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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
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2012/08/07

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  • 明治期の演劇・音楽と文化事業の推進 その1

    明治の世になって、演劇の世界にも新しい波が押し寄せてきました。江戸時代以来変わらぬ人気を集めてきた歌舞伎(かぶき)では、幕末の頃から第一線で活躍してきた河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)が、文明開化における風俗を題材として取り入れた新作を発表しました。また、明治の中期頃までには九代目市川団十郎(いちかわだんじゅうろう)や五代目尾上菊五郎(おのえきくごろう)、初代市川左団次(いちかわさだんじ)らの名優が...

  • 近代の文学と美術 その6

    一方、西洋画は工部美術学校の閉鎖もあって一時的に衰退を余儀なくされましたが、やがて「収穫」を描いた浅井忠(あさいちゅう)や「鮭(さけ)」を描いた高橋由一(たかはしゆいち)らによって、明治22(1889)年に我が国最初の西洋画の団体である明治美術会が設立されました。その後、明治29(1896)年に東京美術学校に洋画科が新設されたほか、同年にはフランス印象派の画風を学んだ「読書」や「湖畔(こはん)」で有名な黒田清...

  • 近代の文学と美術 その5

    殖産興業(しょくさんこうぎょう)の観点から西洋美術教育の必要性を考えた政府は、明治9(1876)年に工部(こうぶ)美術学校を開設しましたが、その後に起きた美術界における伝統回帰の風潮もあって、明治16(1883)年に廃止されました。一方、哲学のアメリカ人教師として来日した「お雇い外国人」のフェノロサは、我が国の伝統芸術を高く評価してその保存を訴え、助手の岡倉天心(おかくらてんしん)とともに、明治20(1887)年...

  • 近代の文学と美術 その4

    日露戦争の頃になると、ロシアやフランスの自然主義文学の影響を我が国も受けて、人間社会の現実をありのままに描写する風潮が主流となりました。当時の自然主義の作家としては、「牛肉と馬鈴薯(ばれいしょ)」の国木田独歩(くにきだどっぽ)、「蒲団(ふとん)」の田山花袋(たやまかたい)、「破戒(はかい)」の島崎藤村、「黴(かび)」の徳田秋声(とくだしゅうせい)などが挙げられます。また、明星派の影響を受けていた石...

  • 近代の文学と美術 その3

    日清戦争の前後には、感情や個性を尊(たっと)ぶロマン主義文学が次々と発表されました。例えば、森鴎外(もりおうがい)は「舞姫(まいひめ)」を発表したり、アンデルセンの「即興詩人(そっきょうしじん)」を翻訳したりしました。また、北村透谷(きたむらとうこく)が雑誌「文学界」を創刊したほか、令和6(2024)年まで我が国の五千円札の肖像画に採用された女流作家の樋口一葉(ひぐちいちよう)が「たけくらべ」や「にご...

  • 近代の文学と美術 その2

    明治18(1885)年に結成された硯友社(けんゆうしゃ)は「我楽多文庫(がらくたぶんこ)」を発刊し、坪内逍遥の写実主義を目指しながらも、文芸小説の大衆化を進めました。硯友社を結成した作家とその作品では、尾崎紅葉(おざきこうよう)の「金色夜叉(こんじきやしゃ)」や山田美妙(やまだびみょう)の「夏木立(なつこだち)」などが有名です。その後、尾崎紅葉の弟子である泉鏡花(いずみきょうか)が「高野聖(こうやひじり...

  • 近代の文学と美術 その1

    明治初期の文学は、江戸時代以来の戯作(げさく)文学の流れをくむ仮名垣魯文(かながきろぶん)の「西洋道中膝栗毛(せいようどうちゅうひざくりげ)」「安愚楽鍋(あぐらなべ)」や、自由民権運動を題材とした矢野龍渓(やのりゅうけい)の「経国美談(けいこくびだん)」などの政治小説が中心でした。これらに対し、坪内逍遥(つぼうちしょうよう)が明治18(1885)年に「小説神髄(しょうせつしんずい)」を発表して、それまで...

  • 学問の発達 その3

    化学では、高峰譲吉(たかみねじょうきち)がアドレナリンや消化薬として有名なタカジアスターゼの創製に成功し、鈴木梅太郎(すずきうめたろう)がオリザニン(=ビタミンB1)の創製を行いました。また、下瀬正允(しもせまさちか)が研究した「下瀬火薬」が日露(にちろ)戦争の日本海海戦で使用され、ロシアのバルチック艦隊に壊滅的(かいめつてき)な打撃を与えました。これら以外の自然科学としては、地震学では大森房吉(お...

  • 学問の発達 その2

    史学においては田口卯吉(たぐちうきち)が「日本開化小史(にほんかいかしょうし)」を著して、斬新な文明史論を展開しました。また、重野安繹(しげのやすつぐ)が東京帝国大学に国史学科を設置し、同大学の史料編纂掛(しりょうへんさんがかり)で「大日本史料(だいにほんしりょう)」や「大日本古文書(だいにほんこもんじょ)」といった基礎資料の体系的な編纂(へんさん)が進められました。その他、西洋の近代史学の影響を...

  • 学問の発達 その1

    明治の初期に欧米から招かれた「お雇(やと)い外国人」を中心とした多くの外国人教師は我が国の近代的な学問研究の発達に大きな功績を残しましたが、彼らの指導を受けた日本人学者自身の手によって、後に優れた独自の研究が生み出されるようになりました。経済学においては、まずイギリス流の自由貿易を主体とした自由放任の経済政策を盛り込んだ経済学が導入され、その後はドイツ流の保護貿易や社会政策の学説が主流となりました...

  • 教育制度の整備と教育勅語 その7

    教育に関する勅語(現代語訳)私(=天皇)が思うには、我が皇室の祖先の方々が国を始められたのは遥(はる)かに遠い昔のことであり、代々築かれてきた徳は深く厚いものがありました。我が国民が忠孝の道をもって万民が心を一つにし、今日に至るまで立派に歩んできたことは、我が国の優れた誉(ほま)れであるとともに、教育の根本もまたそこにあります。貴方たち国民は父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は仲良く協力し合い、友達...

  • 教育制度の整備と教育勅語 その6

    教育勅語の全文と現代語訳は以下のとおりです。教育ニ関スル勅語(教育勅語)朕(ちん)惟(おも)フニ我ガ皇祖皇宗(こうそこうそう、天照大神と歴代の天皇のこと)國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ徳ヲ樹(た)ツルコト深厚(しんこう)ナリ。我ガ臣民(しんみん)克(よ)ク忠ニ克(よ)ク孝ニ億兆(おくちょう)心ヲ一(いつ)ニシテ世々(よよ)厥(そ)ノ美ヲ済(な)セルハ此(こ)レ我ガ国体(こくたい)ノ精華(...

  • 教育制度の整備と教育勅語 その5

    ただし、排除・失効決議がなされたからといって、教育勅語そのものが「廃止」されたわけではありません。そもそも天皇陛下のお言葉である「勅語」を廃止できるのは陛下ご自身のみであり、それを国民の立場で勝手に廃止する行為は「不敬」以外の何物でもないからです。平成29(2017)年3月14日に、松野博一(まつのひろかず)文部科学大臣(当時)が記者会見において「憲法や教育基本法に反しないような配慮があって、教材として教...

  • 教育制度の整備と教育勅語 その4

    教育勅語は当時の国民世論から大いに歓迎され、小学校修身科の教科書に掲載されたほか、学校行事において校長先生が奉読(ほうどく、つつしんで読むこと)するなど、多くの児童や生徒の日常の中にごく当たり前のものとして存在したのみならず、英・独・仏・中の各国語に翻訳され、海外にも広く紹介されました。ところで、昭和に入ってから勅語の文章中の「天壤無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運(こううん)」や「億兆(おくちょう...

  • 教育制度の整備と教育勅語 その3

    明治22(1889)年2月11日に大日本帝国憲法(=明治憲法)が公布されたことで、我が国は憲法を有する近代国家となりましたが、大日本帝国憲法はそもそも法律であったがゆえに、道徳に関する規定がありませんでした。また、当時の教育界も道徳教育の基礎を何に置くかという根本的な問題について一致した見解を持っていなかったため、我が国伝統の倫理や道徳に関する教育が軽視される傾向にありました。この事態を重く受け止められた...

  • 教育制度の整備と教育勅語 その2

    学校令が整備された後の明治20年代から30年代にかけて義務教育の就学率が急上昇し、明治35(1902)年には90%を超えましたが、これは学校令の制度が我が国の風土に合っただけではなく、近代産業の発達やそれに伴う経済の発展によって国民生活が向上し、児童が教育を受けやすい体制が整ったことも意味していました。また、教育費を国庫で補助したり、明治33(1900)年に義務教育期間の授業料を廃止したりするなどの政策にも大きな効...

  • 教育制度の整備と教育勅語 その1

    明治5(1872)年に学制(がくせい)が発されたことで義務教育の就学率が次第に上昇しましたが、実学(じつがく、理論より実用性・技術を重んずる学問のこと)中心で我が国の伝統や道徳が軽視された内容であったことや、授業料が高額なこと、あるいは地方の実情を無視した画一的(かくいつてき)な統制に対する反発がありました。このため、政府は明治12(1879)年に新たに教育令を公布して学制を廃止しました。教育令はアメリカ風...

  • 思想界・宗教界の動向 その3

    宗教界では、伝統的な神道(しんとう)や仏教あるいは西洋から流入したキリスト教との対立や競合がみられました。神道界では明治初年の神仏合同による国教化がうまくいかなかった一方で、政府の公認を受けた民間の教派神道が庶民を中心に広がりを見せました。仏教界では、明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐による大きな打撃から次第に立ち直りつつありました。浄土真宗の僧侶(そうりょ)であった島地黙雷(しまじもくら...

  • 思想界・宗教界の動向 その2

    一方、三宅雪嶺(みやけせつれい)・志賀重昂(しがしげたか)・杉浦重剛(すぎうらじゅうごう)らは政教社をつくって雑誌「日本人」を創刊し、西洋かぶれの風潮を批判するとともに、我が国本来の優れた思想や文化を保存あるいは発展させながら新しい文化を創造すべきであるとする国粋(こくすい)保存主義を唱えました。また、陸羯南(くがかつなん)は新聞「日本」を発行し、政府による安易な欧化主義や外国人判事の任用など、欧...

  • 思想界・宗教界の動向 その1

    我が国の独立を守り、欧米列強から侵略されないようにという目的から、我が国は明治初年から西洋文明を急速に受けいれました。こうした流れは庶民(しょみん)の生活にまで及び、いわゆる文明開化が花開いたほか、条約改正のために鹿鳴館(ろくめいかん)を建設して連日のように舞踏会を開くなどの欧化主義にも走るようにもなりました。しかし、こういった古来の我が国の伝統を軽視する風潮は明治20(1887)年前後になると治まり、...

  • 社会運動の発生・後編 その5

    自らの思想の達成のためには「天皇暗殺」すら何のためらいもなく実行しようという考えから起きた大逆事件は当時の我が国や政府に激しい衝撃を与えましたが、そもそも社会主義運動がこれだけ大きな騒ぎを引き起こした背景には、過酷な労働条件に苦しむ当時の賃金労働者たちの「声なき声」がありました。そう判断した政府は、大逆事件の判決が出た年と同じ明治44(1911)年に工場法を制定し、12歳未満の雇用の禁止や最長労働時間を12...

  • 社会運動の発生・後編 その4

    当時の刑法第73条に基づく大逆罪で起訴された幸徳ら26人に対して、裁判所は明治44(1911)年に全員に対して有罪判決を下し、幸徳を含む12人が処刑されました。ところで大逆事件の真相に関しては、幸徳がどこまで天皇暗殺にかかわっていたのかなど不明な点も多く、政府による捏造(ねつぞう)ではないかという見方もあるようです。ただ、当時の政府(第二次桂内閣)からしてみれば、前任者(第一次西園寺内閣)が社会主義に寛容だっ...

  • 社会運動の発生・後編 その3

    赤旗事件が起きた際、幸徳秋水は郷里の高知にいて難を逃れましたが、事件発生後に上京して勢力の立て直しをはかったことで、無政府主義者の秘密行動が活発化しました。しかし、無政府主義者の運動は思ったよりも伸び悩みました。産業革命によって我が国にも労働者階級と資産階級との貧富の差が生じつつありましたが、そもそも我が国には「天皇陛下の前では全員が平等である」、すなわち「八紘一宇(はっこういちう)」という国民の...

  • 社会運動の発生・後編 その2

    当初は労働運動の擁護が中心だった社会主義運動は、日露戦争を経て次第に政治運動へと傾いていきました。明治39(1906)年に日本社会党が結成されると、社会主義運動に寛容だった当時の第一次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣がこれを許可しました。しかし、間もなく日本社会党内部で対立が生じました。片山潜らが議会を通じて社会主義政策を達成すべきとする議会政策派だったのに対して、懲役後の渡米の際に無政府主義の影響...

  • 社会運動の発生・後編 その1

    さて、我が国で労働運動が展開しつつあった明治31(1898)年、安倍磯雄(あべいそお)や片山潜、幸徳秋水(こうとくしゅうすい)らが社会主義研究会を立ち上げ、次いで明治34(1901)年には木下尚江(きのしたなおえ)らを加えて我が国初の社会主義政党である社会民主党を結成しましたが、治安警察法によって直ちに解散を命じられました。その後、日露の対立が深まり戦争の可能性が高まると、黒岩涙香(くろいわるいこう)が発行し...

  • 社会運動の発生・前編 その5

    19世紀の欧米では工業化の進展に伴って労働問題が深刻化しましたが、そんな中で、資本主義社会を抜本的に改革しようとする社会主義の思想が広まりました。特に、マルクスによる「貧富の差を憎むとともに、私有財産制をやめて資本を人民で共有する」という共産主義の考えは、当時プロレタリアートと呼ばれた賃金労働者の人々から熱烈な支持を受けました。そもそもヨーロッパでは、長い歴史の中で王族や貴族あるいは騎士や商人などほ...

  • 社会運動の発生・前編 その4

    労働者は企業を支える貴重な労働力の対価として報酬を得ますが、その待遇に関しては使用者との間で様々な問題が発生するのが常(つね)でもあります。それは日清戦争の頃に本格化した我が国の産業革命の時期においても例外ではなく、待遇改善や賃上げを求めてストライキが行われるようになりました。そんな中、アメリカの労働運動を学んだ高野房太郎(たかのふさたろう)や片山潜(かたやません)らが帰国後の明治30(1897)年に労...

  • 社会運動の発生・前編 その3

    足尾鉱毒事件は当時の大きな社会問題となり、地元の衆議院議員の田中正造(たなかしょうぞう)が帝国議会で取り上げたことで政治問題に発展しました。議会において田中は毎回のように政府に鉱毒事件への善処と被害者の救済を主張し続けました。しかし、政府は対策に苦慮(くりょ)することになりました。田中の主張どおりに銅山での採掘を停止すれば、貴重な輸出品が失われるだけでなく、国内の生産力も低下し、全国の商工業におけ...

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