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クニの部屋 −北武蔵の風土記− https://blog.goo.ne.jp/kuni-furutone118/

北武蔵を中心とした歴史を紹介。地方のあまり知られていない城や古墳などを発掘します。

高鳥邦仁
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埼玉県
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2006/06/13

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  • 羽生の「とにかく楽しもう!三田ヶ谷」は何が最後か?

    11月30日(土)は、「とにかく楽しもう!三田ヶ谷」の開催日(午後1時30分受付開始)。羽生市立三田ヶ谷小学校が令和6年度で閉校となってしまうため、同校を会場に同イベントが開催されるのは最後となります。午後3時以降、私は“田舎教師”に扮して着物姿でウロチョロしているかも?ご参加される方、会場でお会いしましょう。ぜひ楽しんでいってください!羽生の「とにかく楽しもう!三田ヶ谷」は何が最後か?

  • 武田信玄はなぜ“本庄”と“久々宇”を放火したのか?

    永禄7年(1564)“本庄”と“久々宇”(どちらも埼玉県本庄市)に進攻した武田信玄。上野国進攻後に同地へ進軍し、火を放った(「鎌原系図」所収文書)。これには、忍城主成田氏が一枚噛んでいたかもしれない。いや、成田氏が信玄へ要請したわけではない。本庄と久々宇が成田氏と関係していたがために、信玄が進攻したのである。永禄四年(1561)作成の「関東幕注文」には、成田氏率いる武州之衆に“本庄左衛門佐”の名が見える。天正6年(1578)作成とみられる「成田御家臣分限帳」(柴崎家文書)には、永千貫として“本庄越前守”、永三百貫として“久々宇大和”の名がある。本庄領は、成田氏の勢力圏下となった時期があったとみられる。そのため、武田信玄は同氏に圧力をかけるべく進攻した、ということが考えられるだろうか。永禄7年当時、成田氏は...武田信玄はなぜ“本庄”と“久々宇”を放火したのか?

  • 1564年、“武田信玄”が放火したのは「本庄」とどこか?

    ちょっとマニアックな歴史散策。永禄7年(1564)、上野国へ進攻した“武田信玄”は、城攻めというより麦や苗代を悉く刈り取るという攻撃を決行した。刈った作物は焼き捨てず、上野国の各所に置いたらしい。その後、信玄は武蔵国へ進攻。本庄(埼玉県本庄市)と久々宇(同市)を放火したという。久々宇は利根川の変動によって上野国側だったのだが、信玄の書状には「武州」と記されている(「鎌原系図」所収文書)。本庄には城がある。久々宇には城館らしきものは見当たらない。民家が攻撃の対象になったのだろう。(いや、放火する何かしらの理由があったはず)具体的な被害は定かではないが、地域住民を不安に陥れたことは間違いない。久々宇は利根川に面した閑静な地域だ。同地進攻は、史料上では短い一文にすぎない。しかし、戦国期の敵勢による容赦ない進攻を...1564年、“武田信玄”が放火したのは「本庄」とどこか?

  • 1574年、上杉謙信は金山城下のどこに着陣した?

    いささかマニアックな散策。天正2年(1574)、羽生城(埼玉県羽生市)を救援すべく上杉謙信は関東に出陣する。すると、羽生城側から金山城(群馬県太田市)を攻めてほしいとの要請があった。同年3月26日、謙信が着陣したのは金山城下の“藤阿久”(同市)という地域だった。このときの進攻によって藤阿久は放火されたらしい。4月1日には城攻めを決行する予定だった。そのため、羽生城主“木戸忠朝”と同城将“菅原為繁”は、謙信から参陣を求められるのだった。(「中山小太郎氏所蔵文書」)藤阿久のどこに謙信が着陣したのか、その具体的な場所は定かではない。現在はごく一般的な街並みが広がっている。でもやっぱり行きたい藤阿久。この手の散策は、一人でないと早々に飽きられてしまう。グルメでも城館でもなく、着陣跡散策。実際に足を運ぶと金山城との...1574年、上杉謙信は金山城下のどこに着陣した?

  • 羽生城合戦の供養会の動画

    11月4日に執り行われた“羽生城合戦四百五十年忌供養会”。11月20日に拙ブログの記事でも紹介しました。実は、供養会の様子が動画にアップされています。羽生市南羽生に所在する“富徳寺”の公式チャンネルです。動画を作成されたのは、富徳寺の源憲雄ご住職(現羽生市佛教会会長)でしょう。この日、自分は現地にいたのに、あまり写真を撮らなかったのが少々悔いています。なぜか遠慮してしまった……。来賓として、河田晃明羽生市長や行田邦子行田市長もご出席され、県や両市の議員さん数名、何人かの学芸員の姿もありました。動画の最後には、乃至政彦氏や私の講演の様子がちらっと映っています。乃至先生の講演を見るのはいいのですが、自分を動画で目にするのは顔から火が出るほど恥ずかしい。なので、自分のところは飛ばしますが、よくよく考えればユーチ...羽生城合戦の供養会の動画

  • 「毎日新聞」に掲載された“羽生城合戦”の供養会

    本日の「毎日新聞」埼玉版に、11月4日に行われた“羽生城合戦四百五十年忌供養会”が取り上げられました。そのタイトルも「羽生城合戦の将兵弔う」。羽生城が自落して450年目にあたる2024年、羽生・行田両市佛教会の合同主催により、当時の戦いで亡くなった人々を供養するというものでした。場所は富徳寺(羽生市南羽生)で、一般参加は募らず関係者のみの供養会でした。記念講演も行われました。最初に、歴史作家の“乃至政彦”氏が「上杉謙信の関東越山について」。次に、私が「羽生城をめぐる攻防と自落」について講話させていただきました。この供養会が催されたのも、羽生市佛教会会長の源憲雄ご住職(富徳寺)と、行田市佛教会会長で真観寺(行田市小見)の中村重継ご住職の御尽力の賜物です。管見ですが、このような形で羽生城の供養が行われたことは...「毎日新聞」に掲載された“羽生城合戦”の供養会

  • 羽生城をめぐる北武蔵争奪戦

    まつやま書房から本が出ました。その名も『羽生城をめぐる北武蔵争奪戦』(髙鳥邦仁※ハシゴの“髙”を使ってます)。既存史料や新出史料を別の角度から読み直し、羽生城を改めて描きました。ご高覧いただければ幸いです。羽生城をめぐる北武蔵争奪戦

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