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琉球史と絡む先祖調査の記録です https://blog.goo.ne.jp/yononushi

琉球が三山時代であった北山王の次男と言われる沖永良部の島主「世之主」 当家のご先祖様であるという伝承をもとに、ご先祖調査をしており、その内容をブログに記録しています。

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2021/02/12

  • Vol.409 忘れ去られた慰霊碑:久木留隊長

    第二次世界大戦中、南国の沖永良部島にも戦争の影があり、この島にも日本軍と現地召集による守備隊が編制されていました。幸いにしてアメリカ軍の上陸はありませんでしたが、空襲などは頻繁にあっていたようで、以前の記事にも書きました。(Vol.291~299)近年には、米軍が沖永良部島に上陸する計画があったことが明らかになったそうで、米軍による沖縄攻略作戦「アイスバーグ作戦」の三段階の中の1つであった第三段階で攻略が予定されていたのが、伊平屋島・粟国島・沖永良部島・宮古島・喜界島だったようです。米軍は宮古島・喜界島・沖永良部島について、具体的な上陸計画を立てていたようで、上陸作戦案は三案作成されていたそうです。結果的には島での飛行場建設が困難な地形であるなどの理由と終戦を迎えたこともありアメリカ軍による上陸はなかった...Vol.409忘れ去られた慰霊碑:久木留隊長

  • Vol.408 「おきのえらぶ島 TROPICAL FES in 大阪」の開催

    私が調査しているご先祖様の地である沖永良部島。本土からはなかなか遠くてすぐに足を運べる場所ではないのですが、歴史も文化も食も魅力あふれた島です。そんな魅力いっぱいの南国の島の特産品が、久しぶりに大阪で開催されます。パンフに掲載のパッションフルーツは、最近のミスドのドリンクにもマンゴーとのミックスで販売されていましたね。爽やかな酸味で夏にぴったりの美味しいドリンクでしたので、自宅で味わえるのは最高です。島バナナは最高ですよ。スーパーに売っているフィリピン産とは全然違った美味しさがあります。めったに味わえない品ですので、これを機会にぜひ味わってみてください。アップルマンゴーのジェラート。これも甘くて美味しいです。かなり濃厚なお味で、本物のマンゴーみたいです。私が日ごろ島食材を購入して送ってもらっている「まると...Vol.408「おきのえらぶ島TROPICALFESin大阪」の開催

  • Vol.407 徳之島の尚家④ご先祖様はどこに繋がるのか

    Aさんの母方の徳之島のご先祖様である尚家ですが、現在も島にはその姓のお宅が数件あるようです。1879(明治12)年に作成された竿次帳(さおつぎちょう)という資料によると、以下の村に尚姓の家がありました。ちなみに竿次帳というのは、地租改正のための基礎資料として作成されたものです。全国的には1873(明治6)年から始まっていましたが、鹿児島県は西南戦争のために実施が遅れて明治12~14年に行われたそうで、徳之島の竿次帳も明治12年作成だったようです。旧土地台帳よりも10数年前に作成されている一番古い土地関係の記録でありますが、宗門人別改帳などが存在しない奄美の島々にとっては、名前の記載がある貴重な資料といえるようです。・阿権(あごん)村・犬田布(いぬたぶ)村・秋徳(あきとく:現在の亀徳)村・兼久(かねく)村・...Vol.407徳之島の尚家④ご先祖様はどこに繋がるのか

  • Vol.406 徳之島の尚家③犬田布騒動

    1864(元治元年)年に徳之島では犬田布騒動という事件が起こりました。犬田布というのは地名です。犬田布は島の南西部にある伊仙町にあります。今から160年ほど前に、この犬田布で騒動が起こっていたのです。事の始まりは、島で生産の砂糖が見積高に達しないと言うことで、福重という人物が隠ぺいの可能性があるということで、犬田布にあった薩摩の代官の役所で、福重の娘婿がひどい尋問を受けていました。娘婿は隠ぺいはしていないと主張し更に酷い尋問をうけたようです。その時に隠れ見ていた村人達がみかねて、多数で役所になだれ込み暴れたのだそうです。仲間を助けようとした村人たちは勇敢でしたね。しかしその結果、その騒動の責任を取らせる形で、当時の島役人たちを遠島罪などにして付近の島々に行かせたのだそうです。その遠島罪を受けた人たちの中の...Vol.406徳之島の尚家③犬田布騒動

  • Vol.405 徳之島の尚家②尚家の家系図

    徳之島の尚家には家系図が存在していました。Aさんはその家系図の一部を大阪の叔母さまからコピーで頂き保管されていたことは前回書きました。その家系図がこちらです。系図の公開については、Aさんが今後の徳之島や沖永良部などの研究のために、ぜひ公開してくださいとおっしゃってくださったので、掲載しております。現物を拝見していないのではっきりとは分かりませんが、このページの他に平成の時代にご存命の方のお名前などが書かれている個所がありますので、この家系図が書かれたのは昭和から平成の時期なのではないかと思われます。最終と思われるページの間には始祖から続くご先祖様たちが書かれているようですので、古くなった系図を書き直した可能性があります。残念ながら全ページが拝見できないことをもどかしく感じます。Aさんが大阪の叔母さまにコン...Vol.405徳之島の尚家②尚家の家系図

  • Vol.404 徳之島の尚家①出会いと尚家のこと

    少し前の出来事ですが、徳之島にご先祖さまが繋がる関東在住の方からご連絡を頂き新たな出会いがありました。お名前をAさんとします。Aさんは、母方の祖母について生前のお母様から時々話を聞かされたことがあり、ご先祖様に少し興味を持ち、当時大阪在住であった叔母さんに家系図の一部をコピーして送ってもらっていたそうです。日々の生活の中ですっかり忘れていたところ、最近になって思い出すきっかけがありネットで色々と調べていたところ、こちらのブログに辿り着いたそうで、直接ご連絡を頂いた次第です。Aさんの祖母は奄美大島で育っており、結婚して福岡に行かれたそうです。生涯を終えるまで福岡で過ごされたとのことで、AさんもAさんのお母様も徳之島のことについては、詳しくは分からないのだそうです。そしてこのAさんの祖母は、旧姓を「尚ちよ」と...Vol.404徳之島の尚家①出会いと尚家のこと

  • Vol.403 ウファ(世之主の墓)のこと

    琉球時代の北山王の二男であり沖永良部島の島主で世之主と呼ばれた真松千代のお墓であるウファについて、ご先祖調査の過程で新たに分かったことを書き留めておこうと思います。1.墓荒らしによる被害1969(昭和44)年の「薩南の島々」という本の記事によれば、精神異常者のいたずらにより3つの厨子甕の中が荒らされてしまい、どの遺骨が世之主のものかが分からなくなってしまったということです。写真の蓋を開けている厨子甕は、世之主のものなのか分かりませんが、すでに荒らされた後の状態だと思われます。書籍:薩南の島々出版:朝日新聞社1969年この話は以前に聞いたことがありますが、時期が不明でした。記事が書かれた本が出版されたのが1969年ですから、それ以前の出来事となります。また、1965年に出版された「電気とガス」という本には、...Vol.403ウファ(世之主の墓)のこと

  • Vol.402 ハブのいない奄美の島々と交易の拠点

    南の島々には毒蛇のハブがいることは知られていますが、奄美群島の場合は全ての島々に生息しているわけではありません。ハブのいない島があるのです。奄美大島・加計呂麻島・請島・与路島・徳之島にハブはいますが、喜界島・沖永良部島・与論島にはいないのです。喜界島・沖永良部島・与論島のハブのいない島は標高が低い珊瑚隆起の島です。これに対してハブが生息している他の島は、標高の高い火山島です。ハブの生息に関しては理由が諸説あるようですが、よく言われている理由を2つあげてみます。これらの島々がむかしむかしに陸続きだった時代に、ハブはその陸地の至る所に生息していたが、海面上昇によって珊瑚隆起の場所だったところ(現在のハブのいない島)が完全に沈んでしまい、そこに住むハブは滅んでしまったと言われています。火山島は完全に沈んだわけで...Vol.402ハブのいない奄美の島々と交易の拠点

  • Vol.401 畦布の運濱(ウパマ)②海の中道

    ウパマの4つの洞籠墓は海岸沿いの崖の上の方にありました。現在は道路が整備され東西から行くことができますが、昔は今のような道路が無く全方位から侵入することが難しかったようで、急な坂を下り西側から巡回するか、干潮時にリーフ上を東から回り込むかの進入路しかなかったそうです。ここは風葬墓だったわけですが、こんなに侵入するのが難しい場所に、どうやって亡くなった方を運んでいたのか?この崖の上の外城原には島見し当があったようですので、亡くなった方に最後にこの世を見せお別れの儀式をこの場所で行っていたということです。そうなれば、その後はすぐにお墓に亡くなった方を安置となるでしょうが、そこからご遺体を巡回したりして足場の悪い道から運び込むのはかなり難しかったのではないかと思うのですね。沖縄の今帰仁にある崖上にある洞窟のお墓...Vol.401畦布の運濱(ウパマ)②海の中道

  • Vol.400 畦布の運濱(ウパマ)①洞籠墓

    沖永良部島の畦布の湾門(ワンジョ)と呼ばれる浜の東側に、運濱(ウパマ)と呼ばれる小さな浜があります。そこの崖に4基の洞籠墓(トゥール墓)があります。この場所は以前は崖下の海岸まで降りてから、墓の場所まで登っていったようですが、現在はワンジョの海水浴場から道路が作られ、道路沿いから墓に行き着けます。お墓は木々に覆われていて、海岸の方からは全く確認できないようです。海の方から見た場所は、ピンクのラインの辺りです。運濱のビーチに沿って道路が走っていますが、道路の奥の崖に洞籠墓があります。この4基のトゥール墓は、島の昔の琉球スタイルであった風葬墓として使われていたものです。昭和初期の調査記録によれば、近年までは使われていたということですので、100年ほど前までは使われていた墓になります。上の写真の左側が東、右が西...Vol.400畦布の運濱(ウパマ)①洞籠墓

  • Vol.399 後蘭はなぜ和泊町なのか?

    沖永良部出身の方やその関係者で構成されている沖洲会という団体が全国にあります。地方から都会に出てきた方々で組織する〇〇県人会みたいなやつです。私が住むエリアの会合が2月に開催され、お誘いがあり参加させていただきました。私の先祖調査のことでお世話になっている方々に初めて直接お会いしたり、島の話ができたりと大変貴重な時間を過ごすことができました。その中である方から、世之主の家臣の一人であった後蘭孫八の居城があった後蘭地区についての話題がありました。この後蘭地区は、現在は島に2つある行政区のうちの和泊町になるのですが、町境を見てみると、直線ではなく曲線を描いて後蘭地区が和泊町になっているのだそうです。確かに地図を見ると知名町の方にぐっと入り込んだ場所(後蘭孫八の城跡となっている個所)ですが、和泊町になっています...Vol.399後蘭はなぜ和泊町なのか?

  • Vol.398 宗家に連なる人々9:沖島曽勲

    幕末維新の立役者、西郷隆盛が遠島刑となりやってきたのが沖永良部島。この西郷が沖永良部島で過ごしたのは1862年8月から1864年2月までの1年6ヵ月ほどで、その期間に西郷のお世話をしたのが土持政照です。土持政照は、薩摩藩士であった土持叶之丞綱政の子として1834年に沖永良部島で生まれました。彼は天保年間に沖永良部島に3度赴任しており、島妻・鶴との間に生まれたのが、土持政照ということになります。成人した政照は間切横目(現代の警察官)という島役人であり、西郷は政照とその母であった鶴の優しさと人柄に感動し、義兄弟の契約を交わすほどに親交がありました。この土持政照の母であった鶴の旧姓は豊山でしたが、一説にはこの鶴は世之主の子孫であったと伝えられています。世之主の子孫と伝わる当家の宗家一族と豊山家は婚姻関係で親戚で...Vol.398宗家に連なる人々9:沖島曽勲

  • Vol.397 世之主城址の文化遺産登録に向けて:①現在の状況

    1300年代中期頃に、北山王の二男であった真松千代が沖永良部島の世之主(島主)として島へ派遣され、島の中心にある越山の南側に、家臣であった築城の名手:後蘭孫八に命じて築いたといわれている城が「世之主城」です。現在は城の建物や城壁などがはっきりとわかる状況ではないのですが、親元である今帰仁城によく似た作りだったようであるといった話もあります。ここはずっと昔から古城地であったという伝承ですが、近年では世之主神社が建立され、神社がある場所というイメージの方が強かったようです。そしてこの城跡一帯は木々で覆われていて、その全貌が分からない状態であったのが、2016年に世之主600年祭が行われたときに、周りの木々を伐採したことによって、隠れていた石積みの城壁跡や城としての景観がリアルに見えてきたのだそうです。このショ...Vol.397世之主城址の文化遺産登録に向けて:①現在の状況

  • Vol.396 出水郷士の娘であった梅千代のこと

    記録上の2代目当主であった池久保の妻は、薩摩から地検の測量にやってきた出水郷士の武宮大覚左衛門の娘であった梅千代であると当家の資料に記録されています。しかし、墓石の調査によると池久保の妻は名前が千袈裟とあります。墓石は池久保の孫であった平安統惟貞が建立していますので、自分の祖母の名前を間違うことはないでしょう。この写真の墓石は既に引退させられた墓石で、現在は墓の隅に置かれています。左側面である写真のこの面に「俗名喜美留与人池久保」、その横に「俗名千袈裟」と書かれていたようですが、今は風化しており池久保の名はうっすらと見えますが千袈裟の名は見えません。墓石の正面には、池久保と妻の戒名や卒年が書かれており、妻の卒年は1721(享保6)年5月10日とあり、記録にある梅千代の卒年と同じです。池久保の妻には名前が2...Vol.396出水郷士の娘であった梅千代のこと

  • Vol.395 越之山神社:新生丸の慰霊祭

    昭和の時代のことです。1953(昭和28)年2月4日未明に、沖永良部島の知名町屋子母沖で旅客船「新生丸」(18・5㌧)が沈没した事故がありました。新生丸は定員51人を上回る82人が乗船して沖縄県那覇市から知名町小米港へ向けて航行中、高波を受けて沈没。生存者は2人で、乗員乗客81人が死亡・行方不明となったのだそうです。当時は奄美群島が米軍政下にあり、沖縄へ出稼ぎに行く島民が多く、新生丸には旧正月に合わせて帰省する人達が乗船してのだそうです。屋子母集落の方々は、遭難事故から60年経った2013年から毎年2月4日に慰霊祭を開催しました。そして2014年には、島民や出身者から協力、寄付を得て集落内のこの海の見える越之山神社境内に慰霊碑が建立されました。このブログを読んでくださっている島出身の方のご親族も、この船に...Vol.395越之山神社:新生丸の慰霊祭

  • Vol.394 越之山神社:世之主の妹のお墓の移動②

    ユタの助言によってアダンの森から海の見える高台に移ったお墓ですが、またまた移動をすることになりました。海の見える高台にあったお墓の土地は、屋号「ウントの家」と呼ばれる人が持ち主でした。あるときに、このご一家の皆さんが揃って頭痛に悩まされたのだそうです。その時にお隣の徳時の有名なユタの占示によると、「テエの神を祭れ。家中、村中こぞって祭りなさい。あまり粗雑なため、石ころが落ちてきて頭を割ってしまった。みんなの頭痛はそのせいだ。」とのことでしたので調べてみたら、その占示の通り、遺骨の入った板蓋が壊れて、乗せた石が頭蓋骨を割っていたのだそうです。信神深い初代ウントの家の当主は、あまりの明示に恐れを恐れをなし、資財を投じてテエの山を聖域とし、徳時の「かみさまあじ」を神官にお願いして祭ることになったのだそうです。土...Vol.394越之山神社:世之主の妹のお墓の移動②

  • Vol.393 越之山神社:世之主の妹のお墓の移動①

    アダンの森に葬られた世之主の妹ですが、そのまま静かに眠りにつくことができなかったようです。海岸線の道路では、昼下がりが来ると女用の麦わら帽子を小脇に抱え、身の丈ほどの長い黒髪を後ろに垂らした若い女の人の姿が通行人の前方に忽然と現れるようになったのだそうです。そしてまた煙のようにいつの間にか消えてしまうという評判が広がって、昼下がりにこの道を通る人がいなくなってしまったのだとか。それでユタに頼んで占ってもらったら、「このヤマガマは村の下に当たるので、昇天できずに彼女の霊はさまよっている。村の上の高いところで海の彼方の見えるところに移し祀れ」という神の啓示があったとのことで、ニューガニメエのテエの山の南に向いた洞穴を選んで移し祀ったのだそうです。それがノロ墓と言われていた洞窟墓です。越之山神社の裏手の山にあり...Vol.393越之山神社:世之主の妹のお墓の移動①

  • Vol.392 越之山神社:ノロ屋敷

    お墓の移動の話の前に、この妹ノロの屋敷跡が分かりましたので先にそのあたりのことを書きます。アダンの森に葬られた世之主の妹ですが、その森はおそらくは屋敷があった場所の付近にあった森ではなかろうかと推測されます。屋子母の海岸近くにはノロ屋敷(青丸の場所)があったといいます。今はもう屋敷の跡形はありませんが、その場所には石垣が積まれ石門が残されています。この場所は、時徳泊から屋子母泊の間を結ぶ海岸線の道路の付近であり、小字名を「久米せんす」といいます。何だか変わった地名ですが、ほんの少しだけ西側に行くとスセン当貝塚(赤丸の場所付近)があり、昭和57年に弥生式土器といわれるスセン当土器が出土したといいます。このスセンが入れ替わって「せんす」となったのか?そこはよく分かりませんでしたが、彼女は祈願所兼宿泊所として屋...Vol.392越之山神社:ノロ屋敷

  • Vol.391 越之山神社:世之主の妹

    越之山神社がある場所は、知名町屋子母の小字名は越之山です。神社にはその小字名がつけられていますが、越之山とは北山王の二男であった世之主の城があったところの後方にそびえる山である越山と同じ名前。間にノの字が入っていますが、そこに意味があるかどうかは不明です。この神社には、世之主に関係する人物が祀られいるということは前回書きましたが、その人物というのが世之主の妹であったと伝わっていたのです。妹の名前は分かりませんが、その妹はノロであったようで、世之主に仕えていたといいます。世之主が北山から島を統治するためにやってきた頃に、妹がノロとしてやってきたのだそうです。このノロにはこんな伝承がありました。妹は大変な美女だったようで、身分が高く気位もあって村人からは尊敬されていたそうです。しかし貴人であり神女であることか...Vol.391越之山神社:世之主の妹

  • Vol.390 越之山神社:社殿と厨子甕

    沖永良部島の南部の屋子母という地区にある越之山神社。地元の人たちにも建立の歴史やその存在は今はあまり知られていない神社のようで、私もつい最近に存在を知りました。区長や地主の方の話によると、わずかに残る伝承では神社には世之主に関係する方を祀っているそうです。その方が亡くなるときに地元の沖縄の見える場所にお墓を作ってほしいとのことで、少し高台になっている現在の神社の後方付近にお墓があったようですが、訳があって近世になって神社が建立されたようです。現在の社殿は昭和初期の建立だそうです。下の道路から少し登っていくと神社があります。こちらが社殿です。祭壇には観音様が安置してありますが、これは近年になって宮崎県のお坊さんに祀りごとをお願いすることになったときに、お坊さんから譲り受けたものだそうです。神社にお坊さんやら...Vol.390越之山神社:社殿と厨子甕

  • Vol.389 宗家に連なる人々8:新納政吉翁胸像

    沖永良部島の知名町田皆地区にある「新納政吉翁胸像」。そこに書かれている碑文を紹介します。新納政吉先生は明治七年住吉の平政清の二男として生まれ、同三十五年田皆の名門新納直橋氏の養子となりました。若き時代は教育に情熱を傾注しておられましたが、明治四十四年から二期間県議会議員をつとめました。その間大島汽船を創設就航させて離島苦を解消し、奄美群島商工会議所の会頭として信用金庫の前身産業組合を設立し、知名正名間の県道を田皆まで延長して島民の生活向上に貢献されました。わけても田皆岬を中心に東西六十町歩に及ぶ共有地は先生の努力で県から払い下げられました。この共有地はある時は役牛馬の牧草地となり戦後の食糧難時代には内地からの引揚者や土地の少ない人々の耕地となり、又、防風林は隣接農地を災害から守りました。更に植樹したソテツ...Vol.389宗家に連なる人々8:新納政吉翁胸像

  • Vol.388 友竿遺跡②

    友竿遺跡で発見された古銭ですが、数枚といったわけではなく、かなりの量が発見されていました。研究者が発掘をしたわけではなく、雨が降った日に現地を訪れた中田さんが地面の表面に浮き上がっていた古銭を発見したということですから不思議です。中国の古銭がここにたくさんあるということは、その昔に中国と交易をしていた証拠でしょうし、そして大昔にここに交易をした人物が住んでいたということを物語っているのでしょうか。古銭がたくさん見つかったということは、お金を残したまま住人が急に消え去ったということでしょうか。何かの勢力によってここに住んでいた人たちは忽然と消えたということも考えられますね。こちらは中田さんが取集した古銭です。地元の歴史民俗資料館にも保管されていますが、一部をご自分で保管されています。左の少し変わった形の古銭...Vol.388友竿遺跡②

  • Vol.387 友竿遺跡①

    世之主の時代に城があった付近には、小高い丘がいくつかありました。現在は山を削って畑となってしまった場所もいくつかありますが、城があったと伝わる場所(現在は世之主神社がある)の北東側には世之主の次男が住んだ直城の丘、そのさらに東には友竿(ともぞう)と呼ばれる小高い丘がありました。この友竿遺跡ですが、この場所も昭和の時代から山が削り取られており、今では山があった当時の面影はありません。上は現在のGoogleマップで見た、付近の航空写真です。友竿は山が削りとられている工事の最中ですね。直城はすっかり平地の畑となってしまっています。城跡も現在は随分と古い時代に比べると様子が変わってしまっています。お爺さまが昭和57年に帰島した時に撮影した、神社から見た直城と友竿の写真がありました。奥の方にある段々になっている工事...Vol.387友竿遺跡①

  • Vol.386 本部太原の頭蓋骨

    本部太原(もとぶてーはら:平原とも書く)は北山滅亡の時に主人であった北山王を裏切った人物です。このいきさつは、いかのように伝えられています。時の王であった攀安知は、誰もが知る英雄であることに間違いはない。しかし知性に乏しく徳がない。だから部下の将卒の中で、王の攀安知に心服して従っている者は、きっと少ない筈だ。大将の太原もまた、豪傑として世に知られてはいるが、これもまた勇を誇るばかりの全く智が足りない小人物だ。昔からいわれるように、小人は、利をもって誘惑すれば、いと易しとされるから、思い通りになれば、やがてきっと簡単に我が軍に靡くに違いない。中山の尚巴志王はこのように自分の軍勢に語り、臣下の羽地按司を呼び寄せ、自分の考えを伝えながら、二人は細かい点まで行き届いた策略を練ったといいます。その計画を実行に移すべ...Vol.386本部太原の頭蓋骨

  • Vol.385 2023年を振り返ると

    もうすぐ今年も終わりますね。1年を振り返ると、今年は本当に目まぐるしい1年でございました。春に念願の沖永良部島へ先祖調査の旅にでかけ、島ではたくさんの方々との出会いや現地散策による島やご先祖さまの歴史のお勉強。協力してくださる皆様のおかげで、とても充実した7日間を過ごすことができました。そして音信不通になって所在も不明だった宗家一族の方々との出会い。親戚筋の方との新たな出会いもありました。実は昨日もずっと探していたある家の方々との出会いがあったのです!私の先祖調査の中では重要な出会いで、貴重な情報も頂くことができました。詳細は別で書きたいと思いますが、本当に思いがけない場所での出会いでした。え?どこで?それは以前にご紹介したことがあります沖永良部島出身の歌姫、歌手の大山百合香さんのLiveに行ってきたので...Vol.3852023年を振り返ると

  • Vol.384 葬儀について:②装具と島見しと埋葬

    葬儀から埋葬に向けて準備する装具がありました。いつのころからあった風習なのかは分かりませんが、装具の主なるものは3つあったようです。①死体を納める棺②棺の上を覆うヤージョウ(屋形)③担い棒(俗にアホ木と言ったようです)①は座位棺と寝棺があったようです。②のヤージョウは、唐破風の屋蓋を有して、前面に扉で開閉できる入り口が設けられ、三方は板張りの家のような形のものです。③は棺を担ぐための棒で、4人で担げるように皮付きの松丸太を組み合わせて作ったそうです。ヤージョウ知名町公民館の展示物より棺に担い棒を取り付け、ヤージョウでそれを覆いお墓まで列をなして歩いたそうですが、位の高い人や素封家の葬儀の場合は馬を使い、この行列が盛大であったそうです。盛大な葬儀を見せつけるために、わざわざ遠い場所に墓を作っていたという話で...Vol.384葬儀について:②装具と島見しと埋葬

  • Vol.383 葬儀について:①魂呼び(ムドゥントー)と泣き女

    お墓の歴史の後は、葬儀について紹介します。まずは魂(たま)呼びです。島ではムドゥントーやムドゥトオと言うようです。島言葉で直訳すると「戻って来い」という意味。人は亡くなると死の直後から肉体から魂が脱け出していくであろうということで、その時を見計らってその人の名前を呼び魂を呼び戻そうとする儀式です。本土にも同じような習俗があったようで、このような歌があったといいます。逝きし人うつらうつらに思うとき梁のあたりに軋む音ありこの歌は「死人の魂は体から遊離して、しばらく家の中をうろついているが、やがて梁(破風)のあたりから脱け出していく」というように、昔の人が考えていた様子を歌ったものです。沖永良部島では、人が息を引き取ろうとするときに、一人は屋根の上に上り、一人は軒下にいて、まず軒下の男性が「ムドゥトオ〇〇」(〇...Vol.383葬儀について:①魂呼び(ムドゥントー)と泣き女

  • Vol.382 お墓の歴史:内城墓

    お墓の歴史を調べていく中で、『内城墓』と呼ばれていた墓があったことが分かりました。内城といえば世之主の城があった周辺地区の呼び名です。昔は内城村、現在は大字内城です。その地区の名称で呼ばれたお墓ですから、当然ながら内城地区に存在していたお墓と思いきや、実は全く違う場所に存在していたのです。それはあの義本王のお墓があるとされる伊座敷泊の海岸なのです。(義本王のお墓などについてはVol.371~375を参照ください。)あの海岸沿いにある彫り込んだ洞窟が『内城墓』と呼ばれていたのだといいます。海岸には5つほどの洞窟がありますが、そのすべてがお墓だったのか?一部だけだったのかは分かりませんが、ここにあった洞窟墓が内城墓と呼ばれた風葬墓だったようです。この洞窟ですが、私はここを硫黄の保管庫だったのではないかと考察し...Vol.382お墓の歴史:内城墓

  • Vol.381 お墓の歴史:ウファに移ったときの話

    お爺さまの記録の中に、世之主のお墓をウファチジからウファに移動した理由として、ウファチジの下に住む住人達からの希望であったと書かれています。いくら世之主様のお墓とはいえ、丘の上から伝ってくる水を飲料水にするわけだから、不衛生であるのでお墓を移動して欲しいと琉球王に訴えて、沖縄から屈指の石工が派遣されウファを築造したという話です。(詳細はVol.225参照)住民たちが『不衛生』だと訴えていることが、お墓について詳しく知るポイントのようで何か気になります。飲料水はウファチジの北側に湧き出ていたヤシ川というところの水だったそうです。このお墓に安置されていたのが洗骨後の遺骨であったのなら、それは時代的に厨子甕ではなく板厨子といういわゆる木棺に収められていたと思いますが、前回も書きましたが、それを納める場所がウファ...Vol.381お墓の歴史:ウファに移ったときの話

  • Vol.380 お墓の歴史:世之主の最初のお墓について

    ご先祖様が眠る島のお墓の風習についてVol.377、378、379で書きましたが、1400年初頭に自害したと伝わる世之主の最初のお墓について、この風習を当てはめて考えてみました。まず、現在の世之主のお墓はウファと呼ばれる琉球式のお墓で、遺骨は納骨堂の厨子甕の中にあります。遺骨は洗骨を経て厨子甕に収められていると思われますので、世之主が亡くなった1400年代当時には洗骨の風習があった可能性があります。この世之主のお墓ですが、現在のウファに移る前は世之主神社(城跡)のすぐ東側にある小高い丘、ウファチジと呼ばれる場所が最初のお墓であったといいます。この丘は、頂上に登るにはかなり傾斜のきついところを歩いていかなければなりません。こんなところに亡くなった方のご遺体を下から運んだのか?と思えるような場所です。さらに、...Vol.380お墓の歴史:世之主の最初のお墓について

  • Vol.379 お墓の歴史:洗骨による改葬

    まことに不思議な風習なのですが、ご先祖さまが住んだ沖永良部島には風葬の後に洗骨による改葬というものがありました。もちろん現在ではもう行われていない風習ですが、昭和の初めころまではこの洗骨は行われていたといいます。その洗骨ですが、これはどういうことかというと、この島では琉球文化の中で人が亡くなるとそのご遺体は喪屋もしくは洞窟で風葬にしていたということは前回書きましたが、亡くなった方を弔う儀式はまだ続きがあったのです。叔父や叔母の話では、明治以降は風葬ではなく土葬ですが、土葬をして3年ほどすると(おそらく3年忌あたり)に、その土葬したご遺体を掘りおこすのです。家によっては7年後だったりしたそうです。当家のチュラドゥールのお墓の場合は、大和式の墓石のすぐ後ろの地面に土葬をしていたそうです。ご遺体を入れておいた棺...Vol.379お墓の歴史:洗骨による改葬

  • Vol.378 お墓の歴史:風葬の中でのお別れの儀式

    島で亡くなった人々の風葬をするとき、洞窟を利用しなかった場合はモーヤという小さな藁葺小屋を建てて、そこにお棺を置いて風葬をしていたことは前回書きましたが、亡くなった方とのお別れの儀式が終わり風葬が始まっても、それはまだ死者との完全なお別れではなかったようです。初七日頃までは毎日墓参りに出かけ、棺の蓋を開け中の屍体をのぞきながら女性達が慟哭する習わしがあったというのです。その墓参りの状況としては、以下のようであったそうです。死後日がたつにつれ、身の毛もよだつほどの悪臭と妖気を、あたりに漂わせていた。棺の近くで咳ばらいをして、死者の名前を読んだり話しかけたりすれば、死者の霊魂はこれに感応し大きな臭気は消え失せ、微かな匂いを感じさせるだけになった。棺の前で死者の生存中の模様を泣きながら語りかけると、死者の霊魂は...Vol.378お墓の歴史:風葬の中でのお別れの儀式

  • Vol.377 お墓の歴史:風葬のためのモーヤ

    島のご先祖様が眠るお墓は、本土のお墓とは違い琉球式です。1609年に薩摩が島を統治して以降は大和式の文化も入ってきて、1700年代あたりからは大和式の墓石を建立するようになっていきますが、納骨については風葬の文化から別に設けた納骨堂に厨子甕に入れて置いたり、厨子甕にお骨を入れて墓石の後ろに穴を掘って三分の一ほど地面から出して埋めるといった方法でした。大和式の墓石をもたない場合は古くから利用していたスタイルで、自然に出来た洞窟を利用したり、森の中に珊瑚の石を積み重ね周りを低い石垣で囲ったりした場所に納骨をしていたようです。この風葬の文化ですが、これがいつの時代から始まったことなのかははっきりとは分からないようですが、その文化に終わりがきたのは明治11年に警察から風葬の禁止令が出された時です。しかし実際には明...Vol.377お墓の歴史:風葬のためのモーヤ

  • Vol.376 世之主の墓(ウファ)の新情報がありました

    古い本を読んでいると、これまで知らなかった新しい情報を見つける機会が多くあります。先日読んだ本は、昭和12年に沖永良部島を探訪された野間吉夫氏の「沖永良部島採訪記」(昭和17年出版)という、当時の島の様子を詳細に記録された貴重な内容でした。その中に、島の世之主の墓(ウファ)を訪問された記録がありました。ウファに案内してくれたのは、宗佐久平という墓守をしている人だと書かれています。この佐久平はお爺さまの父親になる人で1867年生まれ。野間氏を墓に案内した時には70歳でしたが、まだまだ元気いっぱいに活動していたのだと思われます。この時に、野間氏は本家の10代目当主の武重の家も訪問されています。家宝の支那から渡った唐時代の焼き物を見せてもらったとありますから、現在保管されている品々、もしかしたらそれ以上に残され...Vol.376世之主の墓(ウファ)の新情報がありました

  • Vol.375 義本王の墓と伝わる場所の海岸には ⑤交易商人がいたのか

    琉球の中山国の王であった察度が1377年に明国との冊封体制の中で硫黄を献上したのが記録上での硫黄献上の始まりのようですが、その後に北山及び南山も明に使節を送り、中山・南山・北山の王として冊封されて硫黄を献上しています。ここで以前から私が不思議に思っていたことがあるのです。この献上していた硫黄はいったい誰のものであったのか。硫黄はもちろん硫黄鳥島からのものであるとして、その硫黄鳥島の権利は誰にあったのかということです。最初に硫黄を献上したのが中山王であったので、硫黄鳥島は中山の物であったのか。しかし島との距離を考えると北山が近いし、でも南山王も献上している。では仮に中山王の所有だったとして、北山や南山は中山王から硫黄を購入して献上していたのか?この時代までは琉球も戦国時代で、三山はあまり仲良しの国同士ではな...Vol.375義本王の墓と伝わる場所の海岸には⑤交易商人がいたのか

  • Vol.374 義本王の墓と伝わる場所の海岸には ④亜蘭匏 が再浮上

    琉球人の才孤那達が硫黄の採掘のために出発したという「河蘭埠」という場所。ここが沖永良部島ではないかという仮説をしていらっしゃる研究家の方々もいらっしゃいます。河の文字は阿の誤りで、阿は伊や永の訛りであり、伊蘭埠もしくは永蘭埠。琉球国の島々の中に、音が近い島としては宮古諸島の「伊良部(いらぶ)」島がありますが、島の場所から考えると沖永良部島の方が有力に思えます。埠の文字は埠頭の意味で交易の港を表しているのでしょうから、その島全体が交易の島として認知されていたのかもしれません。河の文字が阿の誤りで「阿蘭埠」が正しければ、阿蘭はオランダをも意味するのか。長崎県の平戸市は、江戸時代にはオランダ商館があった場所。そこの付近を流れる川は寛政4(1792)年の『平戸六町図』には、「阿蘭川」と記載されているのだそうです。...Vol.374義本王の墓と伝わる場所の海岸には④亜蘭匏が再浮上

  • Vol.373 義本王の墓と伝わる場所の海岸には ③硫黄なのでは

    伊座敷泊の海岸の崖にある不思議なまるで倉庫のような場所。ここがかつての交易の港であったという話や、海に面した保管庫であることを考えると、ここに保管されていたのは硫黄であったのではないでしょうか。硫黄であれば、完全に雨風がしのげる屋内でなくても保管が可能であったと思うのです。しかも重い硫黄を船から荷揚げして陸内の倉庫に運び込むというのは、当時の労力で考えれば大変な作業。この海岸の、もしかしたら船から直接運び込めたかもしれないこの崖の倉庫であれば、保管作業が安易であったでしょう。そしてまた必要な分を船でその地まで運ぶことを考えても利便性が良い場所だったのではないかと思うのです。硫黄は当初は現物をそのまま朝貢していたようですが、17世紀後半頃には不純物を取り除いて餅状に加工して貢納していたようです。この加工の作...Vol.373義本王の墓と伝わる場所の海岸には③硫黄なのでは

  • Vol.372 義本王の墓と伝わる場所の海岸には ②不思議な岩穴が

    義本王の墓と伝わる海岸には、崖に不思議な穴があります。海辺の崖に綺麗に長方形にくり抜かれたような穴があるのです。砂浜からも崖に長方形の穴がいくつか見えます。海辺の岩場を海岸線に沿って歩くと、この長方形の穴に辿り着きます。ここから見ても、この穴は自然にできたものではないことが分かりますね。中も綺麗に長方形にくり抜いてあります。もっと近くで見るとこんな穴です。わりと奥まであります。しかも1つだけではないのです。複数個あります。全部同じような形で奥までくり抜かれていて、下の高さは同じです。何かに使った穴のようです。海側からの空撮です。潮が引いてる時は穴の下は岩場が出てきて砂浜から歩いて来れます。満潮時に海側からの空撮。美しい海が広がっていますね。そして崖の四角い穴の真下には海水が広がっています。この穴、古代の人...Vol.372義本王の墓と伝わる場所の海岸には②不思議な岩穴が

  • Vol.371 義本王の墓と伝わる場所の海岸には ①義本王の墓

    Vol.71の記事で、琉球の舜天王統の三代目(最後)の王であった義本王のお墓が、沖永良部のワンジョビーチ付近の海岸にあると伝承されている話を書きました。その義本王のお墓ですが、資料にあった場所を島の協力者の方が散策してくださいました。この海岸は伊座敷泊という名がついているようで、地元ではイジャシチの浜と呼ばれているそうです。お墓の場所は地図で見ると青丸の個所あたりになるようです。遠目で見ると洞窟のような感じです。近づいてみると、そこは岩の割れ目で通り抜けできます。そして割れ目の真ん中に見えている岩、これがお墓なの?もともとあった岩なのか?それとも誰かが置いた岩なのか?はっきり分かりませんが、石の真ん中が空洞になっています。そういえば、島の豪族で倭寇であったとも伝わる後蘭孫八の城後にある孫八のお墓という場所...Vol.371義本王の墓と伝わる場所の海岸には①義本王の墓

  • Vol.370 親戚とのつながりの中で

    今夜はとても嬉しいことがありました。当家の屋号上花城の2代目である池悦が、隠居して佐久間という場所に移って暮らしていた時にできた子供たちの子孫になるSさんとお電話でお話をすることができたのです。池悦は1698年生まれのご先祖さまですので、約330年ほどの時を経た親族との再会となったわけです。Sさんとの出会いは、当家と養子や婚姻などで親戚関係になるO家の方の紹介でした。O家の方とも別の親族からの紹介での出会いです。こうしてご先祖調査をやっていると、親族や関係者からのご紹介で、どんどん出会いが増えて親戚の繋がりが広がっております。本当に有難く嬉しいです。Sさんのお宅も当家と同じ宗家です。分家になられて以降は、本拠地の内城から出て仁志という地区で暮らしていらしたそうです。もちろん世之主の子孫であることなどは代々...Vol.370親戚とのつながりの中で

  • Vol.369 琉球辞令書の「任ズ」と「遷任セシム」⑤

    以下の沖永良部島に関係のあった人物たちについては、琉球の系図座に家譜が存在していたかどうかの確認ができなかったもの、またそもそも系図座には家譜はなかったものについて、別の資料から確認してみました。④1607年与那覇系譜伝是歳、琉球国中山王尚寧、池康村ヲ沖永良部島伊良部文子ニ任ズ南島風土記:沖縄・奄美大島地名辞典(1964年東恩納寛惇著)の中に、与那覇系譜伝「康村、嘉靖三十五年生、萬暦三十五年丁未伊良部文子、室大島按女思玉」とあります。この内容から、康村は1556年生まれで1607年に51歳で沖永良部島の文子になっています。妻は奄美大島の按司の娘だったということ。記録が無いので分かりませんが、与那覇系譜伝とのことですので沖永良部の人ではない可能性が高いですが、奄美大島の按司の娘と結婚しているところを見れば、...Vol.369琉球辞令書の「任ズ」と「遷任セシム」⑤

  • Vol.368 琉球辞令書の「任ズ」と「遷任セシム」④

    次に確認してみたのは、榮家の家譜です。②1568年榮姓世系図是歳、琉球国中山王尚元、榮吉久ヲ沖永良部島首里大屋子ニ任ズ、榮吉久、沖永良部島二渡ル系図には榮吉久はこの家の一世となっており、父母は何人が分からないと書かれています。童名は思次郎、唐名は榮春昌で生年月日は不詳。しかし1580年に赴任先の沖永良部島で44歳で他界したとありますので、1536年生まれであったことが分かります。沖永良部島に首里之大屋子として渡ったのは1568年で、吉久が32歳の時です。44歳で他界ですから島には12年間滞在していたことになりますが、その期間ずっと首里之大屋子としての役職にあったのかは分かりません。というのも、前回の記事で書いた容義貫という方が、榮吉久が沖永良部島に滞在中の1575年に沖永良部島の役人に任じられています。容...Vol.368琉球辞令書の「任ズ」と「遷任セシム」④

  • Vol.367 琉球辞令書の「任ズ」と「遷任セシム」③

    沖永良部島についての記述がある家譜について、実際に書かれてる内容を確認してみました。まずは容家の家譜からです。①1558年容家家譜是歳ノ頃、琉球国中山王尚元、沖永良部島首里大屋子〇姓名不詳を任ズ容家の記録は、琉球時代の沖永良部島の支配者であった首里大屋子と呼ばれる人物について書かれた、一番古い記録になります。家譜の内容を確認してみると、1558年頃に首里の大屋子に任じられたのは、容家の人物ではありませんでした。なんと、それは容家の一世になる義貫の妻であった真鶴が、永良部首里大屋子の娘であったのです。1558年のところに記載されているのは、長男がこの年に生まれているので、その頃に結婚しており、その時期あたりに妻の真鶴の父親が永良部首里大屋子であったという意味のようです。義貫は1540年生まれで、彼が18歳の...Vol.367琉球辞令書の「任ズ」と「遷任セシム」③

  • Vol.366 琉球辞令書の「任ズ」と「遷任セシム」②

    奄美諸島編年史料に「沖永良部島」という文字がダイレクトに書かれている文書は7つありました。年代の古い物から挙げていくと以下のようになります。①1558年容家家譜是歳ノ頃、琉球国中山王尚元、沖永良部島首里大屋子〇姓名不詳を任ズ②1568年榮姓世系図是歳、琉球国中山王尚元、榮吉久ヲ沖永良部島首里大屋子ニ任ズ、榮吉久、沖永良部島二渡ル③1575年容姓家譜是歳、琉球国中山王尚永、容義貫ヲ沖永良部島ノ役人ニ任ズ④1607年与那覇系譜伝是歳、琉球国中山王尚寧、池康村ヲ沖永良部島伊良部文子ニ任ズ⑤1608年寶満家系図二月ヨリ後、琉球国中山王尚寧、沖永良部島ノ大屋子思鎌戸ニ徳之島ヲ差引セシム⑥1609年姚姓又吉氏系譜二月ヨリ先、琉球国中山王、姚某〇名不詳ヲ沖永良部島地頭職ニ任ズト傅フ⑦1609年要家文書琉球国中山王、次郎...Vol.366琉球辞令書の「任ズ」と「遷任セシム」②

  • Vol.365 琉球辞令書の「任ズ」と「遷任セシム」①

    1500年代~1609年までの琉球王国による奄美地方の統治は、第二尚氏3代目尚真王の時から本格化し、琉球本土から統治者が派遣されたり、島の有力者が統治者として任命されたりしたようですが、その時代の沖永良部島の統治者はいったい誰だったのか?正式に記録された文書は島には存在せず、唯一確認できるのが世之主の母方の家と伝わる要家の文書です。その文書には、「直城の大屋次郎かね」や「永良部のよひと」といったキーワードが書かれており、この人物が琉球時代の最後の大屋子であり、薩摩の統治における初の与人であった可能性が高いのです。他に記録があるのは、琉球で作成された家譜です。1698年の第11代尚貞王の時代に王府に系図座という機関が設置され、主に士族の管理を目的として、士族の各家がご先祖を遡って記録し、その家譜が認められれ...Vol.365琉球辞令書の「任ズ」と「遷任セシム」①

  • Vol.364 当主の代数が違うのです

    大変に興味深い情報が入りました。現在の宗の本家の叔父は、記録のある初代中城から12代目の当主になるのですが、これが17代目になるはずだというのです。昔に本家で一緒に生活をしていた一族の方が、当時10代目となる祖父から聞いたのだそうです。「自分は15代目になるから覚えておきなさい」と。これは記録上の当主の代数が5世代多いことになるのです。いったいどういうことなのか?記録があるご先祖様達の間に、実は5世代が抜けているのか?いや、それはあり得ないと思われます。ではそうなれば、初代中城より上の世代が5世代あったということか???思い出しました。お爺様の記録の中に、5世代の名前が書いてあったことを!宗重→思松金→首里主思鎌戸→池城→朝秀→中城(記録上の始祖)赤字の方が5名。この方々の確証が取れないので、ずっと保留に...Vol.364当主の代数が違うのです

  • Vol.363 自然災害:世之主の墓(ウファ)

    世之主の墓(ウファ)の納骨堂の右側上部の石積みが、2022年2月に崩落したことはVol.191で書きましたが、このお墓は以前にも自然災害に見舞われたようです。沖永良部台風災害誌の1977(昭和52)年の記録に、そのことが書かれていました。この時は台風による被害だったようで、納骨堂の木製の扉だと思うのですが、これが全壊、そして石垣の一部が損壊とあります。このお墓、伝承によれば1400年代の建築、近年の調査によれば1600年代後期あたりの建築ということで、少なくとも400年以上は経過しているお墓です。台風の通り道でもある島ですので、これまでの数百年間の間にも記録が無いだけで沢山の被害を受けてきたのではないかと推測されます。その1つが、和泊町の老人クラブが発行した「むんがたい」という伝承をまとめた本に書かれてい...Vol.363自然災害:世之主の墓(ウファ)

  • Vol.363 自然災害:世之主の城跡(世之主神社)

    6月に奄美地方を襲った線状降水帯の影響か、世之主神社の一の郭の斜面が崩落していました。斜面がえぐられたように崩れています。悲しい気持ちになります。崩落した場所は、参道階段の東側ですね。階段は今年の3月に出来上がったばかりだったので、そちらに影響がなくて良かったですが、地盤が緩んでいるでしょうから、また雨が強烈に降ると他の場所も崩落の危険があるでしょう。神社の外周りの西側の県道に沿った斜面も、少し崩れているようです。昭和から平成の時代にかけて、神社周辺の道が何度か整備されたのは、このような崩落が原因だったりとか、事前に危険を回避するための対策であったりしたのかもしれません。土地開発によって歴史的な場所の地形が変わってしまうケースがありますが、こうした自然災害や事前対策によって地形が変わってしまうケースもある...Vol.363自然災害:世之主の城跡(世之主神社)

  • Vol.362 またまたとても嬉しい出会いが!

    7月15日(土)、またまた嬉しい出会いがありました!ご先祖調査をしていると、色んな方々との出会いがあります。昨日は奈良県のライブハウスで、沖永良部出身の歌手である大山百合香さんのlliveがありました。もうずっと何年もライブハウスなど無縁だった私ですが、友人からの知らせで百合香さんのことを知り、透き通るような青い空と海を連想させる歌声に親子で魅了され、友人と娘ちゃんの3人でliveにGoGo!娘ちゃんは所用で帰宅が遅かったので開始時間には間に合わずでしたが、何とかアンコールには間に合い、念願の歌声を生で聴けて大感激。私も歌を練習してみたい、、、などと刺激を受けておりました。liveは一部と二部に分かれていて間に休憩があったので、少しお話させてもらいました。とても気さくで優しい雰囲気に包まれた方で、ますます...Vol.362またまたとても嬉しい出会いが!

  • Vol.361 とても嬉しい出会いが!

    ここのところずっと多忙な日々を過ごしておりますが、そんな中に1通の素敵なメールが届きました。なんとなんと、お爺様のご兄弟の子孫の方からのご連絡だったのです!お爺さまには兄が三人と妹が一人いましたが、消息が分かっているのは、三男と妹さんのご家族だけでした。どちらのお宅も、世之主の子孫の家であるなど宗家のご先祖様については、少しは話をご存知ではありましたが、長男と次男の家に関しては全く情報もなく、子孫の方々がどこにいらっしゃるのかも不明だったのです。先日の義父の葬儀の時には、義母の兄弟姉妹も参列してくださり、その際に先祖の話になり、ちょうど消息の分からない長男と次男の家のことが話題に出ておりました。そんな中でのご長男家の子孫の方からのご連絡は、大変嬉しいことでした。まだまだ詳しいお話はできていませんが、一番嬉...Vol.361とても嬉しい出会いが!

  • Vol.360 エラブのユリの花が教えてくれたこと

    ボーっとした週末を迎えました。ずっと闘病中だった義父が6月27日、86歳で永眠しました。去年から肺癌で緩和ケア病棟での入院生活が始まり、家族が一丸となって義父の入院生活をサポートしてきました。一時は誤診ではないか?と思えるほどに食欲旺盛で元気な様子を見せ、このまま退院できるのではないかというような様子でしたが、やはり癌の威力には勝てませんでした。義父の癌は、肺の中で菌が飛び散るという珍しいタイプの症状だったそうです。高齢でもあり治療の施しようがないそうで、痛みや息苦しさを抑えるようなケアが約九ケ月続きました。義父はとても我慢強い人で、殆ど痛みを訴えることなく過ごしていましたが、最後の最後はもう限界だったようです。苦しそうな様子が伺え、見ている家族も本当に辛い気持ちになりました。最期は本人が「もう終わりにし...Vol.360エラブのユリの花が教えてくれたこと

  • Vol.359 泉川古墳群:4号墓のこと

    泉川古墳群の谷の方にあるお墓の中で一番目を引いたのは、この4号墓と呼ばれるお墓でした。他の7号と8号のお墓と同様に、石灰岩の壁面の洞窟を納骨堂として使っているお墓で、入口はブロックで塞がれていますが、このお墓には2つ特徴がありました。まずお墓の前面に広い空間があり広場になっている点です。写真では伝わりにくいですが、けっこう広い空間があります。木々の隙間から太陽の光が差し込み、美しい新緑に囲まれ、小鳥がさえずり、とても不思議な安らぎを感じる空間です。お墓の前とは思えない、安らぎと不思議なパワーを感じる場所なのです。この広場は、戦時中は野戦病院として使われており、当時はこのような洞窟のお墓(トゥール墓)は防空壕としても使われていたといいます。中のお骨をよけて避難していたそうです。そしてこのお墓の周りには畑もあ...Vol.359泉川古墳群:4号墓のこと

  • Vol.358 泉川古墳群:9号墓のこと

    泉川古墳群の中にある世之主の墓(ウファ)や当家のご先祖様が眠っているチュラドゥール、付近にある3号墓などは、崖に自然に出来た洞窟や人の手によって削って作った洞窟を納骨堂や風葬としてそのまま利用していたお墓とは違い、石工によって石を綺麗に積み上げて門や石垣などを作った少し豪華な作りのお墓です。当時の島の支配層や有力者の家にこのタイプのお墓が多いようです。そしてこの古墳群のエリアの中に、もう1つ9号墓と呼ばれるお墓が、近年発見されていました。まるで森の仙人が住んでいる家のようで、上部は三角の屋根のように見える地形で、家の入口の扉が開いているように見えます。お墓だと知らなかったら、訪ねて行きそうになる雰囲気がありますもう少し近づいてみると、三角屋根がはっきり分かりますが、屋根は自然に出来た地形です。このお墓も納...Vol.358泉川古墳群:9号墓のこと

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