ところで、聖徳太子は若い頃から仏教を深く信仰していましたが、仏教を積極的に受けいれようとする崇仏派(すうぶつは)の蘇我馬子(そがのうまこ)と、禁止しようとする廃仏派(はいぶつは)の物部守屋(もののべのもりや)との間で、先述のとおり587年に大きな争いが起きてしまいました。聖徳太子(当時は厩戸皇子=うまやどのみこ)はこのときまだ14歳の少年ながら戦闘に参加しましたが、戦いは蘇我氏にとって不利な状況が続き...
大航海時代以来、ヨーロッパの白色人種(=白人)による世界征服と植民地化は、帝国主義(=政治や経済、軍事などの面で他国の犠牲において自国の利益や領土を拡大しようとする思想や政策のこと)という歴史の大きな流れを招きましたが、その勢いはヨーロッパ各国に微妙な温度差をもたらしていました。イスパニア(=スペイン)やポルトガルによって始まった大航海時代は、やがてイギリスやオランダあるいはフランスによる海外進出...
大正3(1914)年1月、外国製の軍艦や兵器の輸入をめぐって、ドイツの有力メーカーであったシーメンスが我が国の海軍高官に多額の賄賂(わいろ)を贈ったことが新聞各紙によって発覚し、これを好機と見た野党の立憲同志会が国会で第一次山本内閣を厳しく非難しました。なお、立憲同志会は桂太郎が第三次内閣の頃に組織した新党が母体となっています。その後も数々の不正が発覚して大きな汚職事件に進展したことで、海軍大将でもあっ...
大正政変によって第三次桂内閣が崩壊したのは間違いないですが、その後に組閣された第一次山本内閣の首相である山本権兵衛は薩摩出身のいわゆる「藩閥(はんばつ)の雄」ですから、政党内閣が誕生したとは言えません。それなのに、第一次山本内閣の誕生後にはスローガンであった「閥族政治打破・憲政擁護」の声がほとんど聞かれなくなり、第一次護憲運動の熱が一気に冷めてしまったのです。その理由は、上記のスローガンを一番熱心...
第一次護憲運動の拡大を恐れた第三次桂内閣は国会を一時停会とし、自らが党首となった新党を立ち上げて対抗しようとしましたが、大正2(1913)年2月に立憲政友会と立憲国民党が合同で内閣不信任案を提出すると、立憲政友会の尾崎行雄が桂を激しく非難する演説を行いました。追いつめられた桂は再び議会を停会したほか、大正天皇の詔勅によって事態を打開しようとしましたが、そんな桂の態度に激怒した国民の一部が暴徒と化し、東京...
第二次西園寺内閣が総辞職した後、元老(げんろう)の推薦によって桂太郎(かつらたろう)が三回目の内閣を組織することになりましたが、当時の桂は内大臣兼侍従長(じじゅうちょう、天皇・皇后の側近として仕える侍従の長官)になったばかりであり、明治18(1885)年に内閣制度が成立した際に宮内省(くないしょう)が内閣の外に置かれたことによる「宮中(きゅうちゅう)府中の別(=宮廷と行政府との区別)」を乱すものでした。...
※今回より「第107回歴史講座」の内容を更新します(4月25日までの予定)。明治時代最後の内閣となった第二次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣でしたが、当時の我が国は日露戦争がもたらした財政赤字によって緊縮財政を余儀(よぎ)なくされていた一方で、明治43(1910)年に大韓帝国(だいかんていこく)を併合したことで、朝鮮半島の安全保障を本国並みの基準に引き上げる必要がありました。このため、陸軍は大正元(1912)...
※「古墳時代」の更新は今回で中断します。明日(3月26日)からは「第107回歴史講座」の内容を更新します(4月25日までの予定)。既(すで)に存在する大量の土砂を利用すれば、古墳も比較的早く完成しますし、また仁徳天皇のように善政を敷(し)かれた人物の陵(みささぎ)だからこそ、多くの国民が「進んで」天皇陵の建設に力を尽くしたのではないでしょうか。ちなみに、仁徳天皇陵の周囲に堀をめぐらせているのは、陵墓が大規模...
仁徳天皇陵については、ある建設会社が「完成までに15年6か月の年数と延べ800万人の労力を要する」と試算しました。それだけ巨大な天皇陵であることを証明する数字ではありますが、当時の日本列島の人口は約400~500万人と推定されていますから、天皇陵の完成までに多くの人々が果てしない労役に駆り出されたともいえそうです。このことから、仁徳天皇は「自分の天皇陵の建設に際して国民を強制的に労働させた人物」と否定的にとら...
このこと以来、仁徳天皇は「聖帝(ひじりのみかど)」と称され、やがて天皇が崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)されると、和泉国の百舌鳥野(もずの)の陵(みささぎ)をつくって葬り奉(たてまつ)ったと「日本書紀(にほんしょき)」に記載があります。ところで、仁徳天皇の善政は「民のかまど」のエピソードだけではないことを皆さんはご存知でしょうか。実は、以下のような輝かしい業績を...
民のかまどがにぎわっているのを満足げに見つめられた仁徳天皇は、傍(かたわ)らにおられた皇后陛下(こうごうへいか)に以下のように仰られました。「朕(ちん)は既(すで)に富んだ。喜ばしいことだ」。天皇のお言葉に対し、皇后陛下は怪訝(けげん)そうに仰られました。「宮殿のあちこちが崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだと言えるのですか」。皇后陛下のお言葉に対して、仁徳天皇は微笑(ほほえ)みながら仰られ...
さて、皆さんは世界最大級の古墳(こふん)に葬(ほうむ)られておられるとされる「仁徳(にんとく)天皇」についてどのような印象をお持ちでしょうか。古代の天皇には、高いところにのぼって国を見渡し、その様子を褒(ほ)め称(たた)えることによって、天皇のお言葉で国を良くするという「国見(くにみ)」の風習がありました。ある日のこと、仁徳天皇は難波高津宮(なにわのたかつのみや)から人家(じんか)を眺(なが)めら...
古墳の分布は大和朝廷(やまとちょうてい)の勢力拡大とともに広がりを見せていきました。4世紀後半頃には九州南部から東北南部まで及ぶようになり、5世紀に入るとその数も増えていきました。古墳時代も中期に入った5世紀前半には、大阪府羽曳野市(おおさかふはびきのし)にある応神天皇陵(おうじんてんのうりょう)や、大阪府堺市堺区にある仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)などの巨大な前方後円墳がつくられました。なお...
前期の副葬品には、鉄製の武器や農工具などのほかに、縁(ふち)の断面が三角形をなして神や獣(けもの)をデザインした三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)などの多数の銅鏡(どうきょう)や、碧玉製(へきぎょくせい)の腕輪(うでわ)類といった呪術的(じゅじゅつてき)な性格をもつものが多く見られます。このことから、当時の古墳の被葬者(ひそうしゃ)は宗教的な力で政治を行っていたと考えられています。3世紀...
弥生(やよい)時代の後期から、既(すで)に大きな墳丘(ふんきゅう)を持つ墓が各地でつくられていましたが、3世紀後半になると、畿内(きない)から瀬戸内海沿岸にかけて、丘陵(きゅうりょう)や山地など自然の形を利用した古墳(こふん)が現れました。なお、古墳が盛んにつくられた3世紀後半から7世紀頃にかけて特に古墳時代と呼び、古墳の分布・様式・副葬品(ふくそうひん)などから前期(3世紀後半~4世紀中頃)・中期(4...
その後、我が国が独立を回復する以前から「紀元節の復活」を望む声が国民のあいだで高まってきましたが、米ソの冷戦や安保闘争などの保革激突によって実現できませんでした。終戦から20年以上が経った昭和41(1966)年、当時の佐藤栄作(さとうえいさく)内閣によって「建国記念日を祝日として設ける」と規定した祝日法の改正案が可決されると、学識経験者などからなる審議会を設置し、半年にわたる論議の後に「建国記念の日を2月1...
【ハイブリッド方式】第107回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和7年3月)
「黒田裕樹の歴史講座」は対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。準備の都合上、オンライン式の講座のお申し込みは事前にお願いします。対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です。メインの主催者である「国防を考える会」のQRコードはこちらです。(クリックで拡大されます)(クリックで拡大されます)第107回黒田裕樹の歴史講座...
このようにして大和を平定された神武天皇は、橿原(かしはら)の地に宮殿を築かれ、初代天皇として即位されました。なお、現在の橿原神宮はこの伝承に基づいて明治時代に創建されたものです。また、ご即位の日は十干十二支(じっかんじゅうにし)で辛酉(しんゆう、別名を「かのととり」)の年の1月1日と伝えられており、日本書紀では、先述のとおり神武天皇のご即位の年を紀元前660年に定めています。現在、神武天皇が即位されて...
天皇は苦戦の末、紀伊(きい、現在の和歌山県)から海路で熊野(くまの、現在の三重県)に上陸されましたが、険しい山道のなかでいつしか道に迷われそうになりました。そんな神武天皇の軍勢の前に、いきなり巨大なカラスが現れました。それは三本足をもつ八咫烏(やたがらす)でした。八咫烏は天照大神の使いとして、天皇を大和まで先導して道案内の役割を果たしたのです。八咫烏は日本サッカー協会のシンボルマークとして用いられ...
では、日本書紀や古事記による神武天皇の東征はどのように書かれているのでしょうか。現代の天皇陛下は数えて第126代目となられますが、日本書紀あるいは古事記には、始祖(しそ)とされる神武天皇がご即位されるまでの様々な出来事が生き生きと描かれています。太陽を神格化した神であり、皇室の祖神たる天照大神(あまてらすおおみかみ)の直系の子孫であられる神武天皇(別名:神日本磐余彦尊=かんやまといわれひこのみこと)...
「方(まつ)に難波(なにわ)の碕(みさき)に到(いた)るときに、奔潮(はやなみ)有りて太(はなは)だ急(はや)きに会ふ」。現代語訳すれば「難波の碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変早く着いた」となりますが、この一文は、神武天皇の一行が河内潟の狭い開口部から流入する潮流に乗って一気に潟内部に進入し、難波の碕に着いたことを物語っています。こうした記述は、河内潟の時代でしか考えられません。なぜなら...
河内潟の頃は、現在の大阪城から南に延びる上町台地の北端が潟口(かたぐち)であり、引き潮の際には潟の水が開口部から勢いよく大阪湾に流れ出す一方で、満潮の際には開口部を通って海水が潟内部へ逆流していたと考えられます。実は、その様子が、8世紀に編纂(へんさん)された「日本書紀」にも書かれているのです。「因(よ)りて名(なづ)けて浪速国(なみはやくに)と為(い)ふ。亦(また)浪花(なにわ)と曰(い)ふ。今...
神武天皇のご存在を証明する手掛かりは、実はもう一つあります。それは戦後の様々な発掘調査がもたらしたものであり、神武天皇が遺(のこ)された足跡が「地質学的に確実に証明されている」ことを皆様はご存知でしょうか。その根拠の一つは「大阪」にあります。大阪湾の遠浅(とおあさ)の海岸沿いから広大な大阪平野が生駒山地まで続いている現在の大阪ですが、今から約20000年前には河内湾(かわちわん)と呼ばれる海が生駒山の...
5世紀の中国の南朝である宋(そう)の歴史家であった裴松之(はいしょうし)が「三国志(さんごくし)」に注釈を加えた際に、以下のような文章を書き残しています。「倭人(わじん)は歳(とし)の数え方を知らない。ただ春の耕作と秋の収穫をもって年紀としている」。当時の倭人、すなわち日本人は春分と秋分をそれぞれ一つの年紀として、つまり通常の一年を倍の二年として計算していたというのです。これを「春秋年(しゅんじゅ...
我が国では長いあいだ、神話が絶えず意識されてきました。しかし、GHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)による占領下で、日本を罪深い国に仕立て上げた「WGIP(=ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム、日本人に戦争犯罪者意識を刷り込む計画)」の呪縛(じゅばく)が、戦後から約80年を経た今もなお日本国と日本民族を洗脳し続けています。WGIPによる影響は我が国の歴史教科書にも確実に表れており、我が国初代の神武...
※今回より「古墳時代」の更新を開始します(3月25日までの予定)。3世紀後半頃の我が国では国家の統一が進み、大和(やまと、現在の奈良県)の豪族を中心とする強大な連合政権が誕生しました。これを大和朝廷(やまとちょうてい)と呼び、現代の皇室のルーツでもあります。大和朝廷が誕生したとされる当時は、大和地方を中心に巨大な古墳(こふん)が現れており、また各地の古墳も大和地方と同じ前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん...
※「第106回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(3月8日)からは「古墳時代」の更新を開始します(3月25日までの予定)。明治天皇の崩御から2年後の大正3(1914)年、皇后の昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)が崩御されました。両陛下はともに京都の桃山御陵にご埋葬されましたが、国民の間から東京で明治天皇並びに昭憲皇太后のご神霊(しんれい)をお祀(まつ)りしたいという熱い願いが自然と沸き上がりま...
明治天皇のご存在は、単なる国家元首としてのみならず、我が国が幕府による武家政権の封建体制から欧米列強に肩を並べる近代国家にまで短期間で一気に成長を遂(と)げた、いわば国家の興隆と繁栄の象徴でもあられたことから、明治天皇の崩御は「明治」という一つの時代の終焉(しゅうえん)を国民に強く印象づけることとなりました。例えば、夏目漱石は大正3(1914)年に発表した小説「こゝろ」の中で「其時(そのとき)私は明治...
明治45(1912)年7月、明治天皇は東京帝国大学の卒業式に行幸(ぎょうこう、天皇が外出されること)された頃からご体調が急に悪化され、同月18日夜に発熱された後に昏睡(こんすい)状態となられました。翌々日の7月20日には陛下のご不例(ふれい、この場合は天皇のご病気のこと)が国民に公表され、日本国内は憂色(ゆうしょく)に包まれました。多くの国民が陛下のご平癒(へいゆ)を願って続々と皇居に集まったほか、全国の神社...
この他にも、水戸の偕楽園(かいらくえん)、金沢の兼六園(けんろくえん)などが公園化されましたが、これらは従来の和風の庭園を活用したものであり、一から新しく西洋風の公園がつくられたのは、明治36(1903)年に開かれた日比谷(ひびや)公園が初めてでした。自然科学(特に医学)の発達によって、明治期には我が国でも近代的な病院がつくられるようになり、明治25(1892)年には北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)によって...
近代化を推進するためには、文化事業を興(おこ)して国民を啓蒙(けいもう、人々に新しい知識を与えて教え導くこと)することが不可欠だと考えた政府は図書館や博物館の建設を始め、旧幕府の紅葉山文庫(もみじやまぶんこ)や昌平黌(しょうへいこう)などの図書を集めたうえ、明治5(1872)年に湯島(ゆしま)の昌平黌講堂跡に書籍館(しょじゃくかん)を開きました。我が国初の官立公共図書館となった書籍館は、明治30(1897)...
西洋音楽は、幕末にまず軍楽として取り入れられた後、明治に入ってから文部省(現在の文部科学省)に音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)が設置され、日本音楽と西洋音楽との融合を目指して、音楽教育の立案や音楽教員の養成あるいは学校唱歌集の刊行がなされました。その後、明治20(1887)年に伊沢修二(いざわしゅうじ)を校長として東京音楽学校が設立され、本格的な音楽教育が始まりました。なお、東京音楽学校は現在の東...
自由民権運動の思想を芝居によって広めようと始められた壮士(そうし)芝居は、日清戦争の頃から新派劇(しんぱげき)と呼ばれるようになりました。新派劇では、川上音二郎(かわかみおとじろう)によるオッペケペー節が大流行したほか、新聞小説や流行小説から題材をとるようになり、ますます発展しました。日露戦争後には坪内逍遥らが文芸協会を設立したり、あるいは小山内薫(おさないかおる)や二代目市川左団次らが自由劇場を...
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ところで、聖徳太子は若い頃から仏教を深く信仰していましたが、仏教を積極的に受けいれようとする崇仏派(すうぶつは)の蘇我馬子(そがのうまこ)と、禁止しようとする廃仏派(はいぶつは)の物部守屋(もののべのもりや)との間で、先述のとおり587年に大きな争いが起きてしまいました。聖徳太子(当時は厩戸皇子=うまやどのみこ)はこのときまだ14歳の少年ながら戦闘に参加しましたが、戦いは蘇我氏にとって不利な状況が続き...
さて、聖徳太子(しょうとくたいし)が内政や外交に大活躍していた頃の我が国では、仏教が朝廷の篤(あつ)い保護を受けて急速に発展した時代でもありました。この時代の文化を「飛鳥(あすか)文化」といいます。飛鳥文化は仏教文化を中心として、中国の南北朝時代の文化と我が国の古墳時代の文化が融合し、当時の西アジアやエジプトあるいはギリシャにもつながる特徴をもっていました。聖徳太子は、自ら高句麗(こうくり)の高僧...
今回の改定により、小中学校の教科書において、少なくとも10年は「聖徳太子」の記載が守られることになりました。このこと自体は大きな前進といえるかもしれませんが、実は、高校の歴史教育において使用される有名な教科書において、既(すで)に「厩戸王」という表現が使用されているのです。私が歴史教育の世界に身を投じて、これまでに積み重ねてきた講演を振り返ってつくづく思うのは、いわゆる「プロパガンダ」は近現代史だけ...
今回の学習指導要領の改訂案に関して、文科省は国民の意見を「パブリックコメント(意見公募)」として平成29(2017)年3月15日まで募集しましたが、その結果として改定案の見直しが行われて「聖徳太子」の名称が「復活」することになりました。学校現場に混乱を招く恐れがあるなどとして、文科省が現行の表記に戻す方向で最終調整していることが明らかになったのです。文科省が改定案公表後にパブリックコメントを実施したところ...
藤岡氏が指摘した「聖徳太子抹殺計画」に続くかたちで、平成29(2017)年2月27日には、産経新聞が「主張」において、今回の改定案に疑問を呈(てい)しました。「主張」では「国民が共有する豊かな知識の継承を妨(さまた)げ、歴史への興味を削(そ)ぐことにならないだろうか。強く再考を求めたい」と最初に指摘したほか、今回の改定の理由である「聖徳太子は死後につけられた呼称で、近年の歴史学で厩戸王の表記が一般的である...
文科省が次期学習指導要領を発表して以来、一部の歴史学の関係者やマスコミからは、これは「聖徳太子抹殺計画」ではないか、という厳しい批判が見られるようになりました。拓殖大学客員教授を務めた藤岡信勝(ふじおかのぶかつ)氏は、平成29(2017)年2月23日付の産経新聞の「正論」欄において、今回の学習指導要領の改訂案における聖徳太子の表記について「国民として決して看過できない問題」であると指摘したほか「日本史上重...
平成29(2017)年2月14日、文部科学省は小中学校の次期学習指導要領の改定案を公表しました。なお学習指導要領とは、学校教育法などに基づき児童生徒に教えなくてはならない最低限の学習内容などを示した教育課程の基準であり、約10年ごとに改定されており、教科書作成や内容周知のために告示から全面実施まで3~4年程度の移行期間があります。次期指導要領は翌3月末に告示され、小学校は令和2(2020)年度、中学校は令和3(2021)...
※今回より「飛鳥時代」の更新を再開します(7月31日までの予定)。さて、内政並びに外交の両面において今日の我が国を形づくった偉大な政治家である聖徳太子(しょうとくたいし)は令和4(2022)年に没後1400年を迎えましたが、彼の生涯には様々な伝説が残されていることでも有名です。例えば聖徳太子の母親が臨月の際に馬小屋の前で産気づいたため、彼が生まれた後に「厩戸皇子(うまやどのみこ)」と名付けられたという話があり...
※「第108回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(7月6日)からは「飛鳥時代」の更新を再開します(7月31日までの予定)。美術では日本画の横山大観(よこやまたいかん)や下村観山(しもむらかんざん)、安田靫彦(やすだゆきひこ)らによって、大正3(1914)年にそれまで解散状態だった日本美術院が再興され、現在も続く院展(=日本美術院主催の展覧会のこと)が開催されました。なお、横山大観は「生々流転(せ...
演劇の世界では、大正13(1924)年に小山内薫(おさないかおる)や土方与志(ひじかたよし)らによって築地(つきじ)小劇場がつくられ、知識人層を中心に新劇運動が大きな反響を呼びました。音楽では、山田耕筰(やまだこうさく)が本格的な交響曲の作曲や演奏を行い、大正14(1925)年には我が国初の交響楽団である日本交響楽協会を設立しました。その後、大正15(1926)年には日本交響楽協会から近衛秀麿(このえひでまろ)が脱...
第一次世界大戦を経て、社会主義運動や労働運動が高まりを見せたのに伴ってプロレタリア文学運動がおこり、雑誌「種蒔(たねま)く人」「戦旗」などが創刊され、小林多喜二(こばやしたきじ)の「蟹工船(かにこうせん)」、徳永直(とくながすなお)の「太陽のない街」などが読まれました。大正時代には、庶民(しょみん)の娯楽としての読み物である大衆文学も流行しました。大正14(1925)年に大衆雑誌の「キング」が創刊され、...
明治43(1910)年に創刊された雑誌の「白樺(しらかば)」では、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)や志賀直哉(しがなおや)、有島武郎(ありしまたけお)らが活躍し、個人主義や人道主義あるいは理想主義を追求する作風を示して「白樺派」と呼ばれました。武者小路実篤は「その妹」、志賀直哉は「暗夜行路(あんやこうろ)」、有島武郎は「或(あ)る女」などの作品が有名です。一方、雑誌「スバル」では独自の唯美(ゆいび...
大正期の文学は、「こゝろ」や「明暗」などの作品を残した夏目漱石(なつめそうせき)や「阿部一族」などを発表した森鴎外(もりおうがい)の影響を受けた若い作家たちが次々と登場しました。人間社会の現実をありのままに描写する自然主義が、作者自身を写しとるだけの私小説へと変化していったのに対し、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)や菊池寛(きくちかん)らは雑誌「新思潮」を発刊し、知性を重視して人間の心理を鋭く...
自然科学では、野口英世(のぐちひでよ)による黄熱(おうねつ)病の研究や、本多光太郎(ほんだこうたろう)のKS磁石鋼(じしゃくこう)の発明、八木秀次(やぎひでつぐ)による今のテレビ用アンテナの原型となる八木アンテナの発明などの業績がありました。また、研究機関として理化学研究所が大正6(1917)年に創立されたり、航空研究所・鉄鋼研究所・地震研究所などが相次いで設立されたりしました。ところで、この当時の教育...
大正時代には、学問も各分野において様々な発展を遂げました。人文科学においては、東洋史学の白鳥庫吉(しらとりくらきち)や内藤虎次郎(ないとうとらじろう、別名を湖南=こなん)が、日本古代史の研究として津田左右吉(つだそうきち)らが現れました。それ以外には、政治学で先述のとおり吉野作造が「民本主義」を唱えたほか、法学では美濃部達吉(みのべたつきち)が、民俗学では柳田国男(やなぎだくにお)らが現れました。...
大正時代には新聞や雑誌が発行部数を飛躍的に伸ばしました。大正末期には「大阪朝日新聞」や「大阪毎日新聞」など発行部数が100万部を超える新聞もあったほか、「中央公論」や「改造」などの総合雑誌が知識人層を中心に急速な発展を遂(と)げました。1920(大正9)年にアメリカで定期放送が始まったラジオ放送は、その5年後の大正14(1925)年に東京・大阪・名古屋で開始されると翌年には日本放送協会(=NHK)が設立され、ニュー...
産業構造の変化によって労働者人口が増加したことで「俸給(ほうきゅう)生活者(=サラリーマン)」などの一般勤労者が誕生したほか、バスガールや電話交換手など女性が「職業婦人」として社会に進出しました。また都市内では市電や市バス、円タク(1円均一の料金で大都市を走ったタクシーのこと)などの交通機関が発達し、東京と大阪では地下鉄も開通しました。なお、地下鉄は大阪が全国初の公営(大阪市)として開業しています...
明治から大正にかけて、我が国の人口は大幅に増加しました。明治初年には約3,300万人に過ぎなかったのが、我が国初の国勢調査が行われた大正9(1920)年には約5,600万人近くにまで増えたのです。こうした人口増加の背景には、明治以後に農業生産力が増大して多くの人口を養えるだけの食糧が確保できたことや、目覚ましい工業化に伴う経済発展や国民の生活水準の向上、加えて医学の進歩や内乱のない平和な社会の構築などが挙げられ...
大正デモクラシーの流れを受けて、婦人運動も次第に活発となりました。明治44(1911)年には平塚(ひらつか)らいてうが女流文学者の団体として「青鞜社(せいとうしゃ)」を結成しました。青鞜社が発行した「青鞜」発刊の辞である「元始、女性は太陽であった」という言葉が有名です。青鞜社の活動は次第に文学運動の枠を超え、市民の生活に結びついた婦人解放運動へと発展していきました。大正9(1920)年には平塚や市川房枝(い...
「冬の時代」から立ち直りつつあった社会主義勢力の内部では、ロシア革命の影響もあって共産主義者が大杉栄らの無政府主義者を抑えて影響力を著(いちじる)しく強め、大正11(1922)年にはソビエトのコミンテルンの指導によって、堺利彦(さかいとしひこ)や山川均(やまかわひとし)らが「日本共産党」を秘密裏(ひみつり)に組織しました。しかし、当時の日本共産党は「コミンテルン日本支部」としての存在でしかなく、また結成...
昭和62(1987)年11月に成立した竹下登内閣は、絶対多数を占(し)めた与党・自民党の勢力を背景に消費税を含めた税制改革関連法案を昭和63(1988)年12月に成立させ、翌平成元(1989)年4月に消費税が税率3%で導入されました。しかし、消費税の導入には野党や世論に強硬な反対意見も多く、同時期に大規模な贈収賄(ぞうしゅうわい)事件となったリクルート事件が発覚したこともあり、竹下内閣の支持率はひとケタにまで急降下し、...
平成26(2014)年4月から8%に引き上げられ、さらに令和元(2019)年10月には一部を除いて10%となった消費税。私たちの生活に直接影響を与える間接税だけに、国民の関心も非常に高いものがありますが、皆さんは、我が国でいつ消費税が導入されたかご存知でしょうか。答えは平成元(1989)年4月1日であり、当時の税率は3%でした。また、消費税を導入することを正式に決定したのは前年の昭和63(1988)年12月であり、当時の内閣総...
さて、冷戦の終結や、湾岸戦争の勝利などによって、世界においてアメリカの一極支配が強まる一方で、その他の近隣諸国が緊密な経済関係を築こうとする動きも活発になりました。ヨーロッパでは、1992(平成4)年にEC(=ヨーロッパ共同体)加盟国が、統合の基本原因を定めた欧州連合条約(マーストリヒト条約)を締結し、翌1993(平成5)年には「ヨーロッパ連合(=EU)」を発足させ、統一通貨である「ユーロ」を発行するなど、経済...
カンボジアの総選挙は、予定どおり平成5(1993)年5月23日に行われましたが、この日は奇しくも中田さんの四十九日法要と同じでした。カンボジアでの平均投票率は90%という高水準でしたが、中田さんが担当した地域の投票率は、99.99%という驚くべき数字を残しました。また、中田さんが担当した地域で開票作業をしていた投票箱の中から、いくつもの手紙が出てきて、中にはこう書いていたものもあったそうです。「今まで民主主義と...
さて、国連カンボジア暫定統治機構(=UNTAC)によって平成4(1992)年9月に自衛隊がカンボジアへ派遣されましたが、同じUNTACが1993(平成5)年5月にカンボジアで実施予定の総選挙を支援するために募集した国際連合ボランティア(=UNV)に採用された一人の日本人の若者がいました。彼の名を中田厚仁(なかたあつひと)といいます。かねてより世界平和に関心を抱き、国連で働くことを希望していた中田さんは、大学を卒業したばか...
海上自衛隊のペルシャ湾への掃海艇派遣を通じて人的支援の重要性を再認識した日本政府は「現行憲法の枠内で自衛隊を海外派遣することが可能かどうか」を検討し始めるとともに、国内でも大きな議論となりました。政府は「国際貢献という観点から、戦闘終結地域への戦闘目的以外の自衛隊の派遣であれば可能である」との判断を下し、湾岸戦争の翌年に当たる平成4(1992)年に「国際平和協力法(=PKO協力法)」を成立させて「国連平和...
湾岸戦争で人的支援を見送ったことで国際的な批判を浴びた我が国は、平成3(1991)年4月24日に政府が「我が国の船舶(せんぱく)の航行の安全を確保する目的でペルシャ湾における機雷の除去を行うため、海上自衛隊の掃海艇(そうかいてい)を派遣する」と決定しました。昭和29(1954)年に自衛隊が発足して以来、初めてとなった海外派遣は国連や東南アジア諸国の賛成もあって、6月5日から他の多国籍軍派遣部隊と協力して掃海作業を...
湾岸戦争で我が国がとった行動は、平たく言えば「カネは出しても、人は出さない」ということですが、これがいかに問題であるかということは、以下の例え話を読めば理解できるはずです。ある地域で大規模な自然災害が発生しましたが、これ以上の被害を防ぐための懸命な作業が行われていました。自分自身のみならず、愛する家族の生命もかかっていますから、全員が命がけです。しかし、この非常時において、地域の資産家が「そんな危...
イラクによるクウェート侵攻から湾岸戦争への流れにおいて、我が国は支援国の中で最大の合計130億ドル(約1兆7,000億円)もの財政支援を行いましたが、人的支援をしなかったことが国際社会から冷ややかな目で見られました。湾岸戦争後、クウェート政府はワシントン・ポスト紙の全面を使って国連の多国籍軍に感謝を表明する広告を掲載(けいさい)しましたが、その中に日本の名はありませんでした。また、湾岸戦争に関してアメリカ...
イラクによるクウェート侵攻に対して、我が国は平成2(1990)年8月5日にアメリカからの要請によってイラクへの経済制裁に同意するとともに、同月下旬から9月上旬にかけて国連の多国籍軍へ総額40億ドル(約5,200億円)の支援を発表しました。しかし、アメリカが我が国に求めていたのは、経済よりも「人的支援」でした。「日本は何らリスクを負おうとはしない」という批判に対して、当時の海部俊樹(かいふとしき)内閣は自衛隊の海...
※今回より「平成時代」の更新を再開します(8月5日までの予定)。先述のとおり、1989(平成元)年12月にアメリカのブッシュ大統領とソ連(当時)のゴルバチョフ書記長とが地中海のマルタ島で会談し、両首脳によって「冷戦の終結」が発表されましたが、その後も世界の各地域で紛争が続きました。1990(平成2)年8月2日、イラク軍が突然クウェート領内に侵攻して軍事占領したうえ、クウェートの併合を宣言しました。これに対して国連...
※「第102回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(7月4日)からは「平成時代」の更新を再開します(8月5日までの予定)。松方正義による緊縮財政は「松方財政」とも呼ばれ、西南戦争の後の政府の財政危機を立て直しただけでなく、発行紙幣と銀貨との兌換を可能とした銀本位制を確立したことで、当時の政府の世界における信用度を高めることにもつながるなどの大きな成果をもたらしました。しかし、政府による歳出を...
その後、明治十四年の政変で大隈が政府から追放されると、代わって大蔵卿に就任した松方正義(まつかたまさよし)が政府の歳入を増やしながら同時に歳出を抑え、保有する正貨を増やすことによって財政危機から脱出する政策に取り組みました。松方は酒造税や煙草(たばこ)税を増税することで政府の歳入を増やした一方で、歳出を抑えるために行政費を徹底的に削減したほか、官営事業の民間への払い下げを推進しました。また、余った...
明治10(1877)年に起きた西南戦争に要した経費は、陸軍だけでも当時の国家予算の8割に相当する約4,000万円もの巨額となりました。政府はこの出費を金貨や銀貨との交換ができない不換紙幣(ふかんしへい)を発行することでなんとかやり繰りしましたが、その結果として当然のように市中に大量の紙幣が出回りました。紙幣が大量に流通するということは、紙幣の価値そのものを著(いちじる)しく下げるとともに、相対的に物価の値上が...
ただし、これらの私擬憲法のほとんどは後の大日本帝国憲法と同じ立憲君主制を基本としており、ここでも政府と民権派との考えに大きな差がないことが明らかとなっています。こうして国会開設への具体的な動きを受けてさらなる発展を見せようとした自由民権運動でしたが、この後に思わぬかたちで大きな挫折(ざせつ)を経験することになりました。挫折の主な原因となったのは、皮肉にも自由民権運動が本格化するきっかけをつくった「...
さて、自由民権運動の悲願でもあった国会開設に関する具体的な時期が決まったことで、民権派は政党の結成へ向けて動き出しました。国会開設の勅諭が出された直後の同じ明治14(1881)年10月、国会期成同盟を母体として板垣退助が党首となった「自由党」が結成されました。続いて翌明治15(1882)年4月には大隈重信を党首とする「立憲改進党(りっけんかいしんとう)」が結成されました。両党は、自由党がフランス流の急進的な自由...
つまり、政府からすれば、自分だけでは困難な道のりが予想された立憲国家の樹立や議会政治の実現をわざわざ民権派のほうから自主的にアシストしてくれたわけですから、建前上はともかく、自由民権運動は政府にとって心の底では「願ったり叶(かな)ったり」だったのではないでしょうか。もっとも、政府と民権派とが「立憲国家の樹立と議会政治の実現」という共通の目標を持っていたとしても、政府主導による「上からの改革」と自由...
ところで、先述した「讒謗律(ざんぼうりつ)」や「新聞紙条例」、あるいは「集会条例」などが政府から出されたという事実を考慮(こうりょ)すれば、政府が自由民権運動を弾圧しようという意図を持っていたのは明白だという意見が出てくるかもしれません。しかし、西南戦争が終わってからの政府の動きを見れば、地方三新法の制定から府県会を実現させ、また明治十四年の政変がその原因とはいえ、国会開設の勅諭を発表して国会を開...
北海道に開拓使(かいたくし)を設置して以来、政府は多額の事業費を投入しましたが、赤字が続いていました。このため、旧薩摩藩出身で開拓長官の黒田清隆(くろだきよたか)は、国の管理上にあった開拓に関する官有物(かんゆうぶつ)を民間に払い下げようとしました。黒田は、同じ薩摩出身の政商である五代友厚(ごだいともあつ)に安くて有利な条件で官有物を払い下げしようとしましたが、明治14(1881)年7月にその内容が当時...
明治11(1878)年5月、参議兼内務卿(ないむきょう)であり、最高実力者であった大久保利通が暗殺され、強力なリーダーシップを持つ指導者を欠いた政府は、自由民権運動が高まりを見せるなかで分裂状態となりました。肥前(佐賀)藩出身で参議兼大蔵卿(おおくらきょう)の大隈重信(おおくましげのぶ)は、イギリスを模範(もはん)とした議院内閣制に基づいた、国会の即時開設と政党内閣の早期実現などを目指していました。しか...