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琉球史と絡む先祖調査の記録です https://blog.goo.ne.jp/yononushi

琉球が三山時代であった北山王の次男と言われる沖永良部の島主「世之主」 当家のご先祖様であるという伝承をもとに、ご先祖調査をしており、その内容をブログに記録しています。

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2021/02/12

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  • Vol.374 義本王の墓と伝わる場所の海岸には ④亜蘭匏 が再浮上

    琉球人の才孤那達が硫黄の採掘のために出発したという「河蘭埠」という場所。ここが沖永良部島ではないかという仮説をしていらっしゃる研究家の方々もいらっしゃいます。河の文字は阿の誤りで、阿は伊や永の訛りであり、伊蘭埠もしくは永蘭埠。琉球国の島々の中に、音が近い島としては宮古諸島の「伊良部(いらぶ)」島がありますが、島の場所から考えると沖永良部島の方が有力に思えます。埠の文字は埠頭の意味で交易の港を表しているのでしょうから、その島全体が交易の島として認知されていたのかもしれません。河の文字が阿の誤りで「阿蘭埠」が正しければ、阿蘭はオランダをも意味するのか。長崎県の平戸市は、江戸時代にはオランダ商館があった場所。そこの付近を流れる川は寛政4(1792)年の『平戸六町図』には、「阿蘭川」と記載されているのだそうです。...Vol.374義本王の墓と伝わる場所の海岸には④亜蘭匏が再浮上

  • Vol.373 義本王の墓と伝わる場所の海岸には ③硫黄なのでは

    伊座敷泊の海岸の崖にある不思議なまるで倉庫のような場所。ここがかつての交易の港であったという話や、海に面した保管庫であることを考えると、ここに保管されていたのは硫黄であったのではないでしょうか。硫黄であれば、完全に雨風がしのげる屋内でなくても保管が可能であったと思うのです。しかも重い硫黄を船から荷揚げして陸内の倉庫に運び込むというのは、当時の労力で考えれば大変な作業。この海岸の、もしかしたら船から直接運び込めたかもしれないこの崖の倉庫であれば、保管作業が安易であったでしょう。そしてまた必要な分を船でその地まで運ぶことを考えても利便性が良い場所だったのではないかと思うのです。硫黄は当初は現物をそのまま朝貢していたようですが、17世紀後半頃には不純物を取り除いて餅状に加工して貢納していたようです。この加工の作...Vol.373義本王の墓と伝わる場所の海岸には③硫黄なのでは

  • Vol.372 義本王の墓と伝わる場所の海岸には ②不思議な岩穴が

    義本王の墓と伝わる海岸には、崖に不思議な穴があります。海辺の崖に綺麗に長方形にくり抜かれたような穴があるのです。砂浜からも崖に長方形の穴がいくつか見えます。海辺の岩場を海岸線に沿って歩くと、この長方形の穴に辿り着きます。ここから見ても、この穴は自然にできたものではないことが分かりますね。中も綺麗に長方形にくり抜いてあります。もっと近くで見るとこんな穴です。わりと奥まであります。しかも1つだけではないのです。複数個あります。全部同じような形で奥までくり抜かれていて、下の高さは同じです。何かに使った穴のようです。海側からの空撮です。潮が引いてる時は穴の下は岩場が出てきて砂浜から歩いて来れます。満潮時に海側からの空撮。美しい海が広がっていますね。そして崖の四角い穴の真下には海水が広がっています。この穴、古代の人...Vol.372義本王の墓と伝わる場所の海岸には②不思議な岩穴が

  • Vol.371 義本王の墓と伝わる場所の海岸には ①義本王の墓

    Vol.71の記事で、琉球の舜天王統の三代目(最後)の王であった義本王のお墓が、沖永良部のワンジョビーチ付近の海岸にあると伝承されている話を書きました。その義本王のお墓ですが、資料にあった場所を島の協力者の方が散策してくださいました。この海岸は伊座敷泊という名がついているようで、地元ではイジャシチの浜と呼ばれているそうです。お墓の場所は地図で見ると青丸の個所あたりになるようです。遠目で見ると洞窟のような感じです。近づいてみると、そこは岩の割れ目で通り抜けできます。そして割れ目の真ん中に見えている岩、これがお墓なの?もともとあった岩なのか?それとも誰かが置いた岩なのか?はっきり分かりませんが、石の真ん中が空洞になっています。そういえば、島の豪族で倭寇であったとも伝わる後蘭孫八の城後にある孫八のお墓という場所...Vol.371義本王の墓と伝わる場所の海岸には①義本王の墓

  • Vol.370 親戚とのつながりの中で

    今夜はとても嬉しいことがありました。当家の屋号上花城の2代目である池悦が、隠居して佐久間という場所に移って暮らしていた時にできた子供たちの子孫になるSさんとお電話でお話をすることができたのです。池悦は1698年生まれのご先祖さまですので、約330年ほどの時を経た親族との再会となったわけです。Sさんとの出会いは、当家と養子や婚姻などで親戚関係になるO家の方の紹介でした。O家の方とも別の親族からの紹介での出会いです。こうしてご先祖調査をやっていると、親族や関係者からのご紹介で、どんどん出会いが増えて親戚の繋がりが広がっております。本当に有難く嬉しいです。Sさんのお宅も当家と同じ宗家です。分家になられて以降は、本拠地の内城から出て仁志という地区で暮らしていらしたそうです。もちろん世之主の子孫であることなどは代々...Vol.370親戚とのつながりの中で

  • Vol.369 琉球辞令書の「任ズ」と「遷任セシム」⑤

    以下の沖永良部島に関係のあった人物たちについては、琉球の系図座に家譜が存在していたかどうかの確認ができなかったもの、またそもそも系図座には家譜はなかったものについて、別の資料から確認してみました。④1607年与那覇系譜伝是歳、琉球国中山王尚寧、池康村ヲ沖永良部島伊良部文子ニ任ズ南島風土記:沖縄・奄美大島地名辞典(1964年東恩納寛惇著)の中に、与那覇系譜伝「康村、嘉靖三十五年生、萬暦三十五年丁未伊良部文子、室大島按女思玉」とあります。この内容から、康村は1556年生まれで1607年に51歳で沖永良部島の文子になっています。妻は奄美大島の按司の娘だったということ。記録が無いので分かりませんが、与那覇系譜伝とのことですので沖永良部の人ではない可能性が高いですが、奄美大島の按司の娘と結婚しているところを見れば、...Vol.369琉球辞令書の「任ズ」と「遷任セシム」⑤

  • Vol.368 琉球辞令書の「任ズ」と「遷任セシム」④

    次に確認してみたのは、榮家の家譜です。②1568年榮姓世系図是歳、琉球国中山王尚元、榮吉久ヲ沖永良部島首里大屋子ニ任ズ、榮吉久、沖永良部島二渡ル系図には榮吉久はこの家の一世となっており、父母は何人が分からないと書かれています。童名は思次郎、唐名は榮春昌で生年月日は不詳。しかし1580年に赴任先の沖永良部島で44歳で他界したとありますので、1536年生まれであったことが分かります。沖永良部島に首里之大屋子として渡ったのは1568年で、吉久が32歳の時です。44歳で他界ですから島には12年間滞在していたことになりますが、その期間ずっと首里之大屋子としての役職にあったのかは分かりません。というのも、前回の記事で書いた容義貫という方が、榮吉久が沖永良部島に滞在中の1575年に沖永良部島の役人に任じられています。容...Vol.368琉球辞令書の「任ズ」と「遷任セシム」④

  • Vol.367 琉球辞令書の「任ズ」と「遷任セシム」③

    沖永良部島についての記述がある家譜について、実際に書かれてる内容を確認してみました。まずは容家の家譜からです。①1558年容家家譜是歳ノ頃、琉球国中山王尚元、沖永良部島首里大屋子〇姓名不詳を任ズ容家の記録は、琉球時代の沖永良部島の支配者であった首里大屋子と呼ばれる人物について書かれた、一番古い記録になります。家譜の内容を確認してみると、1558年頃に首里の大屋子に任じられたのは、容家の人物ではありませんでした。なんと、それは容家の一世になる義貫の妻であった真鶴が、永良部首里大屋子の娘であったのです。1558年のところに記載されているのは、長男がこの年に生まれているので、その頃に結婚しており、その時期あたりに妻の真鶴の父親が永良部首里大屋子であったという意味のようです。義貫は1540年生まれで、彼が18歳の...Vol.367琉球辞令書の「任ズ」と「遷任セシム」③

  • Vol.366 琉球辞令書の「任ズ」と「遷任セシム」②

    奄美諸島編年史料に「沖永良部島」という文字がダイレクトに書かれている文書は7つありました。年代の古い物から挙げていくと以下のようになります。①1558年容家家譜是歳ノ頃、琉球国中山王尚元、沖永良部島首里大屋子〇姓名不詳を任ズ②1568年榮姓世系図是歳、琉球国中山王尚元、榮吉久ヲ沖永良部島首里大屋子ニ任ズ、榮吉久、沖永良部島二渡ル③1575年容姓家譜是歳、琉球国中山王尚永、容義貫ヲ沖永良部島ノ役人ニ任ズ④1607年与那覇系譜伝是歳、琉球国中山王尚寧、池康村ヲ沖永良部島伊良部文子ニ任ズ⑤1608年寶満家系図二月ヨリ後、琉球国中山王尚寧、沖永良部島ノ大屋子思鎌戸ニ徳之島ヲ差引セシム⑥1609年姚姓又吉氏系譜二月ヨリ先、琉球国中山王、姚某〇名不詳ヲ沖永良部島地頭職ニ任ズト傅フ⑦1609年要家文書琉球国中山王、次郎...Vol.366琉球辞令書の「任ズ」と「遷任セシム」②

  • Vol.365 琉球辞令書の「任ズ」と「遷任セシム」①

    1500年代~1609年までの琉球王国による奄美地方の統治は、第二尚氏3代目尚真王の時から本格化し、琉球本土から統治者が派遣されたり、島の有力者が統治者として任命されたりしたようですが、その時代の沖永良部島の統治者はいったい誰だったのか?正式に記録された文書は島には存在せず、唯一確認できるのが世之主の母方の家と伝わる要家の文書です。その文書には、「直城の大屋次郎かね」や「永良部のよひと」といったキーワードが書かれており、この人物が琉球時代の最後の大屋子であり、薩摩の統治における初の与人であった可能性が高いのです。他に記録があるのは、琉球で作成された家譜です。1698年の第11代尚貞王の時代に王府に系図座という機関が設置され、主に士族の管理を目的として、士族の各家がご先祖を遡って記録し、その家譜が認められれ...Vol.365琉球辞令書の「任ズ」と「遷任セシム」①

  • Vol.364 当主の代数が違うのです

    大変に興味深い情報が入りました。現在の宗の本家の叔父は、記録のある初代中城から12代目の当主になるのですが、これが17代目になるはずだというのです。昔に本家で一緒に生活をしていた一族の方が、当時10代目となる祖父から聞いたのだそうです。「自分は15代目になるから覚えておきなさい」と。これは記録上の当主の代数が5世代多いことになるのです。いったいどういうことなのか?記録があるご先祖様達の間に、実は5世代が抜けているのか?いや、それはあり得ないと思われます。ではそうなれば、初代中城より上の世代が5世代あったということか???思い出しました。お爺様の記録の中に、5世代の名前が書いてあったことを!宗重→思松金→首里主思鎌戸→池城→朝秀→中城(記録上の始祖)赤字の方が5名。この方々の確証が取れないので、ずっと保留に...Vol.364当主の代数が違うのです

  • Vol.363 自然災害:世之主の墓(ウファ)

    世之主の墓(ウファ)の納骨堂の右側上部の石積みが、2022年2月に崩落したことはVol.191で書きましたが、このお墓は以前にも自然災害に見舞われたようです。沖永良部台風災害誌の1977(昭和52)年の記録に、そのことが書かれていました。この時は台風による被害だったようで、納骨堂の木製の扉だと思うのですが、これが全壊、そして石垣の一部が損壊とあります。このお墓、伝承によれば1400年代の建築、近年の調査によれば1600年代後期あたりの建築ということで、少なくとも400年以上は経過しているお墓です。台風の通り道でもある島ですので、これまでの数百年間の間にも記録が無いだけで沢山の被害を受けてきたのではないかと推測されます。その1つが、和泊町の老人クラブが発行した「むんがたい」という伝承をまとめた本に書かれてい...Vol.363自然災害:世之主の墓(ウファ)

  • Vol.363 自然災害:世之主の城跡(世之主神社)

    6月に奄美地方を襲った線状降水帯の影響か、世之主神社の一の郭の斜面が崩落していました。斜面がえぐられたように崩れています。悲しい気持ちになります。崩落した場所は、参道階段の東側ですね。階段は今年の3月に出来上がったばかりだったので、そちらに影響がなくて良かったですが、地盤が緩んでいるでしょうから、また雨が強烈に降ると他の場所も崩落の危険があるでしょう。神社の外周りの西側の県道に沿った斜面も、少し崩れているようです。昭和から平成の時代にかけて、神社周辺の道が何度か整備されたのは、このような崩落が原因だったりとか、事前に危険を回避するための対策であったりしたのかもしれません。土地開発によって歴史的な場所の地形が変わってしまうケースがありますが、こうした自然災害や事前対策によって地形が変わってしまうケースもある...Vol.363自然災害:世之主の城跡(世之主神社)

  • Vol.362 またまたとても嬉しい出会いが!

    7月15日(土)、またまた嬉しい出会いがありました!ご先祖調査をしていると、色んな方々との出会いがあります。昨日は奈良県のライブハウスで、沖永良部出身の歌手である大山百合香さんのlliveがありました。もうずっと何年もライブハウスなど無縁だった私ですが、友人からの知らせで百合香さんのことを知り、透き通るような青い空と海を連想させる歌声に親子で魅了され、友人と娘ちゃんの3人でliveにGoGo!娘ちゃんは所用で帰宅が遅かったので開始時間には間に合わずでしたが、何とかアンコールには間に合い、念願の歌声を生で聴けて大感激。私も歌を練習してみたい、、、などと刺激を受けておりました。liveは一部と二部に分かれていて間に休憩があったので、少しお話させてもらいました。とても気さくで優しい雰囲気に包まれた方で、ますます...Vol.362またまたとても嬉しい出会いが!

  • Vol.361 とても嬉しい出会いが!

    ここのところずっと多忙な日々を過ごしておりますが、そんな中に1通の素敵なメールが届きました。なんとなんと、お爺様のご兄弟の子孫の方からのご連絡だったのです!お爺さまには兄が三人と妹が一人いましたが、消息が分かっているのは、三男と妹さんのご家族だけでした。どちらのお宅も、世之主の子孫の家であるなど宗家のご先祖様については、少しは話をご存知ではありましたが、長男と次男の家に関しては全く情報もなく、子孫の方々がどこにいらっしゃるのかも不明だったのです。先日の義父の葬儀の時には、義母の兄弟姉妹も参列してくださり、その際に先祖の話になり、ちょうど消息の分からない長男と次男の家のことが話題に出ておりました。そんな中でのご長男家の子孫の方からのご連絡は、大変嬉しいことでした。まだまだ詳しいお話はできていませんが、一番嬉...Vol.361とても嬉しい出会いが!

  • Vol.360 エラブのユリの花が教えてくれたこと

    ボーっとした週末を迎えました。ずっと闘病中だった義父が6月27日、86歳で永眠しました。去年から肺癌で緩和ケア病棟での入院生活が始まり、家族が一丸となって義父の入院生活をサポートしてきました。一時は誤診ではないか?と思えるほどに食欲旺盛で元気な様子を見せ、このまま退院できるのではないかというような様子でしたが、やはり癌の威力には勝てませんでした。義父の癌は、肺の中で菌が飛び散るという珍しいタイプの症状だったそうです。高齢でもあり治療の施しようがないそうで、痛みや息苦しさを抑えるようなケアが約九ケ月続きました。義父はとても我慢強い人で、殆ど痛みを訴えることなく過ごしていましたが、最後の最後はもう限界だったようです。苦しそうな様子が伺え、見ている家族も本当に辛い気持ちになりました。最期は本人が「もう終わりにし...Vol.360エラブのユリの花が教えてくれたこと

  • Vol.359 泉川古墳群:4号墓のこと

    泉川古墳群の谷の方にあるお墓の中で一番目を引いたのは、この4号墓と呼ばれるお墓でした。他の7号と8号のお墓と同様に、石灰岩の壁面の洞窟を納骨堂として使っているお墓で、入口はブロックで塞がれていますが、このお墓には2つ特徴がありました。まずお墓の前面に広い空間があり広場になっている点です。写真では伝わりにくいですが、けっこう広い空間があります。木々の隙間から太陽の光が差し込み、美しい新緑に囲まれ、小鳥がさえずり、とても不思議な安らぎを感じる空間です。お墓の前とは思えない、安らぎと不思議なパワーを感じる場所なのです。この広場は、戦時中は野戦病院として使われており、当時はこのような洞窟のお墓(トゥール墓)は防空壕としても使われていたといいます。中のお骨をよけて避難していたそうです。そしてこのお墓の周りには畑もあ...Vol.359泉川古墳群:4号墓のこと

  • Vol.358 泉川古墳群:9号墓のこと

    泉川古墳群の中にある世之主の墓(ウファ)や当家のご先祖様が眠っているチュラドゥール、付近にある3号墓などは、崖に自然に出来た洞窟や人の手によって削って作った洞窟を納骨堂や風葬としてそのまま利用していたお墓とは違い、石工によって石を綺麗に積み上げて門や石垣などを作った少し豪華な作りのお墓です。当時の島の支配層や有力者の家にこのタイプのお墓が多いようです。そしてこの古墳群のエリアの中に、もう1つ9号墓と呼ばれるお墓が、近年発見されていました。まるで森の仙人が住んでいる家のようで、上部は三角の屋根のように見える地形で、家の入口の扉が開いているように見えます。お墓だと知らなかったら、訪ねて行きそうになる雰囲気がありますもう少し近づいてみると、三角屋根がはっきり分かりますが、屋根は自然に出来た地形です。このお墓も納...Vol.358泉川古墳群:9号墓のこと

  • Vol.357 泉川古墳群:8号墓のこと

    世之主の墓(ウファ)やチュラドゥールなどの琉球式のお墓が点在している場所は泉川古墳群と呼ばれています。そこはまるでエジプトの王家の谷のように、小さな島ながら琉球式の古墓が数ケ所存在しており、この島が古い時代は琉球王国の一部であり、琉球文化の中で人々が生活していたことが分かります。これらのお墓ですが、伝承によれば一番古いものは世之主の墓で、北山滅亡後あたりで1400年代。しかしお墓の調査によればその時代に建築されたと判断できる決定的な結果はまだ見当たらないようです。この辺りは以前にも書いた事がありますし、また別記しようと思います。今回はその古墳群の中の1つである8号墓と呼ばれているお墓についてです。島の調査に行った時の報告の記事にも少し書きましたが、新たに分かったことなどを追記します。このお墓は崖の洞窟を利...Vol.357泉川古墳群:8号墓のこと

  • Vol.356 永良部ユリ

    美しいユリの花が玄関先で満開になりました。先週5月29日の雨上がりの朝から待ちに待った最初の蕾が開花し、一週間の間に次々と開花。現在はほぼ満開になり、素敵な香りと共に玄関先を美しく華やかにしてくれています。この美しいユリ、実は沖永良部島のユリなんです。昨年の秋に島の知り合いの方が球根を分けてくださり、地植えしてみました。お正月明けから芽が出てきて、グングン大きくなってきました。4月頃から蕾がでてきて、4月後半から蕾も大きくなってきたので、まだかまだかと待ち続けました。ご近所の方も開花を楽しみにされていたので、今は満開のユリを一緒に楽しまれています。沖永良部島には山野にユリが自生しており、このユリを栽培するようになった歴史があるんですよ。私が島に行った3月後半には、一足早くユリが咲き始めており、道端などにも...Vol.356永良部ユリ

  • Vol.355 世之主由緒書を紐解いてみよう(9)

    こうして世之主由緒書をじっくり読んでいくと、様々な歴史の部分が見えてきました。今ではもう忘れ去られようとしてる世之主とその時代のこと、そしてその歴史を脈々と受け継いできたそのまた歴史、平安統は近代化へと進む時代の流れの中で、これらのことが薄れゆき、忘れ去られてしまうであろうという危機感を持って記録に残したのだろうと思います。先祖調査で在島していた時にお会いした大学の教授がおっしゃっておりました。このような記録は、世の中の何か大きな動きがあったとき(薩摩による島民への締め付けが大きくあった時など)に書かれたようだと。自分たちの先祖のことや存在を大きくアピールすることで、自分たちを守っていくということでしょうか。確かにこの平安統の時代には、一族としては直城の丘の上にあった屋敷から土砂災害で城のすぐ下の北側に転...Vol.355世之主由緒書を紐解いてみよう(9)

  • Vol.354 世之主由緒書を紐解いてみよう(8)

    世之主由緒書の最後に記録されている附録です。附録の部分ではありますが、当家や島の歴史を知る上で重要なことが書かれている箇所です。 原文附録一、百(ヒヤ)と申候者、往古ハ百家部乃頭取仕申候村役々役名二而候由。一、のる·久米と申すは女二而、村々神まつり仕申候村役二而御座候由。奥方へも相対奉公仕為申由。干今古城え四季まつりに登城仕申候。一、後蘭孫八但シ後蘭村居屋敷干今御座候。一、屋者真三郎但屋者村居屋敷干今御座候。右二人共二世乃主ヘ相対奉公仕申候老臣と申伝御座候弐人共二長九尺余りの大男にて候由。近年迄世乃主墓所へ骨御座候処、誠二人の骨などとは見得不申候。島人琉球人二而ハ孫八·真三郎杯と名乗不申賦り、多分ハ日本よりの落人二而、世乃主ヘ奉公仕居為申者共二而ハ無御座候哉と申伝御座候。委敷由緒相知り不申候。一、古城之儀...Vol.354世之主由緒書を紐解いてみよう(8)

  • Vol.353 世之主由緒書を紐解いてみよう(7)

    今回は宝剣:喜美留菜津久ミの行方、世之主の奥方の親元である中山についての紐解きです。原文一、其比世乃主へ奉公仕居申候島尻村居住国吉里主と申者之為勝負馬弐疋致所持候に付、世乃主より御所望被成候二付、壱疋ハ進上可仕と申上候ところ、弐疋共にと無理に所望被為成候処、国吉里主より申上候は私事此馬乃助を以て遠方より御城え每勤仕候儀御座候間、壱疋ハ御免し被下度段願上候得共、御聞入無之御取揚被成候二付、国吉恨みを含み中山え逃渡、私主人二ハ喜美留菜つくみと申候宝刀名馬等相備へ、中山大王へ謀反之企仕申候段申上候処、中山より使者差越、永良部世之主二ハ宝刀御所持之由相聞候間、御見せ可被給段被仰越候処、世乃主御返答二ハ私事海外之小島に罷居り、宝刀扶助二テ島中相治罷居申事二テ候得ば、差上申儀相叶不申段被申断候由。然処中山之家臣共之内...Vol.353世之主由緒書を紐解いてみよう(7)

  • Vol.352 世之主由緒書を紐解いてみよう(6)

    今回は宝剣の喜美留菜津久ミについてです。原文一、喜美留菜津久ミと申候宝刀之申伝。世乃主時代、喜美留村え扇子丈と申もの罷居いか引差越候処、刀一腰つり上、宝刀乃訳も不相分ものにて魚を切り候得ハまな板迄切込、夫より秘蔵いたし置き候処、其子右刀を以て怪我仕り、夫故相果申し候につき、立腹之余りに古場野(コバノ)と申野原の真石を切り申候処、ニつに切割候に付恐入本乃海中え投捨申候由。左候処夜々海中二テ光をあらわし候を、城より御見届使者を以て御取寄せ御秘蔵被成置候由。現代文喜美留菜津久ミと申す宝刀の由来一、世乃主の時代のことでした。喜美留村に扇子丈と申す者が暮らしていました。ある日、彼が海釣りに出ると、海中から一振りの刀が釣り針に掛かりました。これが世にも珍しい宝刀であるとは知りもせず、彼は庖丁の代わりに釣った魚をさばく...Vol.352世之主由緒書を紐解いてみよう(6)

  • Vol.351 世之主由緒書を紐解いてみよう(5)

    当家が琉球時代に代々大屋子を務めたことや、世之主の長女が住んでいた小庵のことなどが書かれています。原文一、右直城の子孫成長の上、中山王御取立にて代々大屋役仰付相勤来り候由。依之当之私迄も島中のもの共、大屋子孫と唱申候。尤大屋役何代相勤申候哉不祥候。右女子の儀、王女之故妻嫁に可仕似合無之、古城之下え結小庵一生寡二テ終り候由。右小庵之屋敷千今男子禁戒。現代文一、直城の若主はすくすく成長し、のちに中山王のお取立てとなり、沖永良部島で代々大屋役を仰せつかり、勤めに励んでまいりました。そのため、当代の私に至るまで島中の多くの者が「われわれは大屋の子孫である」と唱え申すのです。もっとも、これまで大屋役を何代にわたり勤めてきたか詳しくは分かっておりません。一方、若主の姉君は王女の血筋であったため、嫁ぎ先として釣り合う家...Vol.351世之主由緒書を紐解いてみよう(5)

  • Vol.350 世之主由緒書を紐解いてみよう(4)

    今回見ていくところには、徳之島に逃げた子供たちについて書かれています。原文一、右騷動の砌、男子三歲若主一人、女子五歲之者一人、乳母真升兼(マスガネ)と申すもの右両子列上、西原村あがれ百所え逃越候折柄、西原村の下え德之島船着船いたし居り候を頼入、徳之島え罷渡り、己後中山領島相成島中無異相治り候に付、島役共より王子迎として渡海いたし候二付き、御帰島被成候得共、幼少両子にて本城の住居難被成。古城より北二相当り、小高き処へ御館を構へ御直り被成候に付き、今に直城(ナオシグスク)と申唱申し候。現代文一、そのような騒動の最中、世乃主かなしの三歳になる若主(男児)一人、五歳になる女児一人が、自害の惨劇を逃れて生き残りました。乳母の真升兼(マスガネ)と申す者がこの二人を連れて西原村あがれ百所まで逃げ落ち、そこで徳之島に向か...Vol.350世之主由緒書を紐解いてみよう(4)

  • Vol.349 世之主由緒書を紐解いてみよう(3)

    世之主由緒書の次の箇所は、世之主の奥方のこと、自害に至るまでのことや子供達のことが書かれています。今回はその前半部分を考えてみました。原文一、世乃主かなし御奥方の儀ハ中山王の姫にて、御名前真照間兼之前と申唱候由。一、本琉球の儀、三山御威勢を争へ、度々合戰為有之由。然処北山今帰仁城之儀ハ、中山之大将本部大原(モトブタイハラ)と申すものより被攻亡され、南山も落城終には中山一統にて相成為申由。右二就て世乃主かなし事頼むなき小島にて鬱々として被成御座候折柄、中山より和睦之使船数艘渡海有之候由未実否御聞届も不被成、此方事北山之二男にて候得バ、中山より軍船ハ相違無之候。左候へば小島を以て大国へ難敵と、直二奥方を始め御嫡子其外無残御差違へ御自害之由。現代文一、世乃主かなしの奥方は中山王の姫君にて、その名を真照間兼之前と...Vol.349世之主由緒書を紐解いてみよう(3)

  • Vol.348 世之主由緒書を紐解いてみよう(2)

    世之主由緒書は昭和28年にお爺さまが、昭和30年には一族の豊山英敏氏が解読し、旧字体を新字体に改めて書き残しています。この解読が初めての作業であったと認識していたのですが、実は大正時代に既に活字化され、島外に在住の研究者が書いた本にその内容が記載されているのを発見しました。このことは以前の記事にも書きましたが、門外不出と言われていた古文書が大正時代に既に公開されていたのには驚きました。歴史研究の発展のために公開したのかもしれませんが、詳しいことは分かっていません。この世之主由緒書ですが、活字化されているとはいえ文体が古語ですのでどうしても意味がとりにくい箇所がありました。特に書かれている内容を正確に知りたい箇所については、やはり専門家にお願いして現代語訳にしてもらうしかないと考え依頼しました。この方は同じ...Vol.348世之主由緒書を紐解いてみよう(2)

  • Vol.347 世之主由緒書を紐解いてみよう(1)

    7代目の平安統惟雄が嘉永3(1850)年に書き残した「世之主由緒書」。数少ない島に残る古文書の中で、世之主について文書として残る貴重な古文書です。この古文書については、お爺さまが携わっていた明治期から昭和の初期に開催されていた親族会においても話題になっており、当時の本家の当主であった武重爺の2つの希望がお爺さまに伝えられていました。①当時で古文書が書かれてから約100年が経過しており、原本が磨滅に近い状態であるため、書き写しが必要である。②古文書が古字で書かれているため、後世の者が判読しにくくなるであろとのことから、現代文字で書き残すこと。その作業をお爺さまは昭和28年の3月に終わらせ、本家の武重爺に収めたようです。その記録の前文が以下になります。戦後、奄美群島と沖縄はアメリカ統治が続いていました。昭和2...Vol.347世之主由緒書を紐解いてみよう(1)

  • Vol.346 先祖調査旅行記7日目=その3(最終回)

    2023年3月26日~4月1日までの先祖調査の旅を記録していきます。フーチャ(潮吹き洞窟)いよいよ飛行機の時間が迫ってきましたが、最後の最後まで沖永良部島を満喫です。向かった先はフーチャという海岸の断崖絶壁に岩場にぶち当たった波が上部にある穴の開いた岩場からしぶきをあげるという珍しい場所。5日目のおとといも訪れましたが、雨の中だったので車から降りて近くまでは行けなかったので、今日は近くまで歩いて行ってみました。いつも吹き上げているわけではなく、季節風や台風のときなどに20~70mも潮が吹き上るのだそうです。今日の波はまだ穏やか。でも下を向いて撮影するのは足がすくんで怖かったです。ガジュマルここが今回の先祖探しの旅の最終地です。空港近くの国頭小学校に植えられている樹齢100年超の大きなガジュマルの木。精霊キ...Vol.346先祖調査旅行記7日目=その3(最終回)

  • Vol.345 先祖調査旅行記7日目=その2

    2023年3月26日~4月1日までの先祖調査の旅を記録していきます。人との出会いお墓から次の場所に移動しようと準備をしていたら、叔父が見当たりません。娘ちゃんが、叔父さんは誰かと一緒にチュラドゥールの方に行ったというので向かってみると、男性3名と一緒にこちらに戻ってくる叔父を発見。このグループの2人は奄美大島からやってきたのだそうです。定年退職をして、島の歴史などを子供たちに伝えていきたいと思い、最近活動を始めたそうで、歴史の勉強のためにここを訪れたのだそです。もう一人の方は案内役として付き添われていたようで、島の学校の先生だとか。少しお話をして別れたのですが、こうして偶然にも歴史を探求する奄美の方々に最終日に出会えたことは、嬉しく感じました。与和の浜お墓参り&お墓調査が終わったので、ランチの前に向かった...Vol.345先祖調査旅行記7日目=その2

  • Vol.344 先祖調査旅行記7日目=その1

    2023年3月26日~4月1日までの先祖調査の旅を記録していきます。今日は本当の最終日。飛行機は夕方の便なので、それまではフリー。ホテルを10時前にチェックアウトして、最後の最後まで活動だ!ご先祖様に会いに荷物の整理もあったので朝は少し遅めに迎えに来てもらい、朝から向かった先は本家のお墓。え!?どうして最終日なの???そうなんですよね。本当は一番に来なきゃいけない場所だったのですが、到着初日は雨。翌日から予定続き。案内して下さる方の都合もあり、そしてお墓は朝か夕方にしかお参りに行ってはいけないという言い伝えがあるそうで、なかなか都合も合わずで今日になっちゃいました。でも今日はゆっくり時間を取れるので良かったかも。そういうわけで、お参りに行きました。もともとはチュラドゥールの場所に一族のお墓があったのだけど...Vol.344先祖調査旅行記7日目=その1

  • Vol.343 先祖調査旅行記6日目=その2

    2023年3月26日~4月1日までの先祖調査の旅を記録していきます。ミニコンサートも無事に終わり、最後にまた下の歴史民俗資料館に足を運び、最後の談話を。滞在中、大変お世話になりました。頂いた資料、お話などこれからじっくり検証してみます!ランチタイム♬お天気も良くなったので、車でタラソの海浜公園に移動して、お外でお弁当を食べました。風は少し強かったけど、のーんびり気持ちがいい。今日は初日の散策メンバー全員集合です!今日で終わりかと思うと寂しい気持ちが、、、フバドー最初に向かったのは、玉城にある世之主が島にやってきて最初に館を構えたところといわれている場所です。石碑がありました。現在は道路際にありますが、高台でもなく、どうして最初にここに住んだのかがあまりよく分かりませんでした。昔はフバが沢山あって神聖な場所...Vol.343先祖調査旅行記6日目=その2

  • Vol.342 先祖調査旅行記6日目=その1

    2023年3月26日~4月1日までの先祖調査の旅を記録していきます。いよいよこの旅行も終盤です。明日は帰る日で、今日がたっぷり満喫できる最終日。何だか寂しい気分になりつつも、今日の1日を充分に楽しまなきゃね!実は昨日のドライブの最中に、沖縄の歴史研究家の伊敷先生からお電話をいただきました。私が島に来ていることはご存知で、アドバイスや激励を兼ねてのお電話で、大変嬉しい気分になりました。そしてもう1本お電話を別から頂いたのですが、こちらは後程のお話で。本日の予定は観光を兼ねた琉球式の墓巡りです。昨日のお天気とは違って朝から雨は降っておらずホッとしました。島かまぼこ♬今朝も8時半過ぎに叔父が迎えに来る予定でしたが、またまた早くからドアをノックする音が。今日は何と私たち親子が大好きな島かまぼこを朝食用に持ってきて...Vol.342先祖調査旅行記6日目=その1

  • Vol.341 先祖調査旅行記5日目=その2

    2023年3月26日~4月1日までの先祖調査の旅を記録していきます。ランチのお店はサンサンテレビをたっぷり満喫したあとは、ランチタイム。ヒサッピーが予約してくださっていた場所は、「ふるさと」というお食事処。お店はこじんまりとしていますが、何気にすごい物が壁に掲示してある!近づいてよく見ると、2017年11月に当時の天皇、皇后両陛下がこの島を訪問された時のお写真が。なんとここのマスターが御膳をご用意したのだそうです。本日の御膳はこちらです。島の食材を中心に、色々な種類のお料理が添えてあり、見た目も味もものすごく上品で美味しい。右側上部に見えるお寿司の太巻き、これぱっと見は太巻きなんですが、実は白い部分はおそうめんなのです。おそうめんの真ん中にマグロを入れて、海苔で巻いて太巻き風。どれも全部美味しくて、大満足...Vol.341先祖調査旅行記5日目=その2

  • Vol.340 先祖調査旅行記5日目=その1

    2023年3月26日~4月1日までの先祖調査の旅を記録していきます。今日は朝から雨がパラパラ降っています。どんよりとした空模様で、太陽さんもお疲れかお休みになられているようです。ご先祖さまと関係する地の散策はお天気に恵まれて無事に終えたので良かったのですが、今日は島内観光の予定だったのに残念な空模様となってしまいました。朝のお迎え10時半頃にお迎えがやってきました。今日ははずっと付き添ってくれた叔父も太陽さんと一緒に休息の日。本日は私たちの胃袋をいつも満たしてくれている、まるとよ農産のヒサッピー社長が島内観光を申し出てくださいました。じゃがいもの収穫などでお忙しい時期ですのに、大変有難いご提案で感謝でございます。実はヒサッピーにも直接お会いするのは今回が初めてなんです。こちらに来て、これまで電話やメールな...Vol.340先祖調査旅行記5日目=その1

  • Vol.339 先祖調査旅行記4日目=その3

    2023年3月26日~4月1日までの先祖調査の旅を記録していきます。親戚宅へランチの後に向かった先は、まだ一度もお会いしたことも、お話しをしたこともない親戚宅です。なぜこちらのお宅にお邪魔したかったかというと、ある物を見せてもらいたかったからです。そのある物というのは、内城の古老から話を聞いていた品です。古老がまだお若い時に、多分40年以上前のことだと思いますが、こちらのお宅が内城にお住まいであった頃に、幅が30センチほど、縦が180センチほどの長方形の長い板に、何か文字が書いてあるのを見たことがあると言われていたのです。叔父にその話をしたら、すぐに確認してくれて、古老がおっしゃるその板が実際に存在していたのです。古老の記憶はいつもかなり正確で驚かされます。ご主人と奥様が笑顔で迎えてくださって、色々とお話...Vol.339先祖調査旅行記4日目=その3

  • Vol.338 先祖調査旅行記4日目=その2

    2023年3月26日~4月1日までの先祖調査の旅を記録していきます。後蘭孫八の城跡要秀人さんと牛さん達に牛舎でお別れをして、次に向かったのは孫八の城跡。後蘭孫八といえば、世之主の四天王の1人で、世之主の城を造った築城の名人といわれる人です。城跡に到着前に少し寄り道を。さて、ここはどこでしょう。じゃ~ん。こちらは孫八さまです!説明板の右横の箱の中にいらっしゃいました。前の道路を怪しい者が通行しないか、見張ってらっしゃるようです。実はこの孫八さまは以前も記事で紹介しておりますが、島外にお住いの子孫の方が手彫りで作られ、設置されています。私が島に行くことになり、安否確認を頼まれたのでした。孫八さま、しっかりご健在でいらっしゃいました。しかし、植樹されたというバオバブの木らしきものは付近には見当たりませんでした。...Vol.338先祖調査旅行記4日目=その2

  • Vol.337 先祖調査旅行記4日目=その1

    2023年3月26日~4月1日までの先祖調査の旅を記録していきます。昨日までのぎゅっと詰め込んだ散策が終わり、今日からは人に会いにいく日が多くなりそうです。お天気は朝からどんより。曇っていて肌寒い1日になりそうです。朝の出会い今日は朝の8時半に叔父が迎えに来る予定。8時を過ぎた頃に、ドアをノックする音が。早起きの叔父がやってきて、いま下で先生に会ったからというのです。そうでした。昨日から同じホテルに大学の教授が宿泊泊されているのです。コロナ渦の前に学生さん達と一緒に島に二週間ほど滞在されて、世之主時代の城下町であった内城集落の暮らしを民俗学という視点から色々調査されて、「沖永良部島・内城の民族」という本にまとめられています。私も拝読していて、内容についてお聞きしたいと思っていたところでした。今回同じタイミ...Vol.337先祖調査旅行記4日目=その1

  • Vol.336 先祖調査旅行記3日目=その2

    2023年3月26日~4月1日までの先祖調査の旅を記録していきます。3号墓チュラドゥールの西側にある3号墓にも行ってみました。ここは写真でしか見たことがなかったのですが、平坦な場所だと勝手に思いこんでいましたら、いつものごとく気をつけながら歩いていかなくてはならない場所でした。チュラドゥールのある場所からは少し下って行った所にありました。このお墓は以前にも書きましたが、ニングル墓とも呼ばれていたようで、一説には世之主の墓やチュラドゥールなどのトゥール墓を築造した石工の頭の島妻の墓と言われているようです。チュラドゥールを建造したのは石工の「ニシトウ」という人だという話もありますので、島妻がいたとすればニシトウは島外の人。時代背景は別として見れば、竹富島出身で1519年に首里城の園比屋武御嶽(ソノヒャンウタキ...Vol.336先祖調査旅行記3日目=その2

  • Vol.335 先祖調査旅行記3日目=その1

    2023年3月26日~4月1日までの先祖調査の旅を記録していきます。島バナナ今日のホテルの出発予定は8時45分。8時過ぎにコンコンとドアをノックする音が。迎えに来る予定の叔父が、島バナナをもらったから~と持ってきてくれました!島バナナ、大好物です。スーパーに売っているフィリピン産のとは違い、程よい酸味があって、とても美味しいのです。朝からさっそく写真も撮らずに数本頂いちゃいました。朝からhappyな気分♬午前中の予定今日も研修センターで9時から11時半まで娘ちゃんはピアノの練習。朝から散策メンバーのEさんも練習を見に来てくれました。ギャラリーが多いと娘ちゃんの練習も気合が入るようです。私はこのすきに、下にある歴史民俗資料館にまたまたお邪魔し、昨日の散策のご報告を兼ねてまたお話をしに行ってきました。資料館に...Vol.335先祖調査旅行記3日目=その1

  • Vol.334 先祖調査旅行記2日目=その4

    2023年3月26日~4月1日までの先祖調査の旅を記録していきます。墓石がコロンとナイバサマから脱出後は町道を歩きながら、「やっぱ舗装された道路は歩きやすいな~」としみじみ現代に生まれたことに有難みを感じながら次の目的地に向かう途中、Eさんが見つけたという墓石見学に薮に立ち寄りました。あ~また薮に、、、でもここは先ほどのナイバサマの東側の崖のところ。薮に入るわけではなく、崖の傍からの見学でした。畑の隅から斜面を見上げて墓石チェック。1墓は側溝にコロン。こちらは斜面になんとか留まっております。上から落ちて落ちてきたようです。お名前があったので確認してみましたが、当家の関係では無さそうです。この状態だとおそらく子孫の方はもう島にはいらっしゃらないのでしょうね。神石神社に戻る途中に、お爺さまのご先祖のお屋敷の庭...Vol.334先祖調査旅行記2日目=その4

  • Vol.333 先祖調査旅行記2日目=その3

    2023年3月26日~4月1日までの先祖調査の旅を記録していきます。ウファチジ次に向かったのはウファチジ。ウファは墓、チジは頂上とか高いところを指す言葉のようで、この場所は小高いところになります。この頂上に、自害した世之主が最初に埋葬されたといいます。それでウファチジというのだそうです。このウファチジ、東側と西側から登れるようですが、どちらも急斜面。西側がまだマシだということで、西側から挑戦。が、私は断念してしまいました。下から見上げるとかなりの急斜面で、いったん登ったら更にまた急斜面を登るコース。先に登った皆さんがひっぱっり上げてくれるとはいえ、私にはあまりに過酷すぎて迷惑をかけると判断。しかも上り口の北側はけっこうな窪地になっていて、降りるときにそこまで転がり落ちそうな気配が、、、かなり行きたかった場...Vol.333先祖調査旅行記2日目=その3

  • Vol.332 先祖調査旅行記2日目=その2

    2023年3月26日~4月1日までの先祖調査の旅を記録していきます。世之主神社の遊歩道神社の参道の階段は崩れかけており、しばらくは通れなくなっておりました。階段を整備する前に発掘調査が行われていて、15・16世紀あたりの遺物が色々出土しており、ここが世之主の時代から使われていた場所だということが正式に分かってきたそうです。発掘は今後も続くようですが、その石階段の上に新しく登りやすいようにやっと木の階段が設置されました。そして昔の参道の方をぐるっと廻って歩けるように遊歩道も出来ていました。少し前に階段を設置中の様子です。階段下から左に伸びている道が遊歩道。今回は階段は出来上がっておりました。しかし階段は一番下までは伸びておらず、遊歩道を廻って道路に出るようになっています。まだ階段下と遊歩道が綺麗に繋がってお...Vol.332先祖調査旅行記2日目=その2

  • Vol.331 先祖調査旅行記2日目=その1

    2023年3月26日~4月1日までの先祖調査の旅を記録していきます。1日目の旅行記に書くのを忘れていましたが、大木村の方からお預かりした「太郎兵衛講文書」は、本家の古文書と一緒に保管してもらいました。なぜ一緒に保管するのかの文書は私がきちんと書き添えないといけないですね。いろいろ落ち着いたら文書の作成に着手します。2日目:3月27日火曜日朝からどんよりしたお天気。同行していた娘ちゃんのピアノの練習を、越山の研修センターのピアノをお借りして2時間ほど行いました。来月には発表会やコンクールが控えているため、1週間も練習ができないのはマズいので、滞在中に練習が出来るように叔父が手配してくれました。朝の8時45分にお迎えが来る予定でしたが、前夜にアラームを正しくセットせずに眠り込み、寝坊して慌てて起床。先に娘ちゃ...Vol.331先祖調査旅行記2日目=その1

  • Vol.330 先祖調査旅行記1日目

    2023年3月26日~4月1日までの先祖調査の旅を記録していきます。1日目:3月26日日曜日ちょうど1週間前のことです。朝1番の飛行機で鹿児島経由で沖永良部島に11時頃に到着。天気予報があたってしまい、出発時から雨模様で沖永良部島もあいにくの雨模様。小降りではありましたが、どんよりとしたお天気でこれからの1週間が心配な空模様。野外の調査がメインなため、大丈夫だろうかとかなり心配。空港は、鹿児島行きの便に乗る、これから進学で島を出る学生さんや、異動で鹿児島に戻る社会人の方々で賑わっておりました。1週間の滞在用の衣類や食料、そして沢山の資料の入ったスーツケース、パソコンやカメラ類など、まるで移住者のようなたくさんの荷物を抱え、ホテルからの送迎バスに乗り込みました。今回の滞在先は和泊町手々知名にあるホテルシーワ...Vol.330先祖調査旅行記1日目

  • Vol.329 もうすぐ帰ります...

    3月26日に予定通りに沖永良部島にやってきました。こちらに滞在中の活動をリアルでお届けできたらと思っておりましたが、毎日がへとへとで、気が付けばもう明日は帰る日です。到着した日から濃厚な活動が始まり、毎日朝から夜まで充実したスケジュール。ヘトヘトになりながらの現地調査。親族や関係者との出会い。盛りだくさんな旅日記は、これから少しずつ整理して報告していきます。6日目はお天気も良く、南国ムード溢れるビーチに少し行ってきました。少しだけ美しいビーチの様子をご紹介。外は夏日。空も青く澄みわたり、日差しが痛い。透明で青い海が美しい。誰かが作った珊瑚と砂の不思議なサークルビーチ御嶽!?さあ、どこのビーチでしょうか?とっても美しく、静かに波の音が聞こえる素敵なころでした。最終日も飛行機の出発まで時間はフル活用です!Vol.329もうすぐ帰ります...

  • Vol.328 もうすぐ上陸します!

    いよいよ、明日から念願の沖永良部島に行って参ります!明日の早朝便で出発です。この日のためにいろいろと準備を進めてきました。(ぜんぜん間に合ってませんが、、、)一週間ほどの滞在予定で、美しい自然と海を横目に見ながら島中を駆け巡って、ご先祖調査に没頭する予定です。滞在中の予定としては、まずはご先祖様のお墓参り。そして世之主神社への参拝とご神体や奉納品との対面。歴史民俗資料館。親戚や関係者巡り。研究家の先生方との面会。他にもいろいろ予定があります。そして活動のメインである島内散策。こちらも訪れたい場所が色々あります。・ご先祖様にゆかりのある屋敷跡などの場所・口碑伝承の場所・琉球式お墓群・いくつかある城跡などなど。島の気温はもう20度超えの夏日のようです。そろそろ海開きなどもあるようで、一足先に夏を感じられそう。...Vol.328もうすぐ上陸します!

  • Vol.327 玉帳陰符経(兵法書)のルーツを訪ねて②

    岸和田市大木村から県道62号線で山越し車で約30分ほど走ると、和歌山県の紀の川市に出ます。そこから西の方角にある根来寺へ。ここは高野山の学僧でもあった覚鑁(かくばん)上人によって開創された新義真言宗の総本山。開山以来、約900年の伝統を誇るそうで、山内には日本最大の木造の『大毘廬遮那法界体性塔』(だいびるしゃなほっかいたいしょうとう)通称「大塔」建立のほか、大伝法堂には重要文化財の本尊大日如来(だいにちにょらい)・金剛薩埵(こんごうさった)・尊勝仏頂(そんしょうぶっちょう)の三体が奉安されていました。 1585(天正13)年に秀吉の紀州攻めにより炎上しますが、大伝法堂・大塔・大師堂等は焼け残りますが、大伝法堂は解体。本尊の三尊像は京都嵯峨へ運び出され無事だったようです。大伝法堂は1826年に復元されます。...Vol.327玉帳陰符経(兵法書)のルーツを訪ねて②

  • Vol.326 玉帳陰符経(兵法書)のルーツを訪ねて①

    『玉超陰符経』という兵法書の古文書が島の本家に保管されていることは以前に何度か書きました。そしてこの古文書と同じものが、大阪の岸和田市大木という山間の地区に保管されていることも以前の記事で書きました。今回その大木地区の方からご連絡を頂きまして、その古文書などが活字で収録されている『史料太郎兵衛講文書』という本を頂戴することになり、はるばる行ってまいりました。このブログからの御縁で、何度もやりとりさせてもらっているKさん。実際にお会いするのは今回が初めてです。少し体調を崩されていらしたのですが、私たちのためににこやかに対応してくださり、集落の中を少し案内してくださいました。大木地区は緑豊で旧家が残る、空気がとても美味しく感じるのどかな場所でした。現在この地区には150世帯ほどがお住いのようですが、一人暮らし...Vol.326玉帳陰符経(兵法書)のルーツを訪ねて①

  • Vol.325 ノロだったのだろうか?

    ご先祖さまが代々住んでいた直城の土地台帳が全て揃いました。土地台帳は私が確認できる範囲では、土地の所有者としての記録が残る最古のもので、明治初期頃の土地の所有者が分かります。調査の対象地区においては、明治20~40年頃に記録されたものが多いです。そんな土地台帳を眺めていたら、あることに気が付きました。とある家の女性Zさんの名義になっている土地が、かなりの数あるのです。このZさんは私の知人のお婆様になる方で、恐らく江戸末から明治初め頃のお生まれだと推測します。ちょうど土地台帳が作成された頃には、30~40代くらいの年齢だったのではと思われます。そんな女性の名義になっている土地、それは畑や山林、原野ばかりではありません。宅地もご本人のご自宅以外も数件お持ちなのです。この時代、まだまだ女性が男性と同じような立場...Vol.325ノロだったのだろうか?

  • Vol.324 家系図のこと

    当家に存在していたと思われる家系図は、以前から所在が不明です。実際にご先祖さま達によって代々作成されてきた家系図が存在していたのか?現物が無いので確認のしようがないのですが、しかしお爺さまが書いている記録の中には、『宗家系図』という文字が何度か出ており、お爺さま自身がその系図を参照しながら様々な記録を書いていったような形跡があります。この家系図はいつの時代のところまで書かれたものだったのか?大変気になるのです。そしてある関係者によれば、宗家は以前に沖縄在住の方で家系図作製をされていたH氏という人に家系図を作成してもらったようだという話なのです。この方について調べてみましたが情報は少なく、親戚に訪ねてみましたが誰もそのH氏のことや家系図の存在を知らないのです。本当にこの方によって家系図が作成されていたのか?...Vol.324家系図のこと

  • Vol.323 墓地の所有者

    先祖調査をするうえで、ご先祖さまが居住していた場所の土地の調査は欠かせないものですが、先日たまたま取得した土地台帳などの資料から意外な事実が見えました。お爺様の家系である屋号:上花城の墓地は、チュラドゥールと呼ばれる琉球式の納骨堂を持った美しい墓地です。以前の記事でも紹介しましたが、中庭を2つ持ち、入口上部は沖縄の世界遺産である中城のような感じのアーチ形に作られています。この墓地は現在は豊山家の墓地であるといわれていますが、わが上花城やその他の宗の分家の墓石も中央より西側に数墓並んでいます。豊山家の墓地だといわれているのは、上花城を始めこの墓地を利用していた宗家の一族は島を離れてしまった家が多いことが原因だと思いますが、実際には墓地は間借りしていただけなのかなど色々と気になっておりました。そこで今回取得し...Vol.323墓地の所有者

  • Vol.322 チュラドゥールにまつわる人物

    当家のご先祖様が眠っておられるチュラドゥール。このお墓の建築は、数年前に行われた調査によると18世紀ごろということですが、大和式の墓石が並ぶ最前列の東側中央にある墓石が、分家である当家:上花城のものです。この墓石は、1760年に上花城のご先祖である池悦が、鹿児島の山川から購入したものです。よって、このお墓チュラドゥールは1760年には既に存在していたことが分かります。このお墓は、前回書いたように世之主の墓を作る時に沖縄から来た石工のニシトウに頼んで作ってもらったといいます。しかし世之主の墓とチュラドゥールは建築された時代が少し違うようで、この建築についての伝承が真実であるかはいまのところ分かりません。しかし全くの嘘を建築の由来とし伝承してきたとは考えにくく、口碑伝承をしていく中で少しずつ内容が変わってきた...Vol.322チュラドゥールにまつわる人物

  • Vol.321 石工のニシトウ

    世之主の墓(ウファ)の南側にあるチュラドゥールと呼ばれる美しいお墓。伝承によれば、建築は世之主の墓と同時期で、沖縄から石工を呼びよせて作ったそうです。この石工のお世話をしていたのが、宗家と豊山家。先に世之主の墓が出来るのを見て、自分たちの墓も欲しくなり建築してもらった。出来上がった墓は、世之主の墓よりチュラドゥールの方が美しかったので、石工は処刑されたというような伝承があります。お墓の調査によれば、作られた年代は少し違うようです。そこがこの伝承の謎ではあります。このチュラドゥールを建築した石工の名前が、ある本に記載されていました。その名は「ニシトウ」というのだそうです。ニシトウ、調べてみたら琉球時代に生きた人がいました。1500年、王府軍の八重山侵略(オヤケアカハチの乱)に直面した西塘(にしとう)は、王府...Vol.321石工のニシトウ

  • Vol.320 素敵な出会い

    ご先祖様の調査活動を始めて、そしてその調査記録をブログに書くようになってちょうど2年になります。この2年の間には、さまざまな方々からコンタクトがあり、そしてさまざまな情報が寄せられました。私が知りたいと思っているタイミングで不思議とやってくる関係者の方々とのご縁。もしかしたらご先祖様のお導きなのかと思ってしまうほど、その御縁は本当に突然やってきます。実は、今年に入り少しまとまった時間が取れるタイミングがあるので、念願の沖永良部行きを計画しています。これまでの調査資料などを少し整理して、現地での調査活動を洗い出し、まとめの作業に入ろうとしているこのタイミングで、これまた驚きの出会いが突然やってきました。何と!琉球の三山時代を統一した最初の王である尚巴志の子孫にあたる方からのコンタクトでした。更に、その方のご...Vol.320素敵な出会い

  • Vol.319 世之主の墓では洗骨式があった

    ウファと呼ばれる世之主のお墓。このお墓には、1416年頃に自害したとされる世之主・奥方・長男の3人の遺骨が納められています。納骨堂の四隅には世之主に仕えた四天王の厨子甕もあります。この世之主一家の3人の遺骨は、それぞれの厨子甕に収められており、中央に世之主、右に奥方、左が長男のものだと伝えられています。しかし、以前にも書きましたが2019年3月の調査報告書によると、以下のような状況であるといいます。中央(世之主)成人5体(1体は男性)未成人3体妻の壺成人2体未成人(幼児)1体子供の壺成人6体(男4女2)未成人(乳児~幼児)1体四天王①南東成人(男)1体四天王②北東成人6体火葬骨あり(この壺だけ)四天王③南西成人(男)1体四天王④南島成人2体性別は不明それぞれの甕に1体ずつの遺骨が納められているのだと思って...Vol.319世之主の墓では洗骨式があった

  • Vol.318 ご先祖さまの名前について ⑤これは何と読むのだろうか

    ご先祖様のお名前、読み方などを島の方言と絡めていろいろと考察しておりますが、どう読むのか全く分からない名前がお爺さまの記録にあります。以前に少し書いたことがある世之主の母方の要家のご先祖様になられる方だと思うのですが、1600年頃に生きた方です。先久温➾先久統記録されているのはこの二人の親子の名前だけですが、このお二人は西世之主家統ということで、西世之主といえば徳之島に1500年代に琉球からやってきた役人です。その家と繋がっているらしい、先久温と先久統親子。この二人が要家とも繋がっているのであれば、もういったいどんな繋がりがあるのか?わけがわかりませんね。しかし、沖永良部島と徳之島は1500年代から1600年頃にかけては、島の統治者が兼任していた時期もありますので、両島は統治者の一族が親戚関係として繋がっ...Vol.318ご先祖さまの名前について⑤これは何と読むのだろうか

  • Vol.317 ご先祖さまの名前について ④世之主と奥方のお名前

    当家の始祖である世之主と奥方の名前は、このように伝わっています。世之主・・・真松千代(ままちじょ)奥方・・・真照間兼之前(しんしょうまがねのまえ)まず世之主の名前ですが、当家のご先祖さまが1850年に書いた「世之主かなし由緒書」によれば、「真松千代」という名は幼名であるということです。「真」の文字は士族クラス以上の幼名につけられる接頭語です。「松千代」の方が名前で、その漢字は思いきり大和風なイメージで、なぜ1300年代の琉球の時代にこのような名前がつけられていたのか、ずっと不思議でした。しかしそれは漢字をベースにした名前の見方。1300年代に漢字が使われていたはずもなく、この「松千代」は後世になって発音に漢字を充てているのですね、きっと。この漢字を使ったのには、何か意味があってのことか?それとも「ままちじ...Vol.317ご先祖さまの名前について④世之主と奥方のお名前

  • Vol.316 ご先祖さまの名前について ③中城の名前の謎に迫る!

    ご先祖様の名前、ずっとずっと謎でした。記録上の始祖がなぜ「中城」なのか?人の名前っぽくないですし、かといって住んでいた屋敷があった場所の地名ではないですし。ご先祖様が住んでいた場所は「直城:なおしぐすく」という場所で、島では「ノーシグスク」といいます。沖縄では「中城」は「ノーシ」と読んだりするので、「直城」という意味で「中城」だったのでは?という考察を以前に書きました。この「中城:ノーシ」説は、ある方からご教授頂いた時に、目からうろこで「これか!」って謎が解けたようで感激でした。それは今でも変わっていないのですが、この中城についてあることを思いついたのです。地名などを見ていく時に、島で発音されていた地名に薩摩統治以降に漢字を充てていったことは前回書きましたが、おそらく名前もそうだと思います。中城は1619...Vol.316ご先祖さまの名前について③中城の名前の謎に迫る!

  • Vol.315 ご先祖さまの名前について ②地名の漢字表記

    那覇世の時代には「ひらがな」文字が使われており、薩摩侵攻以降の大和世になってから漢字が使われ始めたことは前回書きました。その漢字が島で広く使用されることとなったのは、1660(万治3)年に実施された万治検地と呼ばれる貢納を定めるための測量や地位査定を行い、検地帳を作成した時以降のようです。この時に測量士として来島した武宮覚右衛門という人の娘であった梅千代と結婚したのが、当家の池久保(伊慶久甫)です。検地帳の作成にあたっては、その土地で呼ばれていた地名を主に漢字を使って表記したようですが、もともと漢字文化はありませんでしたから、語調にあわせて充て字で漢字をあてはめていったり、その語の意味するところを把握した上で相応しい漢字を充てたりと、色々だったようです。実際に地名で見てみると、世之主が最初に館を構えた場所...Vol.315ご先祖さまの名前について②地名の漢字表記

  • Vol.314 ご先祖さまの名前について ①文字の歴史

    ご先祖さまの名前の謎に迫る前に、島が北山王の領地であった時代から中山王の直轄地となった那覇世(なはんゆ)と呼ばれる時代、そして薩摩侵攻後の大和世(やまとゆ)に移りかわっていく時代の中での文字文化について少し見ていきたいと思います。沖永良部島には古い時代の古文書が殆ど残っていないといいます。存在していたが居所不明になっているのか、そもそもはじめから古い時代には記録を残す文化がなかったのか。文字の普及が遅かったともいいますので、町誌などでも紹介されている1698年に書かれた要家の家譜などが、やはり島では一番古い記録なのかもしれません。当家においても同様で、残されている古文書として一番古いものは、薩摩侵攻後の大和世となった1700年代以降のものです。北山王の二男であった当家のご先祖さまである世之主:真松千代が島...Vol.314ご先祖さまの名前について①文字の歴史

  • Vol.313 宗家に連なる人々7:池久保③名前についての不思議

    当家のご先祖さまの名前については、以前から色々と不思議を感じています。記録上の始祖である中城、二代目が池久保、三代目からは平安統〇〇という名が明治まで続きます。この名前について色んな不思議を感じていて、中城については以前に一つの可能性について書きましたが、今回は池久保についてです。池久保も中城と同様に、名前としては何か不思議ですよね。名前というよりも苗字のような名前です。これも中城の考察の時のように地名が関係しているのか?と、島で池久保という場所を探してみましたが、みつかりませんでした。では地名ではなく、屋敷の近辺に池があって窪地でもあったのか?なんて考えてみたりもしましたが、当時の土地の様子はもう分からないですが、今の様子からは池や窪地はなさそうです。池久保は薩摩時代の島役人で、喜美留地区を受け持つ喜美...Vol.313宗家に連なる人々7:池久保③名前についての不思議

  • Vol.312 宗家に連なる人々7 : 池久保②子供達のこと

    当家の記録上の二代目当主であった池久保(生不明~1695年卒)には8人の子供がいました。前回にも書きましたが、男子5名女子3名で順番は不明です。この8名の子供達については、記録が残されています。長男:佐久田(1675-1748年:享年73才)経歴:与人格間切り横目・・・警察官のような仕事です。屋号:3回変わっています。①前宗(宗家の家の前に分家したので)②上金城(引越しして金城さんの上の方に住んだので)③上花城(金城はカナスクといいますが、その音が転化してハナスクになった説)長男でしたが、兄弟が多かったので結婚して分家となったようです。本人が23歳の時に嫡子の子供が生まれます。弟であった5男はこの時にまだ6才ですので確かに大家族です。居住スペースの問題もあって家を別にして分家したと思われます。屋号の話から...Vol.312宗家に連なる人々7:池久保②子供達のこと

  • Vol.311 宗家に連なる人々7 : 池久保①プロフィールから

    あけましておめでとうございます。新年早々のご先祖様探しは謎の整理からスタートです。当家の記録上の2代目である池久保。どのような方であったのか、個人的なことについての情報はほとんどありません。残された記録やそこから考察される内容は以下の通り。①1695年に他界している生まれ年の記録は無いが、父親が1619年生まれのようであるから、父親18才のときの子として計算しても1637年以降の生まれである。②長男が1675年生まれであるこの長男が生まれた年を池久保が18歳とすると、父親である池久保は1657年生まれになる。①での計算とは20年ほどの開きがあるが、どちらの可能性が高いかは、後で考えることとする。長男が20才の時に池久保は他界したことになる。③五男が1692年生まれであるこの五男が3歳の時に池久保は他界した...Vol.311宗家に連なる人々7:池久保①プロフィールから

  • Vol.310 他家のご先祖様を繋いでしまいました

    当家のご先祖様を探す活動の中で、さまざまな方々との繋がりができ、その繋がりもだんだんと大きくなっていっております。この活動を始めて2年程になりますが、それまで全く知らなかった方々との出会いは活動前には想像もしなかったことで、そしてその繋がりが私の活動を大きくサポートしてくれています。ご先祖様が導いてくださっているのだと、日々感謝しております。そんな活動の中で、最近とても嬉しいことがありました。当家ともゆかりの深いA家の方がいらっしゃいます。この方は私の先祖調査の記録を読んで連絡をくださったことがお付き合いの始まりでした。島にご先祖様をお持ちで、古いご先祖様との繋がりを探しておられます。そしてB家。こちらもご先祖様調査で知り合った方です。このB家のご先祖様がA家と同じ苗字でしたが、これまでは別の家系との認識...Vol.310他家のご先祖様を繋いでしまいました

  • Vol.309 琉球の中城にあったユンヌバル

    沖縄本島の中城城は世界遺産になっており、日本100名城に指定されている優美で壮大な城です。この城は、1300年代中期に先中城按司の一族が石積のグスクを築き始めたといいます。1300年代後期には南の郭、西の各、一の郭、二の郭が完成。そして1440年の第一尚氏王統の時代に、それまで今帰仁城で北山監守として沖縄本島の北部と奄美地方を管理後に座喜味城に移っていた護佐丸が、王命により座喜味城から中城城へ移動して勝連の攻撃に備えて、三の郭と北の郭を増築し完成させたのだそうです。1458年の阿麻和利の乱によって護佐丸は滅亡しますが、1470年からは中城城と中城の領地は、世子である中城王子の採地となりました。そんな歴史を持つ中城城ですが、1440年からの増築の際には与論島から多くの石工が連れてこられ、築城に携わったようで...Vol.309琉球の中城にあったユンヌバル

  • Vol.308 永良部の島唄に ⑤気になる唄の1つが判明

    前回の記事で沖永良部島に伝わる島唄の中から気になるものを3つピックアップして書きましたが、そのうちの1つについて記事を読まれた方からご連絡をいただき、唄の内容が判明しました。その唄は以下のもので、前回私なりの解釈をしていました。稲戸玉城(にゃーとぅたまぐしく)は村一村(むらちゅむら)とぅ思(み)ばなまそ俣(また)ひだみ二村(たむら)なしゅさ現在の玉城という所は、昔は稲戸(ニャート)と呼ばれていて、薩摩の時代に玉城(読み方はニャートのまま)という漢字に変わったそうですが、この唄では稲戸玉城は1村だと思うが、実は2村なんだといっているのか?それとも1村だが2村あるほど栄えていているという意味なのでしょうか。「なまそ俣ひだみ」?どういう意味なんでしょうね。難しすぎます。この「なまそ俣ひだみ」がポイントでした。な...Vol.308永良部の島唄に⑤気になる唄の1つが判明

  • Vol.307 永良部の島唄に ④気になる唄が

    島唄の中に気になるものが3つあります。解説がないので意味が分からないので、勝手に解釈してみました。稲戸玉城(にゃーとぅたまぐしく)は村一村(むらちゅむら)とぅ思(み)ばなまそ俣(また)ひだみ二村(たむら)なしゅさ現在の玉城という所は、昔は稲戸(ニャート)と呼ばれていて、薩摩の時代に玉城(読み方はニャートのまま)という漢字に変わったそうですが、この唄では稲戸玉城は1村だと思うが、実は2村なんだといっているのか?それとも1村だが2村あるほど栄えていているという意味なのでしょうか。「なまそ俣ひだみ」?どういう意味なんでしょうね。難しすぎます。きゅらさや玉城(たまぐしく)由緒ぬあぬ名前(なまゐ)うりや世之主(ゆぬぬし)ぬ育(すだ)ち処(どぅくる)玉城は由緒ある場所で、世之主が育ったところであるというような意味に取...Vol.307永良部の島唄に④気になる唄が

  • Vol.306 永良部の島唄に ③鉄炮の話

    青鳩(おーばーとぅ)から鳩(ばーとぅ)屋者の(やじゃ)の上(うぃ)ぢ啼くな屋者ぬ稲道主小(にゃみちしゅぐわ)に鉄砲し射(いゃ)ゆんどこの島唄は鉄砲のことが唄われているようで、解説によると、背中におんぶしている子供に、青鳩から鳩に呼び掛けて、怖い鉄砲で射られるよ、泣くなよ良い子と言い聞かせているようです。泣いた子供をあやしている情景を唄ったものでしょうか。鉄炮で射られるので泣き止みなさいというようなニュアンスには、島で鉄炮は人々に知られ、怖いものとして存在していたことが伺えます。鉄砲といえば、薩摩の支配下にあった島で、当家のご先祖様が所持していた銃については以前に書きました。明治期になり銃の所有については登録が必要となり、その申請書の下書きらしきものが残されています。その下書きによると銃が必要な理由としては...Vol.306永良部の島唄に③鉄炮の話

  • Vol.305 永良部の島唄に ②世之主がなし

    琉球が3つの国として、北山、中山、南山と呼ばれた時代に、北山王と沖永良部島のノロとの間に生まれたと伝わる真松千代。成人し沖永良部島の島主となり世之主と呼ばれた人物を唄った島唄がありました。那覇(なふぁ)ぬ世之主(ゆぬぬし)とぅ情(なさき)仮り枕沖(うき)ぬる思(うみ)う子(くわ)思(うみし)かまでこの唄は、真松千代の出生について唄ったものであると伝えられているようです。那覇の世之主とは、国王のことではないでしょうか。そして、沖ぬるとはノロのことで、そのノロが生んだ子が思かまでということで、真松千代の幼名が「思かまで」であったということになります。しかしどうも気になることがあります。真松千代は北山王とノロとの子供です。中山王ではないのです。那覇の世之主=国王であれば、三山時代の中山王、もしくは三山統一後の第...Vol.305永良部の島唄に②世之主がなし

  • Vol.304 永良部の島唄に ①中城様

    当家のご先祖様調査の中で様々な方から情報を頂いておりますが、沖縄在住の方から島唄についての情報を頂きました。この方は沖縄で三線のレッスンを受けられており、そのお教室の教本にある島唄に以下2つの歌詞が書かれてあったということです。「与論(ゆんぬ)百合ぬ浜、いきゃん(いかに)きゅらさ(清らかさ)あてぃむ(あっても)永良部長浜ぬ上(うい)やいかむ(いかない)」与論島の百合が浜は白砂の美しいビーチです。この浜がどれほど美しくあっても、永良部の長浜(浜の名前)よりは上にはいかない(上位ではない/かなわない)という意味でしょうかね。「永良部(いらぶ)長浜ぬ、いきゃん(いかに)きゅらさ(清らかさ)あてぃむ(あっても)中城(なかぐしく)様が上(うい)や、いかむ(いかない)」沖永良部の長浜は昔は白砂の美しく長いビーチだった...Vol.304永良部の島唄に①中城様

  • Vol.303 玉帳陰符経(4) 行人方の追放があったが、、、

    玉帳陰符経から紀州の根来寺、そして根来寺の別院であった薩摩の一乗院と繋がりを見てきましたが、根来寺の行人方について玉帳陰符経をお持ちの大木村の方から情報を頂きました。大木村から根来寺に行人方として派遣されていたわけですが、1751年に六代藩主徳川宗直が行人方を追放し、根来寺の経済を支えてきた行人方を一斉解雇したというのです。これは根来寺の資料館の展示物に書かれているそうです。その解雇された人々は故郷に帰ったり、故郷が無い人たちが全国に散っていったのではないかということで、実際に大木村の方では、故郷に戻った人が院内にあった書類を村に持ち帰っているのだそうです。その全国に散った先に、沖永良部島に向かった人はいなかったのか?ということですが、そこはさすがに分かりません。島に向かった人が院内から持ち出した玉帳陰符...Vol.303玉帳陰符経(4)行人方の追放があったが、、、

  • Vol.302 玉帳陰符経(3) 薩摩の一乗院

    一乗院(いちじょういん)は現在の鹿児島県南さつま市坊津町坊(門前)にかつて存在していた真言宗の寺院です。鹿児島県指定史跡でもあります。古くから存在していたようで、江戸時代に入ってからも藩主である島津氏の尊崇を受け、藩内屈指の有力寺院であったそうですが、明治2年に廃仏毀釈により廃絶してしまいました。その後は坊泊小学校が跡地に開校し、2013年(平成25年)に坊津町泊の高太朗公園に南さつま市立坊津学園として移転するまで学校の敷地内となっていたそうです。江戸時代後期の一乗院(三国名勝図会)この一乗院の歴史を見ていくと、興味深いことがありました。寺伝等によると百済の僧・日羅の建立(583年)とされているそうですが、実在がはっきりするのは南北朝時代(1337-1392年)からだそうです。そして驚くべきは、この寺は紀...Vol.302玉帳陰符経(3)薩摩の一乗院

  • Vol.301 玉帳陰符経(2) 泉佐野大木村の入手経路

    泉佐野市大木村の太郎兵衛講(窪堀講)に大切に保管されている玉帳陰符経。その講を構成する家々が、紀州(現在の和歌山県岩出市)の根来寺(ねごろじ)に行人方(ぎょうにんがた)として奉公に出ていたそうです。行人方とは、古代・中世日本の寺院内における僧侶の身分の1つで、本来は修行者の意味があり、山伏などの修験者も含まれているが、寺院内部においては施設の管理や花・灯りの準備、炊事・給仕など専ら世俗的あるいは実務的な業務にあたる身分を指したのだそうです。現代でいう事務方ですね。また、行人方の中には実務の一環として寺領からの年貢徴収や寺院の警備にあたるものもいて、その中から僧兵などの武装をする者も現れるようになったそうです。この根来寺ですが、Wikipediaによると以下のように説明されています。平安時代後期の高野山の僧...Vol.301玉帳陰符経(2)泉佐野大木村の入手経路

  • Vol.300 玉帳陰符経(1) 泉佐野大木村との出会いから

    当家の記録上の4代目のご先祖様、1700年代に生きた平安統惟貞が所有していた玉帳陰符経。これまでも何度か記事で書いた事がありましたが、今年の夏にこの「玉帳陰符経」と同じものを、大阪の泉佐野大木村の方が所有していたことが分かりました。記事にコメントを頂き、堺市の図書館にその活字化した文書が保存されていると伺い、さっそく確認をしたのです。そして文書の中身がほぼ同一であったことまでは以前の記事に書いております。この「玉帳陰符経」は、泉佐野市大木の旧家数軒で構成される太郎兵衛講と呼ばれる同族講に伝わる、70点余の中近世文書の中の1つです。「講」という表現は聞きなれない言葉ですが、結社または結社による行事・会合であり、講の原義は「講義」「講読」の「講」であり、寺院内で仏典を講読・研究する僧の集団を指すものであったよ...Vol.300玉帳陰符経(1)泉佐野大木村との出会いから

  • Vol.299 第二次世界大戦(9)出征し戦死された方々

    第二次世界大戦だけでなく、日清戦争および日露戦争でも出征し、戦死された方々がいらっしゃいます。そして、島の和泊町と知名町の2つの町で合計千名以上の方々が戦死されています。島の人口が12000人ほどだったことを考えると、かなりの数の方が戦死されたことになります。和泊町戦没者日清戦争戦死者2名日露戦争戦死者10名太平洋戦争戦死者663名和泊76名和44名手々知名25名上手々知名15名喜美留54名国頭91名西原16名出花31名伊延5名畔布37名根折32名玉城49名大城29名皆川22名古里27名内城17名上内城13名後蘭13名谷山15名仁志3名永嶺25名瀬名24名越山戦没者慰霊塔和泊町知名町戦没者日清戦争戦死者8名太平洋戦争戦死者487名知名21名屋子母18名大津勘3名徳時15名住吉33名正名20名田皆68名下城...Vol.299第二次世界大戦(9)出征し戦死された方々

  • Vol.298 第二次世界大戦(8)米軍統治下の時代

    1946(昭和21)年2月2日、日本政府は連合軍最高司令部(略称GHQ)から、「日本領域」に関する重大な覚書を受け取りました。覚書はその日の午後四時半に、太平洋米軍総司令部民間情報教育部から発表され、これがいわゆる「二・二宣言」であります。これによって日本の版図は大きく塗り替えられ、除外地域となった古来の領土であった北緯30度以南の琉球、奄美大島を含む南西諸島は行政上の権限が停止され、日本の領域から除外されました。そして2月4日には本土と奄美間の「海上封鎖」が発表されました。指令は以下の3項目。1.本土、奄美間の一般旅行、この指令の日から禁止する。2.本土、奄美間を渡航しようとする者は、永住の目的をもつ者に限って許可される。3.渡航を許可された者は、計画輸送に従わなければならない。分離宣言に続き海上閉鎖ま...Vol.298第二次世界大戦(8)米軍統治下の時代

  • Vol.297 第二次世界大戦(7)戦後すぐのこと

    昭和20年8月15日の終戦から少し遅れて8月28日に島民へ終戦の事実が伝えられましたが、その後は戦後の処理が始まったそうです。和泊町誌や知名町誌を見ると以下の記録が書かれています。*9月26日、守備隊長が各学校にあった御真影を越山に集めて焼き葬った。*旅団指令部から中溝中佐が来て、米軍に武器弾薬を引き渡して海中に投棄した。その武装解除のとき、有川大尉の15センチくらい伸ばしたアゴヒゲが珍しかったらしく、米軍将校が写真を撮りたいが差支えないかと承諾を求めたので驚いた。米軍は鬼畜といわれていたのに、敗者の人権を尊重して礼をつくしたからである。元来このヒゲは、戦死したときに死体が有川大尉と分かるようにと伸ばしていたのに、とんだ結末となった。*9月16日の台風で民家が被害を受けたので、日本兵は住民への恩返しの気持...Vol.297第二次世界大戦(7)戦後すぐのこと

  • Vol.297 第二次世界大戦(7)島民の生活③

    記事を読んでくださった方が、戦時中を島で過ごされたお父様から聞いたというお話をシェアしてくださいました。島民の生活①②で書いた内容は、まさしくお父様からお聞きになられた内容と同じだそうです。お父様が子供だった頃の鮮明な記憶をお子さんに語られていたようで、いくつかご紹介します。**********************************空襲で爆弾が落ちると、二階建ての一軒家位の穴が開いたそうです。そんな威力のある爆弾が空から降ってくるなんて、信じられないくらいに恐ろしい状況ですね。中学生時代に高射砲陣地作りに協力させられ、更には危険な手榴弾までも作っていたそうです。鋳物作りで作っていたそうで、高温の溶けた金属を流し込むという大変危険な作業を中学生がやっていたのだそうです。人口が少ない島ならではの状況...Vol.297第二次世界大戦(7)島民の生活③

  • Vol.296 第二次世界大戦(6)島民の生活②

    戦争は大人たちだけの戦いではありませんでした。たくさんの子供たちも本土から遠く離れた、そして激戦地の沖縄に近い南の島で、日本国民として戦争と戦っていたようです。学校での訓練心身鍛錬のため、学校では毎日乾布摩擦や団体訓練、そして示現流の練習、後には竹槍訓練まで行われるようになった。特に若い男女の意気は物凄く、男子は志願兵や産業戦士として、女子は看護師や産業戦士として次々に応募していった。昭和22年、現在の町役場、当時の和泊国民学校で海軍志願兵の採用試験があった。町内の男子が先を争って受験。最初の学科試験では大部分の者が合格。次の身体検査で合格・不合格に分けられた。不合格者には微募官が「お前たちの愛国の至情は誠に尊いものであるが、今入っても小さなお前たちに合う洋服が無い。これからも一生懸命勉強し、身体を鍛えて...Vol.296第二次世界大戦(6)島民の生活②

  • Vol.295 第二次世界大戦(5)島民の生活①

    和泊町誌に戦時中の生活状況について、国頭地方の方が子供の頃の思い出として書かれていました。当時の様子がよく伝わるとても貴重な記録です。子供達の服装大部分は母の手織りの着物で、膝までの短い着物に小さな黒帯をしめていた。学校へはほとんどの者がふろしきに教科書や学用品を包んで登校。ぽつぽつ洋服を着る人がでてきたが、その生地は各自の家庭で母親が蚕を飼い、それからとった絹糸とばしょうの糸を混ぜて布を織り、それをカーキ色に染めて仕上げていた。ミシンが1台も無かった時代は、仕立ても母親の手縫いであった。戦争が激しくなるにつれ衣料品はますます乏しくなり、着物も洋服もパンツも皆つぎはぎだらけとなった。当家の叔母の話では、おばあさまも蚕を飼って絹糸をとって着物や洋服を作っていたそうです。兄弟姉妹が多かったので、殆どが母親の手...Vol.295第二次世界大戦(5)島民の生活①

  • Vol.294 第二次世界大戦(4)沖永良部駐屯部隊③

    沖永良部島での日本軍による陣地は、島の中心にある越山と南部の中心にある大山に作られました。越山の陣地については前回書きましたが、大山の陣地などについての記録は知名町誌にありました。沖永良部島守備隊部隊本部は越山の方に陣を置き、野砲数門、伝書鳩班もいた。当初は蛸壺陣地を築いたが、後には横穴壕に変わった。大山防空監視哨昭和19年3月に施設隊が来島し、大山頂上西側に兵舎と見張り台を建設。10名近くの兵員が常駐し、電波探知機で広島大本営に直属していたという。大山頂上付近に電波探知機による見張所が作られた。昭和19年5月9日から8日間、知名村青年学校生は大山施設へ協力。海軍の施設竣行し、施設隊は沖縄方面へ移動して行った。海軍は隊長、上等兵曹、一等兵曹、上等水兵、電波兵器担当2名、主計兵、無線担当など合計9名がいた。...Vol.294第二次世界大戦(4)沖永良部駐屯部隊③

  • Vol.293 第二次世界大戦(3)沖永良部駐屯部隊②

    沖永良部島では最後まで上陸戦はありませんでしたが、昭和20年頃には空襲が激しくなり、空襲警報が何度も発令され、島民は不安に怯える日々を過ごしていたそうです。戦闘はなかったとはいえ、万が一の上陸に備えて日本軍が越山と大山のあちこちに陣地を作っていたことは前回書きました。その陣地の1つ、越山の東と北東を担当した第7中隊(有川隊)の陣地が書かれた資料が和泊町誌にありました。地図上から、かなりの数の坑道を掘っていたことが分かりますね。地図の中央に走っている黒い線が道路のようですので、昭和22年の空撮の写真から場所を探してみましたら、その場所が分かりました。中央の道路、戦車壕なども見えていますね。この場所は確かに越山の東側から北東にかけての場所になります。この第七中隊の陣地を作るだけでも、相当な作業だったと思います...Vol.293第二次世界大戦(3)沖永良部駐屯部隊②

  • Vol.292 第二次世界大戦(2)沖永良部駐屯部隊①

    沖縄の2つ上にある小さな島の沖永良部島。穏やかな時間が流れるこの島にも、第二次世界大戦時の1944(昭和19)年6月12日に守備隊が派遣され、始めは和泊に駐屯し各学校に宿営していました。7月28日には現地召集(65名)が行われ、守備隊の総員は600名余りになったそうです。この他にも、機関銃隊と野砲小隊、また原住民で組織する防衛隊員が約300名いて、防衛隊員は陣地構築などに協力したといいます。武器は十分な装備がなく、数門の野砲、重機関銃、各中隊の軽機関銃、擲弾筒、歩兵銃、手榴弾などで、対戦車爆雷はダイナマイトを探してきて作ったそうです。防衛隊は玉城地区の黒瀬鍛冶屋で作った粗末な槍で装備し、槍の訓練に励んだといいます。アメリカ軍の上陸に備えて陣地を構築していきますが、通常は水際で撃滅するのが最良ですが、アメリ...Vol.292第二次世界大戦(2)沖永良部駐屯部隊①

  • Vol.291 第二次世界大戦(1)入学式

    いまから78年前の1944(昭和19)年4月に、内城小学校への入学式を迎えた現在84歳の叔母の記憶です。当時は第二次世界大戦の真っただ中、翌年の1945(昭和20)年3月26日からは沖縄諸島に上陸した米軍と英軍を主体とする連合国軍と日本軍との間で激戦が起こる直前の頃です。沖永良部島でも空襲が随分激しくなっていたようで、空襲警報も頻繁に発令され島民は不安な日常を送っていたそうです。そんな日々の中で、宗家の分家である屋号:上花城の三女であった叔母は、小学校の入学式を迎えます。入学式は本来であれば学校で行われるのですが、空襲が激化していて危険であったため、近所の山に学校から椅子を運び、その山の中で入学式が行われたのだそうです。小学生の子供の数も今よりはもっともっと多かったそうです。その入学式が行われた場所はこち...Vol.291第二次世界大戦(1)入学式

  • Vol.290 直城 (13) 直城から中城に迫る!

    いろいろ調べて分かってきた直城の丘にあった歴史。この直城は当家のご先祖様達が400年もの間過ごしてきた場所であったわけですから、様々な思いや歴史がたくさん詰まった場所であったのは間違いないと思います。今となっては見ることもできなくなってしまった直城の丘、本当に残念で仕方ありません。そんな直城について、驚きの情報が舞い込んできました。これまで何度か記事に書いてきた当家の記録上の始祖である「中城」についての大変貴重な情報です。「中城」は薩摩時代の1600年代に大城与人(大城・喜美留・徳時という3間切り。間切りは現在でいう村のような区分けで、与人は村長みたいな役割)をしていた人で、1688年に他界したことは記録に残っておりますが、なぜ「中城」という名であったのかが、先祖調査の大変気になるポイントの1つでした。「...Vol.290直城(13)直城から中城に迫る!

  • Vol.289 直城 (12) 丘の傾斜

    直城の丘があった頃の状況を何とかイメージしたくて、丘があった頃の昭和22年の航空写真や現在の航空写真を見比べたり重ねてみたりする中で、新作ができました。すっかり地図マニアです。今回は昭和22年の航空写真と等高線との合成版です。昭和22年の航空写真では、畑があることは分かりますが立体的ではないので何となく丘がイメージできずにいたのですが、等高線が入ると少し立体的に捕えることができました。まずは現在の丘の様子。昭和22年の丘の様子。現在と昭和22年との合成写真。昔の畑の位置が現在のどこに位置するのかがこれで確認出来ました。こちらは丘があった時代の等高線が描かれている地図です。頂上の平場が城跡(現在の世之主神社)よりも広かったようです。高さは城跡より8mほど低くて、二段目の平場程の高さだったそうです。こちらが新...Vol.289直城(12)丘の傾斜

  • Vol.288 直城 (11) 直城の全貌②小字名について

    ご先祖様が居住していた直城の丘ですが、はじめはこの丘全体が「小字名:直城」であると思っていました。ところが、それは違っていたようで、丘の頂上を東西で仕切った南側の一帯が直城だったのです。しかも、丘の南にはウファチジと呼ばれる丘があり、そこを超えた南側の道路あたりまでが直城です。*範囲の線はざっくりです。写真の下側が南です。そして丘の頂上であった場所あたりは畑1つ分が直城です。ここは黄金の石が見つかった場所あたりです。丘の山頂あたりから南側が直城で、しかもその範囲は思った以上に南側に広範囲でした。いつのころから小字の境界線があったのかは分かりませんが、この範囲については何となく不思議感がありました。しかしその不思議感を払拭してくれるような、大変に興味深い情報が入りました。それは「城」という言葉がキーワードの...Vol.288直城(11)直城の全貌②小字名について

  • Vol.287 直城 (10) 直城の全貌①丘にあったもの

    いまとなっては幻の直城の丘。思った以上にご先祖様に関係するであろう場所と情報がありました。そしてそれを確認出来たことは大きな収穫です。琉球北山時代の北山王の二男として生まれ、沖永良部島の世之主として島を納めた600年前。三山統一の時のゴタゴタで世之主の二男が生き残り、その二男の子孫として600年に渡り連綿と続いてきたという宗家。この直城の丘には、きっともっと沢山の史実が眠っていたのではないかと思います。歴史的な調査がされぬままに丘が取り崩されていたことは非常に残念ですが、昔を知る古老たちに出会え、こうしてお話を伺うことができたことは本当に奇跡だと思います。古老お二人や、サポートしてくださった方には大変に感謝致します。これまで直城をテーマにして書いてきたことを地図上でまとめてみました。1枚目の地図は昭和22...Vol.287直城(10)直城の全貌①丘にあったもの

  • Vol.286 直城 (9) 島のおへそ

    現在ご先祖様の調査でフォーカスしている直城ですが、この大字:内城小字:直城あたりは島のちょうど中心地になる場所です。そんな島のおへそになる直城の地質について、大変興味深い情報をくださった方がいらっしゃいましたので、その情報をここに記録しておこうと思います。地質なんて先祖調査には直接的には関係はなさそうですが、情報の引き出しは沢山あったほうがよいし、もしかしたら何かにつながる可能性もありますからね。島の地質についてはWikipediaでは以下のように説明されています。隆起サンゴ礁の島で、全島ほとんどが裾礁型のサンゴ礁起源石灰岩(第四紀層の琉球石灰岩)で被われている。島の西部に最高地点の大山[要曖昧さ回避](標高240m)がある。大山を中心とした南西の知名町側の地域には、幾段かの段丘地形を呈して石灰岩の広い分...Vol.286直城(9)島のおへそ

  • Vol.285 直城 (8) 誰のお墓なのか?

    直城の丘には、古いお墓があったといいます。1975(昭和50)年頃に客土用の土砂を取り平地にした時に人骨も出土したようです。このことは研究者の先生の資料を拝見して知っていたのですが、今回は実際にそのお墓の様子を知ることができました。現在のお墓の様子はこちらです。墓石が置いてあって、割れた壺が散乱してる感じです。ここは丘を平らにするときに、いったんこのお墓もよけたようですが、また元の場所に戻してあるそうです。壺が割れたのはそれ以降のことなのか?この壺には遺骨が納められたいたはずです。しかし壺が割れているので遺骨は付近に散乱しているそうです。そしてこの壺ですが、いつの時代の物でしょうかね。壺の表面が青灰色っぽい感じで、表面には波状文が施されているようであれば、お隣の徳之島で11世紀から14世紀頃に作られていた...Vol.285直城(8)誰のお墓なのか?

  • Vol.284 直城 (7) 黄金の石はどこからやってきたのか

    直城の頂上の畑でみつかったという「太陽にあたると火が燃えたように黄金に輝く石」のことを前回書きましたが、記事を読んでくださった方から大変興味深い情報を頂きました。この石は大きさのわりにずっしりと重く、そして黄金のようだったという点から「高品位の金鉱石なのでは?」ということです。ではその金鉱石はどこからやってきたのか?情報主様によると、まず1つめに考えられるのは、沖永良部島の歴史と深い関わりがあった薩摩からではないかということです。薩摩の南部には高品位の金鉱山が点在しているのだそうです。石の産地と考えると、可能性はありますね。しかし、北山王の二男であった世之主が島を支配していた1400年頃の時代からの物であったと考えるならば、年代的に南薩摩からのものではないかもしれません。そこで2つめの可能性ですが、なんと...Vol.284直城(7)黄金の石はどこからやってきたのか

  • Vol.283 直城 (6) 黄金の石

    直城の丘に存在していたという宗家の屋敷の話と一緒に、とても興味深い話を古老から聞くことができました。それは宗家の屋敷があったという畑(古老が若いころはもう直城の丘は全て段々畑でした)の上の段の畑での話です。その畑は丘の一番頂上に位置した場所にあり、石垣があったそうです。ある朝、付近に住む家の娘さんがその畑に草刈りに行ったところ、畑の隅に珍しい石を発見したといいます。その石は土に埋まって上部が少し出た状態で、日に照らされてキラキラと光る石だったそうです。娘さんは慌てて父親のところに行ってその話をし、父親を連れて畑に戻りその石を掘りだしたのだそうです。その石は太陽の光を浴びると、燃えた火のようにも見え、黄金のように光り輝く石だったそうです。石は掘り出した方の家の倉庫に保管されていたそうで、古老が昔に仕事でこの...Vol.283直城(6)黄金の石

  • Vol.282 直城 (5) デークを開墾

    屋敷跡の畑の中に残っていた石垣について前回書きましたが、以前からずっと不思議に思っていたことがありました。それは宗家の屋敷があったその場所です。石垣の残る畑は、確かに直城と呼ばれる場所で、宗家の土地ではありました。しかし世之主の伝承では、世之主が自害した時に二男と長女は乳母と一緒に徳之島に避難し、騒動が収まったあとに島に戻り、城の後方北側の丘に館を構えたということです。城を新しく直したので、その場所は直城と呼ばれるようになったいう伝承。そうなれば、畑の場所にあった屋敷は丘の上ではなかったはずです。直城と城の丘の間の谷間になった場所だったわけですから、どうも伝承とは違うなという不思議感がありました。口碑伝承というのはそういうもので、時間の経過とともに内容が変化してくるところもあるし、、、とは思っておりました...Vol.282直城(5)デークを開墾

  • Vol.281 直城 (4) 宗家の屋敷跡

    お爺様の記録と明治期の土地台帳などから、ご先祖様が代々住んでいたと思われる場所が判明しておりましたが、その場所は現在はすっかり畑となっており、屋敷があったとは想像もつかない景観となっています。その土地は城跡のすぐ北側の下にあり、直城と呼ばれた丘との谷間にあたる部分であったようです。直城の丘は現在は削られ平地の畑となっているため、そこが谷間になっていたとは分かりにくいのですが、昔の地図などを見ると確かに谷間であったことが分かります。その場所には、本家と分家が並んで屋敷を構えていたようで、中央が本家である宗の家(ソーヌヤ)の屋敷、東側が東宗(アガリゾ)、西側が西宗(イヒゾ)という屋号の屋敷でした。お爺様の記録によれば7代目の当主であった平安統惟雄の兄弟たちが分家してできた家だったようです。東宗については、厳密...Vol.281直城(4)宗家の屋敷跡

  • Vol.280 直城 (3) ヘンダマチガマの伝承② かまど石

    伝承の中で世之主の妾であったという真千鎌ですが、内城の世之主城の北側にあった直城の丘に住んでいたといいます。その場所は昔は付近の人たちはヘンダと呼んでいたそうです。このヘンダのことを、付近のことに詳しい古老お二人にお話を伺うことができました。その場所には茅葺の小さな小屋が丘を取り崩す前の昭和の時代までは残っており、男子禁制の場所といわれていたのだそうです。この小屋の中には黒い石が3つ置いてあり、根折というところに住んでいた人が花を添えて祀っていたそうです。直城には他にもこのような場所がいくつかあったそうですが、丘を崩して畑に整備し道ができたりして様子が変わっているので、それがもうどこだったかは覚えていないとのこと。この黒い3つの石ですが、その土地に今でも残されているということでしたので、探してみました。そ...Vol.280直城(3)ヘンダマチガマの伝承②かまど石

  • Vol.279 直城 (2) ヘンダマチガマの伝承①

    沖永良部島には数々の口碑伝承が残されており、その中の1つに世之主と関係する「ヘンダマチガマ」という伝承があります。和泊町誌民族編には以下のような内容が書かれています。真千鎌(まちがま)の伝説昔、世之主の世、古里のメーヒャに真千鎌という器量の良い女が居た。世之主様が釣りに下る与和通り近くに居る事とて、何時の間にか世之主のお目に止りお召しになって内城のヘンタに居らしめた。兎角している中に真千鎌は世之主の種をやどして玉の様な王子が生まれる。ずんずん成長する。十四の年になると武芸も中々達者になってくる。そこで世之主は、其の気性をためさんために直城まで縄を張り、「我子ならば渡れる、人の子なら落ちて死ぬに相違あるまい」と綱渡り試験を致せ史に首尾よく渡って了った。王子は、大屋子御拝命の為上国なさいましたが、其後世之主は...Vol.279直城(2)ヘンダマチガマの伝承①

  • Vol.278 直城(1) 直城の丘があった頃

    世之主の城があった丘のすぐ北側には、小字名で直城と呼ばれている場所があります。この場所はかつては小高い丘で、その高さは城のあった主曲輪のすぐ下の段の曲輪と同じ位の高さであったといいます。この直城の丘が削られたのは昭和50(1975)年頃で45年程前。長い歴史から見ればわりと最近のことではありますが、当時の様子を覚えている人はもう少ないようです。当家のご先祖様は代々この直城の丘に居住していたということでしたが、その丘はもう無くなっており、その昔の様子が全く想像できない状態でした。そんな中で、昭和22(1947)年撮影の航空写真に出会い、丘が崩される前の様子が分かりましたので、現在の地図との照合をしてみました。現在の様子はこちら:黄色の範囲がかつて丘だったところ。左側の細長いところは、実際にはもう少し短かった...Vol.278直城(1)直城の丘があった頃

  • Vol.277 遺老伝説 : 沖永良部島と与論島が征服されていた?

    琉球各地に古くから伝わる民話、自然の異変、百姓の善行など、口碑伝説を集めた「遺老説伝(いろうせつでん)」という書物があります。4巻(正巻3巻・付巻1巻)からなっており、142話が収録されています。これは1743年から1745年にかけて編纂された「球陽」の外巻となっていますが、「遺老伝説」の方は少し早く18世紀初期に編纂されたものとみられているそうです。この「遺老伝説」の中に、なんと沖永良部島について書かれているものがありました。その話は110話に収録されています。伝承の内容は沖永良部島をメインにした話ではなく、喜屋武間切の束辺名村(つかへなむら)に奥間里之子(おくまさとのし)という武芸が優れた若者がいて、彼のエピソードについて書かれているのですが、その中に驚きの内容がありました。「時の王が、与論と永良部の...Vol.277遺老伝説:沖永良部島と与論島が征服されていた?

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