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クニの部屋 −北武蔵の風土記− https://blog.goo.ne.jp/kuni-furutone118/

北武蔵を中心とした歴史を紹介。地方のあまり知られていない城や古墳などを発掘します。

高鳥邦仁
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埼玉県
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埼玉県
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2006/06/13

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  • 羽生城な1日

    論文の手直し。書籍化予定の原稿を読み直し。背広を着て、講演台の前に立った。論文も書籍も講演の演題も、みんな羽生城でつながっていた。今日は、そんな羽生城な1日。冨田勝治先生の墓前に手を合わせた。ワクワクして先生の論文を読んだ20代とは違って、いま読み返すと巨石のように感じる。先生の域には達していない。退職校長会に呼ばれたのは何年ぶりだっただろう。浅学者ながら、戦国期の羽生城をめぐる攻防をテーマに講演をさせていただいた。羽生城史は変わっていないはずなのに、歴史を捉える自分自身が変化しているのを感じる。史料の捉え方や解釈の仕方があの頃とは違う。それは新史料の発見によるものもあれば、研究の進展もあり、あるいはこれまでの仕事上の経験がそうさせることもある。一方で、見当違いな解釈をしていないか、目を通さなければいけな...羽生城な1日

  • 壁にぶつかったとき、わずかでも……

    3月はなるべく穏やかに過ごそうと心がけているのに、毎年バタつく。詰めなければならない事業、切られるのを待つ伝票たち、あくびをしながらこちらを見ている実績報告書、腕を組んで構えている来年度の契約書や申請書……。その他、組織改正に伴う荷物の運搬があって、慌ただしさに目が回る。3月、編集者のY氏と打ち合わせをした。改めて編集方針を話し合うと案外すっきりした。なるほどそういうことか。テトリス棒が溝にはまった音が聞こえた気がした。以前渡した原稿は、行動規制を余儀なくされたコロナ禍を挟んだせいか、原稿用紙800枚を超えていた。さすがに書きすぎた。ゆえにY氏を煩わせることになり、どのような形にするか、これまで何度となく話し合ったが、漠然としたまま月日が流れた。ここに来て、版元の編集方針がはっきり見えた。改めて原稿を読み...壁にぶつかったとき、わずかでも……

  • 特別展「鉢形城主 北条氏邦」が埼玉で開催されている?

    特別展「鉢形城主北条氏邦」が、埼玉県立歴史と民俗の博物館で開催されている。多くの古文書が展示されている中、兜や刀剣、十二神将も特別展を彩っており、子どもたちはやはりそちらに食いついていた。管見によるが、同館で中世の歴史をこれだけガッツリ取り上げるのは初めて見たかもしれない。令和6年5月6日までの開催だから、もう一度見に行きたい。新年度になれば、仕事で同館を訪ねる機会がありそうだから、そのときがチャンスかも。昼過ぎから妖しくなり始めた雲行きは、いつの間にか雨を降らせていた。博物館内の静けさが深くなった気がした。体験コーナーで、たくさんの子どもたちが賑やかに資料と触れているのに、博物館独特の静けさがある。初めて一人で同館を訪れたのは平日の昼間で、そのときの静けさが脳に焼き付いているからなのかもしれない。博物館...特別展「鉢形城主北条氏邦」が埼玉で開催されている?

  • 夜に訪ねる水海城は?

    水海城(茨城県古河市)は夜闇に沈んでいた。深夜というほどではないが、夜はだいぶ更けていた。が、思い立ったが吉日。一人車を走らせ、利根川を渡った。最後に水海城址へ足を運んだのはだいぶ前になる。文献上では何度も目にしていた城だから、よく足を運んでいる気がしていたのかもしれない。それに、関宿城(同県野田市)が近い。同城を並べてしまうと、個人的な親近感もあって、どうしても水海城は後回しになってしまう。とはいえ、両城とも簗田氏と関係の深い城である。簗田氏が関宿へ移る前は水海城を本拠にしており、その城跡は「南部地域」にあったと考えられている。発掘調査が実施されたのは「内水海」地区で、神明社付近が城跡に比定される。内水海の城は、南部地域の城よりも新しく構築されたとみられている。政治的にも軍事的にも重視された城だが、遺構...夜に訪ねる水海城は?

  • ガキは夢見て終わるが、大人は……?

    S君は90年代半ばに販売されたというブーツを履いていた。ネットで購入したらしい。「あの頃手が出せなかったものを買ったよ」と、S君は言った。90年代半ばというと、僕らは16、7歳になる。そのブーツがどのくらいの金額なのかは聞きそびれた。当時僕はそば屋でバイトをしていたが、1万円を超えるものは「高値」だったし、数万円ともなれば手を出すことはできなかった。10代から20代にかけて、高値で買えなかったものはたくさんあった。いまよりも物欲があり、好奇心もあった。が、警戒心もあって、高値のものに手を出すのにはどうしても身構えた。車の改造にお金をつぎ込む同世代は別格に見えたし、銀座のまわらない鮨屋の常連客は、「小僧の神様」(志賀直哉)のような住む世界が異なる人のようだった。いま思えば、それは少年(小僧)と大人の違いだっ...ガキは夢見て終わるが、大人は……?

  • 戦国期の羽生城をめぐる攻防、の話

    「埼玉史談」を発行する埼玉県郷土文化会から依頼を受け、講師を務めた。タイトルは「戦国期の羽生城をめぐる攻防」。テーマを羽生城に絞って話をするのはいつぶりだろう。会場は羽生市立図書館2階の視聴覚室だった。埼玉県郷土文化会の内野会長から挨拶をいただき、村田副会長が司会を務めて下さった。会場が羽生の図書館だったせいか、20代の記憶が走馬灯のように流れた。自分が28歳だった平成19年だったか、この会場で羽生城をテーマに4回講座の講師を務めたことがある。まだ冨田勝治先生は存命で、自分のような浅学者が人前に立つのはおこがましい限りだったが、あたたかく迎え入れて下さったのを覚えている。冨田先生が逝去したのはその翌年だった。平成20年4月17日に亡くなり、同年夏に先生をモデルに書いた小説が「放課後の羽生城」だった。たまた...戦国期の羽生城をめぐる攻防、の話

  • 代休の午後、足利市立図書館へ

    1月某日。半日代休をとって、足利へ足を延ばした。ふと足利が思い浮かんだのは、気まぐれと思い付き。午後の休みに史跡を訪れるのが好きだ。半日だから、それほど遠くは行けない。でも、定時よりは時間があるし、体力も残っている。その町の図書館を訪れるのも好きなことの一つ。足利は史跡が多い。そのせいか図書館が死角になっていたことに気付く。鑁阿寺や織姫神社には目もくれず、まっすぐ足利市立図書館へ行く。同館の開館は昭和55年ということから、自分と同年代ということになる。レンガ調の建物で、足利市らしい歴史的雰囲気の佇まいである。その図書館のカラーを見るのに、自分は参考調査室・郷土資料室を基準にしている。その館でしか出会えない資料がある。地元の人が調べてまとめたものや、ガリ版刷りの報告書などがそれにあたる。一方で、流通はしてい...代休の午後、足利市立図書館へ

  • 埼玉大学からの「卒業まで」

    調査報告検討会。ムジナモに関する仕事で埼玉大学へ行く。それぞれ専門的な観点から調査した今年度の結果を報告し合う。毎年春先に開かれるこの会を楽しみにしている。北浦和駅で下車してバスに揺られる。金子康子教授の研究室のドアを開き、「知」に触れる。この仕事をしていなければ、出会わなかった世界かもしれない。静かな語り口調でも、その言葉の一つ一つが熱い。冷たい風が吹き荒れていた。そのせいとクスリを忘れたせいかもしれない。一人になると、悲しいわけでも苦しいわけでもないのに時々にわか雨に見舞われる。検討会が終わったあと、同大学の図書館へ足を運ぶ。なぜだろう。脈絡もなく、遠い記憶が浮かんでは消えていく。書架に手を伸ばしても、つかみたいものはずっと遠くにある気がした。混雑したバスに揺られて北浦和駅へ戻る。駅前の居酒屋で雨宿り...埼玉大学からの「卒業まで」

  • 日曜の雨は嫌い

    日々の忙しさでペースが崩れているのを感じる。朝から雨が降っていた。日曜の雨は嫌い。いつも心を塞ぐから。窓の外に城が見える図書館へ足を運ぶ。館内は空いていた。個人机に座り、書き物をする。が、何もしたくない。何も書きたくないし、読みたくない。眠気がまとわりつき、離れそうもなかった。軒から滴り落ちる雨をぼんやり眺めていた。こんな日もある。早めに切り上げて、ランチに魚料理を出す店へ行く。店内は賑わっていた。なんでそんなに楽しそうなのだろう。窓の外は冷たい雨が降っているのに。出したクリーニングを取りに行く。空いていたせいか、店員が珍しく話しかけてきた。明るくて、元気で、クリーニングしたみたいに目がキラキラしている。なぜそんなに明るいのだろう。窓の外では重たい雨が降っているというのに。帰宅して子らと過ごす。妻は買い物...日曜の雨は嫌い

  • 背後から追いかけてくる

    時間が追いかけてくる。バタバタと大きな足音を立てて、背後から迫ってくる。どうしてこんなに忙しくなってしまったのか。メインとなるのは、文化庁に提出する書類作成と郷土芸能発表会の準備。前々から準備をしていたはずなのに、一気に芽吹いてきた感じ。コーヒーを淹れたり、トイレへ行く時間さえもどかしい。たまには机から離れて体を動かしたいし、ムジナモにも会いに行きたいのだが、時間がそれを許さず。仕事のことで同期のTさんを訪ねる。彼女は数字を取り扱っている。机に広がる資料を一見するだけで、難しそうなことをやっているご様子。そんなTさんは古墳好きだ。顔を合わせると、古墳やハニワの話をしてくれる。先日、さきたま古墳群(行田市)へ行ったらしい。丸墓山古墳を登ると、あることに気付いたという。南側の階段は99段、北側は104段あった...背後から追いかけてくる

  • 西新田から熊谷へ、のち雪

    羽生市内の西新田集会所で学級が開かれ、依頼を受けて講師を務める。テーマは新郷地区の歴史と文化財。少し早めに家を出て、羽生市上新郷に鎮座する白山神社を訪れた。空は青く、午後から雪が降る予報が嘘のように晴れ渡っていた。利根川の拡幅工事がすぐそこまで迫っている。社殿はすでに南へ移動済。土台だけを残す旧社殿は、いずれも土手下に埋もれてしまうのだろう。ここに来るたび、あの年の秋を思い出す。当時、境内は木々が鬱蒼と生い茂っていた。高木が数本立ち、隠れ家的な雰囲気に包まれていた。ここに加藤清正にまつわる伝説が眠っていることなど、当時は知る由もない。明治43年の大水では、現在の白山神社から東手で堤防が切れたという。中学生の頃や1994年の冬、土手中腹のサイクリングロードを使って利根大堰へ向かった。そこを通るたび、意味深に...西新田から熊谷へ、のち雪

  • 5度の期せずして

    羽生市内の須影小学校が創立されて150年が経つ。最初は「日正小学校」という校名だった。その150周年記念行事が執り行われる。期せずして河田羽生市長と電話でお話をする。今日はここから始まった気がする。いつもと違う金曜日が始まる予感。それにしても、150年という年輪の中に我々も刻まれているかと思うと感慨深い。午前、羽生郷土研究会からの依頼を受けて講師をさせていただく。思えば、同会を知ってから20年が経つ。20代半ばだった僕にとって、何にも代えがたいご縁だった。右も左もわからぬ若造を優しく迎え入れてくれた。羽生郷土研究会に育てていただいたようなものである。自分が講師などおこがましい。先日も、間仁田会長から資料をいただいたばかりだった。今回も色々なことを教わり、逆に勉強させていただく。午後、ずっとバタバタしていた...5度の期せずして

  • それでも午後はやってくる

    浮き沈みの激しい1日。動くと凶が出る。やることなすこと裏目に出る。そんな日がある。だから、じっと静かにしようと思う。なのに、向こうから電話を鳴り、よくない知らせを伝えてくる。聞きたくない情報を伝えてくる。こんな日は、人里離れて電話も何もないところに籠っていたい。が、全て沈んでいたかと言えば、いくつかの“浮き”があった。昼休み、たまたまそば屋の「よしの」へ行くと、下羽生のS君とばったり会った。息子と二人で食べに来たらしい。会うのはいつぶりか。息子さんはだいぶ大きくなっていた。来年は中学生らしい。S君の姪っ子は今年二十歳になったというし、「じい」「ばあ」と呼ばれる日もそう遠くないのかもしれない。思わぬ対面に、ぎりぎりまで「よしの」で過ごす。議員になったという同級生、自分も何度か顔を合わせたS君のコミュニティが...それでも午後はやってくる

  • よくわからぬものを……

    暮れから取り掛かっていた原稿を、台所でひと通り書き終える。よくわからぬものとなった。何を書きたかったのか。何を考えたかったのか。ただ、紙を文字で汚しただけではなかったか。つまらぬ。笑えぬ。燃え尽きぬ。よくわからぬものを……

  • 子をつれて“カスリーン公園”へ

    冬休み最終日。西風が吹き荒れる中、西へ向かう。旧川里町(現鴻巣市)と行田。書き物をする。ペンをあれこれ変えず、万年筆一本でいく。記憶の断片を切り取った文章を綴る。エッセイというより散文詩か。なぜか英文を読みたくなって、カーペンターズの「RainyDaysAndMondays」の詞を書き写した。英文の詞を書写するなど初めて。西風の影響か。万年筆は書き心地がいいし、疲れない。インクの色も綺麗だ。なので、職場で書類を発送するときは、封書と一筆箋はなるべく万年筆を使っている。鮮やかなインクの色とは違い、自分の字は綺麗ではないのが難点だが。生活用品を買うのに、ベルク行田長野店へ立ち寄った。店に入りかけた途端、同店で高校の同級生がバイトしていたかもしれないことを突如思い出す。いや、気のせいか。熊谷の結婚式場でもバイト...子をつれて“カスリーン公園”へ

  • 子はわからぬ父の二十歳の写真

    羽生市の「二十歳の集い」(成人式)は、産業文化ホールで開催された。ので、出勤する。今年は受付係を担当。昨年は新型コロナにかかって迷惑をかけたので、万難を排して臨んだ(つもり)。仕事の都合上、毎年のように成人式を目にする。そのたびごとに、二十歳の自分と再会する。髪を染め、ピアスをして、タバコを吸っていたあの頃。まるで別人である。その頃の写真を子に見せたら、父親がどれかわからなかった。二十歳の子たちに、もはや知っている顔はない。知っている顔があるとすれば、同伴の保護者の方だろう。子どもが二十歳を迎えた同級生を何人か知っている。それが自然な年齢に達してしまった。今回は知っている顔は見当たらず。たまたまか、単に気付かなかっただけか……。式は無事に終わり、昼に解散となる。そのまま羽生図書館へ足を運ぶ。今年初めての入...子はわからぬ父の二十歳の写真

  • 子を連れて“新田義貞供養塔”と“金山城主墓碑”へ

    冬休みも残りわずか。今時の小学生は、タブレットを使っての宿題がある。しかもタイピング練習。自分が小学生のときは「タ」の字もなかった。時代に合わせた教育が考えられているわけで、先生たちも大変だなと思う。子の宿題に付き添いながら原稿を書く。脳におけるゴールデンタイムは午前中にある。宿題も午前にあてた方が能率はいいかもしれない。妻が娘を習い事へ連れて行ったので、息子と出掛ける。羽生の「伊勢屋」で昼食をとる。今年初のラーメン。店内には、明日の「二十歳の集い」に出席するため帰省中とおぼしき若者が多かったような……。その後、群馬県太田市へ足を運ぶ。金龍寺で新田義貞の供養塔と、金山城主由良氏(横瀬氏)の墓碑を詣でる。お寺やお墓へ足を運んだ際は、本殿と墓碑にそれぞれ手を合わせるようにしている。親子並んで合掌した。息子が墓...子を連れて“新田義貞供養塔”と“金山城主墓碑”へ

  • 資料館からやってきた「茨城城郭サミット」

    郷土資料館のY氏と今年初めて顔を合わせる。2月10日に開催される「茨城城郭サミット」のチラシを持ってきてくれた。副題は「茨城県中世城郭跡総合調査成果報告会―県央・県西編―」とあり、2018年度から開始された総合調査が2023年3月に完了したのを受け、携わった研究者が一堂に会し、その魅力を報告するという。三が日に茨城県の逆井城(坂東市)へ行き、茨城の風に吹かれてきたばかりである。行きたい。が、2月10日は郷土芸能発表会のリハーサルが入っている。作家京極夏彦氏の講演会が、さいたま文学館で開催されたときと同じパターンである。100歩譲って、埼玉県内ならかろうじて行けるかもしれないが、会場が茨城県笠間市では手も足も出ない。職場の窓から、ぼんやりかすむ筑波山が見えた。筑波山はいつ見ても美しい。手の届かぬ憧れの人のよ...資料館からやってきた「茨城城郭サミット」

  • 仕事始めに大阪の古墳とハニワの話

    仕事始めの日。道は案外空いていた。子らを実家に預ける。両親に感謝。仕事納めの式がつい昨日のことのように感じる。能登半島地震と羽田空港事故の話題が何度も出た。「よいお年を」と言っていた年末、まさかこんな年明けになるとは思いもしなかった。今週末には、成人式ならぬ「二十歳の集い」が待っている。担当する係はバタバタ忙しそう。担当者はこの大きなイベントを見据えて年末年始を迎えたことになる。自分がその立場だったら、休みどころの気分ではないだろうな。仕事のできる人は段取りをしっかり組んで、オンとオフを使い分けているに違いない。連絡ボックスの前で同期のTさんに会う。大阪で開催された息子の試合に付き添いつつ、密かに狙っていた古墳訪問を成就できたという。足を運んだのは、大阪市藤井寺市にある古墳。(正式名称は裏を取ってから書こ...仕事始めに大阪の古墳とハニワの話

  • 三が日の羽生とイオン

    年賀のあいさつに実家へ行く。妹一家も来て、子どもたちはいとこたちと楽しそうに遊んでいた。自分の幼い頃の記憶と重なる。母方の実家の祖母が亡くなったのは昨年だった。わかってはいるが、1980年代の正月の光景はもう二度と見ることはできない。幼い頃に見た祖父母の笑顔が消え、心の隙間を感じる。いまの住まいで使用頻度が少なくなった本を実家へ持っていく。代わりに必要になった本を持ち帰る。2冊、行方不明の本がある。実家にあると思っていたが、どうしても見付からない。(逆に重複して買ってしまった本が発覚)一体どこへ行ってしまったのだろう。必要なときに限って、神隠しが起こるのはなぜなのか。空は朝から薄曇りで気分が塞ぐ。昨日の余熱を逃さず、『茨城県史通史編』と、国衆を論じた埼玉県内の市町村史を再読する。どこかへ足を運ぶと、目に映...三が日の羽生とイオン

  • 子をつれて逆井城

    午前中はどうしても動けなかった。クスリが効きすぎたか。妻が職場へ行く用事があり、子らをつれて出掛ける。会心の一撃は狙わず、何とはなしに逆井城(茨城県坂東市)へ足を延ばした。二重櫓や物見櫓が再現されているほか、堀や土塁も現存している。山城ならともかく、平城でここまで現存・整備されているということは、地元の人たちが尽力したからなのだろう。城跡へ足を運ぶときは歴史と対話し、静かに内省したい。が、子ども2人をつれてはなかなか難しい。息子が歴史好きと言っても、織田信長や徳川家康といった歴史的有名人が出てこない城にはピンとこないらしい。ひと通り城跡を歩いたが、ずっとお囃子を聞いているようなものだった。携えてきた『猿島町史資料編』と『関八州古戦録』はチラリと見た程度。車に戻った途端「喉が渇いた」と異口同音に言うので、す...子をつれて逆井城

  • 大型地震の発生を伝えた水槽の水

    2024年になりました。今年もよろしくお願いします。深夜、家族は寝入ったので、毎年のことながら一人で出掛ける。(息子が頑張っていたが、あと一歩のところで寝落ちする)初詣というより、「ゆく年くる年」の乗りで神社仏閣を見て回る。多くの参詣者がある一方で、夜闇に溶け込んでいるところもある。その表情はそれぞれで、かつてはそのギャップが好きだったが、もはや見慣れた感がある。またパリに行くしかないか。午前2時近くでも、参詣に向かって歩いている人がいることに驚く。加須の總願寺(不動尊)は、境内に露天商まで出ている。あのお店は何時まで営業しているのだろう。まさか明け方までやっていることはあるまい(いや、しかし……)。夜が更けるにつれて、男子たちの集団が目立つ。カラオケ店や飲み屋でも客の姿を見かけた。楽しそうな姿を目にする...大型地震の発生を伝えた水槽の水

  • 羽生で年越しそば

    志多見の「辻九」が閉店して初めて迎える大晦日。大切な場所を失ってしまったような、そんな喪失感を覚える。閉店を知った翌日には、厨房で働く夢さえ見た。「辻九」は高校時代のバイト先で、思い入れは深い。閉店は寂しい限りだが、いままでありがとうと、感謝の気持ちを伝えたい。昨夜、やや空腹感を覚える状態で睡眠薬を飲んだせいか、変に体がだるかった。気を抜くと落ち込みそうだったから、ロラゼパムを飲む。昨夜の余熱が残っている内に、『東京・埼玉の城郭』(新人物往来社)を読む。年末年始、人ごみを避けて閑散とした城館を訪ねるのが好きだった。それなのに、病気になってからというもの、羽が折れてしまった感がある。何か強い力で背中を押されないと動けない。ちょっとの力では思い付きで終わってしまう。妻から言わせると、自分は会心の一撃を狙ってい...羽生で年越しそば

  • 東京で知った「8番出口」

    『方舟』(夕木春央、講談社)と『つげ義春日記』(講談社文芸文庫)を読む。前者は、なるほどそんなどんでん返しがあるのかと唸らされる。後者は、そのタイトルの通り著名漫画家の日記。「つげ義春」という人物を情報として知っているから面白く読める。日記文学ついでに『紫式部日記』を紐解く。『つげ義春日記』とはまた別の味わい。(研究として読んでいるわけではないので、口語訳と原文を行ったり来たり)底本は、小学館の『日本古典文学全集』。「ちょっとしたことで後にふと思い出されることもあるし、そのときは「をかしきこと」と思っても忘れてしまうものもあるのはなぜだろう」という一文に共感する。息子が東京へ行きたいと言ったので、急遽首都高に乗る。日本橋→東京駅→GHQ本部→皇居→桜田門→警視庁→国会議事堂→各省庁→国立公文書館→勝鬨橋→...東京で知った「8番出口」

  • 子をつれて“いなほの湯”

    旧川里町(現鴻巣市)へ足を運ぶ。ここにはお気に入りの公園がある。公園といえども、人がほとんどいないのが気に入っている。車内でとめどないことを書きながら、『つげ義春日記』(講談社文芸文庫)と『正津勉詩集』(思潮社)を読む。つげ義春氏の日記には不安や苦悩が綴られているが、やはり華やかさもある。日記には正津詩人も登場する。2021年、正津先生は『つげ義春「ガロ」時代』(作品社)を上梓し、話題になった。両先生のように売れっ子ではない自分は、閑散とした場所で赤城おろしに吹かれているくらいがちょうどいい。12月のはじめ、下旬に一度打ち合わせをしましょうと言った版元からの連絡は結局なかった。年末年始にゲラの手直しができると期待したが、幻の仕事になりそうだ。「予定」が自然消滅することが続いている。徒労と疲労が濃くなりつつ...子をつれて“いなほの湯”

  • 古城天満宮と仕事納め

    仕事納めの日。机の上を少し片づける。昼は、上席から振舞われたそばをおいしくいただく。その後、古城天満宮まで散歩した。ばったりH部長と会い、天満宮に掲げられた幟旗について立ち話をする。部長は社会科の教員ということもあり、さすが目の付けどころが違う。拝殿の前で手を合わせ、この一年の報告と翌年の無事を祈念する。昨年の暮れは土器の欠片を拾った。縄文時代の土器片の可能性が高い。今年も何か見付からないか気になったが、探している時間はなく職場へ戻る。以前借りた考古学関係の研究報告書の返却に教育長室へ入る。秋本教育長は、いつも有益な資料をご教示くださる。さいたま文学館へ随行させていただいたことも二度ほど。本来僕のようなポンコツが足を踏み入れる場所ではないのだが、市長室をはじめ、教育長室に入って出たあとはいつも違う。何か一...古城天満宮と仕事納め

  • 昭和40年代の羽生から

    年明け早々に講師の仕事があり、その仕込みをする。昭和40年代の羽生の商店が載っている本を読み、パワポとレジュメを作る。当時は個人商店が多く、被服や布帛を扱っている店が多い。旅店も少なからずあり、現在とは別の勢いを感じる。朝の羽生駅を写した古写真には、改札口を出る多くの女性たちが写り、埼玉県内で言えば大宮駅の光景のようだ(ちょっと言いすぎかな)東北から北埼玉へ働きに出てきた若い人も多かったという。羽生の町中には2つの映画館があり、駅前にはボーリング場もあった。束の間の休息、娯楽施設で息抜きをした人も多かっただろう。インターネットもなかった時代。化粧品を買いに行くにも個人商店だったろうし、人と人との距離がいまより近かった。在宅勤務やテレワークといった勤務形態など、想像もしていなかったはず。冬休み中の子どもたち...昭和40年代の羽生から

  • 再開のラー活

    行田真名板から年輩の方が再び訪れ、同地域の歴史をまとめた資料をいただく。色々と調べられており、地元に伝わる口碑も取り上げている。他に類のないもので、ありがたく頂戴する。羽生のK君とラー活(ラーメン活動)を再開する。彼は来月から職場復帰するという。心療内科の病院のことで相談を受けたのは今年の春だった。通院、入院、復職プログラムと段階を経て、晴れて復帰。あんなに苦しそうなK君を見るのは初めてだったから、鴻巣で食べたつけ麺の味は一入だった。そんな彼は、休職中にジェームス・ジョイスの『ユリシーズ』をクリア(読破)したという。「翻訳不可能」の枕詞が付きがちな『フィネガンズ・ウェイク』も、原語に当たっているらしい(同書は柳瀬尚紀氏の翻訳が出ている)。秋口に会ったときは、日本の古典文学を集中して読んでいた。神田古本まつ...再開のラー活

  • クリスマスイヴに古墳を訪ねる?

    クリスマスイヴということもあり、図書館へ行くのは自粛した。子らが仮面ライダーや戦隊ものを観ている間、本の世界に入り込む。二十代の頃、イヴ当日に群馬県の山城を訪れたことがある。思い付いて出掛けるには家族に迷惑がかかるので、山崎一氏の『群馬県古城塁址の研究』を開いて脳内旅行をする。ついで、上野国の国衆について論じた黒田基樹氏の論文を読み直す。興に乗ってきたところで、『史料綜覧』『大日本史料』『越佐史料』を拾い読む。数枚カードを書いてファイルに綴れば、旅の思い出ができたようなものだ。子2人を連れて真名板高山古墳へ行く。数日前、真名板から職場を訪ねてきた年輩者からある情報を貰った。その確認をしに行った。なぜだろう。行くならいましかない気がした。イヴに見る古墳もなかなか乙なものである。(振り返ったら、2018年にも...クリスマスイヴに古墳を訪ねる?

  • 気が重くなる原稿

    ウコンの威力のせいか、寝覚めはすっきりしていた。頭痛もせず、気持ち悪くもない。K部長に報告せねば。西の図書館へ行き、原稿を書く。前から考えていた案を下書きしてみた。が、題材が精神衛生上あまりよろしくない。思い出すたび気が重くなる。娘をスイミングスクールへ連れていく。年の瀬とはいえ、チビッ子でいっぱいだった。娘は背泳ぎを合格して級が上がったと嬉しそうだったので、帰りにショートケーキを買う。ささやかなお祝い。子が図書館へ行きたいと言い、地元の館へ連れていく。そういえば、今日は大河ドラマ「どうする家康」が再放送していた。終了を惜しむように『国史大系』収録の『徳川実紀』を拾い読みする。『大日本史料』に収められた三方ヶ原合戦関連史料を読む。(阿部寛氏扮する武田信玄がカッコよかったな)大久保忠隣は登場しなかったが、個...気が重くなる原稿

  • 熊本と明和のサンタ

    明和のTさんと赤ちょうちんへ飲みに行く。平日最後の金曜日とあって、どの店も人で溢れていた。夏に一度だけ、居酒屋で出会った熊本のSさんと偶然顔を合わせる。あのとき飲み代を全部払ってくれたSさんをサンタさんのようだと話したが、このクリスマスシーズンに再会するとは。Sさんの息子が大学に合格し(推薦入試だろう)、春から関東に住むらしい。喜ばしくもあり、寂しくもあると、前にSさんは話していた。複雑な父親心である。うちの息子はまだ小さいが、何となくわかる気がする。Sさんは九州男児ゆえ、そんな内面はおくびにも出していないのだろうが。目に見えないところで、蒔いた種が少しずつ春に向かっている。明和のTさんは酒が強い。大ジョッキを何杯も飲み干し、顔色も呂律も変わらずケロリとしている。Tさんの奥さんが、うちの子どもたちへお菓子...熊本と明和のサンタ

  • なぜ、ゆず湯に入るのか?

    午前は出勤し、午後は久喜の病院へ行く。忙しさを理由に、しばらく心療内科から遠ざかっていた。よくないと思いつつ、実際よくなかった。主治医のいない曜日だったが、せめて年を越せるだけのクスリを処方してもらう。年の瀬のせいか、病院は混んでいた。診察の待ち時間にカポーティの小説、薬局では斉藤孝氏のノート本を読む。ついで、書きためたメモの整理をする。病院は待っているだけで疲労感を覚える。薬局を出ると、ひどく体が重かった。銀行へ寄り、コンビニで濃いめのコーヒーを買う。カフェインで少し体力を回復。その勢いで県立図書館へ足を延ばした。病院と異なり、図書館に人はまばらだった。パソコン優先席に座り、短編を書き進める。「了」まで辿り着く。11月いっぱいで、まとまった作品を書き終えたばかりだ。なので、あまりカチッとしたものは書きた...なぜ、ゆず湯に入るのか?

  • 年の瀬の一人打ち上げ

    午後7時に東町公会堂で出前講座があった。テーマは「古城天満宮と羽生城」。これが今年最後の講師の仕事だろう。できるだけ公務として引き受けさせてもらっているから、午後7時スタートというのは珍しい。フレックスタイムを活用して、10時45分に出勤した。朝は旗当番で、通学するチビッ子たちを見送った。帰宅後、台所で昨日の原稿の続きを書く。30分前に家を出て、普段と異なる通勤路を辿る。風もなく穏やかに晴れていて、職場ではなかなか味わえぬのどかさを感じた。昼休みに小山清の「小さな町」を読む。この作家の親しみやすさは何なのだろう。読んでいて心地よい。ちなみに、小山清の作品に触れると、二十代のときに通っていた正津詩人のゼミを思い出す。ゼミは読書会で、テキストを読み込み、感想なり批評を一人ずつ述べていく形式だった。口下手の僕が...年の瀬の一人打ち上げ

  • 火曜から夜更かし

    書きかけの原稿の新しい視点が思い浮かび、帰宅後ポツリポツリ短編を書いていたら午前一時になっていた。しまった。週の後半ならともかく、まだ火曜日である。昔は寝不足でよく風邪を引いた。睡眠が不足すると免疫力が下がるのだろう。勤務先が東京だった頃、寝不足で乗る満員電車は地獄だった。不足と言えば、執筆に集中すると本を読む時間が削られる。これが結構ストレス。昼休みにカポーティの短編、仕事で『羽生町便覧』の必要箇所を読んだ。今日の読書はそれでおしまい。二十代の頃は、睡眠時間を削ってでも書いたり読んだりするべきと思っていた。若い時分にしかできないことだから。いまやらずしていつやるのか、という精神だった。三十代は無理しない程度にやるべきという考えに変わった。それでも多少の無理はきく年代で、まあ熱いうちに燃えていたかったのだ...火曜から夜更かし

  • 「辻九」の閉店

    週明けの会議はエネルギーを要する。しかも、会議が二つとなると、消費エネルギーも倍増かも。午後二時からの会議は観光関係のものだった。委員として出席したからいわば受身。午後七時からの会議は郷土芸能発表会の打ち合わせ。自分が主担当だから主催者側である。事務局側になると、日程調整やら資料作りやら会場作りやらと、何かと仕事が多い。一方で、委員として出席する会議は責任が重い。自分の考えもあれば、事務局側の意図もある。どちらが楽で、簡単というわけではない。ただ、受身で出席する会議は、議長の進行や、事務局の段取りが参考になる。会議が終わり、会場を出たのは午後八時頃だった。夕飯を食べに加須市志多見の「辻九」へ足を運ぶ。ところが、店は真っ暗。店の出入り口に貼り紙がされているのに気付き、スマホのライトをかざして読む。それは閉店...「辻九」の閉店

  • 「辻九」の閉店

    週明けの会議はエネルギーを要する。しかも、会議が二つとなると、消費エネルギーも倍増かも。午後二時からの会議は観光関係のものだった。委員として出席したからいわば受身。午後七時からの会議は郷土芸能発表会の打ち合わせ。自分が主担当だから主催者側である。事務局側になると、日程調整やら資料作りやら会場作りやらと、何かと仕事が多い。一方で、委員として出席する会議は責任が重い。自分の考えもあれば、事務局側の意図もある。どちらが楽で、簡単というわけではない。ただ、受身で出席する会議は、議長の進行や、事務局の段取りが参考になる。会議が終わり、会場を出たのは午後八時頃だった。夕飯を食べに加須市志多見の「辻九」へ足を運ぶ。ところが、店は真っ暗。店の出入り口に貼り紙がされているのに気付き、スマホのライトをかざして読む。それは閉店...「辻九」の閉店

  • 待てるか待てぬか

    川向こうの図書館へ行く。机はガラガラだった。昨日の短編の続きに取り掛かり、書き終える。夏に50枚近くの論文を書き、それを基にした小説を秋に100枚ほど書き終えた。それが陽の目を見るか、いまは「待ち」の時期。論文は分けて掲載してくれるらしいが、いかんせん電話で聞いただけだから、活字になるまでは兜の緒は緩めぬ方がよい。急いては事をし損ずる。せかしたところで結果は出ぬ。待てるか待てぬか。それが案外岐路となる、というのが持論。午後は家族で義父の墓参りへ行く。義父は僧侶だったが、ときどき大学で教鞭も執っていたという。抜刷の論文を読ませてもらったこともある。義父は義父なりの論文執筆法を持っていただろう。生きていれば聞いてみたかった。夜は大河ドラマ「どうする家康」の最終回を観る。息子も娘は途中で寝ると思ったのに、最後ま...待てるか待てぬか

  • 12月のアイスケーキ

    娘がつかまえてきたアマガエルの生餌を買った。生餌でないと食べぬものらしい。生餌を買うたび、生き物が生まれながらにして背負う罪を感じる。生餌を車内に残したまま、図書館へ流れ着く。運よく机が空いていたから、短編を書く。一区切りつけ、息子の誕生日ケーキを取りに旧鷲宮町のショッピングモールへ足を延ばした(誕生日は数日前の平日だった)。金曜ロードショーで流れるCMの影響か、ここ数年はアイスの誕生日ケーキである。個人的には生クリームケーキの方が好みだが、祝われる本人が食べたいというのだから仕方あるまい。ケーキついでに、書店でトールマン・カポティの初期短編小説を買う。クリスマスシーズンと短編を書いたせいだろう。12月のアイスケーキ

  • 日記のようなものを

    ブログの記事が書けない。他の原稿は書けるのに、ブログだけがしっくりこない。題材はある。が、書こうとするとどこからともなく虚しさが忍び寄ってくる。途端に気力を失う。ならば、日記のような文章を書き綴ろうか。気張らず、気の向くままに綴ってみたら何か見えてくるかな。また虚しさに筆が止まるかもしれない。どんな形にもなるかわからない。まあ、とりあえず、つれづれなるままに。日記のようなものを

  • 時代の速さとともにつまらなさも加速する? ―金木書店の閉店に想ふ―

    2023年の春、浦和にあった古書店・金木書店が閉店した。寂しいの一言に尽きる。浦和へ行く楽しみが1つ減った。金木書店で『新編埼玉県史資料編6』を購入したその足で大学へ行ったのは懐かしい思い出。分厚いその本はバッグの8割のスペースを削り、重量も相当なものだった。でも、手に入ったことが嬉しくて、よせばいいのに電車の中で立ち読んで、周りの乗客に迷惑がられた。他県の資料集や『武蔵国郡村誌』を歯抜けで買ったのも金木書店で、あるとき幼い息子をつれて行くと、電車の本をプレゼントしてくれたのを覚えている。古書店は年を追うごとに数を減らしているのではないだろうか。僕が学生の頃は、町ごとに1店舗の割合で存在していた気がする(町の規模によるが)。埼玉県羽生市にも、1979年生まれの僕は3軒の古本店舗があったのを知っている。駅前...時代の速さとともにつまらなさも加速する?―金木書店の閉店に想ふ―

  • その水路には魔物が棲んでいる? ―加須市にて―

    水路に入ってはいけない。そう訴える看板がある。埼玉県加須市で見付けた看板。インパクトがある。足が止まり、目が釘付けになった。水路には、この世ならざる者が棲んでいる。だから入ってはいけない。近付いてもいけない。目があったら最後。引きずり込まれてしまう……。この夏も、痛ましい水の事故が全国各地で相次いだ。特に子どもに関する事故のニュースはもうなくなってほしい。夏が終わっても、水の事故が少しでも減りますように(合掌)。ゲーム「魔界村」に出てきそうな……水路にはこの魔物が棲んでいる?この世の人ならざる者が足を引っ張ろうとしている。これでは水路に近付けない。他方、「ボケて」に使われそうな……一応歴史的なことに触れておくと、この看板と出会った地域は、「堤」という小字が確認される。堤の大部分は消え去ったが、ほんの一部だ...その水路には魔物が棲んでいる?―加須市にて―

  • 埼玉に“たたりめ堂”が現れた? ―さいたま文学館―

    埼玉県桶川市の“さいたま文学館”で、「番外編たたりめ堂」が開催されている。「銭天堂」の悪役でおなじみの“よどみ”の店である。首都圏初の番外編らしい(令和5年9月24日までの開催)。たたりめ堂では、代金として支払うのは“悪意”。そこに入り込んだ客は自らの“悪意”を払って駄菓子を買う。はっきり言って好みである。なぜなら、悪意はとても人間くさいから。欲望、妬み、恨み、執着と、駄菓子をとおしてその人の人間性があらわれる。最初は悪意しかなかったが、途中で芽生えた善意と葛藤があればなお良し。その心の有り様を描くのが「文学」だと思う。個人的には、たたりめ堂の“眠れませんべい”にインパクトを覚えた。こんなのがあったら買ってみたいかもしれない。はて、支払わなければならぬ悪意とはなんだろう。自分も人間。悪意がないとは言えぬ。...埼玉に“たたりめ堂”が現れた?―さいたま文学館―

  • 羽生の“とまれパンダ”はどこにいる?

    羽生市産業文化ホールの南の出入り口にある「とまれ」の表示。パンダが左右を見ている。川沿いの表示看板にある、「このへんはこわいぞ」カッパと同等レベルで懐かしさを感じる。小学生のときに羽生の町場へ行くと、この“とまれパンダ”があちこちにあったように思うが、記憶違いだろうか。いつの間にかパンダからムジナもんに変わり、大人になったいまは目に留まりにくいものになってしまった。とまれパンダはインターネットで検索するとたくさんヒットする。だからレアものではないらしい。とはいえ、妙に郷愁を感じたから、思わずカメラを向けてパチリ。とまれパンダは、今日もみんなの安全を守っている。埼玉県羽生市羽生の“とまれパンダ”はどこにいる?

  • 夜の“さいたま水族館”はどんな顔?

    夜の水族館は、昼間とは別の顔(のような気がする)。水草の様子を観察しに、子どもたちを連れて羽生水郷公園へ行ったところ、ばったり「ナイトアクアリウム」に出くわした。8月13日~15日までの期間限定の開催という。小雨も降ってきたので館内に入った。日中に比べて、魚たちの動きは静かだった。照明がついているとはいえ、体内時計では彼らは「夜」なのだろう。夜行性の魚も日中にエサを食べていることもあり、夜に活発化することは少ないらしい。ライギョもナマズもオオウナギもじっとしていた。家族連れが多かったものの、館内は静かだった。それは、夜という心理的な静けさだったかもしれない。自分自身、ゆっくり水底へ沈んでいくような、煩わしい俗世から離れていくような……。幼いころから見知ったさいたま水族館が、いつもと違っていた。ところで、水...夜の“さいたま水族館”はどんな顔?

  • 羽生市役所は“羽生城内”に建っている? ―城跡と庁舎―

    夏空が妙に眩しくて、思わずカメラを向けてパチリ。夏空の下に建つのは羽生市役所の庁舎。昭和49年に建造されたもので、当初は白い建物だったが、平成の終わり頃に現在の色に塗り替えられた。かつての城内に、現代の庁舎が建っている自治体が散見される。羽生市もその一つに数えていいと思う。現在の羽生市役所庁舎が建っている場所は、往古は沼の中だった可能性が高い。浅野文庫蔵諸国古城之図「先玉」には、東南北を覆う沼が描かれている。『新編武蔵風土記稿』には「何れも城ありし頃固めの沼なりし」と記され、「正保年中改定図」には「要害吉」とあるのは、沼地や湿地を天然の堀として守りを固めていたからであろう。そのような天然の堀の中に現在の庁舎があるとすれば、広義の意味での「城内」と捉えてよいだろう。この庁舎から北に少し歩けば、「羽生城址」碑...羽生市役所は“羽生城内”に建っている?―城跡と庁舎―

  • 今夏、羽生城の謎解きに集まりし“もののふ”は? ―羽生城謎解きラリーー

    羽生城の遺構は消えても、町なかに散見される城の字。今夏、各公共施設等に「羽生城謎解きラリー」のポスターが貼られている。その名のとおり、羽生城を題材に、同城ゆかりの場所を訪ねて謎を解くというもの。羽生市広報に掲載されたのを機に、7月24日現在で、「朝日新聞」(7月19日付)、「埼東よみうり」(7月21日付)、「埼玉新聞」(7月21日付)に取り上げられたから、目にしている人も多いと思う。羽生城は永禄3年(1560)以降上杉謙信に属し、成田氏から独立して以降、天正2年(1574)の自落まで一度も後北条氏になびかなかった城として知られる。後北条氏やそれに属す国衆の観点から見ても、少なくとも史料上では羽生城が後北条氏に帰属したことは認められない。そのような羽生城は、小田原城主北条氏政や忍城主成田氏長に狙われ、危機に...今夏、羽生城の謎解きに集まりし“もののふ”は?―羽生城謎解きラリーー

  • 羽生市内で目にする “城”の字は? ―バス停「城橋」―

    羽生城の遺構は消えたが、羽生の町なかに散見される城の字。バス停「城橋」は、その名のとおり葛西用水路に架かる城橋の近くに建っている。城橋を東に向かって渡り、最初の信号を北に曲がって少し行ったところにある。時代は異なるが、この道は小説『田舎教師』(田山花袋作)の主人公のモデル小林秀三の通勤路でもある。建福寺(羽生市南1丁目)に下宿を始めた秀三は、町中を通って城橋を渡り、勤め先である弥勒高等小学校まで歩いていった。常にその道を使っていたのかはわからない。気分転換に、たまには羽生城本丸比定地に向かって歩いたこともあったかもしれない。とすれば、羽生城に想いを馳せることもあっただろうか。ちなみに、『田舎教師』は忍城址に触れても、羽生城址に関する描写はない。小説が書かれた明治後期において、城跡は消滅していたためだろう。...羽生市内で目にする“城”の字は?―バス停「城橋」―

  • 変貌はいつも愛着の場所から始まる? ―鹿沼橋―

    いつの間にか消えていた“鹿沼橋”。旧大利根町(現加須市)の中川に架かる橋で、妙に愛着を持っていただけに寂しさを禁じ得ない。鹿沼橋は平成4年3月の竣工だったから、おそらく老朽化に伴う撤去なのだろう。平成4年を生きた身としては「ついこの間」だが、一般的には「大昔」なのかもしれない。日曜の夜にNHKにまわせば「信長」が映り、映画館では「紅の豚」が放映されていた。歌番組では、僕らの音楽教師の教え子という小野正利が「You'retheOnly…」を歌い、ニュースでは長谷川町子や松本清張の死去を伝えていた。当時、中学2年生だった僕は鹿沼橋との接点はない。平成6年に自転車で旧大利根町を訪れたとき、渡ったのは鹿沼橋から一つ下流の道橋だった。実は「デイリーヤマザキ」から南の記憶は曖昧なのだが、おそらく間違いないだろう。旧大...変貌はいつも愛着の場所から始まる?―鹿沼橋―

  • 羽生市内で目にする “城”の字は? ―城橋―

    羽生城の遺構は消え去っても、羽生の町なかで散見される「城の字」。例えば、葛西用水路に架かる「城橋」がある。かつて城のたもとには「しろばしや」という店があり、意識せずとも羽生市民にとっては馴染みのある名称かもしれない。ただ、葛西用水路の掘削は1660年で、羽生城が廃城したのは1614年だから、城が軍事施設として機能していた頃には、橋は存在していなかったことになる。用水路の掘削は、既存の堀を利用したとすれば何らかの橋が存在していたかもしれないが、少なくとも「城橋」という名称ではなかっただろう。『新編武蔵風土記稿』には、城橋付近に城の大手(正門)があったと記されている。同書は羽生城の構造についても触れられている。が、江戸後期に編纂されたものであり、城の遺構が当時どこまで残っていたのか疑問視される。遺構が皆無では...羽生市内で目にする“城”の字は?―城橋―

  • 羽生の“初山”はどこをどう登る?

    今年も7月1日が来て、“初山”を迎える。周知のとおり、生まれてきた赤ん坊が初めて迎える7月1日に浅間神社を詣でる行事だ。“初山参り”や“初山登り”などと呼ばれ、詣でることで富士山を登ったことになるとしている。羽生市内においては、古江宮田神社で初山祭りが開催される。6月30日が宵祭り、7月1日が例祭。古江宮田神社という名称だが、浅間神社及び秋葉神社が祀られているため、初山は前者を参拝していることになる。富士山を登り、子どもの無事の成長を祈念する。同社は羽生駅から下って1つめの踏切に鎮座している。小高い山は“毘沙門山古墳”と呼ばれる前方後円墳で、これを富士山に見立てて登るわけである。平地だから小高い丘はなく、だからといって人力で土を盛るのも労力を要するため、既存の古墳を利用しようと思ったのだろう。(古墳につい...羽生の“初山”はどこをどう登る?

  • 勉強と研究の人の背中に何を見る?

    大人になっても、新たに学び始められる。また、「卒業」もない。かつて社会教育と呼ばれた「生涯学習」の語があるように、自分の関心の高いもの、好きなことは生涯学び続けられるものだ。『大人の学び方』(世界文化社)を著した宮崎伸治氏は、大人の学びを次のように定義する。①好きだからというただそれだけの理由で自発的に行うもの②努力を要するもの③自分を成長させる、または社会に貢献することを目的とするものいま、放送中のNHK連続テレビ小説「らんまん」のモデルである植物学者“牧野富太郎”も、己の好きなことを学び続け、貫き通した人物と言える。お金儲けのためではない。異性にもてるためでもない。植物が好きで仕方ないから、自ずと行動してしまうのだろう。むろん、酒蔵の頭首という立場だったから、周囲の理解と協力が必要不可欠ではあったが、...勉強と研究の人の背中に何を見る?

  • 青毛堀川の“起点”はどこにある?

    埼玉県加須市のビバモール加須の北側に、“青毛堀川”が流れている。そこからほんの少し上流へ向かうと、北青毛堀川と南青毛堀川が合流している地点がある。ここが青毛堀川の起点である。合流地点には白い石碑が建っている。小さな石碑だが、妙に存在感を放っている。その石碑の東面には「境界準用河川青毛堀川起点」とあり、西面には「青毛堀用悪水路土地改良区」の銘が確認できる。合流地点と石碑は、青毛堀川に架かる橋からよく見える。石碑自体は小さいが、車内からも目にすることができるだろう。ただ、車から降りてわざわざ見に行くには、いささか負担に感じるかもしれない。距離としては大したことないが、交通量の多さが二の足を踏んでしまう。左岸には新興住宅が軒を連ね、そこから北へ抜ければ加須南小学校がある。住宅も学校も新しく、ビバモール加須も工業...青毛堀川の“起点”はどこにある?

  • 羽生市内で目にする “城”の字は? ―東城橋―

    羽生城の遺構は消えても、町の中に散見される「城」の字。例えば、「東城橋」がある。埼玉県羽生市東8丁目に架かる橋で、うどん・そば店「よしの」のすぐ北側に位置する。道路の一部となっているから、「橋」という認識を持っている人は少ないかもしれない。「東城橋」があるなら西・北・南があるかと言えば、ない。東城橋から西に向かってぶつかるのは「城橋」である。前者が城沼落としに対し、後者は葛西用水路に架かっている。城の字が付いても、戦国時代まで遡らない。城絵図を見ると、羽生城は東南北を大沼で覆われているため、往時において東城橋は姿形もなかったと思われる。橋のそばは交差点になっており、車の交通量が多い。なので、見学の際には注意が必要だ。この十字路を通り過ぎるたび、過去の時間が交差する。かつて、「よしの」の向かいには「シバタ薬...羽生市内で目にする“城”の字は?―東城橋―

  • 休むにも“技術”がいる? ―西伊豆松崎町―

    tさんに連れられて、船から釣り糸を垂らした。教わるままに小エビを針に刺し、西伊豆の海の数メートルの深さまで落とす。釣り糸の動きから魚が食いついたかどうかがわかるという。なるほど、怪しい動きに気付いて糸を上げてみるとアジがかかっていた。ヘラ釣りの感触とは違う。その気になれば船上でアジを捌き、食べることもできただろう。異なるのは棹の感触のみならず、自分の体が揺れていること。酔い止めのクスリをもらったのに、見事なまでに船酔いに襲われる。下を向くと一気に酔いが来る。気持ち悪くて仕方がない。なるべく顔を下に向けないようにしても、エサの仕掛けでどうしても船酔いコースを辿ってしまう。結局、アジ2匹とコサジ1匹を釣り上げ、陸に戻ることにした。tさんも僕と同じ釣果に加え、サバを釣り上げていた。僕の船酔いのためtさんの釣果を...休むにも“技術”がいる?―西伊豆松崎町―

  • 羽生市内にある“城”の字は? ―城沼公園―

    埼玉県羽生市内に城の遺構(堀や土塁など)はないが、「城」の字がいくつか散見される。例えば、「城沼公園」。羽生市東7-8に位置する公園で、羽生警察署や羽生市役所が近い。羽生城は平地に築かれた平城で、絵図から推察されるに、沼を天然の堀としていた。沼に突き出るようにあった台地を利用し、そこに本丸や二の丸といった郭を配置したのだろう。したがって、羽生城は沼や湿地帯で防御を固めた城だったことが考えられる。このことは、近隣の忍城や騎西城、館林城や深谷城などからも類推される。羽生城が廃城となったのは慶長19年(1614)で、城跡は代官所として使用されても、軍事的要素は薄くなっていったのだろう。時代とともに沼は埋め立てられ、新田として開発された。沼の全てが一気に消えたわけではなく、昭和49年の羽生市役所庁舎完成以前に残っ...羽生市内にある“城”の字は?―城沼公園―

  • 埼玉で古墳をあつめる“御墳印”が始まった?

    令和5年6月10日より、埼玉県内で「御墳印」プロジェクトがスタートした。御朱印や御城印ならぬ、御“墳”印である。つまり、県内の古墳を巡ってスタンプ(御墳印)を集めるというもの。古墳の熱い季節がやってきたことを感じる。古墳の存在感に惹かれるのはなぜだろう。なぜ、古代の人がその場所に、どんな理由で、どのようにして古墳を築いたのかという想像をかき立てられるからだろうか。古墳を築造するにも政治的・経済的理由があったわけで、気まぐれに思いついて作ったわけではないだろう。古墳の規模や形態、副葬品から被葬者の人物像に想いを馳せれば、出土した埴輪も歴史に彩りを添える。僕は古墳の研究者ではないが、昔から不思議と惹かれるものがあった。身近に古墳があったせいかもしれない。保育園の卒園アルバムを開くと、“丸墓山古墳”の階段に並ん...埼玉で古墳をあつめる“御墳印”が始まった?

  • どんなところに“歴史”を面白くさせるスイッチがあるのか?

    歴史に興味を持つきっかけはいくつかあったにせよ、それは教科書を読んだからではなかった。いまでは時々読み返して面白がってはいるが、10代の心の琴線に触れるものではなかった。1990年代半ば、あの頃読んで面白かったのは、菅野祐孝氏の『菅野日本史B講義の実況中継』(語学春秋社)だったのを覚えている。なぜなら、そこに菅野氏の史観があったから。短くはない義務教育の中で、何が一番印象に残っているかというと、教師が話した逸話にほかならない。それは、その教師の「個」や「人間性」に触れるからなのだろう。このことは、自分が表現をする上でもよく思い返し、確認することでもある。記憶に残る面白い受験参考書に、『田村の「本音で迫る文学史」』がある。その「はしがき」には、次のように書かれている。(前略)どうせ「面白参考書」なのだから、...どんなところに“歴史”を面白くさせるスイッチがあるのか?

  • 妻沼聖天山の“未完成”から幸せを祈る?

    6月2日、朝から晩まで降り続いた雨。旧暦のこの日は、織田信長が明智光秀の謀叛にあう“本能寺の変”が起こった日でもあった。使い古された言葉だが、やまない雨はない。ずっと降り続けた雨も、翌日には雲の切れ間から太陽の光が差した。どんなことも、その状況が続くわけではないということ。苦しいこと、不安なこと、不満なこともいつか転機が訪れる。そういう例え。転機は来るべきして来る。物事にはタイミングというものがある。急いては事を仕損じる。状況を打破しようと無理するより、時が来るのを辛抱強く待った方がいいこともある。やまない雨はないのだから。一方で、鉄は熱いうちに打てという。ここが打ちどころと感じれば、そのときこそ「転機」なのだろう。遠慮せず、思い切って前身するのみ。「あとでいいや」と思えば、その「あと」は2度とやってこな...妻沼聖天山の“未完成”から幸せを祈る?

  • 「どうする家康」の武田勝頼のように、城攻めは内部から切り崩して攻略する?

    5月28日放送の大河ドラマ「どうする家康」は、岡崎城における内紛が描かれていました。すなわち、岡崎城陥落を目論見る武田勝頼が、同城の城兵を取り込み、内部からの切り崩しを図ります。徳川家から離反させるために密かに動いていたのは、武田家の忍びです。力攻めにするのではなく、徳川家家臣の不満をうまく突いて取り込み、内側を瓦解させて一気に叩く。この方が犠牲も少なく、家康の士気を挫くのにも有効です。忍びと言うと、黒づくめの恰好をした者たちがかなり特殊な術を使うイメージが強いかもしれませんが、情報収集や内部切り崩しを図り、味方に勝利をもたらすのも重要な仕事に数えられます。「どうする家康」が描いた岡崎城攻めは、一種の忍び合戦と見てもよいでしょう。同ドラマでは内部の切り崩しを図りましたが、実際に城に攻め入って敵を攪乱させる...「どうする家康」の武田勝頼のように、城攻めは内部から切り崩して攻略する?

  • 羽生タイムスリップまち歩き、利根川を挟んで上杉謙信と北条氏政が火花を散らした?

    令和5年5月28日に開催される「羽生タイムスリップまち歩き」に参加される皆様、また残念ながら抽選から漏れてしまった皆様、このたびはご応募ありがとうございました。僭越ながら、当日は私髙鳥が講師を務めさせていただきます。一昨年、昨年に引き続くもので、羽生市観光協会による企画です。定員を大きく超える応募があったと聞いています。これも、羽生市観光協会の巧みな周知と、羽生在住・在勤の方々の意識が高いからかと思います。5月28日は、旧古利根川である会の川沿いに眠る歴史を探訪します。会の川は往古の境界線であり、戦国時代には羽生領と忍領を分ける境目でした。そのため、川に関する歴史や史跡が多い傾向があります。特に、上杉謙信が羽生城救援に駆け付けた逸話は、関東戦国史の中では比較的よく知られています。赤岩の渡しから武蔵国に入る...羽生タイムスリップまち歩き、利根川を挟んで上杉謙信と北条氏政が火花を散らした?

  • 40を過ぎてのギトギト系の食し方は?

    20代の頃は平気で食べられた脂たっぷりのラーメンも、40代も半ばになると遠慮の気持ちが働きます。食べられなくはない。でも、定期健診の数値にはね返ってくる。何も気にせず、平気の平左で暖簾をくぐっていた時代がまぶしく感じられます。本も似たことが言えるかもしれません。例えば自己啓発本。「一流」「本物」「本当の」「真の」「成功」といった言葉の頻度の高い本は、自ずと静かにページを閉じてしまいます。なぜならギラギラしているから。ラーメンで言えば、若者が好みそうな脂たっぷりのラーメンといったところでしょうか。「一流」や「本物」とは一体どういう状態のことを指すのでしょう。何をもってすれば「真」であり、「成功」なのでしょうか。この手の中には、それを年収アップや高級品の所持、はたまた「絶世の美女」と一緒にいることを「成功」と...40を過ぎてのギトギト系の食し方は?

  • 死の間際、 “武田信玄”が頼りとすべきとした武将は?

    大河ドラマ「どうする家康」で、阿部寛扮する武田信玄がこの世を去りました。魅力的に描かれていたため、信玄を失ったのはとても痛い。圧倒的強さで徳川家康を翻弄する信玄を目にすると、激戦を繰り広げた上杉謙信に自ずと想いがいきます。ドラマの中では名前は出ても、姿を見せることのない謙信。もはや話題に出ることもありませんが、不気味な存在感を放っています。信玄の宿敵は上杉謙信とよく言われます。両者の一騎討ちの逸話はあまりにも有名で、川中島にはその銅像も建っています。しのぎを削り、己の正義をもって干戈を交えた両者ですが、臨終の際にあった信玄が嫡男勝頼に遺言として伝えたのは、意外にも謙信を頼れというものでした。(前略)勝頼弓箭の取やう、輝虎と無事を仕り候へ、謙信はたけき武士なれバ、四郎わかき者にこめみする事有間敷候、其上申合...死の間際、“武田信玄”が頼りとすべきとした武将は?

  • “牧野富太郎”のようなタイプは分類できる?

    NHKの連続テレビ小説「らんまん」では、主人公の“牧野富太郎”がついに東京大学へ行きましたね。小学校中退の富太郎が東大の研究室に出入りするようになり、のちに講師を務めるようになる。東大の懐の深さを感じるとともに、今後同大学とひと悶着あることは周知のとおりです。ドラマに登場する助教授は、現時点では権威主義者として描かれています。すなわち、試験に合格もしておらず、入試すら受けたことのない富太郎に対し、能力があり、豊富な標本を手にしていたとしても一切認めようとしない。彼の目に映る富太郎は、「植物学者」でもなければ「学徒」でもなく、市井の「趣味人」なのでしょう。富太郎はそうした評価に悩んでいたようには思えませんが、社会的には逆風だったはずです。収入面でも正規ルートとは異なりますし、やがては研究室の出入りを禁じられ...“牧野富太郎”のようなタイプは分類できる?

  • 上杉謙信が羽生城へ“忍び”の指示をした? ―『戦国の城攻めと忍び』刊行のお知らせ―

    休職していた頃、多くの方にご迷惑をおかけしました。飛ばした仕事の中で、心に残っている1つに戦国の忍びに関するセミナーがあります。令和3年、埼玉県立嵐山史跡の博物館で開催された「実相忍びの者」に関連し、「戦国の忍びを考える―武蔵国での戦いをめぐって―」と題するセミナーが開かれました。企画者である学芸員の岩田明広氏からお声がかかり、羽生城に宛てた上杉謙信書状の中に忍びとみられる存在を切り口に、天正2年(1574)における同城の歴史的意義や忍びについて言及するという機会を与えられたものです。拙著『古利根川奇譚』(まつやま書房)を執筆していた頃から考えていたものとリンクしていたため、改めてそれを整理して、想いの丈をお話しするつもりでした。が、心房細動を起こし、そのまま心も不調をきたして休職。セミナーの仕事を飛ばし...上杉謙信が羽生城へ“忍び”の指示をした?―『戦国の城攻めと忍び』刊行のお知らせ―

  • 武田信玄の駿河進攻における今川家の士気は? ―薩埵山合戦―

    武田信玄が駿河の今川領へ進攻したのは、永禄11年(1568)のことだった。武田氏と今川氏は同盟国だったが、この進攻によって同盟は決裂したことによる。併せて同盟国だった北条氏も武田氏と縁を切り、これまで敵対していた上杉謙信と手を組むという離れ技へ動いていく。武田信玄による駿河進攻の理由は、今川氏真が密かに謙信と通じているというものだった。永禄3年(1560)、桶狭間で織田信長により父義元を討ち取られたあとの氏真はパッとしない。「倍返し」とは言わずとも、信長に一矢報いることができず、武田信玄に本拠地を追われ、かつて今川家の人質だった徳川家康からも攻撃を受けるからだろう。のちに、信長の前で蹴鞠を披露することもよく知られている。武田信玄の進攻を受けた氏真は、何の抵抗もせず敗走したのかといえばそうではない。薩埵山(...武田信玄の駿河進攻における今川家の士気は?―薩埵山合戦―

  • 三方ヶ原合戦後、武田信玄から非難された武将は?

    鉄は熱いうちに打てという。ここぞというときに事を起こす。「次」があるとは限らない。この好機を逃してはならない。そんなとき、事を起こさぬ人がいる。例えば戦国期の朝倉義景。いや、義景には義景の理由があったのだろうが、武田信玄はそう考えなかったらしい。元亀3年(1572)12月28日付に朝倉義景に宛てた書状の中に、「不可過御分別」と非難めいて綴っている(「伊能文書」)。よく思慮すること、これ以上のことはない、と。武田信玄が三方ヶ原で徳川家康勢を打ち破ったのは元亀3年12月22日のこと。織田信長の軍勢も援軍に駆け付けていたが少数だった。武田勢を追撃する形で出陣した徳川・織田勢は、三方ヶ原で逆に迎え討たれることになる。徳川・織田勢は敗走を余儀なくされ、家康は九死に一生を得たことはよく知られる。信玄が遠州へ出馬したの...三方ヶ原合戦後、武田信玄から非難された武将は?

  • 5月13日は羽生市の「ムジナモ講演会」の開催日です

    本日5月13日は、羽生市文化ホールで「ムジナモ講演会」が開催されます。講師は村上哲明氏。牧野標本館管理者で東京都立大学の教授です。ムジナモ自生地がある埼玉県羽生市において、NHK連続テレビ小説「らんまん」の制作・放送を記念しての講演会です。(ドラマでは、牧野博士がいよいよ東京に出てきましたね)本日は「ムジナモと牧野富太郎の植物標本」という演題で、7月22日には練馬区立牧野記念庭園の学芸員・田中純子氏を講師にお招きし、「日本のムジナモ発見者!牧野富太郎の植物研究と生涯」と題するムジナモ講演会を予定しています。田中学芸員は、5月10日放送の「英雄たちの選択」(NHKBSプレミアム)でゲストで出演されていたのを目にした方も多いのではないでしょうか。令和5年は巨星・牧野富太郎を通して、日本各地が花らんまんに彩られ...5月13日は羽生市の「ムジナモ講演会」の開催日です

  • “伏線”と“回収”は日常にある? ―拙論文のお知らせ―

    日常にも複数の伏線がある気がします。ふと目に留まったメモ書き。普段使わないノートを開いたときのことです。それは、昨年書いた論文に関するメモ書きでした。少しだけ懐かしいような、今頃出てきたような、そんな感覚を覚えます。その日の夜、自宅に帰ると「埼玉史談」(埼玉県郷土文化会)の最新号が届いていました。「あ、これか」と、思ったのは、日中のメモ書きと関係する論文が掲載された号だったからです。事前に査読を受け、掲載される連絡は受けていました。ただ、いつ発行されるのかは把握しておらず、最終校正からしばらく経っていました。いわば、日中のメモ書きは伏線。届いた「埼玉史談」は伏線の回収です。普段の日常生活の中でも、伏線と回収は意外と多くあるのかもしれません。気付かないだけで、何かの事象は未來のどこかにつながっている。現在が...“伏線”と“回収”は日常にある?―拙論文のお知らせ―

  • 三船山合戦で父を亡くした幼女の行く末は?

    合戦で父を亡くした幼女がいた。その名を“福”という。永禄10年(1567)における三船山合戦で、北条方に属した“賀藤源左衛門尉”という者が討死する。その娘が福だった。里見義弘率いる軍勢に敗北したとはいえ、北条氏政は源左衛門の「忠節」を賞賛する。同時に、父を失った福を不憫に思ったのだろうか。あるいは政治的な力が働いたのかもしれない。源左衛門の甥である“賀藤源二郎(源次郎)”に対し、賀藤家を断絶させないよう取り計らうのである。(前略)然間一跡福可相続、然共只今為幼少間、福成人之上相当之者、妻一跡可相続候、其間者源次郎可有手代者也(後略)すなわち、源左衛門の跡目に福を継がせようにも、あまりにも幼い。そのため、福が成人して婿をとったときに相続させることとする。それまでは、賀藤家は源二郎に任せるというものだった。か...三船山合戦で父を亡くした幼女の行く末は?

  • 岩付城主“太田氏資”の死は予期せぬものだったか? ―三船山合戦―

    千葉県の海へ行く途中、君津市を通る。三舟山は君津市と富津市をまたがった山だ。父を追放して岩付城主となった太田氏資が戦死した場所でもある。戦国乱世とはいえ、江戸湾向こうの上総国で討死することなど想像したことがあっただろうか。三船山の合戦は永禄10年(1567)に里見氏と後北条氏が衝突した戦いである。佐貫城(千葉県富津市)攻めに向かった北条氏政に太田氏資も参陣する。氏資は上杉謙信に従属する父資正を同7年に追放し、北条方の国衆として岩付城主となったばかりだった。対する里見義弘は、三船山の着陣した北条勢を黙って見過ごすわけにはいかない。三船山に向けて出陣した。数年前、第二次国府台合戦で後北条氏に大敗を喫したことは義弘の記憶に苦々しく残っていた。その合戦には太田資正の姿もあった。上杉方に属す資正は、里見氏とともに後...岩付城主“太田氏資”の死は予期せぬものだったか?―三船山合戦―

  • 文化的な場における“上杉謙信”と“織田信長”の態度は?

    永禄4年(1561)、長尾景虎(上杉謙信)は上杉憲政を報じて関東へ出陣し、鶴岡八幡宮において関東管領職を譲渡された。上杉の名跡を継ぎ、政虎と改名したのはよく知られている。関東の地域的領主たちの多くは景虎に従属したが、忠節によるものではなかった。従属の態度を示しても、内心は苦々しく思っている者も少なくなかったようである。新田次郎の『武田信玄林の巻』では、その役を忍城主成田長泰(康)に負わせている。鶴岡八幡宮での能の会における長泰の内心が描き出されており、次のように描写されている。(ばかばかしい、いったい、わかってああいうことをやっているのか)成田長康は思った。(能が)わかる筈がない、あんなばかげたことが、面白い筈がない。面白くもないのに感じ入ったような恰好をして見せるのは、いかにも、自分たちが、こういう、京...文化的な場における“上杉謙信”と“織田信長”の態度は?

  • 豊臣秀吉の軍勢に挑む北条氏勝の覚悟と悲哀は? ―山中城―

    中学時代の同級生のT君は伊豆が好きで、月に1、2回は行っているという。伊豆を舞台にした映画を観たのがきっかけらしいが、心療内科を受けている彼にとって治療の一環になっているのかもしれない。いつも通っている道に城跡を示す看板があるという。そこに何と書かれているのか思い出せず、消息を絶った同級生のようにモヤモヤしていたが、伊豆へ向かったT君からのメールで「山中城」ということが判明した。なるほど、言わずと知れた国指定の史跡である。特徴ある障子堀が現存していることがよく知られていて、その堀見たさに子どもがまだ小さいときに足を運んだのを覚えている。4月も1ヶ月を過ぎたというのに、妙に気持ちが落ち込むことがある。心とは別のところでクスリが増えた。血液と心は案外つながっているのかもしれない。すぐに伊豆へ行けそうもないから...豊臣秀吉の軍勢に挑む北条氏勝の覚悟と悲哀は?―山中城―

  • 棟札から読む織田信長の進攻を受けた社の一例

    江戸期に作成された地誌を読むと、戦国期の動乱によって荒廃した神社仏閣を改めて創建した、という記事をよく見かける。中興開基・開山者としてその名を刻む人物や僧侶がいて、歴代住職墓碑の中にひときわ立派な石塔が建っていたりする。戦国期における敵軍の進攻はすさまじく、乱妨狼藉が横行したという。家の焼失や金品の強奪のほか、田畑の作物は悉く刈り取られた。捕らわれた女性たちは売り飛ばされ、老人や子どもも容赦なくなで斬りにされた。乱妨狼藉は神社仏閣も例外ではなく、灰燼に帰すことも珍しくなかった。例えば、上洛の途にあった織田信長の軍勢は、永禄11年(1568)に近江国蒲生郡に押し入った。9月17日、同郡の醫師社への乱妨狼藉が行われたらしい。民家及び僧侶の住む家屋に火がかけられると、たちまち炎上する。その炎にあおられて、醫師社...棟札から読む織田信長の進攻を受けた社の一例

  • 歴史あるNHK「のど自慢」は“羽生市”で転機を迎える?

    2023年4月30日(日)放送のNHK「のど自慢」は、埼玉県羽生市の産業文化ホールから生放送される。実は、通例の「のど自慢」とは異なるものがある。それは“予選会”の放送である。正午から「のど自慢」が放送されたと、5分のニュースを挟み、「首都圏いちオシ!」という番組で、予選会の様子が映し出されるという。これは前例のないことで、長い「のど自慢」の歴史の“転機”になるかもしれない。羽生で歴史の目撃者となるだろう。だから、正午からの「のど自慢」が終わったからと言って油断してはならない。13時5分にこれまで放送されることのなかった予選会が始まる……。なお、地域紹介では“宝蔵寺沼ムジナモ自生地”も取り上げられる予定である。歌い手のみならず、羽生の人なら知っている顔が何人も映るかも!?歴史あるNHK「のど自慢」は“羽生市”で転機を迎える?

  • 織田信長の京都放火における町民たちの惨劇は?

    2023年大河ドラマ「どうする家康」に登場する織田信長は、狂気に似た一面を色濃く出したキャラ設定のように思われます。そして、同ドラマに登場した足利義昭。コンペイトウをバリバリ食す姿が描かれた義昭は、言わずと知れた室町幕府第15代将軍です。信長によってその座に就いたものの、やがて決裂することは周知のとおりです。絶縁し、対決姿勢を見せた足利義昭に対して、信長は元亀4年(1573)4月に京都(上京)に火を放ちます。その信長は徳川家康に対し、「(前略)前々忠節不可徒之由相存、種々雖及理、無御承諾之條、然上者成次第之外無他候て、去二日三日両日、洛外無残所令放火、四日ニ上京悉焼払候(後略)」と、4月6日付で書き送っています(「古文書纂」)。放火の際、京都には外国人キリシタンも在京していました。彼らは織田勢の放火によっ...織田信長の京都放火における町民たちの惨劇は?

  • 南部幹線から羽生第一高校を眺めた1枚はもう昔?

    上の写真は、確か30代はじめ頃に撮影したもの。羽生市の南部幹線から羽生第一高校に向けてレンズを向けた。ちょうど夕日のところが同校の校舎となっている。あれから十余年。この地区の開発はすさまじく、この写真のような光景を見ることはできない。同じ場所に立っても羽生第一高校は新興住宅街に遮られている。田んぼの細い道は嘘のように拡幅され、ひっきりなしに車が行き交う。町は進化し続ける。少し前に撮影した写真と比べてみてもそれがよくわかる。進化の勢いは加速し、我々人間も大きく変化しているのだろう。90年代半ばに目にしていた羽生第一高校周辺の光景はもはや遠く、ポケベルの代わりにスマホを持ち、あの頃知らなかった人たちとつながり合っている。南部幹線から羽生第一高校を眺めた1枚はもう昔?

  • 「ダーウィンが来た」に登場した“ムジナモ”が羽生で講演会を開く?

    というタイトルを書くと、まるで食虫植物ムジナモが講演するようですが、ムジナモをテーマにした講演会のお知らせです。4月16日放送のNHKの番組「ダーウィンが来た」は、「ようこそ!牧野富太郎の植物らんまんワールド」というテーマで、埼玉県羽生市の食虫植物“ムジナモ”もばっちり取り上げられていましたね。(ムジナモ研究で知られる埼玉大学の金子康子教授も映りました)牧野博士がムジナモを発見したのは江戸川区小岩ですが、現在この植物が自生しているのは羽生市だけです(「宝蔵寺沼ムジナモ自生地」として国指定天然記念物)。かつては日本各地で生息が確認されたムジナモも、羽生が最後の砦となっています。それだけ環境が大きく変わったということなのでしょう。ムジナモは葉っぱの先端でミジンコなどの動物性プランクトンを捉えて食し、真夏の暑い...「ダーウィンが来た」に登場した“ムジナモ”が羽生で講演会を開く?

  • 異なる価値観は対立するだけ?

    野原に咲く野花、小川のせせらぎ、沼や池に憩う水鳥、豊かに茂る屋敷森や神社の森……例えば、映画「となりのトトロ」(スタジオジブリ)に出てくる田舎の風景を目にしたとき、自然が豊かだと思うだろうか。それとも、土地が遊んでいると思うだろか。前者は、その自然の保護を試みるかもしれない。後者は、その土地に開発のメスを入れるかもしれない。人それぞれだ。どんな価値観を持ち、どんな尺度で物を見るか。グラスに半分注がれた飲み物を前に、「まだ」と思うか、それとも「もう」と感じるか。価値観が異なる相手とは対立するだけなのか。それとも手を組んで、互いを補い合えるのか。ふと自信をなくすとき、そんなことを考える。自分自身が揺らぎ、他者に距離を覚えるからなのかもしれない。異なる価値観は対立するだけ?

  • ストレートに表現ができるタイプか? ―コトノハ―

    「文具にお金をかけても目立たない」ある女性のコトノハ。なるほど。服やバッグなどと違って、文具はファッション性が薄い。皆無ではないだろうが、おしゃれをしようと万年筆を買いに行く人は少ないだろう。目立とうと思ったら、服やバッグなどファッション性の強いものを買った方が早い。人にとって、お金をかけるところはそれぞれ。ファッションに投資をする人もいれば、食事にお金の糸目をつけない人もいる。収入に合わない本を大量に買い込む人もいれば、高級車しか選択肢のない人もいる。価値観の問題だろう。10万円の服を買う人もいれば、同額の万年筆を選ぶ人もいるということだ。では自分はどうだろう。ファッション性が強いものより、地味だけど存在感を放っているものの方が好きかもしれない。「流行」よりも「本物」に惹かれる。そんな気がする。このコト...ストレートに表現ができるタイプか?―コトノハ―

  • NHK番組「あさイチ」に羽生の“ムジナモ”が出演するかも?

    令和5年4月7日(金)放送のNHK番組「あさイチ」で、埼玉県羽生市の食虫植物“ムジナモ”が登場する予感。というのも、同番組の放送予定に、「朝ドラで注目“らんまん”牧野富太郎が愛した植物」とあるから。実は……と言いたくても、どこまで書いていいのかわからぬのが歯がゆいところ。現在放送中の連続テレビ小説「らんまん」のモデル牧野富太郎は、ムジナモを発見し、かつその花の植物画を描いて世界に名を轟かせた人物です。それにちなんでムジナモが紹介されるかも!?「あさイチ」は午前8時15分スタート。「らんまん」のみならず、「あさイチ」にも注目です。NHK番組「あさイチ」に羽生の“ムジナモ”が出演するかも?

  • 連続テレビ小説「らんまん」で“テング”と出会った影響力は?

    植物学者“牧野富太郎”をモデルにしたNHK連続テレビ小説「らんまん」。ディーン・フジオカが扮する“テング”こと、坂本龍馬が登場しました。人はそれぞれ“務め”を持って生まれてくる。それに命を燃やし、事を成すがために人は生まれてくる。そのような意味のことを万太郎(富太郎)に伝えていました。この言葉は、彼の人格形成に影響を与えるものでしょう。胸に刺さります。この頃自分の体の調子が良くなく、道を見失いがちになっているだけに、テングの言葉は耳に痛くもありました。牧野富太郎は植物学一直線に生きたように見えますが、迷うことはなかったのでしょうか。自分のやっていることに意味を見出せず、自身を見失うことはなかったのでしょうか。たぶん、あるでしょう。莫大な借金を抱えたり、研究室から追い出されたことのある富太郎です。常に順風満...連続テレビ小説「らんまん」で“テング”と出会った影響力は?

  • 名入りの矢で“三河一向一揆”と戦ったのは? ―柴田康忠―

    2023年大河ドラマ「どうする家康」は、言うまでもなく徳川家康の生涯を追うストーリーです。3月5日現在の放送では、永禄6年(1563)の三河一向一揆との戦いに苦戦する家康が描かれています。この戦いの際、家康方に“柴田康忠”という者がいました。一向一揆の合戦に奮闘したことがきっかけにより、家康の家臣として歴史に名を残していく人物です。『譜牒余禄』によると、永禄6年当時「孫七郎政忠」と称していた康忠は、一向宗の信者だったのに、家康の前で浄土宗に改宗します。そして、対する三河一向一揆に矢で立ち向かうのです。康忠は矢の名人だったようです。この人物の面白いのは、自身の矢に「孫七郎」という自分の通り名を書き記したことでしょう。槍や刀で戦えば、その実績の証拠として首級があります。しかし、矢働きには、わかりやすい証拠をあ...名入りの矢で“三河一向一揆”と戦ったのは?―柴田康忠―

  • 連続テレビ小説「らんまん」を古城天満宮より

    羽生城址碑の建つ“古城天満宮”を訪ねたら、境内の桃の木が赤い花を付けていました。今年も春がやってきたようです。とはいえ、その花が桃の木なのか自信がありません。花桃のようですが、植物に疎い僕は、樹木や草花を目にしても、語りかけてくるその言葉を読み解くことができない。日本植物学の父と呼ばれた“牧野富太郎”博士ならば、すぐに植物の名を言い当てるのでしょう。それだけでなく、その植物にまつわる故事や逸話が溢れ出てくるのかもしれません。植物たちの声を読み解き、博士の目にこの世界はどのように映っていたのでしょうか。ところで、令和5年前期のNHK連続テレビ小説「らんまん」は、牧野博士をモデルにしたストーリーです。富太郎役は神木隆之介さんが務めるのだとか。ムジナモ自生地を持つ羽生市生まれとしては興味津々です。牧野博士は18...連続テレビ小説「らんまん」を古城天満宮より

  • 下羽生とお笑いの相性はいい?

    笑うことにはさまざまな効能があるという。例えば、免疫力や記憶力の向上、ストレスや痛みの緩和、ポジティブ思考になって幸せを感じやすくなり、長じて長生きにつながるらしい。振り返って、失意のどん底の底にあった時期がある。どうすることもできない現実に悶え、苦痛で身が裂けそうなほどのトンネルのど真ん中。出口があるのかわからず、手を伸ばしても虚空をつかむばかりそんな暗黒の時期がある。そういうトンネルは、いま思い返しても息苦しい。さて、同級生のS君は羽生市下羽生に住んでいた。放送部だった機縁と、同じクラスになったこともあり、同級生の中で彼の家に遊びに行くことが一番多かった。それは、暗いトンネルにいたときも例外ではなかった。S君の部屋に入ると、彼は文庫本を机に置いてお笑いのビデオを流した。本がたくさんあるその部屋には、お...下羽生とお笑いの相性はいい?

  • 心が折れそうなときに効く呪文は? ーコトノハ拾いー

    心が折れそうになるとき、行き詰ってもうダメかもと諦めそうになるとき、まだ大丈夫、と優しく肩を叩いてくれる1冊があれば何とかなる気がする。なかなか結果が出ず、空回りばかりしながら、林望氏の著書を何度も読み返した頃がある。『魅力ある知性をつくる24の方法』(青春出版社、2001年)は、「認められる努力、疲れて終わる努力」の項があるように、自分のやっていることに疑問と不安を覚えるときほど、じんわりと効く本だったと思う。赤線を引き、フセンを貼って、求める言葉へすぐにアクセスできるようにしていた。座右の銘や好きな言葉を、手帳やノートに書いたり貼ったりする人の気持ちはわかる。自分を元気にしたり、ためらう背中を押してくれたり、落ち込む心を慰めてくれるそんなコトノハ。あるいは呪文。年齢や環境によって感じ方は異なる。不変で...心が折れそうなときに効く呪文は?ーコトノハ拾いー

  • 取り逃がした武田信玄は大きい? ―三増峠の戦い―

    戦国最強と謳われる武田信玄。川中島合戦で上杉謙信と一騎打ちをした逸話はよく知られている。謙信だけではない。信玄は、戦国大名の後北条氏とも野戦を繰り広げている。それは三増峠の戦い。時は永禄12年(1569)のこと。小田原城攻めから帰陣する武田勢を、後北条氏が追撃した。そもそも、後北条氏にとって本拠地である小田原を攻められるのはこれで2回目。1度目は永禄4年(1561)に上杉謙信に攻められている。籠城して事なきを得たが、城下を放火されている。一矢報いたかったのかもしれない。後詰として参じていた北条氏照と北条氏邦は、三増峠で武田勢を迎え撃つ。信玄に耳にもこの情報が入っていた。軍勢を二手に分けて進軍。かくして、三増峠にて武田勢と北条勢が激突する。さすがの武田勢も苦戦したらしい。『北条記』は言う。甲州衆、最前ノ軍ニ...取り逃がした武田信玄は大きい?―三増峠の戦い―

  • 2月12日(日)、羽生で“郷土芸能”が発表される?

    2023年2月12日(日)に、“第14回羽生市郷土芸能発表会”が開催されます。お囃子、太鼓、地芝居、獅子舞と、市内に拠点を置き、伝統芸能を保持する7団体が出演予定です。出演団体と公演順は以下のとおりとなっています。1旭町お囃子保存会2桑崎獅子舞保存会3羽生太鼓みやび4中宿万作保存会5東大和おはやし保存会6下岩瀬白山太鼓保存会7羽生市こども歌舞伎保存会コロナの影響により、本講演会が開催されるのは3年ぶりです。決して短くはない期間でした。3年ぶりの想いを込めて、各団体さんが熱演します。ちなみに、当日は自分が司会を務めさせていただく予定です。3年ぶりの開催ということもあり、口下手の自分が団体さんの足を引っ張らぬよう頑張りたいと思います。開場は12時30分から、開演は13時となっています。場所は羽生市産業文化ホー...2月12日(日)、羽生で“郷土芸能”が発表される?

  • 板倉町でふと目が合う沼は? ―坂田沼―

    沼好きとしては心をくすぐられる板倉町。車の免許を取ったばかりで板倉町へ行ったとき、やけに多くの沼が目に付いたのを覚えている。あのとき見た沼はどこだったのだろう。そう思うときがある。その一つに坂田沼。季節は夏で、沼には水草、岸部には草が生い茂っていた。そこは、童話「やまなしもぎ」に出てくる沼を連想させた。東洋大学が近いと言えば近い。沼の畔には民家が建っている。坂田沼の最深は2.4メートルで、大人が入ったら足が付かない。ひと昔前は、子どもたちの遊び場でもあったのだろうか。そういえば、沼の畔に住む知人がいた。雨の日も風の日も、当たり前のように沼を目にして過ごしていたことになる。年末年始、お盆、クリスマス、節分……。そのときどきの沼はどんな表情なのだろう。でも、目前に沼があっては、それは日常生活の一部であって、特...板倉町でふと目が合う沼は?―坂田沼―

  • 解けぬ誤解のまま、また春が来て

    彼女に恋愛感情を持ったことは一度もない。年上の彼氏がいて、雨の日、映画館近くの薬局へ一緒に行ったときも何とも思わなかった。「私のこと軽蔑する?」と言った彼女に、「軽蔑なんかしないよ」と答えたのは僕の本音だった。それなのに、僕が恋愛感情を抱いていると思ったらしい。隠れてバイクに乗るクラスメイトから、内緒話のようにそう聞かされた。彼女と僕は友だちだった。まばたきするほどの一瞬間だけ、接点を持った同級生だった。放課後の書店で偶然顔を合わせ、そのまま利根川の土手を駆け上ったのをきっかけに一緒に遊ぶようになったのだけど、僕はその頃消えない悲しみに髪が白くなりかけ、彼女は誰にも言えない不安を抱えていた。放課後に会ったのはほんの気まぐれでも、彼女と過ごす時間は優しかった。必要とされたくて、会う約束を交わした。でも、薬局...解けぬ誤解のまま、また春が来て

  • 羽生市民の心のコトノハは?

    羽生市役所の入り口近くに碑が建っている。比較的大きなものだが、案外見過ごされがちかもしれない。その碑は一体何か?市民憲章である。羽生市の市民憲章は、昭和54年11月2日に制定された。このような憲章は各自治体がそれぞれ定めており、住民たちの心のコトノハ、と言ってもいいだろうか。羽生市では、先人たちが築いた郷土の歴史と伝統を大切にすることや、羽生市民であることの誇りと自覚を持ち、幸せと生きがいのあるふるさとを願って定めたという。そのコトノハ(憲章)をあげてみよう。1.感謝の気持ちと奉仕の心を伸ばします2.教養を深め視野を広めます3.勤労に誇りを持ち仕事に励みます4.環境をととのえ住みよいふるさとに育てます5.きまりや秩序をまもり明るい社会を築きますちなみに、当時の市広報を見ると、市民から意見を募って制定された...羽生市民の心のコトノハは?

  • TSUTAYA雀宮店、1997年1月にて。

    1997年1月の記憶を探し続けていた。文珠寺(埼玉県熊谷市)へ参詣した帰りに立ち寄った書店がどこだったのか、ずっとわからなかった。もう閉店しているかもしれず、店舗は跡形もない可能性が皆無ではなかった。当時一緒にいた両親と妹に訊いてみたが、書店へ行ったことすら記憶していなかった。旧道を使って文珠寺へ向かうルートに書店はあるのか、何度となく車を走らせたことがある。1軒だけあったものの、記憶と似ても似つかなかった。リニューアルオープンしたのかもしれない。そう言い聞かせて、喉につかえたまま取れない小骨のように、どこか違和感を覚えつつやり過ごした。ところが、2023年1月、常光院(同市)から埼玉県立熊谷図書館へ向かう途中のことだった。突如、左目の端で書店を捉えた。TSUTAYA雀宮店。想定した旧道の一本手前の道だっ...TSUTAYA雀宮店、1997年1月にて。

  • 深谷の“上杉憲盛”と羽生の“木戸忠朝”の駆け引き ―おうち戦国―

    『大日本史料第十編之三』にも収録されているのちの羽生城主木戸忠朝の仕事。それは、上杉謙信の命を受け、深谷城主上杉憲盛を謙信方に引き込むというものだった。武田信玄の駿河進攻により、武田・北条・今川の三氏間で結ばれていた三国同盟が決裂し、急遽北条と上杉の両氏が手を結ぶという転換期における仕事だったことになる。元々、憲盛は永禄三年には謙信に属し、翌年の小田原城攻めには参陣していた。しかし、北条勢が徐々に勢力を挽回していくと、憲盛は謙信から離反。一方、羽生城主広田直繁は一貫して上杉方の態度を保持しており、弟の忠朝もその身を皿尾城に置きながら兄と足並みをそろえていた。上杉憲盛の上杉方への従属は、謙信が羽生城に課した任務だった。謙信から広田直繁へ、その後忠朝に指示がいったのだろう。この任務に実質的に動いていたのは忠朝...深谷の“上杉憲盛”と羽生の“木戸忠朝”の駆け引き―おうち戦国―

  • 12月の羽生にて“レトロゲーム”で遊んだ日の話

    血筋なのか、8歳の息子は古いものが好きだ。「ゲーム」にしても、ゲームウォッチやファミコンが全盛期の時代に興味があるらしく、ユーチューブという今時の手段を使って、昔のゲーム動画を飽きずに見ている。そんな息子にとって、正鵠を射るようなイベントが羽生市で開催された。市内の「MDLibrary」を会場にして、レトロゲームを無料でできるというイベントだった。令和4年の12月10日、11日のことで、アーケードゲームやファミコン、ゲームボーイはもとより、ピンボールやメダルゲームも置かれていた。子どもより、大人の方が楽しんだかもしれない。「ストリートファイターⅡ」「テトリス」「メタルスラッグ2」「SDガンダムサイコサラマンダーの脅威」「ファンタジーゾーン」は、かつて羽生の町場にあった“ジャスコ”や“キンカ堂”のゲームコー...12月の羽生にて“レトロゲーム”で遊んだ日の話

  • 上杉謙信の震える手 ―おうち戦国―

    吹き荒れる寒風に身を震わせながら、これまでの人生で見舞われた寒波を数えたりした。ポータルサイトを開けば、列島を襲う寒波に関連したニュースが並ぶ。上杉謙信の本拠である越後国(現新潟県)は、豪雪地帯であることはよく知られている。関東管領職の役に就く謙信は、本来は関東出陣を見送るべき厳寒期に、やむを得ず越山を余儀なくされることがあった。仮に強かったとしても比較的寒さには強かったのかもしれない。しかし、さすがに限度があっただろう。次のような条書をしたためている(「北条文書」)。覚一信玄出張、因茲去廿日越山候処、無程敵退散、此上者、無二相越同陣、可及其擬事(中略)以上右、風雪之時分、越山路中風差出手振候間、印判ニ而申候、巳上十月廿四日(朱印)武神と謳われた謙信も、寒さは身に応えるものがあったらしい。手が震えるので実...上杉謙信の震える手―おうち戦国―

  • 在野の人

    冨田先生は在野の人だった。研究で生計を立てていたわけではなく、別に職業を持っていた。仕事が生業ではなく、その人にしかできないことを指すとすれば、羽生城研究は先生にとって間違いなく「仕事」だった。そんなところに惹かれたのかもしれない。義務や強制でもないのに、気付いたらそれをやっている。利のためではなく、純粋な好奇心でそれに携わっている。肩書とは無関係なところで積み重ね、歩いたところには確かな足跡が残っている。偽りや誤魔化しはなく、積み重ねた時間の分だけ醸成されている。追随を許さない。先生が研究に燃やした命は、いまなお燦然と輝いている。在野の人

  • 春と平家物語

    春に知り合ったその人は、『平家物語』が好きだと言った。何をしている人なのかわからず、国文学専攻というわけでもなさそうだった。おそらく純粋な好奇心だったのだろう。そのとき僕は24歳で、店じまいを目前に控えた大宮の古書店に並ぶ『平家物語』を見上げながら、その人のことを思った。数えるほどしか会ったことがなく、季節のほんの気まぐれで知り合った人だった。程なくして日常から消えることはわかりきっていた。だから、名前すら忘れてしまった。でも、春になると、時折その人の顔が思い浮かぶのは、通り過ぎて行った人たちの中で、面と向かって『平家物語』が好きだと言ったのが、ただの一人しかいなかったからなのかもしれない。不思議なインパクトで胸に残り、忘れかけた残り香のように、その人の顔が『平家物語』の背表紙とともに脳裏によぎる。いまど...春と平家物語

  • 羽生城と秋の空

    公にしていいものなのかわからないのではっきりしたことは言えませんが、今年の春先に、羽生城とあるものを絡めた原稿の依頼がありました。原稿用紙にして30枚くらいの依頼で、枠にとらわれず書き上げたらおよそ50枚。これを30枚までに削り落とすのに、いささか難儀しました。掲げる史料を削り、内容が重複している箇所を見つけてはdeleteキーを押し、なくてもさしつかえない情報をカットしたりと、形態はどちらかと言えば論文形式のため、小説の会話文を大幅に消すような技は使えず、推敲を重ねながら少しずつ減らしていくという作業です。とはいえ、この作業もそろそろ背中が見えてきました。締切の1ヶ月前となり、大きな抜けがないか最終確認段階に入っています。版元から言われた30枚までようやく削り取ったので、図書館や喫茶店の机でやきもきせず...羽生城と秋の空

  • 手書きの字は体を表す? ―正岡子規『仰臥漫録』―

    (明治34年)十月十三日大雨恐ろしく降る午後晴今日も飯はうまくない昼飯も過ぎて午後二時頃天気は少し直りかける律は風呂に行くとて出てしまうた母は黙って枕元に坐って居られる余は俄に精神が変になって来た「さあたまらんたまらん」「どーしやうどーしやう」と苦しがって少し煩悶を始める明治三十五年三月十日月曜日晴日記のなき日は病勢つのりし時なり午前七時家人起き出づ昨夜俳句を作る眠られず今朝は暖炉を焚かず八時半大便、後腹少し痛む同四十分麻痺剤を服す十時繃帯取換にかかる横腹の大筋つりて痛しこの日始めて腹部の穴を見て驚く穴といふは小き穴と思ひしにがらんどなり心持悪くなりて泣く(後略)(正岡子規著『仰臥漫録』より岩波文庫)40歳も過ぎると、正岡子規の『仰臥漫録』は若い時分に読んだときより鬼気迫って感じられるようです。ましてや、...手書きの字は体を表す?―正岡子規『仰臥漫録』―

  • 八方ふさがりのときは……

    太宰治は、田中英光へ宛てた手紙の中で次のように言っています。八方ふさがりのときは(ぼくにもじつにしばしば、その経験があり、いまだって、いつもその危機にさらされて生きているわけですが)あせって狂奔するよりは、女房にあやまって、ごろ寝するのがいちばんのようです。(昭和22年4月2日付)その2年前、太宰はこうも言っています。やっぱり仕事だけですね。ただ考えていたんでは、不安やら後悔やらで、たまりません。(昭和20年5月9日付、小山清宛て。亀井勝一郎編『愛と苦悩の手紙』河出文庫)暗いトンネルを抜け、ようやく復帰にいたりました。あっという間だったような、とても長かったような、振り返ってみればそのような感覚です。病気の方は、「落ち着いている」と言っていいかもしれません。ぶり返さぬように気を付けるばかりです。人の優しさ...八方ふさがりのときは……

  • お詫び

    9月19日(日)に、埼玉県立嵐山史跡の博物館の令和3年度企画展「実相忍びの者」に関連して、博物館セミナーが開催されました。実は、講師の一人として私も参加する予定でした。私のテーマは羽生城。上杉謙信が羽生城へ宛てた書状の中に忍びが登場するのにちなんでお声がかかりました。しかし、随分前から病気にかかってしまい、療養中で出席することが叶いませんでした。(コロナではありません)楽しみにされていた方や、関係者の皆様に深くお詫び申し上げます。職場にも多大なご迷惑をおかけしています。本当に申し訳ありません。病気になると健康のありがたみをつくづく実感します。ご縁は一期一会。コロナの流行がなければ去年開催するはずで、歴史の猛者たちを相手にお話をするのは不安でしたが、私自身とても楽しみにしていたので、眠れないほど悔しい想いをしまし...お詫び

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