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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
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2012/08/07

  • 聖徳太子の外交 その3

    今から2200年以上前に大陸を史上初めて統一した秦(しん)の王であった政(せい)は、各地の王を支配する唯一の存在として「皇帝」という称号の使用を始め、自らは最初の皇帝ということで「始皇帝(しこうてい)」と名乗りました。これが慣例となって、後の大陸では支配者が変わるたびに自らを「皇帝」と称し、各地の有力者を「王」に任命するという形式が完成しました。そして、この構図はやがて大陸周辺の諸外国にも強制されるこ...

  • 聖徳太子の外交 その2

    さて、煬帝をここまで怒らせた国書は、以下の内容で始まっていました。「日出(ひい)ずる処(ところ)の天子(てんし)、書を日没(ひぼっ)する処の天子に致す。恙無(つつがな)きや(=お元気ですか、という意味)」。果たしてこの国書のうち、どの部分が煬帝を怒らせたのでしょうか。国書を一見すれば「日出ずる」と「日没する」に問題があるような感じがしますね。「日の出の勢い」に対して「日が没するように滅びゆく」とは...

  • 聖徳太子の外交 その1

    我が国の内政における思い切った改革に成功した聖徳太子は、いよいよ外交問題の抜本的な解決へと乗り出しましたが、そのための手段として、隋に対し共同で対抗するために、朝鮮半島の高句麗や百済(くだら)と同盟を結びました。事前の様々な準備を終えた聖徳太子は小野妹子を使者として、607年に満を持して2回目の遣隋使を送りました。この頃、隋の皇帝は2代目の煬帝(ようだい)が務めていました。「日本からの使者が来た」との...

  • 聖徳太子の内政 その6

    例えば第1条の「和の尊重」ですが、言葉自体は非常に耳に心地よい響きがするものの、これには「蘇我氏だけで勝手に物事を進めずに、他の者の同意を得てから行うように」という意味も含まれているのです。また、第3条や第8条については、この条文を入れることによって、蘇我氏にも「天皇への忠誠」や「役人の心得」を従わせることに成功しているだけでなく、それを破れば「憲法違反(といっても現代とは意味が異なりますが)」にな...

  • 聖徳太子の内政 その5

    さて、憲法十七条では第1条や第17条で示した「和の尊重」の他にも、様々な規範を示しています。例えば、第2条では「篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え」として、仏教への信仰を説いています。なお、三宝とは仏・法理(ほうり)・僧侶(そうりょ)のことで、仏教の三つの宝物(ほうもつ)とされています。また第3条では「天皇の命令には必ず従いなさい」と天皇への忠誠を説くなど、儒教の道徳思想に基づく心構えを示している条文...

  • 聖徳太子の内政 その4

    冠位十二階によって「朝廷が役人に対して冠位を授与する」という明確な姿勢を示した聖徳太子でしたが、公地公民制の実現へ向けての次の手段として、朝廷と豪族との間における「順位の上下」を明らかにするための正式な規則をつくろうと考えました。こうして編み出されたのが、我が国最初の成文法であるとともに、後年の法典の編纂(へんさん)にも多大な影響を与えたとされる、604年に制定された「憲法十七条」でした。憲法十七条...

  • 聖徳太子の内政 その3

    そうこうしているうちに、聖徳太子が朝廷での人事権を握って、自身が抜擢(ばってき)してきた優秀な若者をどんどん増やしていけば、自分の影響力が少しずつ削られていくのを蘇我氏はそれこそ指をくわえて黙って見ているしかないのです。おそらくは蘇我氏も地団駄(じだんだ)を踏んで悔しがったことでしょう。それにしても、オモテの世界で堂々と大義名分を述べながら、ウラでは蘇我氏打倒のために色々と策謀(さくぼう)を練り続...

  • 聖徳太子の内政 その2

    しかしながら、聖徳太子もなかなかの「食わせ者」でした。曲がりなりにも昇進が可能な身分制度ができたことにより、冠位を授ける立場の朝廷の権力が向上した一方で、相対的に蘇我氏の権力が後退する遠因をつくったことにもなったからです。冠位十二階の制度によって、朝廷の権力向上と蘇我氏の衰退が同時に起きるとなぜ言い切れるのでしょうか。ここで、冠位十二階による様々な波及効果を検討してみましょう。蘇我氏を冠位十二階か...

  • 聖徳太子の内政 その1

    公地公民制という国家の最終的な目標の実現や、隋にも負けない優秀な人材を集めるため、聖徳太子は時間をかけて豪族あるいは民衆の立場や意識を改革していくという作戦に出ました。603年に制定された「冠位十二階(かんいじゅうにかい)」もその例です。冠位十二階は、朝廷に仕える人々に対する新しい身分秩序でした。まずは階級として「徳(とく)」・「仁(にん)」・「礼(らい)」・「信(しん)」・「義(ぎ)」・「智(ち)...

  • 聖徳太子の登場 その4

    まず内政面においてですが、蘇我氏による横暴を打開するためには、最終的に朝廷がすべての土地や民衆を所有する「公地公民制」を目指すという思い切った改革を行うしかないと決断しました。しかし、現状でいきなり大ナタをふるえば、蘇我氏などの豪族の猛反発を受けるのは必至であり、慎重な手続きが必要であると同時に考えていました。また、外交面においては、何よりも大国である隋の実力を知ることが重要であると考えた聖徳太子...

  • 聖徳太子の登場 その3

    まず内政面においては、当時は朝廷と蘇我氏のような豪族とがお互いに土地や民衆を所有していましたが、聖徳太子が摂政になった頃には蘇我氏の支配地が朝廷を脅(おびや)かすほどに大きくなっており、政治上のバランスが不安定になっていました。この状態を放置していれば、蘇我氏の勢力が朝廷を大きく上回ることでやがて両者に争いが起こり、罪もない民衆が迷惑する可能性が高かったのです。また外交面では、前回(第94回)の講座...

  • 聖徳太子の登場 その2

    崇峻天皇の崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)を受け、馬子によって新たに天皇として即位されたのは、先に崩御された30代の敏達(びだつ)天皇の皇后で、自らも29代の欽明(きんめい)天皇の娘であり、母親が馬子の姉でもあった額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)でした。我が国初の女帝となった33代の推古(すいこ)天皇は、593年に甥(おい)にあたる厩戸皇子(うまやどのみこ)を皇太子並び...

  • 聖徳太子の登場 その1

    ※今回より「第95回歴史講座」の内容の更新を開始します(5月13日までの予定)。587年に物部守屋(もののべのもりや)との激しい戦いに勝った蘇我馬子(そがのうまこ)は、自分の血縁である泊瀬部皇子(はつせべのみこ)を32代の崇峻(すしゅん)天皇として即位させました。初めのうちは馬子と共同で政治を行っていた崇峻天皇でしたが、次第に馬子の専横が目立つようになると、天皇は政治の実権を持てない自身の待遇に次第に不満を...

  • 押しつけられた日本国憲法 その18

    ※「昭和時代・戦後」の更新は今回で中断します。明日(4月15日)からは「第95回歴史講座」の内容を更新します(5月13日までの予定)。平成29(2017)年3月14日に、松野博一(まつのひろかず)文部科学大臣(当時)が、記者会見において「憲法や教育基本法に反しないような配慮があって、教材として教育勅語を用いることは、そのことをもって問題とはしない」と明言しているように、教育勅語そのものは、国会の決議とは無関係に今も...

  • 押しつけられた日本国憲法 その17

    我が国の教育の重要な指針である教育基本法は、アメリカ教育使節団の勧告によって昭和22(1947)年3月に制定され、日本国憲法の精神に則(のっと)った教育の機会均等や9年間の義務教育、男女共学などが定められたほか、同時に学校教育法が制定され、同年4月からいわゆる「6・3・3・4制」が発足しました。また翌昭和23(1948)年には、教育の地方分権化を目指して、都道府県・市町村ごとに公選による教育委員会制度が実施されまし...

  • 押しつけられた日本国憲法 その16

    ところで、日本国憲法という名で国家の基本法が新たに制定されたことは、必然的にその他の様々な法律の改正あるいは成立をもたらし、皇室典範(てんぱん)や民法あるいは刑法などが改正されたほか、新たに地方自治法や国家公務員法、警察法などが成立しました。このうち昭和22(1947)年に改正された民法では、従来の戸主(こしゅ)制度が廃止され、家督(かとく)相続にかわって財産の均等相続が定められ、男女同権や夫婦中心とい...

  • 押しつけられた日本国憲法 その15

    日本国憲法の問題点は他にも多く存在します。例えば、大阪国際空港(=伊丹空港)近辺の騒音や水俣病(みなまたびょう)をはじめとする公害の問題などによって、良好な環境で生活を営む権利である「環境権」が新しい人権として認知されつつありますが、現状では憲法第13条のいわゆる「幸福追求権」の拡大解釈とされており、憲法上における正式な条文化が望まれるところです。それ以外にも永住外国人に地方を含めた参政権を与えるの...

  • 押しつけられた日本国憲法 その14

    歴史のみならず、我が国での真っ当な「公民教育」を目指すのであれば、その背骨として「我が国伝統の政治文化」を教えるのが当たり前のはずです。しかし、今の教育では、それこそ「革命思想」につながる西洋の民主政治が重視される一方で、革命を起こす側にとって「宿敵」ともいえる天皇のご存在を軽視する傾向が見られるのではないでしょうか。また、我が国の「人権思想」に直結する「八紘一宇」も、昭和20(1945)年12月にGHQか...

  • 押しつけられた日本国憲法 その13

    我が国の初代天皇であらせられる神武(じんむ)天皇が橿原宮(かしはらのみや)で即位された際に「八紘(はっこう、四方八方のこと)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむこと」と仰せられたと伝えられており、これが由来となって「八紘一宇(はっこういちう)」という言葉が生まれました。「八紘一宇」は「道義的に天下を一つの家のようにする」というのが大意であり、我が国だけでなく世界全体を一つの家として、神のために祈られる...

  • 押しつけられた日本国憲法 その12

    日本国憲法の三大原則のひとつに「基本的人権の尊重」がありますが、これは憲法第11条や第97条において「侵すことのできない永久の権利」と規定されており、一般的にも「天賦(てんぷ)人権論」として知られています。しかし、こうした考えは「我が国の国柄」ではありません。天賦人権論の原理は西洋にあり、17世紀から18世紀の思想家であるイギリスのロックやフランスのルソーなどの社会契約説を由来として「すべて人間は生まれな...

  • 押しつけられた日本国憲法 その11

    こうした事実を考慮すれば、いかにGHQの命令でつくられたのがルーツとはいえ、自衛隊の存在を日本国憲法第9条が想定しているとは考えられません。このため、自衛隊が憲法とは別の法律である「自衛隊法」によって規定されるとともに、憲法改正を避けた日本政府が、第9条の拡大解釈という名の「苦しい言い訳」によって、自衛隊を「合憲」としているのです。昭和29(1954)年に自衛隊が正式に発足して早や70年近くになりますから、も...

  • 押しつけられた日本国憲法 その10

    そもそも日本国憲法における平和主義は、我が国に二度と再軍備させないようにするため、交戦権や軍事力の一切を持たせないようにしようという、GHQすなわちアメリカの意思によるものでした。しかし、憲法制定後間もなくアメリカはソ連(現在のロシア)と冷戦状態になり、1949(昭和24)年には中華人民共和国が誕生したほか、翌1950(昭和25)年には北朝鮮(=朝鮮民主主義人民共和国)と韓国(=大韓民国)との間で朝鮮戦争が勃発...

  • 押しつけられた日本国憲法 その9

    日本国憲法において、現在もなおその存在に関する賛否両論が激しく交わされている条文の一つに「平和主義」を標榜(ひょうぼう、主義・主張や立場などを公然と表すこと)している第9条が挙げられます。第9条 第1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇(いかく)又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。第2項 前項の目的を達す...

  • 押しつけられた日本国憲法 その8

    「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高(すうこう)な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。一読しただけでは見逃してしまいそうですが、この文章は独立国にとって生命線でもある「安全保障」を「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して保持する」、つまり「他国にその一切を委(ゆだ)ねる」と宣言しているのです...

  • 押しつけられた日本国憲法 その7

    さて、日本国憲法は「象徴天皇」「基本的人権の尊重」「主権在民」「平和主義」などの特色を持っており、特に後者の3つは「日本国憲法の三大原則」として知られています。憲法において、天皇は日本国と日本国民統合の象徴とされ、国会は国権の最高機関で、公選の議員からなる衆議院・参議院の二院で構成され、議院内閣制が採用されたほか、第9条には戦争放棄や軍備の撤廃が明記されました。そして、施行から75年以上が経過したにも...

  • 押しつけられた日本国憲法 その6

    松本大臣をはじめとする数々の抵抗もむなしく、マッカーサー草案は、一院制を二院制にすることや、土地その他の天然資源の国有化を削除することなどの細かい変更があったのみで、ほぼ原案どおり閣議で決定され、帝国議会における審議が始まりましたが、この審議の内容は毎日のように英文に訳されてGHQの管理下に置かれ、GHQの了解なしにはどのような修正もできないという有様でした。また、憲法改正における重要な審議である憲法改...

  • 押しつけられた日本国憲法 その5

    先述のとおり、当時の我が国の占領を管理するために極東委員会が設けられていましたが、委員会では天皇の廃止を求めるという強硬な姿勢が見られました。しかし、天皇を残した方が我が国の占領政策にプラスであると判断したGHQは、委員会を牽制(けんせい)するためにも、GHQの主導による憲法改正を急いでいたのです。そして昭和21(1946)年2月13日にマッカーサー草案を提示した際、ホイットニー民政局長は松本大臣に対して「この...

  • 押しつけられた日本国憲法 その4

    松本試案の提出に先立つ昭和21(1946)年2月4日、GHQの民政局25人が会議室に呼び集められると、ホイットニー局長が「これから一週間で日本国民のための新しい憲法を起草する」と通告しました。GHQは事前に松本試案の概要を入手しており、日本政府に先手を打つかたちで、自分側からの草案作成を急いでいたのです。ところが、民政局員の25人のメンバーのうち、弁護士の資格を持っている人物こそ存在したものの、憲法学を専攻した者は...

  • 押しつけられた日本国憲法 その3

    マッカーサー草案で、まず目についたのは「国会を一院制とすること」でした。大日本帝国憲法においては、衆議院と貴族院の二院制を採用していましたが、これは、多様な民意の反映をもたらすとともに、議会の多数派による専制政治を防ぐという重要な役割を持っていました。松本大臣がなぜ一院制なのかをGHQに問いただすと、ホイットニー民政局長は「日本にはアメリカのように州という制度がないから上院は必要ないし、一院制の方が...

  • 押しつけられた日本国憲法 その2

    先述のとおり、昭和20(1945)年10月11日に幣原首相が新任挨拶(あいさつ)のためGHQのマッカーサー元帥(げんすい)を訪問した際に、マッカーサーが口頭で憲法改正を示唆(しさ、ほのめかすこと)したことに伴い、幣原首相は「憲法問題調査委員会」を設置して、本格的な調査研究を開始しました。翌昭和21(1946)年に改正憲法の草案が完成し、2月8日に政府がGHQに提出しました。この草案は、憲法問題調査委員会の中心人物であった...

  • 押しつけられた日本国憲法 その1

    昭和20(1945)年8月15日、我が国は連合国からのポツダム宣言を受けいれるかたちで終戦を迎えましたが、宣言の内容には「軍隊の無条件降伏」こそあったものの、宣言文には「私たちの条件は以下のとおり」と書かれており、決して「全体的な無条件降伏」ではなかったですし、また宣言に書かれた条件の中には「新憲法の制定」は含まれていませんでした。これについては、軍事に関する条文などへの部分的な改正は必要であったとしても...

  • 極東国際軍事裁判(=東京裁判)という茶番 その9

    昭和27(1952)年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効したことで我が国は独立を回復しましたが(この経緯はいずれ後述します)、WGIPによる洗脳工作があったにもかかわらず、当時の我が国はまだ正気を保っているところもありました。独立回復から間もなく、極東国際軍事裁判によって「戦犯」と決めつけられた人々を即時に釈放すべきであるという運動が始まったのです。同年6月には日本弁護士連合会(=日弁連)が「戦犯の赦免...

  • 【ハイブリッド方式】第95回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和5年3月)

    黒田裕樹の歴史講座は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合が...

  • 極東国際軍事裁判(=東京裁判)という茶番 その8

    通常の戦争犯罪に該当するB級(戦場の指揮官など)・C級(実行した兵隊など)の戦犯の裁判は、国内外の軍事法廷で2,000件以上行われましたが、その被告人の数は5,700人にのぼり、およそ1,000人が死刑判決を受けました。裁判においては、証人や資料が少なかったり、栄養失調の捕虜にゴボウを食べさせたことや、腰を痛めた捕虜に灸(きゅう)を据(す)えたことが虐待と認定されたりするなど杜撰(ずさん)な内容が多く、無実の罪で...

  • 極東国際軍事裁判(=東京裁判)という茶番 その7

    昭和23(1948)年11月12日、A級戦犯とみなされた25名に有罪の判決が下りましたが、その内容は日本側弁護団が主張した自衛戦争論をすべて却下した一方で、検事側が主張した侵略戦争論や共同謀議説を全面的に採用したものでした。判決は7人(東條英機、広田弘毅、板垣征四郎=いたがきせいしろう、土肥原賢二=どいはらけんじ、松井石根=まついいわね、木村兵太郎=きむらへいたろう、武藤章=むとうあきら)が絞首刑、16人が終身刑...

  • 極東国際軍事裁判(=東京裁判)という茶番 その6

    極東国際軍事裁判の判事団は、アメリカ・イギリス・ソ連(現在のロシア)・中華民国など連合国側11か国からの代表各1名ずつで構成され、団長にはオーストラリアのウェップが任命されましたが、先述したように戦勝国側ばかりから裁判官を選ぶという段階で裁判の正当性は失われたも同然でした。なお、主席検察官にはアメリカのキーナンが任じられています。裁判において、清瀬一郎(きよせいちろう)らの日本側弁護団は、ブレイクニ...

  • 極東国際軍事裁判(=東京裁判)という茶番 その5

    ところで、東條英機元首相らは「A級戦犯」として起訴されましたが、その他にも「B級戦犯」や「C級戦犯」として起訴された人々も多く存在しました。こうした階級分けが「罪の重さによる区分」と思われていることが多いようですが、事実は全く異なります。ABCの区分は「戦犯の単純な区分」であり、A級は「戦争を始めた国家指導者」が中心で、B級は「通常の戦争犯罪である捕虜虐待(ほりょぎゃくたい)などを命じた戦場の指揮官」、C...

  • 極東国際軍事裁判(=東京裁判)という茶番 その4

    GHQのマッカーサーは昭和21(1946)年1月19日に極東国際軍事裁判所条例を公布し、ドイツのニュルンベルク国際軍事裁判にならって、従来のスパイなど国際公法で規定された戦争犯罪に加え、新たに「平和に対する罪」や「人道に対する罪」といった観念を導入しました。こうした観念が大東亜戦争当時には認知されているはずもありませんから、条例は「事後法によっては過去を訴追(そつい)できない」という不遡及(ふそきゅう)の原則...

  • 極東国際軍事裁判(=東京裁判)という茶番 その3

    昭和20(1945)年9月11日、GHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)のマッカーサーは、東條英機(とうじょうひでき)元首相を含む39名を「戦争犯罪人」と称して彼らの逮捕を指示しましたが、ここでいう「戦争犯罪人」は戦争に関する国際条約であるハーグ陸戦条規の定めるものとは全く異なっており、法的根拠を著(いちじる)しく欠くものでした。にもかかわらずGHQが「戦争犯罪人」の逮捕に積極的だった背景には、日本国民に「戦争そ...

  • 極東国際軍事裁判(=東京裁判)という茶番 その2

    大東亜戦争で我が国は敗北しましたが、結果として欧米列強が持っていた植民地が解放され、アジアからアフリカ・アメリカ大陸に至るまで多くの国家が独立する流れへとつながっていきました。日本など有色人種の国家にとって悲願でもあった「人種差別の撤廃(てっぱい)」という大きな理想が大東亜戦争によって初めて達成されたといえますが、こうした現実は、白色人種たる欧米列強にとって許されざる問題でした。「日本のせいで自分...

  • 極東国際軍事裁判(=東京裁判)という茶番 その1

    ※今回より「昭和時代・戦後」の更新を再開します(4月14日までの予定)。1945(昭和20)年11月、連合国側は敗戦国となったドイツを裁くという名目で「ニュルンベルク国際軍事裁判」を開廷しましたが、検察側は「共通の計画または共同謀議」「平和に対する罪」「戦争犯罪」「人道に対する罪」に基づいて被告を起訴しました。裁判では、文明に対する罪や平和に対する罪を大義名分としたうえで「個人を罰しない限りは国際犯罪である侵...

  • 大和朝廷の6世紀 その4

    ※「第94回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(3月19日)からは「昭和時代・戦後」の更新を再開します(4月14日までの予定)。大和朝廷が動揺(どうよう)しつつあった6世紀の後半には、東アジアでも大きな動きが見られました。中国大陸では南北朝時代などによって混乱状態が続いていましたが、北朝からおこった隋(ずい)が589年に大陸を約300年ぶりに統一したのです。この事実は、それまで朝鮮半島で独立を保っ...

  • 大和朝廷の6世紀 その3

    対外政策の失敗によって大伴金村を始めとする大伴氏が失脚すると、大連(おおむらじ)の物部(もののべ)氏と大臣(おおおみ)の蘇我(そが)氏が政治の実権を握るようになりました。朝廷における軍事力を担当していた物部氏に対して、蘇我氏は欽明天皇などの外戚(がいせき)となって財産権を握り、帰化人系の民族と交流して勢力を伸ばしました。なお、外戚とは自分の娘を天皇の妃(きさき)とすることで天皇の血縁者となることで...

  • 大和朝廷の6世紀 その2

    皇統断絶の危機を脱した大和朝廷でしたが、対外政策では大きな試練を迎えていました。朝鮮半島では、5世紀後半から6世紀にかけて北方の高句麗が勢力拡大を目指して南進を繰り返し、その圧迫を受けた新羅とともに、我が国が以前から勢力を伸ばしていた任那(みまな)を攻め続けました。我が国は新羅を攻めるために任那へ援軍を送ろうとしましたが、この動きを知った新羅が現在の福岡県の地方行政官にあたる筑紫国造(つくしのくにの...

  • 大和朝廷の6世紀 その1

    我が国で初めての統一政権として着実に勢力を伸ばしてきた大和朝廷でしたが、6世紀初頭に最大の危機を迎えました。25代の武烈(ぶれつ)天皇が崩御された際に後継となる男子がおられなかったのです。この非常事態を救ったのが大連(おおむらじ)の大伴金村(おおとものかなむら)でした。大伴金村は、15代の応神天皇の五世の孫、すなわち来孫(らいそん)にあたる男大迹王(おおどのおおきみ)を越前(えちぜん、現在の福井県)か...

  • 大和朝廷の政治制度 その3

    当時の有力な豪族は「田荘(たどころ)」と呼ばれる私有地や「部曲(かきべ)」と呼ばれる私有民をもっており、それらを経済的な基盤(きばん)としていました。一方、朝廷も直属の民である「名代(なしろ)」「子代(こしろ)」を持ち、彼らに生産物を納めさせるとともに、直轄地(ちょっかつち)である「屯倉(みやけ)」を各地に設けて「田部(たべ)」と呼ばれた人々に耕作させました。朝廷には祭祀(さいし)や軍事などの様々...

  • 大和朝廷の政治制度 その2

    姓(かばね)の種類は多岐にわたっていました。例えば、蘇我(そが)や葛城(かつらぎ)のように地名を氏(うじ)の名とする畿内の有力豪族や、出雲(いずも)や吉備(きび)などの地方の伝統ある豪族には「臣(おみ)」が与えられました。また、大伴(おおとも)や物部(もののべ)あるいは中臣(なかとみ)のように武力など特定の能力を持った有力豪族には「連(むらじ)」が与えられ、筑紫(つくし)や毛野(けの)などの地方の...

  • 大和朝廷の政治制度 その1

    5世紀末から6世紀にかけて、大和朝廷は大王(おおきみ)と呼ばれた天皇を中心とする政治の仕組みをつくり上げていきました。朝廷に従った豪族たちは、血縁集団としての同族関係をもとに構成された「氏(うじ)」と呼ばれる組織に編成されました。彼らは共通の祖先神である氏神(うじがみ)を祀(まつ)り、一族の長たる氏上(うじのかみ)が氏に属する氏人(うじびと)を統率(とうそつ)しました。朝廷は各氏の家柄や能力に応じて...

  • 古墳文化の変容 その6

    天候などの自然条件に左右されやすい農耕生活の発達は、様々な祭祀(さいし)の重要性を高めるとともに、古墳文化の重要な要素となりました。春にその年の豊作を祈る祈年祭(としごいのまつり、または「きねんさい」)や、秋に一年の収穫を感謝する新嘗祭(にいなめのまつり、または「にいなめさい」「しんじょうさい」)は特に重要な行事であり、この頃までに我が国に流入した外来文化とも融合して我が国独自の伝統文化が形成され...

  • 古墳文化の変容 その5

    古墳時代の人々は、豪族などの有力者が掘立柱(ほったてばしら)を用いた平地住居を建てていたのに対して、普通の人々はそれまでの竪穴住居で暮らすのが一般的だったようです。住居の中には、粘土で固めた竃(かまど)が使用されていました。日常生活では、古墳時代の前期から中期にかけては弥生土器の系統に属する赤焼きの土師器(はじき)が用いられましたが、5世紀中頃には朝鮮半島から伝わったとされる硬質で灰色の須恵器(す...

  • 古墳文化の変容 その4

    古墳時代の後期には副葬品にも大きな変化がありました。それまでの武具や馬具のほかに生前の日用品である土器などがおさめられるようになり、埴輪(はにわ)もそれまでの円筒(えんとう)埴輪や家形(いえがた)埴輪とともに、人間や動物をあしらった形象(けいしょう)埴輪が用いられました。家族墓的な性格を持つようになって葬送儀礼(そうそうぎれい)が変化したことで、副葬品もそれまでの故人の権威を示すという意味から、故...

  • 古墳文化の変容 その3

    6世紀に入って古墳時代も後期になると、古墳自体にも大きな変化が現れました。従来の巨大な前方後円墳が畿内でつくられる一方で、全国各地では小規模な円墳(えんぷん)が山の中腹や丘陵(きゅうりょう)の斜面などにまとまってつくられるようになりました。これらの古墳を群集墳(ぐんしゅうふん)といいます。群集墳の爆発的な増加は、大和朝廷の勢力が全国に拡大することによって当時の国民の生活レベルが向上し、その結果とし...

  • 古墳文化の変容 その2

    漢字がもたらした「文字で記録を残す文化」は、やがて6世紀半ば頃に「帝紀(ていき、皇室の系譜)」や「旧辞(きゅうじ、神話伝説など)」といった我が国古来の歴史をまとめる事業をもたらし、これらが「古事記」や「日本書紀」といった我が国最古の歴史書へとつながりました。また、6世紀に入ると百済から五経博士(ごきょうはかせ)が来日し、我が国に医学・易学(えきがく)・暦学(れきがく)のほか儒教(じゅきょう)を伝えま...

  • 古墳文化の変容 その1

    古墳時代中期の5世紀前後には、朝鮮半島の戦乱から逃れるために数多くの帰化人(きかじん、または渡来人=とらいじん)が我が国に渡来(とらい)しました。大和朝廷は彼らを厚遇して畿内やその周辺に居住させ、彼らから大陸の進んだ文化を積極的に学びました。例えば、大陸の進んだ土木技術が大規模な治水や灌漑(かんがい)事業を可能にしたり、優れた鉄製農具をつくることを可能とする技術が農業の生産性を大いに高めたりするな...

  • 大和朝廷と東アジア その5

    倭の五王の一人である「武」とされる雄略天皇の時代までに、大和朝廷の勢力は関東から九州南部まで広がっていたと考えられています。なぜなら埼玉県の稲荷山(いなりやま)古墳と熊本県の江田船山(えたふなやま)古墳から出土した鉄剣(てっけん)に、それぞれ「獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)」と読める銘文(めいぶん)が発見されたからです。なお、雄略天皇の別名は「大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)」で...

  • 大和朝廷と東アジア その4

    朝鮮半島にまで勢力を伸ばした大和朝廷は、5世紀に入るとチャイナの南朝である宋や斉(せい)とも積極的に外交を行いました。いわゆる「倭(わ)の五王(ごおう)」の時代のことです。「宋書」倭国伝(そうじょわこくでん)などによれば、倭王の讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)が相次いで南朝の宋や斉に使者を遣わし、朝鮮半島南部への軍事指揮権を認めてもらおうとしています。要するに、我が国はチャ...

  • 大和朝廷と東アジア その3

    さて、好太王の碑から4世紀後半から5世紀前半にかけての朝鮮半島をめぐる情勢のおおよそをつかむことが出来ますが、実は我が国の歴史書である「古事記」や「日本書紀」からも知ることができます。14代の仲哀(ちゅうあい)天皇が崩御された後、后(きさき)であった神功(じんぐう)皇后が身ごもっているにもかかわらず朝鮮半島へ出兵し、新羅を初めとして百済や高句麗をも降伏させたという伝説が残っているのです。おそらく神功皇...

  • 大和朝廷と東アジア その2

    三国が形成された当時の朝鮮半島(特に南部)には豊富な鉄資源や先進技術が存在していました。大和朝廷は百済との友好関係を足がかりとして、4世紀後半には統一国家のなかった弁韓地方の任那(みまな)に勢力を伸ばしました。なお、任那は「加羅(から)」もしくは「伽耶(かや)」とも呼ばれています。また、当時の朝鮮半島南部には大和朝廷の出先機関として「任那日本府(みまなにほんふ)」が置かれていたという記述が「日本書...

  • 大和朝廷と東アジア その1

    我が国で大和朝廷が国内統一を進めていたとされる3世紀から4世紀にかけて、チャイナでは三国時代の後に魏(ぎ)を倒した晋(しん)が280年に大陸を統一しましたが、4世紀に入ると晋は北方民族の侵入を受けて南方へ移り、やがて南北朝時代となりました。大陸の混乱状態によって周辺の諸民族に対するチャイナの影響力が弱まると、それを待っていたかのように東アジアの諸地域は次々と国家形成へと進んでいきました。朝鮮半島では、現...

  • 仁徳天皇の「民のかまど」 その5

    すでに存在する大量の土砂を利用すれば、古墳も比較的早く完成しますし、また仁徳天皇のように善政を敷(し)かれた人物の陵(みささぎ)だからこそ、多くの国民が「進んで」天皇陵の建設に力を尽くしたのではないでしょうか。ちなみに、仁徳天皇陵の周囲に堀をめぐらせているのは、陵墓が大規模なものであることから大雨が降れば大量の土砂が流れ込む可能性があり、それを防ぐためという、いわば当然の理由があります。これらのこ...

  • 仁徳天皇の「民のかまど」 その4

    仁徳天皇陵については、ある建設会社が「完成までに15年6か月の年数と延べ800万人の労力を要する」と試算しました。それだけ巨大な天皇陵であることを証明する数字ではありますが、当時の日本列島の人口は約400~500万人と推定されていますから、天皇陵の完成までに多くの人々が果てしない労役に駆り出されたともいえそうです。このことから、仁徳天皇は「自分の天皇陵の建設に際して国民を強制的に労働させた人物」と否定的にとら...

  • 仁徳天皇の「民のかまど」 その3

    このこと以来、仁徳天皇は「聖帝(ひじりのみかど)」と称され、やがて天皇が崩御されると、和泉国の百舌鳥野(もずの)の陵(みささぎ)をつくって葬り奉(たてまつ)ったと「日本書紀」に記載があります。ところで、仁徳天皇の善政は「民のかまど」のエピソードだけではないことを皆さんはご存知でしょうか。実は、以下のような輝かしい業績を残されておられるのです。1.難波(なにわ)の堀江(ほりえ)を開削(かいさく)したこ...

  • 仁徳天皇の「民のかまど」 その2

    民のかまどがにぎわっているのを満足げに見つめられた仁徳天皇は、傍(かたわ)らにおられた皇后陛下(こうごうへいか)に以下のように仰られました。「朕(ちん)はすでに富んだ。喜ばしいことだ」。天皇のお言葉に対し、皇后陛下は怪訝(けげん)そうに仰られました。「宮殿のあちこちが崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだと言えるのですか」。皇后陛下のお言葉に対して、仁徳天皇は微笑(ほほえ)みしながら仰られたそ...

  • 仁徳天皇の「民のかまど」 その1

    さて、皆さんは世界最大級の古墳に葬(ほうむ)られておられるとされる「仁徳天皇」についてどのような印象をお持ちでしょうか。古代の天皇には、高いところにのぼって国を見渡し、その様子を褒(ほ)め称(たた)えることによって、天皇のお言葉で国を良くするという「国見(くにみ)」の風習がありました。ある日のこと、仁徳天皇は難波高津宮(なにわのたかつのみや)から人家(じんか)を眺(なが)められた際に、かまどから煙...

  • 古墳文化の発展 その3

    古墳の分布は大和朝廷の勢力拡大とともに広がりを見せていきました。4世紀後半頃には九州南部から東北南部まで及ぶようになり、5世紀に入るとその数も増えていきました。古墳時代も中期に入った5世紀前半には、大阪府羽曳野市(おおさかふはびきのし)にある応神天皇陵(おうじんてんのうりょう)や、大阪府堺市堺区にある仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)などの巨大な前方後円墳がつくられました。なお、最近の教科書では応...

  • 古墳文化の発展 その2

    前期の副葬品には、鉄製の武器や農工具などのほかに、縁(ふち)の断面が三角形をなして神や獣(けもの)をデザインした三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)などの多数の銅鏡(どうきょう)や、碧玉製(へきぎょくせい)の腕輪(うでわ)類といった呪術的(じゅじゅつてき)な性格をもつものが多く見られます。このことから、当時の古墳の被葬者(ひそうしゃ)は宗教的な力で政治を行っていたと考えられています。3世紀...

  • 古墳文化の発展 その1

    弥生(やよい)時代の後期から、すでに大きな墳丘(ふんきゅう)を持つ墓が各地でつくられていましたが、3世紀後半になると、畿内(きない)から瀬戸内海沿岸にかけて、丘陵(きゅうりょう)や山地など自然の形を利用した古墳が現れました。なお、古墳が盛んにつくられた3世紀後半から7世紀頃にかけて特に古墳時代と呼び、古墳の分布・様式・副葬品(ふくそうひん)などから前期(3世紀後半~4世紀中頃)・中期(4世紀末~5世紀)...

  • 大和朝廷の誕生と日本の建国伝承 その10

    その後、我が国が独立を回復する以前から「紀元節の復活」を望む声が国民のあいだで高まってきましたが、米ソの冷戦や安保闘争などの保革激突によって実現できませんでした。終戦から20年以上が経った昭和41(1966)年、当時の佐藤栄作(さとうえいさく)内閣によって「建国記念日を祝日として設ける」と規定した祝日法の改正案が可決されると、学識経験者などからなる審議会を設置し、半年にわたる論議の後に「建国記念の日を2月1...

  • 大和朝廷の誕生と日本の建国伝承 その9

    このようにして大和を平定された神武天皇は、橿原(かしはら)の地に宮殿を築かれ、初代天皇として即位されました。なお、現在の橿原神宮はこの伝承に基づいて明治時代に創建されたものです。また、ご即位の日は十干十二支(じっかんじゅうにし)で辛酉(しんゆう、別名を「かのととり」)の年の1月1日と伝えられており、日本書紀では、先述のとおり神武天皇のご即位の年を紀元前660年に定めています。現在、神武天皇が即位されて...

  • 大和朝廷の誕生と日本の建国伝承 その8

    天皇は苦戦の末、紀伊(きい、現在の和歌山県)から海路で熊野(くまの、現在の三重県)に上陸されましたが、険しい山道のなかでいつしか道に迷われそうになりました。そんな神武天皇の軍勢の前に、いきなり巨大なカラスが現れました。それは三本足をもつ八咫烏(やたがらす)でした。八咫烏は天照大神の使いとして、天皇を大和まで先導して道案内の役割を果たしたのです。八咫烏は日本サッカー協会のシンボルマークとして用いられ...

  • 大和朝廷の誕生と日本の建国伝承 その7

    では、日本書紀や古事記による神武天皇の東征はどのように書かれているのでしょうか。現代の天皇陛下は数えて第126代目となられますが、日本書紀あるいは古事記には、始祖(しそ)とされる神武天皇がご即位されるまでの様々な出来事が生き生きと描かれています。太陽を神格化した神であり、皇室の祖神たる天照大神(あまてらすおおみかみ)の直系の子孫であられる神武天皇(別名:神日本磐余彦尊=かんやまといわれひこのみこと)...

  • 大和朝廷の誕生と日本の建国伝承 その6

    「方(まつ)に難波(なにわ)の碕(みさき)に到(いた)るときに、奔潮(はやなみ)有りて太(はなは)だ急(はや)きに会ふ」。現代語訳すれば「難波の碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変早く着いた」となりますが、この一文は、神武天皇の一行が河内潟の狭い開口部から流入する潮流に乗って一気に潟内部に進入し、難波の碕に着いたことを物語っています。こうした記述は、河内潟の時代でしか考えられません。なぜなら...

  • 大和朝廷の誕生と日本の建国伝承 その5

    河内潟の頃は、現在の大阪城から南に延びる上町台地の北端が潟口(かたぐち)であり、引き潮の際には潟の水が開口部から勢いよく大阪湾に流れ出す一方で、満潮の際には開口部を通って海水が潟内部へ逆流していたと考えられます。実は、その様子が、8世紀に編纂(へんさん)された「日本書紀」にも書かれているのです。「因(よ)りて名(なづ)けて浪速国(なみはやくに)と為(い)ふ。亦(また)浪花(なにわ)と曰(い)ふ。今...

  • 大和朝廷の誕生と日本の建国伝承 その4

    神武天皇のご存在を証明する手掛かりは、実はもう一つあります。それは戦後の様々な発掘調査がもたらしたものであり、神武天皇が遺(のこ)された足跡が「地質学的に確実に証明されている」ことを皆様はご存知でしょうか。その根拠の一つは「大阪」にあります。大阪湾の遠浅(とおあさ)の海岸沿いから広大な大阪平野が生駒山地まで続いている現在の大阪ですが、今から約20000年前には河内湾(かわちわん)と呼ばれる海が生駒山の...

  • 大和朝廷の誕生と日本の建国伝承 その3

    5世紀のチャイナの南朝である宋(そう)の歴史家であった裴松之(はいしょうし)が「三国志(さんごくし)」に注釈を加えた際に、以下のような文章を書き残しています。「倭人(わじん)は歳(とし)の数え方を知らない。ただ春の耕作と秋の収穫をもって年紀としている」。当時の倭人、すなわち日本人は春分と秋分をそれぞれ一つの年紀として、つまり通常の一年を倍の二年として計算していたというのです。これを「春秋年(しゅん...

  • 大和朝廷の誕生と日本の建国伝承 その2

    我が国では長いあいだ、神話が絶えず意識されてきました。しかし、GHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)による占領下で、日本を罪深い国に仕立て上げた「WGIP(=ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム、日本人に戦争犯罪者意識を刷り込む計画)」の呪縛(じゅばく)が、戦後75年以上を経た今もなお日本国と日本民族を洗脳し続けています。WGIPによる影響は我が国の歴史教科書にも確実に表れており、我が国初代の神武(...

  • 大和朝廷の誕生と日本の建国伝承 その1

    ※今回より「第94回歴史講座」の内容の更新を開始します(3月18日までの予定)。3世紀後半頃の我が国では国家の統一が進み、大和(やまと、現在の奈良県)の豪族を中心とする強大な連合政権が誕生しました。これを大和朝廷(やまとちょうてい)と呼び、現代の皇室のルーツでもあります。大和朝廷が誕生したとされる当時は、大和地方を中心に巨大な古墳(こふん)が現れており、また各地の古墳も大和地方と同じ前方後円墳(ぜんぽう...

  • 占領政策の開始 その6

    ※「昭和時代・戦後」の更新は今回で中断します。明日(2月11日)からは「第94回歴史講座」の内容を更新します(3月18日までの予定)。公職追放に関する一連の指示のうち、G項の「その他」が何を意味するのかが非常に曖昧(あいまい)でしたが、GHQはこれを逆手に取って、政策に反対すると思われた者を名指しで追放しました。後に内閣総理大臣を務めた鳩山一郎(はとやまいちろう)や石橋湛山(いしばしたんざん)などがその例です...

  • 占領政策の開始 その5

    日本の民主化達成のためには「戦争協力者を公職から排除する」ことが望ましいと判断したGHQは、昭和21(1946)年1月4日に以下に該当する人物を公職から追放するように指示しました。A項 戦争犯罪人B項 職業軍人C項 極端な国家主義団体などの有力分子D項 大政翼賛会や翼賛政治会などの有力分子E項 日本の膨張に関係した金融機関などの役員F項 占領地の行政長官G項 その他の軍国主義者および極端な国家主義者政府はこれらの指...

  • 占領政策の開始 その4

    日本人の国民意識を変革するため、GHQは様々な政策に着手しました。例えば「戦争中に日本の軍人や政治家が一般国民に知らせなかった事実を暴露する」と称して、大東亜戦争の開戦日にあたる昭和20(1945)年12月8日に、占領軍が作成した「太平洋戦争史」の各新聞への連載を開始させました。そして、GHQはこの連載に合わせるかのように「大東亜戦争」の呼称を禁止して「太平洋戦争」に無理やり変更させました。翌9日にはNHKラジオに...

  • 占領政策の開始 その3

    かつて弱腰外交を展開した幣原首相にいきなりカウンターパンチを食らわせたGHQは、その後も次々と指令を加えました。昭和20(1945)年10月には軍国主義や国家主義的とみなした教育を禁止するとともに、これらに抵触するとして約11万人もの教職者を追放するよう指令しました。これを「教職追放」といいます。さらにGHQは、我が国の伝統的な神道を軍国主義のイデオロギーと一方的にみなして、同年12月に神道を国家から分離するために...

  • 占領政策の開始 その2

    東久邇宮内閣の総辞職を受けて新たに内閣を組織したのは、昭和初期を中心に外務大臣を歴任し、他国との「協調外交」を目指したものの、結果として相手国になめられ続けるだけだった弱腰ぶりを展開した幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)でした。昭和20(1945)年10月9日に内閣を発足させた幣原は、11日に新任挨拶(あいさつ)のためマッカーサーに面会に出向きましたが、そこで待っていたのは、GHQによる一方的な要求でした。マッ...

  • 占領政策の開始 その1

    昭和天皇のご聖断をもたらした鈴木貫太郎(すずきかんたろう)内閣が終戦直後の昭和20(1945)年8月17日に総辞職すると、次の内閣総理大臣には皇族で陸軍大将の東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)が任命されました。我が国最初で最後の皇族内閣です。東久邇宮が首相に任命された背景には、我が国が連合国に降伏したことに納得しない陸軍の武装を解除するとともに、ポツダム宣言に基づく終戦に伴う手続を円滑に進める...

  • 連合国による日本占領 その13

    ポツダム宣言の受諾によって、我が国の主権の及ぶ範囲は本州・北海道・九州・四国と連合国の決定する諸小島(しょしょとう)に限られ、奄美大島・沖縄・小笠原諸島はアメリカの管理下に置かれたほか、台湾並びに澎湖(ほうこ)諸島は中華民国に返還されました。昭和20(1945)年8月8日に日ソ中立条約を一方的に破棄して我が国に侵攻したソ連は、アメリカに対して南樺太(みなみからふと)や千島(ちしま)列島全島、さらには北海道...

  • 連合国による日本占領 その12

    29.占領軍総司令部への不適切な言及GHQを聖域とし、一切言及できないようにしました。30.時期尚早(しょうそう)の発表解禁されていない報道の公表を禁じることによって、GHQによる政策の一切を隠蔽し、同時に日本人に対策を立てさせない効果をもたらしました。プレス=コードによって、我が国は新聞から雑誌、私的書簡に至るまですべての文書が丹念に検閲され、プレス=コードに触れると判断されれば容赦なく発禁あるいは私信の没...

  • 連合国による日本占領 その11

    25.占領軍の批判当時の米兵が罪を犯しても「背の高い男」などと抽象的な表現でしか報道できなかったばかりか、米兵の犯罪による賠償金を日本政府に肩代りさせ、それすら報道させませんでした。26.飢餓(きが)状態の誇張深刻な食糧不足で飢(う)える国民が増えていたにもかかわらず、その実態を「誇張」と一方的にみなして報道させませんでした。27.暴力行為と不穏状態の誘導日本国民による占領軍に対する抗議行動の一切を禁止し...

  • 連合国による日本占領 その10

    21.その他の宣伝抽象的な内容ですが、逆にこれを理由としてGHQに都合の悪い人物を追放したり、都合の悪い文書を破棄あるいは没収したりすることを可能としました。「GHQのためなら何でもあり」を可能とする重要な項目だったのです。22.戦争犯罪人の正当化または弁護この事項が、極東国際軍事裁判における連合国側の「何でもあり」を可能としました。23.占領軍将兵の日本女性との懇交日本政府がGHQの要請によっていわゆる「慰安所」...

  • 連合国による日本占領 その9

    16.戦争弁護の宣伝これによって、本来あるはずの「戦争の原因」の隠蔽に成功したのみならず「日本だけが悪かった」という何の根拠もない「架空の神話」が独り歩きすることになりました。17.神国日本の宣伝18.軍国主義の宣伝皇室を中心とする我が国の国体を破壊すると同時に、我が国に「軍国主義があった」と見せかけ、戦時における日本軍の活躍などを報じることが禁止されました。19.民族主義(国家主義)の宣伝国家として当然であ...

  • 連合国による日本占領 その8

    5.アメリカの批判6.ソ連の批判7.イギリスの批判8.朝鮮人の批判9.中国の批判10.その他の連合国の批判11.連合国の全体批判連合国への批判を一切許さなかったほか、我が国と朝鮮人や中華民国とを離反させる流れにもつながりました。12.満州(現在の中国東北部)での日本人処遇への批判ソ連による侵攻後の満州における日本人の苦難が報道されなくなり、その結果として、日本人が満州において所持していた膨大(ぼうだい)な資産が略奪...

  • 【ハイブリッド方式】第94回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和5年1月)

    黒田裕樹の歴史講座は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合が...

  • 連合国による日本占領 その7

    プレス=コードは昭和20(1945)年9月19日に発表されましたが、表現活動において触れることを厳禁した30項目は非常に重要なものですので、そのすべてを紹介します。1.占領軍総司令部(連合軍最高司令官、マッカーサー)の批判これによってマッカーサーは聖人君子のごとき扱いを受けるようになりました。この効果は絶大で、やがて日本国民の中からマッカーサーへの感謝の思いを綴(つづ)った手紙がGHQに届くようになります。2.極東...

  • 連合国による日本占領 その6

    GHQによる言論統制は苛烈(かれつ)を極めました。確かに戦前の我が国にも検閲はありましたが、×印や○印で伏せ字にされたので、まだ消したことが分かるものでした。しかし、ポツダム宣言の重大違反となるGHQの言論統制は、そもそも検閲があったことを知らせてはならないことから、どこが消されたかを分からなくするために、文章を一から作り直さなければならなかったのです。もし新聞や雑誌を発行しようにも、GHQの検閲によって削...

  • 連合国による日本占領 その5

    昭和20(1945)年10月2日、GHQは「各層の日本人に、彼らの敗北と戦争に関する罪、現在と将来の日本の苦難と窮乏(きゅうぼう)に対する軍国主義者の責任、連合国の軍事占領の理由と目的を、周知徹底せしめること」を命じ、これに基づいて「日本民族から独立心を奪い、贖罪(しょくざい、犯した罪をつぐなうこと)意識を植えつける政策」が実施され続けました。アメリカによる占領下で、日本を罪深い国に仕立て上げたこれらの計画は...

  • 連合国による日本占領 その4

    ポツダム命令によって、GHQの発する命令は「天皇の名において日本政府が発する命令」に置き換わり、日本国民が「天皇陛下(へいか)のご命令とあらば」と、どんな過酷な条件であろうと逆らわずに受けいれるという図式が出来上がってしまいました。実際には直接統治にもかかわらず、我が国を裏で操るがごとく間接的に統治するという占領政策が可能となったのですから、GHQは非常にやりやすかったことでしょう。後に行われた極東国際...

  • 連合国による日本占領 その3

    昭和20(1945)年9月20日、ポツダム宣言の占領方針を遂行(すいこう)するための法的措置(そち)の根拠として、法律ではなく「最高司令官の指令に基づいた勅令や政令」を発することを可能とした、いわゆる「ポツダム緊急勅令」が発せられ、これに基づいて「ポツダム命令」が次々に出されるようになりました。これは、大日本帝国憲法第8条1項において「天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由(よ)リ帝国...

  • 連合国による日本占領 その2

    GHQを通じて我が国に事実上思いどおりの占領政策を行うことを可能としたアメリカは、我が国が連合国に降伏する以前から対日戦略を着実に練り続けていました。大東亜戦争開戦の翌年の1942(昭和17)年には、早くも対日戦後政策がアメリカ外交関係協議会で討論されたほか、1944(昭和19)年にはアメリカの国務・陸軍・海軍調整委員会(=SWNCC)が発足して、具体的な対日方針が計画されました。これらの計画は、GHQの占領政策にも少...

  • 連合国による日本占領 その1

    我が国がポツダム宣言を受諾して連合国に降伏した後の昭和20(1945)年8月末、最高司令官マッカーサー元帥(げんすい)率いる連合国軍が、占領軍として日本に進駐しました。9月2日には、東京湾内に停泊していたアメリカの戦艦ミズーリ号で、重光葵(しげみつまもる)外務大臣と梅津美治郎(うめづよしじろう)参謀総長が降伏文書に調印しました。我が国はアメリカ軍を主力とする占領軍の軍事的支配下に入り、東京にはGHQ(=連合国...

  • 昭和天皇とマッカーサーとの会見 その3

    会見を終えたマッカーサーは、後に軍事補佐官のボナー=フェラーズによる「もし天皇が戦争犯罪人として裁かれれば日本の統治機構は崩壊(ほうかい)し、全国民的反乱が避けられなくなる」との進言を受けいれ、昭和天皇を戦犯として訴追(そつい)しませんでした。昭和天皇の無私のご行動によって、皇室を中心とする我が国の国体(=国家としての体制のこと)を護ることはできました。終戦の直前、昭和天皇による2度目のご聖断が下...

  • 昭和天皇とマッカーサーとの会見 その2

    「日本の戦争責任のすべてはこの私にある。自分の身はどうなってもかまわないから、飢(う)えている国民のためにぜひ食糧援助をお願いしたい。ついては、皇室財産の有価証券類をまとめて持ってきたので、その費用の一部に充(あ)てて欲しい」。昭和天皇のお言葉を聞いたマッカーサーは「われ、神を視(み)たり!」と大いに感動して、それまで陛下の前で椅子に座り、足を組んでパイプをくわえたままの姿勢からやおら立ち上がると...

  • 昭和天皇とマッカーサーとの会見 その1

    ※今回より「昭和時代・戦後」の更新を開始します(2月10日までの予定)。大東亜戦争終結から約1か月が経った昭和20(1945)年9月27日、昭和天皇は連合国軍最高司令官総司令部(=GHQ)のマッカーサー元帥(げんすい)と会見されるため、アメリカ大使の公邸へと向かわれました。マッカーサーは陛下(へいか)を玄関で出迎えることもなく、会見場となった迎賓室(げいひんしつ)で待機していました。この当時、マッカーサーは「戦争...

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