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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
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2012/08/07

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  • 聖徳太子の外交 その8

    明くる608年、聖徳太子は3回目の遣隋使を送りましたが、この際に彼を悩ませたのが、国書の文面をどうするかということでした。一度煬帝を怒らせた以上、中国の君主と同じ称号を名乗ることは二度とできませんが、だからといって、再び朝貢外交の道をたどることも許されません。考え抜いた末に作られた国書の文面は、以下のように書かれていました。「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」。我が国が皇帝の文字を避...

  • 聖徳太子の外交 その7

    裴世清からの国書は「皇帝から倭皇(わおう)に挨拶(あいさつ)を送る」という文章で始まります。「倭王」ではなく「倭皇」です。これは、隋が我が国を「臣下扱いしていない」ことを意味しています。文章はさらに続きます。「皇(=天皇)は海の彼方(かなた)にいながらも良く民衆を治め、国内は安楽で、深い至誠(しせい、この上なく誠実なこと)の心が見受けられる」。朝貢外交にありがちな高圧的な文言(もんごん)が見られな...

  • 聖徳太子の外交 その6

    中国の皇帝が務まるほどですから、煬帝も決して愚かではありません。だとすれば、聖徳太子の作戦が理解できて、自分に対等外交を認める選択しか残されていないことが分かったからこそ、より以上に激怒したのかもしれませんね。さて、煬帝は遣隋使が送られた翌年の608年に、小野妹子に隋からの返礼の使者である裴世清(はいせいせい)をつけて帰国させましたが、ここで大きな事件が起こってしまいました。何と、小野妹子が隋からの...

  • 聖徳太子の外交 その5

    そんな状況のなかで、無理をして我が国へ攻め込んでもし失敗すれば、国家の存亡にかかわるダメージを与えかねないことが煬帝をためらわせましたし、我が国が高句麗や百済と同盟を結んでいることが、煬帝には何よりも大きな足かせとなっていました。こうした外交関係のなかで隋が我が国を攻めようとすれば、同盟国である高句麗や百済が黙っていません。それどころか、逆に三国が連合して隋に反撃する可能性も十分に考えられますから...

  • 聖徳太子の外交 その4

    我が国が隋に強気の外交姿勢を見せた一方で、かつて隋と激しく戦った高句麗は、自国が勝ったにもかかわらず、その後もひたすら低姿勢を貫き、屈辱的な言葉を並べて許してもらおうとする朝貢外交を展開し続けていました。隋に勝った高句麗でさえこの態度だというのに、敢えて対等な関係を求めるという、ひとつ間違えれば我が国に対して隋が攻め寄せる口実を与えかねない危険な国書を送りつけた聖徳太子には、果たして勝算があったの...

  • 聖徳太子の外交 その3

    今から2200年以上前に大陸を史上初めて統一した秦(しん)の王であった政(せい)は、各地の王を支配する唯一の存在として「皇帝」という称号の使用を始め、自らは最初の皇帝ということで「始皇帝(しこうてい)」と名乗りました。これが慣例となって、後の大陸では支配者が変わるたびに自らを「皇帝」と称し、各地の有力者を「王」に任命するという形式が完成しました。そして、この構図はやがて大陸周辺の諸外国にも強制されるこ...

  • 聖徳太子の外交 その2

    さて、煬帝をここまで怒らせた国書は、以下の内容で始まっていました。「日出(ひい)ずる処(ところ)の天子(てんし)、書を日没(ひぼっ)する処の天子に致す。恙無(つつがな)きや(=お元気ですか、という意味)」。果たしてこの国書のうち、どの部分が煬帝を怒らせたのでしょうか。国書を一見すれば「日出ずる」と「日没する」に問題があるような感じがしますね。「日の出の勢い」に対して「日が没するように滅びゆく」とは...

  • 【ハイブリッド方式】第108回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和7年5月)

    「黒田裕樹の歴史講座」は対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。準備の都合上、オンライン式の講座のお申し込みは事前にお願いします。対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です。メインの主催者である「国防を考える会」のQRコードはこちらです。(クリックで拡大されます)(クリックで拡大されます)第108回黒田裕樹の歴史講座...

  • 聖徳太子の外交 その1

    我が国の内政における思い切った改革に成功した聖徳太子(しょうとくたいし)は、いよいよ外交問題の抜本的な解決へと乗り出しましたが、そのための手段として、隋(ずい)に対し共同で対抗するために、朝鮮半島の高句麗(こうくり)や百済(くだら)と同盟を結びました。事前の様々な準備を終えた聖徳太子は小野妹子(おののいもこ)を使者として、607年に満を持して2回目の遣隋使(けんずいし)を送りました。この頃、隋の皇帝は...

  • 聖徳太子の内政 その6

    例えば第1条の「和の尊重」ですが、言葉自体は非常に耳に心地よい響きがするものの、これには「蘇我氏だけで勝手に物事を進めずに、他の者の同意を得てから行うように」という意味も含まれているのです。また、第3条や第8条については、この条文を入れることによって、蘇我氏にも「天皇への忠誠」や「役人の心得」を従わせることに成功しているだけでなく、それを破れば「憲法違反(といっても現代とは意味が異なりますが)」にな...

  • 聖徳太子の内政 その5

    さて、憲法十七条では第1条や第17条で示した「和の尊重」の他にも、様々な規範を示しています。例えば、第2条では「篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え」として、仏教への信仰を説いています。なお、三宝とは仏・法理(ほうり)・僧侶(そうりょ)のことで、仏教の三つの宝物(ほうもつ)とされています。また第3条では「天皇の命令には必ず従いなさい」と天皇への忠誠を説くなど、儒教の道徳思想に基づく心構えを示している条文...

  • 聖徳太子の内政 その4

    冠位十二階によって「朝廷が役人に対して冠位を授与する」という明確な姿勢を示した聖徳太子でしたが、公地公民制の実現へ向けての次の手段として、朝廷と豪族との間における「順位の上下」を明らかにするための正式な規則をつくろうと考えました。こうして編み出されたのが、我が国最初の成文法であるとともに、後年の法典の編纂(へんさん)にも多大な影響を与えたとされる、604年に制定された「憲法十七条」でした。憲法十七条...

  • 聖徳太子の内政 その3

    そうこうしているうちに、聖徳太子が朝廷での人事権を握って、自身が抜擢(ばってき)してきた優秀な若者をどんどん増やしていけば、自分の影響力が少しずつ削られていくのを蘇我氏はそれこそ指をくわえて黙って見ているしかないのです。おそらくは蘇我氏も地団駄(じだんだ)を踏んで悔しがったことでしょう。それにしても、オモテの世界で堂々と大義名分を述べながら、ウラでは蘇我氏打倒のために色々と策謀(さくぼう)を練り続...

  • 聖徳太子の内政 その2

    しかしながら、聖徳太子もなかなかの「食わせ者」でした。曲がりなりにも昇進が可能な身分制度ができたことにより、冠位を授ける立場の朝廷の権力が向上した一方で、相対的に蘇我氏の権力が後退する遠因をつくったことにもなったからです。冠位十二階の制度によって、朝廷の権力向上と蘇我氏の衰退が同時に起きるとなぜ言い切れるのでしょうか。ここで、冠位十二階による様々な波及効果を検討してみましょう。蘇我氏を冠位十二階か...

  • 聖徳太子の内政 その1

    公地公民制という国家の最終的な目標の実現や、隋(ずい)にも負けない優秀な人材を集めるため、聖徳太子(しょうとくたいし)は時間をかけて豪族あるいは民衆の立場や意識を改革していくという作戦に出ました。603年に制定された「冠位十二階(かんいじゅうにかい)」もその例です。冠位十二階は、朝廷に仕える人々に対する新しい身分秩序でした。まずは階級として「徳(とく)」・「仁(にん)」・「礼(らい)」・「信(しん)...

  • 聖徳太子の登場 その4

    まず内政面においてですが、蘇我氏による横暴を打開するためには、最終的に朝廷がすべての土地や民衆を所有する「公地公民制」を目指すという思い切った改革を行うしかないと決断しました。しかし、現状でいきなり大ナタをふるえば、蘇我氏などの豪族の猛反発を受けるのは必至であり、慎重な手続きが必要であると同時に考えていました。また、外交面においては、何よりも大国である隋の実力を知ることが重要であると考えた聖徳太子...

  • 聖徳太子の登場 その3

    まず内政面においては、当時は朝廷と蘇我氏のような豪族とがお互いに土地や民衆を所有していましたが、聖徳太子が摂政になった頃には蘇我氏の支配地が朝廷を脅(おびや)かすほどに大きくなっており、政治上のバランスが不安定になっていました。この状態を放置していれば、蘇我氏の勢力が朝廷を大きく上回ることでやがて両者に争いが起こり、罪もない民衆が迷惑する可能性が高かったのです。また外交面では、先述のとおり隋(ずい...

  • 聖徳太子の登場 その2

    崇峻天皇の崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)を受け、馬子によって新たに天皇として即位されたのは、先に崩御された30代の敏達(びだつ)天皇の皇后で、自らも29代の欽明(きんめい)天皇の娘であり、母親が馬子の姉でもあった額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)でした。我が国初の女帝となった33代の推古(すいこ)天皇は、593年に甥(おい)にあたる厩戸皇子(うまやどのみこ)を皇太子並び...

  • 聖徳太子の登場 その1

    ※今回より「飛鳥時代」の更新を開始します(6月1日までの予定)。587年に物部守屋(もののべのもりや)との激しい戦いに勝った蘇我馬子(そがのうまこ)は、自分の血縁である泊瀬部皇子(はつせべのみこ)を32代の崇峻(すしゅん)天皇として即位させました。初めのうちは馬子と共同で政治を行っていた崇峻天皇でしたが、次第に馬子の専横が目立つようになると、天皇は政治の実権を持てない自身の待遇に次第に不満を持たれるように...

  • 大和朝廷の6世紀 その4

    ※「古墳時代」の更新は今回が最後となります。明日(5月14日)からは「飛鳥時代」の更新を開始します(6月1日までの予定)。大和朝廷が動揺(どうよう)しつつあった6世紀の後半には、東アジアでも大きな動きが見られました。中国大陸では南北朝時代などによって混乱状態が続いていましたが、北朝からおこった隋(ずい)が589年に大陸を約300年ぶりに統一したのです。この事実は、それまで朝鮮半島で独立を保っていた高句麗や百済...

  • 大和朝廷の6世紀 その3

    対外政策の失敗によって大伴金村を始めとする大伴氏が失脚すると、大連(おおむらじ)の物部(もののべ)氏と大臣(おおおみ)の蘇我(そが)氏が政治の実権を握るようになりました。朝廷における軍事力を担当していた物部氏に対して、蘇我氏は欽明天皇などの外戚(がいせき)となって財産権を握り、帰化人系の民族と交流して勢力を伸ばしました。なお、外戚とは自分の娘を天皇の妃(きさき)とすることで天皇の血縁者となることで...

  • 大和朝廷の6世紀 その2

    皇統断絶の危機を脱した大和朝廷でしたが、対外政策では大きな試練を迎えていました。朝鮮半島では、5世紀後半から6世紀にかけて北方の高句麗(こうくり)が勢力拡大を目指して南進を繰り返し、その圧迫を受けた新羅(しらぎ)とともに、我が国が以前から勢力を伸ばしていた任那(みまな)を攻め続けました。我が国は新羅を攻めるために任那へ援軍を送ろうとしましたが、この動きを知った新羅が現在の福岡県の地方行政官にあたる筑...

  • 大和朝廷の6世紀 その1

    我が国で初めての統一政権として着実に勢力を伸ばしてきた大和朝廷(やまとちょうてい)でしたが、6世紀初頭に最大の危機を迎えました。25代の武烈(ぶれつ)天皇が崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)された際に後継となる男子がおられなかったのです。この非常事態を救ったのが大連(おおむらじ)の大伴金村(おおとものかなむら)でした。大伴金村は、15代の応神(おうじん)天皇の五世の孫...

  • 大和朝廷の政治制度 その3

    当時の有力な豪族は「田荘(たどころ)」と呼ばれる私有地や「部曲(かきべ)」と呼ばれる私有民をもっており、それらを経済的な基盤(きばん)としていました。一方、朝廷も直属の民である「名代(なしろ)」「子代(こしろ)」を持ち、彼らに生産物を納めさせるとともに、直轄地(ちょっかつち)である「屯倉(みやけ)」を各地に設けて「田部(たべ)」と呼ばれた人々に耕作させました。朝廷には祭祀(さいし)や軍事などの様々...

  • 大和朝廷の政治制度 その2

    姓(かばね)の種類は多岐にわたっていました。例えば、蘇我(そが)や葛城(かつらぎ)のように地名を氏(うじ)の名とする畿内(きない)の有力豪族や、出雲(いずも)や吉備(きび)などの地方の伝統ある豪族には「臣(おみ)」が与えられました。また、大伴(おおとも)や物部(もののべ)あるいは中臣(なかとみ)のように武力など特定の能力を持った有力豪族には「連(むらじ)」が与えられ、筑紫(つくし)や毛野(けの)な...

  • 大和朝廷の政治制度 その1

    5世紀末から6世紀にかけて、大和朝廷(やまとちょうてい)は大王(おおきみ)と呼ばれた天皇を中心とする政治の仕組みをつくり上げていきました。朝廷に従った豪族たちは、血縁集団としての同族関係をもとに構成された「氏(うじ)」と呼ばれる組織に編成されました。彼らは共通の祖先神である氏神(うじがみ)を祀(まつ)り、一族の長たる氏上(うじのかみ)が氏に属する氏人(うじびと)を統率(とうそつ)しました。朝廷は各氏...

  • 古墳文化の変容 その6

    天候などの自然条件に左右されやすい農耕生活の発達は、様々な祭祀(さいし)の重要性を高めるとともに、古墳文化の重要な要素となりました。春にその年の豊作を祈る祈年祭(としごいのまつり、または「きねんさい」)や、秋に一年の収穫を感謝する新嘗祭(にいなめのまつり、または「にいなめさい」「しんじょうさい」)は特に重要な行事であり、この頃までに我が国に流入した外来文化とも融合して我が国独自の伝統文化が形成され...

  • 古墳文化の変容 その5

    古墳時代の人々は、豪族などの有力者が掘立柱(ほったてばしら)を用いた平地住居を建てていたのに対して、普通の人々はそれまでの竪穴住居で暮らすのが一般的だったようです。住居の中には、粘土で固めた竃(かまど)が使用されていました。日常生活では、古墳時代の前期から中期にかけては弥生(やよい)土器の系統に属する赤焼きの土師器(はじき)が用いられましたが、5世紀中頃には朝鮮半島から伝わったとされる硬質で灰色の...

  • 古墳文化の変容 その4

    古墳時代の後期には副葬品にも大きな変化がありました。それまでの武具や馬具(ばぐ)のほかに生前の日用品である土器などがおさめられるようになり、埴輪(はにわ)もそれまでの円筒(えんとう)埴輪や家形(いえがた)埴輪とともに、人間や動物をあしらった形象(けいしょう)埴輪が用いられました。家族墓的な性格を持つようになって葬送儀礼(そうそうぎれい)が変化したことで、副葬品もそれまでの故人の権威を示すという意味...

  • 古墳文化の変容 その3

    6世紀に入って古墳時代も後期になると、古墳自体にも大きな変化が現れました。従来の巨大な前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)が畿内でつくられる一方で、全国各地では小規模な円墳(えんぷん)が山の中腹や丘陵(きゅうりょう)の斜面などにまとまってつくられるようになりました。これらの古墳を群集墳(ぐんしゅうふん)といいます。群集墳の爆発的な増加は、大和朝廷の勢力が全国に拡大することによって当時の国民の生活レベ...

  • 古墳文化の変容 その2

    漢字がもたらした「文字で記録を残す文化」は、やがて6世紀半ば頃に「帝紀(ていき、皇室の系譜)」や「旧辞(きゅうじ、神話伝説など)」といった我が国古来の歴史をまとめる事業をもたらし、これらが「古事記(こじき)」や「日本書紀(にほんしょき)」といった我が国最古の歴史書へとつながりました。また、6世紀に入ると百済(くだら)から五経博士(ごきょうはかせ)が来日し、我が国に医学・易学(えきがく)・暦学(れきが...

  • 古墳文化の変容 その1

    古墳(こふん)時代中期の5世紀前後には、朝鮮半島の戦乱から逃れるために数多くの帰化人(きかじん、または渡来人=とらいじん)が我が国に渡来(とらい)しました。大和朝廷(やまとちょうてい)は彼らを厚遇して畿内(きない)やその周辺に居住させ、彼らから大陸の進んだ文化を積極的に学びました。例えば、大陸の進んだ土木技術が大規模な治水(ちすい)や灌漑(かんがい)事業を可能にしたり、優れた鉄製農具をつくることを...

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