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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
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2012/08/07

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  • 第一次世界大戦と日本 その1

    大航海時代以来、ヨーロッパの白色人種(=白人)による世界征服と植民地化は、帝国主義(=政治や経済、軍事などの面で他国の犠牲において自国の利益や領土を拡大しようとする思想や政策のこと)という歴史の大きな流れを招きましたが、その勢いはヨーロッパ各国に微妙な温度差をもたらしていました。イスパニア(=スペイン)やポルトガルによって始まった大航海時代は、やがてイギリスやオランダあるいはフランスによる海外進出...

  • 大正政変 その5

    大正3(1914)年1月、外国製の軍艦や兵器の輸入をめぐって、ドイツの有力メーカーであったシーメンスが我が国の海軍高官に多額の賄賂(わいろ)を贈ったことが新聞各紙によって発覚し、これを好機と見た野党の立憲同志会が国会で第一次山本内閣を厳しく非難しました。なお、立憲同志会は桂太郎が第三次内閣の頃に組織した新党が母体となっています。その後も数々の不正が発覚して大きな汚職事件に進展したことで、海軍大将でもあっ...

  • 大正政変 その4

    大正政変によって第三次桂内閣が崩壊したのは間違いないですが、その後に組閣された第一次山本内閣の首相である山本権兵衛は薩摩出身のいわゆる「藩閥(はんばつ)の雄」ですから、政党内閣が誕生したとは言えません。それなのに、第一次山本内閣の誕生後にはスローガンであった「閥族政治打破・憲政擁護」の声がほとんど聞かれなくなり、第一次護憲運動の熱が一気に冷めてしまったのです。その理由は、上記のスローガンを一番熱心...

  • 大正政変 その3

    第一次護憲運動の拡大を恐れた第三次桂内閣は国会を一時停会とし、自らが党首となった新党を立ち上げて対抗しようとしましたが、大正2(1913)年2月に立憲政友会と立憲国民党が合同で内閣不信任案を提出すると、立憲政友会の尾崎行雄が桂を激しく非難する演説を行いました。追いつめられた桂は再び議会を停会したほか、大正天皇の詔勅によって事態を打開しようとしましたが、そんな桂の態度に激怒した国民の一部が暴徒と化し、東京...

  • 大正政変 その2

    第二次西園寺内閣が総辞職した後、元老(げんろう)の推薦によって桂太郎(かつらたろう)が三回目の内閣を組織することになりましたが、当時の桂は内大臣兼侍従長(じじゅうちょう、天皇・皇后の側近として仕える侍従の長官)になったばかりであり、明治18(1885)年に内閣制度が成立した際に宮内省(くないしょう)が内閣の外に置かれたことによる「宮中(きゅうちゅう)府中の別(=宮廷と行政府との区別)」を乱すものでした。...

  • 大正政変 その1

    ※今回より「第107回歴史講座」の内容を更新します(4月25日までの予定)。明治時代最後の内閣となった第二次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣でしたが、当時の我が国は日露戦争がもたらした財政赤字によって緊縮財政を余儀(よぎ)なくされていた一方で、明治43(1910)年に大韓帝国(だいかんていこく)を併合したことで、朝鮮半島の安全保障を本国並みの基準に引き上げる必要がありました。このため、陸軍は大正元(1912)...

  • 仁徳天皇の「民のかまど」 その5

    ※「古墳時代」の更新は今回で中断します。明日(3月26日)からは「第107回歴史講座」の内容を更新します(4月25日までの予定)。既(すで)に存在する大量の土砂を利用すれば、古墳も比較的早く完成しますし、また仁徳天皇のように善政を敷(し)かれた人物の陵(みささぎ)だからこそ、多くの国民が「進んで」天皇陵の建設に力を尽くしたのではないでしょうか。ちなみに、仁徳天皇陵の周囲に堀をめぐらせているのは、陵墓が大規模...

  • 仁徳天皇の「民のかまど」 その4

    仁徳天皇陵については、ある建設会社が「完成までに15年6か月の年数と延べ800万人の労力を要する」と試算しました。それだけ巨大な天皇陵であることを証明する数字ではありますが、当時の日本列島の人口は約400~500万人と推定されていますから、天皇陵の完成までに多くの人々が果てしない労役に駆り出されたともいえそうです。このことから、仁徳天皇は「自分の天皇陵の建設に際して国民を強制的に労働させた人物」と否定的にとら...

  • 仁徳天皇の「民のかまど」 その3

    このこと以来、仁徳天皇は「聖帝(ひじりのみかど)」と称され、やがて天皇が崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)されると、和泉国の百舌鳥野(もずの)の陵(みささぎ)をつくって葬り奉(たてまつ)ったと「日本書紀(にほんしょき)」に記載があります。ところで、仁徳天皇の善政は「民のかまど」のエピソードだけではないことを皆さんはご存知でしょうか。実は、以下のような輝かしい業績を...

  • 仁徳天皇の「民のかまど」 その2

    民のかまどがにぎわっているのを満足げに見つめられた仁徳天皇は、傍(かたわ)らにおられた皇后陛下(こうごうへいか)に以下のように仰られました。「朕(ちん)は既(すで)に富んだ。喜ばしいことだ」。天皇のお言葉に対し、皇后陛下は怪訝(けげん)そうに仰られました。「宮殿のあちこちが崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだと言えるのですか」。皇后陛下のお言葉に対して、仁徳天皇は微笑(ほほえ)みながら仰られ...

  • 仁徳天皇の「民のかまど」 その1

    さて、皆さんは世界最大級の古墳(こふん)に葬(ほうむ)られておられるとされる「仁徳(にんとく)天皇」についてどのような印象をお持ちでしょうか。古代の天皇には、高いところにのぼって国を見渡し、その様子を褒(ほ)め称(たた)えることによって、天皇のお言葉で国を良くするという「国見(くにみ)」の風習がありました。ある日のこと、仁徳天皇は難波高津宮(なにわのたかつのみや)から人家(じんか)を眺(なが)めら...

  • 古墳文化の発展 その3

    古墳の分布は大和朝廷(やまとちょうてい)の勢力拡大とともに広がりを見せていきました。4世紀後半頃には九州南部から東北南部まで及ぶようになり、5世紀に入るとその数も増えていきました。古墳時代も中期に入った5世紀前半には、大阪府羽曳野市(おおさかふはびきのし)にある応神天皇陵(おうじんてんのうりょう)や、大阪府堺市堺区にある仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)などの巨大な前方後円墳がつくられました。なお...

  • 古墳文化の発展 その2

    前期の副葬品には、鉄製の武器や農工具などのほかに、縁(ふち)の断面が三角形をなして神や獣(けもの)をデザインした三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)などの多数の銅鏡(どうきょう)や、碧玉製(へきぎょくせい)の腕輪(うでわ)類といった呪術的(じゅじゅつてき)な性格をもつものが多く見られます。このことから、当時の古墳の被葬者(ひそうしゃ)は宗教的な力で政治を行っていたと考えられています。3世紀...

  • 古墳文化の発展 その1

    弥生(やよい)時代の後期から、既(すで)に大きな墳丘(ふんきゅう)を持つ墓が各地でつくられていましたが、3世紀後半になると、畿内(きない)から瀬戸内海沿岸にかけて、丘陵(きゅうりょう)や山地など自然の形を利用した古墳(こふん)が現れました。なお、古墳が盛んにつくられた3世紀後半から7世紀頃にかけて特に古墳時代と呼び、古墳の分布・様式・副葬品(ふくそうひん)などから前期(3世紀後半~4世紀中頃)・中期(4...

  • 大和朝廷の誕生と日本の建国伝承 その10

    その後、我が国が独立を回復する以前から「紀元節の復活」を望む声が国民のあいだで高まってきましたが、米ソの冷戦や安保闘争などの保革激突によって実現できませんでした。終戦から20年以上が経った昭和41(1966)年、当時の佐藤栄作(さとうえいさく)内閣によって「建国記念日を祝日として設ける」と規定した祝日法の改正案が可決されると、学識経験者などからなる審議会を設置し、半年にわたる論議の後に「建国記念の日を2月1...

  • 【ハイブリッド方式】第107回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和7年3月)

    「黒田裕樹の歴史講座」は対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。準備の都合上、オンライン式の講座のお申し込みは事前にお願いします。対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です。メインの主催者である「国防を考える会」のQRコードはこちらです。(クリックで拡大されます)(クリックで拡大されます)第107回黒田裕樹の歴史講座...

  • 大和朝廷の誕生と日本の建国伝承 その9

    このようにして大和を平定された神武天皇は、橿原(かしはら)の地に宮殿を築かれ、初代天皇として即位されました。なお、現在の橿原神宮はこの伝承に基づいて明治時代に創建されたものです。また、ご即位の日は十干十二支(じっかんじゅうにし)で辛酉(しんゆう、別名を「かのととり」)の年の1月1日と伝えられており、日本書紀では、先述のとおり神武天皇のご即位の年を紀元前660年に定めています。現在、神武天皇が即位されて...

  • 大和朝廷の誕生と日本の建国伝承 その8

    天皇は苦戦の末、紀伊(きい、現在の和歌山県)から海路で熊野(くまの、現在の三重県)に上陸されましたが、険しい山道のなかでいつしか道に迷われそうになりました。そんな神武天皇の軍勢の前に、いきなり巨大なカラスが現れました。それは三本足をもつ八咫烏(やたがらす)でした。八咫烏は天照大神の使いとして、天皇を大和まで先導して道案内の役割を果たしたのです。八咫烏は日本サッカー協会のシンボルマークとして用いられ...

  • 大和朝廷の誕生と日本の建国伝承 その7

    では、日本書紀や古事記による神武天皇の東征はどのように書かれているのでしょうか。現代の天皇陛下は数えて第126代目となられますが、日本書紀あるいは古事記には、始祖(しそ)とされる神武天皇がご即位されるまでの様々な出来事が生き生きと描かれています。太陽を神格化した神であり、皇室の祖神たる天照大神(あまてらすおおみかみ)の直系の子孫であられる神武天皇(別名:神日本磐余彦尊=かんやまといわれひこのみこと)...

  • 大和朝廷の誕生と日本の建国伝承 その6

    「方(まつ)に難波(なにわ)の碕(みさき)に到(いた)るときに、奔潮(はやなみ)有りて太(はなは)だ急(はや)きに会ふ」。現代語訳すれば「難波の碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変早く着いた」となりますが、この一文は、神武天皇の一行が河内潟の狭い開口部から流入する潮流に乗って一気に潟内部に進入し、難波の碕に着いたことを物語っています。こうした記述は、河内潟の時代でしか考えられません。なぜなら...

  • 大和朝廷の誕生と日本の建国伝承 その5

    河内潟の頃は、現在の大阪城から南に延びる上町台地の北端が潟口(かたぐち)であり、引き潮の際には潟の水が開口部から勢いよく大阪湾に流れ出す一方で、満潮の際には開口部を通って海水が潟内部へ逆流していたと考えられます。実は、その様子が、8世紀に編纂(へんさん)された「日本書紀」にも書かれているのです。「因(よ)りて名(なづ)けて浪速国(なみはやくに)と為(い)ふ。亦(また)浪花(なにわ)と曰(い)ふ。今...

  • 大和朝廷の誕生と日本の建国伝承 その4

    神武天皇のご存在を証明する手掛かりは、実はもう一つあります。それは戦後の様々な発掘調査がもたらしたものであり、神武天皇が遺(のこ)された足跡が「地質学的に確実に証明されている」ことを皆様はご存知でしょうか。その根拠の一つは「大阪」にあります。大阪湾の遠浅(とおあさ)の海岸沿いから広大な大阪平野が生駒山地まで続いている現在の大阪ですが、今から約20000年前には河内湾(かわちわん)と呼ばれる海が生駒山の...

  • 大和朝廷の誕生と日本の建国伝承 その3

    5世紀の中国の南朝である宋(そう)の歴史家であった裴松之(はいしょうし)が「三国志(さんごくし)」に注釈を加えた際に、以下のような文章を書き残しています。「倭人(わじん)は歳(とし)の数え方を知らない。ただ春の耕作と秋の収穫をもって年紀としている」。当時の倭人、すなわち日本人は春分と秋分をそれぞれ一つの年紀として、つまり通常の一年を倍の二年として計算していたというのです。これを「春秋年(しゅんじゅ...

  • 大和朝廷の誕生と日本の建国伝承 その2

    我が国では長いあいだ、神話が絶えず意識されてきました。しかし、GHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)による占領下で、日本を罪深い国に仕立て上げた「WGIP(=ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム、日本人に戦争犯罪者意識を刷り込む計画)」の呪縛(じゅばく)が、戦後から約80年を経た今もなお日本国と日本民族を洗脳し続けています。WGIPによる影響は我が国の歴史教科書にも確実に表れており、我が国初代の神武...

  • 大和朝廷の誕生と日本の建国伝承 その1

    ※今回より「古墳時代」の更新を開始します(3月25日までの予定)。3世紀後半頃の我が国では国家の統一が進み、大和(やまと、現在の奈良県)の豪族を中心とする強大な連合政権が誕生しました。これを大和朝廷(やまとちょうてい)と呼び、現代の皇室のルーツでもあります。大和朝廷が誕生したとされる当時は、大和地方を中心に巨大な古墳(こふん)が現れており、また各地の古墳も大和地方と同じ前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん...

  • 明治の終焉 その3

    ※「第106回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(3月8日)からは「古墳時代」の更新を開始します(3月25日までの予定)。明治天皇の崩御から2年後の大正3(1914)年、皇后の昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)が崩御されました。両陛下はともに京都の桃山御陵にご埋葬されましたが、国民の間から東京で明治天皇並びに昭憲皇太后のご神霊(しんれい)をお祀(まつ)りしたいという熱い願いが自然と沸き上がりま...

  • 明治の終焉 その2

    明治天皇のご存在は、単なる国家元首としてのみならず、我が国が幕府による武家政権の封建体制から欧米列強に肩を並べる近代国家にまで短期間で一気に成長を遂(と)げた、いわば国家の興隆と繁栄の象徴でもあられたことから、明治天皇の崩御は「明治」という一つの時代の終焉(しゅうえん)を国民に強く印象づけることとなりました。例えば、夏目漱石は大正3(1914)年に発表した小説「こゝろ」の中で「其時(そのとき)私は明治...

  • 明治の終焉 その1

    明治45(1912)年7月、明治天皇は東京帝国大学の卒業式に行幸(ぎょうこう、天皇が外出されること)された頃からご体調が急に悪化され、同月18日夜に発熱された後に昏睡(こんすい)状態となられました。翌々日の7月20日には陛下のご不例(ふれい、この場合は天皇のご病気のこと)が国民に公表され、日本国内は憂色(ゆうしょく)に包まれました。多くの国民が陛下のご平癒(へいゆ)を願って続々と皇居に集まったほか、全国の神社...

  • 明治期の演劇・音楽と文化事業の推進 その5

    この他にも、水戸の偕楽園(かいらくえん)、金沢の兼六園(けんろくえん)などが公園化されましたが、これらは従来の和風の庭園を活用したものであり、一から新しく西洋風の公園がつくられたのは、明治36(1903)年に開かれた日比谷(ひびや)公園が初めてでした。自然科学(特に医学)の発達によって、明治期には我が国でも近代的な病院がつくられるようになり、明治25(1892)年には北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)によって...

  • 明治期の演劇・音楽と文化事業の推進 その4

    近代化を推進するためには、文化事業を興(おこ)して国民を啓蒙(けいもう、人々に新しい知識を与えて教え導くこと)することが不可欠だと考えた政府は図書館や博物館の建設を始め、旧幕府の紅葉山文庫(もみじやまぶんこ)や昌平黌(しょうへいこう)などの図書を集めたうえ、明治5(1872)年に湯島(ゆしま)の昌平黌講堂跡に書籍館(しょじゃくかん)を開きました。我が国初の官立公共図書館となった書籍館は、明治30(1897)...

  • 明治期の演劇・音楽と文化事業の推進 その3

    西洋音楽は、幕末にまず軍楽として取り入れられた後、明治に入ってから文部省(現在の文部科学省)に音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)が設置され、日本音楽と西洋音楽との融合を目指して、音楽教育の立案や音楽教員の養成あるいは学校唱歌集の刊行がなされました。その後、明治20(1887)年に伊沢修二(いざわしゅうじ)を校長として東京音楽学校が設立され、本格的な音楽教育が始まりました。なお、東京音楽学校は現在の東...

  • 明治期の演劇・音楽と文化事業の推進 その2

    自由民権運動の思想を芝居によって広めようと始められた壮士(そうし)芝居は、日清戦争の頃から新派劇(しんぱげき)と呼ばれるようになりました。新派劇では、川上音二郎(かわかみおとじろう)によるオッペケペー節が大流行したほか、新聞小説や流行小説から題材をとるようになり、ますます発展しました。日露戦争後には坪内逍遥らが文芸協会を設立したり、あるいは小山内薫(おさないかおる)や二代目市川左団次らが自由劇場を...

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