ところで、聖徳太子は若い頃から仏教を深く信仰していましたが、仏教を積極的に受けいれようとする崇仏派(すうぶつは)の蘇我馬子(そがのうまこ)と、禁止しようとする廃仏派(はいぶつは)の物部守屋(もののべのもりや)との間で、先述のとおり587年に大きな争いが起きてしまいました。聖徳太子(当時は厩戸皇子=うまやどのみこ)はこのときまだ14歳の少年ながら戦闘に参加しましたが、戦いは蘇我氏にとって不利な状況が続き...
参院選での大敗後、マスコミや与党内の退陣の声にも負けずに続投を表明した安倍首相に対して、今度は自身の健康問題が浮上しました。安倍首相は17歳の頃から難病である「潰瘍性(かいようせい)大腸炎」を患(わずら)っており、首相に就任する数年前には治まっていましたが、一部マスコミによる度重(たびかさ)なるネガティブキャンペーンによるストレスの影響もあったのか、続投宣言をした直後に腸の症状が悪化したのです。安倍...
社会保険庁による年金記録問題の追及は、まるで松岡農水相というターゲットが姿を消したことに対する埋め合わせであるかのように、彼が自殺した平成19(2007)年5月28日以降、急激にヒートアップしました。例えば、朝日新聞では年金記録問題が6月中には毎週平均で50件、7月には30件も記事にされるという驚異的な数字を続け、こうしたマスコミの意図的な誘導によって、安倍首相の内閣支持率は急激に低下し始めました。もっとも、安...
平成19(2007)年5月28日、松岡利勝(まつおかとしかつ)農林水産大臣が議員宿舎で首を吊(つ)っているのが発見され、直ちに救急車で病院に運ばれましたが、間もなく死亡が確認されました。当時、安倍首相にさしたるスキャンダルが見当たらなかったことで、その代わりとばかりに一部マスコミが閣僚のスキャンダル探しに躍起(やっき)となっており、自らの事務所費問題などを抱えていた松岡農水相が、そんなマスコミの「スケープ...
一部マスコミなどによる様々なネガティブキャンペーンにさらされながら、卓越(たくえつ)した実行力で教育基本法の改正を成し遂げた安倍首相は、引き続き国内外の重要な政策に次々と取り組みました。平成18(2006)年12月には防衛庁設置法を改正し、それまで内閣府の外局としての存在でしかなかった防衛庁を、独立した行政組織となる「防衛省」に昇格させました。また、翌平成19(2007)年5月には憲法改正を実現するための「国民...
我が国がGHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)による占領政策を受けていた際に成立した教育基本法には、同時期に施行(しこう)された日本国憲法における「個人の権利や自由」や「平和主義」などが強調される一方で、教育勅語(ちょくご)などで示された我が国古来の道徳や倫理観、あるいは公共の精神といったものがなおざりにされる傾向にありました。これを憂えた安倍首相が教育基本法に関する特別委員会を新たに設置すると、国...
※今回より「平成時代」の更新を再開します(11月19日までの予定)。平成18(2006)年9月20日、小泉純一郎(こいずみじゅんいちろう)自民党前総裁の任期満了に伴って新たに総裁に選出された安倍晋三(あべしんぞう)氏は、続く9月26日の臨時国会において内閣総理大臣に指名され、天皇陛下に任命されました。第一次安倍内閣の誕生です。初の戦後生まれであり、戦後最年少(52歳0か月)の総理大臣となった安倍首相は「戦後レジーム(...
※「第104回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(10月26日)からは「平成時代」の更新を再開します(11月19日までの予定)。世界中の有色人種の人々の希望は、やがてインドやビルマ(現在のミャンマー)あるいはインドネシアといったアジア各国の独立運動へとつながり、さらにはエジプトやポーランドなどにも飛び火しました。中国の清国も1000年以上続いた科挙(かきょ)の制度を廃止するとともに、多くの留学生を...
優位な状況で講和が結ばれたことによって、最終的に我が国の勝利で終わった日露戦争ですが、有色人種国家でアジアの小国と見なされていた日本が世界最強の白人国家であるロシアを倒したという事実は、国内のみならず世界中に計り知れない影響を与えました。15世紀末のコロンブスによる新大陸の発見の頃から始まった大航海時代をルーツとして、白色人種の国家が世界の大陸を次々と侵略して植民地とするとともに、有色人種を奴隷(ど...
ポーツマス条約の締結によって、我が国はロシアが韓国へ手を伸ばすことを阻止(そし)したとともに、鉄道などの権益を得たことで、満洲におけるロシアの影響も事実上除外できることとなりました。また、樺太・千島交換条約によってロシアの領土となった樺太も南半分だけではあったものの取り戻せたことで、安全保障上において我が国は戦争前より優位に立つことができたのです。しかし、条約は良いことばかりではありませんでした。...
講和への道を探っていた日露両国は、アメリカのセオドア=ルーズベルト大統領の斡旋(あっせん)によって、明治38(1905)年8月から和平の交渉を開始しました。日本全権の小村寿太郎(こむらじゅたろう)と、ロシア全権のウィッテとの間で進められた交渉は難航しましたが、同年9月に両国はアメリカのポーツマスにおいて講和条約を調印しました。これを「ポーツマス条約」といいます。ポーツマス条約の主な内容(ロシアが我が国に対...
講和の仲介国としてアメリカを選んだ日本政府は、ロシアとの開戦決意とほぼ同時期に、司法大臣であった金子堅太郎(かねこけんたろう)を特使としてアメリカへ派遣しました。当時のアメリカの大統領はセオドア=ルーズベルトでしたが、実は金子とルーズベルトはハーバード大学の同窓であり、お互いに面識があったといわれています。そうした人物を送ることでアメリカに有力な仲介国になってもらうとともに、あわよくばアメリカ国内...
ところで、戦争で勝利を得るために戦うのは軍人の役割ですが、彼らには戦争を終わらせることができません。戦争終結は外交努力の結果であり、それが可能なのは政治家だけなのです。この大原則は日露戦争においても同様であり、国力の限界を見極めていた日本政府は、長期戦となって我が国が劣勢(れっせい)とならないうちに戦争を終わらせるため、開戦前から講和への道を探っていました。我が国がロシアと講和するためにはその仲介...
明治38(1905)年5月、ロシアのバルチック艦隊が日本近海に姿を見せて連合艦隊と対馬沖で激突しましたが、参謀の秋山真之(あきやまさねゆき)の活躍があったほか、新式の下瀬(しもせ)火薬を利用した我が国の連合艦隊がバルチック艦隊を圧倒しました。「日本海海戦」と呼ばれたこの戦いにおいて、バルチック艦隊は戦力の大半を失って壊滅状態となった一方で、我が国の損害はわずかに水雷艇(すいらいてい)3隻(せき)のみであり...
日露戦争において、我が国は大山巌(おおやまいわお)陸軍総司令官のもとで満洲を主戦場としてロシアと死闘を繰り広げました。戦いは旅順口(りょじゅんこう)攻撃から始まり、仁川沖(じんせんおき)海戦から鴨緑江(おうりょくこう)会戦、黄海(こうかい)海戦から遼陽(りょうよう)会戦と続き、我が国が有利に戦いを展開しました。しかし、ロシアが清国から租借(そしゃく、他国の領土の一部を一定の期間を限って借りることだ...
日露戦争の戦費は総額で約17億円もの巨費となりましたが、我が国では国債や外国債を発行して賄(まかな)いました。このうち、外国債については当初は出足が鈍(にぶ)かったものの、日本銀行の副総裁であった高橋是清(たかはしこれきよ)の尽力により、イギリスやアメリカから約8億円を調達することができました。英米が外国債の発行に応じた理由としては、自国の東アジアに関する権益を日本に守ってもらいたいという思惑があっ...
ロシアの脅威に対し、我が国は戦争を回避するため懸命に外交努力を重ねました。例えば伊藤博文はロシアの満洲における支配権を認める代わりに朝鮮半島にはロシアが手出しをしないという「満韓(まんかん)交換論(または「日露協商論」)」を展開しました。たとえ満洲はロシアの支配を許したとしても、朝鮮半島における安全保障だけは死守したいという我が国にとっての苦肉の妥協案でしたが、国力や軍事力に勝るロシアが承知するは...
北清事変後に満洲を支配したロシアは、親露政権となった韓国への圧力を強め、南下政策を一気に加速させました。1903(明治36)年には満洲と韓国との境にあり、黄海(こうかい)に接した鴨緑江(おうりょくこう)沿いの龍岩浦(りゅうがんほ)を手に入れて「ポート・ニコラス」という名の軍港としました。ポート・ニコラスを手に入れたということは、遼東半島沿岸や朝鮮半島の西海岸における制海権を握ったことを意味しており、我が...
かくして、イギリスと日本とは明治35(1902)年に「日英同盟」を結びましたが、これは世界中に大きな驚きをもたらしました。何しろあの大英帝国が「名誉ある孤立」を捨ててまでして、有色人種かつ東洋の小国でしかなかったと思われていた日本と同盟を結んだからです。日英同盟の主な内容は以下のとおりでした。1.清国における両国の権益や、韓国における日本の特別な政治経済上の利益を承認する2.日英両国の一方が利益保護のために...
19世紀の欧米列強による帝国主義は、植民地争奪戦ともいうべき国際的対立が激化した時代でもありました。列強は利害が一致する国との同盟を進め、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟や、フランスとロシアによる露仏(ろふつ)同盟などが結ばれました。一方、イギリスは「名誉ある孤立(Splendid Isolation)」を唱え、他国と同盟を結ばずに独立独歩の道を歩んできましたが、ロシアによる露骨な南下政策が活発化するようにな...
降伏した清国は、我が国を含む列強に謝罪するとともに北京議定書(ぎていしょ)を結び、列強の軍隊の北京への駐留や多額の賠償金の支払いに応じました。なお、軍隊の駐留が認められたのは、義和団のような悲劇を二度と繰り返さないため、首都を襲う反乱軍を速やかに鎮圧するという目的がありました。さて、北清事変をきっかけとしてロシアがドサクサに紛れて満洲全域を完全に占領し、我が国への圧力をますます強めるようになりまし...
困り果てた列強は清国から一番近い日本に救援軍を要請しましたが、我が国は容易に首を縦に振りませんでした。なぜなら、国際社会の日本に対する反応を恐れていたからです。数多くの列強の中には日本に対して必ずしも良い感情を持っていない国も存在します。もしここで我が国が独自に動いて北京を制圧できたとしても、「日本は混乱のドサクサに紛(まぎ)れて清国を侵略した」と言い出す国が列強の中から出てくるに違いないという思...
さて、日清戦争を経てまるで「生体解剖」のように欧米列強から領土を切り刻まれた清国では、1898(明治31)年に康有為(こうゆうい)らが政治の手法を変えて国家を強くするという「変法自強(へんぽうじきょう)運動」を起こして列強に対抗しようとしましたが、上手くいきませんでした。いわゆる「上からの改革」に失敗した清国内では白人排斥(はいせき)への動きが次第に強くなり、排外主義団体の義和団(ぎわだん)が「扶清滅洋...
閔妃に直接手を下したのは同じ朝鮮人の訓練隊の兵士でしたが、いかなる理由があろうとも、一国の外交官が駐在国の王族暗殺に関わった可能性があるという事実はテロ以外の何物でもなく、極めて乱暴な行為に他なりません。閔妃の暗殺を知って驚いた日本政府は直ちに関係者を逮捕するなどの素早い処置をとったこともあって、乙未事変は当時の大きな国際問題にはなりませんでした。乙未事変が大きな問題にならなかった背景には、朝鮮半...
三国干渉によって我が国がロシアの圧力に屈したことは、朝鮮半島にも大きな影響を与えました。なぜなら、ロシアに対する我が国の低姿勢ぶりが「弱腰」に見えたことで、朝鮮政府が方針を転換してロシアへと接近していったからです。このような「自分よりも大きくて強い国に自国を委(ゆだ)ねる」という事大主義が朝鮮政府内のいわゆる親露派の動きを強めることになりましたが、その最たる存在が朝鮮王妃の閔妃(びんひ)でした。閔...
門戸開放を宣言したアメリカの思惑をよそに清国の「生体解剖」は着々と進んでいきましたが、もっとも露骨(ろこつ)に動いたのは我が国と国境を接するロシアでした。ロシアは1896(明治29)年に清国と対日軍事同盟を結び、シベリア鉄道を清国の領土を挟(はさ)むように延長してウラジオストックへ至る東清(とうしん)鉄道の敷設権を得ました。また、ロシアは清国が我が国から返還を受けた遼東半島の旅順(りょじゅん)・大連(だ...
先述のとおり、日清戦争で我が国に敗北した清国は下関条約によって遼東半島や台湾を我が国に割譲しましたが、これを不服とした清国はロシアに声をかけ、三国干渉によって遼東半島を無理やり自国に返還させることに成功しました。これは、外国を征するのに別の外国を利用するという「以夷制夷(いいせいい)」と呼ばれた中国の伝統的発想に基づくものでしたが、領土の返還を受けて喜んだのもつかの間、日清戦争の敗北で「眠れる獅子...
ロシアなどからの理不尽な要求に対して、我が国は当然のように激怒しました。しかし、巨大な三国に対抗するだけの軍事力を我が国が持っているはずがありません。我が国はやむなく三国からの要求を受けいれ、賠償金3,000万両(テール、当時の日本円で約4,500万円)と引き換えに遼東半島を清国へ返還しました。ロシアの横暴ともいえる仕打ちに対して当時の国民の怒りは頂点に達し、今は辛抱するとしてもいつの日か必ずロシアへの復讐...
遼東半島は朝鮮半島の北西および満洲の南側に位置していますが、ここを我が国が領有されると非常に困る国がありました。それは、東アジアに領土的野心を持っていたロシアです。なぜなら、当時のロシアは南下政策を進めており、いずれは満洲から朝鮮半島の領有をも視野に入れていました。それなのに、我が国が遼東半島を自国の領土とすればロシアの野望に大幅な支障をきたすことになってしまうのです。実は、こうした事情を理解して...
さて、下関条約の主な内容(清国が我が国に対して)は以下のとおりでした。1.朝鮮の独立を認めること(詳細は先述のとおり)2.遼東半島・台湾(たいわん)・澎湖(ほうこ)諸島を割譲(かつじょう)すること3.賠償金として2億両(テール、清の通貨単位。当時の日本円で約3億1,000万円)を支払うこと4.新たに沙市(さし)・重慶(じゅうけい)・蘇州(そしゅう)・杭州(こうしゅう)の4港を開くことこのうち、2.や3.に関しては「敗...
明治28(1895)年4月17日、日本全権の伊藤博文・陸奥宗光(むつむねみつ)と清国の全権であった李鴻章(りこうしょう)との間で日清戦争における講和条約が下関において調印されました。これを「下関条約」といいます。この条約には後述するような様々な事項がありましたが、もっとも重要なのは「清国が朝鮮を独立国として認める」ということでした。下関条約の第1条には「清国は、朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確...
日清戦争に対し、欧米の新聞の大多数が清国の勝利を予想した一方で、我が国民は「朝鮮の独立を助ける義戦である」とこぞって評価しました。福沢諭吉がかつて咸臨丸(かんりんまる)に同乗させてもらった恩人の子が出征(しゅっせい)した際に「もし討ち死にしてもご両親のことは心配なさらぬように」と手紙を書いたほか、後に日露戦争に反対した内村鑑三(うちむらかんぞう)でさえ、英文で「日清戦争の義」を世界に発信しました。...
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ところで、聖徳太子は若い頃から仏教を深く信仰していましたが、仏教を積極的に受けいれようとする崇仏派(すうぶつは)の蘇我馬子(そがのうまこ)と、禁止しようとする廃仏派(はいぶつは)の物部守屋(もののべのもりや)との間で、先述のとおり587年に大きな争いが起きてしまいました。聖徳太子(当時は厩戸皇子=うまやどのみこ)はこのときまだ14歳の少年ながら戦闘に参加しましたが、戦いは蘇我氏にとって不利な状況が続き...
さて、聖徳太子(しょうとくたいし)が内政や外交に大活躍していた頃の我が国では、仏教が朝廷の篤(あつ)い保護を受けて急速に発展した時代でもありました。この時代の文化を「飛鳥(あすか)文化」といいます。飛鳥文化は仏教文化を中心として、中国の南北朝時代の文化と我が国の古墳時代の文化が融合し、当時の西アジアやエジプトあるいはギリシャにもつながる特徴をもっていました。聖徳太子は、自ら高句麗(こうくり)の高僧...
今回の改定により、小中学校の教科書において、少なくとも10年は「聖徳太子」の記載が守られることになりました。このこと自体は大きな前進といえるかもしれませんが、実は、高校の歴史教育において使用される有名な教科書において、既(すで)に「厩戸王」という表現が使用されているのです。私が歴史教育の世界に身を投じて、これまでに積み重ねてきた講演を振り返ってつくづく思うのは、いわゆる「プロパガンダ」は近現代史だけ...
今回の学習指導要領の改訂案に関して、文科省は国民の意見を「パブリックコメント(意見公募)」として平成29(2017)年3月15日まで募集しましたが、その結果として改定案の見直しが行われて「聖徳太子」の名称が「復活」することになりました。学校現場に混乱を招く恐れがあるなどとして、文科省が現行の表記に戻す方向で最終調整していることが明らかになったのです。文科省が改定案公表後にパブリックコメントを実施したところ...
藤岡氏が指摘した「聖徳太子抹殺計画」に続くかたちで、平成29(2017)年2月27日には、産経新聞が「主張」において、今回の改定案に疑問を呈(てい)しました。「主張」では「国民が共有する豊かな知識の継承を妨(さまた)げ、歴史への興味を削(そ)ぐことにならないだろうか。強く再考を求めたい」と最初に指摘したほか、今回の改定の理由である「聖徳太子は死後につけられた呼称で、近年の歴史学で厩戸王の表記が一般的である...
文科省が次期学習指導要領を発表して以来、一部の歴史学の関係者やマスコミからは、これは「聖徳太子抹殺計画」ではないか、という厳しい批判が見られるようになりました。拓殖大学客員教授を務めた藤岡信勝(ふじおかのぶかつ)氏は、平成29(2017)年2月23日付の産経新聞の「正論」欄において、今回の学習指導要領の改訂案における聖徳太子の表記について「国民として決して看過できない問題」であると指摘したほか「日本史上重...
平成29(2017)年2月14日、文部科学省は小中学校の次期学習指導要領の改定案を公表しました。なお学習指導要領とは、学校教育法などに基づき児童生徒に教えなくてはならない最低限の学習内容などを示した教育課程の基準であり、約10年ごとに改定されており、教科書作成や内容周知のために告示から全面実施まで3~4年程度の移行期間があります。次期指導要領は翌3月末に告示され、小学校は令和2(2020)年度、中学校は令和3(2021)...
※今回より「飛鳥時代」の更新を再開します(7月31日までの予定)。さて、内政並びに外交の両面において今日の我が国を形づくった偉大な政治家である聖徳太子(しょうとくたいし)は令和4(2022)年に没後1400年を迎えましたが、彼の生涯には様々な伝説が残されていることでも有名です。例えば聖徳太子の母親が臨月の際に馬小屋の前で産気づいたため、彼が生まれた後に「厩戸皇子(うまやどのみこ)」と名付けられたという話があり...
※「第108回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(7月6日)からは「飛鳥時代」の更新を再開します(7月31日までの予定)。美術では日本画の横山大観(よこやまたいかん)や下村観山(しもむらかんざん)、安田靫彦(やすだゆきひこ)らによって、大正3(1914)年にそれまで解散状態だった日本美術院が再興され、現在も続く院展(=日本美術院主催の展覧会のこと)が開催されました。なお、横山大観は「生々流転(せ...
演劇の世界では、大正13(1924)年に小山内薫(おさないかおる)や土方与志(ひじかたよし)らによって築地(つきじ)小劇場がつくられ、知識人層を中心に新劇運動が大きな反響を呼びました。音楽では、山田耕筰(やまだこうさく)が本格的な交響曲の作曲や演奏を行い、大正14(1925)年には我が国初の交響楽団である日本交響楽協会を設立しました。その後、大正15(1926)年には日本交響楽協会から近衛秀麿(このえひでまろ)が脱...
第一次世界大戦を経て、社会主義運動や労働運動が高まりを見せたのに伴ってプロレタリア文学運動がおこり、雑誌「種蒔(たねま)く人」「戦旗」などが創刊され、小林多喜二(こばやしたきじ)の「蟹工船(かにこうせん)」、徳永直(とくながすなお)の「太陽のない街」などが読まれました。大正時代には、庶民(しょみん)の娯楽としての読み物である大衆文学も流行しました。大正14(1925)年に大衆雑誌の「キング」が創刊され、...
明治43(1910)年に創刊された雑誌の「白樺(しらかば)」では、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)や志賀直哉(しがなおや)、有島武郎(ありしまたけお)らが活躍し、個人主義や人道主義あるいは理想主義を追求する作風を示して「白樺派」と呼ばれました。武者小路実篤は「その妹」、志賀直哉は「暗夜行路(あんやこうろ)」、有島武郎は「或(あ)る女」などの作品が有名です。一方、雑誌「スバル」では独自の唯美(ゆいび...
大正期の文学は、「こゝろ」や「明暗」などの作品を残した夏目漱石(なつめそうせき)や「阿部一族」などを発表した森鴎外(もりおうがい)の影響を受けた若い作家たちが次々と登場しました。人間社会の現実をありのままに描写する自然主義が、作者自身を写しとるだけの私小説へと変化していったのに対し、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)や菊池寛(きくちかん)らは雑誌「新思潮」を発刊し、知性を重視して人間の心理を鋭く...
自然科学では、野口英世(のぐちひでよ)による黄熱(おうねつ)病の研究や、本多光太郎(ほんだこうたろう)のKS磁石鋼(じしゃくこう)の発明、八木秀次(やぎひでつぐ)による今のテレビ用アンテナの原型となる八木アンテナの発明などの業績がありました。また、研究機関として理化学研究所が大正6(1917)年に創立されたり、航空研究所・鉄鋼研究所・地震研究所などが相次いで設立されたりしました。ところで、この当時の教育...
大正時代には、学問も各分野において様々な発展を遂げました。人文科学においては、東洋史学の白鳥庫吉(しらとりくらきち)や内藤虎次郎(ないとうとらじろう、別名を湖南=こなん)が、日本古代史の研究として津田左右吉(つだそうきち)らが現れました。それ以外には、政治学で先述のとおり吉野作造が「民本主義」を唱えたほか、法学では美濃部達吉(みのべたつきち)が、民俗学では柳田国男(やなぎだくにお)らが現れました。...
大正時代には新聞や雑誌が発行部数を飛躍的に伸ばしました。大正末期には「大阪朝日新聞」や「大阪毎日新聞」など発行部数が100万部を超える新聞もあったほか、「中央公論」や「改造」などの総合雑誌が知識人層を中心に急速な発展を遂(と)げました。1920(大正9)年にアメリカで定期放送が始まったラジオ放送は、その5年後の大正14(1925)年に東京・大阪・名古屋で開始されると翌年には日本放送協会(=NHK)が設立され、ニュー...
産業構造の変化によって労働者人口が増加したことで「俸給(ほうきゅう)生活者(=サラリーマン)」などの一般勤労者が誕生したほか、バスガールや電話交換手など女性が「職業婦人」として社会に進出しました。また都市内では市電や市バス、円タク(1円均一の料金で大都市を走ったタクシーのこと)などの交通機関が発達し、東京と大阪では地下鉄も開通しました。なお、地下鉄は大阪が全国初の公営(大阪市)として開業しています...
明治から大正にかけて、我が国の人口は大幅に増加しました。明治初年には約3,300万人に過ぎなかったのが、我が国初の国勢調査が行われた大正9(1920)年には約5,600万人近くにまで増えたのです。こうした人口増加の背景には、明治以後に農業生産力が増大して多くの人口を養えるだけの食糧が確保できたことや、目覚ましい工業化に伴う経済発展や国民の生活水準の向上、加えて医学の進歩や内乱のない平和な社会の構築などが挙げられ...
大正デモクラシーの流れを受けて、婦人運動も次第に活発となりました。明治44(1911)年には平塚(ひらつか)らいてうが女流文学者の団体として「青鞜社(せいとうしゃ)」を結成しました。青鞜社が発行した「青鞜」発刊の辞である「元始、女性は太陽であった」という言葉が有名です。青鞜社の活動は次第に文学運動の枠を超え、市民の生活に結びついた婦人解放運動へと発展していきました。大正9(1920)年には平塚や市川房枝(い...
「冬の時代」から立ち直りつつあった社会主義勢力の内部では、ロシア革命の影響もあって共産主義者が大杉栄らの無政府主義者を抑えて影響力を著(いちじる)しく強め、大正11(1922)年にはソビエトのコミンテルンの指導によって、堺利彦(さかいとしひこ)や山川均(やまかわひとし)らが「日本共産党」を秘密裏(ひみつり)に組織しました。しかし、当時の日本共産党は「コミンテルン日本支部」としての存在でしかなく、また結成...
昭和62(1987)年11月に成立した竹下登内閣は、絶対多数を占(し)めた与党・自民党の勢力を背景に消費税を含めた税制改革関連法案を昭和63(1988)年12月に成立させ、翌平成元(1989)年4月に消費税が税率3%で導入されました。しかし、消費税の導入には野党や世論に強硬な反対意見も多く、同時期に大規模な贈収賄(ぞうしゅうわい)事件となったリクルート事件が発覚したこともあり、竹下内閣の支持率はひとケタにまで急降下し、...
平成26(2014)年4月から8%に引き上げられ、さらに令和元(2019)年10月には一部を除いて10%となった消費税。私たちの生活に直接影響を与える間接税だけに、国民の関心も非常に高いものがありますが、皆さんは、我が国でいつ消費税が導入されたかご存知でしょうか。答えは平成元(1989)年4月1日であり、当時の税率は3%でした。また、消費税を導入することを正式に決定したのは前年の昭和63(1988)年12月であり、当時の内閣総...
さて、冷戦の終結や、湾岸戦争の勝利などによって、世界においてアメリカの一極支配が強まる一方で、その他の近隣諸国が緊密な経済関係を築こうとする動きも活発になりました。ヨーロッパでは、1992(平成4)年にEC(=ヨーロッパ共同体)加盟国が、統合の基本原因を定めた欧州連合条約(マーストリヒト条約)を締結し、翌1993(平成5)年には「ヨーロッパ連合(=EU)」を発足させ、統一通貨である「ユーロ」を発行するなど、経済...
カンボジアの総選挙は、予定どおり平成5(1993)年5月23日に行われましたが、この日は奇しくも中田さんの四十九日法要と同じでした。カンボジアでの平均投票率は90%という高水準でしたが、中田さんが担当した地域の投票率は、99.99%という驚くべき数字を残しました。また、中田さんが担当した地域で開票作業をしていた投票箱の中から、いくつもの手紙が出てきて、中にはこう書いていたものもあったそうです。「今まで民主主義と...
さて、国連カンボジア暫定統治機構(=UNTAC)によって平成4(1992)年9月に自衛隊がカンボジアへ派遣されましたが、同じUNTACが1993(平成5)年5月にカンボジアで実施予定の総選挙を支援するために募集した国際連合ボランティア(=UNV)に採用された一人の日本人の若者がいました。彼の名を中田厚仁(なかたあつひと)といいます。かねてより世界平和に関心を抱き、国連で働くことを希望していた中田さんは、大学を卒業したばか...
海上自衛隊のペルシャ湾への掃海艇派遣を通じて人的支援の重要性を再認識した日本政府は「現行憲法の枠内で自衛隊を海外派遣することが可能かどうか」を検討し始めるとともに、国内でも大きな議論となりました。政府は「国際貢献という観点から、戦闘終結地域への戦闘目的以外の自衛隊の派遣であれば可能である」との判断を下し、湾岸戦争の翌年に当たる平成4(1992)年に「国際平和協力法(=PKO協力法)」を成立させて「国連平和...
湾岸戦争で人的支援を見送ったことで国際的な批判を浴びた我が国は、平成3(1991)年4月24日に政府が「我が国の船舶(せんぱく)の航行の安全を確保する目的でペルシャ湾における機雷の除去を行うため、海上自衛隊の掃海艇(そうかいてい)を派遣する」と決定しました。昭和29(1954)年に自衛隊が発足して以来、初めてとなった海外派遣は国連や東南アジア諸国の賛成もあって、6月5日から他の多国籍軍派遣部隊と協力して掃海作業を...
湾岸戦争で我が国がとった行動は、平たく言えば「カネは出しても、人は出さない」ということですが、これがいかに問題であるかということは、以下の例え話を読めば理解できるはずです。ある地域で大規模な自然災害が発生しましたが、これ以上の被害を防ぐための懸命な作業が行われていました。自分自身のみならず、愛する家族の生命もかかっていますから、全員が命がけです。しかし、この非常時において、地域の資産家が「そんな危...
イラクによるクウェート侵攻から湾岸戦争への流れにおいて、我が国は支援国の中で最大の合計130億ドル(約1兆7,000億円)もの財政支援を行いましたが、人的支援をしなかったことが国際社会から冷ややかな目で見られました。湾岸戦争後、クウェート政府はワシントン・ポスト紙の全面を使って国連の多国籍軍に感謝を表明する広告を掲載(けいさい)しましたが、その中に日本の名はありませんでした。また、湾岸戦争に関してアメリカ...
イラクによるクウェート侵攻に対して、我が国は平成2(1990)年8月5日にアメリカからの要請によってイラクへの経済制裁に同意するとともに、同月下旬から9月上旬にかけて国連の多国籍軍へ総額40億ドル(約5,200億円)の支援を発表しました。しかし、アメリカが我が国に求めていたのは、経済よりも「人的支援」でした。「日本は何らリスクを負おうとはしない」という批判に対して、当時の海部俊樹(かいふとしき)内閣は自衛隊の海...
※今回より「平成時代」の更新を再開します(8月5日までの予定)。先述のとおり、1989(平成元)年12月にアメリカのブッシュ大統領とソ連(当時)のゴルバチョフ書記長とが地中海のマルタ島で会談し、両首脳によって「冷戦の終結」が発表されましたが、その後も世界の各地域で紛争が続きました。1990(平成2)年8月2日、イラク軍が突然クウェート領内に侵攻して軍事占領したうえ、クウェートの併合を宣言しました。これに対して国連...
※「第102回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(7月4日)からは「平成時代」の更新を再開します(8月5日までの予定)。松方正義による緊縮財政は「松方財政」とも呼ばれ、西南戦争の後の政府の財政危機を立て直しただけでなく、発行紙幣と銀貨との兌換を可能とした銀本位制を確立したことで、当時の政府の世界における信用度を高めることにもつながるなどの大きな成果をもたらしました。しかし、政府による歳出を...
その後、明治十四年の政変で大隈が政府から追放されると、代わって大蔵卿に就任した松方正義(まつかたまさよし)が政府の歳入を増やしながら同時に歳出を抑え、保有する正貨を増やすことによって財政危機から脱出する政策に取り組みました。松方は酒造税や煙草(たばこ)税を増税することで政府の歳入を増やした一方で、歳出を抑えるために行政費を徹底的に削減したほか、官営事業の民間への払い下げを推進しました。また、余った...
明治10(1877)年に起きた西南戦争に要した経費は、陸軍だけでも当時の国家予算の8割に相当する約4,000万円もの巨額となりました。政府はこの出費を金貨や銀貨との交換ができない不換紙幣(ふかんしへい)を発行することでなんとかやり繰りしましたが、その結果として当然のように市中に大量の紙幣が出回りました。紙幣が大量に流通するということは、紙幣の価値そのものを著(いちじる)しく下げるとともに、相対的に物価の値上が...
ただし、これらの私擬憲法のほとんどは後の大日本帝国憲法と同じ立憲君主制を基本としており、ここでも政府と民権派との考えに大きな差がないことが明らかとなっています。こうして国会開設への具体的な動きを受けてさらなる発展を見せようとした自由民権運動でしたが、この後に思わぬかたちで大きな挫折(ざせつ)を経験することになりました。挫折の主な原因となったのは、皮肉にも自由民権運動が本格化するきっかけをつくった「...
さて、自由民権運動の悲願でもあった国会開設に関する具体的な時期が決まったことで、民権派は政党の結成へ向けて動き出しました。国会開設の勅諭が出された直後の同じ明治14(1881)年10月、国会期成同盟を母体として板垣退助が党首となった「自由党」が結成されました。続いて翌明治15(1882)年4月には大隈重信を党首とする「立憲改進党(りっけんかいしんとう)」が結成されました。両党は、自由党がフランス流の急進的な自由...
つまり、政府からすれば、自分だけでは困難な道のりが予想された立憲国家の樹立や議会政治の実現をわざわざ民権派のほうから自主的にアシストしてくれたわけですから、建前上はともかく、自由民権運動は政府にとって心の底では「願ったり叶(かな)ったり」だったのではないでしょうか。もっとも、政府と民権派とが「立憲国家の樹立と議会政治の実現」という共通の目標を持っていたとしても、政府主導による「上からの改革」と自由...
ところで、先述した「讒謗律(ざんぼうりつ)」や「新聞紙条例」、あるいは「集会条例」などが政府から出されたという事実を考慮(こうりょ)すれば、政府が自由民権運動を弾圧しようという意図を持っていたのは明白だという意見が出てくるかもしれません。しかし、西南戦争が終わってからの政府の動きを見れば、地方三新法の制定から府県会を実現させ、また明治十四年の政変がその原因とはいえ、国会開設の勅諭を発表して国会を開...
北海道に開拓使(かいたくし)を設置して以来、政府は多額の事業費を投入しましたが、赤字が続いていました。このため、旧薩摩藩出身で開拓長官の黒田清隆(くろだきよたか)は、国の管理上にあった開拓に関する官有物(かんゆうぶつ)を民間に払い下げようとしました。黒田は、同じ薩摩出身の政商である五代友厚(ごだいともあつ)に安くて有利な条件で官有物を払い下げしようとしましたが、明治14(1881)年7月にその内容が当時...
明治11(1878)年5月、参議兼内務卿(ないむきょう)であり、最高実力者であった大久保利通が暗殺され、強力なリーダーシップを持つ指導者を欠いた政府は、自由民権運動が高まりを見せるなかで分裂状態となりました。肥前(佐賀)藩出身で参議兼大蔵卿(おおくらきょう)の大隈重信(おおくましげのぶ)は、イギリスを模範(もはん)とした議院内閣制に基づいた、国会の即時開設と政党内閣の早期実現などを目指していました。しか...