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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
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2012/08/07

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  • 条約改正への道のり・前編 その4

    明治19(1886)年10月、イギリスの貨物船ノルマントン号が紀州沖で暴風雨のために沈没しましたが、この時にイギリス人の船長以下乗務員が全員脱出した一方で、乗っていた日本人の乗船客二十数名全員が見殺しにされるという悲劇が起きました。いわゆる「ノルマントン号事件」です。船長は神戸の領事裁判所で裁判を受けましたが、同じイギリス人の判事は無罪の判決を言い渡しました。多くの日本国民はこの判決に激怒し、政府も船長を...

  • 条約改正への道のり・前編 その3

    井上による交渉に基づく条約改正案のうち、領事裁判権の撤廃については二つの条件が付いていました。一つは我が国が欧米並みの憲法や民法などの諸法典を整備することでしたが、問題となったのはもう一つのほうでした。我が国において外国人を被告とする裁判に対して、半数以上の外国人の判事(=裁判官)を採用するという条件が付いていたのです。もしこれが実現した場合には、仮に領事裁判権が撤廃されたとしても、過半数の外国人...

  • 条約改正への道のり・前編 その2

    寺島宗則の次に外務卿に就任した(その後外務大臣となる)井上馨は、明治15(1882)年に東京で関係国の代表を集めて予備会議を開いた後、明治19(1886)年から正式な条約改正に向けての会議を始めました。井上は、条約改正を有利に進めるためには欧米列強の制度や風俗あるいは習慣や生活様式などを我が国でも積極的に導入すべきであると考え、明治16(1883)年に洋風の鹿鳴館(ろくめいかん)を東京・日比谷に建設して、国際的な社...

  • 条約改正への道のり・前編 その1

    明治政府にとって最重要の外交課題は江戸幕府が欧米列強と結ばされた「安政(あんせい)の五か国条約」に由来した不平等条約の改正であり、とりわけ領事裁判権(=治外法権)の撤廃と関税自主権の回復は悲願でもありました。明治初年の岩倉使節団による条約改正交渉の失敗の後、外務卿(がいむきょう)の寺島宗則(てらしまむねのり)は領事裁判権の撤廃と関税自主権の回復の両方を一度に実現するのは困難と判断し、政府の財源を確...

  • 初期議会 その4

    第一次松方内閣が倒れた後には、伊藤博文が明治維新に功績のあった首相経験者でもある黒田清隆や山県有朋といった「維新の元勲(げんくん)」ともいうべき人物を誘って第二次内閣を組織しました。これを「元勲総出(そうで)」といいます。第二次伊藤内閣も第四議会で民党と対立しましたが、明治26(1893)年2月に明治天皇から「和衷協同(わちゅうきょうどう、心を合わせて互いに協力して行動すること)の詔(みことのり、天皇の...

  • 初期議会 その3

    第一次山県内閣の後を受けて成立した第一次松方正義(まつかたまさよし)内閣でしたが、明治24(1891)年11月に開かれた第二議会で民党からの激しい攻撃を受け、政府予算の中で海軍が要求していた軍艦の建造費が議会によってすべて削除されてしまいました。民党の仕打ちに激怒した海軍大臣の樺山資紀(かばやますけのり)は、議会の演説で「今日の我が国が安寧(あんねい)を保っているのは誰の功績か分かっているのか!」とぶち上...

  • 初期議会 その2

    明治23(1890)年11月25日に第1回帝国議会が召集され、29日には明治天皇がご出席されて開院式が行われました。そして、12月6日に当時の首相であった山県有朋が施政(しせい)方針演説を述べました。山県首相は演説の中で当時の厳しい世界情勢のもとで我が国が置かれている立場を冷静に分析し、他国との国境たる「主権線」と国境を守るための朝鮮半島など我が国の周辺地域たる「利益線」を死守するためにも軍備の増強が不可欠である...

  • 初期議会 その1

    国会開設の勅諭によって帝国議会(=国会)を開く年とされていた明治23(1890)年7月に第1回衆議院議員総選挙が行われました。当時の選挙は原則として定員1名の小選挙区制であり、選挙権は満25歳以上の男子で地租や所得税などの直接国税を15円以上納めている者に限られていました。このため、第1回の選挙における有権者は全人口のわずか1.1%しか存在しなかったそうです(ただし、投票率は93.9%と極めて高くなりました)。選挙の...

  • 大日本帝国憲法の制定・後編 その4

    法典の編纂(へんさん)は明治初年の頃から始まり、フランスの法学者であったボアソナードらの助言を得て、明治13(1880)年にはフランス法をモデルとした刑法や治罪法(ちざいほう、刑事訴訟法の前身)が公布されました。次に、条約改正の目的もあって民法と商法の編纂が進められ、明治23(1890)年に民法・商法・民事訴訟法や刑事訴訟法が新たに公布され、法治国家としての体裁が整いました。ところが、民法の概要が当時のフラン...

  • 大日本帝国憲法の制定・後編 その3

    立法権・行政権・司法権のいわゆる三権については政体書(せいたいしょ)の頃から三権分立を理想としていましたが、大日本帝国憲法でそれぞれが天皇を補佐することによって、その体制が整うことになりました。国会は「帝国議会」と呼ばれ、対等の権限をもつ貴族院と衆議院からなる二院制が採用されました。なお、両院は対等ではあったものの、予算の編成は衆議院に先議権がありました。このほか、憲法において国務大臣は各自がそれ...

  • 大日本帝国憲法の制定・後編 その2

    さて、大日本帝国憲法における「天皇大権」の真意は理解できましたが、条文で「臣民」と書かれた国民の自由や権利は制限付きでしか認められず、不十分なものであったというのは本当でしょうか。大日本帝国憲法の条文における「臣民の権利」には、参政権や契約の自由あるいは所有権の不可侵、信教および言論・出版・集会・結社の自由などが認められており、19世紀末に制定されたという事情を考えれば、かなり多くの権利が認められて...

  • 大日本帝国憲法の制定・後編 その1

    これまで述べてきたように、大日本帝国憲法において天皇は政治的な権力は何もお持ちでなかったのですが、権力とは全く別の概念として、天皇は我が国の長い歴史における権威をお持ちであられた一方で、近代国家として歩むために絶対に必要な憲法を制定した政府には、明治維新から20年余りしか経っていないということもあって、後ろ盾(だて)となる権威がどうしても不足していました。そこで、歴史的な権威をお持ちの天皇が憲法にお...

  • 大日本帝国憲法の制定・前編 その4

    「天皇大権」が大日本帝国憲法の冒頭で否定されているのは先述したとおりですが、憲法の各条文においても同じように明文化されています。例えば、憲法第5条の「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」は「天皇が立法権を行うには議会の賛成や協力が必要である」という意味であり、天皇が勝手に立法権を行使することは憲法上許されていないことになりますから、これを「議会は天皇を助ける機関に過ぎない」と解釈するのは強引で...

  • 大日本帝国憲法の制定・前編 その3

    さて、大日本帝国憲法といえば一般的に「天皇に強い権限を与えた欽定(きんてい)憲法」「神聖不可侵(しんせいふかしん)とされた天皇は統治権を独占した総攬(そうらん)者であり、議会すら関与できない天皇大権を持っていた」「臣民とされた国民の権利は法律によって厳しい制限を受けていた」などという評価をされていることが多いようですが、これらは本当のことでしょうか。まず欽定憲法ですが、これは「君主が定める」という...

  • 大日本帝国憲法の制定・前編 その2

    明治20(1887)年、伊藤博文は井上毅(いのうえこわし)が作成した憲法草案をもとに伊東巳代治(いとうみよじ)や金子堅太郎(かねこけんたろう)らとともに検討作業を行い、ドイツ人顧問のロエスレルらの助言も得て、翌明治21(1888)年4月に草案を完成させました。完成した憲法草案は、同じ明治21(1888)年に創設された天皇の最高諮問(しもん、意見を求めるという意味)機関である枢密院(すうみついん)で、明治天皇ご臨席の...

  • 大日本帝国憲法の制定・前編 その1

    行政機関の整備と同時に憲法制定の作業を開始した政府は、明治15(1882)年に伊藤博文をヨーロッパへ派遣して憲法調査を自発的に行いました。自国の憲法制定に関して、他国の憲法をそれも自発的に調査するなど他国に例がありません。政府の憲法制定に対する強い意欲が感じられるエピソードです。伊藤は約1年半の時間をかけた末に、当時のドイツ帝国の母体となった旧プロイセン王国の憲法が我が国の国情に照らして一番相応(ふさわ...

  • 行政機関の整備 その4

    市町村の議決機関としては市町村会が設置され、一定額の直接国税を納めた者のみが投票できるという制限選挙ではあったものの、議員が住民から直接選ばれました。自由民権運動が始まって約15年でようやくここまでたどり着いたといえますね。一方、郡会は町村会の選出議員と大地主の互選で選ばれ、府県会議員は市会や郡会において間接的に選出されました。また、府や県の代表たる府知事や県知事は政府が任命し、市長は市会が推薦(す...

  • 行政機関の整備 その3

    宮中(きゅうちゅう)の事務にあたる宮内省(くないしょう)は内閣の外に置かれ、宮中と行政府とが明確に区別されました。なお、宮内省の長官としては宮内(くない)大臣が任じられましたが、初代は首相の伊藤博文が兼任しました。また、天皇の印たる御璽(ぎょじ)や国家の官印たる国璽(こくじ)を保管するとともに、天皇の諮問(しもん、意見を求めること)に応じる内大臣(ないだいじん)も新たに置かれ、初代内大臣として三条...

  • 行政機関の整備 その2

    次に、政府は議会政治における上院に相当する機関の創設を視野に入れましたが、まずはその母体となるべき華族(かぞく)の範囲を広げて、より多くの人材を求めるべきであると考えました。そこで明治17(1884)年に「華族令」を定め、従来の旧公家(くげ)や旧藩主以外に国家の功労者も新たに華族になれるようにしました。また、華族の順列を公爵(こうしゃく)・侯爵(こうしゃく)・伯爵(はくしゃく)・子爵(ししゃく)・男爵(...

  • 行政機関の整備 その1

    明治14(1881)年に公布した「国会開設の勅諭」によって明治23(1890)年に国会を開くと天皇の名で国民に約束した以上、政府は国会開設に向けて絶対に遅れが許されないという厳しい環境にその身を置くことになりました。しかし、国会を開設すると一口に言っても、実際に国会を開いて政治を行うには国家の運営などに関するあらゆる条文を盛り込んだ国の基本法でもある憲法の制定はもちろん、国会やそれ以外に関する様々な制度や規則...

  • 自由民権運動の激化 その6

    その後、自由民権運動の拡大によって多くの国民が憲法制定や議会政治に関心を持つようになりました。知識を高めた国民の中からは「実際に集会に行って話を聞いてみたい」と考える人々も決して少なくありませんが、そう思って出掛けた集会で民権派が反政府的な活動をすればどうなるでしょうか。もちろん政府は取り締まろうとしますよね。集会での反体制運動への対応ですから、条例の名称は「集会条例」になります。やがて自由民権運...

  • 自由民権運動の激化 その5

    ここまで述べてきましたように、自由民権運動は決して単なる「反体制運動」だったのではなく、政府側と民権派側とが立場上は激しく争いながらも、結果的に両者が手を携(たずさ)えることによって我が国が憲法制定と議会政治を行う「立憲国家」として世界中に認められるまでに成長できたともいえるのです。さて、自由民権運動において政府は様々な条例を出して民権派の動きを抑えようとしました。一般的には明治8(1875)年の「讒...

  • 自由民権運動の激化 その4

    また、同年に外務大臣の井上馨(いのうえかおる)による条約改正交渉が失敗すると(詳細はいずれ後述します)、片岡健吉(かたおかけんきち)が立法の諮問(しもん、有識者などの一定機関に意見を求めること)機関である元老院(げんろういん)に提出した建白書をきっかけに「三大事件建白運動」が起きました。三大事件とは「集会や言論の自由」「地租(ちそ)の軽減」「外交における失策の回復(=条約改正)」であり、二つの運動...

  • 自由民権運動の激化 その3

    政党の解散(事実上も含む)によって指導者層を失った自由民権運動でしたが、激化事件はむしろ活発化して、自由党解散直後の明治17(1884)年10月には埼玉の秩父(ちちぶ)で不況に苦しむ農民を中心に結成された困民党(こんみんとう)が負債の減免を求めて蜂起(ほうき)するという「秩父事件」が起きてしまい、政府は軍隊を使ってようやく鎮圧しました。さらに翌明治18(1885)年には、旧自由党左派の大井憲太郎(おおいけんたろ...

  • 自由民権運動の激化 その2

    明治15(1882)年、福島県令の三島通庸(みしまみちつね)が県の道路建設を目的として地元農民に労役を強制させようとすると、自由党員で県会議長だった河野広中(こうのひろなか)らが反対運動を展開しました。これらの動きを自由党への弾圧の好機と見た三島は、河野をはじめ多数の自由党員を検挙しました。これを「福島事件」といいます。なお、事件のきっかけとなった県道はその後に完成し、現在でも国道の一部として使用されて...

  • 自由民権運動の激化 その1

    ※今回より「第103回歴史講座」の内容を更新します(9月6日までの予定)。松方財政が原因と考えられる全国的な不況によって、支持者であった地主や農民が経営難から脱落する者が多くなったことで、自由民権運動は資金面で大きな影響を受けました。一方、政府は明治15(1882)年に集会条例を改正して取り締まりを強化したり、同年に暴漢に襲われた自由党の板垣退助(いたがきたいすけ)を外遊させたりするなど、自由民権運動を側面か...

  • バブル経済の崩壊と長引く平成不況 その13

    ※「平成時代」の更新は今回で中断します。明日(8月6日)からは「第103回歴史講座」の内容を更新します(9月6日までの予定)。昭和22(1947)年、我が国がGHQによる占領下にあった頃に制定された「財政法」の第4条に「国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入を以て、その財源としなければならない」と書かれていますが、これは「国の歳出は税収だけにしなさい」と命令しているに等しいものです。官僚といえどもやはり「人の子」であ...

  • バブル経済の崩壊と長引く平成不況 その12

    「国の借金を返済するためにはプライマリーバランスを可能な限りプラスにしないと、借金が膨らんで国の財政が破綻する」とよく言われますが、国債償還を重視すれば必然的に緊縮財政になり、また国債を償還するということは、せっかく吸い上げた税金が元へと戻らないことを意味しますから、結果的に実体経済に回ることもありません。その一方で、令和3(2021)年3月現在で家計の金融資産は1,968兆円もあり、企業のそれは1,230兆円に...

  • バブル経済の崩壊と長引く平成不況 その11

    そもそも、我が国のGDPが30年近くも横ばいを続けてきたことが「異常」であり、先述した「リーマン・ショック」で大きな打撃を受けたアメリカはその後に劇的に経済を回復させたほか、中華人民共和国も平成22(2010)年に我が国のGDPを上回ると、その後も大差をつけている有様です。アメリカや中華人民共和国が著しい経済成長を続ける一方で、なぜ我が国は置き去りにされているのでしょうか。その背景のひとつとして「財務官僚」によ...

  • バブル経済の崩壊と長引く平成不況 その10

    その後の我が国は、平成20(2008)年にアメリカで起きた「リーマン・ショック」から立ち直ることができないうちに、翌平成21(2009)年に衆議院総選挙で民主党(当時)が大勝して政権交代すると、2年後の平成23(2011)年に東日本大震災が発生した影響もあり、経済は低迷を続けました。特に、民主党政権末期の平成24(2012)年の後半には1ドル=77円台の超円高になっているのに対し、当時の野田佳彦(のだよしひこ)内閣や先述した...

  • バブル経済の崩壊と長引く平成不況 その9

    様々な金融改革は日本銀行や省庁にも及びました。日銀に関しては、平成9(1997)年に日本銀行法が改正されたことで政府から独立した中央銀行としての性格が強められたほか、金融政策を日本銀行政策委員会が決定するなどの制度が整えられ、透明性が確保されました。しかし、日本銀行の独立性が高められたことが、平成20(2008)年から25(2013)年まで日銀の総裁を務めた白川方明(しらかわまさあき)氏による前例のない超円高の為...

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