欧米列強からの侵略や植民地化を防ぐためには、近代的な軍事制度の充実も急務でした。明治4(1871)年に断行された廃藩置県に先立って、不測の事態に備えて編成された御親兵は翌明治5(1872)年に「近衛兵(このえへい)」として再編され、主として天皇周辺の警護を担当しました。また、廃藩置県によって全国の藩兵は解散させられましたが、一部は兵部省(ひょうぶしょう)の下で明治4(1871)年に東京・大阪・鎮西(ちんぜい、後...
欧米列強からの侵略や植民地化を防ぐためには、近代的な軍事制度の充実も急務でした。明治4(1871)年に断行された廃藩置県に先立って、不測の事態に備えて編成された御親兵は翌明治5(1872)年に「近衛兵(このえへい)」として再編され、主として天皇周辺の警護を担当しました。また、廃藩置県によって全国の藩兵は解散させられましたが、一部は兵部省(ひょうぶしょう)の下で明治4(1871)年に東京・大阪・鎮西(ちんぜい、後...
秩禄処分によって、年間の5倍から14倍の額となる金禄公債証書が支給者に発行されましたが、5年間は現金化が禁止されたうえに、それ以後に証書が満期を迎えた後も、抽選に外れれば現金化できないという仕組みになっていました。しかも、現金化が可能となるまでは年間の利息分しか支給されず、華族などの高禄者が投資などで生計を立てることが可能だった一方で、生活できない額の利息しかもらえなかった多くの士族が困窮(こんきゅう...
かくして「四民平等」が実現した一方で、政府は華族や士族に対して給与にあたる家禄(かろく)の支給を続けており、また維新の功労者にも賞典禄(しょうてんろく)を支給していました。これらの禄を合わせて「秩禄(ちつろく)」といいましたが、その支出額は国の歳出の約30%を占めており、政府にとって大きな負担になっていました。また、明治6(1873)年には「徴兵令」が定められたことで(詳細は後述します)、士族とは無関係...
※「黒田裕樹の歴史講座」で記されている内容は、あくまで歴史的経緯あるいは事実に基づくものであり、現代につながるような差別を意図して表現したものではないことをあらかじめご承知おきください。 従来の封建的な身分制度の廃止を進めた明治政府は、明治2(1869)年に藩主や公家を「華族」、藩士や旧幕臣を「士族」、それ以外のいわゆる「農工商」の農民・町人を「平民」としました。また翌明治3(1870)年には平民も苗字(みょ...
版籍奉還から廃藩置県という中央集権化への流れのなかで、明治政府の組織の改革も進みました。版籍奉還が行われた明治2(1869)年、政体書による太政官制(だじょうかんせい)が改められ、かつての「大宝律令(たいほうりつりょう)」の形式を復活させました。すなわち、従来の太政官の外に、神々の祀(まつ)りをつかさどる神祇官(じんぎかん)を復興し、太政官の下に民部省(みんぶしょう)などの各省を置きました。その後、廃...
廃藩置県がスムーズに行われた根拠のひとつとして、約1万人の御親兵を準備していたというのが考えられますが、もっと大きな理由が別にありました。まず挙げられるのは、当時の多くの武士たちが持っていた「先祖代々続いてきた我が国を守らなくてはいけない」という強い使命感でした。ある意味「武士の集団自殺」ともいえる大事業は、一人ひとりの武士の気概(きがい)によって支えられていたのです。他の理由としては「経済的な事...
政府は、薩摩・長州・土佐から約1万人の御親兵(=政府直属の軍隊のこと)を集めて軍事力を固めたうえで、明治4(1871)年旧暦7月に東京在住の知藩事を皇居に集めて、明治天皇の詔(みことのり、天皇の言葉を直接伝える文書のこと)によって「廃藩置県」を一方的に断行しました。これによって、すべての藩は廃止されて県となり、知藩事は罷免(ひめん)されて東京居住を命じられ、各府県には新たに中央政府から「府知事」や「県令...
版籍奉還の後、旧藩主は新たに「知藩事(ちはんじ)」に任命され、そのまま藩政を行いました。つまり、版籍奉還によって藩は領地や領民は返上したものの、徴税や軍事といった政治の実権は従来どおり知藩事たる旧藩主が握ったということを意味していました。藩が持っていた「領地」「領民」「政治の実権」のうち、政府が領地と領民を返上させる一方で政治の実権を藩に残した背景には、いきなりすべての権利を奪(うば)ったのでは各...
さて、明治政府は戊辰(ぼしん)戦争などによって没収した旧幕府領を直轄地(ちょっかつち)としたほか、東京・大阪・京都などの要地を「府」とし、その他を「県」としましたが、諸藩は各大名が従来どおり統治することを認めていました。しかし、欧米列強による侵略から我が国の独立を守るためには権限と財源の政府への一元化を、すなわち政府の命令を全国津々浦々にまで行き届けるために「中央集権化」を目指す必要がありました。...
明治元(1868)年旧暦7月、明治天皇の名において江戸は「東京」と改められ、東京府が置かれました。翌8月には京都で明治天皇の即位の礼が行われ、翌9月8日には元号がそれまでの慶応(けいおう)から「明治」へと改められました。明治の元号は慶応4年旧暦1月1日からさかのぼって適用され、以後は天皇一代につき元号一つと決められました。これを「一世一元(いっせいいちげん)の制」といいます。一世一元の制によって、天皇が交代...
ところで、桓武(かんむ)天皇が延暦(えんりゃく)13(794)年に平安京へ遷都(せんと)されて以来、一時的な例外を除いて京都は我が国の首都でしたが、大政奉還から王政復古の流れのなかで、政治の刷新という意味も込めて新しい首都を定めようという雰囲気(ふんいき)が高まりました。新政府の内部では、大久保利通(おおくぼとしみち)が大坂(=現在の大阪)への遷都を主張しましたが、江戸城が無血開城となり、江戸の街が戦...
五箇条の御誓文で新しい政治の基本方針を示した明治政府でしたが、その一方で、国内の治安維持をどうするかということも緊急を要する課題でした。幕末以来の政治の激変が深刻な社会不安をもたらしたところへ、曲がりなりにも260年以上続いていた幕府が崩壊(ほうかい)したことによって、さらなる混乱が予想されたからです。そこで、政府は応急の措置(そち)として、五箇条の御誓文が発表された翌日の明治元(1868)年旧暦3月15日...
明治元(1868)年旧暦閏(うるう)4月、新政府は「政体書(せいたいしょ)」を公布し、五箇条の御誓文で示された方針に基づく政治組織を整えました。具体的には、王政復古の大号令で定められた総裁・議定(ぎじょう)・参与のいわゆる「三職」を廃止し、太政官(だじょうかん)にすべての権力を集中させ、その下に立法権を持つ議政官(ぎせいかん)・行政権を持つ行政官・司法権を持つ刑法官を置くとする「三権分立制」を採り入れ...
御誓文には、明治新政府の当面の基本方針を「天皇が神々に誓われる」という形式にすることによって、国民に信頼感や安心感を与えるという意味も込められていました。そして、それだけの覚悟を決めたマニフェストは簡単に破ることが許されず、絶対に実行しなければならないものだったのです。なお、御誓文の内容は参与の由利公正(ゆりきみまさ)や福岡孝弟(ふくおかたかちか)が起草したものに、木戸孝允(きどたかよし)が修正を...
明治元(1868)年旧暦1月、新政府は兵庫に欧米列強の代表を集め、王政復古と今後は天皇が外交を親裁(しんさい、君主が自分で裁決すること)することを通告するとともに、旧幕府が列強と結んだ条約を引き継ぐことを約束して対外関係を整理しました。新政府からすれば、自分たちが政治の実権を握る前に江戸幕府が諸外国に無理やり結ばされた不平等条約など引き継ぎたくはありませんでしたが、政権が交代しても国家間のルールをその...
「このままでは我が国も他国の植民地とされてしまうのではないか」という強い危機感をもった明治新政府は、欧米列強と肩を並べるためにも一刻も早い近代国家としての確立を目指さなければなりませんでした。しかし、それまで260年以上も政治を行ってきた江戸幕府に比べ、産声(うぶごえ)をあげたばかりの新政府がいくら優れた政策を実行しようとしたところで、果たしてどれだけの国民がついてくるというのでしょうか。そこで、新...
※今回より「第101回歴史講座」の内容を更新します(5月13日までの予定)。ペリーによる黒船来航のいわゆる幕末の頃から、明治新政府によって我が国が近代国家として新たな歩みを始める一連の歴史の流れを一般的に「明治維新」といいますが、当時は「御一新」と呼ばれました。徳川家による江戸幕府の「大政奉還(たいせいほうかん)」から「王政復古の大号令」を経て政治の実権を握った明治新政府でしたが、その前途は多難であり、...
※「第100回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(4月10日)からは「第101回歴史講座」の内容を更新します(5月13日までの予定)。物事には「プラスとマイナス」があり、また「光と影」があります。それは歴史においても例外ではなく、両方をバランスよく学ぶことで「本当の歴史」を初めて理解できるはずです。しかし、今の歴史教育はあまりにも「マイナス」や「影」の部分を強調し過ぎではないでしょうか。一方的...
4世紀には「朝廷」がなく、また「天皇」も当時は「大王(おおきみ)」と呼ばれていたのだから、政権の名前は「ヤマト王権」こそが正しいのであり、また「自分の陵(みささぎ)の建設に際して国民を強制的に労働させた」仁徳天皇のような人物の古墳が今も存在するかどうかは非常に疑わしく、さらには聖徳太子も存在せず、中国の皇帝を怒らせた「厩戸王」を美化しただけに過ぎないということになります。鎌倉幕府は源頼朝が守護や地...
私が歴史教育の世界に身を投じて間もなく16年を迎えますが、これまでに積み重ねてきた経験を振り返ってつくづく思うのは、いわゆる「プロパガンダ」は近現代史だけとは限らない、ということです。今回の講演で述べた数々の歴史的事実を、もし「自虐史観」に染まりきった内容で語って、いや「騙(かた)って」しまえば、果たしてどのような表現になってしまうのでしょうか。日本の起源はいわゆる「世界四大文明」よりも遅れており、...
今から2200年以上前に大陸を史上初めて統一した秦(しん)の王であった政(せい)は、各地の王を支配する唯一の存在として「皇帝」という称号の使用を始め、自らは最初の皇帝ということで「始皇帝(しこうてい)」と名乗りました。これが慣例となって、後の大陸では支配者が変わるたびに自らを「皇帝」と称し、各地の有力者を「王」に任命するという形式が完成しました。そして、この構図はやがて大陸周辺の諸外国にも強制されるこ...
さて、煬帝をここまで怒らせた国書は、以下の内容で始まっていました。「日出(ひい)ずる処(ところ)の天子(てんし)、書を日没(ひぼっ)する処の天子に致す。恙無(つつがな)きや(=お元気ですか、という意味)」。果たしてこの国書のうち、どの部分が煬帝を怒らせたのでしょうか。国書を一見すれば「日出ずる」と「日没する」に問題があるような感じがしますね。「日の出の勢い」に対して「日が没するように滅びゆく」とは...
我が国の内政における思い切った改革に成功した聖徳太子は、いよいよ外交問題の抜本的な解決へと乗り出しましたが、そのための手段として、隋に対し共同で対抗するために、朝鮮半島の高句麗や百済(くだら)と同盟を結びました。事前の様々な準備を終えた聖徳太子は小野妹子を使者として、607年に満を持して2回目の遣隋使を送りました。この頃、隋の皇帝は2代目の煬帝(ようだい)が務めていました。「日本からの使者が来た」との...
例えば第1条の「和の尊重」ですが、言葉自体は非常に耳に心地よい響きがするものの、これには「蘇我氏だけで勝手に物事を進めずに、他の者の同意を得てから行うように」という意味も含まれているのです。また、第3条や第8条については、この条文を入れることによって、蘇我氏にも「天皇への忠誠」や「役人の心得」を従わせることに成功しているだけでなく、それを破れば「憲法違反(といっても現代とは意味が異なりますが)」にな...
さて、憲法十七条では第1条や第17条で示した「和の尊重」の他にも、様々な規範を示しています。例えば、第2条では「篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え」として、仏教への信仰を説いています。なお、三宝とは仏・法理(ほうり)・僧侶(そうりょ)のことで、仏教の三つの宝物(ほうもつ)とされています。また第3条では「天皇の命令には必ず従いなさい」と天皇への忠誠を説くなど、儒教の道徳思想に基づく心構えを示している条文...
冠位十二階によって「朝廷が役人に対して冠位を授与する」という明確な姿勢を示した聖徳太子でしたが、公地公民制の実現へ向けての次の手段として、朝廷と豪族との間における「順位の上下」を明らかにするための正式な規則をつくろうと考えました。こうして編み出されたのが、我が国最初の成文法であるとともに、後年の法典の編纂(へんさん)にも多大な影響を与えたとされる、604年に制定された「憲法十七条」でした。憲法十七条...
そうこうしているうちに、聖徳太子が朝廷での人事権を握って、自身が抜擢(ばってき)してきた優秀な若者をどんどん増やしていけば、自分の影響力が少しずつ削られていくのを蘇我氏はそれこそ指をくわえて黙って見ているしかないのです。おそらくは蘇我氏も地団駄(じだんだ)を踏んで悔しがったことでしょう。それにしても、オモテの世界で堂々と大義名分を述べながら、ウラでは蘇我氏打倒のために色々と策謀(さくぼう)を練り続...
しかしながら、聖徳太子もなかなかの「食わせ者」でした。曲がりなりにも昇進が可能な身分制度ができたことにより、冠位を授ける立場の朝廷の権力が向上した一方で、相対的に蘇我氏の権力が後退する遠因をつくったことにもなったからです。冠位十二階の制度によって、朝廷の権力向上と蘇我氏の衰退が同時に起きるとなぜ言い切れるのでしょうか。ここで、冠位十二階による様々な波及効果を検討してみましょう。蘇我氏を冠位十二階か...
公地公民制という国家の最終的な目標の実現や、隋にも負けない優秀な人材を集めるため、聖徳太子は時間をかけて豪族あるいは民衆の立場や意識を改革していくという作戦に出ました。603年に制定された「冠位十二階(かんいじゅうにかい)」もその例です。冠位十二階は、朝廷に仕える人々に対する新しい身分秩序でした。まずは階級として「徳(とく)」・「仁(にん)」・「礼(らい)」・「信(しん)」・「義(ぎ)」・「智(ち)...
まず内政面においてですが、蘇我氏による横暴を打開するためには、最終的に朝廷がすべての土地や民衆を所有する「公地公民制」を目指すという思い切った改革を行うしかないと決断しました。しかし、現状でいきなり大ナタをふるえば、蘇我氏などの豪族の猛反発を受けるのは必至であり、慎重な手続きが必要であると同時に考えていました。また、外交面においては、何よりも大国である隋の実力を知ることが重要であると考えた聖徳太子...
まず内政面においては、当時は朝廷と蘇我氏のような豪族とがお互いに土地や民衆を所有していましたが、聖徳太子が摂政になった頃には蘇我氏の支配地が朝廷を脅(おびや)かすほどに大きくなっており、政治上のバランスが不安定になっていました。この状態を放置していれば、蘇我氏の勢力が朝廷を大きく上回ることでやがて両者に争いが起こり、罪もない民衆が迷惑する可能性が高かったのです。また外交面では、前回(第94回)の講座...
崇峻天皇の崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)を受け、馬子によって新たに天皇として即位されたのは、先に崩御された30代の敏達(びだつ)天皇の皇后で、自らも29代の欽明(きんめい)天皇の娘であり、母親が馬子の姉でもあった額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)でした。我が国初の女帝となった33代の推古(すいこ)天皇は、593年に甥(おい)にあたる厩戸皇子(うまやどのみこ)を皇太子並び...
※今回より「第95回歴史講座」の内容の更新を開始します(5月13日までの予定)。587年に物部守屋(もののべのもりや)との激しい戦いに勝った蘇我馬子(そがのうまこ)は、自分の血縁である泊瀬部皇子(はつせべのみこ)を32代の崇峻(すしゅん)天皇として即位させました。初めのうちは馬子と共同で政治を行っていた崇峻天皇でしたが、次第に馬子の専横が目立つようになると、天皇は政治の実権を持てない自身の待遇に次第に不満を...
※「昭和時代・戦後」の更新は今回で中断します。明日(4月15日)からは「第95回歴史講座」の内容を更新します(5月13日までの予定)。平成29(2017)年3月14日に、松野博一(まつのひろかず)文部科学大臣(当時)が、記者会見において「憲法や教育基本法に反しないような配慮があって、教材として教育勅語を用いることは、そのことをもって問題とはしない」と明言しているように、教育勅語そのものは、国会の決議とは無関係に今も...
我が国の教育の重要な指針である教育基本法は、アメリカ教育使節団の勧告によって昭和22(1947)年3月に制定され、日本国憲法の精神に則(のっと)った教育の機会均等や9年間の義務教育、男女共学などが定められたほか、同時に学校教育法が制定され、同年4月からいわゆる「6・3・3・4制」が発足しました。また翌昭和23(1948)年には、教育の地方分権化を目指して、都道府県・市町村ごとに公選による教育委員会制度が実施されまし...
ところで、日本国憲法という名で国家の基本法が新たに制定されたことは、必然的にその他の様々な法律の改正あるいは成立をもたらし、皇室典範(てんぱん)や民法あるいは刑法などが改正されたほか、新たに地方自治法や国家公務員法、警察法などが成立しました。このうち昭和22(1947)年に改正された民法では、従来の戸主(こしゅ)制度が廃止され、家督(かとく)相続にかわって財産の均等相続が定められ、男女同権や夫婦中心とい...
日本国憲法の問題点は他にも多く存在します。例えば、大阪国際空港(=伊丹空港)近辺の騒音や水俣病(みなまたびょう)をはじめとする公害の問題などによって、良好な環境で生活を営む権利である「環境権」が新しい人権として認知されつつありますが、現状では憲法第13条のいわゆる「幸福追求権」の拡大解釈とされており、憲法上における正式な条文化が望まれるところです。それ以外にも永住外国人に地方を含めた参政権を与えるの...
歴史のみならず、我が国での真っ当な「公民教育」を目指すのであれば、その背骨として「我が国伝統の政治文化」を教えるのが当たり前のはずです。しかし、今の教育では、それこそ「革命思想」につながる西洋の民主政治が重視される一方で、革命を起こす側にとって「宿敵」ともいえる天皇のご存在を軽視する傾向が見られるのではないでしょうか。また、我が国の「人権思想」に直結する「八紘一宇」も、昭和20(1945)年12月にGHQか...
我が国の初代天皇であらせられる神武(じんむ)天皇が橿原宮(かしはらのみや)で即位された際に「八紘(はっこう、四方八方のこと)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむこと」と仰せられたと伝えられており、これが由来となって「八紘一宇(はっこういちう)」という言葉が生まれました。「八紘一宇」は「道義的に天下を一つの家のようにする」というのが大意であり、我が国だけでなく世界全体を一つの家として、神のために祈られる...
日本国憲法の三大原則のひとつに「基本的人権の尊重」がありますが、これは憲法第11条や第97条において「侵すことのできない永久の権利」と規定されており、一般的にも「天賦(てんぷ)人権論」として知られています。しかし、こうした考えは「我が国の国柄」ではありません。天賦人権論の原理は西洋にあり、17世紀から18世紀の思想家であるイギリスのロックやフランスのルソーなどの社会契約説を由来として「すべて人間は生まれな...