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クニの部屋 −北武蔵の風土記− https://blog.goo.ne.jp/kuni-furutone118/

北武蔵を中心とした歴史を紹介。地方のあまり知られていない城や古墳などを発掘します。

高鳥邦仁
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2006/06/13

  • 8月2日の藤

    加須市内で記念樹を見かけた。1996年8月2日、加須ロータリークラブが創立25周年として、公園内に藤の木を植えたらしい。ちょうど春の季節で、藤の花が満開に咲いていた。2024年は1996年と同じ暦という。今年の8月2日は金曜日だから、1996年も週末に位置していたことになる。その年は高校生最後の夏休みだった。だから家と図書館を行き来していたわけだが、ときどき閉館後に利根川へ足を延ばした。図書館には知っている同級生の顔が何人かあって、机に向かっていた。過ぎていく日々の中、言葉を交わしたいのに話しかけられない人がいた。どんな日常を過ごし、卒業後はどんな未来を思い描いているのか。ついこの間まで、何の気兼ねもなく言葉を交わしていたのに。あの日を境とするまで、いろんなことを話していたのに、近くて一番遠い人がいた。人...8月2日の藤

  • 長栄寺と毛呂城址(毛呂氏館跡)

    大型台風の襲来のとき、警報の出された市町村名を読み上げたアナウンサーが「けろやままち」と言った。どうやら「毛呂山町(もろやままち)」を「けろやままち」と読み違えたらしい。アナウンサーに同情の念が湧く。地名は難しい。知らなければ、「けろやま」と読むのが普通かもしれない。ただ、そのアナウンサーのおかげか、毛呂山町はかわいい町のイメージがついた。詰所で一緒に待機していた人たちも、「けろちゃん」と微笑んだ。激しい風雨に緊張感が増しているときだっただけに、少し場が和んだのを覚えている。そんな毛呂山町にはいくつかの城跡がある。長栄寺が建つ場所もその一つ。町中からほんの少し離れた山麓に位置し、そのため遺構の一部が残っている。毛呂氏の拠点であり、大永4年(1524)の上杉氏による毛呂攻めの舞台の一つと見られている。「浅野...長栄寺と毛呂城址(毛呂氏館跡)

  • 毛呂山町の町中に城跡がある? ―山根城―

    妙玄寺(埼玉県毛呂山町)の東方にかつて“毛呂城”があったという。“山根城”とも言い、妙玄寺近くの踏切の傍らに、その名が刻まれた石碑が隠れるように建っている。長栄寺側の城跡とは異なり、妙玄寺周辺は住宅街である。ゆえに、城の遺構とおぼしきものは見当たらない。何の情報もなければ、そこが城跡とは気付かないのではないだろうか。昭和40年代に妙玄寺遠景を写した写真を見ると、畑の中にお寺がポツンと建っている光景に驚く。住宅がまるでない。のどかな景色が広がっている。かつては水堀が残っていたという。以後、開発の波が押し寄せ、住宅街へと変貌を遂げたのだろう。平地の城跡は、開発の波から免れるのが難しい。史跡公園等で整備されているのは稀だ。大概は時代の流れと共にその姿を消している。妙玄寺は毛呂氏夫人の開基と伝わる。境内には供養塔...毛呂山町の町中に城跡がある?―山根城―

  • 女淵城と木戸元斎

    天正2年(1574)1月に越山した上杉謙信は、羽生城将へ宛てた3月13日付の書状の中で、善城・山上城・女淵城を落とした旨を伝えている(「西沢徳太郎氏所蔵文書」)。女淵城の沼田平八郎は、重ねて金山城の由良氏に同心したためこれを攻略し、同城に越後衆を置いたという。女淵城は群馬県前橋市粕川町に所在する。水堀が印象的な城址だ。天正2年閏11月に羽生城(埼玉県羽生市)を追われた木戸元斎は、謙信に引き取られて上野の城に置かれた。善城が有力視されているが、女淵城に在城した可能性も指摘されており、もし後者とすれば、水の城という意味で羽生城を彷彿とさせるものがあったかもしれない。現在の城跡は公園として整備されている。それぞれの郭が認められ、園内を散歩するにしても、歴史散歩と言うにふさわしい。本郭の南には、二の郭、三の郭と続...女淵城と木戸元斎

  • 会の川の最上流部にて

    令和6年5月26日開催の「タイムスリップまち歩き」で訪ねた会の川の最上流部。会の川はかつて利根川の本流だったが、現在は川幅も狭く、穏やかな流れになっている。「本流」と言っても、水勢は時代によって異なっていたらしい。文禄3年(1594)の締切時には、すでに「派川」と言ってもよく、言い伝えられるほどの難工事ではなかったとみられる。人柱伝説、西福寺へ発給された文書、締切神社、利根川東遷……。会の川上流部における歴史的素材は賑やかだ。ところで、小学校の社会科の授業で、地元を勉強するのは小学3、4年生のときだった。「はにゅう」や「埼玉県」といった教科書を使った。いわゆる副読本である。当時、僕は「社会」は苦手な科目だった。産業や治水に関心は薄く、テストの点数もいまいち。教科書を目にするだけでストレスを感じるほどだった...会の川の最上流部にて

  • 羽生の“内手橋”近くに出城があった? ―内手―

    羽生市内に“内手橋”という橋が架かっている。埼玉用水に架かる橋で、羽生市小須賀地内となる。“内手”は城郭用語に数えられる。「打出」「内出」とも表記され、群馬県内の城館跡にも見られる。ということは、ここに城館があったのだろうか?埼玉県の調査では、内手は城館として比定している。冨田勝治氏も羽生城の支城として、境界を守る出城という見解を示した。そう、出城。内手は出城の別称であり、山﨑一氏は一揆の勢力下にあった地方に多いと述べた。堅固な城館というより、武装化した屋敷のようなイメージだろうか。ただ、郭を設ければ城郭である。城絵図もなく考古学的成果もないため、構造や縄張りは不明である。ところで、埼玉用水に架かる内手橋は、戦国時代から存在するものではないだろう。その前身はあったかもしれないが、現在の橋は埼玉用水路として...羽生の“内手橋”近くに出城があった?―内手―

  • 5月26日、羽生でタイムスリップが起こる?

    気が付けば1週間を切ってしまった。5月26日(日)に「第5回羽生タイムスリップまち歩き」が開催される。主催は羽生市観光協会。同会に声をかけられて、今回も講師を務めることになりました。参加される方々、よろしくお願いします。今回のテーマは利根川沿いの歴史散歩だ。文禄3年(1594)に会の川が締め切られてから430周年を記念して、締切址及びその周辺を散策する。地域としては、上新郷、小須賀、上川俣、本川俣になる。羽生市観光協会のS局長とMさんと何度も打ち合わせをした。距離がいささかあるように思われたのだが、お二人がGOサインを出したので大丈夫だろう。開催に先立ち、参加募集ポスターが公共施設を中心に張り出された。まさか自分の顔が出るとは思わなかった。Mさんには何度も言ったのだが、結局掲載されてしまった。そのせいで、...5月26日、羽生でタイムスリップが起こる?

  • 待ち時間は“真名板高山古墳”で……

    休職していた頃、保育園の子どもを預かる時間が短縮された。制度上仕方のないことで、むしろ預かってもらえるだけありがたかった。迎えの時間のおよそ40分前、真名板高山古墳(埼玉県行田市)へ立ち寄ったことがある。用事があるわけでもなく、古墳が見たかったわけでもない。ただ、何とはなしに足を運んだ。古墳は何も変わらないように見えた。麓に建つ板碑や薬師堂も、最後に見たときと同じのまま。変わったのは自分の方で、心身が故障していたせいもあり、古墳に登る気力も起きなかった。古墳には何本もの樹木が立っている。西日で長い影が落ちていた。その影に車を止め、少しの間本を読んだ。静かだった。境内には誰もおらず、樹木の中から鳥が鳴いていた。一日が終わろうとする静かな時間。いつ職場復帰できるのかわからず、夕方はいつも不安に襲われた。が、古...待ち時間は“真名板高山古墳”で……

  • なぜ北条氏は羽生城を力攻めにしなかったのか? という謎について

    読むたびに、目に留まり続けた一文がある。それは平井辰雄氏の『羽生の歴史回顧』。北条氏が羽生城を力攻めにして落とさなかったことについて、北条方にとって羽生の地はそれ程魅力のある所とは思わなかったものと思われ、その証拠には羽生城破却後、北条家の重臣を配置しないで、忍城主に預けたことからもわかります。と述べている。たまに手に取ってはこの一文を読み、モヤモヤしていた。2007年の発行だから、10年以上モヤモヤしていたことになる。岩田明広氏が執筆した忍びに関する論文や、同氏から声をかけられて『戦国の城攻めと忍び』(吉川弘文館)に寄稿したのを機に、天正2年における羽生城攻防について改めて考えた。北条氏はなぜ羽生城を力攻めにしなかったのか?自落後、羽生領はなぜ成田氏に接収されたのか?自分の考えは、平井氏の見解とは異なる...なぜ北条氏は羽生城を力攻めにしなかったのか?という謎について

  • 脳に効くのはどんな音?

    夜、急遽コインランドリーへ行く用事ができた。一人、洗濯物と原稿(ゲラ)を抱えてコインランドリーへ足を運ぶ。何度か使ったことのある店だ。以前、大音量でマンボが流れていたのを覚えていた。あれを聞きながら校正するのか……。いささか気が重かった。夜だから車内で作業はできない。家に戻るには微妙な待ち時間である。仕方なく、店内のベンチに腰掛けてゲラを広げた。いまの文量から、30~50枚削らなければならない。それが編集者から出された課題だった。我ながら、小難しいものを書いてしまったと思う。情報量が多い。ゆえに、重複しているところ、説明しすぎている部分、回りくどい表現、もったいぶった言い回しなどを優先して削除していく。店内にはマンボが流れていた。店内に客はまばらで、乾燥機から洗濯物を取り出しては去っていく。話し声も笑い声...脳に効くのはどんな音?

  • 羽生の“公民館”はいつできたのか?

    公民館は“地域の学校”と言っても過言ではない。図書館・博物館と並んで、生涯学習の拠点に位置付けられる。では、羽生市内において公民館はいつ設置されたのだろう。現在、市内には9館の公民館が存在する。全館が同時に建てられたわけではない。段階を経て誕生している。最初に設置されたのは新郷公民館だった。昭和24年9月29日のことである。「社会教育法」の制定と同年のため、早い時期の設置だったことになる。次にできたのは岩瀬地区。同25年5月の設置だった。同26年11月には井泉、翌年8月には手子林という順番を経る。そして、同28年4月に羽生町・須影・川俣・村君・三田ヶ谷にそれぞれ公民館が置かれた。羽生市制施行が昭和29年だから、「村」及び「町」に設置されたことになる。ただ、設置と言ってもそう単純なものではなかった。財政困窮...羽生の“公民館”はいつできたのか?

  • GWはさきたま古墳群の“周辺”古墳をハシゴする?

    4月29日午後、編集者のY氏と打ち合わせ予定だった。午前に図書館へ足を延ばし、ひと作業したいところだったが、妻は仕事の関係でどうしても職場に行かなければならないという。Eテレをつけると、劇場版「おしり探偵」が放映されていた。シリアティ教授が登場する作品である。休職から職場復帰する直前、子ども2人を連れて観に行ったことがある。あの頃娘は保育園児だったが、いまや小学生である。月日の流れは速い。初夏と言えば古墳。さきたま古墳群周辺の古墳を訪ねることにした。子どものテンションは無視して、“八幡山古墳”(埼玉県行田市)へ足を運ぶ。周知のように、石室がむき出しになっており、関東の石舞台と言われる古墳である。過去に何度か子どもを連れてきたことがあったが、いかんせん幼すぎたらしい。初めて目にするテンションで石室の中に入る...GWはさきたま古墳群の“周辺”古墳をハシゴする?

  • 羽生と行田の境目はどこに流れ着く? ―関根落としー

    田植えの季節を迎え、用排水路が賑やかだ。水量の上がった水路をあちこちで見かける。昔から、水を湛えた水路を目にするのが好きだった。母方の実家の裏には南方用水路が流れ、夏になると流れに水草が揺れ、たくさんの小魚が泳いでいた。欄干がやたら低い橋、下まで降りられる階段、転落防止の柵はなく、川はいまよりももっと身近な存在だった気がする。羽生市と行田市の境目を流れる関根落としという用排水路がある。農業用に使用され、目立つ川ではない。この関根落としは、旧川里町(現鴻巣市)の野通川に合流して終点を迎える。かつては星川に合流していたが、現在は同川の下をくぐって旧川里町までのびている。拙ブログでも、何度か取り上げたことがある。とりわけ、深い思い入れがあるわけではない。なのに、ときどき立ち止まってしまう。付近に鎮座するのは久伊...羽生と行田の境目はどこに流れ着く?―関根落としー

  • 夜泣きに向かうは鶴ヶ塚古墳?

    東北自動車道の側道から見える古墳がある。その名も“鶴ヶ塚古墳”(埼玉県加須市町屋新田)。墳頂には稲荷神社をはじめとする社が鎮座していて、「稲荷塚」とも呼ばれている。築造年代は不明で、かつて墳丘から靫形埴輪の下半部が出土したという。周囲は見渡す限りの水田である。かつては、鶴ヶ塚古墳以外の塚もあったのだろうが、その面影はどこにもない。鶴ヶ塚古墳にしろ、だいぶ変形しているようだ。神社が鎮座しているから唯一生き残ったのだろう。陸の孤島と呼ぶにふさわしい。いまだから言えることだが、子どもの夜泣きがひどいとき、鶴ヶ塚古墳まで足を延ばしていた。近所というわけではない。車を使わなければ行けない距離である。田園地帯だからかなり暗い。子どもがすぐに泣き止むような場所でもなかった。それなのに、引かれるように鶴ヶ塚古墳へ向かった...夜泣きに向かうは鶴ヶ塚古墳?

  • 羽生の歴史でこんな変貌はあったか? ―下岩瀬にて―

    迷った末、栗原眼科病院(羽生市下岩瀬)へ足を運んだ。眼圧を下げる目薬が残りわずかになったからで、数か月後に1度の割合で足を運ぶのがルーティンになっている。診療時間開始前に行ったにも関わらず、病院はひどく混んでいた。待合室は広いのに、ベンチに座れない。混雑は覚悟の上だったから、持参した数冊の本を併読しながら、名前が呼ばれるまで待っていた。目薬を貰うだけのつもりだった。が、なぜか定期検査となる。何枚か写真を撮られるだけだったのに、気が付けばひどく肩がこっていた。医師の診察を受け、病院を出るときにはぐったりしていた。激しい運動を強制されたわけではない。それなのに、疲労感を覚えるのは精神から来るものなのだろうか。気が付けば、立ったまま順番を待っている来院者はさらに増えていた。病院内の独特な空気に慣れるには、数日か...羽生の歴史でこんな変貌はあったか?―下岩瀬にて―

  • 羽生の村君公民館に“テレビ朝日”がやってくる?

    5月11日(日)、羽生市内の村君公民館において、“テレビ朝日”出前講座が開催される。演題は「ニュースと災害報道の舞台裏」。講師を務めるのは、社会記者で防災士の久慈省平氏である。その演題のとおり、ニュースや災害報道の裏側で何が起こっているのか。どんな人たちが関わって、日々のニュース報道がされているのか。そんな楽屋裏話をたくさん聞けるだろう。普段何気なく観ているニュース報道も、講座のあとでは違って見えるかもしれない。講座の概要は以下のとおり。日時:5月11日(土)午後1時30分~午後3時場所:村君公民館費用:無料定員:30名(市内在住、在勤、在学の方)申込:村君公民館まで(048―565―3538)※最初の写真は村君公民館(埼玉県羽生市下村君2227)羽生の村君公民館に“テレビ朝日”がやってくる?

  • 羽生の喜右エ門新田の“キタマチ”と“ミナミマチ”とは?

    6月開催の「歴史散策ウォーキング」の下見に随行する。羽生市三田ヶ谷限定のウォーキングで、講師は文化財保護審議委員の尾花幸男氏が務める。三田ヶ谷地区を歩く機会は、水郷公園やキヤッセ羽生以外になかったかもしれない。『田舎教師』巡りをするのも自転車だった。むろん、初めてというわけではないが、改めて歩くとなるととても新鮮に感じられた。弥勒から喜右エ門新田を歩くコースである(いずれも羽生市)。車だと、一瞬で通り過ぎてしまう景色もじっくり目に入ってくる。路傍の石仏、用排水路を泳ぐ小魚の群れ、野に咲く草花……。歴史散策の原点は、やはりじっくり見ることからだと改めて思う。ところで、かつて喜右エ門新田には大きな沼が存在した。現在は埋め立てられて田んぼとなっているが、土地が一段低くなっている。耕地整理が入る前は掘上田が広がり...羽生の喜右エ門新田の“キタマチ”と“ミナミマチ”とは?

  • 羽生の“なまり”はそれほどか?

    4月から、地域の人たちと関わることがめっきり増えた。予期せず、中学時代に学年主任だったS先生と約30年ぶりに再会。意外なつながりを知る。どこにどんな縁があるわからないものである。おばあちゃん子だったせいもあるせいか、年輩者のなまりがわからないと感じたことはない。高校時代、行田の同級生が「羽生のなまりはわからない」というようなことを言っていた。行田も羽生も同じ北埼玉である。そんな大差ないだろう思っていたが、加須の人からも「羽生はなまっている」と時々耳にする。妻もわからないことがあるらしい。地域によってなまりの強弱があり、聞き返すことがあるのだとか。どうやら羽生はなまっているらしい。むろん、個人差はあるだろうが、令和6年においても昔なつかしい言葉の響きが聞ける地域と言えるかもしれない。「なんでなんで」「そぉだ...羽生の“なまり”はそれほどか?

  • 羽生城な1日

    論文の手直し。書籍化予定の原稿を読み直し。背広を着て、講演台の前に立った。論文も書籍も講演の演題も、みんな羽生城でつながっていた。今日は、そんな羽生城な1日。冨田勝治先生の墓前に手を合わせた。ワクワクして先生の論文を読んだ20代とは違って、いま読み返すと巨石のように感じる。先生の域には達していない。退職校長会に呼ばれたのは何年ぶりだっただろう。浅学者ながら、戦国期の羽生城をめぐる攻防をテーマに講演をさせていただいた。羽生城史は変わっていないはずなのに、歴史を捉える自分自身が変化しているのを感じる。史料の捉え方や解釈の仕方があの頃とは違う。それは新史料の発見によるものもあれば、研究の進展もあり、あるいはこれまでの仕事上の経験がそうさせることもある。一方で、見当違いな解釈をしていないか、目を通さなければいけな...羽生城な1日

  • 壁にぶつかったとき、わずかでも……

    3月はなるべく穏やかに過ごそうと心がけているのに、毎年バタつく。詰めなければならない事業、切られるのを待つ伝票たち、あくびをしながらこちらを見ている実績報告書、腕を組んで構えている来年度の契約書や申請書……。その他、組織改正に伴う荷物の運搬があって、慌ただしさに目が回る。3月、編集者のY氏と打ち合わせをした。改めて編集方針を話し合うと案外すっきりした。なるほどそういうことか。テトリス棒が溝にはまった音が聞こえた気がした。以前渡した原稿は、行動規制を余儀なくされたコロナ禍を挟んだせいか、原稿用紙800枚を超えていた。さすがに書きすぎた。ゆえにY氏を煩わせることになり、どのような形にするか、これまで何度となく話し合ったが、漠然としたまま月日が流れた。ここに来て、版元の編集方針がはっきり見えた。改めて原稿を読み...壁にぶつかったとき、わずかでも……

  • 特別展「鉢形城主 北条氏邦」が埼玉で開催されている?

    特別展「鉢形城主北条氏邦」が、埼玉県立歴史と民俗の博物館で開催されている。多くの古文書が展示されている中、兜や刀剣、十二神将も特別展を彩っており、子どもたちはやはりそちらに食いついていた。管見によるが、同館で中世の歴史をこれだけガッツリ取り上げるのは初めて見たかもしれない。令和6年5月6日までの開催だから、もう一度見に行きたい。新年度になれば、仕事で同館を訪ねる機会がありそうだから、そのときがチャンスかも。昼過ぎから妖しくなり始めた雲行きは、いつの間にか雨を降らせていた。博物館内の静けさが深くなった気がした。体験コーナーで、たくさんの子どもたちが賑やかに資料と触れているのに、博物館独特の静けさがある。初めて一人で同館を訪れたのは平日の昼間で、そのときの静けさが脳に焼き付いているからなのかもしれない。博物館...特別展「鉢形城主北条氏邦」が埼玉で開催されている?

  • 夜に訪ねる水海城は?

    水海城(茨城県古河市)は夜闇に沈んでいた。深夜というほどではないが、夜はだいぶ更けていた。が、思い立ったが吉日。一人車を走らせ、利根川を渡った。最後に水海城址へ足を運んだのはだいぶ前になる。文献上では何度も目にしていた城だから、よく足を運んでいる気がしていたのかもしれない。それに、関宿城(同県野田市)が近い。同城を並べてしまうと、個人的な親近感もあって、どうしても水海城は後回しになってしまう。とはいえ、両城とも簗田氏と関係の深い城である。簗田氏が関宿へ移る前は水海城を本拠にしており、その城跡は「南部地域」にあったと考えられている。発掘調査が実施されたのは「内水海」地区で、神明社付近が城跡に比定される。内水海の城は、南部地域の城よりも新しく構築されたとみられている。政治的にも軍事的にも重視された城だが、遺構...夜に訪ねる水海城は?

  • ガキは夢見て終わるが、大人は……?

    S君は90年代半ばに販売されたというブーツを履いていた。ネットで購入したらしい。「あの頃手が出せなかったものを買ったよ」と、S君は言った。90年代半ばというと、僕らは16、7歳になる。そのブーツがどのくらいの金額なのかは聞きそびれた。当時僕はそば屋でバイトをしていたが、1万円を超えるものは「高値」だったし、数万円ともなれば手を出すことはできなかった。10代から20代にかけて、高値で買えなかったものはたくさんあった。いまよりも物欲があり、好奇心もあった。が、警戒心もあって、高値のものに手を出すのにはどうしても身構えた。車の改造にお金をつぎ込む同世代は別格に見えたし、銀座のまわらない鮨屋の常連客は、「小僧の神様」(志賀直哉)のような住む世界が異なる人のようだった。いま思えば、それは少年(小僧)と大人の違いだっ...ガキは夢見て終わるが、大人は……?

  • 戦国期の羽生城をめぐる攻防、の話

    「埼玉史談」を発行する埼玉県郷土文化会から依頼を受け、講師を務めた。タイトルは「戦国期の羽生城をめぐる攻防」。テーマを羽生城に絞って話をするのはいつぶりだろう。会場は羽生市立図書館2階の視聴覚室だった。埼玉県郷土文化会の内野会長から挨拶をいただき、村田副会長が司会を務めて下さった。会場が羽生の図書館だったせいか、20代の記憶が走馬灯のように流れた。自分が28歳だった平成19年だったか、この会場で羽生城をテーマに4回講座の講師を務めたことがある。まだ冨田勝治先生は存命で、自分のような浅学者が人前に立つのはおこがましい限りだったが、あたたかく迎え入れて下さったのを覚えている。冨田先生が逝去したのはその翌年だった。平成20年4月17日に亡くなり、同年夏に先生をモデルに書いた小説が「放課後の羽生城」だった。たまた...戦国期の羽生城をめぐる攻防、の話

  • 代休の午後、足利市立図書館へ

    1月某日。半日代休をとって、足利へ足を延ばした。ふと足利が思い浮かんだのは、気まぐれと思い付き。午後の休みに史跡を訪れるのが好きだ。半日だから、それほど遠くは行けない。でも、定時よりは時間があるし、体力も残っている。その町の図書館を訪れるのも好きなことの一つ。足利は史跡が多い。そのせいか図書館が死角になっていたことに気付く。鑁阿寺や織姫神社には目もくれず、まっすぐ足利市立図書館へ行く。同館の開館は昭和55年ということから、自分と同年代ということになる。レンガ調の建物で、足利市らしい歴史的雰囲気の佇まいである。その図書館のカラーを見るのに、自分は参考調査室・郷土資料室を基準にしている。その館でしか出会えない資料がある。地元の人が調べてまとめたものや、ガリ版刷りの報告書などがそれにあたる。一方で、流通はしてい...代休の午後、足利市立図書館へ

  • 埼玉大学からの「卒業まで」

    調査報告検討会。ムジナモに関する仕事で埼玉大学へ行く。それぞれ専門的な観点から調査した今年度の結果を報告し合う。毎年春先に開かれるこの会を楽しみにしている。北浦和駅で下車してバスに揺られる。金子康子教授の研究室のドアを開き、「知」に触れる。この仕事をしていなければ、出会わなかった世界かもしれない。静かな語り口調でも、その言葉の一つ一つが熱い。冷たい風が吹き荒れていた。そのせいとクスリを忘れたせいかもしれない。一人になると、悲しいわけでも苦しいわけでもないのに時々にわか雨に見舞われる。検討会が終わったあと、同大学の図書館へ足を運ぶ。なぜだろう。脈絡もなく、遠い記憶が浮かんでは消えていく。書架に手を伸ばしても、つかみたいものはずっと遠くにある気がした。混雑したバスに揺られて北浦和駅へ戻る。駅前の居酒屋で雨宿り...埼玉大学からの「卒業まで」

  • 日曜の雨は嫌い

    日々の忙しさでペースが崩れているのを感じる。朝から雨が降っていた。日曜の雨は嫌い。いつも心を塞ぐから。窓の外に城が見える図書館へ足を運ぶ。館内は空いていた。個人机に座り、書き物をする。が、何もしたくない。何も書きたくないし、読みたくない。眠気がまとわりつき、離れそうもなかった。軒から滴り落ちる雨をぼんやり眺めていた。こんな日もある。早めに切り上げて、ランチに魚料理を出す店へ行く。店内は賑わっていた。なんでそんなに楽しそうなのだろう。窓の外は冷たい雨が降っているのに。出したクリーニングを取りに行く。空いていたせいか、店員が珍しく話しかけてきた。明るくて、元気で、クリーニングしたみたいに目がキラキラしている。なぜそんなに明るいのだろう。窓の外では重たい雨が降っているというのに。帰宅して子らと過ごす。妻は買い物...日曜の雨は嫌い

  • 背後から追いかけてくる

    時間が追いかけてくる。バタバタと大きな足音を立てて、背後から迫ってくる。どうしてこんなに忙しくなってしまったのか。メインとなるのは、文化庁に提出する書類作成と郷土芸能発表会の準備。前々から準備をしていたはずなのに、一気に芽吹いてきた感じ。コーヒーを淹れたり、トイレへ行く時間さえもどかしい。たまには机から離れて体を動かしたいし、ムジナモにも会いに行きたいのだが、時間がそれを許さず。仕事のことで同期のTさんを訪ねる。彼女は数字を取り扱っている。机に広がる資料を一見するだけで、難しそうなことをやっているご様子。そんなTさんは古墳好きだ。顔を合わせると、古墳やハニワの話をしてくれる。先日、さきたま古墳群(行田市)へ行ったらしい。丸墓山古墳を登ると、あることに気付いたという。南側の階段は99段、北側は104段あった...背後から追いかけてくる

  • 西新田から熊谷へ、のち雪

    羽生市内の西新田集会所で学級が開かれ、依頼を受けて講師を務める。テーマは新郷地区の歴史と文化財。少し早めに家を出て、羽生市上新郷に鎮座する白山神社を訪れた。空は青く、午後から雪が降る予報が嘘のように晴れ渡っていた。利根川の拡幅工事がすぐそこまで迫っている。社殿はすでに南へ移動済。土台だけを残す旧社殿は、いずれも土手下に埋もれてしまうのだろう。ここに来るたび、あの年の秋を思い出す。当時、境内は木々が鬱蒼と生い茂っていた。高木が数本立ち、隠れ家的な雰囲気に包まれていた。ここに加藤清正にまつわる伝説が眠っていることなど、当時は知る由もない。明治43年の大水では、現在の白山神社から東手で堤防が切れたという。中学生の頃や1994年の冬、土手中腹のサイクリングロードを使って利根大堰へ向かった。そこを通るたび、意味深に...西新田から熊谷へ、のち雪

  • 5度の期せずして

    羽生市内の須影小学校が創立されて150年が経つ。最初は「日正小学校」という校名だった。その150周年記念行事が執り行われる。期せずして河田羽生市長と電話でお話をする。今日はここから始まった気がする。いつもと違う金曜日が始まる予感。それにしても、150年という年輪の中に我々も刻まれているかと思うと感慨深い。午前、羽生郷土研究会からの依頼を受けて講師をさせていただく。思えば、同会を知ってから20年が経つ。20代半ばだった僕にとって、何にも代えがたいご縁だった。右も左もわからぬ若造を優しく迎え入れてくれた。羽生郷土研究会に育てていただいたようなものである。自分が講師などおこがましい。先日も、間仁田会長から資料をいただいたばかりだった。今回も色々なことを教わり、逆に勉強させていただく。午後、ずっとバタバタしていた...5度の期せずして

  • それでも午後はやってくる

    浮き沈みの激しい1日。動くと凶が出る。やることなすこと裏目に出る。そんな日がある。だから、じっと静かにしようと思う。なのに、向こうから電話を鳴り、よくない知らせを伝えてくる。聞きたくない情報を伝えてくる。こんな日は、人里離れて電話も何もないところに籠っていたい。が、全て沈んでいたかと言えば、いくつかの“浮き”があった。昼休み、たまたまそば屋の「よしの」へ行くと、下羽生のS君とばったり会った。息子と二人で食べに来たらしい。会うのはいつぶりか。息子さんはだいぶ大きくなっていた。来年は中学生らしい。S君の姪っ子は今年二十歳になったというし、「じい」「ばあ」と呼ばれる日もそう遠くないのかもしれない。思わぬ対面に、ぎりぎりまで「よしの」で過ごす。議員になったという同級生、自分も何度か顔を合わせたS君のコミュニティが...それでも午後はやってくる

  • よくわからぬものを……

    暮れから取り掛かっていた原稿を、台所でひと通り書き終える。よくわからぬものとなった。何を書きたかったのか。何を考えたかったのか。ただ、紙を文字で汚しただけではなかったか。つまらぬ。笑えぬ。燃え尽きぬ。よくわからぬものを……

  • 子をつれて“カスリーン公園”へ

    冬休み最終日。西風が吹き荒れる中、西へ向かう。旧川里町(現鴻巣市)と行田。書き物をする。ペンをあれこれ変えず、万年筆一本でいく。記憶の断片を切り取った文章を綴る。エッセイというより散文詩か。なぜか英文を読みたくなって、カーペンターズの「RainyDaysAndMondays」の詞を書き写した。英文の詞を書写するなど初めて。西風の影響か。万年筆は書き心地がいいし、疲れない。インクの色も綺麗だ。なので、職場で書類を発送するときは、封書と一筆箋はなるべく万年筆を使っている。鮮やかなインクの色とは違い、自分の字は綺麗ではないのが難点だが。生活用品を買うのに、ベルク行田長野店へ立ち寄った。店に入りかけた途端、同店で高校の同級生がバイトしていたかもしれないことを突如思い出す。いや、気のせいか。熊谷の結婚式場でもバイト...子をつれて“カスリーン公園”へ

  • 子はわからぬ父の二十歳の写真

    羽生市の「二十歳の集い」(成人式)は、産業文化ホールで開催された。ので、出勤する。今年は受付係を担当。昨年は新型コロナにかかって迷惑をかけたので、万難を排して臨んだ(つもり)。仕事の都合上、毎年のように成人式を目にする。そのたびごとに、二十歳の自分と再会する。髪を染め、ピアスをして、タバコを吸っていたあの頃。まるで別人である。その頃の写真を子に見せたら、父親がどれかわからなかった。二十歳の子たちに、もはや知っている顔はない。知っている顔があるとすれば、同伴の保護者の方だろう。子どもが二十歳を迎えた同級生を何人か知っている。それが自然な年齢に達してしまった。今回は知っている顔は見当たらず。たまたまか、単に気付かなかっただけか……。式は無事に終わり、昼に解散となる。そのまま羽生図書館へ足を運ぶ。今年初めての入...子はわからぬ父の二十歳の写真

  • 子を連れて“新田義貞供養塔”と“金山城主墓碑”へ

    冬休みも残りわずか。今時の小学生は、タブレットを使っての宿題がある。しかもタイピング練習。自分が小学生のときは「タ」の字もなかった。時代に合わせた教育が考えられているわけで、先生たちも大変だなと思う。子の宿題に付き添いながら原稿を書く。脳におけるゴールデンタイムは午前中にある。宿題も午前にあてた方が能率はいいかもしれない。妻が娘を習い事へ連れて行ったので、息子と出掛ける。羽生の「伊勢屋」で昼食をとる。今年初のラーメン。店内には、明日の「二十歳の集い」に出席するため帰省中とおぼしき若者が多かったような……。その後、群馬県太田市へ足を運ぶ。金龍寺で新田義貞の供養塔と、金山城主由良氏(横瀬氏)の墓碑を詣でる。お寺やお墓へ足を運んだ際は、本殿と墓碑にそれぞれ手を合わせるようにしている。親子並んで合掌した。息子が墓...子を連れて“新田義貞供養塔”と“金山城主墓碑”へ

  • 資料館からやってきた「茨城城郭サミット」

    郷土資料館のY氏と今年初めて顔を合わせる。2月10日に開催される「茨城城郭サミット」のチラシを持ってきてくれた。副題は「茨城県中世城郭跡総合調査成果報告会―県央・県西編―」とあり、2018年度から開始された総合調査が2023年3月に完了したのを受け、携わった研究者が一堂に会し、その魅力を報告するという。三が日に茨城県の逆井城(坂東市)へ行き、茨城の風に吹かれてきたばかりである。行きたい。が、2月10日は郷土芸能発表会のリハーサルが入っている。作家京極夏彦氏の講演会が、さいたま文学館で開催されたときと同じパターンである。100歩譲って、埼玉県内ならかろうじて行けるかもしれないが、会場が茨城県笠間市では手も足も出ない。職場の窓から、ぼんやりかすむ筑波山が見えた。筑波山はいつ見ても美しい。手の届かぬ憧れの人のよ...資料館からやってきた「茨城城郭サミット」

  • 仕事始めに大阪の古墳とハニワの話

    仕事始めの日。道は案外空いていた。子らを実家に預ける。両親に感謝。仕事納めの式がつい昨日のことのように感じる。能登半島地震と羽田空港事故の話題が何度も出た。「よいお年を」と言っていた年末、まさかこんな年明けになるとは思いもしなかった。今週末には、成人式ならぬ「二十歳の集い」が待っている。担当する係はバタバタ忙しそう。担当者はこの大きなイベントを見据えて年末年始を迎えたことになる。自分がその立場だったら、休みどころの気分ではないだろうな。仕事のできる人は段取りをしっかり組んで、オンとオフを使い分けているに違いない。連絡ボックスの前で同期のTさんに会う。大阪で開催された息子の試合に付き添いつつ、密かに狙っていた古墳訪問を成就できたという。足を運んだのは、大阪市藤井寺市にある古墳。(正式名称は裏を取ってから書こ...仕事始めに大阪の古墳とハニワの話

  • 三が日の羽生とイオン

    年賀のあいさつに実家へ行く。妹一家も来て、子どもたちはいとこたちと楽しそうに遊んでいた。自分の幼い頃の記憶と重なる。母方の実家の祖母が亡くなったのは昨年だった。わかってはいるが、1980年代の正月の光景はもう二度と見ることはできない。幼い頃に見た祖父母の笑顔が消え、心の隙間を感じる。いまの住まいで使用頻度が少なくなった本を実家へ持っていく。代わりに必要になった本を持ち帰る。2冊、行方不明の本がある。実家にあると思っていたが、どうしても見付からない。(逆に重複して買ってしまった本が発覚)一体どこへ行ってしまったのだろう。必要なときに限って、神隠しが起こるのはなぜなのか。空は朝から薄曇りで気分が塞ぐ。昨日の余熱を逃さず、『茨城県史通史編』と、国衆を論じた埼玉県内の市町村史を再読する。どこかへ足を運ぶと、目に映...三が日の羽生とイオン

  • 子をつれて逆井城

    午前中はどうしても動けなかった。クスリが効きすぎたか。妻が職場へ行く用事があり、子らをつれて出掛ける。会心の一撃は狙わず、何とはなしに逆井城(茨城県坂東市)へ足を延ばした。二重櫓や物見櫓が再現されているほか、堀や土塁も現存している。山城ならともかく、平城でここまで現存・整備されているということは、地元の人たちが尽力したからなのだろう。城跡へ足を運ぶときは歴史と対話し、静かに内省したい。が、子ども2人をつれてはなかなか難しい。息子が歴史好きと言っても、織田信長や徳川家康といった歴史的有名人が出てこない城にはピンとこないらしい。ひと通り城跡を歩いたが、ずっとお囃子を聞いているようなものだった。携えてきた『猿島町史資料編』と『関八州古戦録』はチラリと見た程度。車に戻った途端「喉が渇いた」と異口同音に言うので、す...子をつれて逆井城

  • 大型地震の発生を伝えた水槽の水

    2024年になりました。今年もよろしくお願いします。深夜、家族は寝入ったので、毎年のことながら一人で出掛ける。(息子が頑張っていたが、あと一歩のところで寝落ちする)初詣というより、「ゆく年くる年」の乗りで神社仏閣を見て回る。多くの参詣者がある一方で、夜闇に溶け込んでいるところもある。その表情はそれぞれで、かつてはそのギャップが好きだったが、もはや見慣れた感がある。またパリに行くしかないか。午前2時近くでも、参詣に向かって歩いている人がいることに驚く。加須の總願寺(不動尊)は、境内に露天商まで出ている。あのお店は何時まで営業しているのだろう。まさか明け方までやっていることはあるまい(いや、しかし……)。夜が更けるにつれて、男子たちの集団が目立つ。カラオケ店や飲み屋でも客の姿を見かけた。楽しそうな姿を目にする...大型地震の発生を伝えた水槽の水

  • 羽生で年越しそば

    志多見の「辻九」が閉店して初めて迎える大晦日。大切な場所を失ってしまったような、そんな喪失感を覚える。閉店を知った翌日には、厨房で働く夢さえ見た。「辻九」は高校時代のバイト先で、思い入れは深い。閉店は寂しい限りだが、いままでありがとうと、感謝の気持ちを伝えたい。昨夜、やや空腹感を覚える状態で睡眠薬を飲んだせいか、変に体がだるかった。気を抜くと落ち込みそうだったから、ロラゼパムを飲む。昨夜の余熱が残っている内に、『東京・埼玉の城郭』(新人物往来社)を読む。年末年始、人ごみを避けて閑散とした城館を訪ねるのが好きだった。それなのに、病気になってからというもの、羽が折れてしまった感がある。何か強い力で背中を押されないと動けない。ちょっとの力では思い付きで終わってしまう。妻から言わせると、自分は会心の一撃を狙ってい...羽生で年越しそば

  • 東京で知った「8番出口」

    『方舟』(夕木春央、講談社)と『つげ義春日記』(講談社文芸文庫)を読む。前者は、なるほどそんなどんでん返しがあるのかと唸らされる。後者は、そのタイトルの通り著名漫画家の日記。「つげ義春」という人物を情報として知っているから面白く読める。日記文学ついでに『紫式部日記』を紐解く。『つげ義春日記』とはまた別の味わい。(研究として読んでいるわけではないので、口語訳と原文を行ったり来たり)底本は、小学館の『日本古典文学全集』。「ちょっとしたことで後にふと思い出されることもあるし、そのときは「をかしきこと」と思っても忘れてしまうものもあるのはなぜだろう」という一文に共感する。息子が東京へ行きたいと言ったので、急遽首都高に乗る。日本橋→東京駅→GHQ本部→皇居→桜田門→警視庁→国会議事堂→各省庁→国立公文書館→勝鬨橋→...東京で知った「8番出口」

  • 子をつれて“いなほの湯”

    旧川里町(現鴻巣市)へ足を運ぶ。ここにはお気に入りの公園がある。公園といえども、人がほとんどいないのが気に入っている。車内でとめどないことを書きながら、『つげ義春日記』(講談社文芸文庫)と『正津勉詩集』(思潮社)を読む。つげ義春氏の日記には不安や苦悩が綴られているが、やはり華やかさもある。日記には正津詩人も登場する。2021年、正津先生は『つげ義春「ガロ」時代』(作品社)を上梓し、話題になった。両先生のように売れっ子ではない自分は、閑散とした場所で赤城おろしに吹かれているくらいがちょうどいい。12月のはじめ、下旬に一度打ち合わせをしましょうと言った版元からの連絡は結局なかった。年末年始にゲラの手直しができると期待したが、幻の仕事になりそうだ。「予定」が自然消滅することが続いている。徒労と疲労が濃くなりつつ...子をつれて“いなほの湯”

  • 古城天満宮と仕事納め

    仕事納めの日。机の上を少し片づける。昼は、上席から振舞われたそばをおいしくいただく。その後、古城天満宮まで散歩した。ばったりH部長と会い、天満宮に掲げられた幟旗について立ち話をする。部長は社会科の教員ということもあり、さすが目の付けどころが違う。拝殿の前で手を合わせ、この一年の報告と翌年の無事を祈念する。昨年の暮れは土器の欠片を拾った。縄文時代の土器片の可能性が高い。今年も何か見付からないか気になったが、探している時間はなく職場へ戻る。以前借りた考古学関係の研究報告書の返却に教育長室へ入る。秋本教育長は、いつも有益な資料をご教示くださる。さいたま文学館へ随行させていただいたことも二度ほど。本来僕のようなポンコツが足を踏み入れる場所ではないのだが、市長室をはじめ、教育長室に入って出たあとはいつも違う。何か一...古城天満宮と仕事納め

  • 昭和40年代の羽生から

    年明け早々に講師の仕事があり、その仕込みをする。昭和40年代の羽生の商店が載っている本を読み、パワポとレジュメを作る。当時は個人商店が多く、被服や布帛を扱っている店が多い。旅店も少なからずあり、現在とは別の勢いを感じる。朝の羽生駅を写した古写真には、改札口を出る多くの女性たちが写り、埼玉県内で言えば大宮駅の光景のようだ(ちょっと言いすぎかな)東北から北埼玉へ働きに出てきた若い人も多かったという。羽生の町中には2つの映画館があり、駅前にはボーリング場もあった。束の間の休息、娯楽施設で息抜きをした人も多かっただろう。インターネットもなかった時代。化粧品を買いに行くにも個人商店だったろうし、人と人との距離がいまより近かった。在宅勤務やテレワークといった勤務形態など、想像もしていなかったはず。冬休み中の子どもたち...昭和40年代の羽生から

  • 再開のラー活

    行田真名板から年輩の方が再び訪れ、同地域の歴史をまとめた資料をいただく。色々と調べられており、地元に伝わる口碑も取り上げている。他に類のないもので、ありがたく頂戴する。羽生のK君とラー活(ラーメン活動)を再開する。彼は来月から職場復帰するという。心療内科の病院のことで相談を受けたのは今年の春だった。通院、入院、復職プログラムと段階を経て、晴れて復帰。あんなに苦しそうなK君を見るのは初めてだったから、鴻巣で食べたつけ麺の味は一入だった。そんな彼は、休職中にジェームス・ジョイスの『ユリシーズ』をクリア(読破)したという。「翻訳不可能」の枕詞が付きがちな『フィネガンズ・ウェイク』も、原語に当たっているらしい(同書は柳瀬尚紀氏の翻訳が出ている)。秋口に会ったときは、日本の古典文学を集中して読んでいた。神田古本まつ...再開のラー活

  • クリスマスイヴに古墳を訪ねる?

    クリスマスイヴということもあり、図書館へ行くのは自粛した。子らが仮面ライダーや戦隊ものを観ている間、本の世界に入り込む。二十代の頃、イヴ当日に群馬県の山城を訪れたことがある。思い付いて出掛けるには家族に迷惑がかかるので、山崎一氏の『群馬県古城塁址の研究』を開いて脳内旅行をする。ついで、上野国の国衆について論じた黒田基樹氏の論文を読み直す。興に乗ってきたところで、『史料綜覧』『大日本史料』『越佐史料』を拾い読む。数枚カードを書いてファイルに綴れば、旅の思い出ができたようなものだ。子2人を連れて真名板高山古墳へ行く。数日前、真名板から職場を訪ねてきた年輩者からある情報を貰った。その確認をしに行った。なぜだろう。行くならいましかない気がした。イヴに見る古墳もなかなか乙なものである。(振り返ったら、2018年にも...クリスマスイヴに古墳を訪ねる?

  • 気が重くなる原稿

    ウコンの威力のせいか、寝覚めはすっきりしていた。頭痛もせず、気持ち悪くもない。K部長に報告せねば。西の図書館へ行き、原稿を書く。前から考えていた案を下書きしてみた。が、題材が精神衛生上あまりよろしくない。思い出すたび気が重くなる。娘をスイミングスクールへ連れていく。年の瀬とはいえ、チビッ子でいっぱいだった。娘は背泳ぎを合格して級が上がったと嬉しそうだったので、帰りにショートケーキを買う。ささやかなお祝い。子が図書館へ行きたいと言い、地元の館へ連れていく。そういえば、今日は大河ドラマ「どうする家康」が再放送していた。終了を惜しむように『国史大系』収録の『徳川実紀』を拾い読みする。『大日本史料』に収められた三方ヶ原合戦関連史料を読む。(阿部寛氏扮する武田信玄がカッコよかったな)大久保忠隣は登場しなかったが、個...気が重くなる原稿

  • 熊本と明和のサンタ

    明和のTさんと赤ちょうちんへ飲みに行く。平日最後の金曜日とあって、どの店も人で溢れていた。夏に一度だけ、居酒屋で出会った熊本のSさんと偶然顔を合わせる。あのとき飲み代を全部払ってくれたSさんをサンタさんのようだと話したが、このクリスマスシーズンに再会するとは。Sさんの息子が大学に合格し(推薦入試だろう)、春から関東に住むらしい。喜ばしくもあり、寂しくもあると、前にSさんは話していた。複雑な父親心である。うちの息子はまだ小さいが、何となくわかる気がする。Sさんは九州男児ゆえ、そんな内面はおくびにも出していないのだろうが。目に見えないところで、蒔いた種が少しずつ春に向かっている。明和のTさんは酒が強い。大ジョッキを何杯も飲み干し、顔色も呂律も変わらずケロリとしている。Tさんの奥さんが、うちの子どもたちへお菓子...熊本と明和のサンタ

  • なぜ、ゆず湯に入るのか?

    午前は出勤し、午後は久喜の病院へ行く。忙しさを理由に、しばらく心療内科から遠ざかっていた。よくないと思いつつ、実際よくなかった。主治医のいない曜日だったが、せめて年を越せるだけのクスリを処方してもらう。年の瀬のせいか、病院は混んでいた。診察の待ち時間にカポーティの小説、薬局では斉藤孝氏のノート本を読む。ついで、書きためたメモの整理をする。病院は待っているだけで疲労感を覚える。薬局を出ると、ひどく体が重かった。銀行へ寄り、コンビニで濃いめのコーヒーを買う。カフェインで少し体力を回復。その勢いで県立図書館へ足を延ばした。病院と異なり、図書館に人はまばらだった。パソコン優先席に座り、短編を書き進める。「了」まで辿り着く。11月いっぱいで、まとまった作品を書き終えたばかりだ。なので、あまりカチッとしたものは書きた...なぜ、ゆず湯に入るのか?

  • 年の瀬の一人打ち上げ

    午後7時に東町公会堂で出前講座があった。テーマは「古城天満宮と羽生城」。これが今年最後の講師の仕事だろう。できるだけ公務として引き受けさせてもらっているから、午後7時スタートというのは珍しい。フレックスタイムを活用して、10時45分に出勤した。朝は旗当番で、通学するチビッ子たちを見送った。帰宅後、台所で昨日の原稿の続きを書く。30分前に家を出て、普段と異なる通勤路を辿る。風もなく穏やかに晴れていて、職場ではなかなか味わえぬのどかさを感じた。昼休みに小山清の「小さな町」を読む。この作家の親しみやすさは何なのだろう。読んでいて心地よい。ちなみに、小山清の作品に触れると、二十代のときに通っていた正津詩人のゼミを思い出す。ゼミは読書会で、テキストを読み込み、感想なり批評を一人ずつ述べていく形式だった。口下手の僕が...年の瀬の一人打ち上げ

  • 火曜から夜更かし

    書きかけの原稿の新しい視点が思い浮かび、帰宅後ポツリポツリ短編を書いていたら午前一時になっていた。しまった。週の後半ならともかく、まだ火曜日である。昔は寝不足でよく風邪を引いた。睡眠が不足すると免疫力が下がるのだろう。勤務先が東京だった頃、寝不足で乗る満員電車は地獄だった。不足と言えば、執筆に集中すると本を読む時間が削られる。これが結構ストレス。昼休みにカポーティの短編、仕事で『羽生町便覧』の必要箇所を読んだ。今日の読書はそれでおしまい。二十代の頃は、睡眠時間を削ってでも書いたり読んだりするべきと思っていた。若い時分にしかできないことだから。いまやらずしていつやるのか、という精神だった。三十代は無理しない程度にやるべきという考えに変わった。それでも多少の無理はきく年代で、まあ熱いうちに燃えていたかったのだ...火曜から夜更かし

  • 「辻九」の閉店

    週明けの会議はエネルギーを要する。しかも、会議が二つとなると、消費エネルギーも倍増かも。午後二時からの会議は観光関係のものだった。委員として出席したからいわば受身。午後七時からの会議は郷土芸能発表会の打ち合わせ。自分が主担当だから主催者側である。事務局側になると、日程調整やら資料作りやら会場作りやらと、何かと仕事が多い。一方で、委員として出席する会議は責任が重い。自分の考えもあれば、事務局側の意図もある。どちらが楽で、簡単というわけではない。ただ、受身で出席する会議は、議長の進行や、事務局の段取りが参考になる。会議が終わり、会場を出たのは午後八時頃だった。夕飯を食べに加須市志多見の「辻九」へ足を運ぶ。ところが、店は真っ暗。店の出入り口に貼り紙がされているのに気付き、スマホのライトをかざして読む。それは閉店...「辻九」の閉店

  • 「辻九」の閉店

    週明けの会議はエネルギーを要する。しかも、会議が二つとなると、消費エネルギーも倍増かも。午後二時からの会議は観光関係のものだった。委員として出席したからいわば受身。午後七時からの会議は郷土芸能発表会の打ち合わせ。自分が主担当だから主催者側である。事務局側になると、日程調整やら資料作りやら会場作りやらと、何かと仕事が多い。一方で、委員として出席する会議は責任が重い。自分の考えもあれば、事務局側の意図もある。どちらが楽で、簡単というわけではない。ただ、受身で出席する会議は、議長の進行や、事務局の段取りが参考になる。会議が終わり、会場を出たのは午後八時頃だった。夕飯を食べに加須市志多見の「辻九」へ足を運ぶ。ところが、店は真っ暗。店の出入り口に貼り紙がされているのに気付き、スマホのライトをかざして読む。それは閉店...「辻九」の閉店

  • 待てるか待てぬか

    川向こうの図書館へ行く。机はガラガラだった。昨日の短編の続きに取り掛かり、書き終える。夏に50枚近くの論文を書き、それを基にした小説を秋に100枚ほど書き終えた。それが陽の目を見るか、いまは「待ち」の時期。論文は分けて掲載してくれるらしいが、いかんせん電話で聞いただけだから、活字になるまでは兜の緒は緩めぬ方がよい。急いては事をし損ずる。せかしたところで結果は出ぬ。待てるか待てぬか。それが案外岐路となる、というのが持論。午後は家族で義父の墓参りへ行く。義父は僧侶だったが、ときどき大学で教鞭も執っていたという。抜刷の論文を読ませてもらったこともある。義父は義父なりの論文執筆法を持っていただろう。生きていれば聞いてみたかった。夜は大河ドラマ「どうする家康」の最終回を観る。息子も娘は途中で寝ると思ったのに、最後ま...待てるか待てぬか

  • 12月のアイスケーキ

    娘がつかまえてきたアマガエルの生餌を買った。生餌でないと食べぬものらしい。生餌を買うたび、生き物が生まれながらにして背負う罪を感じる。生餌を車内に残したまま、図書館へ流れ着く。運よく机が空いていたから、短編を書く。一区切りつけ、息子の誕生日ケーキを取りに旧鷲宮町のショッピングモールへ足を延ばした(誕生日は数日前の平日だった)。金曜ロードショーで流れるCMの影響か、ここ数年はアイスの誕生日ケーキである。個人的には生クリームケーキの方が好みだが、祝われる本人が食べたいというのだから仕方あるまい。ケーキついでに、書店でトールマン・カポティの初期短編小説を買う。クリスマスシーズンと短編を書いたせいだろう。12月のアイスケーキ

  • 日記のようなものを

    ブログの記事が書けない。他の原稿は書けるのに、ブログだけがしっくりこない。題材はある。が、書こうとするとどこからともなく虚しさが忍び寄ってくる。途端に気力を失う。ならば、日記のような文章を書き綴ろうか。気張らず、気の向くままに綴ってみたら何か見えてくるかな。また虚しさに筆が止まるかもしれない。どんな形にもなるかわからない。まあ、とりあえず、つれづれなるままに。日記のようなものを

  • 時代の速さとともにつまらなさも加速する? ―金木書店の閉店に想ふ―

    2023年の春、浦和にあった古書店・金木書店が閉店した。寂しいの一言に尽きる。浦和へ行く楽しみが1つ減った。金木書店で『新編埼玉県史資料編6』を購入したその足で大学へ行ったのは懐かしい思い出。分厚いその本はバッグの8割のスペースを削り、重量も相当なものだった。でも、手に入ったことが嬉しくて、よせばいいのに電車の中で立ち読んで、周りの乗客に迷惑がられた。他県の資料集や『武蔵国郡村誌』を歯抜けで買ったのも金木書店で、あるとき幼い息子をつれて行くと、電車の本をプレゼントしてくれたのを覚えている。古書店は年を追うごとに数を減らしているのではないだろうか。僕が学生の頃は、町ごとに1店舗の割合で存在していた気がする(町の規模によるが)。埼玉県羽生市にも、1979年生まれの僕は3軒の古本店舗があったのを知っている。駅前...時代の速さとともにつまらなさも加速する?―金木書店の閉店に想ふ―

  • その水路には魔物が棲んでいる? ―加須市にて―

    水路に入ってはいけない。そう訴える看板がある。埼玉県加須市で見付けた看板。インパクトがある。足が止まり、目が釘付けになった。水路には、この世ならざる者が棲んでいる。だから入ってはいけない。近付いてもいけない。目があったら最後。引きずり込まれてしまう……。この夏も、痛ましい水の事故が全国各地で相次いだ。特に子どもに関する事故のニュースはもうなくなってほしい。夏が終わっても、水の事故が少しでも減りますように(合掌)。ゲーム「魔界村」に出てきそうな……水路にはこの魔物が棲んでいる?この世の人ならざる者が足を引っ張ろうとしている。これでは水路に近付けない。他方、「ボケて」に使われそうな……一応歴史的なことに触れておくと、この看板と出会った地域は、「堤」という小字が確認される。堤の大部分は消え去ったが、ほんの一部だ...その水路には魔物が棲んでいる?―加須市にて―

  • 埼玉に“たたりめ堂”が現れた? ―さいたま文学館―

    埼玉県桶川市の“さいたま文学館”で、「番外編たたりめ堂」が開催されている。「銭天堂」の悪役でおなじみの“よどみ”の店である。首都圏初の番外編らしい(令和5年9月24日までの開催)。たたりめ堂では、代金として支払うのは“悪意”。そこに入り込んだ客は自らの“悪意”を払って駄菓子を買う。はっきり言って好みである。なぜなら、悪意はとても人間くさいから。欲望、妬み、恨み、執着と、駄菓子をとおしてその人の人間性があらわれる。最初は悪意しかなかったが、途中で芽生えた善意と葛藤があればなお良し。その心の有り様を描くのが「文学」だと思う。個人的には、たたりめ堂の“眠れませんべい”にインパクトを覚えた。こんなのがあったら買ってみたいかもしれない。はて、支払わなければならぬ悪意とはなんだろう。自分も人間。悪意がないとは言えぬ。...埼玉に“たたりめ堂”が現れた?―さいたま文学館―

  • 羽生の“とまれパンダ”はどこにいる?

    羽生市産業文化ホールの南の出入り口にある「とまれ」の表示。パンダが左右を見ている。川沿いの表示看板にある、「このへんはこわいぞ」カッパと同等レベルで懐かしさを感じる。小学生のときに羽生の町場へ行くと、この“とまれパンダ”があちこちにあったように思うが、記憶違いだろうか。いつの間にかパンダからムジナもんに変わり、大人になったいまは目に留まりにくいものになってしまった。とまれパンダはインターネットで検索するとたくさんヒットする。だからレアものではないらしい。とはいえ、妙に郷愁を感じたから、思わずカメラを向けてパチリ。とまれパンダは、今日もみんなの安全を守っている。埼玉県羽生市羽生の“とまれパンダ”はどこにいる?

  • 夜の“さいたま水族館”はどんな顔?

    夜の水族館は、昼間とは別の顔(のような気がする)。水草の様子を観察しに、子どもたちを連れて羽生水郷公園へ行ったところ、ばったり「ナイトアクアリウム」に出くわした。8月13日~15日までの期間限定の開催という。小雨も降ってきたので館内に入った。日中に比べて、魚たちの動きは静かだった。照明がついているとはいえ、体内時計では彼らは「夜」なのだろう。夜行性の魚も日中にエサを食べていることもあり、夜に活発化することは少ないらしい。ライギョもナマズもオオウナギもじっとしていた。家族連れが多かったものの、館内は静かだった。それは、夜という心理的な静けさだったかもしれない。自分自身、ゆっくり水底へ沈んでいくような、煩わしい俗世から離れていくような……。幼いころから見知ったさいたま水族館が、いつもと違っていた。ところで、水...夜の“さいたま水族館”はどんな顔?

  • 羽生市役所は“羽生城内”に建っている? ―城跡と庁舎―

    夏空が妙に眩しくて、思わずカメラを向けてパチリ。夏空の下に建つのは羽生市役所の庁舎。昭和49年に建造されたもので、当初は白い建物だったが、平成の終わり頃に現在の色に塗り替えられた。かつての城内に、現代の庁舎が建っている自治体が散見される。羽生市もその一つに数えていいと思う。現在の羽生市役所庁舎が建っている場所は、往古は沼の中だった可能性が高い。浅野文庫蔵諸国古城之図「先玉」には、東南北を覆う沼が描かれている。『新編武蔵風土記稿』には「何れも城ありし頃固めの沼なりし」と記され、「正保年中改定図」には「要害吉」とあるのは、沼地や湿地を天然の堀として守りを固めていたからであろう。そのような天然の堀の中に現在の庁舎があるとすれば、広義の意味での「城内」と捉えてよいだろう。この庁舎から北に少し歩けば、「羽生城址」碑...羽生市役所は“羽生城内”に建っている?―城跡と庁舎―

  • 今夏、羽生城の謎解きに集まりし“もののふ”は? ―羽生城謎解きラリーー

    羽生城の遺構は消えても、町なかに散見される城の字。今夏、各公共施設等に「羽生城謎解きラリー」のポスターが貼られている。その名のとおり、羽生城を題材に、同城ゆかりの場所を訪ねて謎を解くというもの。羽生市広報に掲載されたのを機に、7月24日現在で、「朝日新聞」(7月19日付)、「埼東よみうり」(7月21日付)、「埼玉新聞」(7月21日付)に取り上げられたから、目にしている人も多いと思う。羽生城は永禄3年(1560)以降上杉謙信に属し、成田氏から独立して以降、天正2年(1574)の自落まで一度も後北条氏になびかなかった城として知られる。後北条氏やそれに属す国衆の観点から見ても、少なくとも史料上では羽生城が後北条氏に帰属したことは認められない。そのような羽生城は、小田原城主北条氏政や忍城主成田氏長に狙われ、危機に...今夏、羽生城の謎解きに集まりし“もののふ”は?―羽生城謎解きラリーー

  • 羽生市内で目にする “城”の字は? ―バス停「城橋」―

    羽生城の遺構は消えたが、羽生の町なかに散見される城の字。バス停「城橋」は、その名のとおり葛西用水路に架かる城橋の近くに建っている。城橋を東に向かって渡り、最初の信号を北に曲がって少し行ったところにある。時代は異なるが、この道は小説『田舎教師』(田山花袋作)の主人公のモデル小林秀三の通勤路でもある。建福寺(羽生市南1丁目)に下宿を始めた秀三は、町中を通って城橋を渡り、勤め先である弥勒高等小学校まで歩いていった。常にその道を使っていたのかはわからない。気分転換に、たまには羽生城本丸比定地に向かって歩いたこともあったかもしれない。とすれば、羽生城に想いを馳せることもあっただろうか。ちなみに、『田舎教師』は忍城址に触れても、羽生城址に関する描写はない。小説が書かれた明治後期において、城跡は消滅していたためだろう。...羽生市内で目にする“城”の字は?―バス停「城橋」―

  • 変貌はいつも愛着の場所から始まる? ―鹿沼橋―

    いつの間にか消えていた“鹿沼橋”。旧大利根町(現加須市)の中川に架かる橋で、妙に愛着を持っていただけに寂しさを禁じ得ない。鹿沼橋は平成4年3月の竣工だったから、おそらく老朽化に伴う撤去なのだろう。平成4年を生きた身としては「ついこの間」だが、一般的には「大昔」なのかもしれない。日曜の夜にNHKにまわせば「信長」が映り、映画館では「紅の豚」が放映されていた。歌番組では、僕らの音楽教師の教え子という小野正利が「You'retheOnly…」を歌い、ニュースでは長谷川町子や松本清張の死去を伝えていた。当時、中学2年生だった僕は鹿沼橋との接点はない。平成6年に自転車で旧大利根町を訪れたとき、渡ったのは鹿沼橋から一つ下流の道橋だった。実は「デイリーヤマザキ」から南の記憶は曖昧なのだが、おそらく間違いないだろう。旧大...変貌はいつも愛着の場所から始まる?―鹿沼橋―

  • 羽生市内で目にする “城”の字は? ―城橋―

    羽生城の遺構は消え去っても、羽生の町なかで散見される「城の字」。例えば、葛西用水路に架かる「城橋」がある。かつて城のたもとには「しろばしや」という店があり、意識せずとも羽生市民にとっては馴染みのある名称かもしれない。ただ、葛西用水路の掘削は1660年で、羽生城が廃城したのは1614年だから、城が軍事施設として機能していた頃には、橋は存在していなかったことになる。用水路の掘削は、既存の堀を利用したとすれば何らかの橋が存在していたかもしれないが、少なくとも「城橋」という名称ではなかっただろう。『新編武蔵風土記稿』には、城橋付近に城の大手(正門)があったと記されている。同書は羽生城の構造についても触れられている。が、江戸後期に編纂されたものであり、城の遺構が当時どこまで残っていたのか疑問視される。遺構が皆無では...羽生市内で目にする“城”の字は?―城橋―

  • 羽生の“初山”はどこをどう登る?

    今年も7月1日が来て、“初山”を迎える。周知のとおり、生まれてきた赤ん坊が初めて迎える7月1日に浅間神社を詣でる行事だ。“初山参り”や“初山登り”などと呼ばれ、詣でることで富士山を登ったことになるとしている。羽生市内においては、古江宮田神社で初山祭りが開催される。6月30日が宵祭り、7月1日が例祭。古江宮田神社という名称だが、浅間神社及び秋葉神社が祀られているため、初山は前者を参拝していることになる。富士山を登り、子どもの無事の成長を祈念する。同社は羽生駅から下って1つめの踏切に鎮座している。小高い山は“毘沙門山古墳”と呼ばれる前方後円墳で、これを富士山に見立てて登るわけである。平地だから小高い丘はなく、だからといって人力で土を盛るのも労力を要するため、既存の古墳を利用しようと思ったのだろう。(古墳につい...羽生の“初山”はどこをどう登る?

  • 勉強と研究の人の背中に何を見る?

    大人になっても、新たに学び始められる。また、「卒業」もない。かつて社会教育と呼ばれた「生涯学習」の語があるように、自分の関心の高いもの、好きなことは生涯学び続けられるものだ。『大人の学び方』(世界文化社)を著した宮崎伸治氏は、大人の学びを次のように定義する。①好きだからというただそれだけの理由で自発的に行うもの②努力を要するもの③自分を成長させる、または社会に貢献することを目的とするものいま、放送中のNHK連続テレビ小説「らんまん」のモデルである植物学者“牧野富太郎”も、己の好きなことを学び続け、貫き通した人物と言える。お金儲けのためではない。異性にもてるためでもない。植物が好きで仕方ないから、自ずと行動してしまうのだろう。むろん、酒蔵の頭首という立場だったから、周囲の理解と協力が必要不可欠ではあったが、...勉強と研究の人の背中に何を見る?

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