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  • 俄31――もどり駕籠

    元々は歌舞伎「戻駕色相肩(もどりかごいろにあいかた)」を題材にした沖縄舞踊があって、それを喜劇にしたのを俄にしたものです。ダンスの上手な演者が息を合わせて、踊るように駕籠を担げば、それだけで面白いと思います。ただし、台本中ではムーンウォークとしましたが、地車の上なので、前に進まずに前に進んでいるようなダンスです。詳しくは「沖縄喜劇『戻り駕籠』」のユーチューブをご覧ください。駕籠は竹竿に段ボールで駕籠の絵を画くだけでOKです。三人俄『もどり駕籠』(次郎吉・藤四郎・車太夫)下手から次郎吉が登場。次郎吉わいは、次郎吉という籠かきや。上手から藤四郎が登場。次郎吉さあ、お客さん迎えに行くで。今日もよろしく頼むで、藤四郎。藤四郎こっちこそ頼むで、次郎吉。後ろに段ボールで作ったぺらぺらの籠。二人でかつぐ。次郎吉ほな行く...俄31――もどり駕籠

  • 78 / 虹

    四時半に目が覚めた。四時なら、もう一寝入りするのだが、中途半端な四時半。まあ、せっかくだから起きるとするか。それでもって、薄ら明るい中を畑へ。堤防から西の空を見ると大きな虹。なにかしら縁起よく感じてパチリ。何かで読んだ「虹ハ微薄ノ雨ニ日光映ジテ五彩ヲナス」という言葉を思い出した。虹を七色としたのはニュートンで、それまでの日本では、中国の五行説に従って五彩(色)と考えていた。井伏鱒二の『黒い雨』のラストで、主人公の重松が、姪の矢須子の原爆症が平癒することを祈ってつぶやく。「今、もし、向こうの山に虹が出たら奇蹟が起きる。白い虹でなく、五彩の虹が出たら矢須子の病気が治るんだ」これには伏線があって、小説中の被爆日誌に、重松が「白い虹を見た」と話すと、工場長が「悪いことの起きる前兆だ」という記述がある。つまり、白い...78/虹

  • 77 / 丸刈り

    コロナ感染が広がり出してから理髪店にいかなくなった。我が家の相方に散髪してもらっている。最初はハサミでちょきちょきやってもらっていたが、うまくいかない。つまるところは丸刈り。バリカンでいっきに刈ってもらっている。以来、丸刈り。なんといっても安上りである。散髪代がいらない。シャンプーなどは一年間で一本ですむ。朝なんぞは髪を整える必要がない。当然、整髪料はいらない。もう一つ大きなメリットはハゲがめだたない。我らの時代、小学校から中学校に上がる時の一大イベントは、丸刈りになることだった。強制であったから従わざるを得ない。通過儀礼のようなものである。中学校が丸刈りを強制していた理由は「衛生面を考えて坊刈りにしている」だった。だが、本当の理由は「坊刈りではモテないから恋愛に時間をとられない」だと思う。丸刈りといえば...77/丸刈り

  • 76 / 目高

    最初に買ったプラスチックの瓢箪池は、できるだけ自然に近いものにするために、田んぼで採ってきた面高(おもだか)を植えている。葉の形が人間の顔に見えることから「面高」というのだそうだ。メダカは目が高い位置についているので「目高」というのは理解できるが、面高の葉はどう見ても顔には見えない。矢じりの形をしていることから「勝軍草」という方がぴったりのような気がする。戦に縁があるために多くの武将が家紋に使った。家紋の場合は「沢瀉紋(おもだかもん)」という。沢瀉(たくしょう)は中国語で、本来はオモダカと言わずにタクショウと言っていたのだろう。それを縁起がよいように「顔が立つ・面目がたつ・花が高い」などのイメージから面高と言うようになったのだろう。この面高を改良したのが正月に食べるクワイ。クワイの方が大きいのだが、茎や葉...76/目高

  • 75 / めだか

    チイチイパッパチイパッパ雀の学校の先生はむちを振り振りチイパッパ生徒の雀は輪になってお口をそろえてチイパッパまだまだいけないチイパッパも一度一緒にチイパッパチイチイパッパチイパッパ(作詞:清水かつら作曲:弘田龍太郎)お馴染みの『すずめの学校』。かわいい歌詞なのだが、1922年(大正11年)に発表なので、よくよく見るとかなり軍国主義的な歌だ。先生が鞭(むち)で脅しながら、生徒を一つの思想に染めようとしている。めだかの学校のめだかたちだれが生徒か先生かだれが生徒か先生かみんなで元気に遊んでる(二番、作詞:茶木滋作曲:中田喜直)戦後間もない1950年(昭和25年)に作られた『めだかの学校』。平等、自由、健康の基本的人権がやんわりと歌いこまれている。目の前の自由に泳いでいるメダカを見ていると、はるか昔の子ども時代...75/めだか

  • 74 / メダカ

    メダカを家で飼っている。大きな水槽が二つ。小さな水槽が三つ。数えたことはないが200匹はいるだろうか。飼いだしたのは25年ほど前。観賞魚としてではなく、畑の水溜のボウフラ退治のためだった。その頃は、畑の脇の水路に黒メダカが普通に泳いでいた。1999年に絶滅危惧種(Ⅱ類)に指定された。小さいころから見慣れているメダカがいなくなるのは寂しいではないか。いらなくなった風呂桶をもらってきて、水路のメダカをすくってきては桶に入れて飼いだした。つまり、朝夕に畑に行った最初の仕事が、メダカのエサやりになったのだ。2004年、「楊貴妃」という品種改良メダカがが火付け役になって、メダカブームが起こった。それに便乗したのか、畑で飼っている原種の黒メダカにも一匹50円という値が付いた。風呂桶をもう一つもらってきて、水路のメダカ...74/メダカ

  • 畑86――蝉

    昨日(8/20)は四年ぶりの地蔵盆(祭)。従来は23日と決まっていたが、平日は男手が少ないので第四日曜に変更された。30年ほど前、私が子ども会の会長をしている時に、町内会にお願いして日曜日にしてもらったのだが、会長を辞めるとすぐに、町内の長老級の人から「地蔵盆は伝統ある23日でないとアカン!」と文句が出て、元の23日に戻されてしまった。だが、その長老が亡くなられると、すぐに日曜日に変更された。地蔵盆はセレモニー(儀式)であるとともに、子どもたちが楽しみにしているイベント(催し物)でもあるのだ。年寄りは、世の中の変化に合わせて、固いことを言わずに、若い人がやり易いようにするのがよい。地域や子どもの守り神である地蔵菩薩の縁日は、子どもが主役の楽しみな行事だった。しかし、地蔵盆が終わると、シャンシャン、ニーニー...畑86――蝉

  • 畑――少し秋

    人が火の上で火あぶりになっているという怖ろしい漢字がある。ではなかった。火の前で人が祈りを捧げているのである。古代中国では「火」は穢(けがれ)をはらう力があるとされていた。それを表した漢字が「赤」である。そこから赤色には炎や太陽の力、血液の力が宿っていて、魔除けになると考えられていた。江戸時代に、疱瘡(ほうそう=天然痘)が大流行した時、人々は赤一色で画かれた「疱瘡絵」を買い求め、平癒を祈ったという。お守り袋に赤が多いのも、還暦祝いの赤いちゃんちゃんこも、巣鴨地蔵通り商店街で赤い下着が人気なのも、赤色には偉大なパワーがあるからだ。そこで、畑の中で赤いものを探した。人参のような薄い赤ではなく、唐紅(からくれない)のような真っ赤な赤。あった!唐辛子。実に見事な唐紅。家に持って帰って魔除けの唐辛子飾りを作ろう。つ...畑――少し秋

  • 73 / それから

    ※【】は過去記事朝は黒大蒜と無花果葉茶から始まる。六月に買ったニンニク発酵機を使って二週間でいいぐあいの黒大蒜が30個できた【63/忍辱】。こいつを一かけら食べてから、イチジクの葉っぱのお茶。かってに無花果葉茶(むかかばちゃ)と名づけている【畑/無花果葉】。冷やして飲んでわかったが、プアール茶によく似た味がする。ただし、甘い香りはプアール茶より勝っている。一段階、健康になった気分で庭に出る。当帰(とうき)と胡蝶蘭と苔玉の水やり。当帰は2枚だった葉っぱが10枚になった【畑/トウキ】。胡蝶蘭は新しい葉と根が出てきた【64/根】。苔玉はバテ気味で、やっぱり夏場は難しい【62/しのぶ】。さて、今日はどうしよう。台風がおもいっきり過ぎて、少しは秋らしくなるのかと思ったが、今日も厳重警戒の暑さ。ならば、お盆も過ぎたこ...73/それから

  • 歴史35 昭和――春やん戦記➆

    4月11日にバターン半島を攻略したが、半島尖端から4キロの距離に浮かぶコレヒドール島の攻略という難関が待ち受けていた。東西7キロほどのオタマジャクシのような形をした島なんやが、周囲6キロの島は断崖絶壁で、その上にコンクリートに鉄板を張り詰めた陣地を巡らし、オタマジャクシの頭には、十六インチ要塞砲や三十サンチ加農砲、高角砲などがズラリと砲口を並べている大要塞や。そんな「浮沈軍艦」と呼ばれたコレヒドール島攻略作戦に、我々の部隊にも出動命令が出た。島の攻略に歩兵が刈り出されるということは、最も危険な敵前上陸をせよというこっちゃ。小さな島の敵の懐に上陸したんでは逃げることも出来んがな・・・。こら、ほんまにアカン!三日後の5月4日は、半島の突端のジャングルの中で夜を過ごした。夜空に輝く南十字星を見ながら、いよいよ明...歴史35昭和――春やん戦記➆

  • 歴史35 昭和――春やん戦記⑥

    第一次防衛線は突破したものの、第二次防衛線は20キロほど先の山の中腹にあった。それを攻撃するためにはジャングルの山道を登っていかんとあかんかった。しかも、昼間は敵の目につきやすいので、行動はすべて夜間あった。尻の上のバンドに白い手拭いをぶらさげて、それを目印にして、はぐれんように闇の中を行軍した。ほんでもって、適当な場所を見つけてジャングルの中で寝たんや。キキッ、ギャーギャーと、名前も知らん鳥の鳴き声で目が覚めた。眠たい目をこすりながら山の中腹を見てびっくりしたがな!山の上から白旗をかかげたアメリカ兵が、蟻の行列のように降りてくるやないかい。一人、二人・・・十人、二十人・・・百人、二百人・・・、千人、二千人・・・?!小便ちびるほどびっくりした!わしら日本兵を見つけると「グモーニン」やら言うて、ニコニコ笑い...歴史35昭和――春やん戦記⑥

  • 歴史35 昭和――春やん戦記⑤

    こらアカン!2月に米軍の基地からバターン半島の地図が見つかったんやが、バターン半島は、戦争が始まる一年前から、三段構えの防御線を造り、6カ月の攻防に耐えられる物資を貯えた大要塞あったんや。そのうえ、半島の先にはコレヒドール島というもう一つの大要塞がある。こらアカン!思わず女房の小春の泣いとる顔が眼に浮かびよった。ところがや、わしらが上陸した次の日から、リンガエン湾に次々と兵隊が到着してきた。砲兵部隊も続々とやってきた。重爆撃機を中心とした航空隊も配属されて、日本軍は五万人ほどの大軍団になっていた。ああ、これで助かった!しかし、そう思たのもつかの間や。日本軍が侵攻した島々から撤退してきたアメリカ兵が、バターン半島に集結して二倍の8万人に膨れ上がっていた。そこにフィリピンの避難民2万人も加わって日本軍を上回る...歴史35昭和――春やん戦記⑤

  • 歴史35 昭和――春やん戦記④

    昭和16年の7月5日に大阪城のそばにある歩兵第八連隊に入営をして、十日も経たんうちに、大阪港から上海に移動させられた。そのときの日本軍は、国際都市の上海どころか南京も占領してイケイケの時あった。当時は何の情報も知らされずに分からんままに行ったが、あとで調べたら、アメリカもイギリスも「黄色人種同士で戦っとけ」みたいな気持ちあったんやろなあ。おまけに、ドイツがソ連と交戦したために、その年の四月に日ソ中立条約が結ばれて、中国は虫の息あった。そやから、大工をしていたわしは、上海では銃を持ったことがなかった。駐屯地の兵舎やら、日本からぎゅうさん移住して来た日本人街の建築やらに刈り出されて、そら、忙しい毎日あった。せやけど、このまま日中戦争が終わってくれたらええのになあと思てた。ところが、7月28日に日本軍が、フラン...歴史35昭和――春やん戦記④

  • 歴史35 昭和――春やん戦記③

    最初の現役を終えて、昭和14年の暮れ、大阪の聖天坂の家に帰ってきて、久々に小春との正月を迎えた。小春は道頓堀の劇場でお茶子(客接待)して、舞台にもちょこちょこ上がっとった。わしも、いつまでもぶらぶらしてられんので、入隊前に勤めていた岸里の工務店の社長はんに働かせとくなはれと頼みに行った。社長はんは、ご苦労さんあったと言うて、心良う引き受けてくれはったがな。大工に左官に電気の配線と忙しかったが、一ぺん軍隊にいったら多少のことは辛抱できるもんや。贅沢は出来んけども、まあまあ幸せな日々あった。しかし、それも一年半ほどや。わしが満州から帰ってきた昭和14年9月には、ドイツが突如ポーランドへ侵攻して、すでに第二次世界大戦が始まてた。おまけに、三年前のから始まった日中戦争がまだ続いてる。そこへきて、昭和15年9月に、...歴史35昭和――春やん戦記③

  • 歴史35 昭和――春やん戦記②

    「15年前の今日ら(8月14日)あったら、酒飲んで、こんなごっつぉは食べられへんかったがな!」そう言いながら春やんが、ちびちびと飲んでいたコップの酒をゴクリと飲んで続けた。富田林は、大阪(市内)から疎開してくるぐらいやから、まだましなほうあった。ほやけど、酒どころか醤油は無い、砂糖も塩もなかった。それやのに、ラジオから流れる大本営発表は『勇猛果敢に敵戦力を撃砕せり』ばっかしや。当時は、こんなこと言われへんかったけど、みんな負けると思てた。せやのに、なんで戦争を続けるねん!もうええわ!もうどうなろうがかまへん。もうええから戦争を止めて、もはや玉砕あるのみ。あのときの「もうええわ」には、諦めのような、願いのような、覚悟のような複雑な思いが込められてた。そやさかいに、15日に終戦の詔書を聞いたときには、どない言...歴史35昭和――春やん戦記②

  • 歴史35 昭和――春やん戦記①

    熱中症警戒アラートが五日連続で出されている。それも、暑さが日増しに激しくなっているように感じる・・・ほど暑い。炎天の真っ昼間、樹々はそよとも動かない。シャンシャンシャンとクマゼミがしきりに鳴いているだけである。私が小学生だった頃は、ほとんどがニーニーニーと鳴くニーニーゼミか、ジージーと鳴くアブラゼミだった。ニーニーゼミは二等兵、アブラゼミは上等兵、クマゼミは少尉のようなものだった。だから、クマゼミを捕ろうものなら勲章もので、四、五日は自慢できた。ニーニーゼミがまだ盛んに鳴いている夕間づめだった。「盆に殺生したらあかんで!」とオバンが言うので、セミ捕りも魚捕りもできず、我が家の裏の縁側でマンガを読んでいた。昔の家は、南と北の戸を開け放つと風の通り道ができた。風で裏の竹藪の笹がさやさやとそよぐほどだった。その...歴史35昭和――春やん戦記①

  • 畑――番椒

    畑の通路のど真ん中に威風堂々と育っているこぼれ種の「番椒」。蕃は蕃国、つまり、海外。椒は山椒・胡椒、〈香しい=いい匂い〉の意。海外から日本に伝来した香辛料。「ばんしょう」と読んでもよいが、当て読みで「とうがらし」。写真のこぼれ種の「番椒」は鷹の爪。これを粉にしたのが一味唐辛子。いろんなものをトッピングしたのが七味唐辛子。『近世流行商人狂哥絵図』曲亭馬琴にある七味唐辛子売りの絵。説明は手抜きして、科学者の寺田寅彦『物売りの声』から以下に引用。七味唐辛子売り歩く男で、頭には高くとがった円錐形の帽子をかぶり、身にはまっかな唐人服をまとい、そうしてほとんど等身大の唐辛子の形をした張り抜きをひもで肩につるして小わきにかかえ、そうして「トーン、トーオン、トンガシノコー(休)、ヒリヒリカラィノガ、サンショノコー(休)、...畑――番椒

  • 畑――葵の上

    かつては犬を何匹か飼ったが、ご近所から鳴き声がうるさいと苦情が出て、以来、飼うのをやめた。その代わりに飼いだしたのがメダカ。10匹ほどから飼って、五、六年たった今では200匹はいるだろうか。なのだが、今は姿が見ることができない。卵を根に付着させて採卵するために入れているホテイアオイでびっしりだからである。間引けばよいのだが、そろそろ花を咲かせるので放置している。もともとは観賞用に輸入されただけあって、実に清楚な美しい花が咲く。奈良県橿原市の新薬寺跡の周囲の田んぼに数十万本のホテイアオイが植えられていて、隠れた名所になっている。毎年、観に行っていたのだが、去年から、理由はわからないが植え付け中止になった。なんとも残念なことである。そこで、水槽で増えたホテイアオイを畑の隣の田んぼの隅に植えている。爆発的に増え...畑――葵の上

  • 畑――むかかよう

    江戸時代の『本草綱目』に「甘味柿の如くにして而(しか)して核[種]なし。一日にして熟す」とある。同じく『和漢三才図会』には「・・・一月にして熟す故に一熟と名づけり」とある。一熟=いちじゅく→いちじく。中国の古書「西陽雑俎(せいようざっそ)」には、「花無くして実あり」と記され、「無花果」という漢字が用いられた。花は無いのではなく、実の中に隠れているだけだと以前書いた無花果は世界史上最も古いフルーツなのだが、無花果の実の話ではない。無花果の葉っぱの話である。無花果の葉といえば、旧約聖書の中のアダムとイブ。楽園で過ごす二人は、神から、知識の木の実は食べてはいけない禁断の果実だと言われていたが、蛇にそそのかされて禁断の果実を食べてしまった。それが神の怒りに触れて、二人は楽園追放となる(失楽園)。そのとき二人は、禁...畑――むかかよう

  • 畑――トトロ

    毎日、畑から眺めている山々。日によって、遠くに見えたり近くに見えたりする。空気が澄んでいる。つまり、空気中の水蒸気量が少ない。つまり、湿度が低い。つまり、山の稜線と空の境界がはっきり見えるからだという。今日も暑い。もう、一週間も雨が降っていない。だから、土はカラカラに乾いて真っ白。だから、空気も乾燥している。だから、山が近くに大きく見える。一仕事終えて、いつもの日陰の指定席で休憩。山に限ったことではなく、いつも見ている景色も近くに大きく見える。うん?!こんなところにいたのか!畑――トトロ

  • 畑――イヒヒヒヒッ!

    草抜きに明け暮れて、ふと気がつくと、もう八月。そうだ、そろそろ食べごろでは?畑の隅っこに植えてあるので、普段はあまり気がつかないでいるブルーベリー(藍苺)。おお、なかなかエエんじゃない!河内のオッサンがへんな東京弁を使うほど、たわわに実をつけている。ブルーベリーは自家受粉しにくいので、多品種と一緒に二本植えなければならないが、こ奴はハイブッシュ系で一本でもなんとか自家受粉してくれる。視力の回復に効くルテインとかやらを多く含んでいるというので五年ほど前に植えた。それがようやく一人前に成長したのだろうと、我が子を見つめるような優しい目で見る。さあ、どれから食らってやろう!イヒヒヒヒッ。優しい目が一転して鬼の目になる。ところが、老眼のオッサンの目にはよく見えない。このブルーベリーは収穫時期が難しい。お尻の部分も...畑――イヒヒヒヒッ!

  • 畑――おおー!

    備前の旅に四日間。久しぶりに畑へ行く。空中栽培のスイカが三つ増えて24個。7株×3ツル伸ばしたから21個出来れば・・・なので上出来!野菜も育つが草はそれ以上に育つ。「ええーい、これが最後だぞ、覚悟せよ!」旅から帰って三日間は、朝の6時からひたすら草抜き!とことん草抜き!8時頃には30℃近くなってくるので汗でびっしょり。そこで、里芋のトンネルの中の草抜きにチェンジする。たまに涼しい風が吹き抜けてくれる。なんとなくトトロになった気分。9時頃には危険な暑さになっているので帰り支度。一通り野菜を収穫してふと思う。7月の一日あたりにスイカが実を付けだしたので、そろそろ食べられそうなのがあるだろう。最初に実を付けたのはこの辺りだろうと見当して、ヘタの付け根のツルが枯れているのを探す。一つあった!丁寧に茎を切って、慎重...畑――おおー!

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