chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

住所
北区
出身
北区
黒田裕樹
フォロー
ブログ村参加

2012/08/07

ブログをみる無料アプリ

アプリでフォローする
arrow_drop_down
  • 大東亜戦争の始まり・後編 その1

    大東亜戦争より前に、我が国は圧倒的な国力の差がある相手と戦った経験がありました。もちろん日露戦争のことです。日露戦争において我が国は様々な戦いを苦労の末に勝ち抜いてきましたが、奉天(ほうてん、現在の瀋陽=しんよう)会戦を制し、また日本海海戦に勝利したあたりで戦力が限界に達しました。このまま戦いを続ければ、国力に勝るロシアの逆襲も十分に考えられましたが、国内の政情不安に悩まされたロシアがアメリカの仲...

  • 大東亜戦争の始まり・前編 その5

    我が国では、毎年正月に皇族の方々や一般の国民が、一つのお題に対して和歌を詠(よ)む「歌会始(うたかいはじめ)」という行事がありますが、大東亜戦争が始まった直後の昭和17(1942)年の歌会始で、昭和天皇は以下の御製(ぎょせい、天皇による和歌のこと)をお詠みになられました。「峰つづき おほふむら雲 ふく風の はやくはらへと ただいのるなり」厚い雲のように世界全体を巻き込んだ戦争が早く終わってほしい、という...

  • 大東亜戦争の始まり・前編 その4

    昭和17(1942)年4月、東條英機(とうじょうひでき)内閣の下で、前回からの任期を1年間延長したうえで、大東亜戦争中に唯一となった衆議院の総選挙が行われました。この選挙では、阿部信行(あべのぶゆき)元首相を会長とする翼賛(よくさん)政治体制協議会が推薦(すいせん)する候補者が、定員の466人中381議席(全体の8割強)を得て絶対多数となり、協議会に所属する議員は選挙後に翼賛政治会を結成し、政府による政策に協力...

  • 大東亜戦争の始まり・前編 その3

    大東亜戦争における緒戦の勝利によって、日本軍は開戦後わずか半年で東南アジアと西・南太平洋の広大な地域を占領下に置きました。日本軍の快進撃によって、かつての欧米列強の植民地は次々と解放されましたが、搾取(さくしゅ)を中心とした劣悪(れつあく)な環境で過ごしてきた現地の人々は、憎悪(ぞうお)の対象であった白色人種の列強の兵士が、自分たちと同じ有色人種の日本軍によって駆逐(くちく)される様子に歓喜しまし...

  • 大東亜戦争の始まり・前編 その2

    さて、真珠湾攻撃が行われた同じ昭和16(1941)年12月8日未明、マレー半島に上陸した日本陸軍は、山下奉文(やましたともゆき)陸軍中将の指揮の下でイギリスを相手に快進撃を続けた一方で、12月10日には、日本海軍航空隊がマレー沖の航空戦によって、イギリスが世界に誇る新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」並びに巡洋戦艦「レパルス」を撃沈(げきちん)しました。東洋艦隊を壊滅状態に追い込んだことで対英戦争の大勢を決...

  • 大東亜戦争の始まり・前編 その1

    先述のとおり、昭和16(1941)年12月8日(日本時間)に日米開戦となりましたが、開戦直後に日本政府は、この戦争の名称を、昭和12(1937)年に始まった日華(にっか)事変(=日中戦争)も含めて「大東亜戦争」と命名したほか、自存自衛と東亜新秩序の建設をその目的と定め、戦争の遂行(すいこう)に欠かせない資源を確保するために、アメリカやイギリス、あるいはオランダが植民地を有する南方諸地域への進出を強めました。日本...

  • 真珠湾攻撃に秘められた真実・後編 その5

    さて、ここまでフランクリン=ローズヴェルト大統領のアメリカに対する功績などを振り返りましたが、その一方で、当時の我が国にローズヴェルト大統領の工作や謀略などに太刀打ちできるだけの人材が存在しなかったことが、当初は望んでもいなかった日米開戦を行わざるを得なかったという歴史の流れにつながったとも考えられます。繰り返しますが、私たち日本国民が、ローズヴェルト大統領による一連の手法を「卑劣」であると一方的...

  • 真珠湾攻撃に秘められた真実・後編 その4

    これらの歴史の流れを考慮すれば、フランクリン=ローズヴェルト大統領が手段を選ばずにアメリカの国益だけを追求したからこそ、経済復興を成し遂げることができたのは間違いなく、その意味においては、ローズヴェルト大統領が「アメリカの最高責任者」としての役割を十分に果たしたと言えるでしょう。ただし、アメリカのもう一つの悲願であった「東アジアにアメリカの権益を構築する」ことは、ローズヴェルト大統領が1945(昭和20...

  • 真珠湾攻撃に秘められた真実・後編 その3

    1933(昭和8)年にアメリカ大統領に就任したフランクリン=ローズヴェルトは、世界恐慌(きょうこう)がもたらした不況にあえぐアメリカ経済を立て直すためにニューディール政策を始めましたが次第に行きづまり、失業者が増加するなど経済的に疲弊(ひへい)していました。こうした事態を打開するためには、イギリスの要請を受けて第二次世界大戦に参加し、戦争がもたらす様々な特需によって経済を発展させるしかないとローズヴェ...

  • 真珠湾攻撃に秘められた真実・後編 その1

    当時のイギリスは、勢いに乗るドイツの攻撃によって、本土を空爆されるなど追いつめられていました。こうした事態を打開するためには、アメリカをヨーロッパ戦線に引き込む以外にないと覚悟を決めたチャーチル首相は、フランクリン=ローズヴェルト大統領と連携(れんけい)して、日本にアメリカを先制攻撃させるよう仕向けてきました。そして我が国が真珠湾攻撃を行うと、チャーチルは「これで戦争に勝った」と心から喜ぶとともに...

  • 真珠湾攻撃に秘められた真実・前編 その6

    では真珠湾攻撃が行われた前後に、アメリカの最高責任者であるフランクリン=ローズヴェルト大統領は何をしていたのでしょうか。暗号の解読によって事前に攻撃されるのが分かっている以上、ローズヴェルト大統領をはじめ政府首脳は、日本軍による攻撃の回避や、あるいはアメリカからの先制攻撃の可能性を探るなど、それこそホワイトハウスに缶詰状態となって最大限の努力を重ねるのが当然のはずです。しかし、実際に彼が攻撃前夜に...

  • 真珠湾攻撃に秘められた真実・前編 その5

    もしフランクリン=ローズヴェルト大統領が、我が国による真珠湾攻撃を事前に察知していたのであれば、かけがえのない自国民や兵隊らを守るために最大限の努力をするのが当然のはずですが、現実に彼がとった行動は、疑問符が付くようなことばかりでした。まず真珠湾攻撃の以前、アメリカがハル・ノートを我が国に通告した直後に、真珠湾を母港とする2隻(せき)の航空母艦(=空母)すべてが、本国の命令によって新鋭艦を伴って出...

  • 真珠湾攻撃に秘められた真実・前編 その4

    さて、これまでに述べたように、昭和16(1941)年12月8日に我が国がハワイの真珠湾を攻撃したことによって、日米はついに開戦を迎えることになりました。その際、我が国の大使館員の怠慢によって、フランクリン=ローズヴェルト大統領が「日本軍による騙し討ち」と喧伝して「リメンバー・パールハーバー」と唱えたことで、それまで反戦気分の強かったアメリカ国民の我が国に対する敵愾心(てきがいしん)を一気に高め、国家を挙げ...

  • 真珠湾攻撃に秘められた真実・前編 その3

    我が国が奇襲で真珠湾攻撃を行ったと「誤解」されたこと自体は、戦後に開かれた極東国際軍事裁判(=東京裁判)において「日本が真珠湾攻撃を事前に通告する意思があった」と認められましたが、こうした「日本に有利な事実」は我が国や世界の常識となる機会に恵まれず、フランクリン=ローズヴェルト大統領が喧伝した「リメンバー・パールハーバー」の精神が今もなおアメリカの間で広がりを見せています。一方、これだけの弁解の余...

  • 真珠湾攻撃に秘められた真実・前編 その2

    開戦前日(現地時間で12月6日)の午前中に、外務省は野村吉三郎(のむらきちさぶろう)駐米大使に向けて、「これから重大な外交文書を送るから準備しておくように」という予告電報を送りました。当時は開戦前夜の雰囲気がいやが上にも高まっていることから、万全の態勢を整えて電報の到達を待つのが常識のはずでした。ところが、日本大使館の職員が同僚の送別会を行うために総出で引き上げてしまったことで、国交断絶の通告たる「...

  • 真珠湾攻撃に秘められた真実・前編 その1

    ※今回より「第114回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。昭和16(1941)年12月8日(日本時間)、山本五十六(やまもといそろく)司令長官率いる日本海軍連合艦隊は、ハワイ真珠湾に停泊していたアメリカ太平洋艦隊を攻撃しました。かくして日米両国がついに戦争を始めた訳ですが、日本軍による真珠湾攻撃を「卑怯(ひきょう)な奇襲」とフランクリン=ローズヴェルト大統領が主張したことによって、アメリカの世論...

  • 国司の地方支配と荘園の発達 その9

    ※「平安時代」の更新は今回で中断します。明日(5月27日)からは「第114回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。荘園のシステムが固定された11世紀の頃までには、田堵(たと)と呼ばれた有力農民の多くが荘園内の名田(みょうでん)の耕作を請け負うようになりました。彼らは下人(げにん)や作人(さくにん)などを使用して名田の耕作を続けることで、やがては名田の納税責任者たる「名主(みょうしゅ)」と呼ばれ...

  • 国司の地方支配と荘園の発達 その8

    話が複雑になってきましたので、もっと簡単に整理してみましょう。私を含む皆さんが例えば地元の耕作者であったとすれば、自己の田地をそのまま放っておけば、政府から(正しくは国司=受領が自己の取り分を上乗せした)法外な税を取られてしまいます。そこで、田地を有力貴族らに「名義貸し」をして、自分はただの「管理人」という形にしてしまうのです。こうすると、表向きは有力貴族らの「荘園」となりますから、国司から税は取...

  • 国司の地方支配と荘園の発達 その7

    それにしても、なぜ摂関家などの中央の有力貴族や寺社が「救いの神」となって、彼らに荘園が集中したのでしょうか。その裏には、これから述べる「大きなカラクリ」がありました。いくら荘園といえども、その大半は税の負担がかかる輸租田(ゆそでん)でした。しかし、名目上の荘園領主の権威を手に入れた農民らは、先述した官物(かんもつ)や臨時雑役を免除してもらうという「不輸(ふゆ)」の特権を認めさせるようになりました。...

  • 国司の地方支配と荘園の発達 その6

    さて、先述した大名田堵(だいみょうたと)は各地で成長するにつれて次第に地主化し、自らの所有権を主張するようになりました。「開発領主」と呼ばれた彼らは、従来のように地元で在庁官人として国司の下で働く人々がいる一方で、重税を要求する国司からの圧迫から逃れようと知恵をしぼる人々も現れました。そんな彼らにとって「救いの神」となったのが、摂関家(せっかんけ)などの中央の有力貴族あるいは寺社でした。彼らは、自...

  • 国司の地方支配と荘園の発達 その5

    信濃守(しなののかみ)の国司として赴任し、任期を終えて京へと帰ることになった藤原陳忠(ふじわらののぶただ)でしたが、その途中の峠(とうげ)で乗っていた馬が橋を踏み外し、馬ごと谷へ転落しました。その谷はとても深く、随行者たちは陳忠が生きてはいないだろうと思っていたら、やがて谷底から「籠(かご)に縄をつけて降ろせ!」と言う声が聞こえてきました。随行者たちが言われたとおりにして籠を引き上げると、籠には陳...

  • 国司の地方支配と荘園の発達 その4

    任期中に巨額の財産を得ることも可能となった国司には希望者が殺到し、貴族たちは様々な手段で国司などの役職を得ようとしました。例えば、朝廷の行事や寺社の造営を請け負って、そのかわりに国司などに任じてもらうという「成功(じょうごう)」や、同じ方法で引き続き同じ国の国司などに任命される「重任(ちょうにん)」などが行われるようになりました。清少納言(せいしょうなごん)による随筆として有名な枕草子(まくらのそ...

  • 国司の地方支配と荘園の発達 その3

    国司は「田堵(たと)」と呼ばれた地元の有力農民に対して田地の耕作を請け負わせ、従来の租・庸・調や公出挙(くすいこ)にあたる官物(かんもつ)、雑徭に由来する臨時雑役(りんじぞうやく)を課しました。課税の対象となる田地は請負人の名をつけて「名田(みょうでん、または名=みょう)」と呼ばれ、その請負人自体は「負名(ふみょう)」と呼ばれました。なお「堵(と)」は垣根(かきね)を意味しており、負名は「名田の経...

  • 国司の地方支配と荘園の発達 その2

    「延喜・天暦(てんりゃく)の治(ち)」にあたる10世紀の初めから半ばにかけての頃は、荘園の数が増加したことなどにより、律令政治を支えてきた土地公有の原則が音を立てて崩れ始めた時代でもありました。政府は先述した延喜の荘園整理令の後もたびたび整理令を出すことで不明確な荘園を没収したり、荘園の新設を禁止したりしようとしましたが、荘園の最大所有者である有力貴族が荘園を取り締まるという体制には無理があり、効果...

  • 国司の地方支配と荘園の発達 その1

    ところで、平安時代の初期である9世紀になると、農民の間にも貧富の差が拡大し、浮浪(ふろう)や逃亡(とうぼう)、あるいは延喜(えんぎ)14(914)年に三善清行(みよしのきよゆき)が醍醐(だいご)天皇に提出した「意見封事十二箇条(いけんふうじじゅうにかじょう)」にも指摘されている、戸籍をごまかす偽籍(ぎせき)が増えるなど、班田収授の実施が困難となっていきました。先述のとおり、桓武(かんむ)天皇は班田をそれ...

  • 摂関政治の全盛 その3

    藤原道長によって全盛期を迎えた藤原氏の権力は、道長の子の藤原頼通(ふじわらのよりみち)にそのまま引き継がれました。後一条天皇の摂政から関白となった頼通は、その後も後朱雀(ごすざく)天皇、後冷泉(ごれいぜい)天皇の外戚として関白の地位に就(つ)き、約50年に渡って政治の実権を握り続けました。このように10世紀後半から11世紀後半にかけて、藤原氏が摂政や関白を独占して行った政治のことを「摂関(せっかん)政治...

  • 【ハイブリッド方式】第114回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和8年5月)

    「黒田裕樹の歴史講座」は対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。準備の都合上、オンライン式の講座のお申し込みは事前にお願いします。対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です。メインの主催者である「国防を考える会」のQRコードはこちらです。(クリックで拡大されます)(クリックで拡大されます)第114回黒田裕樹の歴史講座...

  • 摂関政治の全盛 その2

    円融天皇がご即位されたときはまだ11歳と幼かったので、大伯父(おおおじ、親の伯父のこと)にあたる太政大臣の藤原実頼が摂政となりました。翌天禄(てんろく)元(970)年に実頼が死去すると、甥(おい)の藤原伊尹(ふじわらのこれただ)が摂政となりましたが程なく病に倒れ、以後は伊尹の弟である藤原兼通(ふじわらのかねみち)と藤原兼家(ふじわらのかねいえ)との間で激しい勢力争いが行われるようになりました。兄弟同士...

  • 摂関政治の全盛 その1

    康保(こうほう)4(967)年に村上(むらかみ)天皇が崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)され、子の冷泉(れいぜい)天皇が即位された際には、関白(かんぱく)兼太政大臣(だじょうだいじん、または「だいじょうだいじん」)として藤原忠平(ふじわらのただひら)の子である藤原実頼(ふじわらのさねより)が、右大臣(うだいじん)に藤原師尹(ふじわらのもろただ)が、そして左大臣(さだい...

  • 藤原北家の台頭 その7

    延喜19(919)年、道真が亡くなった大宰府の墓所に社殿が建てられたのを皮切りに、天暦(てんりゃく)元(947)年には京都の北野(きたの)にも社殿を建てて道真を祀(まつ)るなど、全国的に道真を祀った神社が建立されました。落雷を起こしたことから、道真は雷の神であった火雷天神(からいてんじん)と同一視され、やがて「天神様」と称されました。また「雷神となった道真公の怨霊が天に満ちた」ことから、道真を祀った社(や...

  • 藤原北家の台頭 その6

    菅原道真が死去した延喜3(903)年から6年後の延喜9(909)年、左大臣の藤原時平が39歳の若さで亡くなったのを皮切りに、延喜23(923)年には醍醐天皇の皇子で皇太子だった保明(やすあきら)親王が21歳の若さで、その2年後には保明親王と藤原時平の娘との間に生まれた子で、醍醐天皇の孫でもあった新たな皇太子の慶頼王(やすよりおう)がわずか5歳で亡くなるなどの不幸が相次ぎました。当時は全国的に天災や疫病(えきびょう)が...

  • 藤原北家の台頭 その5

    ご即位後間もなく起きた「阿衡の紛議」によってご心痛を受けられた宇多天皇でしたが、自身は藤原氏を外戚とせず、また基経の死後に後を継いだ藤原時平(ふじわらのときひら)がまだ若かったこともあって、藤原氏以外の貴族を次々と登用されましたが、その中のひとりに菅原道真(すがわらのみちざね)がいました。菅原氏は代々学者の一族でしたが、特に優秀であった道真は、宇多天皇のご信任を受けて要職を歴任しました。寛平(かん...

  • 藤原北家の台頭 その4

    藤原良房には後継となる男子がいなかったので、兄の子である藤原基経(ふじわらのもとつね)を養子とすると、基経は元慶(がんぎょう)8(884)年に新たに即位された光孝(こうこう)天皇の関白(かんぱく、天皇の成人後に政治を代行する職のこと)に事実上就任しました。その後、基経は光孝天皇の子である宇多(うだ)天皇が仁和(にんな)3(887)年にご即位された際に正式に関白に任命されましたが、宇多天皇が基経に出された勅...

  • 藤原北家の台頭 その3

    伴健岑が承和の変で失脚した伴(とも)氏でしたが、一族である伴善男(とものよしお)が大納言(だいなごん)にまで昇進し、藤原氏に対抗できる勢力に成長しました。しかし、そんな中で貞観(じょうがん)8(866)年に平安京(へいあんきょう)の応天門(おうてんもん)が炎上してしまうという事件が起きました。伴善男は、自分の政敵であり嵯峨天皇の実子でもあった左大臣(さだいじん)の源信(みなもとのまこと)による放火であ...

  • 藤原北家の台頭 その2

    承和(じょうわ)9(842)年、嵯峨上皇が崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)された直後に、伴健岑(とものこわみね)や橘逸勢(たちばなのはやなり)らが皇太子である恒貞親王を東国へ移して謀反(むほん)をたくらんでいることが発覚しました。伴健岑や橘逸勢らは流罪となり、恒貞親王は皇太子を廃され、道康親王が新たに皇太子となりました。この事件を当時の年号から「承和の変」といいます...

  • 藤原北家の台頭 その1

    ※今回より「平安時代」の更新を再開します(5月26日までの予定)。桓武(かんむ)天皇や嵯峨(さが)天皇など、平安時代の初期には藤原氏などの貴族を抑えて天皇ご自身が政務をとっておられました。これを「親政(しんせい)」といいます。しかし、9世紀の半ば頃になると、藤原氏の北家(ほっけ)が皇室との結びつきを強めて次第に勢力を伸ばしていきました。北家とは藤原四兄弟の房前(ふささき)の子孫で、大同(だいどう)5(81...

  • ついに開戦へ その8

    ※「第113回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(5月8日)からは「平安時代」の更新を再開します(5月26日までの予定)。さて、開戦のご聖断が下ったことによって、アメリカとイギリスに宣戦布告するための開戦の詔勅(しょうちょく、天皇の意思を表示する文書のこと)が発表されました。漢文体で書かれた詔勅の原案が東條内閣によって作成されましたが、その文面をご覧になった昭和天皇が「お言葉」を付け加えら...

  • ついに開戦へ その7

    ハル・ノートによって我が国は対米交渉への望みを完全に断たれたことになりますが、その内容の厳しさに関しては、後年に極東国際軍事裁判(=東京裁判)で裁判官を務めたパルが、アメリカの現代史家の言葉を引用して「モナコやルクセンブルクでさえもアメリカに対し矛(ほこ)をとって立ち上がったであろう」と言明しています。しかも、先述したケロッグ国務長官の「経済封鎖は戦争行為そのものである」という言葉を借りれば、先の...

  • ついに開戦へ その6

    幕末の開国に伴って欧米列強から不平等条約を押しつけられて以来、我が国はいつ他国の侵略を受けて植民地化されるかという亡国の危機と背中合わせになりながら、血のにじむような努力で急速な近代化を達成し、気が付けば大日本帝国は世界の一等国として列強と肩を並べるまで成長を遂げました。しかし、いわゆるハリマン問題などを原因としてアメリカとの間に出来た溝が人種差別に基づく日本人敵視政策を生みだし、また昭和初期のア...

  • ついに開戦へ その5

    もしハリー=ホワイトが本当にソ連のスパイであったとすれば、彼がフランクリン=ローズヴェルト大統領に取り入ったことで日米間に埋めようもない深い溝を構築し、日米開戦を誘発したことになりますが、果たしてソ連にそのようなメリットが存在したでしょうか。先述のとおり、アメリカはかねてから東アジアにおける権益を狙っており、そのための障害となっていた日本を敵視し続け、第二次世界大戦に勝利したことによって我が国を中...

  • ついに開戦へ その4

    野村・来栖両大使が持ち帰ったハル・ノートを確認した日本政府の首脳は、東郷外相が「自分は目もくらむばかりの失望にうたれた」と述べるなど、それぞれがその内容に仰天しました。それにしても、なぜアメリカはこうした「最後通牒(さいごつうちょう)」ともいえるハル・ノートを我が国に突き付けたのでしょうか。アメリカのフランクリン=ローズヴェルト大統領は、自国の疲弊した経済の打開やイギリスを助ける意味などもあって日...

  • ついに開戦へ その3

    ハル・ノートは10か条から成り立っていましたが、その内容は日米交渉がそれまでに積み上げてきたものをすべて無視するばかりか、根底から覆(くつがえ)すというまさに言語道断なものであり、特に以下の内容は我が国が絶対に認められないものでした。1.中国大陸や仏印(ふついん、フランス領インドシナ、現在のベトナム・ラオス・カンボジアに相当)からの全面撤兵2.蒋介石の重慶国民政府以外の中国における政府の否認3.日独伊三国...

  • ついに開戦へ その2

    日米交渉の窓口であった駐米大使の野村吉三郎は軍人出身であったので、日本政府はベテラン外交官の来栖三郎(くるすさぶろう)をアメリカに派遣し、野村・来栖の両大使は昭和16(1941)年11月17日にフランクリン=ローズヴェルト大統領と直接会談しました。来栖大使はローズヴェルト大統領に我が国の苦しい立場を素直に表明して、交渉に応じるよう懸命に説得しましたが、大統領は言葉を適当にはぐらかしてやんわりと拒否するばかり...

  • ついに開戦へ その1

    さて、第三次近衛内閣の崩壊後に組閣の大命が下った東條英機でしたが、このことは彼自身にとってまさに青天の霹靂(へきれき)でした。昭和天皇の戦争回避のご意思を拝聴した東條は、それまでの開戦派的姿勢を改め、帝国国策遂行要領を白紙に戻して再検討することとしました。昭和天皇に絶対の忠誠を誓っていた東條首相ならではの方針の転換でしたが、さらに東條は外務大臣に対米協調派の東郷茂徳(とうごうしげのり)を選んだほか...

  • 行きづまる日米交渉・後編 その5

    こうして誕生した東條内閣でしたが、新内閣発足と前後して日本国内でとんでもない謀略事件が発覚しました。いわゆる「ゾルゲ事件」のことです。昭和16(1941)年秋、特別高等警察(=特高)はソ連のスパイ組織が日本国内で諜報(ちょうほう)並びに謀略活動を行っていたとして、ゾルゲや尾崎秀実(おざきほつみ)らを逮捕しました。ゾルゲはドイツの新聞記者として昭和8(1933)年に来日し、ドイツ大使の信頼を得るなどして巧(た...

  • 行きづまる日米交渉・後編 その4

    頼みの綱だった首脳会談が幻(まぼろし)に終わり、対米交渉の外交期限も近づいた昭和16(1941)年10月12日、近衛首相は東條英機(とうじょうひでき)陸軍大臣らと話し合いましたが物別れに終わり、同月18日に第三次近衛内閣は総辞職しました。ところで、これまでに述べた歴史の流れを振り返れば「アメリカが我が国を大東亜戦争に追い込んだ」という見方も成立しそうですが、これは「日本が一方的に侵略した」という「自虐(じぎゃ...

  • 行きづまる日米交渉・後編 その3

    しかし、昭和に入った頃からの我が国においては、敵国と化したアメリカやイギリスあるいはオランダなどを離反もしくは分断させるような工作や謀略が、政府によって熱心に研究されたような形跡が今も見つかっていません。戦国時代や幕末あるいは明治期において数々の工作や謀略を成功させてきた我が国が、なぜこの時期になって先人の経験を生かすことができなかったのでしょうか。その理由として考えられることは、そうした先人の智...

  • 行きづまる日米交渉・後編 その2

    人間というものは、一般的に戦争など目に見える大きな出来事に心を奪われがちですが、一つの戦闘行為の裏には数えきれないほどの下準備や謀略などが隠されているものです。それは我が国においても例外ではなく、動乱の戦国時代を最終的に制した者は、単なる戦(いくさ)上手だけではなく、ありとあらゆる謀略を使ったうえで200年以上の長きにわたる平和を築き上げた徳川家康(とくがわいえやす)でした。また、開国など様々な影響...

  • 行きづまる日米交渉・後編 その1

    御前会議の終了後、対米関係の悪化に苦慮(くりょ)していた近衛文麿首相は、事態打開のためにフランクリン=ローズヴェルト大統領と直接会談しようとしました。駐日大使のグルーは首脳会談の早期実現を本国に強く訴えましたが、大西洋憲章で対日戦争に関する協議を行っていたアメリカはこれに応じず、昭和16(1941)年10月2日に会談の拒否を我が国に通告しました。ところで、そもそも世界情勢というものは、今も昔もほんのわずか...

  • 行きづまる日米交渉・前編 その4

    アメリカが我が国への石油禁輸を決めた直後の1941(昭和16)年8月9日、フランクリン=ローズヴェルト大統領はイギリスのチャーチル首相と大西洋上で極秘に会談を行い、同月14日に両国は「大西洋憲章」を結びました。憲章において米英両国は大戦終結後の世界秩序の構想を決定したとされていますが、憲章を結んだ段階でアメリカはまだ第二次世界大戦に参戦していないことから、実質的には両国首脳が対日戦争に関する協議を行ったとい...

  • 行きづまる日米交渉・前編 その3

    先述したように、当時のアメリカとイギリスは、日本をアメリカと戦争させ、なおかつ第一撃を日本に撃たせるよう、すなわち先制攻撃を我が国にさせるべく画策していました。そのために石油などの重要な資源を輸出しない、すなわち「売らない」ことで我が国を追いつめようとしていたのです。一方、南部仏印を含む南洋ルートはゴムや錫(すず)などの天然資源が豊富であり、コメの生産も盛んでした。北進論を断念した我が国にとって、...

  • 行きづまる日米交渉・前編 その2

    アメリカによって昭和15(1940)年に日米通商航海条約を廃棄させられた我が国は、物資や石油などの重要な資源の不足に悩まされたことで、蘭印(らんいん、オランダ領東インド、現在のインドネシア)に対して戦略物資の輸入交渉を続けましたが、先述のとおりABCDラインでアメリカやイギリスとつながっていたオランダによって交渉は暗礁(あんしょう)に乗り上げました。このため、我が国はフランスに対して植民地である仏印の南部に...

  • 行きづまる日米交渉・前編 その1

    日華事変の泥沼化や日独伊三国同盟の締結、さらには北部仏印(ふついん、フランス領インドシナ、現在のベトナム・ラオス・カンボジアに相当)進駐にABCDラインの形成など、様々な戦闘行為や外交状況が重なるなかで我が国とアメリカとの関係はますます悪化していきました。こうした事態を打開するため、第二次近衛文麿内閣は昭和16(1941)年に「日米交渉」を本格化させました。日米交渉における我が国側の窓口となったのは、駐米大...

  • 三国同盟と日ソ中立条約・後編 その5

    1941(昭和16)年6月に独ソ戦が始まった際に、我が国はドイツを助けてソ連を攻撃する(=北進論)か、あるいは石油などの資源を確保するために南方に進出する(=南進論)かという大きな岐路(きろ)に立たされました。しかし、いかにドイツやイタリアと三国同盟を結んでいたとしても、日ソ中立条約が結ばれてからわずか2か月でソ連を攻撃すれば国際的な非難が集中するのは明白でした。結局我が国は翌7月に昭和天皇ご臨席のもとで...

  • 三国同盟と日ソ中立条約・後編 その4

    話が先走りますが、第二次世界大戦に勝利することでアメリカは悲願であった東アジアに対する権益を持つことができると確信していました。自国が手を伸ばそうとした地域に対して先に日本が不当に支配(実際には正当な権益でしたが)していたのを憎んだからこそ、多大な犠牲を払いながらも我が国を叩き潰したのです。しかし、満洲を含む中国大陸では蒋介石が追われて中国共産党の毛沢東(もうたくとう)が中華人民共和国を建国し、朝...

  • 三国同盟と日ソ中立条約・後編 その3

    第二次世界大戦の開戦直後のドイツはフランスを降伏させるなど破竹の勢いで勝ち進み、イギリスは本土を空爆されるまで追いつめられていましたが、そんな折に首相に就任したチャーチルは、イギリスがドイツに勝利するためには、アメリカを味方につけてヨーロッパの戦争に引きずり込むしかないと考えるようになっていました。一方、アメリカのフランクリン=ローズヴェルト大統領も「攻撃を受けた場合を除いて絶対に戦争はしない」と...

  • 三国同盟と日ソ中立条約・後編 その2

    アメリカやイギリスを中心とする重要資源の輸入制限に悩まされた我が国は、蘭印(らんいん、オランダ領東インド、現在のインドネシア)に対して戦略物資の輸入の交渉を始めましたが、当時のオランダは裏でアメリカやイギリスとつながっており、断続的に行われた交渉は最終的に失敗に終わりました。こうして、アメリカ(America)・イギリス(Britain)・中華民国(China)・オランダ(Dutch)といった東アジアに権益を持つ国々が、...

  • 三国同盟と日ソ中立条約・後編 その1

    昭和12(1937)年に勃発した日華事変は、同年12月に首都の南京が陥落し、蒋介石が重慶(じゅうけい)に逃げ込んだ後も泥沼化していましたが、その最大の要因は、日華事変に関しては中立国のはずであったアメリカやイギリス・フランスを中心として、蒋介石に対する経済的・軍事的な援助が続いていたことにありました。我が国は蒋介石への援助を断ち切るため中国の沿岸を封鎖しましたが、各国は日本軍の勢力範囲外の陸路を通じて援助...

  • 三国同盟と日ソ中立条約・前編 その5

    当時の外務大臣だった松岡洋右には、日独伊三国同盟を結ぶことによってアメリカにプレッシャーをかけ、泥沼化していた日華事変の解決や難航していた日米交渉をまとめようという思惑がありました。松岡外相はアメリカを説得するため、ドイツと不可侵条約を結んでいたソ連にも接近して昭和16(1941)年4月に「日ソ中立条約」を締結しましたが、そのわずか2か月後の6月にドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻したため、外相の目...

  • 三国同盟と日ソ中立条約・前編 その4

    かくして我が国はドイツやイタリアと日独伊三国同盟を結んだわけですが、この三国が急接近した背景には、かつての世界恐慌がもたらしたブロック経済が大きくかかわっていました。ブロック経済は、アメリカやイギリスあるいはフランスなどのように広大な領土や植民地を有する「持てる国」であれば自給自足が可能ですが、広大な領土や植民地を「持たざる国」であった我が国やドイツ・イタリアなどにとっては、まさに死活問題でした。...

  • 三国同盟と日ソ中立条約・前編 その3

    阿部信行内閣の後を受けて昭和15(1940)年1月に成立した米内光政(よないみつまさ)内閣は親英米派であるとともにドイツとの同盟に反対していましたが、同年6月に勢いに乗るドイツがフランスを降伏させると、陸軍が米内内閣の陸軍大臣を辞任させて後任者を推薦(すいせん)しなかったため、軍部大臣現役武官制によって米内首相は同年7月に内閣を総辞職せざるを得ませんでした。米内にかわって内閣を組織したのは、元枢密院(すう...

  • 三国同盟と日ソ中立条約・前編 その2

    アメリカが日米通商航海条約の廃棄(はいき)を通告してきた理由は「言いがかり」に等しいものでしたが、我が国の懸命の交渉も実らず条約の廃棄が翌昭和15(1940)年1月から発効したため、日華事変の遂行(すいこう)などに必要な物資の多くをアメリカからの輸入に依存していた我が国は大打撃を受けました。我が国がアメリカから理不尽ともいえる仕打ちを受けていた頃、第二次世界大戦を始めたドイツは破竹の勢いで緒戦を制し、大...

  • 三国同盟と日ソ中立条約・前編 その1

    独ソ不可侵条約の締結を理由に平沼騏一郎内閣が総辞職し、昭和14(1939)年8月に阿部信行が新たに内閣を組織した直後の同年9月1日に、ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)しましたが、阿部首相は日華事変(=日中戦争)の解決を優先して大戦不介入の方針をとりました。阿部内閣はアメリカとの関係改善を目指して交渉を続けましたが、既(すで)に対日戦略を着実に固めつつあったアメリカは、日本軍の軍...

  • 第二次世界大戦の勃発・後編 その6

    当時の欧米列強を揺(ゆ)るがした世界恐慌をはじめ、我が国でも昭和初期からの金融恐慌や昭和恐慌などが相次いだことで、世界においてそれまでの自由主義経済が行きづまったと認識された一方で、圧倒的な国力を背景に社会主義国のソ連が大きな成長を続けているように見えたことから、当時の世界の大きな流れが社会主義に傾きつつあったということを私たちは忘れてはいけません。さらには、ソ連が体制維持のためにコミンテルンを組...

  • 第二次世界大戦の勃発・後編 その5

    これまで述べてきたように、結果だけを見れば宥和政策を続けたことが第二次世界大戦の引き金になったのは疑いようがないものの、だからと言って宥和政策そのものが「間違いであった」とは決めつけられない一面もありますね。史実においては、第二次世界大戦で我が国やドイツとイタリアが徹底的に叩き潰されたわけですが、イギリスやフランス、あるいはアメリカなどにとっての「本当の敵」は果たしてどの国だったのでしょうか。もし...

  • 第二次世界大戦の勃発・後編 その4

    ドイツとソ連とがやがて戦争を始める運命にあったということは、当初の宥和政策の目的の一つであった「ソ連を倒すためにドイツを利用する」ことが決して間違っていなかったということにもなります。実際にドイツがポーランドに侵攻したことで自国の安全保障に重大な懸念が生じたわけですから、イギリスやフランスがドイツに宣戦布告をしたというのも決して無理はありません。しかし、ドイツとソ連とがいずれは衝突するという読みが...

  • 第二次世界大戦の勃発・後編 その3

    ヒトラー率いるドイツのナチスと、スターリンを中心とするソ連の共産党とは、いずれも「国家が経済を完全にコントロールし、自由な経済活動を一切認めない」という点において全く同じでした。両国の違いは、ナチスが「国家が主体となって行う社会主義」を目標としたのに対し、ソ連が「人民が主体となって行う社会主義」を目標としただけであり、しかもソ連において実際に政治を動かしていたのは「共産党=国家」であったのですから...

  • 第二次世界大戦の勃発・後編 その2

    以上のように考えれば、宥和政策は確かに失敗だったと言わざるを得ないかもしれませんが、その一方で結果だけを見たり、あるいは現代の価値観だけで物事を考えたりすることが本当に正しいでしょうか。先述のとおり、当時はチェンバレン政権のイギリスのみならず、主要国のほとんどが第一次世界大戦のトラウマから厭戦(えんせん、戦争することを嫌うこと)ムードとなっており、宥和政策の転換をためらっていたことを忘れてはいけま...

  • 第二次世界大戦の勃発・後編 その1

    ところで、1939(昭和14)年に第二次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)した大きな原因の一つに、それ以前にイギリスが行っていた「宥和政策」が失敗に終わったことがあるという見解が一般的なようですが、これは本当のことでしょうか。先述のとおり、イギリスのチェンバレン首相(当時)が宥和政策を決断したのはドイツに対抗できるだけの戦力を再建するための時間稼ぎという一面もありましたが、これに味をしめたヒトラーが増長したとい...

  • 第二次世界大戦の勃発・前編 その6

    首都パリの陥落によってフランスの第三共和政は崩壊(ほうかい)し、北半分がドイツに占領されたほか、南半分にはドイツに協力的なヴィシー政権が誕生しましたが、ロンドンに亡命したド=ゴール将軍はイギリスで自由フランス政府を組織して国民に抵抗を呼びかけました。これを「レジスタンス」といいます。また、イギリスではドイツによる激しい空襲が繰り返されましたが、1940(昭和15)年にチェンバレンにかわって首相に就任した...

  • 第二次世界大戦の勃発・前編 その5

    勢いに乗るドイツはフランスにも総攻撃を仕掛け、1940(昭和15)年6月に首都のパリを落としました。パリ陥落(かんらく)を受けて、ドイツの攻撃を見守っていたイタリアも参戦し、第二次世界大戦はさらに複雑化するようになりました。なお、フランス軍はパリから退却する際に首都攻防戦を選択せずに無傷でドイツに明け渡すという、いわゆる「オープン・シティ」化を採りましたが、これは後日にパリを奪還すべく力を蓄えて捲土重来...

  • 第二次世界大戦の勃発・前編 その4

    独ソ不可侵条約に力を得たヒトラー率いるドイツは、1939(昭和14)年9月1日にポーランドへ侵攻しました。これに対し、9月3日にイギリスとフランスがドイツに宣戦布告したことで、ついに「第二次世界大戦」が始まりました。ドイツがポーランドへ侵攻してその西半分を占領した直後の9月17日、今度はソ連がポーランドへ侵攻して、東半分を占領しました。勢いに乗るソ連は続いてフィンランドへ侵攻したほか、翌1940(昭和15)年には、...

  • 第二次世界大戦の勃発・前編 その3

    1939(昭和14)年5月、ソ連軍はノモンハン事件をきっかけとして我が国の関東軍と激しい戦闘を繰り広げましたが、機械化部隊に壊滅的打撃を受けたほか、兵力の被害も我が国の倍以上に達するなど大敗北を喫しました。この結果に慌(あわ)てたソ連のスターリンはドイツに停戦の仲介を依頼するとともに、ヨーロッパとアジアの二正面から攻撃を受けないようにするためドイツと和平を結ぶことを画策しましたが、これはポーランド侵攻を...

  • 第二次世界大戦の勃発・前編 その2

    1938(昭和13)年3月、ドイツは民族統合を名目としてオーストリアを併合し、さらに9月にはドイツ人が多く居住するチェコスロバキア(現在のチェコとスロバキア)のズデーテン地方の割譲(かつじょう)を要求するなど、その膨張(ぼうちょう)ぶりは目を見張るものがありました。ドイツの要求に対し、イギリスのチェンバレン首相は話し合いと譲歩による「宥和(ゆうわ)政策」を推進し、イギリス・ドイツ・フランス・イタリアの4か...

  • 第二次世界大戦の勃発・前編 その1

    ※今回より「第113回歴史講座」の内容を更新します(5月7日までの予定)。ヒトラーが率いたナチス[=国家(国民)社会主義ドイツ労働者党]が政権を握ってからのドイツは、1936(昭和11)年に首都ベルリンで夏季オリンピックを開催するなど、国家社会主義に基づく驚異的な経済復興を成し遂(と)げ、国民生活も向上しました。しかし、それまでのヴェルサイユ体制を打破して領土を再分割し、世界恐慌(きょうこう)後の苦境から脱出...

  • 弘仁・貞観文化 その16

    ※「平安時代」の更新は今回で中断します。明日(3月30日)からは「第113回歴史講座」の内容を更新します(5月7日までの予定)。先述のとおり、奈良時代の8世紀頃から仏教の広まりによって神祇(じんぎ)信仰と仏教とが次第に調和し融合(ゆうごう)する「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」の風潮が広がりました。神社の境内(けいだい)に神宮寺(じんぐうじ)を建てたり、寺院の境内に守護神(しゅごしん)をまつり、神前で読経(...

  • 弘仁・貞観文化 その15

    密教は美術の方面でも影響を及ぼし、神秘的な作品が数多くつくられました。彫刻では密教とかかわりのある如意輪観音(にょいりんかんのん)や不動明王などの仏像が、一本の木から一体の仏像を彫りおこす一木造(いちぼくづくり)でつくられました。当時の代表的な彫刻としては、観心寺(かんしんじ)如意輪観音像や室生寺弥勒堂(みろくどう)の釈迦如来坐像(しゃかにょらいざぞう)、衣のしわを波が翻(ひるがえ)っているように...

  • 弘仁・貞観文化 その14

    天台宗や真言宗は、深遠(しんえん)な呪術(じゅじゅつ)の取得や厳しい修行によって仏教の奥義(おうぎ)を究めるという密教であり、加持祈祷(かじきとう)を中心とする儀式がタタリを鎮(しず)めるなど怨霊(おんりょう)封じに相応(ふさわ)しく、また幸福を追求する「現世利益(げんぜりやく)」の面から皇室や貴族によって支持されました。ちなみに、真言宗の密教は「東密(とうみつ)」、天台宗の密教は「台密(たいみつ...

  • 弘仁・貞観文化 その13

    空海は承和(じょうわ)2(835)年に62歳で死去しましたが、それから86年後の延喜(えんぎ)21(921)年に、醍醐(だいご)天皇から「弘法大師(こうぼうだいし)」の諡号(しごう、貴人や高徳の人に死後贈る名前のこと)を賜(たまわ)りました。なお、空海は「入定(にゅうじょう)」したとされ、入定すると肉体もまた永続性を獲得するという考え方から、後に空海は死んだのではなく、永遠に現世に留まって、衆生(しゅじょう)...

  • 弘仁・貞観文化 その12

    ところで、空海に由来して今も広く使用される「弘法(こうぼう)にも筆の誤り」「弘法筆を選ばず」ということわざですが、「弘法にも筆の誤り」は「その道に優れている人でも時には失敗することがある」、「弘法筆を選ばず」は「本当の名人は道具の善し悪しなど問題にしない」という意味で使われています。実は、このうち「弘法にも筆の誤り」の由来が、平安時代末期に成立したとされる「今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)...

  • 弘仁・貞観文化 その11

    真言宗(しんごんしゅう)の開宗(かいしゅう)は弘仁14(823)年とされていますが、この年に空海は嵯峨天皇から京都の東寺(とうじ)を下賜されました。東寺は平安京遷都に際して、西寺(さいじ)とともに鎮護国家の中心寺院として創建された由緒ある寺であり、これを空海に託すということは、嵯峨天皇が空海を仏教界の第一人者として認めておられたことを意味しているといえます。高野山とは別に、都にも真言密教の根本道場を建...

  • 弘仁・貞観文化 その10

    帰国した空海は、3年後の大同4(809)年にようやく入京が許されると、先述した「薬子(くすこ)の変」の際に自ら嵯峨天皇側に売り込んで、鎮護(ちんご)国家のための大祈祷を行いました。その功を賞されて、以後の空海は嵯峨天皇の庇護(ひご)のもとで急速にその存在感を発揮し始めました。弘仁7(816)年、空海は修行のための道場として、紀伊国(きいのくに、現在の和歌山県伊都郡高野町)の高野山の下賜(かし、身分の高い人...

  • 弘仁・貞観文化 その9

    師である恵果の言葉どおり、すぐにでも日本に飛んで帰りたかった空海でしたが、その身は期間20年の留学僧であり、何よりも遣唐使船が唐に来なければどうしようもありませんでした。ところが、唐の新皇帝の即位を祝うために新たに遣唐使船が派遣されることになり、幸運にも空海はその帰りの船に同乗することができました。しかし、帰りの船はまたしても暴風雨に遭い、あわや難破かと思われたとき、空海は唐で彫った不動明王像(ふど...

  • 【ハイブリッド方式】第113回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和8年3月)

    「黒田裕樹の歴史講座」は対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。準備の都合上、オンライン式の講座のお申し込みは事前にお願いします。対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です。メインの主催者である「国防を考える会」のQRコードはこちらです。(クリックで拡大されます)(クリックで拡大されます)第113回黒田裕樹の歴史講座...

  • 弘仁・貞観文化 その8

    入唐(にっとう)した空海は、まず梵語(ぼんご、別名を「サンスクリット」)を学びました。仏教の聖典の多くは梵語で書かれているため、教義の深奥(しんおう)に迫るためには絶対に必要だったのです。そして805年旧暦5月、当時の密教の第一人者で青龍寺(しょうりゅうじ)の恵果(けいか)を訪ねました。空海を一目見た恵果は「あなたが来ることは知っていた。いつ来るかと待っていたものだ」と喜んで彼を迎え、すぐさま教義の伝...

  • 弘仁・貞観文化 その7

    空海は、宝亀(ほうき)5(774)年に讃岐国(さぬきのくに、現在の香川県善通寺市)で、父の佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)と母の玉依御前(たまよりごぜん)のあいだに生まれ、幼名を「真魚(まお)」といいました。地方官たる郡司を父に持った真魚は、幼い頃から聡明さを称えられ、15歳の頃には京都(=長岡京)に出て、叔父で儒学者の阿刀大足(あとのおおたり)から学問の手ほどきを受けると、18歳で官吏育成機関であった...

  • 弘仁・貞観文化 その6

    大乗戒壇の設置によって延暦寺は仏教教学の中心となりましたが、それはすなわち、天台宗における大乗仏教の教えが後世に様々なかたちで派生したことを意味していました。例えば、10世紀半ばに浄土教(じょうどきょう)を広めた源信(げんしん)も、若い頃に延暦寺で修行した後に、阿弥陀仏(あみだぶつ)の極楽浄土に往生し成仏することを説きました(詳しくは後述します)。源信の教えは鎌倉時代に浄土宗(じょうどしゅう)を開祖...

  • 弘仁・貞観文化 その5

    また、翌弘仁14(823)年に彼が建立した寺院が「延暦寺(えんりゃくじ)」の勅額(ちょくがく、天皇が国内の寺院に特に与える直筆の書で記された寺社額のこと)を授かったことで、以後は「比叡山延暦寺」と呼ばれるようになりました。その後、貞観8(866)年には清和天皇より「伝教大師(でんぎょうだいし)」の諡号(しごう、貴人や高徳の人に死後贈る名前のこと)を賜(たまわ)りました。また、最澄の教えは弟子の円仁(えんに...

  • 弘仁・貞観文化 その4

    還学生(げんがくしょう、ここでは短期国費留学生のこと)として延暦23(804)年に入唐(にっとう)した最澄は、天台山(てんだいさん)に留学して修行を重ね、天台の奥義を深めたほか、禅(ぜん)も学び、密教(みっきょう)も身に付けて、翌延暦24(805)年に帰国しました。帰国した翌年の延暦25(806)年、最澄の教えは「天台宗(てんだいしゅう、別名を天台法華宗=てんだいほっけしゅう)」として国家に認められましたが、彼...

  • 弘仁・貞観文化 その3

    先述のとおり、桓武(かんむ)天皇は「道鏡(どうきょう)事件」が起きるなど大きくなり過ぎた仏教勢力との決別をはかるため、延暦(えんりゃく)3(784)年に長岡京(ながおかきょう)、さらに延暦13(794)年に平安京に遷都されました。なお、桓武天皇は遷都の際に南都(なんと)、すなわち平城京(へいじょうきょう)付近の寺院の移転を許可されませんでしたが、これは「旧来の仏教勢力の抑制」のほか、長屋王(ながやおう)な...

  • 弘仁・貞観文化 その2

    官吏(かんり)の養成機関である大学(だいがく)において作文能力の優劣が採用試験で重要視されたことにより、大学での学問はそれまでの儒教(じゅきょう)中心のものから次第に歴史や文章を学ぶ紀伝道(きでんどう、または文章道=もんじょうどう)が盛んになりました。このため、有力貴族は大学で学ぶ一族子弟の寄宿と勉学の施設としての大学別曹(だいがくべっそう)を設けました。主な大学別曹としては、藤原氏の勧学院(かん...

  • 弘仁・貞観文化 その1

    平安京(へいあんきょう)への遷都(せんと)の頃から9世紀後半頃までの文化は、当時の嵯峨(さが)天皇や清和(せいわ)天皇の時代の年号から「弘仁(こうにん)・貞観(じょうがん)文化」と呼ばれています。平安京における貴族中心の文化が発展し、学芸を中心に国家の隆盛を目指すという文章経国(もんじょうけいこく)の方針のもとで、唐風文化が最盛期を迎えました。平安時代の貴族の教養として、漢詩文を作ることが重視され...

  • 薬子の変 その3

    桓武天皇の時代に諸国の軍団(ぐんだん)や兵士が廃止されたことで、平安京(へいあんきょう)の治安の悪化が懸念されるようになりました。そこで嵯峨天皇は、警察の機能とともに後には裁判も行うようになった検非違使(けびいし)を設置し、都の治安維持を担当させましたが、地方においては警察権が事実上存在しなくなり、都の「平安」の名とは裏腹に治安の乱れが甚(はなは)だしくなっていきました。また、嵯峨天皇は法制の整備...

  • 薬子の変 その2

    兄の不穏(ふおん)な動きに対して、嵯峨天皇は大同5(810)年旧暦3月に、天皇の命令を速やかに伝えるための秘書官としての役割を持つ蔵人所(くろうどどころ)を設置され、側近の藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)らが、その長官に当たる蔵人頭(くろうどのとう)に任命されました。大同5(810)年旧暦9月、平城上皇はついに平城京への再遷都(さいせんと)を宣言され、朝廷に反旗を翻(ひるがえ)されましたが、事前に動きを察知さ...

  • 薬子の変 その1

    先述のとおり、桓武(かんむ)天皇の子で皇太子の安殿親王(あてしんのう)は身体が弱く、病気がちでした。そんな親王の后(きさき)としてある女性が選ばれた際に、その女性が幼かったため、彼女の母親も後見役として一緒に迎えられましたが、ここでとんでもないことが起きてしまいました。何と、后の母親が、自身に夫がいるにもかかわらず、親王と「男女の関係」になってしまったのです。その母親こそが藤原種継(ふじわらのたね...

  • 平安京への遷都 その4

    光仁天皇ご在位の宝亀(ほうき)11(780)年、朝廷に帰順したはずの蝦夷(えみし)の豪族の伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)が反乱を起こしました。伊治呰麻呂は朝廷の鎮守府(ちんじゅふ、軍政をつかさどる役所のこと)である多賀城(たがじょう、現在の宮城県多賀城市)を落とすなど攻撃を続けました。桓武天皇は延暦8(789)年に紀古佐美(きのこさみ)を征東大使(せいとうたいし)に任命して蝦夷の征伐を命じられましたが、...

  • 平安京への遷都 その3

    桓武天皇は律令制を実情に合わせて次々と修正され、令(りょう)で定められていない新しい官職を定められました。これを「令外官(りょうげのかん)」といいます。地方政治の改革のために設けられた勘解由使(かげゆし)もそのひとつで、地方行政官である国司(こくし)の交代に際して、後任者から前任者に与えられる解由状(げゆじょう)を審査させました。解由状は、前任者の国司が任期中に不正を行わなかったどうかを後任者が証...

  • 平安京への遷都 その2

    早良親王の憤死(ふんし)後、朝廷では不幸な出来事が続発しました。疫病(えきびょう)である天然痘(てんねんとう)が大流行し、桓武天皇の母親や后(きさき)が次々と亡くなったのです。新たに皇太子となった子の安殿(あて)親王も病気がちとなり、事態の深刻さに慌(あわ)てられた桓武天皇は、これらの「早良親王のタタリ」とも思える現状を打破するために、延暦13(794)年に平安京(へいあんきょう)に再遷都されました。...

  • 平安京への遷都 その1

    ※今回より「平安時代」の更新を開始します(3月29日までの予定)。天智(てんじ)天皇の孫にあたる光仁(こうにん)天皇は、先述のとおり藤原百川(ふじわらのももかわ)や藤原永手(ふじわらのながて)らの協力のもとで律令政治の再建を目指されましたが、天応(てんおう)元(781)年に子の桓武(かんむ)天皇に譲位されました。桓武天皇は道鏡(どうきょう)による政策などで大きくなり過ぎた仏教勢力との決別や、それまでの都...

arrow_drop_down

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用