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クニの部屋 −北武蔵の風土記− https://blog.goo.ne.jp/kuni-furutone118/

北武蔵を中心とした歴史を紹介。地方のあまり知られていない城や古墳などを発掘します。

高鳥邦仁
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住所
埼玉県
出身
埼玉県
ブログ村参加

2006/06/13

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  • 羽生と行田の境目はどこに流れ着く? ―関根落としー

    田植えの季節を迎え、用排水路が賑やかだ。水量の上がった水路をあちこちで見かける。昔から、水を湛えた水路を目にするのが好きだった。母方の実家の裏には南方用水路が流れ、夏になると流れに水草が揺れ、たくさんの小魚が泳いでいた。欄干がやたら低い橋、下まで降りられる階段、転落防止の柵はなく、川はいまよりももっと身近な存在だった気がする。羽生市と行田市の境目を流れる関根落としという用排水路がある。農業用に使用され、目立つ川ではない。この関根落としは、旧川里町(現鴻巣市)の野通川に合流して終点を迎える。かつては星川に合流していたが、現在は同川の下をくぐって旧川里町までのびている。拙ブログでも、何度か取り上げたことがある。とりわけ、深い思い入れがあるわけではない。なのに、ときどき立ち止まってしまう。付近に鎮座するのは久伊...羽生と行田の境目はどこに流れ着く?―関根落としー

  • 夜泣きに向かうは鶴ヶ塚古墳?

    東北自動車道の側道から見える古墳がある。その名も“鶴ヶ塚古墳”(埼玉県加須市町屋新田)。墳頂には稲荷神社をはじめとする社が鎮座していて、「稲荷塚」とも呼ばれている。築造年代は不明で、かつて墳丘から靫形埴輪の下半部が出土したという。周囲は見渡す限りの水田である。かつては、鶴ヶ塚古墳以外の塚もあったのだろうが、その面影はどこにもない。鶴ヶ塚古墳にしろ、だいぶ変形しているようだ。神社が鎮座しているから唯一生き残ったのだろう。陸の孤島と呼ぶにふさわしい。いまだから言えることだが、子どもの夜泣きがひどいとき、鶴ヶ塚古墳まで足を延ばしていた。近所というわけではない。車を使わなければ行けない距離である。田園地帯だからかなり暗い。子どもがすぐに泣き止むような場所でもなかった。それなのに、引かれるように鶴ヶ塚古墳へ向かった...夜泣きに向かうは鶴ヶ塚古墳?

  • 羽生の歴史でこんな変貌はあったか? ―下岩瀬にて―

    迷った末、栗原眼科病院(羽生市下岩瀬)へ足を運んだ。眼圧を下げる目薬が残りわずかになったからで、数か月後に1度の割合で足を運ぶのがルーティンになっている。診療時間開始前に行ったにも関わらず、病院はひどく混んでいた。待合室は広いのに、ベンチに座れない。混雑は覚悟の上だったから、持参した数冊の本を併読しながら、名前が呼ばれるまで待っていた。目薬を貰うだけのつもりだった。が、なぜか定期検査となる。何枚か写真を撮られるだけだったのに、気が付けばひどく肩がこっていた。医師の診察を受け、病院を出るときにはぐったりしていた。激しい運動を強制されたわけではない。それなのに、疲労感を覚えるのは精神から来るものなのだろうか。気が付けば、立ったまま順番を待っている来院者はさらに増えていた。病院内の独特な空気に慣れるには、数日か...羽生の歴史でこんな変貌はあったか?―下岩瀬にて―

  • 羽生の村君公民館に“テレビ朝日”がやってくる?

    5月11日(日)、羽生市内の村君公民館において、“テレビ朝日”出前講座が開催される。演題は「ニュースと災害報道の舞台裏」。講師を務めるのは、社会記者で防災士の久慈省平氏である。その演題のとおり、ニュースや災害報道の裏側で何が起こっているのか。どんな人たちが関わって、日々のニュース報道がされているのか。そんな楽屋裏話をたくさん聞けるだろう。普段何気なく観ているニュース報道も、講座のあとでは違って見えるかもしれない。講座の概要は以下のとおり。日時:5月11日(土)午後1時30分~午後3時場所:村君公民館費用:無料定員:30名(市内在住、在勤、在学の方)申込:村君公民館まで(048―565―3538)※最初の写真は村君公民館(埼玉県羽生市下村君2227)羽生の村君公民館に“テレビ朝日”がやってくる?

  • 羽生の喜右エ門新田の“キタマチ”と“ミナミマチ”とは?

    6月開催の「歴史散策ウォーキング」の下見に随行する。羽生市三田ヶ谷限定のウォーキングで、講師は文化財保護審議委員の尾花幸男氏が務める。三田ヶ谷地区を歩く機会は、水郷公園やキヤッセ羽生以外になかったかもしれない。『田舎教師』巡りをするのも自転車だった。むろん、初めてというわけではないが、改めて歩くとなるととても新鮮に感じられた。弥勒から喜右エ門新田を歩くコースである(いずれも羽生市)。車だと、一瞬で通り過ぎてしまう景色もじっくり目に入ってくる。路傍の石仏、用排水路を泳ぐ小魚の群れ、野に咲く草花……。歴史散策の原点は、やはりじっくり見ることからだと改めて思う。ところで、かつて喜右エ門新田には大きな沼が存在した。現在は埋め立てられて田んぼとなっているが、土地が一段低くなっている。耕地整理が入る前は掘上田が広がり...羽生の喜右エ門新田の“キタマチ”と“ミナミマチ”とは?

  • 羽生の“なまり”はそれほどか?

    4月から、地域の人たちと関わることがめっきり増えた。予期せず、中学時代に学年主任だったS先生と約30年ぶりに再会。意外なつながりを知る。どこにどんな縁があるわからないものである。おばあちゃん子だったせいもあるせいか、年輩者のなまりがわからないと感じたことはない。高校時代、行田の同級生が「羽生のなまりはわからない」というようなことを言っていた。行田も羽生も同じ北埼玉である。そんな大差ないだろう思っていたが、加須の人からも「羽生はなまっている」と時々耳にする。妻もわからないことがあるらしい。地域によってなまりの強弱があり、聞き返すことがあるのだとか。どうやら羽生はなまっているらしい。むろん、個人差はあるだろうが、令和6年においても昔なつかしい言葉の響きが聞ける地域と言えるかもしれない。「なんでなんで」「そぉだ...羽生の“なまり”はそれほどか?

  • 羽生城な1日

    論文の手直し。書籍化予定の原稿を読み直し。背広を着て、講演台の前に立った。論文も書籍も講演の演題も、みんな羽生城でつながっていた。今日は、そんな羽生城な1日。冨田勝治先生の墓前に手を合わせた。ワクワクして先生の論文を読んだ20代とは違って、いま読み返すと巨石のように感じる。先生の域には達していない。退職校長会に呼ばれたのは何年ぶりだっただろう。浅学者ながら、戦国期の羽生城をめぐる攻防をテーマに講演をさせていただいた。羽生城史は変わっていないはずなのに、歴史を捉える自分自身が変化しているのを感じる。史料の捉え方や解釈の仕方があの頃とは違う。それは新史料の発見によるものもあれば、研究の進展もあり、あるいはこれまでの仕事上の経験がそうさせることもある。一方で、見当違いな解釈をしていないか、目を通さなければいけな...羽生城な1日

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