商条約」を皮切りに、我が国はイギリス・フランス・ロシア・オランダとも同様の条約を結びましたが(これを「安政の五か国条約」といいま...

  • 開国する絶好のタイミングだった田沼時代 その8

    そして、それからさらに60年前の安永9(1780)年~天明元(1781)年に関してですが、この時期はアメリカ独立戦争がまだ続いており、1780年までに一進一退を続けた後に、1781年のヨークタウンの戦いでアメリカの勝利が決定的になりました。一方、当時の我が国では先述のとおり田沼意次による政治が行われていました。もし「庚子」→「辛丑」の時期、すなわち田沼政治が安定していた頃に我が国が開国にこぎつけていればどうなっていた...

  • 開国する絶好のタイミングだった田沼時代 その7

    しかし、天保12(1841)年に水野忠邦(みずのただくに)によって始められた「天保の改革」は結果的に失敗し、十数年後の幕末の大混乱の原因の一つを形づくってしまうことになります。なお、清国がアヘン戦争に敗北した天保13(1842)年に我が国は「天保の薪水(しんすい)給与令」を出しました。これは、我が国を訪問した外国船に対して食糧や燃料を与え、速やかに退去してもらうというものでしたが、確かにこの法令によって外国と...

  • 【ハイブリッド方式】黒田裕樹の日本史道場のお知らせ(令和3年7月)

    黒田裕樹の日本史道場は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...

  • 開国する絶好のタイミングだった田沼時代 その6

    その前は明治33(1900)年~明治34(1901)年でした。明治33(1900)年にチャイナ(清国)の北京(ペキン)で義和団の乱、すなわち「北清(ほくしん)事変」が発生し、翌明治34(1901)年になって北京議定書(ぎていしょ)が結ばれてようやく治まりました。しかし、このドサクサに紛(まぎ)れてロシアが満州(現在の中国東北部)を占領し、我が国の安全保障に重大な危機が生じるようになります。さらにその前は天保(てんぽう)11...

  • 開国する絶好のタイミングだった田沼時代 その5

    今から60年前は昭和35(1960)年~昭和36(1961)年でした。昭和35(1960)年といえば、国内においては新日米安保条約の批准(ひじゅん、国家が条約の内容に同意すること)をめぐって大規模な「安保闘争」が起きたことで有名です。その後、池田勇人(いけだはやと)内閣の下で所得倍増計画が進められ、我が国の経済が大きく発展しましたが、国家の防衛よりも経済発展を優先したことが、現在に至るまでの我が国の安全保障問題に大き...

  • 開国する絶好のタイミングだった田沼時代 その4

    「辛丑」の年は「辛(つら)い時に耐えて新たな人生観を築き、人との縁を大切に育てる年」です。「辛」は文字どおり「辛い」であり、新型コロナウィルス感染症の新たなる拡大が今後も続くことが予想されます。一方、「丑」は「紐」に通じ、血縁や地縁あるいは利害関係など社会を形づくる結びつきを「紐帯(ちゅうたい)」と表現しますから、「辛丑」は「人との縁を大切にして辛い時期を乗り越える」という意味になります。コロナ禍...

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