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黒田裕樹さんのプロフィール

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黒田裕樹の歴史講座
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http://rocky96.blog10.fc2.com/
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受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。
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353回 / 343日(平均7.2回/週)

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黒田裕樹さんの新着記事

1件〜30件

  • 行政機関の整備 その2

    政府は次に、議会政治における上院に相当する機関の創設を視野に入れましたが、まずはその母体となるべき華族(かぞく)の範囲を広げて、より多くの人材を求めるべきであると考えました。そこで、明治17(1884)年に「華族令」を定め、従来の旧公家(くげ)や旧藩主以外に、国家の功労者も新たに華族になれるようにしました。また、華族の順列を公爵(こうしゃく)・侯爵(こうしゃく)・伯爵(はくしゃく)・子爵(ししゃく)・男...

  • 行政機関の整備 その1

    明治14(1881)年に公布した「国会開設の勅諭(ちょくゆ)」によって、明治23(1890)年に国会を開くと天皇の名で国民に約束した以上、政府は国会開設に向けて絶対に遅れが許されないという厳しい環境にその身を置くことになりました。しかし、国会を開設すると一口に言っても、実際に国会を開いて政治を行うには、国家の運営などに関するあらゆる条文を盛り込んだ、国の基本法でもある憲法の制定はもちろん、国会やそれ以外に関す...

  • 戦国時代を中心とする歴代天皇のご生涯 その5

    正親町天皇は信長に信頼と期待を寄せておられたとされ、天正5(1577)年には信長に右大臣を宣下(せんげ、天皇の命令を伝える公文書を公布すること)されました。一方、信長は天正9(1581)年に京都において天皇ご臨席のもとで、一種の軍事パレードともいうべき「馬揃(うまぞろ)え」を行っており、これは信長が自分の力を周囲に誇示するためだったというのが通説ですが、その一方で朝廷に対する圧力もあったとされています。天正...

  • 戦国時代を中心とする歴代天皇のご生涯 その4

    永正14(1517)年旧暦5月に後奈良天皇(当時は知仁親王)の第一皇子として誕生された方仁(みちひと)親王は、父君の崩御によって弘治3(1557)年に106代の正親町(おおぎまち)天皇として即位されました。この当時も戦乱続きで国土が荒れ果て朝廷も窮乏しており、安芸(あき、現在の広島県西部)の戦国大名であった毛利元就(もうりもとなり)の献上金によって、ご即位から約2年後の永禄3(1560)年旧暦1月に即位の礼を催行されま...

  • 戦国時代を中心とする歴代天皇のご生涯 その3

    明応5年旧暦12月(1497年1月)に後柏原天皇(当時は勝仁親王)の第二皇子として誕生された知仁(ともひと)親王は、父君の崩御によって大永6(1526)年に105代の後奈良(ごなら)天皇として即位されました。しかし、朝廷の財政は引き続き窮乏(きゅうぼう)しており、ご即位から10年後の天文(てんぶん、てんもん)5(1536)年にようやく即位式を催行されましたが、その際に大内氏や北条(ほうじょう)氏、今川(いまがわ)氏、朝...

  • 戦国時代を中心とする歴代天皇のご生涯 その2

    成仁親王が103代の後土御門(ごつちみかど)天皇として即位されて間もない応仁元(1467)年に、先述した大規模な戦乱である「応仁の乱」が発生すると、後花園上皇と後土御門天皇は戦火を避けて室町将軍の「花の御所」に避難されました。長引く戦乱によって京都は廃墟(はいきょ)と化し、国土全体が荒廃して朝廷の財政も逼迫(ひっぱく)しました。後土御門天皇は明応9(1500)年旧暦9月に59歳で崩御されましたが、葬礼の費用がな...

  • 戦国時代を中心とする歴代天皇のご生涯 その1

    かくして、後年に「室町時代」と呼ばれた時期は幕府の統率力のなさもあって長いあいだ戦乱が続くことになりましたが、この当時の歴代の天皇はどのようにお過ごしになられたのでしょうか。正長元(1428)年に伏見宮家から即位された102代の後花園天皇は、当初は後小松上皇による院政が続いたものの、永享5(1433)年旧暦10月に上皇が崩御された後は30年余りにわたって親政を行われましたが、その治世は決して平穏(へいおん)ではあ...

  • 時の権力者に振り回された足利将軍 その6

    管領や副将軍を引き受けるということは、信長が義昭の家来になるということを意味しますが、信長の最終的な目標は自身による天下統一であり、いずれは義昭を見限るつもりでした。しかし、その際にもし彼が管領や副将軍であったとすれば、主人に対する裏切りという重罪を犯してしまうことになります。いくら戦国の世とはいえ、主君に対する謀反というのはダメージが大きく、後の天下取りにも影響を及ぼすのは避けられません。だから...

  • 時の権力者に振り回された足利将軍 その5

    義輝の暗殺後、松永久秀らによって11代将軍義澄の孫にあたる足利義栄(あしかがよしひで)が14代将軍として永禄11(1568)年旧暦2月に擁立されましたが、間もなく久秀らの権力争いに巻き込まれ、将軍として京都にも入れぬ有様でした。その後、永禄11(1568)年旧暦9月に、織田信長が時の正親町(おおぎまち)天皇をお護りするために義輝の弟の足利義昭(あしかがよしあき)を伴って上洛を果たすと、久秀が信長に降伏して、同年旧暦...

  • 時の権力者に振り回された足利将軍 その4

    細川高国が12代将軍として擁立したのは、11代将軍義澄の子の足利義晴(あしかがよしはる)でした。高国はかつて義澄と勢力争いで対立した経験があったのですが、自らの権力を確立するために義澄の子と手を組んだことになります。ここまで来ると、もう「何でもあり」の世界ですね。そんな経緯で将軍になった義晴ですが、約25年ものあいだ地位を維持し続けたものの、最後には細川氏の内紛をきっかけに、将軍職を子の足利義輝(あしか...

  • 時の権力者に振り回された足利将軍 その3

    将軍の首を簡単にすげ替えるという実力を示した細川政元の権力は絶大なものとなり、彼はやがて「半将軍」とまで称されるまでになりましたが、そんな政元にも大きな落とし穴がありました。彼は生涯独身を貫いたために養子を複数迎えたのですが、彼らの間で権力争いが生じてしまったのです。永正(えいしょう)4(1507)年、政元は不意を突かれて暗殺されました。これを当時の年号から「永正の錯乱(さくらん)」といいます。政元が...

  • 時の権力者に振り回された足利将軍 その2

    義材が将軍に就任した頃の管領は、応仁の乱での東軍の総大将だった細川勝元の子である細川政元(ほそかわまさもと)でした。勝元はかつて義材の父の義視と連合して応仁の乱を起こしたものの、その後仲違いしたこともあって、義材と政元との関係は必ずしも良くはありませんでした。それに加えて、義材は自分を将軍にしてくれた「恩人」でもある日野富子と次第に距離を置くようになっていたため、義材に対する富子の不満も高まってい...

  • 時の権力者に振り回された足利将軍 その1

    文明5(1473)年、義政が隠居して子の義尚が9代将軍となりましたが、これは義尚の母の日野富子にとっても喜ばしいことでした。彼女は「将軍の妻」という地位を利用して高利貸しなどを行い、せっせと蓄財に励んでいましたが、今度は「将軍の母」として自己の権力を握り続けることができたからです。しかし、義尚は長享(ちょうきょう)3(1489)年に25歳の若さで子のないまま死亡してしまい、義視の子の足利義材(あしかがよしき)...

  • 「応仁の乱」の思惑と現実 その7

    応仁の乱が終わったことで、守護大名はそれぞれの領国に戻りましたが、一度火がついた争いは全国に拡大し、各地にあった荘園も、戦いの混乱の中でそのほとんどが守護大名や地方の豪族である国人(こくじん)の支配下に入ってしまいました。また、応仁の乱の頃から、大名の兵力の中心となった足軽(あしがる)の存在が目立ち始めました。足軽は主に金銭面のみで大名とつながっていることが多かったために忠誠心が薄く、このため各地...

  • 「応仁の乱」の思惑と現実 その6

    義視が西軍に属したことで、応仁の乱の戦いの構図は、当初の「足利義政―足利義視―細川勝元vs.日野富子―足利義尚―山名宗全」から「細川勝元―足利義政―日野富子―足利義尚vs.山名宗全―足利義視」という形式となり、敵と味方とが完全に「ねじれ現象」となってしまいました。これでは何のために戦っているのか分かりません。戦いの当事者たちにもいつしか厭戦(えんせん、戦争をするのをいやに思うこと)の気分が盛り上がってきましたが...

  • 「応仁の乱」の思惑と現実 その5

    応仁の乱が起きた後、有力な守護大名が細川氏あるいは山名氏に所属したり、あるいは分裂して両軍それぞれについたりしたので、戦いの規模はますます大きくなりました。なお、両者の位置関係から細川氏側が東軍、山名氏側が西軍と呼ばれており、また京都の西陣(にしじん)という地名は、山名氏が京都の堀川(ほりかわ)より西に陣を置いたことが由来となっています。緒戦の戦いは山名氏に優位に展開しましたが、細川氏が巻き返して...

  • 「応仁の乱」の思惑と現実 その4

    一日も早く隠居がしたかった義政は、弟の足利義視(あしかがよしみ)を養子として後継者に迎えましたが、その直後に日野富子との間に男子(後の足利義尚=あしかがよしひさ)が生まれてしまいました。義視からすれば、一度約束された将軍後継の地位を反故(ほご)にされてはたまったものではありませんし、義尚(よしひさ)の母の富子からすれば、自分がお腹を痛めて産んだ我が子が将軍後継になれないことほど愚かな話はありません...

  • 「応仁の乱」の思惑と現実 その3

    義教の死後に幕府の権威が著しく低下した理由の一つに「将軍の後継者不足」がありました。義教は天台座主(てんだいざす)から還俗して将軍になったため、暗殺された当時に二人いた男子がまだ幼かったのです。義教の後を継いで嘉吉2(1442)年に7代将軍となった足利義勝(あしかがよしかつ)でしたが、就任時わずか9歳では自ら政治ができるはずもなく、しかも翌嘉吉3(1443)年に急死してしまい、その後は弟の足利義政(あしかがよ...

  • 「応仁の乱」の思惑と現実 その2

    管領の細川持之は、一揆勢との話し合いによって「農民限定の徳政令」を出すことで彼らを納得させようとしましたが、何と一揆勢がこの条件を拒否して、徳政令の範囲を公家や武家にも広げるように要求しました。一揆勢の主力であった農民からすれば、公家や武家といった、いわゆる支配者層は憎むべき敵であるはずなのに、なぜこんなことを要求したのでしょうか。確かに一揆勢の主体は農民でしたが、実は彼らは地侍(じざむらい、守護...

  • 「応仁の乱」の思惑と現実 その1

    先述のとおり、「万人恐怖」の独裁者であった6代将軍足利義教が嘉吉元(1441)年に殺害されたことで、それまで義教の存在を目の上のたんこぶのように苦々しく思っていた守護大名たちは、胸をなでおろして安堵(あんど)しました。しかしながら、たとえ強引な手法であったとしても、世の中をそれなりにまとめていた将軍がいなくなったことで、守護大名はおろかその下の守護代も含めて、まるで箍(たが)が外れた桶(おけ)のように...

  • 「神に選ばれた将軍」と「後南朝」の悲劇 その11

    初代将軍の足利尊氏がもたらした「負の遺産」の処理に悩まされた室町幕府でしたが、そんな中で義満・義教父子(おやこ)は、幕府の命運をかけて果敢に改革に取り組みました。しかしながら、いかに幕府の権威を高めるためとはいえ、義満が自ら「天皇を超える存在」となろうとしたり、あるいは義教が「神に選ばれた将軍」として様々な恐怖政治を行ったりしたことは、余りにも「やり過ぎ」でした。それゆえに、この父子は自らの野望が...

  • 「神に選ばれた将軍」と「後南朝」の悲劇 その10

    長禄の変以後、後南朝は「ある大乱」に関わったのを最後として、我が国に残された史料からその姿を消してしまいましたが、そもそも後南朝という立場となったのは、南北朝が合一した際に義満が南朝をだましたからであり、また義教が積極的に血統を断絶させたのも大きく影響しました。さらには、義教が非業の死を遂げなければならなかった原因をつくった赤松氏によって、後南朝の御所に最後まで残っておられた高貴な血統を絶たれてし...

  • 「神に選ばれた将軍」と「後南朝」の悲劇 その9

    神璽を後南朝に奪われて困り果てていた朝廷や幕府に対して、赤松氏の遺臣は「自分たちが神璽を取り返してくるので、赤松氏を再興してほしい」と申し出ました。赤松氏は幕府にとって「将軍殺し」の天敵であり、禁闕の変の際にも後南朝側についていました。そんな赤松氏であれば、後南朝に味方と偽(いつわ)って吉野からさらに山奥まで入るのは容易(たやす)いことです。幕府は赤松氏の申し出を許可すると、遺臣たちは長禄(ちょう...

  • 「神に選ばれた将軍」と「後南朝」の悲劇 その8

    嘉吉3(1443)年旧暦9月、京都御所の内裏(だいり)に何者かが侵入し、内裏に火をかけるとともに三種の神器を持ち去ろうとしました。すぐさま幕府軍が駆けつけ激しい戦闘となりましたが、神器のうち神璽(しんじ、別名を八尺瓊勾玉=やさかにのまがたま)が奪われてしまいました。この事件は「御所の内裏」を意味する「禁闕(きんけつ)の変」と呼ばれており、御所を襲ったのは金蔵主(こんぞうす)・通蔵主(つうぞうす)の兄弟な...

  • 「神に選ばれた将軍」と「後南朝」の悲劇 その7

    称光天皇はご病弱で子孫がおられず、北朝の嫡流が断絶する可能性が高くなりました。後南朝は今度こそ自己の血統に皇位が継承されると期待していましたが、正長(しょうちょう)元(1428)年に称光天皇が崩御されると、幕府は北朝の血統である伏見宮家(ふしみのみやけ)から後花園(ごはなぞの)天皇を即位させました。またしても皇位継承の夢が破れた後南朝は、北畠満雅が後亀山天皇の孫にあたる小倉宮聖承(おぐらのみやせいしょ...

  • 「神に選ばれた将軍」と「後南朝」の悲劇 その6

    約50年以上にわたって争いを続けてきた南北朝は、先述のとおり南朝の元中9年/北朝の明徳3(1392)年に義満の働きかけによって合一を果たしましたが、当初の条件であった「自分の子孫が再び天皇として即位する」などをことごとく反故にされた南朝の不満が高まっていました。応永17(1410)年、自分の子を皇太子と認められないことを不服として、南朝の後亀山上皇が京都から吉野へと移られました。その後、応永19(1412)年に北朝の...

  • 「神に選ばれた将軍」と「後南朝」の悲劇 その5

    嘉吉(かきつ)元(1441)年旧暦6月、義教は結城合戦の祝勝会を行うという名目で、守護大名の赤松満祐(あかまつみつすけ)の屋敷に招かれましたが、宴(うたげ)の最中に突如(とつじょ)として乱入してきた武者たちに取り押さえられ、あっという間に首をはねられました。そのあまりの手際の良さに、周囲の誰もが何の手助けもできなかったそうです。なお、この事件は当時の年号から「嘉吉の乱」といいます。義教の突然の最期は、...

  • 「神に選ばれた将軍」と「後南朝」の悲劇 その4

    義教は、中央で使用する年号を無視するなど、将軍の命令に逆らい続けた鎌倉府に対しても牙(きば)をむきました。鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実(うえすぎのりざね)との間が不和になると、義教は関東へ出兵して、永享11(1439)年に持氏を滅ぼすことに成功しました。この争いは当時の年号から「永享の乱」と呼ばれています。さらに翌永享12(1440)年には、持氏の遺児を擁(よう)して結城氏朝(ゆうきうじとも)らが挙...

  • 「神に選ばれた将軍」と「後南朝」の悲劇 その3

    義教は籤によって将軍に就任したという事実を「自分は神に選ばれた将軍である」と解釈することで、将軍就任後は強気の政治を実行しましたが、そんな義教が目指したのが、衰えていた将軍の権威の向上と、守護たちに政治をさせない将軍親政の復活でした。まず義教は、4代将軍義持の時代に中断していた日明貿易を復活させて幕府の財政を潤すと、その財力で奉公衆を整備して、将軍直属の軍事力をさらに強化した後に九州地方へ攻めのぼ...

  • 「神に選ばれた将軍」と「後南朝」の悲劇 その2

    義持が自分で後継者を決めなかったことを受けて、幕府の家臣たちはあれこれ考えた末に、義持の弟たちで義満の子でもある4人の僧の名前を書いた籤(くじ)を作成し、京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の神前でその籤を引きました。そして、応永35(1428)年に義持が亡くなった直後に当たり籤を開封した結果、比叡山延暦寺の最高位である天台座主の義円が選ばれました。義満がかつて自分の権力強化のために門跡寺院に自...

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