当時の有力な豪族は「田荘(たどころ)」と呼ばれる私有地や「部曲(かきべ)」と呼ばれる私有民をもっており、それらを経済的な基盤(きばん)としていました。一方、朝廷も直属の民である「名代(なしろ)」「子代(こしろ)」を持ち、彼らに生産物を納めさせるとともに、直轄地(ちょっかつち)である「屯倉(みやけ)」を各地に設けて「田部(たべ)」と呼ばれた人々に耕作させました。朝廷には祭祀(さいし)や軍事などの様々...
経済のグローバル化が加速する流れのなかで、我が国の金融市場も自由化に向けた変革を余儀なくされるようになりました。平成8(1996)年、当時の橋本龍太郎内閣は国内金融機関の国際競争力の向上を目指して、金融制度の規制を可能な限り緩和した「金融ビッグバン」の構想を打ち出しました。金融ビッグバンによって、外国為替取引の自由化や金融持株会社設立の解禁、株式委託手数料の完全自由化、銀行窓口での保険販売全面解禁など...
バブル経済の崩壊によって企業の経営が悪化したことから、1980年代までは「理想的な経営方法」ともてはやされてきた、終身雇用制や年功序列型といった日本型経営が見直されるようになりました。また、日本国内における様々な規制や、人件費などのコスト高が不況時の大きな負担となっていた企業の中から、生産拠点を海外へ移転させる動きがこの頃から目立つようになりました。これを「多国籍企業化」といいます。我が国で多国籍企業...
バブル崩壊後に発生した平成不況によって、中小企業の多くが倒産の憂き目にあったほか、生き残った企業でも、その多くが事業の整理や人員削減といった経営の効率化(=リストラ)を図ったことによって、大量の失業者が発生しました。失業者の増加は必然的に雇用不安をもたらしたことで、多くの国民が少しでも安価な商品を求めたり、あるいは買い控えをしたりするなどして消費が落ち込み、そのことがさらなる需要の縮小を呼び込んだ...
【ハイブリッド方式】第103回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和6年7月)
「黒田裕樹の歴史講座」は対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。準備の都合上、オンライン式の講座のお申し込みは事前にお願いします。対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です。メインの主催者である「国防を考える会」のQRコードはこちらです。(クリックで拡大されます)(クリックで拡大されます)第103回黒田裕樹の歴史講座...
平成2(1990)年からその兆候(ちょうこう)を見せていたバブル経済の崩壊は、翌平成3(1991)年に入るとより厳しい状況となりました。バブル経済の頃に積極的に投機に走った企業や個人が所有した株や土地などは、価格が軒並み低下したことで、その資産価値が大幅に下落したばかりか、その大半が返済不能な不良債権と化してしまいました。不良債権の増加は、バブル期に多額の資金を提供し続けた銀行にも大きな打撃となりました。多...
バブル経済の崩壊の直接の引き金となったのは、先述した大蔵省が各金融機関に通達した不動産の総量規制ですが、具体的には「不動産会社に対する融資を銀行に禁止する」通達のことでした。実は、この「通達」こそが最大の問題でした。なぜなら、例えば法律であれば議会によってその正当性などが論議されるとともに、時間をかけて審議できるからです。ところが、大蔵省という一機関からの通達であったがゆえに、まさに抜き打ちで決定...
平成元(1989)年12月に日本銀行の総裁となった三重野康(みえのやすし)氏は、就任当初から矢継ぎ早に金融引き締め政策を実施し、バブル景気に歯止めをかけようとしました。そんな折の翌平成2(1990)年3月に、大蔵省(現在の財務省)から各金融機関に対して不動産取引の総量規制を中心とした行政指導を行ったことで、約39,000円近くまで上昇していた日経平均株価が一気に下降し始めました。平均株価の大暴落は我が国の経済に大き...
大東亜戦争以前、我が国では軍人や官僚を中心に、いわゆる「国家社会主義思想」が蔓延(まんえん)していました。当時は相次ぐ恐慌(きょうこう)によって資本主義経済の限界がささやかれていた一方で、建国されたばかりのソ連が輝きを見せていたことが、我が国における「天皇を中心とした社会主義思想」に拍車をかけたのです。その後、戦争に敗北した我が国は自由主義的な政策を次々と行い、高度経済成長などによる奇跡的な復興を...
昭和から平成となった当時の日本経済は、先述のとおりバブル景気(=バブル経済)によって絶好調でした。そんな空前の好景気だったからこそ、平成元(1989)年からの消費税という大型間接税の導入が可能だったといえます。その一方で、バブル景気によって土地が暴騰(ぼうとう)した影響を受け、いわゆる「地上げ」などが問題化したり、あるいはバブル以前に資産を「持つ者と持たざる者」との差が「不公平である」と問題視されたり...
平成10(1998)年に誕生した小渕内閣は、翌平成11(1999)年に自由党との連立で内閣を改造して政権を安定させると重要な政策に取りかかり始め、同年5月には情報公開法や新ガイドライン関連法(周辺事態法など)を、8月には通信傍受(ぼうじゅ)法を次々に成立させました。一方、広島県の公立高校の校長が勤務校の卒業式での国歌斉唱に反対した教職員組合などの吊(つる)し上げを苦にして、平成11(1999)年2月に自殺するという悲...
ところで、平成5(1993)年に55年体制の崩壊が起きる前後から政党の離合集散が相次ぎました。宮澤内閣による衆議院解散を受けて、自民党を離党したグループから平成5(1993)年に「新生党」が誕生すると、これに日本新党や民社党・公明党が合流して、平成6(1994)年に「新進党」が誕生しました。しかし、やがて新進党からの離党者が相次ぐようになり、平成8(1996)年には社会党から改称した社会民主党(=社民党)の一部などが合...
村山首相の辞任を受けて、自民党・社会党・新党さきがけの3党の連立によって自民党総裁の橋本龍太郎(はしもとりゅうたろう)氏が第一次内閣を組織しました。橋本首相は冷戦終結後の新たな日米の安全保障体制を目指した「日米安保共同宣言」に調印したほか、自身の誕生日でもあった7月29日には首相として11年ぶりに靖国(やすくに)神社に参拝しました。同年10月に小選挙区比例代表並立制で初の衆議院総選挙が行われ、首相自身の人...
平成7(1995)年3月20日の朝、東京の地下鉄の車内や駅の数か所で毒物サリンがばらまかれ、都心は大パニックとなりました。いわゆる「地下鉄サリン事件」です。サリンを製造したのはオウム真理教であり、計画的なテロであったことが後に分かりましたが、我が国では化学物によるテロを想定していなかったため、消防や警察では毒物が除去できず、化学兵器に対する防護服を持っていた陸上自衛隊の化学防護隊のみが対応可能でした。平成...
平成7(1995)年1月17日午前5時46分に発生した「阪神・淡路大震災」は、関西地方一帯を襲ったマグニチュード7.3の巨大地震であり、兵庫県の一部地域では国内史上初の震度7が観測されました。関連死を含めて約6,400人の生命が失われたほか、高速道路や新幹線、あるいは在来線といった鉄道が寸断され、ライフラインを失った人々の生活は長期にわたって不便を余儀なくされました。大正12(1923)年に発生した関東大震災など、我が国は...
平成5(1993)年8月に成立した非自民8党派による連立である細川護熙内閣は、衆議院総選挙において「小選挙区比例代表並立制」を導入し、選挙制度改革を含んだ一連の政治改革法案を成立させました。しかし、細川首相が3%の消費税を廃止して新たに7%の税率による国民福祉税を導入する構想を発表した頃から政権の求心力が低下し、また首相自身による佐川急便グループからの借入金処理問題の発覚もあって、細川内閣は平成6(1994)年...
衆議院総選挙に敗北して宮澤内閣が退陣する直前の平成5(1993)年8月4日、当時の河野洋平(こうのようへい)内閣官房長官による「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」が発表されました。いわゆる「河野談話」のことです。この談話は、1990年代から朝日新聞などの日本のマスコミや韓国によって盛んに主張され始めたいわゆる「従軍慰安婦問題」に関し、その幕引きを図るべく、当時の宮澤首相と河野官房長官とが旧...
昭和63(1988)年に発覚したリクルート事件を受けて国民の政治不信が強まっていたことから、抜本的な政治改革を行って国民の信頼を取り戻すべきだという声が政府の内外から次第に高まってきました。また、宮澤内閣当時の平成4(1992)年には佐川急便事件が、翌平成5(1993)年にはゼネコン汚職事件が相次いで発覚し、国民の激しい非難を浴びたことから、選挙制度改革や政界再編を目指す動きが与野党を巻き込んで見られるようになり...
宇野内閣の後継には海部俊樹(かいふとしき)氏が首相に選ばれ、平成元(1989)年8月に第一次内閣を組織しました。海部首相は平成2(1990)年2月に行われた衆議院総選挙で勝利し、新たに第二次内閣を組織しましたが、同年8月に発生したイラクによるクウェート侵攻から翌平成3(1991)年1月に勃発(ぼっぱつ)した「湾岸戦争」においては、人的支援の不手際もあったことからその対策に苦慮することになりました。その後、自らが政策...
昭和62(1987)年11月に成立した竹下登内閣は、絶対多数を占(し)めた与党・自民党の勢力を背景に消費税を含めた税制改革関連法案を昭和63(1988)年12月に成立させ、翌平成元(1989)年4月に消費税が税率3%で導入されました。しかし、消費税の導入には野党や世論に強硬な反対意見も多く、同時期に大規模な贈収賄(ぞうしゅうわい)事件となったリクルート事件が発覚したこともあり、竹下内閣の支持率はひとケタにまで急降下し、...
平成26(2014)年4月から8%に引き上げられ、さらに令和元(2019)年10月には一部を除いて10%となった消費税。私たちの生活に直接影響を与える間接税だけに、国民の関心も非常に高いものがありますが、皆さんは、我が国でいつ消費税が導入されたかご存知でしょうか。答えは平成元(1989)年4月1日であり、当時の税率は3%でした。また、消費税を導入することを正式に決定したのは前年の昭和63(1988)年12月であり、当時の内閣総...
さて、冷戦の終結や、湾岸戦争の勝利などによって、世界においてアメリカの一極支配が強まる一方で、その他の近隣諸国が緊密な経済関係を築こうとする動きも活発になりました。ヨーロッパでは、1992(平成4)年にEC(=ヨーロッパ共同体)加盟国が、統合の基本原因を定めた欧州連合条約(マーストリヒト条約)を締結し、翌1993(平成5)年には「ヨーロッパ連合(=EU)」を発足させ、統一通貨である「ユーロ」を発行するなど、経済...
カンボジアの総選挙は、予定どおり平成5(1993)年5月23日に行われましたが、この日は奇しくも中田さんの四十九日法要と同じでした。カンボジアでの平均投票率は90%という高水準でしたが、中田さんが担当した地域の投票率は、99.99%という驚くべき数字を残しました。また、中田さんが担当した地域で開票作業をしていた投票箱の中から、いくつもの手紙が出てきて、中にはこう書いていたものもあったそうです。「今まで民主主義と...
さて、国連カンボジア暫定統治機構(=UNTAC)によって平成4(1992)年9月に自衛隊がカンボジアへ派遣されましたが、同じUNTACが1993(平成5)年5月にカンボジアで実施予定の総選挙を支援するために募集した国際連合ボランティア(=UNV)に採用された一人の日本人の若者がいました。彼の名を中田厚仁(なかたあつひと)といいます。かねてより世界平和に関心を抱き、国連で働くことを希望していた中田さんは、大学を卒業したばか...
海上自衛隊のペルシャ湾への掃海艇派遣を通じて人的支援の重要性を再認識した日本政府は「現行憲法の枠内で自衛隊を海外派遣することが可能かどうか」を検討し始めるとともに、国内でも大きな議論となりました。政府は「国際貢献という観点から、戦闘終結地域への戦闘目的以外の自衛隊の派遣であれば可能である」との判断を下し、湾岸戦争の翌年に当たる平成4(1992)年に「国際平和協力法(=PKO協力法)」を成立させて「国連平和...
湾岸戦争で人的支援を見送ったことで国際的な批判を浴びた我が国は、平成3(1991)年4月24日に政府が「我が国の船舶(せんぱく)の航行の安全を確保する目的でペルシャ湾における機雷の除去を行うため、海上自衛隊の掃海艇(そうかいてい)を派遣する」と決定しました。昭和29(1954)年に自衛隊が発足して以来、初めてとなった海外派遣は国連や東南アジア諸国の賛成もあって、6月5日から他の多国籍軍派遣部隊と協力して掃海作業を...
湾岸戦争で我が国がとった行動は、平たく言えば「カネは出しても、人は出さない」ということですが、これがいかに問題であるかということは、以下の例え話を読めば理解できるはずです。ある地域で大規模な自然災害が発生しましたが、これ以上の被害を防ぐための懸命な作業が行われていました。自分自身のみならず、愛する家族の生命もかかっていますから、全員が命がけです。しかし、この非常時において、地域の資産家が「そんな危...
イラクによるクウェート侵攻から湾岸戦争への流れにおいて、我が国は支援国の中で最大の合計130億ドル(約1兆7,000億円)もの財政支援を行いましたが、人的支援をしなかったことが国際社会から冷ややかな目で見られました。湾岸戦争後、クウェート政府はワシントン・ポスト紙の全面を使って国連の多国籍軍に感謝を表明する広告を掲載(けいさい)しましたが、その中に日本の名はありませんでした。また、湾岸戦争に関してアメリカ...
イラクによるクウェート侵攻に対して、我が国は平成2(1990)年8月5日にアメリカからの要請によってイラクへの経済制裁に同意するとともに、同月下旬から9月上旬にかけて国連の多国籍軍へ総額40億ドル(約5,200億円)の支援を発表しました。しかし、アメリカが我が国に求めていたのは、経済よりも「人的支援」でした。「日本は何らリスクを負おうとはしない」という批判に対して、当時の海部俊樹(かいふとしき)内閣は自衛隊の海...
※今回より「平成時代」の更新を再開します(8月5日までの予定)。先述のとおり、1989(平成元)年12月にアメリカのブッシュ大統領とソ連(当時)のゴルバチョフ書記長とが地中海のマルタ島で会談し、両首脳によって「冷戦の終結」が発表されましたが、その後も世界の各地域で紛争が続きました。1990(平成2)年8月2日、イラク軍が突然クウェート領内に侵攻して軍事占領したうえ、クウェートの併合を宣言しました。これに対して国連...
※「第102回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(7月4日)からは「平成時代」の更新を再開します(8月5日までの予定)。松方正義による緊縮財政は「松方財政」とも呼ばれ、西南戦争の後の政府の財政危機を立て直しただけでなく、発行紙幣と銀貨との兌換を可能とした銀本位制を確立したことで、当時の政府の世界における信用度を高めることにもつながるなどの大きな成果をもたらしました。しかし、政府による歳出を...
その後、明治十四年の政変で大隈が政府から追放されると、代わって大蔵卿に就任した松方正義(まつかたまさよし)が政府の歳入を増やしながら同時に歳出を抑え、保有する正貨を増やすことによって財政危機から脱出する政策に取り組みました。松方は酒造税や煙草(たばこ)税を増税することで政府の歳入を増やした一方で、歳出を抑えるために行政費を徹底的に削減したほか、官営事業の民間への払い下げを推進しました。また、余った...
明治10(1877)年に起きた西南戦争に要した経費は、陸軍だけでも当時の国家予算の8割に相当する約4,000万円もの巨額となりました。政府はこの出費を金貨や銀貨との交換ができない不換紙幣(ふかんしへい)を発行することでなんとかやり繰りしましたが、その結果として当然のように市中に大量の紙幣が出回りました。紙幣が大量に流通するということは、紙幣の価値そのものを著(いちじる)しく下げるとともに、相対的に物価の値上が...
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当時の有力な豪族は「田荘(たどころ)」と呼ばれる私有地や「部曲(かきべ)」と呼ばれる私有民をもっており、それらを経済的な基盤(きばん)としていました。一方、朝廷も直属の民である「名代(なしろ)」「子代(こしろ)」を持ち、彼らに生産物を納めさせるとともに、直轄地(ちょっかつち)である「屯倉(みやけ)」を各地に設けて「田部(たべ)」と呼ばれた人々に耕作させました。朝廷には祭祀(さいし)や軍事などの様々...
姓(かばね)の種類は多岐にわたっていました。例えば、蘇我(そが)や葛城(かつらぎ)のように地名を氏(うじ)の名とする畿内(きない)の有力豪族や、出雲(いずも)や吉備(きび)などの地方の伝統ある豪族には「臣(おみ)」が与えられました。また、大伴(おおとも)や物部(もののべ)あるいは中臣(なかとみ)のように武力など特定の能力を持った有力豪族には「連(むらじ)」が与えられ、筑紫(つくし)や毛野(けの)な...
5世紀末から6世紀にかけて、大和朝廷(やまとちょうてい)は大王(おおきみ)と呼ばれた天皇を中心とする政治の仕組みをつくり上げていきました。朝廷に従った豪族たちは、血縁集団としての同族関係をもとに構成された「氏(うじ)」と呼ばれる組織に編成されました。彼らは共通の祖先神である氏神(うじがみ)を祀(まつ)り、一族の長たる氏上(うじのかみ)が氏に属する氏人(うじびと)を統率(とうそつ)しました。朝廷は各氏...
天候などの自然条件に左右されやすい農耕生活の発達は、様々な祭祀(さいし)の重要性を高めるとともに、古墳文化の重要な要素となりました。春にその年の豊作を祈る祈年祭(としごいのまつり、または「きねんさい」)や、秋に一年の収穫を感謝する新嘗祭(にいなめのまつり、または「にいなめさい」「しんじょうさい」)は特に重要な行事であり、この頃までに我が国に流入した外来文化とも融合して我が国独自の伝統文化が形成され...
古墳時代の人々は、豪族などの有力者が掘立柱(ほったてばしら)を用いた平地住居を建てていたのに対して、普通の人々はそれまでの竪穴住居で暮らすのが一般的だったようです。住居の中には、粘土で固めた竃(かまど)が使用されていました。日常生活では、古墳時代の前期から中期にかけては弥生(やよい)土器の系統に属する赤焼きの土師器(はじき)が用いられましたが、5世紀中頃には朝鮮半島から伝わったとされる硬質で灰色の...
古墳時代の後期には副葬品にも大きな変化がありました。それまでの武具や馬具(ばぐ)のほかに生前の日用品である土器などがおさめられるようになり、埴輪(はにわ)もそれまでの円筒(えんとう)埴輪や家形(いえがた)埴輪とともに、人間や動物をあしらった形象(けいしょう)埴輪が用いられました。家族墓的な性格を持つようになって葬送儀礼(そうそうぎれい)が変化したことで、副葬品もそれまでの故人の権威を示すという意味...
6世紀に入って古墳時代も後期になると、古墳自体にも大きな変化が現れました。従来の巨大な前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)が畿内でつくられる一方で、全国各地では小規模な円墳(えんぷん)が山の中腹や丘陵(きゅうりょう)の斜面などにまとまってつくられるようになりました。これらの古墳を群集墳(ぐんしゅうふん)といいます。群集墳の爆発的な増加は、大和朝廷の勢力が全国に拡大することによって当時の国民の生活レベ...
漢字がもたらした「文字で記録を残す文化」は、やがて6世紀半ば頃に「帝紀(ていき、皇室の系譜)」や「旧辞(きゅうじ、神話伝説など)」といった我が国古来の歴史をまとめる事業をもたらし、これらが「古事記(こじき)」や「日本書紀(にほんしょき)」といった我が国最古の歴史書へとつながりました。また、6世紀に入ると百済(くだら)から五経博士(ごきょうはかせ)が来日し、我が国に医学・易学(えきがく)・暦学(れきが...
古墳(こふん)時代中期の5世紀前後には、朝鮮半島の戦乱から逃れるために数多くの帰化人(きかじん、または渡来人=とらいじん)が我が国に渡来(とらい)しました。大和朝廷(やまとちょうてい)は彼らを厚遇して畿内(きない)やその周辺に居住させ、彼らから大陸の進んだ文化を積極的に学びました。例えば、大陸の進んだ土木技術が大規模な治水(ちすい)や灌漑(かんがい)事業を可能にしたり、優れた鉄製農具をつくることを...
倭の五王の一人である「武」とされる雄略天皇の時代までに、大和朝廷の勢力は関東から九州南部まで広がっていたと考えられています。なぜなら埼玉県の稲荷山(いなりやま)古墳と熊本県の江田船山(えたふなやま)古墳から出土した鉄剣(てっけん)に、それぞれ「獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)」と読める銘文(めいぶん)が発見されたからです。なお、雄略天皇の別名は「大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)」で...
朝鮮半島にまで勢力を伸ばした大和朝廷は、5世紀に入ると中国の南朝である宋(そう)や斉(せい)とも積極的に外交を行いました。いわゆる「倭(わ)の五王(ごおう)」の時代のことです。「宋書」倭国伝(「そうじょ」わこくでん)などによれば、倭王の讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)が相次いで南朝の宋や斉に使者を遣わし、朝鮮半島南部への軍事指揮権を認めてもらおうとしています。要するに、我が...
さて、好太王の碑から4世紀後半から5世紀前半にかけての朝鮮半島をめぐる情勢のおおよそをつかむことが出来ますが、実は我が国の歴史書である「古事記(こじき)」や「日本書紀」からも知ることが可能です。14代の仲哀(ちゅうあい)天皇が崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)された後、后(きさき)であった神功皇后(じんぐうこうごう)が身ごもっているにもかかわらず朝鮮半島へ出兵し、新羅...
三国が形成された当時の朝鮮半島(特に南部)には豊富な鉄資源や先進技術が存在していました。大和朝廷は百済との友好関係を足がかりとして、4世紀後半には統一国家のなかった弁韓地方の任那(みまな)に勢力を伸ばしました。なお、任那は「加羅(から)」もしくは「伽耶(かや)」とも呼ばれています。また、当時の朝鮮半島南部には大和朝廷の出先機関として「任那日本府(みまなにほんふ)」が置かれていたという記述が「日本書...
※今回より「古墳時代」の更新を再開します(5月13日までの予定)。我が国で大和朝廷(やまとちょうてい)が国内統一を進めていたとされる3世紀から4世紀にかけて、中国では三国時代の後に魏(ぎ)を倒した晋(しん)が280年に大陸を統一しましたが、4世紀に入ると晋は北方民族の侵入を受けて南方へ移り、やがて南北朝時代となりました。大陸の混乱状態によって周辺の諸民族に対する中国の影響力が弱まると、それを待っていたかのよ...
※「第107回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(4月26日)からは「古墳時代」の更新を開始します(5月13日までの予定)。我が国は国際的にも正当な手法において日韓併合(=韓国併合)を行い、朝鮮を自国の領土としましたが、それが合法的なものであったとしても、朝鮮半島の人々の自尊心が傷つけられたことに変わりはなく、朝鮮独立を求める声が高まっていました。大正8(1919)年、アメリカのウィルソン大統領...
先述のとおり、パリ講和会議ではオブザーバーの立場に過ぎなかった中華民国でしたが、アメリカの支持を受けて我が国の権益の無効を主張したほか、ヴェルサイユ条約の調印をも拒否しましたが、アメリカによる支援は中国大陸内にも及び、日本人と日本製品の排斥(はいせき)運動が次々と起こりました。また、これも先述しましたが、講和会議以前の1915(大正4)年に我が国が中国に対して行った提案を袁世凱が「二十一か条の要求」と...
パリ講和会議において、我が国は世界史上初めて「人種差別撤廃(てっぱい)案」を提出しました。当時はアメリカで多くの日本人移民が排日運動によって迫害されていたこともあり、有色人種への謂(い)われなき差別を解消するには、同じ有色人種の国でかつ第一次世界大戦の戦勝国という強い立場だった日本が果たすべき責任がある、と強く自負していたのです。我が国が提出した撤廃案は、会議に出席した16か国のうち11か国の多数の賛...
我が国は連合国の一員としてパリ講和会議に参加しましたが、会議において最も発言権が強かったのはアメリカでした。なぜなら、先述したように、ヨーロッパ本土で多くの血を流して共に戦ったアメリカと山東半島や地中海など限定的な戦闘に留まった我が国とでは、他の主要な連合国であるイギリスやフランスの感謝度が全く違ったからです。かくして、講和会議はアメリカ・イギリス・フランスを中心に行われただけでなく、アメリカは自...
さて、4年以上も続いた第一次世界大戦でしたが、アメリカ大統領ウィルソンが提唱した「十四か条の平和原則」をドイツが1918(大正7)年11月に受けいれたかたちによって、ようやく休戦となりました。翌1919(大正8)年1月にフランスのパリで講和会議が開かれましたが、我が国も連合国の一国として、当時の原敬内閣が西園寺公望を全権として会議に派遣しました。会議の結果、同年6月にドイツと連合国との間で講和条約が結ばれました...
原内閣は軍部における改革にも着手し、朝鮮総督府や台湾総督府の長官である総督に文官がなれるようにするなど軍部による影響力の削減にも成功しましたが、選挙が行われたのと同じ大正9(1920)年に起きた「戦後恐慌(きょうこう)」がそれまでの大戦景気を吹き飛ばして、我が国が一気に財政難へと転落すると、原内閣は財政的に行き詰まりを見せるようになりました。また、この頃までに立憲政友会に関係した汚職事件が続発したこと...
教育面では、明治4(1871)年に新設された文部省(現在の文部科学省)によって、翌明治5(1872)年にフランスにならった「学制(がくせい)」が公布され、「学問は国民が身を立て智をひらき産をつくるためのものである」とする近代的な実学主義による教育観が説かれたほか、政府は特に小学校教育に力を入れ、全国各地に小学校がつくられました。政府によるこうした「国民皆学」の精神は、経済的負担や子供の労働力が奪われることで...
欧米列強からの侵略や植民地化を防ぐためには、西洋文明を積極的に取り入れることによって近代化を目指すことが重要であると考えた明治政府は、西洋の産業技術をはじめとして、社会制度や思想あるいは生活様式などを率先して取り入れましたが、こうした風潮は民間のジャーナリズムを通じて大都市を中心に広がり、国民の日常生活にまで大きな影響をもたらすようになりました。これを「文明開化」といいます。思想面では、それまでの...
政府は新しい交通や通信の制度にも力を入れました。明治5(1872)年には新橋~横浜間に官営の鉄道が開通し、その後も神戸~大阪~京都間が結ばれました。海運業では土佐藩出身の岩崎弥太郎(いわさきやたろう)の経営する郵便汽船三菱会社が、国家機密である軍事輸送を行わせる目的もあり、政府の手厚い保護を受けて発展しました。岩崎の三菱は三井などとともに政府から特権を与えられ、やがて「政商」と呼ばれて海運や貿易・金融...
当時の我が国の貿易の輸出品は生糸(きいと)が中心でしたが、貿易自体は大幅な赤字となっていたため、政府は明治5(1872)年に生糸の生産拡大を目指して群馬県に「富岡製糸場(とみおかせいしじょう)」を設けました。なお、富岡製糸場は平成26(2014)年にユネスコの世界文化遺産として登録されています。明治6(1873)年に設置された内務省は、警察組織だけでなく殖産興業にも大きな役割を果たし、各地に製糸や紡績(ぼうせき)...
徴兵令の公布によって我が国の軍事力の基礎が固まりましたが、欧米列強に負けないくらいの兵力を養うためには「富国強兵(ふこくきょうへい)」といわれるように我が国の経済力を高める必要がありました。経済力を高めるには、生産力を増やして産業を盛んにすることが重要です。このため、政府は「殖産興業(しょくさんこうぎょう)」に力を注いで産業の近代化を目指しました。まず政府は江戸時代までの封建的な制度を撤廃するため...
明治5(1872)年、政府は太政官札などと交換のために「明治通宝(めいじつうほう)」と呼ばれた新紙幣を発行しました。これによって国内における紙幣の統一が進みましたが、明治通宝もこれまでと同じく金貨や銀貨と交換不可能な不換紙幣でした。そこで政府は、商人など民間の力で金貨と交換できる「兌換(だかん、銀行券を正貨と引き換えること)銀行券」を発行させる目的で、同じ明治5(1872)年に渋沢栄一(しぶさわえいいち)が...
明治政府はその成立当初から財政難に苦しんでおり、京都や大坂の商人から300万両の御用金を徴発したほか、金貨や銀貨と交換ができない「不換紙幣(ふかんしへい)」であった太政官札(だじょうかんさつ)や民部省札(みんぶしょうさつ)を発行しました。しかし、成立したばかりの政府に対する信用が低かったので、紙幣の流通が滞(とどこお)るなど混乱したことや、4朱(しゅ)で1分(ぶ)、4分で1両(りょう)という貨幣単位が外...
地租改正の結果、全国同一の基準で収穫の豊凶にかかわらず金銭での地租の徴収が実現したことによって、近代的な税制が確立するとともに、政府の安定した財源の基礎となりました。しかし、政府が旧幕府の頃の年貢収入を維持することを前提として地価を定めたり、あるいは全国的な測量の際に地価に対する高額な査定を受けたりしたことで、農民の不満が高まりました。また、それまで共同で利用していた山林や原野などの入会地(いりあ...
土地制度の大変革を行った政府は、明治6(1873)年7月に「地租改正条例」を公布し、新たな地券制度を基本とする「地租改正」に着手しました。当初は農民の自己申告で作業が進められましたが、やがて太閤検地(たいこうけんち)以来の大規模な土地測量が全国で行われ、最終的に一億枚を超える地券を発行して明治14(1881)年までにほぼ完了しました。地租改正の主な内容は下記のとおりです。1.土地所有者、つまり地券の所有者を納...
欧米列強に負けない国づくりのためには近代化へ向けての様々な政策が不可欠ですが、そのためにも「先立つもの」である安定した財源の確保が最重要の課題でした。しかし、新政府の当初の主要な財源は、旧幕府の領地を没収したり、版籍奉還によって諸藩から得たりした年貢に頼っていたりしていました。年貢には、コメの作柄(さくがら)が年によって変動するほか、諸藩の税率もバラバラであったので、安定した税収入の確保が難しいと...
軍事制度とともに、国内の治安を守るための警察制度も近代的な整備が進みました。明治4(1871)年に東京府で「邏卒(らそつ)」が置かれると、同年に正院の下に創設された「司法省」が警察権を管轄するようになりました。その後、明治6(1873)年に「内務省(ないむしょう)」が設置されると全国の警察組織は内務省に統括されるようになり、翌明治7(1874)年には東京に「警視庁(けいしちょう)」が創設されました。警視庁の設置...
徴兵令によって、満20歳に達した成年男子全員が身分に関係なく3年間の兵役義務を負うという近代国家としての兵制が整えられましたが、現実に軌道に乗るまでには様々な紆余曲折(うよきょくせつ)がありました。当初の徴兵令には様々な例外規定があり、戸主(こしゅ)や官吏・学生などは兵役が免除されていたほか、代人料として当時は高額だった金270円を納めた者も免除されており、中には「徴兵免役心得(ちょうへいのがるるのここ...
しかし、我が国の軍事力を支えていた多くの武士をいきなり路頭(ろとう)に迷わせてしまえば、大混乱が起きるのみならず、諸外国の侵略を招くのは目に見えていました。また、欧米列強にも負けない近代的な軍隊を編成することも考えていた政府にとって、武士に頼らないためにも、すべての国民が兵役に服するべきであるとする、いわゆる「国民皆兵(かいへい)」が重要であると考えるようになりました。国民皆兵は、初代の兵部大輔(...
欧米列強からの侵略や植民地化を防ぐためには、近代的な軍事制度の充実も急務でした。明治4(1871)年に断行された廃藩置県に先立って、不測の事態に備えて編成された御親兵は翌明治5(1872)年に「近衛兵(このえへい)」として再編され、主として天皇周辺の警護を担当しました。また、廃藩置県によって全国の藩兵は解散させられましたが、一部は兵部省(ひょうぶしょう)の下で明治4(1871)年に東京・大阪・鎮西(ちんぜい、後...
秩禄処分によって、年間の5倍から14倍の額となる金禄公債証書が支給者に発行されましたが、5年間は現金化が禁止されたうえに、それ以後に証書が満期を迎えた後も、抽選に外れれば現金化できないという仕組みになっていました。しかも、現金化が可能となるまでは年間の利息分しか支給されず、華族などの高禄者が投資などで生計を立てることが可能だった一方で、生活できない額の利息しかもらえなかった多くの士族が困窮(こんきゅう...
かくして「四民平等」が実現した一方で、政府は華族や士族に対して給与にあたる家禄(かろく)の支給を続けており、また維新の功労者にも賞典禄(しょうてんろく)を支給していました。これらの禄を合わせて「秩禄(ちつろく)」といいましたが、その支出額は国の歳出の約30%を占めており、政府にとって大きな負担になっていました。また、明治6(1873)年には「徴兵令」が定められたことで(詳細は後述します)、士族とは無関係...
※「黒田裕樹の歴史講座」で記されている内容は、あくまで歴史的経緯あるいは事実に基づくものであり、現代につながるような差別を意図して表現したものではないことをあらかじめご承知おきください。 従来の封建的な身分制度の廃止を進めた明治政府は、明治2(1869)年に藩主や公家を「華族」、藩士や旧幕臣を「士族」、それ以外のいわゆる「農工商」の農民・町人を「平民」としました。また翌明治3(1870)年には平民も苗字(みょ...
版籍奉還から廃藩置県という中央集権化への流れのなかで、明治政府の組織の改革も進みました。版籍奉還が行われた明治2(1869)年、政体書による太政官制(だじょうかんせい)が改められ、かつての「大宝律令(たいほうりつりょう)」の形式を復活させました。すなわち、従来の太政官の外に、神々の祀(まつ)りをつかさどる神祇官(じんぎかん)を復興し、太政官の下に民部省(みんぶしょう)などの各省を置きました。その後、廃...
廃藩置県がスムーズに行われた根拠のひとつとして、約1万人の御親兵を準備していたというのが考えられますが、もっと大きな理由が別にありました。まず挙げられるのは、当時の多くの武士たちが持っていた「先祖代々続いてきた我が国を守らなくてはいけない」という強い使命感でした。ある意味「武士の集団自殺」ともいえる大事業は、一人ひとりの武士の気概(きがい)によって支えられていたのです。他の理由としては「経済的な事...
政府は、薩摩・長州・土佐から約1万人の御親兵(=政府直属の軍隊のこと)を集めて軍事力を固めたうえで、明治4(1871)年旧暦7月に東京在住の知藩事を皇居に集めて、明治天皇の詔(みことのり、天皇の言葉を直接伝える文書のこと)によって「廃藩置県」を一方的に断行しました。これによって、すべての藩は廃止されて県となり、知藩事は罷免(ひめん)されて東京居住を命じられ、各府県には新たに中央政府から「府知事」や「県令...