ところで、聖徳太子は若い頃から仏教を深く信仰していましたが、仏教を積極的に受けいれようとする崇仏派(すうぶつは)の蘇我馬子(そがのうまこ)と、禁止しようとする廃仏派(はいぶつは)の物部守屋(もののべのもりや)との間で、先述のとおり587年に大きな争いが起きてしまいました。聖徳太子(当時は厩戸皇子=うまやどのみこ)はこのときまだ14歳の少年ながら戦闘に参加しましたが、戦いは蘇我氏にとって不利な状況が続き...
倭の五王の一人である「武」とされる雄略天皇の時代までに、大和朝廷の勢力は関東から九州南部まで広がっていたと考えられています。なぜなら埼玉県の稲荷山(いなりやま)古墳と熊本県の江田船山(えたふなやま)古墳から出土した鉄剣(てっけん)に、それぞれ「獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)」と読める銘文(めいぶん)が発見されたからです。なお、雄略天皇の別名は「大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)」で...
朝鮮半島にまで勢力を伸ばした大和朝廷は、5世紀に入ると中国の南朝である宋(そう)や斉(せい)とも積極的に外交を行いました。いわゆる「倭(わ)の五王(ごおう)」の時代のことです。「宋書」倭国伝(「そうじょ」わこくでん)などによれば、倭王の讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)が相次いで南朝の宋や斉に使者を遣わし、朝鮮半島南部への軍事指揮権を認めてもらおうとしています。要するに、我が...
さて、好太王の碑から4世紀後半から5世紀前半にかけての朝鮮半島をめぐる情勢のおおよそをつかむことが出来ますが、実は我が国の歴史書である「古事記(こじき)」や「日本書紀」からも知ることが可能です。14代の仲哀(ちゅうあい)天皇が崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)された後、后(きさき)であった神功皇后(じんぐうこうごう)が身ごもっているにもかかわらず朝鮮半島へ出兵し、新羅...
三国が形成された当時の朝鮮半島(特に南部)には豊富な鉄資源や先進技術が存在していました。大和朝廷は百済との友好関係を足がかりとして、4世紀後半には統一国家のなかった弁韓地方の任那(みまな)に勢力を伸ばしました。なお、任那は「加羅(から)」もしくは「伽耶(かや)」とも呼ばれています。また、当時の朝鮮半島南部には大和朝廷の出先機関として「任那日本府(みまなにほんふ)」が置かれていたという記述が「日本書...
※今回より「古墳時代」の更新を再開します(5月13日までの予定)。我が国で大和朝廷(やまとちょうてい)が国内統一を進めていたとされる3世紀から4世紀にかけて、中国では三国時代の後に魏(ぎ)を倒した晋(しん)が280年に大陸を統一しましたが、4世紀に入ると晋は北方民族の侵入を受けて南方へ移り、やがて南北朝時代となりました。大陸の混乱状態によって周辺の諸民族に対する中国の影響力が弱まると、それを待っていたかのよ...
※「第107回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(4月26日)からは「古墳時代」の更新を開始します(5月13日までの予定)。我が国は国際的にも正当な手法において日韓併合(=韓国併合)を行い、朝鮮を自国の領土としましたが、それが合法的なものであったとしても、朝鮮半島の人々の自尊心が傷つけられたことに変わりはなく、朝鮮独立を求める声が高まっていました。大正8(1919)年、アメリカのウィルソン大統領...
先述のとおり、パリ講和会議ではオブザーバーの立場に過ぎなかった中華民国でしたが、アメリカの支持を受けて我が国の権益の無効を主張したほか、ヴェルサイユ条約の調印をも拒否しましたが、アメリカによる支援は中国大陸内にも及び、日本人と日本製品の排斥(はいせき)運動が次々と起こりました。また、これも先述しましたが、講和会議以前の1915(大正4)年に我が国が中国に対して行った提案を袁世凱が「二十一か条の要求」と...
パリ講和会議において、我が国は世界史上初めて「人種差別撤廃(てっぱい)案」を提出しました。当時はアメリカで多くの日本人移民が排日運動によって迫害されていたこともあり、有色人種への謂(い)われなき差別を解消するには、同じ有色人種の国でかつ第一次世界大戦の戦勝国という強い立場だった日本が果たすべき責任がある、と強く自負していたのです。我が国が提出した撤廃案は、会議に出席した16か国のうち11か国の多数の賛...
我が国は連合国の一員としてパリ講和会議に参加しましたが、会議において最も発言権が強かったのはアメリカでした。なぜなら、先述したように、ヨーロッパ本土で多くの血を流して共に戦ったアメリカと山東半島や地中海など限定的な戦闘に留まった我が国とでは、他の主要な連合国であるイギリスやフランスの感謝度が全く違ったからです。かくして、講和会議はアメリカ・イギリス・フランスを中心に行われただけでなく、アメリカは自...
さて、4年以上も続いた第一次世界大戦でしたが、アメリカ大統領ウィルソンが提唱した「十四か条の平和原則」をドイツが1918(大正7)年11月に受けいれたかたちによって、ようやく休戦となりました。翌1919(大正8)年1月にフランスのパリで講和会議が開かれましたが、我が国も連合国の一国として、当時の原敬内閣が西園寺公望を全権として会議に派遣しました。会議の結果、同年6月にドイツと連合国との間で講和条約が結ばれました...
原内閣は軍部における改革にも着手し、朝鮮総督府や台湾総督府の長官である総督に文官がなれるようにするなど軍部による影響力の削減にも成功しましたが、選挙が行われたのと同じ大正9(1920)年に起きた「戦後恐慌(きょうこう)」がそれまでの大戦景気を吹き飛ばして、我が国が一気に財政難へと転落すると、原内閣は財政的に行き詰まりを見せるようになりました。また、この頃までに立憲政友会に関係した汚職事件が続発したこと...
原内閣は大正8(1919)年に選挙法を改正し、それまでの直接国税10円以上を「3円以上」に引き下げたほか、小選挙区制を導入した選挙制度に改めました。しかし、憲政会などの野党が主張した納税による制限を設けない普通選挙法案に関しては「時期尚早(しょうそう)」と拒否し、衆議院を解散しました。原が普通選挙を拒否した理由としては、野党側からの要求という政争問題もありましたが、大正9(1920)年に起きた普通選挙を要求し...
一般庶民が暴徒と化した米騒動の影響は、寺内内閣総辞職後の政局にも大きく及びました。政党嫌いの山県有朋が、衆議院第一党の立憲政友会総裁である原敬(はらたかし)を次期首相として認めざるを得なかったのです。指名を受けた原は、陸・海軍大臣と外務大臣以外のすべての閣僚を政友会員で固めるなど、我が国初めての本格的な政党内閣を組織しました。また原自身が歴代の首相と異なり、爵位(しゃくい)を持つ華族でもなければ、...
大正7(1918)年7月、富山県の漁村の主婦らが米の販売を求めて米穀商(べいこくしょう)に押しかけると、これがきっかけとなって全国で約70万人もの庶民(しょみん)が米屋や高利貸しなどを次々と襲うようになりました。これらの動きは、今日では「米騒動」と呼ばれています。米騒動のうち、京都や神戸などで起きた暴動が大規模になったことで、政府は鎮圧に軍隊を出さざるを得なくなったり、騒動の余波を受けて兵庫県で行う予定だ...
大正5(1916)年10月に第二次大隈重信内閣が総辞職すると、元老の山県有朋は長州閥の陸軍大将であり自分の後輩にあたる寺内正毅に、政党をよりどころとしない超然内閣を組織させました。このため、野党となった立憲同志会(後に憲政会を結成)などの反発を受けましたが、翌大正6(1917)年の衆議院総選挙で第一党となった立憲政友会が準与党的立場を維持しました。軍閥割拠となった中国大陸における影響力の拡大を目指した寺内内閣...
コミンテルンの主な目的は、各国の知識人や労働者をそそのかして共産主義の革命団体を世界中に旗揚げし、そのすべてをソビエトからの指令によって動かすことで各国の内部を混乱させ、共産革命を引き起こそうというものでした。コミンテルンはやがて目標の一つを東アジアに定め、中国大陸内で民衆に共産主義を広めたほか、我が国にも「コミンテルン日本支部」ともいうべき組織を「日本共産党」という名称で大正11(1922)年に秘密裏...
ロマノフ王朝による帝政ロシアの時代に、当時の民衆は支配者たる王朝の圧政に苦しめられ続けました。だからこそ、彼らはマルクスによる「貧富の差を憎むとともに私有財産制を否定して、資本を人民で共有する」という共産主義思想に憧れてロシア革命を引き起こしたのです。しかし、共産党による一党独裁の政治を始めたソビエトは、共産主義社会の実現を名目として反対する民衆を裁判にかけることもなく有無を言わさず大量に虐殺しま...
後になって、ソビエトの革命政府が事件の非を認めてパルチザンの責任者を処刑しましたが、我が国が求めた賠償を革命政府が拒否したこともあって、現地での安全保障を重視した我が国は大正11(1922)年までシベリアから撤兵ができませんでした。シベリア出兵は最終的に当時で約10億円を費(つい)やしたほか、将兵約72,000人を現地に派遣し、そのうち約3,500名を失うこととなりましたが、結果としては何も得るものがなかったばかり...
樺太(からふと)の対岸に位置し、黒竜江(こくりゅうこう、別名を「アムール川」)がオホーツク海に注ぐ河口に位置する沿海州(えんかいしゅう)のニコライエフスクには、日本人居留民や日本軍守備隊など合わせて約七百数十名が駐留していましたが、大正9(1920)年1月下旬に革命軍のパルチザン(=非正規の戦闘集団のこと)が包囲攻撃を仕掛けてきました。パルチザンは我が国の守備隊といったんは講和しましたが、やがて共産主義...
いわゆる「ロシア革命」を成功させたソビエト政権は、それまで対立していたドイツと休戦し、1918(大正7)年3月に「ブレスト=リトフスク条約」を結んで、第一次世界大戦の東部戦線から軍を撤退させましたが、これはドイツが西部戦線に兵力を集中させることが可能になったことを意味していました。ドイツに戦力を集中されることを恐れたイギリス・フランス・イタリアの三国は、当時シベリアで孤立していたチェコスロバキア(現在の...
日露戦争の敗北は、ロシアを支配していたロマノフ王朝にとって大きなダメージとなっていましたが、その後も第一次世界大戦でドイツに敗北を重ねたことや、生活物資の不足にあえいだことなどによって不満を爆発させた民衆が1917(大正6)年3月に大規模な暴動を起こし、それがきっかけとなってロマノフ王朝が倒されました。これを「三月革命」といいますが、ロシアが当時使用していた暦に合わせて「二月革命」とも呼ばれています。三...
大正5(1916)年、我が国とロシアは第四次日露協約を結び、極東における両国の特殊権益の擁護を相互に再確認したほか、両国の軍事同盟的な関係を強化しました。また、翌大正6(1917)年にはイギリスとの間に覚書を交わして、山東省におけるドイツの権益を我が国が継承することを承認させました。一方、我が国の中国への進出に対して最も警戒し、かつ批判的であったアメリカとの間においても、同じ大正6(1917)年に前外務大臣の石...
さて、1916(大正5)年に袁世凱が急死すると中国は軍閥割拠(ぐんばつかっきょ)の時代となり、多くの軍閥が独自の活動を見せるようになりましたが、第二次大隈重信内閣の後を受けた寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣は、軍閥のうち北京政府に積極的に関わろうとしました。寺内内閣は西原亀三(にしはらかめぞう)を北京に派遣して、袁世凱の後継となった段祺瑞(だんきずい)政権に対して巨額の借款(しゃっかん)を与えました。...
嘉永(かえい)6(1853)年にペリーが我が国に来航して以来、アメリカは我が国に対して一定の理解を示し続けた国でした。だからこそ、我が国は日露戦争の終結へとつながったポーツマス条約の締結を、アメリカのセオドア=ローズヴェルト大統領に斡旋(あっせん)してもらったのです。しかし、我が国が日露戦争に勝利したという事実は、アメリカをして我が国に警戒感を植え付けせしむ結果をもたらしましたし、戦争後に鉄道王ハリマ...
我が国からの提案内容そのものは、当時の国際情勢から考えても不当な要求をしたとは決して言えず、また提案を受けた側の袁世凱自身も大筋では妥当(だとう)な内容であると考えていました。しかし、少しでも我が国からの干渉を逃れたいと思った袁世凱は、極秘のはずだった提案内容を外部へ漏(も)らして「日本からの一方的な要求は不当である」と喧伝(けんでん、盛んに言いふらすこと)しました。これらの動きに敏感に反応した中...
先述のとおり、我が国は第一次世界大戦においてドイツが租借していた青島(チンタオ)の攻略に成功しましたが、その後に中国国民党の袁世凱(えんせいがい)政府が、我が国が青島から撤退することを要求してきました。正規の戦争において獲得した権益の返還を求められたのであれば、相手国にその代償を求めるのは当然の権利です。かくして、我が国は大正4(1915)年1月に袁世凱政府に対して中国における満洲(現在の中国東北部)や...
第一次世界大戦は、前線での戦闘のみによって勝敗が決するのではなく、参戦した国々の国民や物資が全面的に動員されるという史上初の「総力戦」となりました。大戦中は政府の役割が増大し、その主導のもとに軍需中心の産業統制や食糧の配給制などの様々な政策が実行されたほか、戦争前は政府と対立関係にあった労働組合や社会主義政党との協力も進みました。総力戦では植民地の人々も兵士や労働者として動員されたほか、男性が徴兵...
ところで、第一次世界大戦が始まった当初は、相手の主力が戦場で大打撃を受けたら戦争が終わると考えられており、短期決戦になるだろうと思われていました。しかし、ドイツの西部戦線でも東部戦線でも勝敗の決着がつかず、戦争は長期化しました。戦争が長期化した主な原因は、第一次世界大戦で初めて使用された飛行機や戦車、潜水艦などの新兵器でした。また、西部戦線では平地の戦闘で銃弾や砲弾を避けるために掘った穴を土嚢(ど...
当初は参戦をためらっていた我が国でしたが、イギリスの再三の要請を受けたこともあり、当時の第二次大隈重信内閣が同年8月にドイツに対して宣戦布告しました。中国大陸の山東(さんとう)半島に出兵した我が国は、ドイツが租借(そしゃく、他国の領土の一部を一定の期間を限って借りること)していた膠州(こうしゅう)湾の青島(チンタオ)を占領したほか、太平洋へと逃れたドイツの東洋艦隊を追撃して、ドイツ領だった南洋諸島...
20世紀に入って、ヨーロッパではイギリスを中心とする三国協商と、ドイツを中心とする三国同盟の二つの陣営が、それぞれ軍備を拡大するなど対立関係が深まりましたが、これらの流れに決定的な一撃を与えたのは、当時「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれていたバルカン半島で放たれた「一発の銃弾」でした。1914(大正3)年6月、オーストリアの皇位継承者夫妻が、バルカン半島のボスニアの州都サライェヴォ(=サラエボ)でセルビア人の...
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ところで、聖徳太子は若い頃から仏教を深く信仰していましたが、仏教を積極的に受けいれようとする崇仏派(すうぶつは)の蘇我馬子(そがのうまこ)と、禁止しようとする廃仏派(はいぶつは)の物部守屋(もののべのもりや)との間で、先述のとおり587年に大きな争いが起きてしまいました。聖徳太子(当時は厩戸皇子=うまやどのみこ)はこのときまだ14歳の少年ながら戦闘に参加しましたが、戦いは蘇我氏にとって不利な状況が続き...
さて、聖徳太子(しょうとくたいし)が内政や外交に大活躍していた頃の我が国では、仏教が朝廷の篤(あつ)い保護を受けて急速に発展した時代でもありました。この時代の文化を「飛鳥(あすか)文化」といいます。飛鳥文化は仏教文化を中心として、中国の南北朝時代の文化と我が国の古墳時代の文化が融合し、当時の西アジアやエジプトあるいはギリシャにもつながる特徴をもっていました。聖徳太子は、自ら高句麗(こうくり)の高僧...
今回の改定により、小中学校の教科書において、少なくとも10年は「聖徳太子」の記載が守られることになりました。このこと自体は大きな前進といえるかもしれませんが、実は、高校の歴史教育において使用される有名な教科書において、既(すで)に「厩戸王」という表現が使用されているのです。私が歴史教育の世界に身を投じて、これまでに積み重ねてきた講演を振り返ってつくづく思うのは、いわゆる「プロパガンダ」は近現代史だけ...
今回の学習指導要領の改訂案に関して、文科省は国民の意見を「パブリックコメント(意見公募)」として平成29(2017)年3月15日まで募集しましたが、その結果として改定案の見直しが行われて「聖徳太子」の名称が「復活」することになりました。学校現場に混乱を招く恐れがあるなどとして、文科省が現行の表記に戻す方向で最終調整していることが明らかになったのです。文科省が改定案公表後にパブリックコメントを実施したところ...
藤岡氏が指摘した「聖徳太子抹殺計画」に続くかたちで、平成29(2017)年2月27日には、産経新聞が「主張」において、今回の改定案に疑問を呈(てい)しました。「主張」では「国民が共有する豊かな知識の継承を妨(さまた)げ、歴史への興味を削(そ)ぐことにならないだろうか。強く再考を求めたい」と最初に指摘したほか、今回の改定の理由である「聖徳太子は死後につけられた呼称で、近年の歴史学で厩戸王の表記が一般的である...
文科省が次期学習指導要領を発表して以来、一部の歴史学の関係者やマスコミからは、これは「聖徳太子抹殺計画」ではないか、という厳しい批判が見られるようになりました。拓殖大学客員教授を務めた藤岡信勝(ふじおかのぶかつ)氏は、平成29(2017)年2月23日付の産経新聞の「正論」欄において、今回の学習指導要領の改訂案における聖徳太子の表記について「国民として決して看過できない問題」であると指摘したほか「日本史上重...
平成29(2017)年2月14日、文部科学省は小中学校の次期学習指導要領の改定案を公表しました。なお学習指導要領とは、学校教育法などに基づき児童生徒に教えなくてはならない最低限の学習内容などを示した教育課程の基準であり、約10年ごとに改定されており、教科書作成や内容周知のために告示から全面実施まで3~4年程度の移行期間があります。次期指導要領は翌3月末に告示され、小学校は令和2(2020)年度、中学校は令和3(2021)...
※今回より「飛鳥時代」の更新を再開します(7月31日までの予定)。さて、内政並びに外交の両面において今日の我が国を形づくった偉大な政治家である聖徳太子(しょうとくたいし)は令和4(2022)年に没後1400年を迎えましたが、彼の生涯には様々な伝説が残されていることでも有名です。例えば聖徳太子の母親が臨月の際に馬小屋の前で産気づいたため、彼が生まれた後に「厩戸皇子(うまやどのみこ)」と名付けられたという話があり...
※「第108回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(7月6日)からは「飛鳥時代」の更新を再開します(7月31日までの予定)。美術では日本画の横山大観(よこやまたいかん)や下村観山(しもむらかんざん)、安田靫彦(やすだゆきひこ)らによって、大正3(1914)年にそれまで解散状態だった日本美術院が再興され、現在も続く院展(=日本美術院主催の展覧会のこと)が開催されました。なお、横山大観は「生々流転(せ...
演劇の世界では、大正13(1924)年に小山内薫(おさないかおる)や土方与志(ひじかたよし)らによって築地(つきじ)小劇場がつくられ、知識人層を中心に新劇運動が大きな反響を呼びました。音楽では、山田耕筰(やまだこうさく)が本格的な交響曲の作曲や演奏を行い、大正14(1925)年には我が国初の交響楽団である日本交響楽協会を設立しました。その後、大正15(1926)年には日本交響楽協会から近衛秀麿(このえひでまろ)が脱...
第一次世界大戦を経て、社会主義運動や労働運動が高まりを見せたのに伴ってプロレタリア文学運動がおこり、雑誌「種蒔(たねま)く人」「戦旗」などが創刊され、小林多喜二(こばやしたきじ)の「蟹工船(かにこうせん)」、徳永直(とくながすなお)の「太陽のない街」などが読まれました。大正時代には、庶民(しょみん)の娯楽としての読み物である大衆文学も流行しました。大正14(1925)年に大衆雑誌の「キング」が創刊され、...
明治43(1910)年に創刊された雑誌の「白樺(しらかば)」では、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)や志賀直哉(しがなおや)、有島武郎(ありしまたけお)らが活躍し、個人主義や人道主義あるいは理想主義を追求する作風を示して「白樺派」と呼ばれました。武者小路実篤は「その妹」、志賀直哉は「暗夜行路(あんやこうろ)」、有島武郎は「或(あ)る女」などの作品が有名です。一方、雑誌「スバル」では独自の唯美(ゆいび...
大正期の文学は、「こゝろ」や「明暗」などの作品を残した夏目漱石(なつめそうせき)や「阿部一族」などを発表した森鴎外(もりおうがい)の影響を受けた若い作家たちが次々と登場しました。人間社会の現実をありのままに描写する自然主義が、作者自身を写しとるだけの私小説へと変化していったのに対し、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)や菊池寛(きくちかん)らは雑誌「新思潮」を発刊し、知性を重視して人間の心理を鋭く...
自然科学では、野口英世(のぐちひでよ)による黄熱(おうねつ)病の研究や、本多光太郎(ほんだこうたろう)のKS磁石鋼(じしゃくこう)の発明、八木秀次(やぎひでつぐ)による今のテレビ用アンテナの原型となる八木アンテナの発明などの業績がありました。また、研究機関として理化学研究所が大正6(1917)年に創立されたり、航空研究所・鉄鋼研究所・地震研究所などが相次いで設立されたりしました。ところで、この当時の教育...
大正時代には、学問も各分野において様々な発展を遂げました。人文科学においては、東洋史学の白鳥庫吉(しらとりくらきち)や内藤虎次郎(ないとうとらじろう、別名を湖南=こなん)が、日本古代史の研究として津田左右吉(つだそうきち)らが現れました。それ以外には、政治学で先述のとおり吉野作造が「民本主義」を唱えたほか、法学では美濃部達吉(みのべたつきち)が、民俗学では柳田国男(やなぎだくにお)らが現れました。...
大正時代には新聞や雑誌が発行部数を飛躍的に伸ばしました。大正末期には「大阪朝日新聞」や「大阪毎日新聞」など発行部数が100万部を超える新聞もあったほか、「中央公論」や「改造」などの総合雑誌が知識人層を中心に急速な発展を遂(と)げました。1920(大正9)年にアメリカで定期放送が始まったラジオ放送は、その5年後の大正14(1925)年に東京・大阪・名古屋で開始されると翌年には日本放送協会(=NHK)が設立され、ニュー...
産業構造の変化によって労働者人口が増加したことで「俸給(ほうきゅう)生活者(=サラリーマン)」などの一般勤労者が誕生したほか、バスガールや電話交換手など女性が「職業婦人」として社会に進出しました。また都市内では市電や市バス、円タク(1円均一の料金で大都市を走ったタクシーのこと)などの交通機関が発達し、東京と大阪では地下鉄も開通しました。なお、地下鉄は大阪が全国初の公営(大阪市)として開業しています...
明治から大正にかけて、我が国の人口は大幅に増加しました。明治初年には約3,300万人に過ぎなかったのが、我が国初の国勢調査が行われた大正9(1920)年には約5,600万人近くにまで増えたのです。こうした人口増加の背景には、明治以後に農業生産力が増大して多くの人口を養えるだけの食糧が確保できたことや、目覚ましい工業化に伴う経済発展や国民の生活水準の向上、加えて医学の進歩や内乱のない平和な社会の構築などが挙げられ...
大正デモクラシーの流れを受けて、婦人運動も次第に活発となりました。明治44(1911)年には平塚(ひらつか)らいてうが女流文学者の団体として「青鞜社(せいとうしゃ)」を結成しました。青鞜社が発行した「青鞜」発刊の辞である「元始、女性は太陽であった」という言葉が有名です。青鞜社の活動は次第に文学運動の枠を超え、市民の生活に結びついた婦人解放運動へと発展していきました。大正9(1920)年には平塚や市川房枝(い...
「冬の時代」から立ち直りつつあった社会主義勢力の内部では、ロシア革命の影響もあって共産主義者が大杉栄らの無政府主義者を抑えて影響力を著(いちじる)しく強め、大正11(1922)年にはソビエトのコミンテルンの指導によって、堺利彦(さかいとしひこ)や山川均(やまかわひとし)らが「日本共産党」を秘密裏(ひみつり)に組織しました。しかし、当時の日本共産党は「コミンテルン日本支部」としての存在でしかなく、また結成...
昭和62(1987)年11月に成立した竹下登内閣は、絶対多数を占(し)めた与党・自民党の勢力を背景に消費税を含めた税制改革関連法案を昭和63(1988)年12月に成立させ、翌平成元(1989)年4月に消費税が税率3%で導入されました。しかし、消費税の導入には野党や世論に強硬な反対意見も多く、同時期に大規模な贈収賄(ぞうしゅうわい)事件となったリクルート事件が発覚したこともあり、竹下内閣の支持率はひとケタにまで急降下し、...
平成26(2014)年4月から8%に引き上げられ、さらに令和元(2019)年10月には一部を除いて10%となった消費税。私たちの生活に直接影響を与える間接税だけに、国民の関心も非常に高いものがありますが、皆さんは、我が国でいつ消費税が導入されたかご存知でしょうか。答えは平成元(1989)年4月1日であり、当時の税率は3%でした。また、消費税を導入することを正式に決定したのは前年の昭和63(1988)年12月であり、当時の内閣総...
さて、冷戦の終結や、湾岸戦争の勝利などによって、世界においてアメリカの一極支配が強まる一方で、その他の近隣諸国が緊密な経済関係を築こうとする動きも活発になりました。ヨーロッパでは、1992(平成4)年にEC(=ヨーロッパ共同体)加盟国が、統合の基本原因を定めた欧州連合条約(マーストリヒト条約)を締結し、翌1993(平成5)年には「ヨーロッパ連合(=EU)」を発足させ、統一通貨である「ユーロ」を発行するなど、経済...
カンボジアの総選挙は、予定どおり平成5(1993)年5月23日に行われましたが、この日は奇しくも中田さんの四十九日法要と同じでした。カンボジアでの平均投票率は90%という高水準でしたが、中田さんが担当した地域の投票率は、99.99%という驚くべき数字を残しました。また、中田さんが担当した地域で開票作業をしていた投票箱の中から、いくつもの手紙が出てきて、中にはこう書いていたものもあったそうです。「今まで民主主義と...
さて、国連カンボジア暫定統治機構(=UNTAC)によって平成4(1992)年9月に自衛隊がカンボジアへ派遣されましたが、同じUNTACが1993(平成5)年5月にカンボジアで実施予定の総選挙を支援するために募集した国際連合ボランティア(=UNV)に採用された一人の日本人の若者がいました。彼の名を中田厚仁(なかたあつひと)といいます。かねてより世界平和に関心を抱き、国連で働くことを希望していた中田さんは、大学を卒業したばか...
海上自衛隊のペルシャ湾への掃海艇派遣を通じて人的支援の重要性を再認識した日本政府は「現行憲法の枠内で自衛隊を海外派遣することが可能かどうか」を検討し始めるとともに、国内でも大きな議論となりました。政府は「国際貢献という観点から、戦闘終結地域への戦闘目的以外の自衛隊の派遣であれば可能である」との判断を下し、湾岸戦争の翌年に当たる平成4(1992)年に「国際平和協力法(=PKO協力法)」を成立させて「国連平和...
湾岸戦争で人的支援を見送ったことで国際的な批判を浴びた我が国は、平成3(1991)年4月24日に政府が「我が国の船舶(せんぱく)の航行の安全を確保する目的でペルシャ湾における機雷の除去を行うため、海上自衛隊の掃海艇(そうかいてい)を派遣する」と決定しました。昭和29(1954)年に自衛隊が発足して以来、初めてとなった海外派遣は国連や東南アジア諸国の賛成もあって、6月5日から他の多国籍軍派遣部隊と協力して掃海作業を...
湾岸戦争で我が国がとった行動は、平たく言えば「カネは出しても、人は出さない」ということですが、これがいかに問題であるかということは、以下の例え話を読めば理解できるはずです。ある地域で大規模な自然災害が発生しましたが、これ以上の被害を防ぐための懸命な作業が行われていました。自分自身のみならず、愛する家族の生命もかかっていますから、全員が命がけです。しかし、この非常時において、地域の資産家が「そんな危...
イラクによるクウェート侵攻から湾岸戦争への流れにおいて、我が国は支援国の中で最大の合計130億ドル(約1兆7,000億円)もの財政支援を行いましたが、人的支援をしなかったことが国際社会から冷ややかな目で見られました。湾岸戦争後、クウェート政府はワシントン・ポスト紙の全面を使って国連の多国籍軍に感謝を表明する広告を掲載(けいさい)しましたが、その中に日本の名はありませんでした。また、湾岸戦争に関してアメリカ...
イラクによるクウェート侵攻に対して、我が国は平成2(1990)年8月5日にアメリカからの要請によってイラクへの経済制裁に同意するとともに、同月下旬から9月上旬にかけて国連の多国籍軍へ総額40億ドル(約5,200億円)の支援を発表しました。しかし、アメリカが我が国に求めていたのは、経済よりも「人的支援」でした。「日本は何らリスクを負おうとはしない」という批判に対して、当時の海部俊樹(かいふとしき)内閣は自衛隊の海...
※今回より「平成時代」の更新を再開します(8月5日までの予定)。先述のとおり、1989(平成元)年12月にアメリカのブッシュ大統領とソ連(当時)のゴルバチョフ書記長とが地中海のマルタ島で会談し、両首脳によって「冷戦の終結」が発表されましたが、その後も世界の各地域で紛争が続きました。1990(平成2)年8月2日、イラク軍が突然クウェート領内に侵攻して軍事占領したうえ、クウェートの併合を宣言しました。これに対して国連...
※「第102回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(7月4日)からは「平成時代」の更新を再開します(8月5日までの予定)。松方正義による緊縮財政は「松方財政」とも呼ばれ、西南戦争の後の政府の財政危機を立て直しただけでなく、発行紙幣と銀貨との兌換を可能とした銀本位制を確立したことで、当時の政府の世界における信用度を高めることにもつながるなどの大きな成果をもたらしました。しかし、政府による歳出を...
その後、明治十四年の政変で大隈が政府から追放されると、代わって大蔵卿に就任した松方正義(まつかたまさよし)が政府の歳入を増やしながら同時に歳出を抑え、保有する正貨を増やすことによって財政危機から脱出する政策に取り組みました。松方は酒造税や煙草(たばこ)税を増税することで政府の歳入を増やした一方で、歳出を抑えるために行政費を徹底的に削減したほか、官営事業の民間への払い下げを推進しました。また、余った...
明治10(1877)年に起きた西南戦争に要した経費は、陸軍だけでも当時の国家予算の8割に相当する約4,000万円もの巨額となりました。政府はこの出費を金貨や銀貨との交換ができない不換紙幣(ふかんしへい)を発行することでなんとかやり繰りしましたが、その結果として当然のように市中に大量の紙幣が出回りました。紙幣が大量に流通するということは、紙幣の価値そのものを著(いちじる)しく下げるとともに、相対的に物価の値上が...
ただし、これらの私擬憲法のほとんどは後の大日本帝国憲法と同じ立憲君主制を基本としており、ここでも政府と民権派との考えに大きな差がないことが明らかとなっています。こうして国会開設への具体的な動きを受けてさらなる発展を見せようとした自由民権運動でしたが、この後に思わぬかたちで大きな挫折(ざせつ)を経験することになりました。挫折の主な原因となったのは、皮肉にも自由民権運動が本格化するきっかけをつくった「...
さて、自由民権運動の悲願でもあった国会開設に関する具体的な時期が決まったことで、民権派は政党の結成へ向けて動き出しました。国会開設の勅諭が出された直後の同じ明治14(1881)年10月、国会期成同盟を母体として板垣退助が党首となった「自由党」が結成されました。続いて翌明治15(1882)年4月には大隈重信を党首とする「立憲改進党(りっけんかいしんとう)」が結成されました。両党は、自由党がフランス流の急進的な自由...
つまり、政府からすれば、自分だけでは困難な道のりが予想された立憲国家の樹立や議会政治の実現をわざわざ民権派のほうから自主的にアシストしてくれたわけですから、建前上はともかく、自由民権運動は政府にとって心の底では「願ったり叶(かな)ったり」だったのではないでしょうか。もっとも、政府と民権派とが「立憲国家の樹立と議会政治の実現」という共通の目標を持っていたとしても、政府主導による「上からの改革」と自由...
ところで、先述した「讒謗律(ざんぼうりつ)」や「新聞紙条例」、あるいは「集会条例」などが政府から出されたという事実を考慮(こうりょ)すれば、政府が自由民権運動を弾圧しようという意図を持っていたのは明白だという意見が出てくるかもしれません。しかし、西南戦争が終わってからの政府の動きを見れば、地方三新法の制定から府県会を実現させ、また明治十四年の政変がその原因とはいえ、国会開設の勅諭を発表して国会を開...
北海道に開拓使(かいたくし)を設置して以来、政府は多額の事業費を投入しましたが、赤字が続いていました。このため、旧薩摩藩出身で開拓長官の黒田清隆(くろだきよたか)は、国の管理上にあった開拓に関する官有物(かんゆうぶつ)を民間に払い下げようとしました。黒田は、同じ薩摩出身の政商である五代友厚(ごだいともあつ)に安くて有利な条件で官有物を払い下げしようとしましたが、明治14(1881)年7月にその内容が当時...
明治11(1878)年5月、参議兼内務卿(ないむきょう)であり、最高実力者であった大久保利通が暗殺され、強力なリーダーシップを持つ指導者を欠いた政府は、自由民権運動が高まりを見せるなかで分裂状態となりました。肥前(佐賀)藩出身で参議兼大蔵卿(おおくらきょう)の大隈重信(おおくましげのぶ)は、イギリスを模範(もはん)とした議院内閣制に基づいた、国会の即時開設と政党内閣の早期実現などを目指していました。しか...