ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調を目指したものであり、当時は「ワシントン体制」と呼ばれました。ワシントン体制はヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄...
明治の世になって、演劇の世界にも新しい波が押し寄せてきました。江戸時代以来変わらぬ人気を集めてきた歌舞伎(かぶき)では、幕末の頃から第一線で活躍してきた河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)が、文明開化における風俗を題材として取り入れた新作を発表しました。また、明治の中期頃までには九代目市川団十郎(いちかわだんじゅうろう)や五代目尾上菊五郎(おのえきくごろう)、初代市川左団次(いちかわさだんじ)らの名優が...
一方、西洋画は工部美術学校の閉鎖もあって一時的に衰退を余儀なくされましたが、やがて「収穫」を描いた浅井忠(あさいちゅう)や「鮭(さけ)」を描いた高橋由一(たかはしゆいち)らによって、明治22(1889)年に我が国最初の西洋画の団体である明治美術会が設立されました。その後、明治29(1896)年に東京美術学校に洋画科が新設されたほか、同年にはフランス印象派の画風を学んだ「読書」や「湖畔(こはん)」で有名な黒田清...
殖産興業(しょくさんこうぎょう)の観点から西洋美術教育の必要性を考えた政府は、明治9(1876)年に工部(こうぶ)美術学校を開設しましたが、その後に起きた美術界における伝統回帰の風潮もあって、明治16(1883)年に廃止されました。一方、哲学のアメリカ人教師として来日した「お雇い外国人」のフェノロサは、我が国の伝統芸術を高く評価してその保存を訴え、助手の岡倉天心(おかくらてんしん)とともに、明治20(1887)年...
日露戦争の頃になると、ロシアやフランスの自然主義文学の影響を我が国も受けて、人間社会の現実をありのままに描写する風潮が主流となりました。当時の自然主義の作家としては、「牛肉と馬鈴薯(ばれいしょ)」の国木田独歩(くにきだどっぽ)、「蒲団(ふとん)」の田山花袋(たやまかたい)、「破戒(はかい)」の島崎藤村、「黴(かび)」の徳田秋声(とくだしゅうせい)などが挙げられます。また、明星派の影響を受けていた石...
日清戦争の前後には、感情や個性を尊(たっと)ぶロマン主義文学が次々と発表されました。例えば、森鴎外(もりおうがい)は「舞姫(まいひめ)」を発表したり、アンデルセンの「即興詩人(そっきょうしじん)」を翻訳したりしました。また、北村透谷(きたむらとうこく)が雑誌「文学界」を創刊したほか、令和6(2024)年まで我が国の五千円札の肖像画に採用された女流作家の樋口一葉(ひぐちいちよう)が「たけくらべ」や「にご...
明治18(1885)年に結成された硯友社(けんゆうしゃ)は「我楽多文庫(がらくたぶんこ)」を発刊し、坪内逍遥の写実主義を目指しながらも、文芸小説の大衆化を進めました。硯友社を結成した作家とその作品では、尾崎紅葉(おざきこうよう)の「金色夜叉(こんじきやしゃ)」や山田美妙(やまだびみょう)の「夏木立(なつこだち)」などが有名です。その後、尾崎紅葉の弟子である泉鏡花(いずみきょうか)が「高野聖(こうやひじり...
明治初期の文学は、江戸時代以来の戯作(げさく)文学の流れをくむ仮名垣魯文(かながきろぶん)の「西洋道中膝栗毛(せいようどうちゅうひざくりげ)」「安愚楽鍋(あぐらなべ)」や、自由民権運動を題材とした矢野龍渓(やのりゅうけい)の「経国美談(けいこくびだん)」などの政治小説が中心でした。これらに対し、坪内逍遥(つぼうちしょうよう)が明治18(1885)年に「小説神髄(しょうせつしんずい)」を発表して、それまで...
化学では、高峰譲吉(たかみねじょうきち)がアドレナリンや消化薬として有名なタカジアスターゼの創製に成功し、鈴木梅太郎(すずきうめたろう)がオリザニン(=ビタミンB1)の創製を行いました。また、下瀬正允(しもせまさちか)が研究した「下瀬火薬」が日露(にちろ)戦争の日本海海戦で使用され、ロシアのバルチック艦隊に壊滅的(かいめつてき)な打撃を与えました。これら以外の自然科学としては、地震学では大森房吉(お...
史学においては田口卯吉(たぐちうきち)が「日本開化小史(にほんかいかしょうし)」を著して、斬新な文明史論を展開しました。また、重野安繹(しげのやすつぐ)が東京帝国大学に国史学科を設置し、同大学の史料編纂掛(しりょうへんさんがかり)で「大日本史料(だいにほんしりょう)」や「大日本古文書(だいにほんこもんじょ)」といった基礎資料の体系的な編纂(へんさん)が進められました。その他、西洋の近代史学の影響を...
明治の初期に欧米から招かれた「お雇(やと)い外国人」を中心とした多くの外国人教師は我が国の近代的な学問研究の発達に大きな功績を残しましたが、彼らの指導を受けた日本人学者自身の手によって、後に優れた独自の研究が生み出されるようになりました。経済学においては、まずイギリス流の自由貿易を主体とした自由放任の経済政策を盛り込んだ経済学が導入され、その後はドイツ流の保護貿易や社会政策の学説が主流となりました...
教育に関する勅語(現代語訳)私(=天皇)が思うには、我が皇室の祖先の方々が国を始められたのは遥(はる)かに遠い昔のことであり、代々築かれてきた徳は深く厚いものがありました。我が国民が忠孝の道をもって万民が心を一つにし、今日に至るまで立派に歩んできたことは、我が国の優れた誉(ほま)れであるとともに、教育の根本もまたそこにあります。貴方たち国民は父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は仲良く協力し合い、友達...
教育勅語の全文と現代語訳は以下のとおりです。教育ニ関スル勅語(教育勅語)朕(ちん)惟(おも)フニ我ガ皇祖皇宗(こうそこうそう、天照大神と歴代の天皇のこと)國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ徳ヲ樹(た)ツルコト深厚(しんこう)ナリ。我ガ臣民(しんみん)克(よ)ク忠ニ克(よ)ク孝ニ億兆(おくちょう)心ヲ一(いつ)ニシテ世々(よよ)厥(そ)ノ美ヲ済(な)セルハ此(こ)レ我ガ国体(こくたい)ノ精華(...
ただし、排除・失効決議がなされたからといって、教育勅語そのものが「廃止」されたわけではありません。そもそも天皇陛下のお言葉である「勅語」を廃止できるのは陛下ご自身のみであり、それを国民の立場で勝手に廃止する行為は「不敬」以外の何物でもないからです。平成29(2017)年3月14日に、松野博一(まつのひろかず)文部科学大臣(当時)が記者会見において「憲法や教育基本法に反しないような配慮があって、教材として教...
教育勅語は当時の国民世論から大いに歓迎され、小学校修身科の教科書に掲載されたほか、学校行事において校長先生が奉読(ほうどく、つつしんで読むこと)するなど、多くの児童や生徒の日常の中にごく当たり前のものとして存在したのみならず、英・独・仏・中の各国語に翻訳され、海外にも広く紹介されました。ところで、昭和に入ってから勅語の文章中の「天壤無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運(こううん)」や「億兆(おくちょう...
明治22(1889)年2月11日に大日本帝国憲法(=明治憲法)が公布されたことで、我が国は憲法を有する近代国家となりましたが、大日本帝国憲法はそもそも法律であったがゆえに、道徳に関する規定がありませんでした。また、当時の教育界も道徳教育の基礎を何に置くかという根本的な問題について一致した見解を持っていなかったため、我が国伝統の倫理や道徳に関する教育が軽視される傾向にありました。この事態を重く受け止められた...
学校令が整備された後の明治20年代から30年代にかけて義務教育の就学率が急上昇し、明治35(1902)年には90%を超えましたが、これは学校令の制度が我が国の風土に合っただけではなく、近代産業の発達やそれに伴う経済の発展によって国民生活が向上し、児童が教育を受けやすい体制が整ったことも意味していました。また、教育費を国庫で補助したり、明治33(1900)年に義務教育期間の授業料を廃止したりするなどの政策にも大きな効...
明治5(1872)年に学制(がくせい)が発されたことで義務教育の就学率が次第に上昇しましたが、実学(じつがく、理論より実用性・技術を重んずる学問のこと)中心で我が国の伝統や道徳が軽視された内容であったことや、授業料が高額なこと、あるいは地方の実情を無視した画一的(かくいつてき)な統制に対する反発がありました。このため、政府は明治12(1879)年に新たに教育令を公布して学制を廃止しました。教育令はアメリカ風...
宗教界では、伝統的な神道(しんとう)や仏教あるいは西洋から流入したキリスト教との対立や競合がみられました。神道界では明治初年の神仏合同による国教化がうまくいかなかった一方で、政府の公認を受けた民間の教派神道が庶民を中心に広がりを見せました。仏教界では、明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐による大きな打撃から次第に立ち直りつつありました。浄土真宗の僧侶(そうりょ)であった島地黙雷(しまじもくら...
一方、三宅雪嶺(みやけせつれい)・志賀重昂(しがしげたか)・杉浦重剛(すぎうらじゅうごう)らは政教社をつくって雑誌「日本人」を創刊し、西洋かぶれの風潮を批判するとともに、我が国本来の優れた思想や文化を保存あるいは発展させながら新しい文化を創造すべきであるとする国粋(こくすい)保存主義を唱えました。また、陸羯南(くがかつなん)は新聞「日本」を発行し、政府による安易な欧化主義や外国人判事の任用など、欧...
我が国の独立を守り、欧米列強から侵略されないようにという目的から、我が国は明治初年から西洋文明を急速に受けいれました。こうした流れは庶民(しょみん)の生活にまで及び、いわゆる文明開化が花開いたほか、条約改正のために鹿鳴館(ろくめいかん)を建設して連日のように舞踏会を開くなどの欧化主義にも走るようにもなりました。しかし、こういった古来の我が国の伝統を軽視する風潮は明治20(1887)年前後になると治まり、...
自らの思想の達成のためには「天皇暗殺」すら何のためらいもなく実行しようという考えから起きた大逆事件は当時の我が国や政府に激しい衝撃を与えましたが、そもそも社会主義運動がこれだけ大きな騒ぎを引き起こした背景には、過酷な労働条件に苦しむ当時の賃金労働者たちの「声なき声」がありました。そう判断した政府は、大逆事件の判決が出た年と同じ明治44(1911)年に工場法を制定し、12歳未満の雇用の禁止や最長労働時間を12...
当時の刑法第73条に基づく大逆罪で起訴された幸徳ら26人に対して、裁判所は明治44(1911)年に全員に対して有罪判決を下し、幸徳を含む12人が処刑されました。ところで大逆事件の真相に関しては、幸徳がどこまで天皇暗殺にかかわっていたのかなど不明な点も多く、政府による捏造(ねつぞう)ではないかという見方もあるようです。ただ、当時の政府(第二次桂内閣)からしてみれば、前任者(第一次西園寺内閣)が社会主義に寛容だっ...
赤旗事件が起きた際、幸徳秋水は郷里の高知にいて難を逃れましたが、事件発生後に上京して勢力の立て直しをはかったことで、無政府主義者の秘密行動が活発化しました。しかし、無政府主義者の運動は思ったよりも伸び悩みました。産業革命によって我が国にも労働者階級と資産階級との貧富の差が生じつつありましたが、そもそも我が国には「天皇陛下の前では全員が平等である」、すなわち「八紘一宇(はっこういちう)」という国民の...
当初は労働運動の擁護が中心だった社会主義運動は、日露戦争を経て次第に政治運動へと傾いていきました。明治39(1906)年に日本社会党が結成されると、社会主義運動に寛容だった当時の第一次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣がこれを許可しました。しかし、間もなく日本社会党内部で対立が生じました。片山潜らが議会を通じて社会主義政策を達成すべきとする議会政策派だったのに対して、懲役後の渡米の際に無政府主義の影響...
さて、我が国で労働運動が展開しつつあった明治31(1898)年、安倍磯雄(あべいそお)や片山潜、幸徳秋水(こうとくしゅうすい)らが社会主義研究会を立ち上げ、次いで明治34(1901)年には木下尚江(きのしたなおえ)らを加えて我が国初の社会主義政党である社会民主党を結成しましたが、治安警察法によって直ちに解散を命じられました。その後、日露の対立が深まり戦争の可能性が高まると、黒岩涙香(くろいわるいこう)が発行し...
19世紀の欧米では工業化の進展に伴って労働問題が深刻化しましたが、そんな中で、資本主義社会を抜本的に改革しようとする社会主義の思想が広まりました。特に、マルクスによる「貧富の差を憎むとともに、私有財産制をやめて資本を人民で共有する」という共産主義の考えは、当時プロレタリアートと呼ばれた賃金労働者の人々から熱烈な支持を受けました。そもそもヨーロッパでは、長い歴史の中で王族や貴族あるいは騎士や商人などほ...
労働者は企業を支える貴重な労働力の対価として報酬を得ますが、その待遇に関しては使用者との間で様々な問題が発生するのが常(つね)でもあります。それは日清戦争の頃に本格化した我が国の産業革命の時期においても例外ではなく、待遇改善や賃上げを求めてストライキが行われるようになりました。そんな中、アメリカの労働運動を学んだ高野房太郎(たかのふさたろう)や片山潜(かたやません)らが帰国後の明治30(1897)年に労...
足尾鉱毒事件は当時の大きな社会問題となり、地元の衆議院議員の田中正造(たなかしょうぞう)が帝国議会で取り上げたことで政治問題に発展しました。議会において田中は毎回のように政府に鉱毒事件への善処と被害者の救済を主張し続けました。しかし、政府は対策に苦慮(くりょ)することになりました。田中の主張どおりに銅山での採掘を停止すれば、貴重な輸出品が失われるだけでなく、国内の生産力も低下し、全国の商工業におけ...
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ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調を目指したものであり、当時は「ワシントン体制」と呼ばれました。ワシントン体制はヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄...
ワシントン海軍軍備制限条約と並行して、条約を結んだ5か国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルが加わって、大正11(1922)年に「九か国条約」が結ばれました。この国際条約によって、アメリカが提唱していた中国の領土と主権の尊重や、経済活動のための中国における門戸(もんこ)開放・機会均等の原則が成文化されましたが、これは我が国が九か国条約より先にアメリカと結んだ「石井・ランシング協定」に明らかに反する...
さて、四か国条約が結ばれた翌年の大正11(1922)年には、条約を結んだイギリス・アメリカ・日本・フランスにイタリアを加えた5か国の間に「ワシントン海軍軍備制限条約」が結ばれ、主力艦の保有総トン数をアメリカ・イギリスが5、日本が3、フランスとイタリアが1.67の割合に制限しました。我が国の海軍は米英への対抗のため対7割(米英5、日3.5)を唱えましたが、海軍大将でもあった全権の加藤友三郎がこれを抑えるかたちで調印し...
ところで、現代では日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みによる「クアッド(=QUAD)」が進められており、自由や民主主義、法の支配といった共通の価値観に基づいて連携(れんけい)を強化するとともに、インフラや海洋安全保障、テロ対策、サイバーセキュリティなどの分野で協力し、さらに海洋進出を強める中華人民共和国を念頭に「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指しています。21世紀のクアッドと20...
我が国が日英同盟を破棄することに応じたのは、軍縮問題を会議の中心と考え、四か国条約が世界平和につながると単純に信じた全権大使の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)による軽率な判断があったからだといわれています。なお、幣原はこの後に「幣原外交」あるいは「協調外交」という名の「相手になめられ続けるだけだった弱腰外交」を展開し、我が国に大きな影響を与えることになります。理由はどうあれ、日英同盟の破棄によっ...
ワシントン会議でまず槍玉(やりだま)に挙げられたのが日英同盟でした。明治35(1902)年に初めて結ばれた日英同盟は、日露戦争の終結後も第一次世界大戦で我が国がドイツへ参戦するきっかけとなるなど、日英両国にとって価値の高いものでした。しかし、我が国を激しく憎むアメリカにとって、将来日本と戦争状態となることを想定すれば、日英同盟は邪魔(じゃま)な存在でしかなかったのです。このためアメリカはドイツが敗れて同...
第一次世界大戦への参戦をきっかけに世界での発言権を高めることに成功したアメリカは、大戦後の体制を自国主導の下に構築しようと考え、イギリスを抜く世界一の海軍国を目指して艦隊の増強計画を進めました。アメリカの思惑(おもわく)に気付いた我が国は、これに対抗する目的で艦齢8年未満の戦艦8隻(せき)と巡洋戦艦8隻を常備すべく、先述した「八・八艦隊」の建造計画を推進していましたが、果てしない軍拡競争に疲れたアメ...
ところが、大正14(1925)年に普通選挙法が成立したことにより、支持政党を持たず、プライドもなく、政治に無関心な有権者が一気に誕生しました。このような人々から票を集めようと思えば、それこそ大規模なキャンペーンを行わなければならず、一回の選挙にかかる費用の激増をもたらしたのは、むしろ必然でもありました。しかし、政党にそんな多額の費用を負担する余裕などあるはずもなく、当時の財閥(ざいばつ)などからの大口の...
「日本では1925(大正14)年になって、男子のみではあったもののようやく普通選挙が実現しました。選挙権が財産や性別などで制限されている選挙では国民の意思を政治に生かすことはできませんから、長い歴史を経て誕生した普通選挙制度は大切な制度なのです」。高校での一般的な歴史・公民教科書(あるいは副読本)には概(おおむ)ね以上のように書かれており、普通選挙制度の重要性を訴えるのが通常となっていますが、確かに制限...
加藤高明内閣は大正14(1925)年に「普通選挙法」を成立させ、それまでの納税制限を撤廃(てっぱい)して満25歳以上の男子すべてが選挙権を持つようになり、選挙人の割合も全人口の5.5%から4倍増の20.8%と一気に拡大しました。一方、加藤高明内閣は「治安維持法」も成立させました。これは、同年に日ソ基本条約を締結してソ連との国交を樹立したことや、普通選挙の実施によって活発化されることが予想された共産主義運動を取り締...
第二次山本内閣が総辞職した後は、枢密院(すうみついん)議長だった清浦奎吾(きようらけいご)が首相になりましたが、政党から閣僚を選ばずに貴族院を背景とした超然内閣を組織しました。清浦がこの時期に超然内閣を組織したのは、衆議院の任期満了が数か月後に迫っており、選挙管理内閣として中立性を求められたために貴族院議員を中心とせざるを得なかったという側面もありました。しかし、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部のい...
※今回より「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。大正10(1921)年11月に首相の原敬(はらたかし)が暗殺されると、後継として大蔵大臣を務めていた高橋是清(たかはしこれきよ)が首相を兼任し、その他の閣僚をすべて引き継ぐというかたちで新たに内閣を組織しました。しかし、高い政治力を誇っていた原が急死した影響は大きく、間もなく与党の立憲政友会内部で対立が深刻化したこともあって高橋内閣は短命...
※「飛鳥時代」の更新は今回で中断します。明日(6月2日)からは「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。ところで、例えば「至誠は天に通じる」といったような、我が国の伝統的な思想として「ひたすら低姿勢で相手のことを思いやり、また争いを好まず、話し合いで何事も解決しようとする」考えがありますが、そういったやり方は、たとえ国内では通用しても、国外、特に外交問題では全くといっていいほど通用し...
明くる608年、聖徳太子は3回目の遣隋使を送りましたが、この際に彼を悩ませたのが、国書の文面をどうするかということでした。一度煬帝を怒らせた以上、中国の君主と同じ称号を名乗ることは二度とできませんが、だからといって、再び朝貢外交の道をたどることも許されません。考え抜いた末に作られた国書の文面は、以下のように書かれていました。「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」。我が国が皇帝の文字を避...
裴世清からの国書は「皇帝から倭皇(わおう)に挨拶(あいさつ)を送る」という文章で始まります。「倭王」ではなく「倭皇」です。これは、隋が我が国を「臣下扱いしていない」ことを意味しています。文章はさらに続きます。「皇(=天皇)は海の彼方(かなた)にいながらも良く民衆を治め、国内は安楽で、深い至誠(しせい、この上なく誠実なこと)の心が見受けられる」。朝貢外交にありがちな高圧的な文言(もんごん)が見られな...
中国の皇帝が務まるほどですから、煬帝も決して愚かではありません。だとすれば、聖徳太子の作戦が理解できて、自分に対等外交を認める選択しか残されていないことが分かったからこそ、より以上に激怒したのかもしれませんね。さて、煬帝は遣隋使が送られた翌年の608年に、小野妹子に隋からの返礼の使者である裴世清(はいせいせい)をつけて帰国させましたが、ここで大きな事件が起こってしまいました。何と、小野妹子が隋からの...
そんな状況のなかで、無理をして我が国へ攻め込んでもし失敗すれば、国家の存亡にかかわるダメージを与えかねないことが煬帝をためらわせましたし、我が国が高句麗や百済と同盟を結んでいることが、煬帝には何よりも大きな足かせとなっていました。こうした外交関係のなかで隋が我が国を攻めようとすれば、同盟国である高句麗や百済が黙っていません。それどころか、逆に三国が連合して隋に反撃する可能性も十分に考えられますから...
我が国が隋に強気の外交姿勢を見せた一方で、かつて隋と激しく戦った高句麗は、自国が勝ったにもかかわらず、その後もひたすら低姿勢を貫き、屈辱的な言葉を並べて許してもらおうとする朝貢外交を展開し続けていました。隋に勝った高句麗でさえこの態度だというのに、敢えて対等な関係を求めるという、ひとつ間違えれば我が国に対して隋が攻め寄せる口実を与えかねない危険な国書を送りつけた聖徳太子には、果たして勝算があったの...
今から2200年以上前に大陸を史上初めて統一した秦(しん)の王であった政(せい)は、各地の王を支配する唯一の存在として「皇帝」という称号の使用を始め、自らは最初の皇帝ということで「始皇帝(しこうてい)」と名乗りました。これが慣例となって、後の大陸では支配者が変わるたびに自らを「皇帝」と称し、各地の有力者を「王」に任命するという形式が完成しました。そして、この構図はやがて大陸周辺の諸外国にも強制されるこ...
さて、煬帝をここまで怒らせた国書は、以下の内容で始まっていました。「日出(ひい)ずる処(ところ)の天子(てんし)、書を日没(ひぼっ)する処の天子に致す。恙無(つつがな)きや(=お元気ですか、という意味)」。果たしてこの国書のうち、どの部分が煬帝を怒らせたのでしょうか。国書を一見すれば「日出ずる」と「日没する」に問題があるような感じがしますね。「日の出の勢い」に対して「日が没するように滅びゆく」とは...
それにしても、薩摩藩による支配を受けてから沖縄県として我が国に編入されるまで、琉球王国は我が国と清国とのはざまで時の流れに翻弄(ほんろう)され続けました。琉球にとっては悲劇ともいえる歴史に同情する人々も多いようですが、その背景として「琉球=沖縄が抱える地政学上の宿命」があることをご存知でしょうか。沖縄や朝鮮半島、あるいは中国大陸が含まれている日本地図をお持ちの方がおられましたら、一度地図を逆さにひ...
清国の煮え切らない態度に激怒した政府は、明治7(1874)年に西郷従道(さいごうつぐみち)が率いる軍隊を台湾に出兵させました。これを「台湾出兵」または「征台(せいたい)の役(えき)」といいます。出兵後、事態の打開のために大久保利通が北京へ向かって清国と交渉を行うと、イギリスの調停を受けた末に、清国が我が国の行為を義挙と認めて賠償金を支払い、我が国が直ちに台湾から撤兵することで決着しました。台湾出兵によ...
廃藩置県の終了後にわざわざ琉球藩を置いたのは、表向きは独立した統治が認められる藩とすることによって、我が国の琉球への方策に対する清国からの抗議をかわそうとした政府の思惑がありましたが、そのような小手先の対応に清国が納得するはずがありません。清国は琉球が自らの属国であることを政府に主張し続けましたが、そんな折に日清両国間での琉球の処遇を決定づける事件が起きました。明治4(1871)年、琉球の八重山諸島(...
自らを宗主国として朝鮮を属国とみなし、独立国と認めようとしない清国の存在は、南下政策を進めるロシアとともに我が国にとって外交上の大きな問題でした。先述のとおり明治4(1871)年に我が国は日清修好条規を結んで清国と国交を開きましたが、間もなく琉球(りゅうきゅう)王国をめぐって紛争が起きてしまいました。琉球王国はそもそも独立国でしたが、江戸時代の初期までに薩摩藩の支配を受けた一方で、清国との間で朝貢(ち...
ところで一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対して欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や歴史的な意義を見出すことができません。確かに、日朝修好条規には朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別名を...
一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には外遊組の意図が理解できませんでした。まさに「百聞は一見に如(し)かず」であったとともに、活躍の場をなくしていた士族を朝鮮との戦争によって救済したいという思惑が彼らにはあったのです。征韓論は政府を二分する大論争となった末に、太政大臣(だじょうだいじん)代理となった岩倉によって先の閣議決定が覆(くつがえ)されました。自身の朝鮮派遣を否定された西郷は政府を辞...
このような朝鮮の排他的な態度に対して、明治政府の内部から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。こうして政府内で高まった「征韓論(せいかんろん)」ですが、その中心的な存在となったのが西郷隆盛でした。しかし西郷はいきなり朝鮮に派兵するよりも、まずは自分自身が朝鮮半島に出かけて直接交渉すべきであると考えていました。その意味では征韓論というよりも「遣韓論(けんかんろ...
政府は早速、当時の朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、ここで両国にとって不幸な行き違いが発生してしまいました。朝鮮国王は、我が国からの外交文書の受け取りを拒否しました。なぜなら、文書の中に「皇(こう)」や「勅(ちょく)」の文字が含まれていたからです。当時の朝鮮は清国(しんこく)の属国であり、中国の皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の字を我が国が使うことで「日本が朝鮮を清...
不平等条約の改正と肩を並べる重要な外交問題として、我が国が欧米列強からの侵略や植民地化をいかにして防ぐかということがありましたが、特に深刻だったのはロシアの南下政策でした。当時のロシアの主要な領土は北半球でも緯度の高いところが中心でしたが、極寒の時期になると港の周辺の海が凍ってしまうのが大きな悩みでした。このため、ロシアは冬でも凍らない不凍港を求め、徐々に南下して勢力を拡大しつつあったのですが、こ...
ようやく全権委任状を入手できた使節団でしたが、アメリカから新たな条約項目の提案を受けるなどの難題が多かったこともあり、条約改正の交渉は結局打ち切られてしまいました。その後の使節団は目的を欧米視察に切り替え、近代国家の政治や産業など多くの見聞を広め、欧米の発展した文化を政府首脳が直接目にしたことで、我が国が列強からの侵略を受けないためにも内政面における様々な改革が急務であることを痛感しました。そんな...
※今回より「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。明治政府にとって何よりも重要な外交問題は、旧幕府が欧米列強と結ばされた不平等条約を改正すること、すなわち「条約改正」を実現することでした。一方、西洋の進んだ文明や文化を学ぼうと思えば、留学生だけではなく、政府の首脳が直接海外に出かけて視察する必要があると考えました。そこで、明治4(1871)年旧暦11月に右大臣の岩倉具視(いわくらともみ...
※「平成時代」の更新は今回で中断します。明日(6月3日)からは「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。中国の強硬姿勢は、チベットやウイグルなどの少数民族にも容赦なく襲(おそ)い掛かりました。チベット人などによる抗議の意味を込めた焼身自殺が後を絶たないなど、中国による民族抑圧は、世界中からの非難を浴びて大きな国際問題となっています。これに対し、1989(平成元)年にはチベットのダライ・ラ...
聖徳太子(しょうとくたいし)以来、我が国の国是(こくぜ)であった中国との「対等外交」を闇(やみ)に葬(ほうむ)り去ってしまった宮澤喜一首相の行為は、まさに「国賊的」といえるでしょう。かつて宮澤氏が官房長官の時代に起きた「教科書誤報事件」をきっかけとして「近隣諸国条項」を勝手に創設し、我が国の歴史(あるいは公民)教科書の検閲権を中国や韓国に売り渡した宮澤首相は、天皇陛下まで中国に売り渡したのです。し...
また、現在の皇后陛下のご尊父でもある小和田恒(おわだひさし)外務事務次官(当時)も、平成4(1992)年3月にアマコスト駐日米大使(当時)に対して「過去の清算は現天皇の訪中によって初めて可能になる」との認識を示しています。さて、天皇陛下のご訪問に「感激」した当時の中国は「今後は歴史問題について言及しない」と我が国に対して確かに表明しましたが、そもそも日本を「家来」扱いした中国がそんな口約束を守るはずがあ...
天安門事件による世界からの孤立に悩んでいた中国は、日本の天皇を自国へ招いて友好的な姿勢を演出することで国際世論を軟化させようと目論(もくろ)みましたが、これは我が国にとっては到底(とうてい)受けいれられないことでした。なぜなら、東アジアにおいて、周辺の国が中国を訪問することが「朝貢(ちょうこう)」とみなされていたからです。ということは、もし天皇陛下が中国の都を訪問されれば、それは我が国が「中国の傘...
ソ連や東欧の共産主義国家が民主化に向かって進み始めた世界の流れは、同じ共産主義国家である中国の国民にも大きな刺激となり、1989(平成元)年4月の胡耀邦(こようほう)元共産党書記長の死去をきっかけとして、学生や市民が民主化を求めて北京の天安門広場でデモを展開するようになりました。しかし、中国は同年5月20日に北京に戒厳令(かいげんれい)を発すると、6月4日には人民解放軍が学生や市民に対して無差別に発砲するな...
大東亜戦争以前より我が国にとって最大の脅威となっていたソ連が消滅したことで、我が国の保守系の識者の多くは「これで我が国の思想や言論の流れが変わるだろう」と安堵(あんど)しました。しかし、そんな保守系の「油断」の隙を突くかたちで、左翼系の「進歩的文化人」と呼ばれた人々が自らの思想を満足させるために、ソ連解体以前から続けていた「日本の歴史から中国や韓国の好みそうな問題を取り上げ、両国に『御注進』する」...
しかし、ロシア共和国大統領であったエリツィンの呼びかけもあってクーデターが失敗に終わり、それをきっかけにソ連共産党が事実上解体されると、ソ連そのものの弱体化が一気に加速しました。そして、同年12月までに「ソビエト社会主義共和国連邦」を構成していた共和国のすべてが独立を宣言したことでソ連は解体し、新たにロシア共和国などからなる独立国家共同体(=CIS)が誕生したのです。ソ連解体後の新生ロシアでは1917(大...
国家財政の立て直しを図ったゴルバチョフ大統領はペレストロイカなどの改革を次々と行ったものの、経済の停滞は依然として続き、1990(平成2)年に入るとソ連都市部の食糧不足が深刻化するようになり、ゴルバチョフは西側諸国を訪問して経済援助を懇願(こんがん)しました。また、第二次世界大戦中にソ連に併合されたエストニア・ラトビア・リトアニアのいわゆる「バルト三国」がそれぞれ独立を主張するようになり、ソ連は軍事介...
大東亜戦争で我が国は敗北しましたが、欧米列強の植民地であった東南アジアの国々は戦後に次々と独立を果たし、日本を目標に新たな国家の運営を行いましたが、経済大国となった我が国がアジア全体にその技術力を伝授したことによって、マレーシアやインドネシアなども次々とハイテク製品をつくり、東欧諸国に輸出するようになりました。黄色人種どころか、自分たちが人間扱いしてこなかった旧植民地の被支配者層がつくった製品です...