“西の桶狭間”と呼ばれる有田中井手の戦いで、毛利元就に敗れた武田元繁。戦国初期に主家や守護大名に頼らず己の才覚のみで覇を競った勇将は、「安芸の項羽」の異名も持つ。武田元繁の居城、佐東銀山城へ登る。
関西を中心に日本各地のお城や山城跡を巡り、その魅力や歴史について書いています。1日で回ったお城を1ブログにまとめていますので、お城巡りが趣味のかた、これからお城巡りを始めようと思っているかたの参考になれば幸いです。
【三河:岡崎&安城の城】徳川家康のルーツ、三河松平氏ゆかりの城々を巡る。
最後の天下人・徳川家康のルーツである松平氏は、松平郷から岩津→安祥→岡崎と本拠地を変えた。それらの城々は、都市化された市街地にあっても今もしっかりとその痕跡を遺している。三河一向衆の中心地・本證寺や、足利一門・吉良氏の居た西尾城と併せ、西三河の城々を巡る。
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“西の桶狭間”と呼ばれる有田中井手の戦いで、毛利元就に敗れた武田元繁。戦国初期に主家や守護大名に頼らず己の才覚のみで覇を競った勇将は、「安芸の項羽」の異名も持つ。武田元繁の居城、佐東銀山城へ登る。
美作 岩屋城 形 態山城址難易度★★★--比 高310m整備度☆☆☆☆☆蟲獣類-見応度☆☆☆☆-駐車場 → 登城口 → 主郭部高 さ - / 230m所要時間- / 40分 指 定岡山県指定史跡遺 構曲輪、土塁、堀切、虎口、切岸、馬
下剋上により生き馬の目を抜くように日々情勢が変わりゆく戦国時代。落日の龍野赤松氏当主となった赤松広秀は、羽柴秀吉配下の一武将として身を立て、大名に返り咲いた。広秀が最後まで旧領復帰を夢見た龍野城と鶏籠山城(龍野古城)へ登る。
「万人恐怖す」と恐れられた将軍・足利義教を殺害した赤松満祐は、反逆者としてすぐに討たれ、赤松氏は没落した。赤松満祐の目指したものは一体なんだったのか? 播磨城山城に登り「嘉吉の乱」に思いを馳せる。
淡路島の洲本を拠点に、安宅水軍を率いて三好長慶を支えた三弟・安宅冬康の洲本城へ登る。
1.城山城 形 態山城址難易度★★★★★比 高400m整備度☆☆☆☆☆蟲獣類スズメ蜂見応度☆☆☆☆☆駐車場 → 登城口 → 主郭部高 さ - / 400m所要時間10~15分 / 65分+25分 指 定-遺 構曲輪、石垣、堀切、土塁
1.多賀大社 社 格式内社、別表神社境 内国の名勝:奥書院庭園歴 史1300年以上前の「古事記」に載っている歴史ある神社。長寿祈願の神として知られ、天正16年(1588年)に豊臣秀吉が、母・大政所の延命を祈願し、成就したと言われる。その際大
丹波の戦国大名・波多野秀治は、丹波氷上の赤井氏や播磨の別所長治、摂津の荒木村重、大坂の本願寺顕如らと連携し、第二次織田包囲網ともいえる連合軍で織田信長に反旗を翻した。武士としての筋を最後まで貫いた秀治の居城・八上城を始め、丹波篠山の城々(篠山城、淀山城、籾井城)を巡る。
1.大坂城 指 定特別史跡、国の重要文化財、国の登録有形文化財、日本100名城遺 構[遺構]櫓、門、石垣、堀 [再建]天守歴 史 明応5年(1496年)蓮如により建立された大坂本願寺を前身とする。その後、石山合戦を経て織田信長の支配下となり
戦国初期の大和の国で「北の筒井、南の越智」と並び称された越智氏の居城・高取城は、その後豊臣大名たちにより近世城郭へと変貌を遂げ、奈良県で随一のお城となった。橿原神宮や大和南部の城々と併せて巡る。
若くしてキリスト教布教の許可や南蛮貿易などを行い、九州6ヶ国の守護となった大友宗麟。大友氏滅亡の危機だった豊薩合戦では、貿易で得た大砲・フランキー砲を使い、滅亡を免れた。宗麟が本拠地とした臼杵城(丹生島城)を始め、豊後南部の城々を巡る。
阿蘇山の北麓に鎮座し2,300年の歴史を持つ阿蘇神社と、阿蘇山の火砕流で出来た岩山を巧みに利用した南豊後の要塞・岡城を巡る。
1.阿蘇神社 社 格肥後国一宮、式内社(平安期の神名帳に掲載されている神社)境 内国の重要文化財:楼門、還御門かんぎょもん、御幸門みゆきもん他:願掛け石、縁結びの松、せのび石歴 史阿蘇山の北に鎮座する神社。阿蘇神社、北宮・国造神社とも約2,
2023年9月17日(日)晴れ[1/2]1.久能山東照宮形 態山城址難易度★★---比 高150m整備度(東照宮)蟲獣類-見応度(東照宮)駐車場 → 登城口 → 主郭部高 さ- / 150m所要時間1分 / 20分指 定国宝、国の重
外様国衆でありながら毛利家評定衆に名を連ねるという、前代未聞の昇進を果たした杉原盛重。備後福山が産んだ謎多き戦国武将のゆかりの城々(相方城、山手銀山城、神辺城)と、近世城郭・福山城を巡る。
2023年3月19日(日)快晴[1/2]1.宮津八幡山城址形 態山城址難易度★★---比 高155m整備度☆☆☆☆-蟲獣類-見応度☆☆☆--駐車場 → 登城口 → 主郭部高 さ65m / 75m所要時間10分 / 15分指 定-遺
戦国時代、神々の国・出雲から覇を唱え、11ヶ国に及ぶ領土を支配した尼子一族。滅んでもなお求め続けられ、山中鹿介をスポークスマンとして再興軍が結成された。戦国時代に最も熱かった地、出雲の月山富田城へ登る。
西国11ヶ国の太守・尼子氏。その本拠地出雲に点在する尼子十旗は、尼子氏の中枢ともいうべき家臣団である。尼子を支え、尼子に支えられた十旗の城々を巡る。
最後の天下人・徳川家康のルーツである松平氏は、松平郷から岩津→安祥→岡崎と本拠地を変えた。それらの城々は、都市化された市街地にあっても今もしっかりとその痕跡を遺している。三河一向衆の中心地・本證寺や、足利一門・吉良氏の居た西尾城と併せ、西三河の城々を巡る。
広大な領域を持つ紀伊国は、もともとは北の紀伊と南の熊野の2ヶ国だった。紀伊と熊野の国境、南紀白浜からみなべにかけて、戦国期当時の遺構が残る城々を巡る。
2023年3月19日(日)快晴[1/2]1.宮津八幡山城址形 態山城址難易度★★---比 高155m整備度☆☆☆☆-蟲獣類-見応度☆☆☆--駐車場 → 登城口 → 主郭部高 さ65m / 75m所要時間10分 / 15分指 定-遺
戦国時代、神々の国・出雲から覇を唱え、11ヶ国に及ぶ領土を支配した尼子一族。滅んでもなお求め続けられ、山中鹿介をスポークスマンとして再興軍が結成された。戦国時代に最も熱かった地、出雲の月山富田城へ登る。
西国11ヶ国の太守・尼子氏。その本拠地出雲に点在する尼子十旗は、尼子氏の中枢ともいうべき家臣団である。尼子を支え、尼子に支えられた十旗の城々を巡る。
最後の天下人・徳川家康のルーツである松平氏は、松平郷から岩津→安祥→岡崎と本拠地を変えた。それらの城々は、都市化された市街地にあっても今もしっかりとその痕跡を遺している。三河一向衆の中心地・本證寺や、足利一門・吉良氏の居た西尾城と併せ、西三河の城々を巡る。
広大な領域を持つ紀伊国は、もともとは北の紀伊と南の熊野の2ヶ国だった。紀伊と熊野の国境、南紀白浜からみなべにかけて、戦国期当時の遺構が残る城々を巡る。
戦国大名が生まれる前の守護大名の時代。西播磨の名門・赤松家の二代目当主・赤松則資は、千種川を見下ろす大鷹山に山城を築かせた。その遺構が良好に残る有年山城は必見!
伊勢の戦国史において、北の長野氏、南の北畠氏と並び称された両者は、南北朝から戦国期にかけて200年間戦い続けた。比高60mの低い3つの山をトライアングルのように連絡させた細野城は、高さより曲輪同士の連携を重視した戦国期らしい縄張りだ。細野城を始め、伊勢の城々を巡る。
丹波を支配した八木城の内藤氏。三好長慶に与し、足利義昭を支え、織田信長に逆らったため城を失った。最後の当主・内藤ジョアンはその後豊臣秀吉の近臣・小西行長に仕え活躍し、晩年はキリスト教禁止令によりフィリピンのマニラでその生涯を終えた。激動の戦国時代を生きた内藤氏の本城・八木城へ上る。
豊臣家のキーマンだった豊臣秀次。彼の死により豊臣家は徐々に滅びの道をたどったと言っても過言ではないだろう。秀次の足跡が残る数少ない遺構である近江八幡山城を歩く。
村上海賊の名で知られる三島村上氏は、芸予諸島を支配することで九州と畿内を行き来する船を全て把握し、瀬戸内海の治安を維持した。その全盛期を築いた能島村上武吉の城、瀬戸内海の要塞・能島城に上陸する。
伊予南部の戦国大名“戦う貴族”西園寺実充は、従来の居城・松葉城から、肱川の対岸の山に新たな本城・黒瀬城を築いた。大規模な普請を行ってまで本城を移した理由は何だったのだろうか? 現地に足を運び、その謎に迫る。