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クニの部屋 −北武蔵の風土記− https://blog.goo.ne.jp/kuni-furutone118/

北武蔵を中心とした歴史を紹介。地方のあまり知られていない城や古墳などを発掘します。

高鳥邦仁
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2006/06/13

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  • 国府台城址にある伝説の石は?

    雉岡城址(埼玉県本庄市)の夜泣き石を初めて目にしたのは、冬の日の宵時だった気がする。薄暗く、誰もいない城址で、夜泣き石は深い堀の下でポツンと佇んでいた。国府台城(千葉県市川市)にも夜泣き石がある。国府台合戦で敗死した武将の娘が、亡き父を偲んで石にもたれて泣き続けていたという。娘は悲しみのあまり息絶えてしまう。その亡骸は葬られたが、石からは毎夜すすり泣く声が聞こえたと伝わる。夜泣き石伝説は日本各所にある。「伝説」ゆえ、言い伝えを史実とするには注意が必要となる。伝説の由来はさておき、一説に日本人の石に対する信仰心を表わしているのだろう。巨石や不思議な形をした石など、信仰の対象としてきた。国府台城址には、明戸古墳という前方後円墳が横たわっている。石棺がむき出しになっており、江戸時代の一部の人は国府台合戦と結び付...国府台城址にある伝説の石は?

  • 葉桜の日に訪ねる“雉岡城”は?

    雉岡城(埼玉県本庄市)に天守閣はない。が、曲輪に施された高い土塁や深い堀は迫力がある。本庄早稲田の杜ミュージアムで雉岡城のパネル展示を見たからには、現地にも足を運びたかった。桜の満開時期を避けて、葉桜の日に訪れた。最後に雉岡城を訪れてからだいぶ経つ。表示板は新しくなり、文化財説明板も生まれ変わっていた。ちょうど発掘調査中で、大手門付近から石積みが出土したという。隣接して建つのは中学校である。今回の発掘調査を機に、城址に興味を持つ学生もいるかもしれない。教師から黒曜石の話を聞いて、旧石器時代に興味を持った高校生を知ったばかりだ。母校の隣に城址があるのは、物語が始まる予感がする。ちなみに、北にも高校の校舎が建っているが、移転して現在は使われていないらしい。学校があるということは、その敷地の遺構は失われているこ...葉桜の日に訪ねる“雉岡城”は?

  • 風邪の反動につき旅に出る?

    発熱したのは1年以上ぶりだった気がする。寝込む。その間、ブログが強制終了するという知らせに触れた。ふて寝する。何もやる気が起きない。何も読みたくないし、書きたくもない。何も考えたくないし、どこにも出かけたくなかった(病院には行ったが)。せっかくの休日だから……という心理に縛られていたことに気付く。せっかくの休日だから原稿を進めなければならない。本を1冊でも多く読まねば、史跡に行かねば、気になる企画展を見なければ、お得なランチに行かねば……などなど。「~せねばならない」という考え方は疲れる。この価値観の強い人を苦手としていたのに、いつの間にか自分もそっち側にいたらしい。あぶない、あぶない。年を重ねるとはそういうことなのかもしれない。なお、年齢が上がると風邪が治りにくい。しばらく引きずった。若い時分のように、...風邪の反動につき旅に出る?

  • 旧体制が終わりを告げる日の関宿城は?

    自転車で海へ向かった。土手は菜の花で彩られていた。走り続けていれば辿り着く場所がある。例え牛歩でも、心が折れそうになっても、前に進み続けていれば終わらない。思い描いたものとは異なっても、いずれ海に着く。そんな摂理を知った春だった。2025年、菜の花越しに関宿城の模擬天守を望んだ。約30年前、周囲の樹木は背が低かった。茨城県五霞町の土手上からもはっきりと天守が見えたのを覚えている。いま、「海」はどこにあるのか。どこを目指して生きているのか。若いときの方がわかりやすかったかもしれない。遠回りもした気がするが、扉を開けるのに必要とする時間があったし、良い悪いではなく、性分ゆえの生き方だったのだろう。菜の花畑越しの模擬天守を眺めた。その日は旧体制が終わりを告げる日だった。終わっては新しいものが始まっていく。時代の...旧体制が終わりを告げる日の関宿城は?

  • 関宿城攻撃の拠点とした山王山砦は? ―東昌寺―

    北条氏の関宿城攻め(千葉県野田市)は3次あった。第1次は、太田氏資らを先勢として攻撃を仕掛けたが、「野伏」の活躍や関宿城主簗田氏の巧みな戦略によって落とすことができなかった。そこで、北条氏は栗橋城主野田氏を退去させ、北条氏照を入城させる。同城を拠点とし、また関宿城攻略のための“山王山”と“不動山”という2つの砦を築造するのである。不動山は不明だが、山王山は茨城県五霞町山王山が比定される。具体的には、同地の東昌寺であった可能性がある。同寺は簗田満助の菩提寺として創建されたという。(現在地よりも関宿城に近い場所だったらしい)簗田持助が寄進した梵鐘が現存する古刹である。境内には、“山王山砦”とおぼしきものが散見される。山門前には窪地と土の高まりがある。これは堀と土塁の名残りだろうか。また、裏手にも土塁のような土...関宿城攻撃の拠点とした山王山砦は?―東昌寺―

  • パネル展示で“雉岡城”の謎に迫る?

    3月25日付の「東京新聞」によると、雉岡城址(埼玉県本庄市)から石積みが出土したという。落城もしくは廃城により、石積みが崩された可能性を指摘する発掘担当者のコメントも載せている。同城の発掘調査は令和6年12月より開始され、初めて入った調査のメスということである。菅原記者による記事で、視点を石積みに定めているからつい引き込まれる。この発掘調査により、雉岡城のパネル展示が本庄早稲田の杜ミュージアムで開催されているという(令和7年4月13日まで)。これは見逃すわけにはいかん、ということで足を延ばした。雉岡城址の古写真、絵図、地籍図、発掘調査の様子がパネルで紹介されていた。「本庄市文化財保存活用地域計画」の一環としての調査というから、時流に乗っている感がある。どのようなものが出土し、どんなことが分かっていくのか。...パネル展示で“雉岡城”の謎に迫る?

  • 羽生の“城沼落とし”の桜並木にて

    今年も春が来て、“城沼落とし”は桜の花に彩られていた。城沼落としとは、羽生城址(埼玉県羽生市)の北側を流れる排水路のこと。この排水路も城址と言えるかもしれない。が、「武陽羽生古城之図」や「浅野文庫蔵諸国古城之図」所収の絵図を見ると、城の北側は沼に覆われているから、天然の沼が堀替わりになっていたことになる。桜並木の南側に建つのは曙ブレーキ工業の工場である。井泉に住む同級生の家へ遊びに行くとき、横目に移る工場は城のように見えたのを覚えている。城沼落とし沿いには、かつて「くるみ」というお好み焼き屋があった。1994年の春、そこで中学の部活の同窓会が開かれたことがある。誰が主催したのか聞いてみると、無関係な部活の同級生が1人で企画したという。しかも、当人は不参加。なぜ彼が主催したのか、30年が経ったいまも謎である...羽生の“城沼落とし”の桜並木にて

  • 森田童子の歌詞が象徴するのはあの時代?

    1995歳の春、森田童子の「球根栽培の唄」と出会った。曲はいい。ただ、歌詞がわからなかった。球根栽培の花が咲きました。孤立無援のお前のように机のすみで咲きました。(中略)ガリ版刷りのアジビラが風に舞う。赤ヘルメットのお前がぼくを見つけて手を振った。球根栽培の本を知ってますか。孤立無援のいのちがもえて花火のように咲きます。(森田童子作詞)1960年代に吹き荒れた学生運動を背景にしている。球根栽培の本は爆弾製造書であり、「アジビラ」や「赤ヘルメット」は学生運動を象徴している。森田童子は、当時の「孤独な情念」を表現したかったのだろう。東京に出て、学生運動に青春を捧げた人たちと出会ってから「球根栽培の唄」が少しわかった気がした。ただの園芸の唄ではない、と。案外、森田童子は学生運動の時代をモチーフにした曲が多い。「...森田童子の歌詞が象徴するのはあの時代?

  • 春の十字路にて

    朝の旗当番に立ったら、通学班の人数が少なく見えた。6年生の子たちがいないことに気付く。もう春が来たらしい。押しボタン式の信号機は、せわしなく点滅していた。先日、夜間使用の公共施設で懐かしい顔を見かけた。卒団式の打ち合わせだったらしい。毎週のように顔を合わせていたのに、春になればもうこの場所で会うことはないのかもしれない。迎える春とともに、過ぎ去ろうとする季節を感じた。新しく始まれば、終わっていくものがある。何気ない日常がさよならを告げる。人生はその繰り返し。歴史もまたその連続。「年度」を入れれば、2回の年越しがある。1月よりも、4月の方が変化を強く感じることが多いかもしれない。環境や体制が組み変わるから。日ごと顔を合わせていた人が、「日常」からいなくなるから。新しく始まるものに気持ちが軽くなる。草花は芽吹...春の十字路にて

  • 中世、秋の“水海”で歌を詠んだのは? ―三嶋神社―

    三嶋神社は水海城址(茨城県古河市)の西側に鎮座している。ここは、京都聖護院門跡の“道興准后”が訪れた社。道興が東国を巡ったのは地方の熊野山伏を編成する目的があったとされ、その旅をのちに『廻国雑記』として書物にまとめた。文明18年(1486)に三嶋神社を訪れた道興は、ちょうど秋の到来を感じさせる季節だったらしい。次のような歌を詠んでいる。富士のねの麓い月は影しろし空に冴たる秋のしら雲をくれゐて聞こそわふれ初かりの都にいそく夕暮の声のへの萩ちれはとやまの錦かな(『廻国雑記』より)道興は三嶋神社の「別当の坊」にしばらく逗留し、数首の歌を詠んだ。上記の歌はその一部で、富士山、初雁の声、萩などを同地で実際に見聞きしたものをモチーフとしたらしい。なお、道興は水海の三嶋神社について「大社ましましけり」と綴っている。同社...中世、秋の“水海”で歌を詠んだのは?―三嶋神社―

  • 日常に使ってみるサジェストの言葉

    インターネットである単語を検索したら、サジェストで「たのしすぎ」と出た。「やばい」「やめておけ」のサジェストが出ることの多い単語だけに、意外な気がした。いい言葉かもしれない。マイナスに捉えるより、「たのしい」とプラスに考えた方が気持ちいい。批判するより、なるべく肯定的に捉えたい。過去におけるマイナス寄りの記憶も、「たのしすぎ」と付けてみると、案外悪くなかった気がしてくる。あれはあれでよかったのかも、と。「やばい」と思っていたのは、視野の狭い自分の主観でしかなかったのだろう。視点や捉え方を変えれば、重い空気も軽くなっていく。憂鬱な案件も「たのしすぎ」と付けてみる。別に「すぎる」わけではないが、何となくやれそうな気がする。例えば、月曜日たのしすぎ、とか……。もう春本番。後ろ向きより前向きな気持ちの方が、きっと...日常に使ってみるサジェストの言葉

  • 猛攻を耐えた城は見た目が大人しい? ―駒城―

    駒城(駒館)は茨城県下妻市にある。大宝城と並び、南朝方の拠点だった。小田城の前衛基地として、藤原実寛が守ったという。北朝の高師冬は駒城に猛攻をかける。しかし、なかなか落ちない駒城。それゆえ関城に入っていた北畠親房は、『神皇正統記』を完成することができたという。城址は、路に面した小ぢんまりとした広場に石碑がポツンと建っている。標柱と説明板が建っているからわかりやすいが、何もなければ通り過ぎるだけだろう。現在は木々が切られ、こざっぱりとした空間が広がっている。そのため、土の高まりも目にすることができるのだが、大宝城址や関城址に比べて「おとなしい」印象を否めない。高師冬の猛攻をはねのけたというわりには、「要害」ぽくない。というのは現在の景観であって、消えた遺構も多くあるのだろう。1340年、駒城はついに落城。高...猛攻を耐えた城は見た目が大人しい?―駒城―

  • 雪の日に見る“赤堀川”は?

    雪の舞う日に訪ねた赤堀川。雪の白さに赤土が生えるかも……。それを期待して一人川辺に立ったが、土の赤さよりも川霧の方が目に留まった。赤堀川は、利根川東遷において重要なポイントとなった川。という言い方は後世の捉え方だろう。東京湾に向かって流れていた利根川は、赤堀川の開削と通水により、結果的に千葉県銚子へ向かうようになった。茨城県を流れ、接する地域は古河市や五霞町であり、3度の開削があった。最初は元和7年(1621)のこと。3度目は承応3年(1654)で、このとき通水した。明治時代の迅速図を見ると、細い川幅の赤堀川が急に膨らむ箇所がある。その細い流路が人力による掘削箇所なのだろう。土が赤いことから、赤堀川と名付けられた。確かに赤い。黄土色とも表現できる。これは関東ローム層で、開削には多くの人と労力を要しただろう...雪の日に見る“赤堀川”は?

  • 秘密の“抜け穴”のある城址は? ―関城―

    関城址(茨城県筑西市)の一角に、ぽっかりとあく穴がある。南北朝時代、攻城戦に使われるはずだった遺構と言われる。すなわち、秘密の抜け穴を作って城内へ潜入し、落城させる算段だったらしい。地盤がゆるく、結局使われることのないまま姿を消すことになるが、大正9年に地元の青年によって偶然発見された。南朝方だった関城主関宗祐・宗政父子は、大宝寺城(同県下妻市)攻め寄せる北朝の高師冬と戦った。同城には、『神皇正統記』を著したことでもよく知られる“北畠親房”も身を寄せていた。常陸に漂着して以後、小田城(同県つくば市)に入った親房は、同城にて『神皇正統記』を起稿。関城へ移城後、同書を完成させたと言われる。すなわち、関城址は戦場の舞台ではあるが、後世に残る書物が著された現場ということになる。親房はどの時間帯に筆を執ったのだろう...秘密の“抜け穴”のある城址は?―関城―

  • 羽生城の“広田直繁”は義将だったのか?

    羽生城(埼玉県羽生市)は義に厚い城。周囲の城が北条氏に帰属しても、羽生城だけは上杉謙信への忠節を曲げなかった。羽生城の歴史の流れのみを見たならば、そう捉えることはできる。実際、謙信は羽生城主広田直繁に宛て、あなたの忠信はほかに類がない、と激賞している。忠義者としての一面はあったかもしれない。ただ、上杉氏への従属の理由の全てを、忠義のためとすることには違和感を覚える。忠節は真実の一端を語るものであっても、その全てではないのではないか。周囲の情勢、羽生城の置かれた立場、広田・木戸氏の在地的基盤などを見ると、「上杉氏に属さざるを得なかった」というのが本当のところではないだろうか。戦国後期の羽生城は、広田直繁と木戸忠朝の兄弟が同城を守っている。兄の広田直繁は、武辺者で現実主義者。実利的で野心家。冷静沈着である一方...羽生城の“広田直繁”は義将だったのか?

  • 下妻の“大宝城”で小骨が刺さる?

    利根川沿いに住む人からかかってきた連絡。あれ、予定と違っているのじゃ?ある人が段取りを間違えたらしい。誰も悪意はない。よかれと思ったことが、意外な事後処理を発生させることはよくあること。そんなモヤモヤした気持ちのまま訪ねたのが“大宝城”(茨城県下妻市)だった。言わずと知れた南北朝時代の争乱の舞台である。城址には“大宝八幡神社”が鎮座している。ゆえに、自ずと城址探訪=神社参拝となる。“春日中将顕国”が興良親王を奉じて大宝城へ移ったことにより、同城は南朝方の拠点となった。これを守るは“下妻政泰”。北朝方の“高師冬”らの猛攻に2年間耐え忍んだ。が、欠乏する食糧と城内で降伏を唱える者も少なくなく、1343年11月12日に落城した。現在の大宝城は水田に囲まれているが、西側には大宝沼が広がり、北と東も沼地と湿地だった...下妻の“大宝城”で小骨が刺さる?

  • 関宿攻防戦で “水上戦”が展開された?

    関宿城の天守を模した博物館の模擬櫓といい、城に関わる史料の多さから、どうしても水海城(茨城県古河市及び同県境町)は後回しにしがちになる。時間が余ったから水海城にも行ってみようか、というような。それは遺構の残存率にもよるのだろう。関宿城も遺構としては、ほんの1部が残っているだけである。が、何と言っても模擬天守の存在は大きい。一方、水海城は「何もない」。この城を訪ねるとき、神明神社を目的地にするのがセオリーかもしれないが、城の遺構らしきものは見当たらない。それに、神明神社を含む一帯は「内水海」であり、ここは簗田氏が関宿城からの退去後に整備された城だったと見られる。古い城跡は「南部地域」であり、現在の利根川の河川敷を含む土手の下だろう。新利根川橋を渡って国道4号を逸れたとき、「塚崎」(茨城県境町)の交差点がある...関宿攻防戦で“水上戦”が展開された?

  • 映画「セブン」の“雨”はいまなお降り続く?

    まさか、映画館で再び「セブン」が観られるとは思わなかった。主演はブラッド・ピットとモーガン・フリーマン、監督はデヴィッド・フィンチャー。後味の悪い作品として知られている。確かに、「衝撃の結末」と言われても異論はない。初めてこの映画を観たのは17歳のときだった。多感な年齢ということもあって、その衝撃は強かった。が、いい意味で忘れられない作品となり、ノベラズも2冊買い、春が近づくと何とはなしに手に取るのが癖になっていた。このブログでも、何度か「セブン」を題材に記事を書いたことがある。あれから約30年。46歳になって再び映画館で観ると、案外影響を受けていたように思えた。何にか?2人の刑事の仕事に対する姿勢である。モーガン・フリーマン演じるサマセットは言う。「断片を集めている」とサマセットはいった。「ありとあらゆ...映画「セブン」の“雨”はいまなお降り続く?

  • 関宿城と羽生城は“上杉謙信”でつながっている?

    春になると関宿(千葉県野田市)へ足を運ぶ。個人的な年中行事みたいなものである。行けば、今年も春が来たことを感じる。1997年4月1日、利根川の果てを見たくて一人自転車を走らせた。羽生(埼玉県羽生市)からひたすら川を下っていったら、対岸に姿を現したのは関宿城を模した天守閣だった。高校を卒業したばかりの春、私は関宿城の存在を知らなかった。不思議さと好奇心で目線は釘付けになった。海に辿り着くまで色々なものを目にしたが、関宿城と水門は忘れられない光景の一つである。関宿から江戸川にぶつかり、その後は同川をひたすら下った。つまり、利根川の旧流路を辿る旅だった。辿り着いたのは東京湾。葛西臨海公園があり、海の上を何機もの飛行機が飛んでいた。この自転車で向かう海への旅は、いわば「ぼっち卒業旅行」だった。当時、歴史観点は限り...関宿城と羽生城は“上杉謙信”でつながっている?

  • 北爪氏が配置された“石打”は境目だった? ―石打城―

    天正2年(1574)閏十一月、羽生城(埼玉県羽生市)の自落に伴い、城兵は上杉謙信に引き取られることとなった。そのとき、対岸に位置する飯野城(群馬県板倉市)の者たちと小競り合いがあったらしい。この戦いで、“北爪右馬助”は戦功を挙げた。多くの戦場を駆け巡った北爪氏はのちに「覚書」を書き記すのだが、飯野城兵との戦いも武功の一つと捉えているのがわかる。北爪氏一族の一家は、石打城(群馬県邑楽郡邑楽町)に在城したきらいがある。永禄6年10月24日付で、石打郷をはじめとする近隣の所領を与えられているからである(「北爪氏文書」)。ということで、石打城を訪ねてみる。難易度の高い城である。というのも、史跡や旧跡に指定されているわけではないから、文化財説明板や標柱、観光案内の看板の類は建っていない。一見どこが城址なのかよくわか...北爪氏が配置された“石打”は境目だった?―石打城―

  • 童門冬二さんの訃報に触れて……

    作家・童門冬二さんの訃報に触れた。亡くなったのは1年前で、公表を控えていたのはご本人の意志だったという。雑誌のライターをしていた頃、一度お会いしたことがある。書籍紹介のページで、著者に取材して記事を書いていたのだが、童門さんは忘れられない一人だ。仕事場へ伺うと、心温かく迎え入れてくれた。物腰は柔らかく、穏やかな口調で、こちらの質問に丁寧に答えて下さった。その取材をもとに書いた記事は、一番いい出来となった。滅多に人をほめない編集長からも高評価だった。副編集長と校正者からもよくまとまっていると言われた。お忙しいところ取材を受けて下さった童門さんに、改めてお礼を伝えた。あれから何年もの歳月が流れたが、ときどき童門さんを思い出すことがあった。書店でもそのお名前をよく見かけた。歴史が好きな人との会話の中で、童門さん...童門冬二さんの訃報に触れて……

  • 埼玉新聞のトップを飾った羽生市のニュースは?

    令和7年1月11日の「埼玉新聞」のトップを飾った羽生市のムジナモ。「野生復帰」の活字が躍っていた。https://www.saitama-np.co.jp/articles/117947/postDetail(埼玉新聞ホームページ内)1月7日に大野埼玉県知事から正式に発表され、1月10日に羽生市でも報道機関向けに記者会見が行われた。それを受けてのトップ記事だった。埼玉県のレッドデータリストでは、ムジナモはこれまで野生絶滅に分類されていた。しかし、地道な保護活動により安定した生育が見られるようになったことから、絶滅危惧種ⅠAに移行されたのだった。つまり、野生復帰したことが認められ、環境変化が著しい昨今においてはかなりレアのケースとなった。国内でもまれであり、埼玉県内では初めてとなる。記者会見では、河田羽生市...埼玉新聞のトップを飾った羽生市のニュースは?

  • 羽生城が令和7年1月11日の「毎日新聞」で……?

    令和7年1月11日付の「毎日新聞」埼玉版で、拙著『羽生城をめぐる北武蔵争奪戦』が紹介されました。昨年11月4日の「羽生城合戦四百五十年忌供養会」を取り上げた毎日新聞の中山記者が、今回も記事を書いて下さいました。拙著のエッセンスがわかりやすく紹介され、新聞内でも羽生城が蘇っています。記事をご高覧いただき、拙著を手に取っていただければ幸いです。羽生城が令和7年1月11日の「毎日新聞」で……?

  • 織田信長の進行を受けた“一乗谷”は? ―朝倉館跡―

    越前の一乗谷(福井県福井市)は、中世の町並みがリアルに復原されているが、朝倉義景の館跡は遺構のみ見られる。とはいえ、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館では、かつて一乗谷に身を寄せた足利義昭の住まいが復原されているから、ビジュアルを求めるならそちらへ足を運びたい。朝倉館跡は別名一乗谷城と呼ぶ。堀や土塁、唐門や庭園跡など、見どころは多い。さすがは朝倉義景公。長年にわたる調査と整備によって、わかりやすくその歴史を学ぶことができる。ただ、歴史には光と影がある。繁栄を誇った一乗谷だが、織田信長の進攻を受け、義景は自害に追い込まれたことは周知のとおりである。元亀4年(天正元年)9月7日、信長は毛利輝元と小早川隆景に宛てた書状に次のように述べている。一乗之谷押寄之処、朝倉退散候條、谷中不残一宇放火候、左候処、彼国之傍ニ義景...織田信長の進行を受けた“一乗谷”は?―朝倉館跡―

  • 2025年初頭の羽生市の快挙とは?

    牧野富太郎が日本で初めて発見し、羽生市内で速水義憲が初確認した食虫植物“ムジナモ”。が、環境の変化により激減。埼玉県のレッドデータリストでは、1998年以降「野生絶滅」とされた。それでも、多くの人たちの努力によって保護活動が行われた。地道な活動が実を結び、ムジナモは少しずつ自然増殖するようになる。冬を越し、夏になれば大増殖する。そのような安定した生育が見られるようになり、13年ぶりに改訂するレッドリスト植物編では、ムジナモは“野生復帰”を意味する「絶滅危惧ⅠA類」に分類されることとなった。奇跡の復活である。1月7日、そのことが大野埼玉県知事から発表された。野生復帰は埼玉県内では初事例であり、全国的にもかなり珍しいという。1月10日には、羽生市内で「羽生市ムジナモ野生復帰記者会見」が実施される予定。さらに、...2025年初頭の羽生市の快挙とは?

  • 令和7年1月6日の東京新聞にて。羽生城と……?

    令和7年1月6日の「東京新聞」埼玉版で、羽生城のみならず、大変恐縮ながら私を取り上げて下さいました。羽生城史を通して私高鳥に焦点を当てていただき、気恥ずかしくもあり、とても光栄です。(ちなみに、東京新聞の題字は、羽生市出身の書家三村秀竹氏によるものです)掲載された写真の撮影場所は、羽生城址碑の建つ古城天満宮(埼玉県羽生市東5丁目)。冨田勝治先生や羽生史談会などのご縁に恵まれたものの、ひとり羽生城を追いかけていた記憶がよぎり、胸が熱くなる思いでした。取材と執筆して下さった東京新聞の菅原記者に感謝申し上げます。私はともかく、記事を通して羽生にも城があったこと、他城にも引けをとらない豊かな歴史があることを、興味の有無を越えて周知されれば嬉しく思います。東京新聞埼玉版https://www.tokyo-np.co...令和7年1月6日の東京新聞にて。羽生城と……?

  • 長尾顕長の野心をなぞりながら登る“足利城”は?

    息子も山城についてくるというので足利城へ足を運んだ。織姫神社の裏に車を止め、いざ本丸へ。両崖山(栃木県足利市)。令和3年2月に山火事があった山として記憶に新しい。現在は新しい木々が生えているが、あちこちに燃えた跡や炭が見られ、実際に火事があったことを伝えている。駐車場から本丸までは、徒歩約1時間だろうか。道は岩石でゴツゴツして、決して歩きやすいとは言えない。ハイキングの恰好をした人たちとすれ違い、そのたびに挨拶を交わす。小柄の息子には、いささか難易度の高い場所もあったが、それでも登っていった。永禄13年(1570)、上杉謙信から忠信を認められ、羽生城主広田直繁は館林城を宛て行われた。そのとき、館林城に入っていた長尾顕長は足利城への移城を余儀なくされる。上杉と北条の和睦(越相同盟)が成立したばかりであり、顕...長尾顕長の野心をなぞりながら登る“足利城”は?

  • おちなかった“羽生城”へ行けば、落ちない? ―古城天満宮―

    明けましておめでとうございます。正月だから羽生城(埼玉県羽生市)へ行こう。と、遠い昔に『羽生城―上杉謙信の属城―』と『埼玉の館城跡』を携えて、三が日に自転車を走らせた。羽生市内には、羽生本城以外に支城に比定される館城がいくつか点在している。ただ、難易度が高い。史跡や旧跡に指定されているわけではなく、案内看板も建っておらず、城の遺構とおぼしきものは消滅しているから、城址比定地を探すのは至難の業だった。それでも寒風の中、猪突猛進的に自転車を走らせた。寄居、内手、堀の内、外の内、古城……。小字をヒントに、謎解きをするように巡り回った。それを知ったところで、何かあるわけではない。でも、「知るに値する」と確信的に感じていた。直感は大事。理屈を遥かに凌駕する。ところで、拙ブログで何度も触れたことだが、天正2年(157...おちなかった“羽生城”へ行けば、落ちない?―古城天満宮―

  • 上杉謙信の初の関東越年はどこだったか?

    永禄3年(1560)8月末に関東へ出陣した上杉謙信(当時は長尾景虎)は、上野国の諸城に攻め寄せ、国衆たちを従属させた。その後、厩橋城(群馬県前橋市)に着陣。同城に入り、謙信に従属する国衆の参集を図るのだった。謙信はそのまま厩橋城で年を越すことになる。関東で迎える初めての正月だった。関東管領上杉憲政を供奉し、北条氏の拠点である小田原城攻めは射程に入っていた。京では、近衛前嗣が謙信を慕って関東へ下向する。このとき、謙信は31歳。かの孔子は「三十にして立つ」と述べた(『論語』)。関東で初めて年を越す謙信も、人生の節目を感じていたのではないだろうか。永禄3年は、初めて越中へ進軍した年でもあった。大晦日、厩橋城から目にする上野の空は、謙信の目にどう映っていただろう。感慨深く眺めたか、それとも時間に追われてそれどころ...上杉謙信の初の関東越年はどこだったか?

  • 行田の須加に古墳があった? ―大稲荷古墳群―

    埼玉県行田市須加の古墳は“大稲荷古墳”と呼ばれる。ただ、古墳といえども何もない。田んぼが広がっているだけである。昭和44年12月下旬、耕地整理作業の最中に田んぼから埴輪が出土した。年の瀬もいいところで、同月27日と28日に調査を実施。すると、2基の古墳が確認された。1号墳は、稲荷神社が鎮座していた場所にあった。大稲荷古墳の名の由来はここにある。同墳からは円筒埴輪が出土。円を描くように列をなしていたという。ただ、主体部は破壊されていた。2号墳は、1号墳から東南57mの地点で確認。むろん、塚はない。地中から姿を現した礫群や直刀などにより、古墳と判断された。なお、同墳からは鏡板の鉄製馬具も出土しており、いずれも、5世紀末~6世紀前半頃のものとみられるという。耕地整理によってたまたま発見されたが、地中にはまだ遺物...行田の須加に古墳があった?―大稲荷古墳群―

  • 羽生はクリスマス最中でも “和”に彩られる? ―酉の市―

    年末年始だから羽生城へ行こう。2024年12月25日、羽生城址碑の建つ古城天満宮(羽生市東5丁目)で、“酉の市”が開かれる。毎年クリスマス当日に開催されるから覚えやすい。クリスマスという西洋文化と、酉の市という和の文化が、古城天満宮で融合されている(気がする)。クリスマスが過ぎると、西洋文化の雰囲気が一掃されて一気に正月モードとなる。上杉謙信の越山がなかった天正元年(1573)の年の瀬、羽生城主木戸忠朝はどのような想いでいたのだろう。孤立無援の中、羽生城が堅固に守られるよう正覚院に祈祷を依頼するのは年明けのことだった。熊手に彩られた境内で何を思うだろうか。今年1年のこと?来年への願い?人生、不安や心配事が消えることはないが、穏やかな気持ちで本殿に手を合わせたい。羽生はクリスマス最中でも“和”に彩られる?―酉の市―

  • “うなぎ”に助けられたゆえの禁忌とは?

    市田氏の館跡比定地(埼玉県熊谷市久下)を訪ねたついでに、三島神社に立ち寄った。境内には「うなぎの伝説三島様」という看板が建っていた。この地域にはうなぎに関する伝説が残る。荒川の洪水時、人々を助けたのは突如現れた大うなぎだった。人間がその背中に跨ることができるほどの大きさだったという。まさに神の化身。以来、久下の人たちはうなぎを食さなくなったと伝わる。うなぎが好きな人には悩ましい禁忌だろう。落語家の古今亭志ん朝(三代目)は、うなぎが大好物だったにも関わらず何十年も絶っていたという。一種の信仰・ゲン担ぎによるものだった。志ん朝の「鰻の幇間」はいつ聴いても面白い。しかし、禁忌を背負っての高座だったことになる。演じたあとは、ひとしお食べたくなったのではないだろうか。2024年の丑の日は7月24日と8月5日だった。...“うなぎ”に助けられたゆえの禁忌とは?

  • リアルに戦国時代へタイムスリップできる場所は?

    復原するのにここまでやるか……と驚いたのは、やはり一乗谷(福井県福井市)。長年にわたる調査をもとに戦国時代の城下町が復原されている。模型は目にしても、町並みそのものの復原はそうはない。足を運べば、戦国時代にタイムスリップした感覚に陥る。歩けば朝倉義景公とすれ違えそうな気がする。何気なしに高校時代の日本史の教科書を開いた。すると、コラムの形で一乗谷が取り上げられていたことに気付く。(当時、この記事を読んだ記憶はなく……)母校の教科書は実教出版の『日本史B』だった。奥付を見ると、平成6年1月の発行となっている。一乗谷の復原町並の完成は平成7年だったことから、その1年前は工事も大詰めを迎えていたのだろう。そのため、教科書に掲載されている写真は模型の町並みとなっている。(出土した紺屋の大甕の併せて載っている)ここ...リアルに戦国時代へタイムスリップできる場所は?

  • 深谷築城前に深谷上杉氏が拠点としたのは? ―庁鼻和城(国済寺)―

    深谷城址から東へ少し行ったところに国済寺(埼玉県深谷市)はある。ここは庁鼻和城址でもある。いわば、深谷城の前身的存在。上杉憲英(のりふさ)による築城で、本堂の裏手にはその墓碑も現存している。参詣の際は憲英公にも手を合わせたい。この深谷上杉氏の5代目房憲が、康正2年(1456)に深谷城を築いて移ったという。深谷城址は現在公園となり、庁鼻和城とは様相が全く異なる。ちなみに、7代目の憲盛のとき、上杉謙信は北条氏との同盟に際し、羽生城の広田直繁と木戸忠朝に深谷城の帰属を命じた。羽生側からこの外交を担当したのは佐藤筑前守だった。木戸忠朝は謙信方の河田豊前守に対し、佐藤氏を案内者として報告させるとともに、古河や栗橋の様子のことも述べさせている(『歴代古案』)。国済寺の裏手には土塁や塚が現存する。土塁に隣接するように建...深谷築城前に深谷上杉氏が拠点としたのは?―庁鼻和城(国済寺)―

  • 行き詰ったら場所を変える? ―群馬県立図書館―

    どう手をつけていいのかわからない仕事があった。期限は目前に迫っている。材料はそろっていた。形はぼんやり見えている。が、まとまらない。切り口がわからない。こういうときは場所を変えてみる。気分転換をかねて。ということで、足を運んだ群馬県立図書館。群馬県前橋市にある。2階の机を使った。最初はペンを執り、鈍ったらノートパソコンを開いた。しばらくすると、切り口が見えてきた。観点が定まれば材料は揃っている。なんとかなりそうだ。ほっと息をついた。テーブル机では、古そうな資料を広げて書き物をしている年輩者がいた。テーマで探している本を司書に相談している人もいた。利用者なのか職員なのかわからない女性。すらりと背の高い大学生風のイケメン。無精ひげを生やした自分は、他者の目にどう映ったかな。県立図書館から前橋城は近い。関東静謐...行き詰ったら場所を変える?―群馬県立図書館―

  • 唐沢山城は“ネコ城”か?

    唐沢山城(栃木県佐野市)へ足を運んだら、若い女性と何人もすれ違った。年末だから唐沢山神社に参拝か、それとも城の人気が高まったのか……と思ったら、ネコがたくさんいた。最後に唐沢山城を歩いたのがいつだったか思い出せないが、ネコがいた記憶はない。いつの間にネコ城になったのだろう。人にだいぶ慣れていて、近付いても逃げようとしない。カメラを向ける人、頭をなでる人、微笑ましく見ている人……。その全員ではないだろうが、若い女性と多くすれ違ったのも、ネコと関係しているのかもしれない。(城址とネコがセットでNHKの番組にも取り上げられたのだとか)ところで、戦国時代に上杉謙信が唐沢山城を何度も攻めたことはよく知られる。永禄年間の終わり、羽生城の“広田直繁”と“木戸忠朝”はいち早く参陣した。謙信は彼らに起請文を出し、「その忠信...唐沢山城は“ネコ城”か?

  • マスクをかけた“萩原朔太郎”は何を想ふ? ー前橋文学館ー

    新型コロナウイルスが流行する前に足を運んだ“前橋文学館”(群馬県前橋市)“萩原朔太郎記念”が併設された同館は、朔太郎ゆかりの遺品や原稿などが多く展示されている。その頃、妙に疲れていた。何とはなしに行き詰っていた。「猫町」へ行きたかったのかもしれない。「景色の裏側」にある「秘密」に触れたかったのだろう。時折、萩原朔太郎の「猫町」を開いては、いまここではない場所へ身を置きたかった。記念館の前には朔太郎の銅像が建っている。コロナが流行り始めていたせいか、銅像の朔太郎はマスクをしていた。当時でしか見ることのできない光景だったかもしれない。ところで、朔太郎の作品に触れるのもいいが、娘から見た父の姿を読むのも面白い。萩原朔太郎と言うと、文学史的な人物として肖像画に収まってしまうが、娘葉子が書き記した自伝的小説を読むと...マスクをかけた“萩原朔太郎”は何を想ふ?ー前橋文学館ー

  • 住宅街で縄文の潮騒が聞こえる? ―黒浜貝塚―

    海を感じたくなったら“黒浜貝塚”(埼玉県蓮田市)。か、どうかはわからないが、かつて縄文時代の海が入り込んでいた。蓮田市役所に隣接しており、西に鉄道、東に高速道路が通っている。周囲は住宅街で、現在の景観からは海が広がっていたとはとても想像できない。国の史跡に指定され、公園として整備された。近代化の波が押し寄せているのに、よくこれほどの面積が残ったものだと思う。本格的な発掘調査は昭和46年から始まったという。現在の形に整備されるまで長い年月を要し、これから後世へ受け継がれていくのだろう。ところで、黒浜貝塚で海を感じたあと、埼玉のソウルフードと言われる「るーぱん」で昼食をとった。注文したのは、アサリたっぷりのボンゴレスパゲティ。縄文時代の人々もおいしい貝を食べていたに違いないが、さすがに「ボンゴレスパゲティ」は...住宅街で縄文の潮騒が聞こえる?―黒浜貝塚―

  • 羽生の「とにかく楽しもう!三田ヶ谷」は何が最後か?

    11月30日(土)は、「とにかく楽しもう!三田ヶ谷」の開催日(午後1時30分受付開始)。羽生市立三田ヶ谷小学校が令和6年度で閉校となってしまうため、同校を会場に同イベントが開催されるのは最後となります。午後3時以降、私は“田舎教師”に扮して着物姿でウロチョロしているかも?ご参加される方、会場でお会いしましょう。ぜひ楽しんでいってください!羽生の「とにかく楽しもう!三田ヶ谷」は何が最後か?

  • 武田信玄はなぜ“本庄”と“久々宇”を放火したのか?

    永禄7年(1564)“本庄”と“久々宇”(どちらも埼玉県本庄市)に進攻した武田信玄。上野国進攻後に同地へ進軍し、火を放った(「鎌原系図」所収文書)。これには、忍城主成田氏が一枚噛んでいたかもしれない。いや、成田氏が信玄へ要請したわけではない。本庄と久々宇が成田氏と関係していたがために、信玄が進攻したのである。永禄四年(1561)作成の「関東幕注文」には、成田氏率いる武州之衆に“本庄左衛門佐”の名が見える。天正6年(1578)作成とみられる「成田御家臣分限帳」(柴崎家文書)には、永千貫として“本庄越前守”、永三百貫として“久々宇大和”の名がある。本庄領は、成田氏の勢力圏下となった時期があったとみられる。そのため、武田信玄は同氏に圧力をかけるべく進攻した、ということが考えられるだろうか。永禄7年当時、成田氏は...武田信玄はなぜ“本庄”と“久々宇”を放火したのか?

  • 1564年、“武田信玄”が放火したのは「本庄」とどこか?

    ちょっとマニアックな歴史散策。永禄7年(1564)、上野国へ進攻した“武田信玄”は、城攻めというより麦や苗代を悉く刈り取るという攻撃を決行した。刈った作物は焼き捨てず、上野国の各所に置いたらしい。その後、信玄は武蔵国へ進攻。本庄(埼玉県本庄市)と久々宇(同市)を放火したという。久々宇は利根川の変動によって上野国側だったのだが、信玄の書状には「武州」と記されている(「鎌原系図」所収文書)。本庄には城がある。久々宇には城館らしきものは見当たらない。民家が攻撃の対象になったのだろう。(いや、放火する何かしらの理由があったはず)具体的な被害は定かではないが、地域住民を不安に陥れたことは間違いない。久々宇は利根川に面した閑静な地域だ。同地進攻は、史料上では短い一文にすぎない。しかし、戦国期の敵勢による容赦ない進攻を...1564年、“武田信玄”が放火したのは「本庄」とどこか?

  • 1574年、上杉謙信は金山城下のどこに着陣した?

    いささかマニアックな散策。天正2年(1574)、羽生城(埼玉県羽生市)を救援すべく上杉謙信は関東に出陣する。すると、羽生城側から金山城(群馬県太田市)を攻めてほしいとの要請があった。同年3月26日、謙信が着陣したのは金山城下の“藤阿久”(同市)という地域だった。このときの進攻によって藤阿久は放火されたらしい。4月1日には城攻めを決行する予定だった。そのため、羽生城主“木戸忠朝”と同城将“菅原為繁”は、謙信から参陣を求められるのだった。(「中山小太郎氏所蔵文書」)藤阿久のどこに謙信が着陣したのか、その具体的な場所は定かではない。現在はごく一般的な街並みが広がっている。でもやっぱり行きたい藤阿久。この手の散策は、一人でないと早々に飽きられてしまう。グルメでも城館でもなく、着陣跡散策。実際に足を運ぶと金山城との...1574年、上杉謙信は金山城下のどこに着陣した?

  • 羽生城合戦の供養会の動画

    11月4日に執り行われた“羽生城合戦四百五十年忌供養会”。11月20日に拙ブログの記事でも紹介しました。実は、供養会の様子が動画にアップされています。羽生市南羽生に所在する“富徳寺”の公式チャンネルです。動画を作成されたのは、富徳寺の源憲雄ご住職(現羽生市佛教会会長)でしょう。この日、自分は現地にいたのに、あまり写真を撮らなかったのが少々悔いています。なぜか遠慮してしまった……。来賓として、河田晃明羽生市長や行田邦子行田市長もご出席され、県や両市の議員さん数名、何人かの学芸員の姿もありました。動画の最後には、乃至政彦氏や私の講演の様子がちらっと映っています。乃至先生の講演を見るのはいいのですが、自分を動画で目にするのは顔から火が出るほど恥ずかしい。なので、自分のところは飛ばしますが、よくよく考えればユーチ...羽生城合戦の供養会の動画

  • 「毎日新聞」に掲載された“羽生城合戦”の供養会

    本日の「毎日新聞」埼玉版に、11月4日に行われた“羽生城合戦四百五十年忌供養会”が取り上げられました。そのタイトルも「羽生城合戦の将兵弔う」。羽生城が自落して450年目にあたる2024年、羽生・行田両市佛教会の合同主催により、当時の戦いで亡くなった人々を供養するというものでした。場所は富徳寺(羽生市南羽生)で、一般参加は募らず関係者のみの供養会でした。記念講演も行われました。最初に、歴史作家の“乃至政彦”氏が「上杉謙信の関東越山について」。次に、私が「羽生城をめぐる攻防と自落」について講話させていただきました。この供養会が催されたのも、羽生市佛教会会長の源憲雄ご住職(富徳寺)と、行田市佛教会会長で真観寺(行田市小見)の中村重継ご住職の御尽力の賜物です。管見ですが、このような形で羽生城の供養が行われたことは...「毎日新聞」に掲載された“羽生城合戦”の供養会

  • 羽生城をめぐる北武蔵争奪戦

    まつやま書房から本が出ました。その名も『羽生城をめぐる北武蔵争奪戦』(髙鳥邦仁※ハシゴの“髙”を使ってます)。既存史料や新出史料を別の角度から読み直し、羽生城を改めて描きました。ご高覧いただければ幸いです。羽生城をめぐる北武蔵争奪戦

  • 羽生城ゆかりの場所を巡る半日旅 ―羽生史談会―

    6月某日、羽生史談会から依頼を受けて、羽生市内の羽生城ゆかりの施設を訪ねる研修の講師を務めた。マイクロバス1台を借りて市内を巡る。足を運んだのは以下のとおり。古城天満宮伝堀越館跡源長寺寄居内手岩瀬河原合戦場比定地正覚院※全て羽生市内。半日のみのため、このくらいが限度だった。予定していた小松神社への参拝は叶わなかった。印象深かったのは、最後に皆さんで冨田勝治先生の墓前に線香を手向けたこと。羽生史談会は先生を中心に始まった会である。女性が多いのが特徴で、かつては泊まりで研修旅行へ何度も行っていた。僕が羽生史談会に関わったのは20代のときで、当時、冨田先生は90代後半だった。先生は毎回の講師を務め、80歳から始めたというワープロでレジュメを作っていた。中休みには必ずお茶とお菓子が出たのは、女性の多い会ならではの...羽生城ゆかりの場所を巡る半日旅―羽生史談会―

  • 明和の“大輪館”はどこにある?

    大輪館(群馬県明和町)は、利根川に面して位置している。長良神社と常光寺の間の一帯がその比定地だが、館の遺構は見当たらない。かつては堀が巡っていたというが……大輪又太郎時秀の居館と伝わる。永仁3年(1195)の関東下知状(「長楽寺文書」)にその名が見られる。天正2年(1574)に上杉謙信が大輪に着陣したとき、館は存在していたのだろうか。上杉勢の着陣の際、大輪館を攻略したという記録はない。が、渡河点の近接地であり、張り巡らされた堀の遺構が残っていたことから、戦国期は利根川に係る軍事的機能を持っていたかもしれない。館跡比定地には民家が建ち、道はアスファルトに覆われている。常光寺は文禄元年(1592)の創建という。ゆえに、同寺が陣所になったことはないだろう。伝承の域を出ず、新たな知見がない限り、謎に包まれたままか...明和の“大輪館”はどこにある?

  • 毛呂山町の“鎌倉街道上道”を歩くは鎌ぶらか?

    毛呂山町に残る鎌倉街道上道を歩く(鎌倉街道B遺跡)。掘割の遺構が残り、里山が周囲の風景を隠してくれるから、鎌倉時代へ想いを馳せやすい。里山の中、ポコポコと盛り上がる土山は川角古墳群。苦林宿の可能性が高い“堂山下遺跡”は、現在大類グランドとなっているが、室町時代の集落跡の記憶が眠っている。石で組まれた井戸跡などが検出され、職人がいたことを示唆する遺物も出土したという。蔵骨器や板碑が出土した崇徳寺跡や、高さ約3mの延慶3年(1310)の銘を持つ板碑。越辺川に面した交通の要衝地として栄えた往古の賑わいを感じさせてくれる。この毛呂山町の鎌倉街道上道は、令和4年度に国の史跡に指定された。多くの関係者が尽力したのだろう。毛呂山町歴史民俗資料館も街道に近接して建っているから、親子で訪ねる人も少なくないに違いない。平日休...毛呂山町の“鎌倉街道上道”を歩くは鎌ぶらか?

  • 藤島城と木戸元斎

    天正19年(1591)年、木戸元斎は直江兼続らとともに、一揆勢が立て籠もる藤島城(山形県鶴岡市)を攻め落とした。元斎は同城を破却後、大宝寺城(同市)を取り立てたという。羽生城主木戸忠朝の二男として生まれた元斎は、天正2年(1574)の羽生自落後に上野へ移り、のちに上杉景勝に仕えた。同18年の小田原城合戦の一連の戦いでは、元斎は上杉勢に参陣し、北条方の城を攻略している。歌人として知られた元斎だが、武才もあったのだろう。無双の歌人であり、太田道灌から軍の相談役を務めた祖の木戸孝範を彷彿とさせるものがある。藤島城址は、現在は八幡神社の境内地となっている。水堀と土塁が現存し、前者の幅は13メートルほどという。土塁の規模や2メートル前後で、八幡神社の鎮座地が本丸に比定される。一見館のように見えるが、往古は城郭の様相...藤島城と木戸元斎

  • 8月2日の藤

    加須市内で記念樹を見かけた。1996年8月2日、加須ロータリークラブが創立25周年として、公園内に藤の木を植えたらしい。ちょうど春の季節で、藤の花が満開に咲いていた。2024年は1996年と同じ暦という。今年の8月2日は金曜日だから、1996年も週末に位置していたことになる。その年は高校生最後の夏休みだった。だから家と図書館を行き来していたわけだが、ときどき閉館後に利根川へ足を延ばした。図書館には知っている同級生の顔が何人かあって、机に向かっていた。過ぎていく日々の中、言葉を交わしたいのに話しかけられない人がいた。どんな日常を過ごし、卒業後はどんな未来を思い描いているのか。ついこの間まで、何の気兼ねもなく言葉を交わしていたのに。あの日を境とするまで、いろんなことを話していたのに、近くて一番遠い人がいた。人...8月2日の藤

  • 長栄寺と毛呂城址(毛呂氏館跡)

    大型台風の襲来のとき、警報の出された市町村名を読み上げたアナウンサーが「けろやままち」と言った。どうやら「毛呂山町(もろやままち)」を「けろやままち」と読み違えたらしい。アナウンサーに同情の念が湧く。地名は難しい。知らなければ、「けろやま」と読むのが普通かもしれない。ただ、そのアナウンサーのおかげか、毛呂山町はかわいい町のイメージがついた。詰所で一緒に待機していた人たちも、「けろちゃん」と微笑んだ。激しい風雨に緊張感が増しているときだっただけに、少し場が和んだのを覚えている。そんな毛呂山町にはいくつかの城跡がある。長栄寺が建つ場所もその一つ。町中からほんの少し離れた山麓に位置し、そのため遺構の一部が残っている。毛呂氏の拠点であり、大永4年(1524)の上杉氏による毛呂攻めの舞台の一つと見られている。「浅野...長栄寺と毛呂城址(毛呂氏館跡)

  • 毛呂山町の町中に城跡がある? ―山根城―

    妙玄寺(埼玉県毛呂山町)の東方にかつて“毛呂城”があったという。“山根城”とも言い、妙玄寺近くの踏切の傍らに、その名が刻まれた石碑が隠れるように建っている。長栄寺側の城跡とは異なり、妙玄寺周辺は住宅街である。ゆえに、城の遺構とおぼしきものは見当たらない。何の情報もなければ、そこが城跡とは気付かないのではないだろうか。昭和40年代に妙玄寺遠景を写した写真を見ると、畑の中にお寺がポツンと建っている光景に驚く。住宅がまるでない。のどかな景色が広がっている。かつては水堀が残っていたという。以後、開発の波が押し寄せ、住宅街へと変貌を遂げたのだろう。平地の城跡は、開発の波から免れるのが難しい。史跡公園等で整備されているのは稀だ。大概は時代の流れと共にその姿を消している。妙玄寺は毛呂氏夫人の開基と伝わる。境内には供養塔...毛呂山町の町中に城跡がある?―山根城―

  • 女淵城と木戸元斎

    天正2年(1574)1月に越山した上杉謙信は、羽生城将へ宛てた3月13日付の書状の中で、善城・山上城・女淵城を落とした旨を伝えている(「西沢徳太郎氏所蔵文書」)。女淵城の沼田平八郎は、重ねて金山城の由良氏に同心したためこれを攻略し、同城に越後衆を置いたという。女淵城は群馬県前橋市粕川町に所在する。水堀が印象的な城址だ。天正2年閏11月に羽生城(埼玉県羽生市)を追われた木戸元斎は、謙信に引き取られて上野の城に置かれた。善城が有力視されているが、女淵城に在城した可能性も指摘されており、もし後者とすれば、水の城という意味で羽生城を彷彿とさせるものがあったかもしれない。現在の城跡は公園として整備されている。それぞれの郭が認められ、園内を散歩するにしても、歴史散歩と言うにふさわしい。本郭の南には、二の郭、三の郭と続...女淵城と木戸元斎

  • 会の川の最上流部にて

    令和6年5月26日開催の「タイムスリップまち歩き」で訪ねた会の川の最上流部。会の川はかつて利根川の本流だったが、現在は川幅も狭く、穏やかな流れになっている。「本流」と言っても、水勢は時代によって異なっていたらしい。文禄3年(1594)の締切時には、すでに「派川」と言ってもよく、言い伝えられるほどの難工事ではなかったとみられる。人柱伝説、西福寺へ発給された文書、締切神社、利根川東遷……。会の川上流部における歴史的素材は賑やかだ。ところで、小学校の社会科の授業で、地元を勉強するのは小学3、4年生のときだった。「はにゅう」や「埼玉県」といった教科書を使った。いわゆる副読本である。当時、僕は「社会」は苦手な科目だった。産業や治水に関心は薄く、テストの点数もいまいち。教科書を目にするだけでストレスを感じるほどだった...会の川の最上流部にて

  • 羽生の“内手橋”近くに出城があった? ―内手―

    羽生市内に“内手橋”という橋が架かっている。埼玉用水に架かる橋で、羽生市小須賀地内となる。“内手”は城郭用語に数えられる。「打出」「内出」とも表記され、群馬県内の城館跡にも見られる。ということは、ここに城館があったのだろうか?埼玉県の調査では、内手は城館として比定している。冨田勝治氏も羽生城の支城として、境界を守る出城という見解を示した。そう、出城。内手は出城の別称であり、山﨑一氏は一揆の勢力下にあった地方に多いと述べた。堅固な城館というより、武装化した屋敷のようなイメージだろうか。ただ、郭を設ければ城郭である。城絵図もなく考古学的成果もないため、構造や縄張りは不明である。ところで、埼玉用水に架かる内手橋は、戦国時代から存在するものではないだろう。その前身はあったかもしれないが、現在の橋は埼玉用水路として...羽生の“内手橋”近くに出城があった?―内手―

  • 5月26日、羽生でタイムスリップが起こる?

    気が付けば1週間を切ってしまった。5月26日(日)に「第5回羽生タイムスリップまち歩き」が開催される。主催は羽生市観光協会。同会に声をかけられて、今回も講師を務めることになりました。参加される方々、よろしくお願いします。今回のテーマは利根川沿いの歴史散歩だ。文禄3年(1594)に会の川が締め切られてから430周年を記念して、締切址及びその周辺を散策する。地域としては、上新郷、小須賀、上川俣、本川俣になる。羽生市観光協会のS局長とMさんと何度も打ち合わせをした。距離がいささかあるように思われたのだが、お二人がGOサインを出したので大丈夫だろう。開催に先立ち、参加募集ポスターが公共施設を中心に張り出された。まさか自分の顔が出るとは思わなかった。Mさんには何度も言ったのだが、結局掲載されてしまった。そのせいで、...5月26日、羽生でタイムスリップが起こる?

  • 待ち時間は“真名板高山古墳”で……

    休職していた頃、保育園の子どもを預かる時間が短縮された。制度上仕方のないことで、むしろ預かってもらえるだけありがたかった。迎えの時間のおよそ40分前、真名板高山古墳(埼玉県行田市)へ立ち寄ったことがある。用事があるわけでもなく、古墳が見たかったわけでもない。ただ、何とはなしに足を運んだ。古墳は何も変わらないように見えた。麓に建つ板碑や薬師堂も、最後に見たときと同じのまま。変わったのは自分の方で、心身が故障していたせいもあり、古墳に登る気力も起きなかった。古墳には何本もの樹木が立っている。西日で長い影が落ちていた。その影に車を止め、少しの間本を読んだ。静かだった。境内には誰もおらず、樹木の中から鳥が鳴いていた。一日が終わろうとする静かな時間。いつ職場復帰できるのかわからず、夕方はいつも不安に襲われた。が、古...待ち時間は“真名板高山古墳”で……

  • なぜ北条氏は羽生城を力攻めにしなかったのか? という謎について

    読むたびに、目に留まり続けた一文がある。それは平井辰雄氏の『羽生の歴史回顧』。北条氏が羽生城を力攻めにして落とさなかったことについて、北条方にとって羽生の地はそれ程魅力のある所とは思わなかったものと思われ、その証拠には羽生城破却後、北条家の重臣を配置しないで、忍城主に預けたことからもわかります。と述べている。たまに手に取ってはこの一文を読み、モヤモヤしていた。2007年の発行だから、10年以上モヤモヤしていたことになる。岩田明広氏が執筆した忍びに関する論文や、同氏から声をかけられて『戦国の城攻めと忍び』(吉川弘文館)に寄稿したのを機に、天正2年における羽生城攻防について改めて考えた。北条氏はなぜ羽生城を力攻めにしなかったのか?自落後、羽生領はなぜ成田氏に接収されたのか?自分の考えは、平井氏の見解とは異なる...なぜ北条氏は羽生城を力攻めにしなかったのか?という謎について

  • 脳に効くのはどんな音?

    夜、急遽コインランドリーへ行く用事ができた。一人、洗濯物と原稿(ゲラ)を抱えてコインランドリーへ足を運ぶ。何度か使ったことのある店だ。以前、大音量でマンボが流れていたのを覚えていた。あれを聞きながら校正するのか……。いささか気が重かった。夜だから車内で作業はできない。家に戻るには微妙な待ち時間である。仕方なく、店内のベンチに腰掛けてゲラを広げた。いまの文量から、30~50枚削らなければならない。それが編集者から出された課題だった。我ながら、小難しいものを書いてしまったと思う。情報量が多い。ゆえに、重複しているところ、説明しすぎている部分、回りくどい表現、もったいぶった言い回しなどを優先して削除していく。店内にはマンボが流れていた。店内に客はまばらで、乾燥機から洗濯物を取り出しては去っていく。話し声も笑い声...脳に効くのはどんな音?

  • 羽生の“公民館”はいつできたのか?

    公民館は“地域の学校”と言っても過言ではない。図書館・博物館と並んで、生涯学習の拠点に位置付けられる。では、羽生市内において公民館はいつ設置されたのだろう。現在、市内には9館の公民館が存在する。全館が同時に建てられたわけではない。段階を経て誕生している。最初に設置されたのは新郷公民館だった。昭和24年9月29日のことである。「社会教育法」の制定と同年のため、早い時期の設置だったことになる。次にできたのは岩瀬地区。同25年5月の設置だった。同26年11月には井泉、翌年8月には手子林という順番を経る。そして、同28年4月に羽生町・須影・川俣・村君・三田ヶ谷にそれぞれ公民館が置かれた。羽生市制施行が昭和29年だから、「村」及び「町」に設置されたことになる。ただ、設置と言ってもそう単純なものではなかった。財政困窮...羽生の“公民館”はいつできたのか?

  • GWはさきたま古墳群の“周辺”古墳をハシゴする?

    4月29日午後、編集者のY氏と打ち合わせ予定だった。午前に図書館へ足を延ばし、ひと作業したいところだったが、妻は仕事の関係でどうしても職場に行かなければならないという。Eテレをつけると、劇場版「おしり探偵」が放映されていた。シリアティ教授が登場する作品である。休職から職場復帰する直前、子ども2人を連れて観に行ったことがある。あの頃娘は保育園児だったが、いまや小学生である。月日の流れは速い。初夏と言えば古墳。さきたま古墳群周辺の古墳を訪ねることにした。子どものテンションは無視して、“八幡山古墳”(埼玉県行田市)へ足を運ぶ。周知のように、石室がむき出しになっており、関東の石舞台と言われる古墳である。過去に何度か子どもを連れてきたことがあったが、いかんせん幼すぎたらしい。初めて目にするテンションで石室の中に入る...GWはさきたま古墳群の“周辺”古墳をハシゴする?

  • 羽生と行田の境目はどこに流れ着く? ―関根落としー

    田植えの季節を迎え、用排水路が賑やかだ。水量の上がった水路をあちこちで見かける。昔から、水を湛えた水路を目にするのが好きだった。母方の実家の裏には南方用水路が流れ、夏になると流れに水草が揺れ、たくさんの小魚が泳いでいた。欄干がやたら低い橋、下まで降りられる階段、転落防止の柵はなく、川はいまよりももっと身近な存在だった気がする。羽生市と行田市の境目を流れる関根落としという用排水路がある。農業用に使用され、目立つ川ではない。この関根落としは、旧川里町(現鴻巣市)の野通川に合流して終点を迎える。かつては星川に合流していたが、現在は同川の下をくぐって旧川里町までのびている。拙ブログでも、何度か取り上げたことがある。とりわけ、深い思い入れがあるわけではない。なのに、ときどき立ち止まってしまう。付近に鎮座するのは久伊...羽生と行田の境目はどこに流れ着く?―関根落としー

  • 夜泣きに向かうは鶴ヶ塚古墳?

    東北自動車道の側道から見える古墳がある。その名も“鶴ヶ塚古墳”(埼玉県加須市町屋新田)。墳頂には稲荷神社をはじめとする社が鎮座していて、「稲荷塚」とも呼ばれている。築造年代は不明で、かつて墳丘から靫形埴輪の下半部が出土したという。周囲は見渡す限りの水田である。かつては、鶴ヶ塚古墳以外の塚もあったのだろうが、その面影はどこにもない。鶴ヶ塚古墳にしろ、だいぶ変形しているようだ。神社が鎮座しているから唯一生き残ったのだろう。陸の孤島と呼ぶにふさわしい。いまだから言えることだが、子どもの夜泣きがひどいとき、鶴ヶ塚古墳まで足を延ばしていた。近所というわけではない。車を使わなければ行けない距離である。田園地帯だからかなり暗い。子どもがすぐに泣き止むような場所でもなかった。それなのに、引かれるように鶴ヶ塚古墳へ向かった...夜泣きに向かうは鶴ヶ塚古墳?

  • 羽生の歴史でこんな変貌はあったか? ―下岩瀬にて―

    迷った末、栗原眼科病院(羽生市下岩瀬)へ足を運んだ。眼圧を下げる目薬が残りわずかになったからで、数か月後に1度の割合で足を運ぶのがルーティンになっている。診療時間開始前に行ったにも関わらず、病院はひどく混んでいた。待合室は広いのに、ベンチに座れない。混雑は覚悟の上だったから、持参した数冊の本を併読しながら、名前が呼ばれるまで待っていた。目薬を貰うだけのつもりだった。が、なぜか定期検査となる。何枚か写真を撮られるだけだったのに、気が付けばひどく肩がこっていた。医師の診察を受け、病院を出るときにはぐったりしていた。激しい運動を強制されたわけではない。それなのに、疲労感を覚えるのは精神から来るものなのだろうか。気が付けば、立ったまま順番を待っている来院者はさらに増えていた。病院内の独特な空気に慣れるには、数日か...羽生の歴史でこんな変貌はあったか?―下岩瀬にて―

  • 羽生の村君公民館に“テレビ朝日”がやってくる?

    5月11日(日)、羽生市内の村君公民館において、“テレビ朝日”出前講座が開催される。演題は「ニュースと災害報道の舞台裏」。講師を務めるのは、社会記者で防災士の久慈省平氏である。その演題のとおり、ニュースや災害報道の裏側で何が起こっているのか。どんな人たちが関わって、日々のニュース報道がされているのか。そんな楽屋裏話をたくさん聞けるだろう。普段何気なく観ているニュース報道も、講座のあとでは違って見えるかもしれない。講座の概要は以下のとおり。日時:5月11日(土)午後1時30分~午後3時場所:村君公民館費用:無料定員:30名(市内在住、在勤、在学の方)申込:村君公民館まで(048―565―3538)※最初の写真は村君公民館(埼玉県羽生市下村君2227)羽生の村君公民館に“テレビ朝日”がやってくる?

  • 羽生の喜右エ門新田の“キタマチ”と“ミナミマチ”とは?

    6月開催の「歴史散策ウォーキング」の下見に随行する。羽生市三田ヶ谷限定のウォーキングで、講師は文化財保護審議委員の尾花幸男氏が務める。三田ヶ谷地区を歩く機会は、水郷公園やキヤッセ羽生以外になかったかもしれない。『田舎教師』巡りをするのも自転車だった。むろん、初めてというわけではないが、改めて歩くとなるととても新鮮に感じられた。弥勒から喜右エ門新田を歩くコースである(いずれも羽生市)。車だと、一瞬で通り過ぎてしまう景色もじっくり目に入ってくる。路傍の石仏、用排水路を泳ぐ小魚の群れ、野に咲く草花……。歴史散策の原点は、やはりじっくり見ることからだと改めて思う。ところで、かつて喜右エ門新田には大きな沼が存在した。現在は埋め立てられて田んぼとなっているが、土地が一段低くなっている。耕地整理が入る前は掘上田が広がり...羽生の喜右エ門新田の“キタマチ”と“ミナミマチ”とは?

  • 羽生の“なまり”はそれほどか?

    4月から、地域の人たちと関わることがめっきり増えた。予期せず、中学時代に学年主任だったS先生と約30年ぶりに再会。意外なつながりを知る。どこにどんな縁があるわからないものである。おばあちゃん子だったせいもあるせいか、年輩者のなまりがわからないと感じたことはない。高校時代、行田の同級生が「羽生のなまりはわからない」というようなことを言っていた。行田も羽生も同じ北埼玉である。そんな大差ないだろう思っていたが、加須の人からも「羽生はなまっている」と時々耳にする。妻もわからないことがあるらしい。地域によってなまりの強弱があり、聞き返すことがあるのだとか。どうやら羽生はなまっているらしい。むろん、個人差はあるだろうが、令和6年においても昔なつかしい言葉の響きが聞ける地域と言えるかもしれない。「なんでなんで」「そぉだ...羽生の“なまり”はそれほどか?

  • 羽生城な1日

    論文の手直し。書籍化予定の原稿を読み直し。背広を着て、講演台の前に立った。論文も書籍も講演の演題も、みんな羽生城でつながっていた。今日は、そんな羽生城な1日。冨田勝治先生の墓前に手を合わせた。ワクワクして先生の論文を読んだ20代とは違って、いま読み返すと巨石のように感じる。先生の域には達していない。退職校長会に呼ばれたのは何年ぶりだっただろう。浅学者ながら、戦国期の羽生城をめぐる攻防をテーマに講演をさせていただいた。羽生城史は変わっていないはずなのに、歴史を捉える自分自身が変化しているのを感じる。史料の捉え方や解釈の仕方があの頃とは違う。それは新史料の発見によるものもあれば、研究の進展もあり、あるいはこれまでの仕事上の経験がそうさせることもある。一方で、見当違いな解釈をしていないか、目を通さなければいけな...羽生城な1日

  • 壁にぶつかったとき、わずかでも……

    3月はなるべく穏やかに過ごそうと心がけているのに、毎年バタつく。詰めなければならない事業、切られるのを待つ伝票たち、あくびをしながらこちらを見ている実績報告書、腕を組んで構えている来年度の契約書や申請書……。その他、組織改正に伴う荷物の運搬があって、慌ただしさに目が回る。3月、編集者のY氏と打ち合わせをした。改めて編集方針を話し合うと案外すっきりした。なるほどそういうことか。テトリス棒が溝にはまった音が聞こえた気がした。以前渡した原稿は、行動規制を余儀なくされたコロナ禍を挟んだせいか、原稿用紙800枚を超えていた。さすがに書きすぎた。ゆえにY氏を煩わせることになり、どのような形にするか、これまで何度となく話し合ったが、漠然としたまま月日が流れた。ここに来て、版元の編集方針がはっきり見えた。改めて原稿を読み...壁にぶつかったとき、わずかでも……

  • 特別展「鉢形城主 北条氏邦」が埼玉で開催されている?

    特別展「鉢形城主北条氏邦」が、埼玉県立歴史と民俗の博物館で開催されている。多くの古文書が展示されている中、兜や刀剣、十二神将も特別展を彩っており、子どもたちはやはりそちらに食いついていた。管見によるが、同館で中世の歴史をこれだけガッツリ取り上げるのは初めて見たかもしれない。令和6年5月6日までの開催だから、もう一度見に行きたい。新年度になれば、仕事で同館を訪ねる機会がありそうだから、そのときがチャンスかも。昼過ぎから妖しくなり始めた雲行きは、いつの間にか雨を降らせていた。博物館内の静けさが深くなった気がした。体験コーナーで、たくさんの子どもたちが賑やかに資料と触れているのに、博物館独特の静けさがある。初めて一人で同館を訪れたのは平日の昼間で、そのときの静けさが脳に焼き付いているからなのかもしれない。博物館...特別展「鉢形城主北条氏邦」が埼玉で開催されている?

  • 夜に訪ねる水海城は?

    水海城(茨城県古河市)は夜闇に沈んでいた。深夜というほどではないが、夜はだいぶ更けていた。が、思い立ったが吉日。一人車を走らせ、利根川を渡った。最後に水海城址へ足を運んだのはだいぶ前になる。文献上では何度も目にしていた城だから、よく足を運んでいる気がしていたのかもしれない。それに、関宿城(同県野田市)が近い。同城を並べてしまうと、個人的な親近感もあって、どうしても水海城は後回しになってしまう。とはいえ、両城とも簗田氏と関係の深い城である。簗田氏が関宿へ移る前は水海城を本拠にしており、その城跡は「南部地域」にあったと考えられている。発掘調査が実施されたのは「内水海」地区で、神明社付近が城跡に比定される。内水海の城は、南部地域の城よりも新しく構築されたとみられている。政治的にも軍事的にも重視された城だが、遺構...夜に訪ねる水海城は?

  • ガキは夢見て終わるが、大人は……?

    S君は90年代半ばに販売されたというブーツを履いていた。ネットで購入したらしい。「あの頃手が出せなかったものを買ったよ」と、S君は言った。90年代半ばというと、僕らは16、7歳になる。そのブーツがどのくらいの金額なのかは聞きそびれた。当時僕はそば屋でバイトをしていたが、1万円を超えるものは「高値」だったし、数万円ともなれば手を出すことはできなかった。10代から20代にかけて、高値で買えなかったものはたくさんあった。いまよりも物欲があり、好奇心もあった。が、警戒心もあって、高値のものに手を出すのにはどうしても身構えた。車の改造にお金をつぎ込む同世代は別格に見えたし、銀座のまわらない鮨屋の常連客は、「小僧の神様」(志賀直哉)のような住む世界が異なる人のようだった。いま思えば、それは少年(小僧)と大人の違いだっ...ガキは夢見て終わるが、大人は……?

  • 戦国期の羽生城をめぐる攻防、の話

    「埼玉史談」を発行する埼玉県郷土文化会から依頼を受け、講師を務めた。タイトルは「戦国期の羽生城をめぐる攻防」。テーマを羽生城に絞って話をするのはいつぶりだろう。会場は羽生市立図書館2階の視聴覚室だった。埼玉県郷土文化会の内野会長から挨拶をいただき、村田副会長が司会を務めて下さった。会場が羽生の図書館だったせいか、20代の記憶が走馬灯のように流れた。自分が28歳だった平成19年だったか、この会場で羽生城をテーマに4回講座の講師を務めたことがある。まだ冨田勝治先生は存命で、自分のような浅学者が人前に立つのはおこがましい限りだったが、あたたかく迎え入れて下さったのを覚えている。冨田先生が逝去したのはその翌年だった。平成20年4月17日に亡くなり、同年夏に先生をモデルに書いた小説が「放課後の羽生城」だった。たまた...戦国期の羽生城をめぐる攻防、の話

  • 代休の午後、足利市立図書館へ

    1月某日。半日代休をとって、足利へ足を延ばした。ふと足利が思い浮かんだのは、気まぐれと思い付き。午後の休みに史跡を訪れるのが好きだ。半日だから、それほど遠くは行けない。でも、定時よりは時間があるし、体力も残っている。その町の図書館を訪れるのも好きなことの一つ。足利は史跡が多い。そのせいか図書館が死角になっていたことに気付く。鑁阿寺や織姫神社には目もくれず、まっすぐ足利市立図書館へ行く。同館の開館は昭和55年ということから、自分と同年代ということになる。レンガ調の建物で、足利市らしい歴史的雰囲気の佇まいである。その図書館のカラーを見るのに、自分は参考調査室・郷土資料室を基準にしている。その館でしか出会えない資料がある。地元の人が調べてまとめたものや、ガリ版刷りの報告書などがそれにあたる。一方で、流通はしてい...代休の午後、足利市立図書館へ

  • 埼玉大学からの「卒業まで」

    調査報告検討会。ムジナモに関する仕事で埼玉大学へ行く。それぞれ専門的な観点から調査した今年度の結果を報告し合う。毎年春先に開かれるこの会を楽しみにしている。北浦和駅で下車してバスに揺られる。金子康子教授の研究室のドアを開き、「知」に触れる。この仕事をしていなければ、出会わなかった世界かもしれない。静かな語り口調でも、その言葉の一つ一つが熱い。冷たい風が吹き荒れていた。そのせいとクスリを忘れたせいかもしれない。一人になると、悲しいわけでも苦しいわけでもないのに時々にわか雨に見舞われる。検討会が終わったあと、同大学の図書館へ足を運ぶ。なぜだろう。脈絡もなく、遠い記憶が浮かんでは消えていく。書架に手を伸ばしても、つかみたいものはずっと遠くにある気がした。混雑したバスに揺られて北浦和駅へ戻る。駅前の居酒屋で雨宿り...埼玉大学からの「卒業まで」

  • 日曜の雨は嫌い

    日々の忙しさでペースが崩れているのを感じる。朝から雨が降っていた。日曜の雨は嫌い。いつも心を塞ぐから。窓の外に城が見える図書館へ足を運ぶ。館内は空いていた。個人机に座り、書き物をする。が、何もしたくない。何も書きたくないし、読みたくない。眠気がまとわりつき、離れそうもなかった。軒から滴り落ちる雨をぼんやり眺めていた。こんな日もある。早めに切り上げて、ランチに魚料理を出す店へ行く。店内は賑わっていた。なんでそんなに楽しそうなのだろう。窓の外は冷たい雨が降っているのに。出したクリーニングを取りに行く。空いていたせいか、店員が珍しく話しかけてきた。明るくて、元気で、クリーニングしたみたいに目がキラキラしている。なぜそんなに明るいのだろう。窓の外では重たい雨が降っているというのに。帰宅して子らと過ごす。妻は買い物...日曜の雨は嫌い

  • 背後から追いかけてくる

    時間が追いかけてくる。バタバタと大きな足音を立てて、背後から迫ってくる。どうしてこんなに忙しくなってしまったのか。メインとなるのは、文化庁に提出する書類作成と郷土芸能発表会の準備。前々から準備をしていたはずなのに、一気に芽吹いてきた感じ。コーヒーを淹れたり、トイレへ行く時間さえもどかしい。たまには机から離れて体を動かしたいし、ムジナモにも会いに行きたいのだが、時間がそれを許さず。仕事のことで同期のTさんを訪ねる。彼女は数字を取り扱っている。机に広がる資料を一見するだけで、難しそうなことをやっているご様子。そんなTさんは古墳好きだ。顔を合わせると、古墳やハニワの話をしてくれる。先日、さきたま古墳群(行田市)へ行ったらしい。丸墓山古墳を登ると、あることに気付いたという。南側の階段は99段、北側は104段あった...背後から追いかけてくる

  • 西新田から熊谷へ、のち雪

    羽生市内の西新田集会所で学級が開かれ、依頼を受けて講師を務める。テーマは新郷地区の歴史と文化財。少し早めに家を出て、羽生市上新郷に鎮座する白山神社を訪れた。空は青く、午後から雪が降る予報が嘘のように晴れ渡っていた。利根川の拡幅工事がすぐそこまで迫っている。社殿はすでに南へ移動済。土台だけを残す旧社殿は、いずれも土手下に埋もれてしまうのだろう。ここに来るたび、あの年の秋を思い出す。当時、境内は木々が鬱蒼と生い茂っていた。高木が数本立ち、隠れ家的な雰囲気に包まれていた。ここに加藤清正にまつわる伝説が眠っていることなど、当時は知る由もない。明治43年の大水では、現在の白山神社から東手で堤防が切れたという。中学生の頃や1994年の冬、土手中腹のサイクリングロードを使って利根大堰へ向かった。そこを通るたび、意味深に...西新田から熊谷へ、のち雪

  • 5度の期せずして

    羽生市内の須影小学校が創立されて150年が経つ。最初は「日正小学校」という校名だった。その150周年記念行事が執り行われる。期せずして河田羽生市長と電話でお話をする。今日はここから始まった気がする。いつもと違う金曜日が始まる予感。それにしても、150年という年輪の中に我々も刻まれているかと思うと感慨深い。午前、羽生郷土研究会からの依頼を受けて講師をさせていただく。思えば、同会を知ってから20年が経つ。20代半ばだった僕にとって、何にも代えがたいご縁だった。右も左もわからぬ若造を優しく迎え入れてくれた。羽生郷土研究会に育てていただいたようなものである。自分が講師などおこがましい。先日も、間仁田会長から資料をいただいたばかりだった。今回も色々なことを教わり、逆に勉強させていただく。午後、ずっとバタバタしていた...5度の期せずして

  • それでも午後はやってくる

    浮き沈みの激しい1日。動くと凶が出る。やることなすこと裏目に出る。そんな日がある。だから、じっと静かにしようと思う。なのに、向こうから電話を鳴り、よくない知らせを伝えてくる。聞きたくない情報を伝えてくる。こんな日は、人里離れて電話も何もないところに籠っていたい。が、全て沈んでいたかと言えば、いくつかの“浮き”があった。昼休み、たまたまそば屋の「よしの」へ行くと、下羽生のS君とばったり会った。息子と二人で食べに来たらしい。会うのはいつぶりか。息子さんはだいぶ大きくなっていた。来年は中学生らしい。S君の姪っ子は今年二十歳になったというし、「じい」「ばあ」と呼ばれる日もそう遠くないのかもしれない。思わぬ対面に、ぎりぎりまで「よしの」で過ごす。議員になったという同級生、自分も何度か顔を合わせたS君のコミュニティが...それでも午後はやってくる

  • よくわからぬものを……

    暮れから取り掛かっていた原稿を、台所でひと通り書き終える。よくわからぬものとなった。何を書きたかったのか。何を考えたかったのか。ただ、紙を文字で汚しただけではなかったか。つまらぬ。笑えぬ。燃え尽きぬ。よくわからぬものを……

  • 子をつれて“カスリーン公園”へ

    冬休み最終日。西風が吹き荒れる中、西へ向かう。旧川里町(現鴻巣市)と行田。書き物をする。ペンをあれこれ変えず、万年筆一本でいく。記憶の断片を切り取った文章を綴る。エッセイというより散文詩か。なぜか英文を読みたくなって、カーペンターズの「RainyDaysAndMondays」の詞を書き写した。英文の詞を書写するなど初めて。西風の影響か。万年筆は書き心地がいいし、疲れない。インクの色も綺麗だ。なので、職場で書類を発送するときは、封書と一筆箋はなるべく万年筆を使っている。鮮やかなインクの色とは違い、自分の字は綺麗ではないのが難点だが。生活用品を買うのに、ベルク行田長野店へ立ち寄った。店に入りかけた途端、同店で高校の同級生がバイトしていたかもしれないことを突如思い出す。いや、気のせいか。熊谷の結婚式場でもバイト...子をつれて“カスリーン公園”へ

  • 子はわからぬ父の二十歳の写真

    羽生市の「二十歳の集い」(成人式)は、産業文化ホールで開催された。ので、出勤する。今年は受付係を担当。昨年は新型コロナにかかって迷惑をかけたので、万難を排して臨んだ(つもり)。仕事の都合上、毎年のように成人式を目にする。そのたびごとに、二十歳の自分と再会する。髪を染め、ピアスをして、タバコを吸っていたあの頃。まるで別人である。その頃の写真を子に見せたら、父親がどれかわからなかった。二十歳の子たちに、もはや知っている顔はない。知っている顔があるとすれば、同伴の保護者の方だろう。子どもが二十歳を迎えた同級生を何人か知っている。それが自然な年齢に達してしまった。今回は知っている顔は見当たらず。たまたまか、単に気付かなかっただけか……。式は無事に終わり、昼に解散となる。そのまま羽生図書館へ足を運ぶ。今年初めての入...子はわからぬ父の二十歳の写真

  • 子を連れて“新田義貞供養塔”と“金山城主墓碑”へ

    冬休みも残りわずか。今時の小学生は、タブレットを使っての宿題がある。しかもタイピング練習。自分が小学生のときは「タ」の字もなかった。時代に合わせた教育が考えられているわけで、先生たちも大変だなと思う。子の宿題に付き添いながら原稿を書く。脳におけるゴールデンタイムは午前中にある。宿題も午前にあてた方が能率はいいかもしれない。妻が娘を習い事へ連れて行ったので、息子と出掛ける。羽生の「伊勢屋」で昼食をとる。今年初のラーメン。店内には、明日の「二十歳の集い」に出席するため帰省中とおぼしき若者が多かったような……。その後、群馬県太田市へ足を運ぶ。金龍寺で新田義貞の供養塔と、金山城主由良氏(横瀬氏)の墓碑を詣でる。お寺やお墓へ足を運んだ際は、本殿と墓碑にそれぞれ手を合わせるようにしている。親子並んで合掌した。息子が墓...子を連れて“新田義貞供養塔”と“金山城主墓碑”へ

  • 資料館からやってきた「茨城城郭サミット」

    郷土資料館のY氏と今年初めて顔を合わせる。2月10日に開催される「茨城城郭サミット」のチラシを持ってきてくれた。副題は「茨城県中世城郭跡総合調査成果報告会―県央・県西編―」とあり、2018年度から開始された総合調査が2023年3月に完了したのを受け、携わった研究者が一堂に会し、その魅力を報告するという。三が日に茨城県の逆井城(坂東市)へ行き、茨城の風に吹かれてきたばかりである。行きたい。が、2月10日は郷土芸能発表会のリハーサルが入っている。作家京極夏彦氏の講演会が、さいたま文学館で開催されたときと同じパターンである。100歩譲って、埼玉県内ならかろうじて行けるかもしれないが、会場が茨城県笠間市では手も足も出ない。職場の窓から、ぼんやりかすむ筑波山が見えた。筑波山はいつ見ても美しい。手の届かぬ憧れの人のよ...資料館からやってきた「茨城城郭サミット」

  • 仕事始めに大阪の古墳とハニワの話

    仕事始めの日。道は案外空いていた。子らを実家に預ける。両親に感謝。仕事納めの式がつい昨日のことのように感じる。能登半島地震と羽田空港事故の話題が何度も出た。「よいお年を」と言っていた年末、まさかこんな年明けになるとは思いもしなかった。今週末には、成人式ならぬ「二十歳の集い」が待っている。担当する係はバタバタ忙しそう。担当者はこの大きなイベントを見据えて年末年始を迎えたことになる。自分がその立場だったら、休みどころの気分ではないだろうな。仕事のできる人は段取りをしっかり組んで、オンとオフを使い分けているに違いない。連絡ボックスの前で同期のTさんに会う。大阪で開催された息子の試合に付き添いつつ、密かに狙っていた古墳訪問を成就できたという。足を運んだのは、大阪市藤井寺市にある古墳。(正式名称は裏を取ってから書こ...仕事始めに大阪の古墳とハニワの話

  • 三が日の羽生とイオン

    年賀のあいさつに実家へ行く。妹一家も来て、子どもたちはいとこたちと楽しそうに遊んでいた。自分の幼い頃の記憶と重なる。母方の実家の祖母が亡くなったのは昨年だった。わかってはいるが、1980年代の正月の光景はもう二度と見ることはできない。幼い頃に見た祖父母の笑顔が消え、心の隙間を感じる。いまの住まいで使用頻度が少なくなった本を実家へ持っていく。代わりに必要になった本を持ち帰る。2冊、行方不明の本がある。実家にあると思っていたが、どうしても見付からない。(逆に重複して買ってしまった本が発覚)一体どこへ行ってしまったのだろう。必要なときに限って、神隠しが起こるのはなぜなのか。空は朝から薄曇りで気分が塞ぐ。昨日の余熱を逃さず、『茨城県史通史編』と、国衆を論じた埼玉県内の市町村史を再読する。どこかへ足を運ぶと、目に映...三が日の羽生とイオン

  • 子をつれて逆井城

    午前中はどうしても動けなかった。クスリが効きすぎたか。妻が職場へ行く用事があり、子らをつれて出掛ける。会心の一撃は狙わず、何とはなしに逆井城(茨城県坂東市)へ足を延ばした。二重櫓や物見櫓が再現されているほか、堀や土塁も現存している。山城ならともかく、平城でここまで現存・整備されているということは、地元の人たちが尽力したからなのだろう。城跡へ足を運ぶときは歴史と対話し、静かに内省したい。が、子ども2人をつれてはなかなか難しい。息子が歴史好きと言っても、織田信長や徳川家康といった歴史的有名人が出てこない城にはピンとこないらしい。ひと通り城跡を歩いたが、ずっとお囃子を聞いているようなものだった。携えてきた『猿島町史資料編』と『関八州古戦録』はチラリと見た程度。車に戻った途端「喉が渇いた」と異口同音に言うので、す...子をつれて逆井城

  • 大型地震の発生を伝えた水槽の水

    2024年になりました。今年もよろしくお願いします。深夜、家族は寝入ったので、毎年のことながら一人で出掛ける。(息子が頑張っていたが、あと一歩のところで寝落ちする)初詣というより、「ゆく年くる年」の乗りで神社仏閣を見て回る。多くの参詣者がある一方で、夜闇に溶け込んでいるところもある。その表情はそれぞれで、かつてはそのギャップが好きだったが、もはや見慣れた感がある。またパリに行くしかないか。午前2時近くでも、参詣に向かって歩いている人がいることに驚く。加須の總願寺(不動尊)は、境内に露天商まで出ている。あのお店は何時まで営業しているのだろう。まさか明け方までやっていることはあるまい(いや、しかし……)。夜が更けるにつれて、男子たちの集団が目立つ。カラオケ店や飲み屋でも客の姿を見かけた。楽しそうな姿を目にする...大型地震の発生を伝えた水槽の水

  • 羽生で年越しそば

    志多見の「辻九」が閉店して初めて迎える大晦日。大切な場所を失ってしまったような、そんな喪失感を覚える。閉店を知った翌日には、厨房で働く夢さえ見た。「辻九」は高校時代のバイト先で、思い入れは深い。閉店は寂しい限りだが、いままでありがとうと、感謝の気持ちを伝えたい。昨夜、やや空腹感を覚える状態で睡眠薬を飲んだせいか、変に体がだるかった。気を抜くと落ち込みそうだったから、ロラゼパムを飲む。昨夜の余熱が残っている内に、『東京・埼玉の城郭』(新人物往来社)を読む。年末年始、人ごみを避けて閑散とした城館を訪ねるのが好きだった。それなのに、病気になってからというもの、羽が折れてしまった感がある。何か強い力で背中を押されないと動けない。ちょっとの力では思い付きで終わってしまう。妻から言わせると、自分は会心の一撃を狙ってい...羽生で年越しそば

  • 東京で知った「8番出口」

    『方舟』(夕木春央、講談社)と『つげ義春日記』(講談社文芸文庫)を読む。前者は、なるほどそんなどんでん返しがあるのかと唸らされる。後者は、そのタイトルの通り著名漫画家の日記。「つげ義春」という人物を情報として知っているから面白く読める。日記文学ついでに『紫式部日記』を紐解く。『つげ義春日記』とはまた別の味わい。(研究として読んでいるわけではないので、口語訳と原文を行ったり来たり)底本は、小学館の『日本古典文学全集』。「ちょっとしたことで後にふと思い出されることもあるし、そのときは「をかしきこと」と思っても忘れてしまうものもあるのはなぜだろう」という一文に共感する。息子が東京へ行きたいと言ったので、急遽首都高に乗る。日本橋→東京駅→GHQ本部→皇居→桜田門→警視庁→国会議事堂→各省庁→国立公文書館→勝鬨橋→...東京で知った「8番出口」

  • 子をつれて“いなほの湯”

    旧川里町(現鴻巣市)へ足を運ぶ。ここにはお気に入りの公園がある。公園といえども、人がほとんどいないのが気に入っている。車内でとめどないことを書きながら、『つげ義春日記』(講談社文芸文庫)と『正津勉詩集』(思潮社)を読む。つげ義春氏の日記には不安や苦悩が綴られているが、やはり華やかさもある。日記には正津詩人も登場する。2021年、正津先生は『つげ義春「ガロ」時代』(作品社)を上梓し、話題になった。両先生のように売れっ子ではない自分は、閑散とした場所で赤城おろしに吹かれているくらいがちょうどいい。12月のはじめ、下旬に一度打ち合わせをしましょうと言った版元からの連絡は結局なかった。年末年始にゲラの手直しができると期待したが、幻の仕事になりそうだ。「予定」が自然消滅することが続いている。徒労と疲労が濃くなりつつ...子をつれて“いなほの湯”

  • 古城天満宮と仕事納め

    仕事納めの日。机の上を少し片づける。昼は、上席から振舞われたそばをおいしくいただく。その後、古城天満宮まで散歩した。ばったりH部長と会い、天満宮に掲げられた幟旗について立ち話をする。部長は社会科の教員ということもあり、さすが目の付けどころが違う。拝殿の前で手を合わせ、この一年の報告と翌年の無事を祈念する。昨年の暮れは土器の欠片を拾った。縄文時代の土器片の可能性が高い。今年も何か見付からないか気になったが、探している時間はなく職場へ戻る。以前借りた考古学関係の研究報告書の返却に教育長室へ入る。秋本教育長は、いつも有益な資料をご教示くださる。さいたま文学館へ随行させていただいたことも二度ほど。本来僕のようなポンコツが足を踏み入れる場所ではないのだが、市長室をはじめ、教育長室に入って出たあとはいつも違う。何か一...古城天満宮と仕事納め

  • 昭和40年代の羽生から

    年明け早々に講師の仕事があり、その仕込みをする。昭和40年代の羽生の商店が載っている本を読み、パワポとレジュメを作る。当時は個人商店が多く、被服や布帛を扱っている店が多い。旅店も少なからずあり、現在とは別の勢いを感じる。朝の羽生駅を写した古写真には、改札口を出る多くの女性たちが写り、埼玉県内で言えば大宮駅の光景のようだ(ちょっと言いすぎかな)東北から北埼玉へ働きに出てきた若い人も多かったという。羽生の町中には2つの映画館があり、駅前にはボーリング場もあった。束の間の休息、娯楽施設で息抜きをした人も多かっただろう。インターネットもなかった時代。化粧品を買いに行くにも個人商店だったろうし、人と人との距離がいまより近かった。在宅勤務やテレワークといった勤務形態など、想像もしていなかったはず。冬休み中の子どもたち...昭和40年代の羽生から

  • 再開のラー活

    行田真名板から年輩の方が再び訪れ、同地域の歴史をまとめた資料をいただく。色々と調べられており、地元に伝わる口碑も取り上げている。他に類のないもので、ありがたく頂戴する。羽生のK君とラー活(ラーメン活動)を再開する。彼は来月から職場復帰するという。心療内科の病院のことで相談を受けたのは今年の春だった。通院、入院、復職プログラムと段階を経て、晴れて復帰。あんなに苦しそうなK君を見るのは初めてだったから、鴻巣で食べたつけ麺の味は一入だった。そんな彼は、休職中にジェームス・ジョイスの『ユリシーズ』をクリア(読破)したという。「翻訳不可能」の枕詞が付きがちな『フィネガンズ・ウェイク』も、原語に当たっているらしい(同書は柳瀬尚紀氏の翻訳が出ている)。秋口に会ったときは、日本の古典文学を集中して読んでいた。神田古本まつ...再開のラー活

  • クリスマスイヴに古墳を訪ねる?

    クリスマスイヴということもあり、図書館へ行くのは自粛した。子らが仮面ライダーや戦隊ものを観ている間、本の世界に入り込む。二十代の頃、イヴ当日に群馬県の山城を訪れたことがある。思い付いて出掛けるには家族に迷惑がかかるので、山崎一氏の『群馬県古城塁址の研究』を開いて脳内旅行をする。ついで、上野国の国衆について論じた黒田基樹氏の論文を読み直す。興に乗ってきたところで、『史料綜覧』『大日本史料』『越佐史料』を拾い読む。数枚カードを書いてファイルに綴れば、旅の思い出ができたようなものだ。子2人を連れて真名板高山古墳へ行く。数日前、真名板から職場を訪ねてきた年輩者からある情報を貰った。その確認をしに行った。なぜだろう。行くならいましかない気がした。イヴに見る古墳もなかなか乙なものである。(振り返ったら、2018年にも...クリスマスイヴに古墳を訪ねる?

  • 気が重くなる原稿

    ウコンの威力のせいか、寝覚めはすっきりしていた。頭痛もせず、気持ち悪くもない。K部長に報告せねば。西の図書館へ行き、原稿を書く。前から考えていた案を下書きしてみた。が、題材が精神衛生上あまりよろしくない。思い出すたび気が重くなる。娘をスイミングスクールへ連れていく。年の瀬とはいえ、チビッ子でいっぱいだった。娘は背泳ぎを合格して級が上がったと嬉しそうだったので、帰りにショートケーキを買う。ささやかなお祝い。子が図書館へ行きたいと言い、地元の館へ連れていく。そういえば、今日は大河ドラマ「どうする家康」が再放送していた。終了を惜しむように『国史大系』収録の『徳川実紀』を拾い読みする。『大日本史料』に収められた三方ヶ原合戦関連史料を読む。(阿部寛氏扮する武田信玄がカッコよかったな)大久保忠隣は登場しなかったが、個...気が重くなる原稿

  • 熊本と明和のサンタ

    明和のTさんと赤ちょうちんへ飲みに行く。平日最後の金曜日とあって、どの店も人で溢れていた。夏に一度だけ、居酒屋で出会った熊本のSさんと偶然顔を合わせる。あのとき飲み代を全部払ってくれたSさんをサンタさんのようだと話したが、このクリスマスシーズンに再会するとは。Sさんの息子が大学に合格し(推薦入試だろう)、春から関東に住むらしい。喜ばしくもあり、寂しくもあると、前にSさんは話していた。複雑な父親心である。うちの息子はまだ小さいが、何となくわかる気がする。Sさんは九州男児ゆえ、そんな内面はおくびにも出していないのだろうが。目に見えないところで、蒔いた種が少しずつ春に向かっている。明和のTさんは酒が強い。大ジョッキを何杯も飲み干し、顔色も呂律も変わらずケロリとしている。Tさんの奥さんが、うちの子どもたちへお菓子...熊本と明和のサンタ

  • なぜ、ゆず湯に入るのか?

    午前は出勤し、午後は久喜の病院へ行く。忙しさを理由に、しばらく心療内科から遠ざかっていた。よくないと思いつつ、実際よくなかった。主治医のいない曜日だったが、せめて年を越せるだけのクスリを処方してもらう。年の瀬のせいか、病院は混んでいた。診察の待ち時間にカポーティの小説、薬局では斉藤孝氏のノート本を読む。ついで、書きためたメモの整理をする。病院は待っているだけで疲労感を覚える。薬局を出ると、ひどく体が重かった。銀行へ寄り、コンビニで濃いめのコーヒーを買う。カフェインで少し体力を回復。その勢いで県立図書館へ足を延ばした。病院と異なり、図書館に人はまばらだった。パソコン優先席に座り、短編を書き進める。「了」まで辿り着く。11月いっぱいで、まとまった作品を書き終えたばかりだ。なので、あまりカチッとしたものは書きた...なぜ、ゆず湯に入るのか?

  • 年の瀬の一人打ち上げ

    午後7時に東町公会堂で出前講座があった。テーマは「古城天満宮と羽生城」。これが今年最後の講師の仕事だろう。できるだけ公務として引き受けさせてもらっているから、午後7時スタートというのは珍しい。フレックスタイムを活用して、10時45分に出勤した。朝は旗当番で、通学するチビッ子たちを見送った。帰宅後、台所で昨日の原稿の続きを書く。30分前に家を出て、普段と異なる通勤路を辿る。風もなく穏やかに晴れていて、職場ではなかなか味わえぬのどかさを感じた。昼休みに小山清の「小さな町」を読む。この作家の親しみやすさは何なのだろう。読んでいて心地よい。ちなみに、小山清の作品に触れると、二十代のときに通っていた正津詩人のゼミを思い出す。ゼミは読書会で、テキストを読み込み、感想なり批評を一人ずつ述べていく形式だった。口下手の僕が...年の瀬の一人打ち上げ

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