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琉球史と絡む先祖調査の記録です https://blog.goo.ne.jp/yononushi

琉球が三山時代であった北山王の次男と言われる沖永良部の島主「世之主」 当家のご先祖様であるという伝承をもとに、ご先祖調査をしており、その内容をブログに記録しています。

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2021/02/12

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  •  Vol.436 宗家コレクション(9) 吹き矢

    Vol.436 宗家コレクション(9) 吹き矢

    少し前のことですが、珍しいものが見つかりました。沖永良部島に在住の本家の叔父は、島の子供たちに昔遊びを教えるボランティア活動をしているのですが、その活動の中で自分が子供の頃に遊んでいたある道具を思い出したのだそうです。それは「吹き矢」です。しかしそれは叔父の手元には保管されておらず、親戚の家に保管されていることを確認し今回の登場となりました。物干竿のような2本の棒ですが、この吹き筒は結構な長さがあります。2本の接続箇所が壊れていたため叔父が手直しをして繋ぎ、出来上がったのがこちらです。随分と長い筒です。長い吹き筒を使用すれば高い命中精度が期待できるということですから、そのために長く作られていたのでしょう。矢と吹き口は手作りで再現です。まず矢を筒に入れます。矢を入れたら吹き口を筒の中に差し込みます。吹き口を...Vol.436宗家コレクション(9)吹き矢

  •  Vol.435 宗家一族の繋がりを見てきたところで

    Vol.435 宗家一族の繋がりを見てきたところで

    Vol.423から10回に分けてお爺さまが記録していた1600年代以降の宗家一族について書きましたが、2つの疑問が湧いてきました。1つは目は薩摩系の家が内城村に居住していたことについてです。お爺さまが書いていた一族の系譜の記録は時代が1600年以降ということで、島の歴史は薩摩の世です。宗の本家から分家した家、婚姻や養子で親戚関係になった家もありますが、ご先祖様が代々居住していた内城村には薩摩系と思われる名字の家もありました。琉球の時代には世之主の居城があった内城村は政治の中心地で、世之主の一族やそこに仕えていた家臣の屋敷などもこの内城地区に多くあったと思うのですが、薩摩の時代になって以降の政治の中心地は和泊村です。昔の内城村は山深い場所で生活の利便性もさほど良くはなかったようですが、そんな場所で薩摩系の家...Vol.435宗家一族の繋がりを見てきたところで

  • お知らせ:ブログの引っ越し予定について

    お知らせ:ブログの引っ越し予定について

    こちらのgooblogさんですが、2025年11月18日でサービスが終了するということで、記事の投稿も10月1日が最後になるそうです。沖永良部島の先祖調査を始めてから、その過程で知ったこと分かったことなど色々投稿してきました。ブログの開設から今日で1545日で、もう4年ほど記事を書いております。小さな南の島のご先祖探しの記録ですが、思いのほか沢山の方にご訪問頂き、閲覧数は30万件を超え、訪問者の方も20万件ほどです。沢山の情報を頂き、そして沢山の方々とお知り合いになってきました。有難いブログ様です。もう4年もやってたらそろそろ先祖のことも分かったんじゃ?と思われるかもしれませんが、なんせ合間の時間での調査。そして謎多きご先祖さまはそう簡単には姿を現してくださいません。まだまだボチボチですが調査と記録は続く...お知らせ:ブログの引っ越し予定について

  •  Vol.434 宗家一族の繋がり⑩46~51

    Vol.434 宗家一族の繋がり⑩46~51

    46.村吉(佐江村屋)村吉家の始まりは不明です。お爺さまの記録では、佐江村という人物が始祖で、幕末頃に生きた人物です。お爺様の曽祖父になる佐久田(1839年生まれ)の妹であった乙が佐江村に嫁いでいます。①佐江村→②佐江利→③佐江綱→その後は不明始祖の佐江村には佐江利の他に佐江秋、佐江流、佐江春、マスの4名の子供がいました。男子はそれぞれ分家したようです。47.村吉(佐江秋屋)46番の佐江村の次男であった佐江秋の家佐江村→①佐江秋→②ウト→③ミサエ→現在に続く佐江秋の妻の名ははヲシとありますが詳細は不明。娘のウトしかおらず、ウトは栄寿伯との間にミサエとミドリという娘がいましたが、ミサエが佐江村屋を継いでいます。48.村吉(佐江流屋)46番の佐江村の三男であった佐江流の家佐江流の妻はチヨとありますが、それ以外...Vol.434宗家一族の繋がり⑩46~51

  •  Vol.433 宗家一族の繋がり⑨41~45

    Vol.433 宗家一族の繋がり⑨41~45

    連載しております宗家一族の繋がりをご覧になった関係者の方から、新たな情報を頂いたりしております。宗家の歴史を探る上でも貴重な情報を頂いており、大変有難いです。シェアできる情報は、また別記事でまとめて書いていくようにします。41.橋口(出城)豊山家からの別れの家琉球式のお墓であるチュラドゥール中央から東側は豊山家一族の墓石が建っていますが、その中に橋口家もあります。以前に橋口家の奥様にお話を伺ったことがありますが、明治の頃に出城(小字名)を出て現在のお住まいに移住されたときに、橋の入り口に住んだので名字を橋口としたということでした。宗家と直接的な繋がりは見つけることはできませんでしたが、橋口家のご先祖様であり始祖である豊嶺の妻は宗家の娘でしたから、昔から婚姻関係では繋がっている家になります。①豊光→②梅→③...Vol.433宗家一族の繋がり⑨41~45

  •  Vol.432 宗家一族の繋がり⑧36~40

    Vol.432 宗家一族の繋がり⑧36~40

    体調不良で長らくご無沙汰しておりました。やっと復活しましたので、続きを書いていきたいと思います。36.桂(屋号不明)35番の弟の家35番の桂民二の弟である桂久保が始祖となる家である。桂久保には嫡子であった久敏、久勝、ヨシ、ツルと4名の子供がいたようです。ヨシは江夏家へ嫁にいったようです。その後の子孫いついては、詳細な情報は記載されていません。37.白川・陽(当の屋)もともとは陽(ミナミ)家で、改姓して白川となる陽家は琉球王子と島の女性との間にできた男児が始祖となる家だと伝わっています。昭和初期頃に白川に改姓されていますが、陽姓のままの家も残っています。お爺さまの書には1800年代の生まれの人物から記録がありました。①清澄→②清賢→③清保→④清賢(この4代目の時に白川に改姓)②清賢の妻は宗の本家8代目善保の...Vol.432宗家一族の繋がり⑧36~40

  •  Vol.431 宗家一族の繋がり⑦31~35

    Vol.431 宗家一族の繋がり⑦31~35

    31.武宮(屋号不明)29番と30番の兄弟の家宗の本家から分かれた武宮家の初代である平安禮には、男子の子供が3名いたようで、こちらは3男であった惟明の家です。惟明の娘は、宗の本家の嫁となっています。惟明→英夫→子孫不明お爺さまの記録が無く、子孫の方が現代に続いているかは不明です。29番~31番の武宮家の始祖となる平安禮の息子2人には、和泊町誌によればこのようなエピソードがありました。慶應3年(1867年)に内城と玉城の間の川に自費を投じて石橋かける。内城の横目:宗悦(本城家)、掟:平安明(平安禮の長男)とその弟である平安良(平安禮の次男)、和村の掟:玖米統(前家)。雨が降ると川の水量があがり、内城と玉城間の行き来ができなくなり困っていたため、宗家一族の家が自費を投じて川に石橋をかけて人々の生活を便利にした...Vol.431宗家一族の繋がり⑦31~35

  •  Vol.430 宗家一族の繋がり⑥26~30

    Vol.430 宗家一族の繋がり⑥26~30

    昨年書いたVol.426の20番のクンバテヤですが、その後の子孫の方々の消息が不明でしたが、一族の方から嬉しい知らせがあり、現在も子孫の方々は島外ですが元気に暮らしておられるという情報を頂きました。今回も一族情報の続きです。26.本城(平安功屋)6番本城家の5代目平安功の三男であった宗徳の家系平安功が1800年代の人物であるので、江戸後期あたりに分家した家である。内城の小字である中村の本城家の本家から片平山に分家して屋敷があったようです。平安功→①宗徳→②宗安→③宗佳→④宗善→・・・現代に続く27.本城(片平山)26番の宗徳の長兄であった宗佑熹弟の宗徳と共に本家から分家して片平山に屋敷を移したようである。長男であるが分家するというのは、やはり島の風習だったようですね。宗佑熹の妻は為冝志の妹の兼という娘だっ...Vol.430宗家一族の繋がり⑥26~30

  •  Vol.429 宗家一族の繋がり⑤21~25

    Vol.429 宗家一族の繋がり⑤21~25

    新年早々から嬉しいことがありました。お爺様の上花城から別れた一族の方からのご連絡でした。このブログを読んでくださり、離ればなれになっていた一族の方々からご連絡を頂けることは、本当に嬉しいことです。ことし1年も先祖探しの活動が実りあることを願って活動していきたいと思います。昨年に続き、一族の紹介です。21.桂(東宗:アガリゾ)宗の本家8代目平安頴善保の弟である長庵の家系兄である平安統善保が1815年生まれですので、弟である長庵はそれ以降の生まれです。①長庵→②久勝→③久保→④忠博→・・・現代に続く長庵は薩摩の島津家の分家に当たる桂民右衛門という人物の家に養子に入って桂家を継いでいます。その成り行きには、こういったエピソードがありました。桂民右衛門が島津公の命を受けて琉球に向かっている際に、船上で病気になって...Vol.429宗家一族の繋がり⑤21~25

  • Vol.428 新年のご挨拶と、、、②

    Vol.428 新年のご挨拶と、、、②

    前回は新年のご挨拶とともに、急な3号墓の墓石の話になってしまいましたが、その続きを少し書きたいと思います。これが3号墓で、両サイドに大和式の墓石があります。正面右側の墓石に掘られているかもしれない「上嘉鉄西〇居」の文字。喜界島の南西部に上嘉鉄(かみかてつ)という集落があることが分かりましたが、小字名でマチィチャ・ウックダ・ウフドゥンムの付近一帯に大量の土器や石器の破片が出土したことがあったようです。縄文晩期の遺跡であったようです。このように2300年~3000年ほど前から集落があった場所ですが、この集落の1つには上嘉鉄西と呼ばれる場所があるようです。墓石の文字が「上嘉鉄西〇居」であったとしたら、この喜界島の上嘉鉄西の集落の人物であったのか?小字名のマチィチャも気になる言葉です。沖永良部の世之主はマチジョ(...Vol.428新年のご挨拶と、、、②

  •  Vol.427 新年のご挨拶と、、、①

    Vol.427 新年のご挨拶と、、、①

    新年あけましておめでとうございます。日頃からこのブログを読んでくださっている皆様、いつもコメントや情報を送ってくださる皆様、大変有難く感謝しております。本業の仕事の方が多忙になっており、思うように調査が進まず発信の方もボチボチといったところですが、今年も少しずつ記録していきたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願い致します。ただいまちょうどブログでは宗家一族の繋がりを連載しているところでしたが、今回は新年のご挨拶と、昨日でしたか急に飛び込んできたX(旧Twitter)での「いいね!」のことを少し書きます。ちょうど先祖調査をスタートさせてブログを書き始めた3年ほど前のことなのですが、お爺さまの系統である屋号上花城のお墓があるチュラドゥールのすぐ西側に、3号墓と呼ばれる(本当の墓名ではなく歴史調査用につけ...Vol.427新年のご挨拶と、、、①

  • Vol.426 宗家一族の繋がり④16~20

    Vol.426 宗家一族の繋がり④16~20

    16.竹(屋号不明)1774年に与人をしていた玉江原の家系手々知名に居住していた家系のようです。①玉江原(お爺さまの記録では玉江春)→②夏再志→③玉江川→④名前不明お爺さまの記録には、この家から宗の本家に嫁いできた嫁の名前がありました。②夏再志の娘の宇志は宗の本家7代目である平安統惟雄の妻③玉江川の娘の真須は宗の本家8代目である平安頴善保の妻④の娘である宇志は宗の本家9代目である宗善寛の妻このように3代続けて竹家の娘が嫁いでいます。琉球からやってきた一族なのか薩摩系なのかは不明ですが、3代も続けて嫁をもらっているので、与人仲間なのか何か親密な付き合いや関係があったのだと思います。17.宗(西宗:イヒゾ)宗の本家からの分家の家宗の本家の4代目である平安統惟貞(示現流の人)の子供が分家した家です。昔は短命の家...Vol.426宗家一族の繋がり④16~20

  • Vol.425 宗家一族の繋がり③11~15

    Vol.425 宗家一族の繋がり③11~15

    11.宗(佐久間)5番の屋号である上花城の2代目の子孫上花城の2代目であった池悦が隠居して、内城の佐久間と呼ばれた場所(小字では川根あたりと推測される)に住んでいたそうです。その時にできた子供が屋号佐久間の始祖です。①池悦(1968年生まれ)→②名は不明→③名は不明→④生悦→⑤佐久行→⑥佐久行→⑦池悦→⑧テツ→⑨利武→・・・・・④生悦の妻は乙。⑤佐久行の妻は宇志。⑥佐久行の妻はトミ。弟は池悦。⑦池悦の妻はツル。弟は利明。⑧テツの夫は沖家からだったようです。⑨利武の妻はハツ。12.陽(シャビント)具永久を始祖とする琉球王子と島の女性との子孫といわれている家柄陽と書いてミナミと読みます。この陽家の始祖は具永久という人物で、薩摩統治時代に与人をしていたようで、1711年頃にその名が見えます。琉球王子と屋者の島家...Vol.425宗家一族の繋がり③11~15

  •  Vol.424 宗家一族の繋がり②7~10

    Vol.424 宗家一族の繋がり②7~10

    前回に続き一族の記録の紹介です。7.前(メース)1700年代前半に和集落に居住で与人をしていた久米村の家系宗家の記録上の始祖である中城と同じ世代に久米村という人物がいて、3代続けて久米村の名前があります。3代目の久米村に、当家2代目の池久保の三女の宇志が久米村に嫁いでいます。3代目の久米村の姉か妹であった思田兼は、本城家の始祖になる朝登の妻です。名前が久米村ということは、琉球の久米村からやってきた人物であると思われます。この時代に琉球から沖永良部島に役人としてやってきていた可能性がありますね。8.町田(中城:ナカスク)代官附役町田勘左衛門實利と島妻の子孫となる家町田家がある手々知名の字誌によれば、町田家は沖永良部島に代官附役としてやってきた町田勘左衛門實利の子孫であるということですが、町田姓で薩摩から島に...Vol.424宗家一族の繋がり②7~10

  • Vol.423 宗家一族の繋がり①1~6

    Vol.423 宗家一族の繋がり①1~6

    沖永良部島のご先祖調査のこと、島の歴史などを多岐に渡って書いているこのブログですが、読んでくださった方の中には当家と繋がる縁者の方もいらして、直接ご連絡を頂くことがあります。その中には先祖から宗家とは親戚と聞いているけど、どこでどう繋がっているのか分からないといわれる方もおられます。長い歴史の中で、宗家の分家筋、婚姻によってできた親戚、養子に行った先など様々で、お爺さまの記録には膨大な家と人々の記録があります。お爺さまが調査をされていた昭和初期頃の記録として、500名近い人物の名前が書かれていますが、まぁ何といいますか全部整理されて書いてあるわけではなく、閲覧や関係を理解するのが非常に困難な状況です。私にはこれを整理することがまず必要なのですが、この作業は物凄く時間を要します。しかもまとまった時間を確保し...Vol.423宗家一族の繋がり①1~6

  • Vol.422 世之主の妾であった真千鎌の屋敷には

    Vol.422 世之主の妾であった真千鎌の屋敷には

    Vol.279にヘンダマチガマの伝承①で書いた、世之主の妾として伝承が残る古里地区の娘であった真千鎌(マチガマ)。その真千鎌の子孫である小山家にはお宝が保管されているということでしたが、縁あって島の本家の叔父がその小山家の親族の方と知り合いであることが分かり、興味深い写真を撮影してくれました。小山家には世之主が馬に乗っていると伝わる石像があったのです。現在は馬の部分しか残っていませんが、昔は馬の上に世之主が乗っていたのだそうです。獅子もありました。これらが伝承にある泉から拾った宝であるのかどうかは分かりません。この石像や世之主や真千鎌の話を聞きたかったのですが、大変残念なことに、このお屋敷に住まわれていたおばあ様は既に他界され、もう誰も詳しい話を知る方がいらっしゃらないそうです。何百年もの間ずっと口碑伝承...Vol.422世之主の妾であった真千鎌の屋敷には

  • Vol.421 神主の謎

    Vol.421 神主の謎

    本家のご先祖様の戒名に、神主と書かれている人物が3名いたことは以前の記事で書きました。当時の考察では、宗家が内城の世之主神社の神主を代々やっていたからであろうという考察で書きましたが、それを裏付けるヒントになる情報を見つけました。島の瀬利覚に宗岡家という旧家があります。「瀬利覚の昔話」という本に書いてあったのですが、こちらの家は昔は宗という名字だったようですが、改姓して宗岡家となったそうです。この宗岡家は、百(ひゃー)と呼ばれる役を3代続けてやっていたそうです。百とは、集落の長として政治と神事を取り扱っていたが、明治時代の頃は主として神事を執り行っていたそうです。島をあげての大行事であったシニグ祭は百が主役であったとのこと。確かに明治3年の最後に行われたシニグ祭でも各村の百が参加してシニグ祭りを取り仕切っ...Vol.421神主の謎

  • Vol.420 昭和12年頃の貴重な記録から②

    Vol.420 昭和12年頃の貴重な記録から②

    野間氏の本には、島の人から聞き取ったという世之主の母方の情報が書かれていました。口碑によれば、沖永良部島がまだ琉球の支配にあった頃、村ごとに琉球王のもとに貢物を届けていた。その時にはノロの他に生娘が伴われて行くのが慣例であり、ちょうどその時も同行していた。その娘は美しかったので、国王の目にとまり、王の子供を宿した。琉球から島に帰るときは臨月で船中でお産の傾向があったから、初め屋子母に船を着けて大津勘付近で分娩しようとしたが、ちょうどその時はシニグ祭りの時で、そんな汚れたことはお断りだと断られ、やむなく次の島尻に上陸しようとしたら、また同様に断られたので、自分の生まれ故郷の下城の下の沖泊に上陸し、下城の入間というところまで来た時、ここでも家々を追われ、路傍に付近から雨蓑を集めて産屋を作り分娩した。産後は体調...Vol.420昭和12年頃の貴重な記録から②

  • Vol.419 昭和12年頃の貴重な記録から①

    Vol.419 昭和12年頃の貴重な記録から①

    Vol.376の記事で、現在の世之主の墓の納骨堂に安置されている3つの厨子甕について書きました。伝承では世之主と一緒に自害した奥方と長男のものであるということですが、実はそうではなくて3代の世之主のものであったということでした。昭和12年に沖永良部島を探訪された野間吉夫氏の「沖永良部島採訪記」(昭和17年出版)という本の中で、当家の曽祖父になる宗佐久平が野間氏と対面した時に語った話です。野間氏は別の本である「島の黙示録」の中に、「沖永良部島採訪記」の中には書いていなかった情報を書いていました。宗佐久平のこと曽祖父である佐久平は、野間氏と出会った8年後の昭和20年に79歳で他界しています。いま現在、生前の佐久平のことを知っている人はもう誰もいません。家族の中に唯一残る情報は、世之主神社の神主をしていたという...Vol.419昭和12年頃の貴重な記録から①

  • Vol.418 竿次帳と対面できました

    Vol.418 竿次帳と対面できました

    以前から切望していた竿次帳を閲覧するために東京まではるばる行ってきました。行先は東京国立公文書館です。竿次帳(さおつぎちょう)とは、明治12(1879)年当時の鹿児島県内の土地の所有者を示すもので、土地台帳より少し古い時に作成されています。私が探している先祖がいた沖永良部島の竿次帳も保存されているのを知り、ぜひ一度閲覧したいと思っておりました。この度、竿次帳が所蔵されているつくば分館から本館に移送してもらい、145年前に沖永良部島で作成された資料とのご対面となりました。当時の村ごとに作成されており、表示には確かに明治12年と書かれています。保存状態はいろいろで、表示がかなりボロボロのものもあり、取り扱いには注意が必要でした。表紙にペラッ薄い紙が付箋紙のように貼られており、官有地が4筆、民有地が1300筆ほ...Vol.418竿次帳と対面できました

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