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  • 継体持統④:崇峻天皇暗殺の真犯人は誰か?

    新しい仏教王朝を開いた用明天皇は天然痘に斃れ短命で終わる。激動の東アジア情勢に対応するため崇峻天皇が用明天皇を嗣ぐ。何故、後継が崇峻天皇なのか。不満を持つ人々がいた。 587年丁未の乱 仏教導入は天然痘パンデミック対策でもあったが、肝心の仏教王朝の開祖である用明天皇が587年に天然痘に斃れる。 これに守旧派が勢いづく。敏達皇后のちの推古天皇から天皇位を奪い新しい天皇を立てるために動き出した。 用明天皇崩御直前に中臣勝海は太子彦人皇子を擁立するため太子のもとに駆けつけるが、推古天皇と通じていた太子彦人皇子は中臣勝海を殺してしまう。 おそらく当初は守旧派が大勢を占めていたであろうが、これで形勢が逆…

  • 継体持統③:継体・安閑・宣化天皇の不思議

    継体天皇の即位の条件として、前政権への一族全体での婿入りがあった。継体天皇は手白香皇女へ婿入りし、後継は手白香皇女の子、欽明天皇と確定していたというのは定説となっている。 一方で、継体天皇崩御時の政治情勢は、強力な指導者を必要としていた。任那については百済に割譲され、北九州では磐井の反乱も起きた。 安閑天皇・宣化天皇は即位したのか? 安閑天皇・宣化天皇は、継体朝内で発言力もあり、政権幹部として活躍していた。軍事・外交上の決済権は安閑天皇・宣化天皇が継体天皇崩御後も握っていたとみて間違いないだろう。 一方で、天皇としての祭祀はどうなのか。安閑天皇・宣化天皇期の記録の混乱を見ると、「天皇」は欽明天…

  • 継体持統②:用明天皇の不思議

    穴穂部皇子の行動を見る限り、敏達皇后である推古天皇が天皇としての権威をずっと握っていて、用明天皇は天皇としては権威のない執政権を持つ王であったように見える。 革新派:用明天皇即位の背景 500年代に入り朝鮮半島権益を巡る外交問題が活発化。田舎者国家である倭国にとって外国文化の受容は外交戦略上重要であったはずで、仏教は500年代の外交官にとって必須の教養になっていたと思われる。 最先端の文化に染まった人々が、古来の習俗に反抗するのは世の常であり、用明天皇も即位前に神道に挑戦するようなトラブルを起こしたようだ。※敏達7年に伊勢神宮に仕えさせた敏達天皇皇女の菟道皇女を池辺皇子が犯す事件があり、池辺皇…

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