ところで、聖徳太子は若い頃から仏教を深く信仰していましたが、仏教を積極的に受けいれようとする崇仏派(すうぶつは)の蘇我馬子(そがのうまこ)と、禁止しようとする廃仏派(はいぶつは)の物部守屋(もののべのもりや)との間で、先述のとおり587年に大きな争いが起きてしまいました。聖徳太子(当時は厩戸皇子=うまやどのみこ)はこのときまだ14歳の少年ながら戦闘に参加しましたが、戦いは蘇我氏にとって不利な状況が続き...
明治19(1886)年10月、イギリスの貨物船ノルマントン号が紀州沖で暴風雨のために沈没しましたが、この時にイギリス人の船長以下乗務員が全員脱出した一方で、乗っていた日本人の乗船客二十数名全員が見殺しにされるという悲劇が起きました。いわゆる「ノルマントン号事件」です。船長は神戸の領事裁判所で裁判を受けましたが、同じイギリス人の判事は無罪の判決を言い渡しました。多くの日本国民はこの判決に激怒し、政府も船長を...
井上による交渉に基づく条約改正案のうち、領事裁判権の撤廃については二つの条件が付いていました。一つは我が国が欧米並みの憲法や民法などの諸法典を整備することでしたが、問題となったのはもう一つのほうでした。我が国において外国人を被告とする裁判に対して、半数以上の外国人の判事(=裁判官)を採用するという条件が付いていたのです。もしこれが実現した場合には、仮に領事裁判権が撤廃されたとしても、過半数の外国人...
寺島宗則の次に外務卿に就任した(その後外務大臣となる)井上馨は、明治15(1882)年に東京で関係国の代表を集めて予備会議を開いた後、明治19(1886)年から正式な条約改正に向けての会議を始めました。井上は、条約改正を有利に進めるためには欧米列強の制度や風俗あるいは習慣や生活様式などを我が国でも積極的に導入すべきであると考え、明治16(1883)年に洋風の鹿鳴館(ろくめいかん)を東京・日比谷に建設して、国際的な社...
明治政府にとって最重要の外交課題は江戸幕府が欧米列強と結ばされた「安政(あんせい)の五か国条約」に由来した不平等条約の改正であり、とりわけ領事裁判権(=治外法権)の撤廃と関税自主権の回復は悲願でもありました。明治初年の岩倉使節団による条約改正交渉の失敗の後、外務卿(がいむきょう)の寺島宗則(てらしまむねのり)は領事裁判権の撤廃と関税自主権の回復の両方を一度に実現するのは困難と判断し、政府の財源を確...
第一次松方内閣が倒れた後には、伊藤博文が明治維新に功績のあった首相経験者でもある黒田清隆や山県有朋といった「維新の元勲(げんくん)」ともいうべき人物を誘って第二次内閣を組織しました。これを「元勲総出(そうで)」といいます。第二次伊藤内閣も第四議会で民党と対立しましたが、明治26(1893)年2月に明治天皇から「和衷協同(わちゅうきょうどう、心を合わせて互いに協力して行動すること)の詔(みことのり、天皇の...
第一次山県内閣の後を受けて成立した第一次松方正義(まつかたまさよし)内閣でしたが、明治24(1891)年11月に開かれた第二議会で民党からの激しい攻撃を受け、政府予算の中で海軍が要求していた軍艦の建造費が議会によってすべて削除されてしまいました。民党の仕打ちに激怒した海軍大臣の樺山資紀(かばやますけのり)は、議会の演説で「今日の我が国が安寧(あんねい)を保っているのは誰の功績か分かっているのか!」とぶち上...
明治23(1890)年11月25日に第1回帝国議会が召集され、29日には明治天皇がご出席されて開院式が行われました。そして、12月6日に当時の首相であった山県有朋が施政(しせい)方針演説を述べました。山県首相は演説の中で当時の厳しい世界情勢のもとで我が国が置かれている立場を冷静に分析し、他国との国境たる「主権線」と国境を守るための朝鮮半島など我が国の周辺地域たる「利益線」を死守するためにも軍備の増強が不可欠である...
国会開設の勅諭によって帝国議会(=国会)を開く年とされていた明治23(1890)年7月に第1回衆議院議員総選挙が行われました。当時の選挙は原則として定員1名の小選挙区制であり、選挙権は満25歳以上の男子で地租や所得税などの直接国税を15円以上納めている者に限られていました。このため、第1回の選挙における有権者は全人口のわずか1.1%しか存在しなかったそうです(ただし、投票率は93.9%と極めて高くなりました)。選挙の...
法典の編纂(へんさん)は明治初年の頃から始まり、フランスの法学者であったボアソナードらの助言を得て、明治13(1880)年にはフランス法をモデルとした刑法や治罪法(ちざいほう、刑事訴訟法の前身)が公布されました。次に、条約改正の目的もあって民法と商法の編纂が進められ、明治23(1890)年に民法・商法・民事訴訟法や刑事訴訟法が新たに公布され、法治国家としての体裁が整いました。ところが、民法の概要が当時のフラン...
立法権・行政権・司法権のいわゆる三権については政体書(せいたいしょ)の頃から三権分立を理想としていましたが、大日本帝国憲法でそれぞれが天皇を補佐することによって、その体制が整うことになりました。国会は「帝国議会」と呼ばれ、対等の権限をもつ貴族院と衆議院からなる二院制が採用されました。なお、両院は対等ではあったものの、予算の編成は衆議院に先議権がありました。このほか、憲法において国務大臣は各自がそれ...
さて、大日本帝国憲法における「天皇大権」の真意は理解できましたが、条文で「臣民」と書かれた国民の自由や権利は制限付きでしか認められず、不十分なものであったというのは本当でしょうか。大日本帝国憲法の条文における「臣民の権利」には、参政権や契約の自由あるいは所有権の不可侵、信教および言論・出版・集会・結社の自由などが認められており、19世紀末に制定されたという事情を考えれば、かなり多くの権利が認められて...
これまで述べてきたように、大日本帝国憲法において天皇は政治的な権力は何もお持ちでなかったのですが、権力とは全く別の概念として、天皇は我が国の長い歴史における権威をお持ちであられた一方で、近代国家として歩むために絶対に必要な憲法を制定した政府には、明治維新から20年余りしか経っていないということもあって、後ろ盾(だて)となる権威がどうしても不足していました。そこで、歴史的な権威をお持ちの天皇が憲法にお...
「天皇大権」が大日本帝国憲法の冒頭で否定されているのは先述したとおりですが、憲法の各条文においても同じように明文化されています。例えば、憲法第5条の「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」は「天皇が立法権を行うには議会の賛成や協力が必要である」という意味であり、天皇が勝手に立法権を行使することは憲法上許されていないことになりますから、これを「議会は天皇を助ける機関に過ぎない」と解釈するのは強引で...
さて、大日本帝国憲法といえば一般的に「天皇に強い権限を与えた欽定(きんてい)憲法」「神聖不可侵(しんせいふかしん)とされた天皇は統治権を独占した総攬(そうらん)者であり、議会すら関与できない天皇大権を持っていた」「臣民とされた国民の権利は法律によって厳しい制限を受けていた」などという評価をされていることが多いようですが、これらは本当のことでしょうか。まず欽定憲法ですが、これは「君主が定める」という...
明治20(1887)年、伊藤博文は井上毅(いのうえこわし)が作成した憲法草案をもとに伊東巳代治(いとうみよじ)や金子堅太郎(かねこけんたろう)らとともに検討作業を行い、ドイツ人顧問のロエスレルらの助言も得て、翌明治21(1888)年4月に草案を完成させました。完成した憲法草案は、同じ明治21(1888)年に創設された天皇の最高諮問(しもん、意見を求めるという意味)機関である枢密院(すうみついん)で、明治天皇ご臨席の...
行政機関の整備と同時に憲法制定の作業を開始した政府は、明治15(1882)年に伊藤博文をヨーロッパへ派遣して憲法調査を自発的に行いました。自国の憲法制定に関して、他国の憲法をそれも自発的に調査するなど他国に例がありません。政府の憲法制定に対する強い意欲が感じられるエピソードです。伊藤は約1年半の時間をかけた末に、当時のドイツ帝国の母体となった旧プロイセン王国の憲法が我が国の国情に照らして一番相応(ふさわ...
市町村の議決機関としては市町村会が設置され、一定額の直接国税を納めた者のみが投票できるという制限選挙ではあったものの、議員が住民から直接選ばれました。自由民権運動が始まって約15年でようやくここまでたどり着いたといえますね。一方、郡会は町村会の選出議員と大地主の互選で選ばれ、府県会議員は市会や郡会において間接的に選出されました。また、府や県の代表たる府知事や県知事は政府が任命し、市長は市会が推薦(す...
宮中(きゅうちゅう)の事務にあたる宮内省(くないしょう)は内閣の外に置かれ、宮中と行政府とが明確に区別されました。なお、宮内省の長官としては宮内(くない)大臣が任じられましたが、初代は首相の伊藤博文が兼任しました。また、天皇の印たる御璽(ぎょじ)や国家の官印たる国璽(こくじ)を保管するとともに、天皇の諮問(しもん、意見を求めること)に応じる内大臣(ないだいじん)も新たに置かれ、初代内大臣として三条...
次に、政府は議会政治における上院に相当する機関の創設を視野に入れましたが、まずはその母体となるべき華族(かぞく)の範囲を広げて、より多くの人材を求めるべきであると考えました。そこで明治17(1884)年に「華族令」を定め、従来の旧公家(くげ)や旧藩主以外に国家の功労者も新たに華族になれるようにしました。また、華族の順列を公爵(こうしゃく)・侯爵(こうしゃく)・伯爵(はくしゃく)・子爵(ししゃく)・男爵(...
明治14(1881)年に公布した「国会開設の勅諭」によって明治23(1890)年に国会を開くと天皇の名で国民に約束した以上、政府は国会開設に向けて絶対に遅れが許されないという厳しい環境にその身を置くことになりました。しかし、国会を開設すると一口に言っても、実際に国会を開いて政治を行うには国家の運営などに関するあらゆる条文を盛り込んだ国の基本法でもある憲法の制定はもちろん、国会やそれ以外に関する様々な制度や規則...
その後、自由民権運動の拡大によって多くの国民が憲法制定や議会政治に関心を持つようになりました。知識を高めた国民の中からは「実際に集会に行って話を聞いてみたい」と考える人々も決して少なくありませんが、そう思って出掛けた集会で民権派が反政府的な活動をすればどうなるでしょうか。もちろん政府は取り締まろうとしますよね。集会での反体制運動への対応ですから、条例の名称は「集会条例」になります。やがて自由民権運...
ここまで述べてきましたように、自由民権運動は決して単なる「反体制運動」だったのではなく、政府側と民権派側とが立場上は激しく争いながらも、結果的に両者が手を携(たずさ)えることによって我が国が憲法制定と議会政治を行う「立憲国家」として世界中に認められるまでに成長できたともいえるのです。さて、自由民権運動において政府は様々な条例を出して民権派の動きを抑えようとしました。一般的には明治8(1875)年の「讒...
また、同年に外務大臣の井上馨(いのうえかおる)による条約改正交渉が失敗すると(詳細はいずれ後述します)、片岡健吉(かたおかけんきち)が立法の諮問(しもん、有識者などの一定機関に意見を求めること)機関である元老院(げんろういん)に提出した建白書をきっかけに「三大事件建白運動」が起きました。三大事件とは「集会や言論の自由」「地租(ちそ)の軽減」「外交における失策の回復(=条約改正)」であり、二つの運動...
政党の解散(事実上も含む)によって指導者層を失った自由民権運動でしたが、激化事件はむしろ活発化して、自由党解散直後の明治17(1884)年10月には埼玉の秩父(ちちぶ)で不況に苦しむ農民を中心に結成された困民党(こんみんとう)が負債の減免を求めて蜂起(ほうき)するという「秩父事件」が起きてしまい、政府は軍隊を使ってようやく鎮圧しました。さらに翌明治18(1885)年には、旧自由党左派の大井憲太郎(おおいけんたろ...
明治15(1882)年、福島県令の三島通庸(みしまみちつね)が県の道路建設を目的として地元農民に労役を強制させようとすると、自由党員で県会議長だった河野広中(こうのひろなか)らが反対運動を展開しました。これらの動きを自由党への弾圧の好機と見た三島は、河野をはじめ多数の自由党員を検挙しました。これを「福島事件」といいます。なお、事件のきっかけとなった県道はその後に完成し、現在でも国道の一部として使用されて...
※今回より「第103回歴史講座」の内容を更新します(9月6日までの予定)。松方財政が原因と考えられる全国的な不況によって、支持者であった地主や農民が経営難から脱落する者が多くなったことで、自由民権運動は資金面で大きな影響を受けました。一方、政府は明治15(1882)年に集会条例を改正して取り締まりを強化したり、同年に暴漢に襲われた自由党の板垣退助(いたがきたいすけ)を外遊させたりするなど、自由民権運動を側面か...
※「平成時代」の更新は今回で中断します。明日(8月6日)からは「第103回歴史講座」の内容を更新します(9月6日までの予定)。昭和22(1947)年、我が国がGHQによる占領下にあった頃に制定された「財政法」の第4条に「国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入を以て、その財源としなければならない」と書かれていますが、これは「国の歳出は税収だけにしなさい」と命令しているに等しいものです。官僚といえどもやはり「人の子」であ...
「国の借金を返済するためにはプライマリーバランスを可能な限りプラスにしないと、借金が膨らんで国の財政が破綻する」とよく言われますが、国債償還を重視すれば必然的に緊縮財政になり、また国債を償還するということは、せっかく吸い上げた税金が元へと戻らないことを意味しますから、結果的に実体経済に回ることもありません。その一方で、令和3(2021)年3月現在で家計の金融資産は1,968兆円もあり、企業のそれは1,230兆円に...
そもそも、我が国のGDPが30年近くも横ばいを続けてきたことが「異常」であり、先述した「リーマン・ショック」で大きな打撃を受けたアメリカはその後に劇的に経済を回復させたほか、中華人民共和国も平成22(2010)年に我が国のGDPを上回ると、その後も大差をつけている有様です。アメリカや中華人民共和国が著しい経済成長を続ける一方で、なぜ我が国は置き去りにされているのでしょうか。その背景のひとつとして「財務官僚」によ...
その後の我が国は、平成20(2008)年にアメリカで起きた「リーマン・ショック」から立ち直ることができないうちに、翌平成21(2009)年に衆議院総選挙で民主党(当時)が大勝して政権交代すると、2年後の平成23(2011)年に東日本大震災が発生した影響もあり、経済は低迷を続けました。特に、民主党政権末期の平成24(2012)年の後半には1ドル=77円台の超円高になっているのに対し、当時の野田佳彦(のだよしひこ)内閣や先述した...
様々な金融改革は日本銀行や省庁にも及びました。日銀に関しては、平成9(1997)年に日本銀行法が改正されたことで政府から独立した中央銀行としての性格が強められたほか、金融政策を日本銀行政策委員会が決定するなどの制度が整えられ、透明性が確保されました。しかし、日本銀行の独立性が高められたことが、平成20(2008)年から25(2013)年まで日銀の総裁を務めた白川方明(しらかわまさあき)氏による前例のない超円高の為...
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ところで、聖徳太子は若い頃から仏教を深く信仰していましたが、仏教を積極的に受けいれようとする崇仏派(すうぶつは)の蘇我馬子(そがのうまこ)と、禁止しようとする廃仏派(はいぶつは)の物部守屋(もののべのもりや)との間で、先述のとおり587年に大きな争いが起きてしまいました。聖徳太子(当時は厩戸皇子=うまやどのみこ)はこのときまだ14歳の少年ながら戦闘に参加しましたが、戦いは蘇我氏にとって不利な状況が続き...
さて、聖徳太子(しょうとくたいし)が内政や外交に大活躍していた頃の我が国では、仏教が朝廷の篤(あつ)い保護を受けて急速に発展した時代でもありました。この時代の文化を「飛鳥(あすか)文化」といいます。飛鳥文化は仏教文化を中心として、中国の南北朝時代の文化と我が国の古墳時代の文化が融合し、当時の西アジアやエジプトあるいはギリシャにもつながる特徴をもっていました。聖徳太子は、自ら高句麗(こうくり)の高僧...
今回の改定により、小中学校の教科書において、少なくとも10年は「聖徳太子」の記載が守られることになりました。このこと自体は大きな前進といえるかもしれませんが、実は、高校の歴史教育において使用される有名な教科書において、既(すで)に「厩戸王」という表現が使用されているのです。私が歴史教育の世界に身を投じて、これまでに積み重ねてきた講演を振り返ってつくづく思うのは、いわゆる「プロパガンダ」は近現代史だけ...
今回の学習指導要領の改訂案に関して、文科省は国民の意見を「パブリックコメント(意見公募)」として平成29(2017)年3月15日まで募集しましたが、その結果として改定案の見直しが行われて「聖徳太子」の名称が「復活」することになりました。学校現場に混乱を招く恐れがあるなどとして、文科省が現行の表記に戻す方向で最終調整していることが明らかになったのです。文科省が改定案公表後にパブリックコメントを実施したところ...
藤岡氏が指摘した「聖徳太子抹殺計画」に続くかたちで、平成29(2017)年2月27日には、産経新聞が「主張」において、今回の改定案に疑問を呈(てい)しました。「主張」では「国民が共有する豊かな知識の継承を妨(さまた)げ、歴史への興味を削(そ)ぐことにならないだろうか。強く再考を求めたい」と最初に指摘したほか、今回の改定の理由である「聖徳太子は死後につけられた呼称で、近年の歴史学で厩戸王の表記が一般的である...
文科省が次期学習指導要領を発表して以来、一部の歴史学の関係者やマスコミからは、これは「聖徳太子抹殺計画」ではないか、という厳しい批判が見られるようになりました。拓殖大学客員教授を務めた藤岡信勝(ふじおかのぶかつ)氏は、平成29(2017)年2月23日付の産経新聞の「正論」欄において、今回の学習指導要領の改訂案における聖徳太子の表記について「国民として決して看過できない問題」であると指摘したほか「日本史上重...
平成29(2017)年2月14日、文部科学省は小中学校の次期学習指導要領の改定案を公表しました。なお学習指導要領とは、学校教育法などに基づき児童生徒に教えなくてはならない最低限の学習内容などを示した教育課程の基準であり、約10年ごとに改定されており、教科書作成や内容周知のために告示から全面実施まで3~4年程度の移行期間があります。次期指導要領は翌3月末に告示され、小学校は令和2(2020)年度、中学校は令和3(2021)...
※今回より「飛鳥時代」の更新を再開します(7月31日までの予定)。さて、内政並びに外交の両面において今日の我が国を形づくった偉大な政治家である聖徳太子(しょうとくたいし)は令和4(2022)年に没後1400年を迎えましたが、彼の生涯には様々な伝説が残されていることでも有名です。例えば聖徳太子の母親が臨月の際に馬小屋の前で産気づいたため、彼が生まれた後に「厩戸皇子(うまやどのみこ)」と名付けられたという話があり...
※「第108回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(7月6日)からは「飛鳥時代」の更新を再開します(7月31日までの予定)。美術では日本画の横山大観(よこやまたいかん)や下村観山(しもむらかんざん)、安田靫彦(やすだゆきひこ)らによって、大正3(1914)年にそれまで解散状態だった日本美術院が再興され、現在も続く院展(=日本美術院主催の展覧会のこと)が開催されました。なお、横山大観は「生々流転(せ...
演劇の世界では、大正13(1924)年に小山内薫(おさないかおる)や土方与志(ひじかたよし)らによって築地(つきじ)小劇場がつくられ、知識人層を中心に新劇運動が大きな反響を呼びました。音楽では、山田耕筰(やまだこうさく)が本格的な交響曲の作曲や演奏を行い、大正14(1925)年には我が国初の交響楽団である日本交響楽協会を設立しました。その後、大正15(1926)年には日本交響楽協会から近衛秀麿(このえひでまろ)が脱...
第一次世界大戦を経て、社会主義運動や労働運動が高まりを見せたのに伴ってプロレタリア文学運動がおこり、雑誌「種蒔(たねま)く人」「戦旗」などが創刊され、小林多喜二(こばやしたきじ)の「蟹工船(かにこうせん)」、徳永直(とくながすなお)の「太陽のない街」などが読まれました。大正時代には、庶民(しょみん)の娯楽としての読み物である大衆文学も流行しました。大正14(1925)年に大衆雑誌の「キング」が創刊され、...
明治43(1910)年に創刊された雑誌の「白樺(しらかば)」では、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)や志賀直哉(しがなおや)、有島武郎(ありしまたけお)らが活躍し、個人主義や人道主義あるいは理想主義を追求する作風を示して「白樺派」と呼ばれました。武者小路実篤は「その妹」、志賀直哉は「暗夜行路(あんやこうろ)」、有島武郎は「或(あ)る女」などの作品が有名です。一方、雑誌「スバル」では独自の唯美(ゆいび...
大正期の文学は、「こゝろ」や「明暗」などの作品を残した夏目漱石(なつめそうせき)や「阿部一族」などを発表した森鴎外(もりおうがい)の影響を受けた若い作家たちが次々と登場しました。人間社会の現実をありのままに描写する自然主義が、作者自身を写しとるだけの私小説へと変化していったのに対し、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)や菊池寛(きくちかん)らは雑誌「新思潮」を発刊し、知性を重視して人間の心理を鋭く...
自然科学では、野口英世(のぐちひでよ)による黄熱(おうねつ)病の研究や、本多光太郎(ほんだこうたろう)のKS磁石鋼(じしゃくこう)の発明、八木秀次(やぎひでつぐ)による今のテレビ用アンテナの原型となる八木アンテナの発明などの業績がありました。また、研究機関として理化学研究所が大正6(1917)年に創立されたり、航空研究所・鉄鋼研究所・地震研究所などが相次いで設立されたりしました。ところで、この当時の教育...
大正時代には、学問も各分野において様々な発展を遂げました。人文科学においては、東洋史学の白鳥庫吉(しらとりくらきち)や内藤虎次郎(ないとうとらじろう、別名を湖南=こなん)が、日本古代史の研究として津田左右吉(つだそうきち)らが現れました。それ以外には、政治学で先述のとおり吉野作造が「民本主義」を唱えたほか、法学では美濃部達吉(みのべたつきち)が、民俗学では柳田国男(やなぎだくにお)らが現れました。...
大正時代には新聞や雑誌が発行部数を飛躍的に伸ばしました。大正末期には「大阪朝日新聞」や「大阪毎日新聞」など発行部数が100万部を超える新聞もあったほか、「中央公論」や「改造」などの総合雑誌が知識人層を中心に急速な発展を遂(と)げました。1920(大正9)年にアメリカで定期放送が始まったラジオ放送は、その5年後の大正14(1925)年に東京・大阪・名古屋で開始されると翌年には日本放送協会(=NHK)が設立され、ニュー...
産業構造の変化によって労働者人口が増加したことで「俸給(ほうきゅう)生活者(=サラリーマン)」などの一般勤労者が誕生したほか、バスガールや電話交換手など女性が「職業婦人」として社会に進出しました。また都市内では市電や市バス、円タク(1円均一の料金で大都市を走ったタクシーのこと)などの交通機関が発達し、東京と大阪では地下鉄も開通しました。なお、地下鉄は大阪が全国初の公営(大阪市)として開業しています...
明治から大正にかけて、我が国の人口は大幅に増加しました。明治初年には約3,300万人に過ぎなかったのが、我が国初の国勢調査が行われた大正9(1920)年には約5,600万人近くにまで増えたのです。こうした人口増加の背景には、明治以後に農業生産力が増大して多くの人口を養えるだけの食糧が確保できたことや、目覚ましい工業化に伴う経済発展や国民の生活水準の向上、加えて医学の進歩や内乱のない平和な社会の構築などが挙げられ...
大正デモクラシーの流れを受けて、婦人運動も次第に活発となりました。明治44(1911)年には平塚(ひらつか)らいてうが女流文学者の団体として「青鞜社(せいとうしゃ)」を結成しました。青鞜社が発行した「青鞜」発刊の辞である「元始、女性は太陽であった」という言葉が有名です。青鞜社の活動は次第に文学運動の枠を超え、市民の生活に結びついた婦人解放運動へと発展していきました。大正9(1920)年には平塚や市川房枝(い...
「冬の時代」から立ち直りつつあった社会主義勢力の内部では、ロシア革命の影響もあって共産主義者が大杉栄らの無政府主義者を抑えて影響力を著(いちじる)しく強め、大正11(1922)年にはソビエトのコミンテルンの指導によって、堺利彦(さかいとしひこ)や山川均(やまかわひとし)らが「日本共産党」を秘密裏(ひみつり)に組織しました。しかし、当時の日本共産党は「コミンテルン日本支部」としての存在でしかなく、また結成...
昭和62(1987)年11月に成立した竹下登内閣は、絶対多数を占(し)めた与党・自民党の勢力を背景に消費税を含めた税制改革関連法案を昭和63(1988)年12月に成立させ、翌平成元(1989)年4月に消費税が税率3%で導入されました。しかし、消費税の導入には野党や世論に強硬な反対意見も多く、同時期に大規模な贈収賄(ぞうしゅうわい)事件となったリクルート事件が発覚したこともあり、竹下内閣の支持率はひとケタにまで急降下し、...
平成26(2014)年4月から8%に引き上げられ、さらに令和元(2019)年10月には一部を除いて10%となった消費税。私たちの生活に直接影響を与える間接税だけに、国民の関心も非常に高いものがありますが、皆さんは、我が国でいつ消費税が導入されたかご存知でしょうか。答えは平成元(1989)年4月1日であり、当時の税率は3%でした。また、消費税を導入することを正式に決定したのは前年の昭和63(1988)年12月であり、当時の内閣総...
さて、冷戦の終結や、湾岸戦争の勝利などによって、世界においてアメリカの一極支配が強まる一方で、その他の近隣諸国が緊密な経済関係を築こうとする動きも活発になりました。ヨーロッパでは、1992(平成4)年にEC(=ヨーロッパ共同体)加盟国が、統合の基本原因を定めた欧州連合条約(マーストリヒト条約)を締結し、翌1993(平成5)年には「ヨーロッパ連合(=EU)」を発足させ、統一通貨である「ユーロ」を発行するなど、経済...
カンボジアの総選挙は、予定どおり平成5(1993)年5月23日に行われましたが、この日は奇しくも中田さんの四十九日法要と同じでした。カンボジアでの平均投票率は90%という高水準でしたが、中田さんが担当した地域の投票率は、99.99%という驚くべき数字を残しました。また、中田さんが担当した地域で開票作業をしていた投票箱の中から、いくつもの手紙が出てきて、中にはこう書いていたものもあったそうです。「今まで民主主義と...
さて、国連カンボジア暫定統治機構(=UNTAC)によって平成4(1992)年9月に自衛隊がカンボジアへ派遣されましたが、同じUNTACが1993(平成5)年5月にカンボジアで実施予定の総選挙を支援するために募集した国際連合ボランティア(=UNV)に採用された一人の日本人の若者がいました。彼の名を中田厚仁(なかたあつひと)といいます。かねてより世界平和に関心を抱き、国連で働くことを希望していた中田さんは、大学を卒業したばか...
海上自衛隊のペルシャ湾への掃海艇派遣を通じて人的支援の重要性を再認識した日本政府は「現行憲法の枠内で自衛隊を海外派遣することが可能かどうか」を検討し始めるとともに、国内でも大きな議論となりました。政府は「国際貢献という観点から、戦闘終結地域への戦闘目的以外の自衛隊の派遣であれば可能である」との判断を下し、湾岸戦争の翌年に当たる平成4(1992)年に「国際平和協力法(=PKO協力法)」を成立させて「国連平和...
湾岸戦争で人的支援を見送ったことで国際的な批判を浴びた我が国は、平成3(1991)年4月24日に政府が「我が国の船舶(せんぱく)の航行の安全を確保する目的でペルシャ湾における機雷の除去を行うため、海上自衛隊の掃海艇(そうかいてい)を派遣する」と決定しました。昭和29(1954)年に自衛隊が発足して以来、初めてとなった海外派遣は国連や東南アジア諸国の賛成もあって、6月5日から他の多国籍軍派遣部隊と協力して掃海作業を...
湾岸戦争で我が国がとった行動は、平たく言えば「カネは出しても、人は出さない」ということですが、これがいかに問題であるかということは、以下の例え話を読めば理解できるはずです。ある地域で大規模な自然災害が発生しましたが、これ以上の被害を防ぐための懸命な作業が行われていました。自分自身のみならず、愛する家族の生命もかかっていますから、全員が命がけです。しかし、この非常時において、地域の資産家が「そんな危...
イラクによるクウェート侵攻から湾岸戦争への流れにおいて、我が国は支援国の中で最大の合計130億ドル(約1兆7,000億円)もの財政支援を行いましたが、人的支援をしなかったことが国際社会から冷ややかな目で見られました。湾岸戦争後、クウェート政府はワシントン・ポスト紙の全面を使って国連の多国籍軍に感謝を表明する広告を掲載(けいさい)しましたが、その中に日本の名はありませんでした。また、湾岸戦争に関してアメリカ...
イラクによるクウェート侵攻に対して、我が国は平成2(1990)年8月5日にアメリカからの要請によってイラクへの経済制裁に同意するとともに、同月下旬から9月上旬にかけて国連の多国籍軍へ総額40億ドル(約5,200億円)の支援を発表しました。しかし、アメリカが我が国に求めていたのは、経済よりも「人的支援」でした。「日本は何らリスクを負おうとはしない」という批判に対して、当時の海部俊樹(かいふとしき)内閣は自衛隊の海...
※今回より「平成時代」の更新を再開します(8月5日までの予定)。先述のとおり、1989(平成元)年12月にアメリカのブッシュ大統領とソ連(当時)のゴルバチョフ書記長とが地中海のマルタ島で会談し、両首脳によって「冷戦の終結」が発表されましたが、その後も世界の各地域で紛争が続きました。1990(平成2)年8月2日、イラク軍が突然クウェート領内に侵攻して軍事占領したうえ、クウェートの併合を宣言しました。これに対して国連...
※「第102回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(7月4日)からは「平成時代」の更新を再開します(8月5日までの予定)。松方正義による緊縮財政は「松方財政」とも呼ばれ、西南戦争の後の政府の財政危機を立て直しただけでなく、発行紙幣と銀貨との兌換を可能とした銀本位制を確立したことで、当時の政府の世界における信用度を高めることにもつながるなどの大きな成果をもたらしました。しかし、政府による歳出を...
その後、明治十四年の政変で大隈が政府から追放されると、代わって大蔵卿に就任した松方正義(まつかたまさよし)が政府の歳入を増やしながら同時に歳出を抑え、保有する正貨を増やすことによって財政危機から脱出する政策に取り組みました。松方は酒造税や煙草(たばこ)税を増税することで政府の歳入を増やした一方で、歳出を抑えるために行政費を徹底的に削減したほか、官営事業の民間への払い下げを推進しました。また、余った...
明治10(1877)年に起きた西南戦争に要した経費は、陸軍だけでも当時の国家予算の8割に相当する約4,000万円もの巨額となりました。政府はこの出費を金貨や銀貨との交換ができない不換紙幣(ふかんしへい)を発行することでなんとかやり繰りしましたが、その結果として当然のように市中に大量の紙幣が出回りました。紙幣が大量に流通するということは、紙幣の価値そのものを著(いちじる)しく下げるとともに、相対的に物価の値上が...
ただし、これらの私擬憲法のほとんどは後の大日本帝国憲法と同じ立憲君主制を基本としており、ここでも政府と民権派との考えに大きな差がないことが明らかとなっています。こうして国会開設への具体的な動きを受けてさらなる発展を見せようとした自由民権運動でしたが、この後に思わぬかたちで大きな挫折(ざせつ)を経験することになりました。挫折の主な原因となったのは、皮肉にも自由民権運動が本格化するきっかけをつくった「...
さて、自由民権運動の悲願でもあった国会開設に関する具体的な時期が決まったことで、民権派は政党の結成へ向けて動き出しました。国会開設の勅諭が出された直後の同じ明治14(1881)年10月、国会期成同盟を母体として板垣退助が党首となった「自由党」が結成されました。続いて翌明治15(1882)年4月には大隈重信を党首とする「立憲改進党(りっけんかいしんとう)」が結成されました。両党は、自由党がフランス流の急進的な自由...
つまり、政府からすれば、自分だけでは困難な道のりが予想された立憲国家の樹立や議会政治の実現をわざわざ民権派のほうから自主的にアシストしてくれたわけですから、建前上はともかく、自由民権運動は政府にとって心の底では「願ったり叶(かな)ったり」だったのではないでしょうか。もっとも、政府と民権派とが「立憲国家の樹立と議会政治の実現」という共通の目標を持っていたとしても、政府主導による「上からの改革」と自由...
ところで、先述した「讒謗律(ざんぼうりつ)」や「新聞紙条例」、あるいは「集会条例」などが政府から出されたという事実を考慮(こうりょ)すれば、政府が自由民権運動を弾圧しようという意図を持っていたのは明白だという意見が出てくるかもしれません。しかし、西南戦争が終わってからの政府の動きを見れば、地方三新法の制定から府県会を実現させ、また明治十四年の政変がその原因とはいえ、国会開設の勅諭を発表して国会を開...
北海道に開拓使(かいたくし)を設置して以来、政府は多額の事業費を投入しましたが、赤字が続いていました。このため、旧薩摩藩出身で開拓長官の黒田清隆(くろだきよたか)は、国の管理上にあった開拓に関する官有物(かんゆうぶつ)を民間に払い下げようとしました。黒田は、同じ薩摩出身の政商である五代友厚(ごだいともあつ)に安くて有利な条件で官有物を払い下げしようとしましたが、明治14(1881)年7月にその内容が当時...
明治11(1878)年5月、参議兼内務卿(ないむきょう)であり、最高実力者であった大久保利通が暗殺され、強力なリーダーシップを持つ指導者を欠いた政府は、自由民権運動が高まりを見せるなかで分裂状態となりました。肥前(佐賀)藩出身で参議兼大蔵卿(おおくらきょう)の大隈重信(おおくましげのぶ)は、イギリスを模範(もはん)とした議院内閣制に基づいた、国会の即時開設と政党内閣の早期実現などを目指していました。しか...