ところで、聖徳太子は若い頃から仏教を深く信仰していましたが、仏教を積極的に受けいれようとする崇仏派(すうぶつは)の蘇我馬子(そがのうまこ)と、禁止しようとする廃仏派(はいぶつは)の物部守屋(もののべのもりや)との間で、先述のとおり587年に大きな争いが起きてしまいました。聖徳太子(当時は厩戸皇子=うまやどのみこ)はこのときまだ14歳の少年ながら戦闘に参加しましたが、戦いは蘇我氏にとって不利な状況が続き...
生糸輸出の増加は農村にも大きな変化をもたらし、生糸と関わりの深い桑(くわ)の栽培や養蚕が盛んとなりましたが、その一方で、安価な輸入品におされて綿(めん)や麻・菜種(なたね)などの生産は衰えました。また、松方財政によるデフレの影響で全農地における小作地率が増加していましたが、この傾向はこの後も続き、結果として大地主自身が農業を経営せずに小作人からの現物による小作料収入に依存(いそん)するという寄生地...
綿糸や綿織物の輸出が増加した我が国でしたが、原料の綿花や紡績機を全面的に輸入に頼っていたために、綿関係品全体としては輸入超過の拡大が続いていました。このこともあり、国産の繭(まゆ)を原料とした生糸を輸出することで多くの外貨を得ることができる製糸業が果たすべき役割は重要でした。農村による養蚕(ようさん)を基礎とする製糸業は、幕末の頃は簡単な手動装置の座繰(ざぐり)製糸が中心でしたが、輸出の激増によっ...
我が国の産業革命を支えたのは、綿糸を生産する紡績業でした。綿織物業は幕末の開国によって外国の安価な製品が輸入されたことで一時は衰退していましたが、輸入綿糸を用いた農村の問屋制家内工業で飛び杼(ひ)を導入して手織機(ておりばた)を改良したことで、次第に生産力が回復しました。綿織物業の業績回復は原料糸を供給する紡績業にも大きな発展をもたらし、明治16(1883)年に渋沢栄一(しぶさわえいいち)らが大阪紡績会...
四方を海で囲まれた我が国では、海洋国家を目指して大型の鉄鋼船を建造することが最重要の課題でした。このため、政府は明治29(1896)年に航海奨励(しょうれい)法や造船奨励法を公布し、鉄鋼船の建造や外国航路への就航に奨励金を交付することにしました。こうした海運業奨励政策によって、我が国では遠洋航路の開設が次々と行われましたが、なかでも日本郵船会社は明治26(1893)年にインドのボンベイ(現在のムンバイ)航路を...
日清戦争から三国干渉へと続いた歴史の流れは、我が国をしてロシアの圧力への対抗として軍事力を拡大せしめる結果となりましたが、軍事予算を確保しようと思えば、それだけ租税を多く徴収しなければいけません。しかしながら国民の負担にも限度がありますし、無い袖(そで)は振りようもありません。このため、政府は租税負担に耐えられるだけの経済力の育成にも力を入れることになりました。こうした政府の方針もあって、鉄道や紡...
会社設立のブームは株式への多くの払い込みをもたらしましたが、折からの米の凶作もあって資金の需要が巨額となり、各金融機関の資金が不足がちとなったところへ、景気の過熱に不安を持った日本銀行が金利を引き上げたことで株式が急激に下落してしまったことにより、明治23(1890)年には我が国最初の恐慌が発生してしまいました。その後に米の豊作や銀の価格の下落による生糸(きいと)などの輸出の回復などもあって不況を脱した...
西南戦争などを起因とした我が国の財政危機を立て直すために政府が「松方財政」を断行したことによって、全国でデフレや不況を引き起こしたり、あるいは自由民権運動が崩壊の危機を迎える遠因となったりしましたが、明治19(1886)年頃から好況へと転じ始めました。好況の背景には欧米列強の好景気がありました。松方財政によって我が国は銀本位制を確立させましたが、その銀の価格が下落したことで列強が日本の商品を求めやすくな...
さて、遼東(りょうとう)半島の旅順(りょじゅん)や大連(だいれん)の租借権をロシアから得たことによって、我が国は満洲の権益を持つことになりました。明治39(1906)年には関東都督府(かんとうととくふ)が旅順に置かれ、半官半民の南満洲鉄道株式会社(=満鉄)が大連に設立されました。満鉄は旧東清(とうしん)鉄道や鉄道沿線の鉱山や炭坑(たんこう)を経営して開発を行いました。なお、この場合の関東とは「旅順・大連...
日韓併合における重い負担は内政面も同様でした。日本政府は朝鮮半島内の生活水準を本国並みに引き上げることを目標としましたが、併合当時これといった産業が見当たらなかった朝鮮半島において、工業を興(おこ)してインフラを整備することは途方(とほう)もない大事業でした。結局、我が国は朝鮮に対して保護国の頃に当時の費用で1億円(現在の価値で約3兆円)を支援したのみならず、併合時代の35年間においても約20億円(現在...
さて、我が国は韓国を保護国にするという当初の思惑とは全く異なり、結果的に併合することになってしまいましたが、このことが軍事面や内政面などにおいて我が国の大きな負担となりました。なぜなら、日韓併合によって韓国は日本の領土となりましたから、朝鮮半島の安全保障も当然のように本国並みの基準に引き上げなければならないからです。日露戦争の勝利によってロシアは確かに朝鮮から手を引きましたが、だからと言って朝鮮半...
朝鮮が我が国に併合されたことで、日本政府は朝鮮内の衛生の改善や植林事業などを行いました。また、併合前から始めていた土地制度の近代化を目的とした土地調査事業も本格的に行い、土地の一部が東洋拓殖(たくしょく)会社に払い下げられるなどによって、大正7(1918)年までに完了しました。この他、明治45(1912)年には土地調査令を公布して、地税の公平な賦課(ふか、租税などを割り当てて負担させること)を実現するととも...
安重根による伊藤博文の暗殺という大事件は、我が国の世論を激怒させたのみならず、韓国を震撼(しんかん)させました。日本による報復行為を恐れた韓国政府や国民の反応は、韓国内の最大の政治結社であった一進会(いっしんかい)が日韓合併の声明書を出したこともあって、次第に併合へと傾くようになりました。しかし、我が国は併合に対してあくまで慎重でした。日韓併合(=韓国併合)が国際関係にどのような影響をもたらすのか...
明治42(1909)年10月26日、伊藤博文はロシアの外務大臣と会う目的で訪れた満洲のハルビン駅で、韓国人の民族運動家であった安重根(あんじゅうこん)にピストルで撃たれて殺されました。熱心な愛国家であったとされる安重根からしてみれば、初代統監として韓国を保護国化した伊藤の罪は重く、また伊藤こそが韓国を併合しようとしている首謀者だと考えたのかもしれません。しかし、伊藤が韓国人によって殺されるということは、現実...
ハーグ密使事件を受けて韓国への感情が悪化した我が国では、保護国ではなく韓国を日本の領土として併合するべきだという意見が強くなりましたが、そんな情勢に身体を張って反対したのが初代統監の伊藤博文でした。伊藤としては、韓国の独立国としてのプライドを守るために、近代的な政権が誕生するまでは外交権と軍事権のみを預かり、その後に主権を回復させる考えだったのです。教育者であるとともに植民地政策に明るかった新渡戸...
こうして韓国は我が国の保護国となりましたが、これは韓国皇帝の高宗(こうそう)にとっては屈辱的なことでした。このため、高宗は自身も認めた国際的な条約であったにもかかわらず、自国の外交権回復を実現するために、1907(明治40)年にオランダのハーグで開かれていた第2回万国平和会議に密使を送って第二次日韓協約の無効を訴えました。これを「ハーグ密使事件」といいます。しかし、会議に出席していた列強諸国が条約の違法...
日露戦争の勝利によって朝鮮半島からロシアが手を引いたことで、我が国はようやくロシアの南下政策を食い止めるとともに韓国の独立を保つことができました。しかしながら、清国(しんこく)からロシアへと事大主義に走る韓国をそのままの状態にしておけば、またいつ「第二、第三のロシア」が出現して、韓国の独立と我が国の安全保障が脅(おびや)かされるか分かったものではありません。そこで、我が国は韓国の独立を保ちながら軍...
列強による中国分割に出遅れたアメリカは「門戸(もんこ)開放・機会均等」を唱えるとともに満洲の権益を求め、我が国がポーツマス条約で得た長春(ちょうしゅん)以南のいわゆる南満洲鉄道(=満鉄)に対して、アメリカの鉄道王のハリマンが明治38(1905)年に共同経営を呼びかけました。ハリマンの申し出に対し、アメリカとの関係を重視した元老の井上馨(いのうえかおる)や伊藤博文あるいは首相の桂太郎らが賛同しましたが、外...
日露戦争での勝利は、結果として我が国の国際的地位を高めることにつながりましたが、それを裏づけるかのように明治38(1905)年にアメリカとの間で桂・タフト協定が結ばれ、アメリカのフィリピンにおける指導権と日本の韓国における指導権とをそれぞれ承認しました。また、同じ明治38(1905)年には日英同盟が改定され、イギリスのインドに対する支配権と引き換えに我が国の韓国への指導権をイギリスが承認しました。この他、ロシ...
また明治42(1909)年には内務省(ないむしょう)の主導で地方改良運動を始め、行政単位としての町村を中心に地方産業の振興を積極的に進めたほか、租税負担力の増加をはかるなど財政基盤(きばん)の立て直しを目指しました。なお、この運動と関連して地方の青年団が組織されたほか、明治43(1910)年には退役軍人の全国的な集まりとなる帝国在郷軍人会が誕生しています。この他、桂は明治43(1910)年に起きた大逆(たいぎゃく)...
明治34(1901)年に成立した第一次桂太郎内閣は、日英同盟の成立から日露戦争の終結まで長いあいだ政権を維持し続けましたが、日比谷焼打ち事件の影響で明治38(1905)年末に退陣しました。後を受けて翌明治39(1906)年に成立した第一次西園寺公望内閣は立憲政友会を与党として、鉄道や港湾の拡充(かくじゅう)を積極的に行うとともに、軍事的あるいは経済的な理由から鉄道国有法を成立させました(詳しくは後述します)。しかし...
さて、第二次山県内閣による様々な政策が与党であった憲政党の反発を招いたのを見た伊藤博文は、党利党略といった私益に走るのではなく、国益を重んじる政党を組織して、それまでの藩閥(はんばつ)政治の行政力と政党の立法力とを調和した新たな政権を確立する考えを持ちました。伊藤の考えに応じた憲政党は、明治33(1900)年に結成された「立憲政友会(りっけんせいゆうかい)」に合流するかたちで解党し、初代総裁となった伊藤...
第一次大隈内閣の後に成立したのは、第二次山県有朋(やまがたありとも)内閣でした。第二次山県内閣は憲政党(旧自由党系)と憲政本党(旧進歩党系)とに分裂した政党のうち憲政党を与党とし、懸案だった地租の税率を2.5%から3.3%に引き上げる地租増徴案を成立させるとともに、衆議院総選挙の選挙資格を直接国税15円以上から10円以上に引き下げました。前任の隈板内閣が短期間で崩壊(ほうかい)した現実を見た第二次山県内閣は...
第二次松方内閣の後を受けて明治31(1898)年に成立した第三次伊藤博文内閣は再び超然主義に戻り、財源確保のために地租(ちそ)の税率を上げるなどの増税案を議会に提出しましたが、これに反対した自由党と進歩党は合同して「憲政党(けんせいとう)」を結成し、衆議院で絶対多数を得る巨大政党が誕生しました。議会運営の見通しが立たなくなった第三次伊藤内閣は退陣に追い込まれ、我が国最初の政党内閣である第一次大隈重信内閣...
※今回より「第105回歴史講座」の内容を更新します(来年1月6日までの予定)。さて、明治27(1894)年から明治28(1895)年にかけて行われた日清戦争当時の我が国では、第二次伊藤博文(いとうひろぶみ)内閣が政治を行っていました。戦争という非常事態を受けて政府と政党は政争を中止し、全会一致で協力体制を整えましたが、こうした姿勢は日清戦争後も続けられました。なぜなら、日清戦争の勝利で得た巨額の賠償金に基づく軍事力...
※「弥生時代以前」の更新は今回で中断します。明日(12月8日)からは「第105回歴史講座」の内容を更新します(来年1月6日までの予定)。北海道函館市の豊原(とよはら)4遺跡の約6500年前の縄文時代の土坑墓(どこうぼ)から、幼児または子供の足形・手形を押し当ててつくられた「足形・手形付土製品(どせいひん)」が発掘されました。なお、青森県青森市の大石平(おおいしたい)遺跡からも同じような土製品が発掘されています。...
ところで、我が国で水稲耕作が始まったのは弥生時代の頃とされてきましたが、近年の進化した調査によって、少なくとも縄文時代の晩期にはイネの栽培が行われていたことが明らかになっています。平成11(1999)年、岡山県岡山市北区の朝寝鼻(あさねばな)貝塚の土壌(どじょう)から発見された栽培種のイネの細胞化石が、いわゆる「プラントオパール分析法」によって今から約6000年前のものであることが分かりました。その後も30か...
縄文時代の遺跡から出土する人骨を調べてみると、多くの儀式や儀礼が行われたと思われる形跡が見られます。例えば、縄文時代後期から晩期にかけて盛んになった抜歯(ばっし)の風習は、成人期における集団の通過儀礼として行われたと考えられています。また、死者の多くが手足を折り曲げて埋葬(まいそう)する方式で屈葬(くっそう)されており、これは死者の霊が生存者に災いを及ぼすことを防ぐためと思われます。なお、縄文時代...
ところで、先述したとおり縄文土器が世界最古クラスであることから、縄文文化そのものが世界最先端の技術を誇っていたことになります。こうした事実が明らかになったのは、放射性炭素年代法などといった最近の技術研究の進化がもたらしたものでもありました。要するに、我が国は縄文時代の頃から独自の文明の源泉があったことが明らかになったのです。そして、そんな縄文時代の頃から、我が国独自の慣習がありました。日本列島は伝...
さらに平成6(1994)年には、直径約1mのクリの巨木を使った縄文時代中期の大型掘立柱(ほったてばしら)建物跡も見つかりました。遺跡内の集落の大きさや、遺物や住居跡の多さから、一時期に数百名が生活したともいわれ、また近くに産出しないヒスイや黒曜石などの物資の存在から、交易も盛んに行われていたなど様々な新発見がありました。三内丸山遺跡の発掘調査の結果、縄文時代の人々は海や森からの自然の恵みを巧(たく)みに...
つまり、私が受験生の頃は、縄文時代と言えば「自然環境に左右された貧しくて不安定な生活」であったのが、現在の教科書では「自主的な栽培(さいばい)も行われた豊かで安定した生活」と大幅に記述が変化しているのです。なぜここまで教科書の記述が変わったのでしょうか。その背景には遺跡の発掘調査による新たな発見がありました。青森県青森市の南西の大地に位置する三内丸山(さんないまるやま)遺跡は、今から約5500年前~40...
ところで、これまで述べたように縄文時代は「豊かで安定した定住的な生活」とされ、歴史教科書にもそのように書かれていますが、私(黒田裕樹)が高校時代に日本史を勉強した昭和60(1985)年頃の縄文文化の記述が現在とは大きく異なっていたことを皆さんはご存知でしょうか。私が高校生の頃、縄文時代の文化は以下のように記述されていました。「当時の人々は、弓矢や石槍・落とし穴などを用いて動物を捕えた。また、水辺では貝を...
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ところで、聖徳太子は若い頃から仏教を深く信仰していましたが、仏教を積極的に受けいれようとする崇仏派(すうぶつは)の蘇我馬子(そがのうまこ)と、禁止しようとする廃仏派(はいぶつは)の物部守屋(もののべのもりや)との間で、先述のとおり587年に大きな争いが起きてしまいました。聖徳太子(当時は厩戸皇子=うまやどのみこ)はこのときまだ14歳の少年ながら戦闘に参加しましたが、戦いは蘇我氏にとって不利な状況が続き...
さて、聖徳太子(しょうとくたいし)が内政や外交に大活躍していた頃の我が国では、仏教が朝廷の篤(あつ)い保護を受けて急速に発展した時代でもありました。この時代の文化を「飛鳥(あすか)文化」といいます。飛鳥文化は仏教文化を中心として、中国の南北朝時代の文化と我が国の古墳時代の文化が融合し、当時の西アジアやエジプトあるいはギリシャにもつながる特徴をもっていました。聖徳太子は、自ら高句麗(こうくり)の高僧...
今回の改定により、小中学校の教科書において、少なくとも10年は「聖徳太子」の記載が守られることになりました。このこと自体は大きな前進といえるかもしれませんが、実は、高校の歴史教育において使用される有名な教科書において、既(すで)に「厩戸王」という表現が使用されているのです。私が歴史教育の世界に身を投じて、これまでに積み重ねてきた講演を振り返ってつくづく思うのは、いわゆる「プロパガンダ」は近現代史だけ...
今回の学習指導要領の改訂案に関して、文科省は国民の意見を「パブリックコメント(意見公募)」として平成29(2017)年3月15日まで募集しましたが、その結果として改定案の見直しが行われて「聖徳太子」の名称が「復活」することになりました。学校現場に混乱を招く恐れがあるなどとして、文科省が現行の表記に戻す方向で最終調整していることが明らかになったのです。文科省が改定案公表後にパブリックコメントを実施したところ...
藤岡氏が指摘した「聖徳太子抹殺計画」に続くかたちで、平成29(2017)年2月27日には、産経新聞が「主張」において、今回の改定案に疑問を呈(てい)しました。「主張」では「国民が共有する豊かな知識の継承を妨(さまた)げ、歴史への興味を削(そ)ぐことにならないだろうか。強く再考を求めたい」と最初に指摘したほか、今回の改定の理由である「聖徳太子は死後につけられた呼称で、近年の歴史学で厩戸王の表記が一般的である...
文科省が次期学習指導要領を発表して以来、一部の歴史学の関係者やマスコミからは、これは「聖徳太子抹殺計画」ではないか、という厳しい批判が見られるようになりました。拓殖大学客員教授を務めた藤岡信勝(ふじおかのぶかつ)氏は、平成29(2017)年2月23日付の産経新聞の「正論」欄において、今回の学習指導要領の改訂案における聖徳太子の表記について「国民として決して看過できない問題」であると指摘したほか「日本史上重...
平成29(2017)年2月14日、文部科学省は小中学校の次期学習指導要領の改定案を公表しました。なお学習指導要領とは、学校教育法などに基づき児童生徒に教えなくてはならない最低限の学習内容などを示した教育課程の基準であり、約10年ごとに改定されており、教科書作成や内容周知のために告示から全面実施まで3~4年程度の移行期間があります。次期指導要領は翌3月末に告示され、小学校は令和2(2020)年度、中学校は令和3(2021)...
※今回より「飛鳥時代」の更新を再開します(7月31日までの予定)。さて、内政並びに外交の両面において今日の我が国を形づくった偉大な政治家である聖徳太子(しょうとくたいし)は令和4(2022)年に没後1400年を迎えましたが、彼の生涯には様々な伝説が残されていることでも有名です。例えば聖徳太子の母親が臨月の際に馬小屋の前で産気づいたため、彼が生まれた後に「厩戸皇子(うまやどのみこ)」と名付けられたという話があり...
※「第108回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(7月6日)からは「飛鳥時代」の更新を再開します(7月31日までの予定)。美術では日本画の横山大観(よこやまたいかん)や下村観山(しもむらかんざん)、安田靫彦(やすだゆきひこ)らによって、大正3(1914)年にそれまで解散状態だった日本美術院が再興され、現在も続く院展(=日本美術院主催の展覧会のこと)が開催されました。なお、横山大観は「生々流転(せ...
演劇の世界では、大正13(1924)年に小山内薫(おさないかおる)や土方与志(ひじかたよし)らによって築地(つきじ)小劇場がつくられ、知識人層を中心に新劇運動が大きな反響を呼びました。音楽では、山田耕筰(やまだこうさく)が本格的な交響曲の作曲や演奏を行い、大正14(1925)年には我が国初の交響楽団である日本交響楽協会を設立しました。その後、大正15(1926)年には日本交響楽協会から近衛秀麿(このえひでまろ)が脱...
第一次世界大戦を経て、社会主義運動や労働運動が高まりを見せたのに伴ってプロレタリア文学運動がおこり、雑誌「種蒔(たねま)く人」「戦旗」などが創刊され、小林多喜二(こばやしたきじ)の「蟹工船(かにこうせん)」、徳永直(とくながすなお)の「太陽のない街」などが読まれました。大正時代には、庶民(しょみん)の娯楽としての読み物である大衆文学も流行しました。大正14(1925)年に大衆雑誌の「キング」が創刊され、...
明治43(1910)年に創刊された雑誌の「白樺(しらかば)」では、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)や志賀直哉(しがなおや)、有島武郎(ありしまたけお)らが活躍し、個人主義や人道主義あるいは理想主義を追求する作風を示して「白樺派」と呼ばれました。武者小路実篤は「その妹」、志賀直哉は「暗夜行路(あんやこうろ)」、有島武郎は「或(あ)る女」などの作品が有名です。一方、雑誌「スバル」では独自の唯美(ゆいび...
大正期の文学は、「こゝろ」や「明暗」などの作品を残した夏目漱石(なつめそうせき)や「阿部一族」などを発表した森鴎外(もりおうがい)の影響を受けた若い作家たちが次々と登場しました。人間社会の現実をありのままに描写する自然主義が、作者自身を写しとるだけの私小説へと変化していったのに対し、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)や菊池寛(きくちかん)らは雑誌「新思潮」を発刊し、知性を重視して人間の心理を鋭く...
自然科学では、野口英世(のぐちひでよ)による黄熱(おうねつ)病の研究や、本多光太郎(ほんだこうたろう)のKS磁石鋼(じしゃくこう)の発明、八木秀次(やぎひでつぐ)による今のテレビ用アンテナの原型となる八木アンテナの発明などの業績がありました。また、研究機関として理化学研究所が大正6(1917)年に創立されたり、航空研究所・鉄鋼研究所・地震研究所などが相次いで設立されたりしました。ところで、この当時の教育...
大正時代には、学問も各分野において様々な発展を遂げました。人文科学においては、東洋史学の白鳥庫吉(しらとりくらきち)や内藤虎次郎(ないとうとらじろう、別名を湖南=こなん)が、日本古代史の研究として津田左右吉(つだそうきち)らが現れました。それ以外には、政治学で先述のとおり吉野作造が「民本主義」を唱えたほか、法学では美濃部達吉(みのべたつきち)が、民俗学では柳田国男(やなぎだくにお)らが現れました。...
大正時代には新聞や雑誌が発行部数を飛躍的に伸ばしました。大正末期には「大阪朝日新聞」や「大阪毎日新聞」など発行部数が100万部を超える新聞もあったほか、「中央公論」や「改造」などの総合雑誌が知識人層を中心に急速な発展を遂(と)げました。1920(大正9)年にアメリカで定期放送が始まったラジオ放送は、その5年後の大正14(1925)年に東京・大阪・名古屋で開始されると翌年には日本放送協会(=NHK)が設立され、ニュー...
産業構造の変化によって労働者人口が増加したことで「俸給(ほうきゅう)生活者(=サラリーマン)」などの一般勤労者が誕生したほか、バスガールや電話交換手など女性が「職業婦人」として社会に進出しました。また都市内では市電や市バス、円タク(1円均一の料金で大都市を走ったタクシーのこと)などの交通機関が発達し、東京と大阪では地下鉄も開通しました。なお、地下鉄は大阪が全国初の公営(大阪市)として開業しています...
明治から大正にかけて、我が国の人口は大幅に増加しました。明治初年には約3,300万人に過ぎなかったのが、我が国初の国勢調査が行われた大正9(1920)年には約5,600万人近くにまで増えたのです。こうした人口増加の背景には、明治以後に農業生産力が増大して多くの人口を養えるだけの食糧が確保できたことや、目覚ましい工業化に伴う経済発展や国民の生活水準の向上、加えて医学の進歩や内乱のない平和な社会の構築などが挙げられ...
大正デモクラシーの流れを受けて、婦人運動も次第に活発となりました。明治44(1911)年には平塚(ひらつか)らいてうが女流文学者の団体として「青鞜社(せいとうしゃ)」を結成しました。青鞜社が発行した「青鞜」発刊の辞である「元始、女性は太陽であった」という言葉が有名です。青鞜社の活動は次第に文学運動の枠を超え、市民の生活に結びついた婦人解放運動へと発展していきました。大正9(1920)年には平塚や市川房枝(い...
「冬の時代」から立ち直りつつあった社会主義勢力の内部では、ロシア革命の影響もあって共産主義者が大杉栄らの無政府主義者を抑えて影響力を著(いちじる)しく強め、大正11(1922)年にはソビエトのコミンテルンの指導によって、堺利彦(さかいとしひこ)や山川均(やまかわひとし)らが「日本共産党」を秘密裏(ひみつり)に組織しました。しかし、当時の日本共産党は「コミンテルン日本支部」としての存在でしかなく、また結成...
昭和62(1987)年11月に成立した竹下登内閣は、絶対多数を占(し)めた与党・自民党の勢力を背景に消費税を含めた税制改革関連法案を昭和63(1988)年12月に成立させ、翌平成元(1989)年4月に消費税が税率3%で導入されました。しかし、消費税の導入には野党や世論に強硬な反対意見も多く、同時期に大規模な贈収賄(ぞうしゅうわい)事件となったリクルート事件が発覚したこともあり、竹下内閣の支持率はひとケタにまで急降下し、...
平成26(2014)年4月から8%に引き上げられ、さらに令和元(2019)年10月には一部を除いて10%となった消費税。私たちの生活に直接影響を与える間接税だけに、国民の関心も非常に高いものがありますが、皆さんは、我が国でいつ消費税が導入されたかご存知でしょうか。答えは平成元(1989)年4月1日であり、当時の税率は3%でした。また、消費税を導入することを正式に決定したのは前年の昭和63(1988)年12月であり、当時の内閣総...
さて、冷戦の終結や、湾岸戦争の勝利などによって、世界においてアメリカの一極支配が強まる一方で、その他の近隣諸国が緊密な経済関係を築こうとする動きも活発になりました。ヨーロッパでは、1992(平成4)年にEC(=ヨーロッパ共同体)加盟国が、統合の基本原因を定めた欧州連合条約(マーストリヒト条約)を締結し、翌1993(平成5)年には「ヨーロッパ連合(=EU)」を発足させ、統一通貨である「ユーロ」を発行するなど、経済...
カンボジアの総選挙は、予定どおり平成5(1993)年5月23日に行われましたが、この日は奇しくも中田さんの四十九日法要と同じでした。カンボジアでの平均投票率は90%という高水準でしたが、中田さんが担当した地域の投票率は、99.99%という驚くべき数字を残しました。また、中田さんが担当した地域で開票作業をしていた投票箱の中から、いくつもの手紙が出てきて、中にはこう書いていたものもあったそうです。「今まで民主主義と...
さて、国連カンボジア暫定統治機構(=UNTAC)によって平成4(1992)年9月に自衛隊がカンボジアへ派遣されましたが、同じUNTACが1993(平成5)年5月にカンボジアで実施予定の総選挙を支援するために募集した国際連合ボランティア(=UNV)に採用された一人の日本人の若者がいました。彼の名を中田厚仁(なかたあつひと)といいます。かねてより世界平和に関心を抱き、国連で働くことを希望していた中田さんは、大学を卒業したばか...
海上自衛隊のペルシャ湾への掃海艇派遣を通じて人的支援の重要性を再認識した日本政府は「現行憲法の枠内で自衛隊を海外派遣することが可能かどうか」を検討し始めるとともに、国内でも大きな議論となりました。政府は「国際貢献という観点から、戦闘終結地域への戦闘目的以外の自衛隊の派遣であれば可能である」との判断を下し、湾岸戦争の翌年に当たる平成4(1992)年に「国際平和協力法(=PKO協力法)」を成立させて「国連平和...
湾岸戦争で人的支援を見送ったことで国際的な批判を浴びた我が国は、平成3(1991)年4月24日に政府が「我が国の船舶(せんぱく)の航行の安全を確保する目的でペルシャ湾における機雷の除去を行うため、海上自衛隊の掃海艇(そうかいてい)を派遣する」と決定しました。昭和29(1954)年に自衛隊が発足して以来、初めてとなった海外派遣は国連や東南アジア諸国の賛成もあって、6月5日から他の多国籍軍派遣部隊と協力して掃海作業を...
湾岸戦争で我が国がとった行動は、平たく言えば「カネは出しても、人は出さない」ということですが、これがいかに問題であるかということは、以下の例え話を読めば理解できるはずです。ある地域で大規模な自然災害が発生しましたが、これ以上の被害を防ぐための懸命な作業が行われていました。自分自身のみならず、愛する家族の生命もかかっていますから、全員が命がけです。しかし、この非常時において、地域の資産家が「そんな危...
イラクによるクウェート侵攻から湾岸戦争への流れにおいて、我が国は支援国の中で最大の合計130億ドル(約1兆7,000億円)もの財政支援を行いましたが、人的支援をしなかったことが国際社会から冷ややかな目で見られました。湾岸戦争後、クウェート政府はワシントン・ポスト紙の全面を使って国連の多国籍軍に感謝を表明する広告を掲載(けいさい)しましたが、その中に日本の名はありませんでした。また、湾岸戦争に関してアメリカ...
イラクによるクウェート侵攻に対して、我が国は平成2(1990)年8月5日にアメリカからの要請によってイラクへの経済制裁に同意するとともに、同月下旬から9月上旬にかけて国連の多国籍軍へ総額40億ドル(約5,200億円)の支援を発表しました。しかし、アメリカが我が国に求めていたのは、経済よりも「人的支援」でした。「日本は何らリスクを負おうとはしない」という批判に対して、当時の海部俊樹(かいふとしき)内閣は自衛隊の海...
※今回より「平成時代」の更新を再開します(8月5日までの予定)。先述のとおり、1989(平成元)年12月にアメリカのブッシュ大統領とソ連(当時)のゴルバチョフ書記長とが地中海のマルタ島で会談し、両首脳によって「冷戦の終結」が発表されましたが、その後も世界の各地域で紛争が続きました。1990(平成2)年8月2日、イラク軍が突然クウェート領内に侵攻して軍事占領したうえ、クウェートの併合を宣言しました。これに対して国連...
※「第102回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(7月4日)からは「平成時代」の更新を再開します(8月5日までの予定)。松方正義による緊縮財政は「松方財政」とも呼ばれ、西南戦争の後の政府の財政危機を立て直しただけでなく、発行紙幣と銀貨との兌換を可能とした銀本位制を確立したことで、当時の政府の世界における信用度を高めることにもつながるなどの大きな成果をもたらしました。しかし、政府による歳出を...
その後、明治十四年の政変で大隈が政府から追放されると、代わって大蔵卿に就任した松方正義(まつかたまさよし)が政府の歳入を増やしながら同時に歳出を抑え、保有する正貨を増やすことによって財政危機から脱出する政策に取り組みました。松方は酒造税や煙草(たばこ)税を増税することで政府の歳入を増やした一方で、歳出を抑えるために行政費を徹底的に削減したほか、官営事業の民間への払い下げを推進しました。また、余った...
明治10(1877)年に起きた西南戦争に要した経費は、陸軍だけでも当時の国家予算の8割に相当する約4,000万円もの巨額となりました。政府はこの出費を金貨や銀貨との交換ができない不換紙幣(ふかんしへい)を発行することでなんとかやり繰りしましたが、その結果として当然のように市中に大量の紙幣が出回りました。紙幣が大量に流通するということは、紙幣の価値そのものを著(いちじる)しく下げるとともに、相対的に物価の値上が...
ただし、これらの私擬憲法のほとんどは後の大日本帝国憲法と同じ立憲君主制を基本としており、ここでも政府と民権派との考えに大きな差がないことが明らかとなっています。こうして国会開設への具体的な動きを受けてさらなる発展を見せようとした自由民権運動でしたが、この後に思わぬかたちで大きな挫折(ざせつ)を経験することになりました。挫折の主な原因となったのは、皮肉にも自由民権運動が本格化するきっかけをつくった「...
さて、自由民権運動の悲願でもあった国会開設に関する具体的な時期が決まったことで、民権派は政党の結成へ向けて動き出しました。国会開設の勅諭が出された直後の同じ明治14(1881)年10月、国会期成同盟を母体として板垣退助が党首となった「自由党」が結成されました。続いて翌明治15(1882)年4月には大隈重信を党首とする「立憲改進党(りっけんかいしんとう)」が結成されました。両党は、自由党がフランス流の急進的な自由...
つまり、政府からすれば、自分だけでは困難な道のりが予想された立憲国家の樹立や議会政治の実現をわざわざ民権派のほうから自主的にアシストしてくれたわけですから、建前上はともかく、自由民権運動は政府にとって心の底では「願ったり叶(かな)ったり」だったのではないでしょうか。もっとも、政府と民権派とが「立憲国家の樹立と議会政治の実現」という共通の目標を持っていたとしても、政府主導による「上からの改革」と自由...
ところで、先述した「讒謗律(ざんぼうりつ)」や「新聞紙条例」、あるいは「集会条例」などが政府から出されたという事実を考慮(こうりょ)すれば、政府が自由民権運動を弾圧しようという意図を持っていたのは明白だという意見が出てくるかもしれません。しかし、西南戦争が終わってからの政府の動きを見れば、地方三新法の制定から府県会を実現させ、また明治十四年の政変がその原因とはいえ、国会開設の勅諭を発表して国会を開...
北海道に開拓使(かいたくし)を設置して以来、政府は多額の事業費を投入しましたが、赤字が続いていました。このため、旧薩摩藩出身で開拓長官の黒田清隆(くろだきよたか)は、国の管理上にあった開拓に関する官有物(かんゆうぶつ)を民間に払い下げようとしました。黒田は、同じ薩摩出身の政商である五代友厚(ごだいともあつ)に安くて有利な条件で官有物を払い下げしようとしましたが、明治14(1881)年7月にその内容が当時...
明治11(1878)年5月、参議兼内務卿(ないむきょう)であり、最高実力者であった大久保利通が暗殺され、強力なリーダーシップを持つ指導者を欠いた政府は、自由民権運動が高まりを見せるなかで分裂状態となりました。肥前(佐賀)藩出身で参議兼大蔵卿(おおくらきょう)の大隈重信(おおくましげのぶ)は、イギリスを模範(もはん)とした議院内閣制に基づいた、国会の即時開設と政党内閣の早期実現などを目指していました。しか...