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  • 継体持統㉔:孝徳朝の後継問題

    孝徳天皇の宝算は59歳。当時としてはいつ亡くなってもおかしくない年齢であった。孝徳天皇は後継者についてどう考えていたか? 孝徳の子は有間皇子だけ? 孝徳天皇の子として記録されているのは男女も含めて有間皇子だけとなっている。越前朝倉氏は孝徳天皇後裔を称していて、始祖で但馬の評造の日下部表米が孝徳天皇の子との伝承があるが、表米が中央で活躍したという伝承はない。 有間皇子は阿倍内麻呂の孫であり、孝徳天皇の有力な後継者であったが、640年生まれであり、孝徳天皇崩御時で数えで15歳と後継者としては若すぎた。 天智には大友皇子、天武には高市皇子と、母の身分は低いが極めて優秀な壮年の皇子がいて、政権を支えた…

  • 継体持統㉓:608遣隋使組の功績

    大化改新立ち上げ時の有力豪族であった左右大臣を粛清し皇極・中大兄親子の実権を剥奪した孝徳は着々と富国強兵政策を遂行。凄まじい勢いで国家体制を整備した。 国家体制の整備 【冠位制度】649年3月蘇我石川麻呂粛清後の649年4月20日には左大臣に巨勢徳太、右大臣には大伴長徳が就任した。阿倍内麻呂・蘇我石川麻呂と違い、巨勢徳太・大伴長徳は新冠位制度に組み入れられ、孝徳天皇に忠誠を誓っていたと思われる。 【改元】650年に大化から白雉に改元したが、649年3月の粛清劇から刷新するためであったとも解釈できる。 【行政組織】国博士の高向玄理と僧旻の主導のもと649年2月には八省が設置されるなど行政組織も整…

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