Vol.437四天王を紹介:後蘭孫八お引越し先の「はてなブログ」でこのタイトルの記事を投稿しました。https://yononushi.hatenablog.com/entry/3226cfe540d68e05257da98952500056Vol.437新記事を投稿しました
琉球が三山時代であった北山王の次男と言われる沖永良部の島主「世之主」 当家のご先祖様であるという伝承をもとに、ご先祖調査をしており、その内容をブログに記録しています。
2025年6月
Vol.437四天王を紹介:後蘭孫八お引越し先の「はてなブログ」でこのタイトルの記事を投稿しました。https://yononushi.hatenablog.com/entry/3226cfe540d68e05257da98952500056Vol.437新記事を投稿しました
ご先祖調査を始めてから、こちらのブログでその調査内容を2021年から約4年半にわたり記録をしてきました。初めてのブログ使用ということもあり、どのように活用できるのか心配しながらの記録でしたが、応援してくださる方も多く、たくさんの情報も頂くことができました。とても思い入れのあるこのブログが閉鎖されるということで、本当に残念で仕方ありません。これまでの記録は全て新しいブログの方へ移行ができました。今後の記事につきましては、全て新しいブログの方へ記録していきますので、引き続き応援をよろしくお願い致します。新しいブログは「はてなブログ」になります。ページは以下↓になります。https://yononushi.hatenablog.com/これまでの記事はこちらのブログでも11月の閉鎖までは読めそうですが、新しい記...ブログのお引越し先のご案内
少し前のことですが、珍しいものが見つかりました。沖永良部島に在住の本家の叔父は、島の子供たちに昔遊びを教えるボランティア活動をしているのですが、その活動の中で自分が子供の頃に遊んでいたある道具を思い出したのだそうです。それは「吹き矢」です。しかしそれは叔父の手元には保管されておらず、親戚の家に保管されていることを確認し今回の登場となりました。物干竿のような2本の棒ですが、この吹き筒は結構な長さがあります。2本の接続箇所が壊れていたため叔父が手直しをして繋ぎ、出来上がったのがこちらです。随分と長い筒です。長い吹き筒を使用すれば高い命中精度が期待できるということですから、そのために長く作られていたのでしょう。矢と吹き口は手作りで再現です。まず矢を筒に入れます。矢を入れたら吹き口を筒の中に差し込みます。吹き口を...Vol.436宗家コレクション(9)吹き矢
2025年6月
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ご先祖調査を始めてから、こちらのブログでその調査内容を2021年から約4年半にわたり記録をしてきました。初めてのブログ使用ということもあり、どのように活用できるのか心配しながらの記録でしたが、応援してくださる方も多く、たくさんの情報も頂くことができました。とても思い入れのあるこのブログが閉鎖されるということで、本当に残念で仕方ありません。これまでの記録は全て新しいブログの方へ移行ができました。今後の記事につきましては、全て新しいブログの方へ記録していきますので、引き続き応援をよろしくお願い致します。新しいブログは「はてなブログ」になります。ページは以下↓になります。https://yononushi.hatenablog.com/これまでの記事はこちらのブログでも11月の閉鎖までは読めそうですが、新しい記...ブログのお引越し先のご案内
少し前のことですが、珍しいものが見つかりました。沖永良部島に在住の本家の叔父は、島の子供たちに昔遊びを教えるボランティア活動をしているのですが、その活動の中で自分が子供の頃に遊んでいたある道具を思い出したのだそうです。それは「吹き矢」です。しかしそれは叔父の手元には保管されておらず、親戚の家に保管されていることを確認し今回の登場となりました。物干竿のような2本の棒ですが、この吹き筒は結構な長さがあります。2本の接続箇所が壊れていたため叔父が手直しをして繋ぎ、出来上がったのがこちらです。随分と長い筒です。長い吹き筒を使用すれば高い命中精度が期待できるということですから、そのために長く作られていたのでしょう。矢と吹き口は手作りで再現です。まず矢を筒に入れます。矢を入れたら吹き口を筒の中に差し込みます。吹き口を...Vol.436宗家コレクション(9)吹き矢
Vol.423から10回に分けてお爺さまが記録していた1600年代以降の宗家一族について書きましたが、2つの疑問が湧いてきました。1つは目は薩摩系の家が内城村に居住していたことについてです。お爺さまが書いていた一族の系譜の記録は時代が1600年以降ということで、島の歴史は薩摩の世です。宗の本家から分家した家、婚姻や養子で親戚関係になった家もありますが、ご先祖様が代々居住していた内城村には薩摩系と思われる名字の家もありました。琉球の時代には世之主の居城があった内城村は政治の中心地で、世之主の一族やそこに仕えていた家臣の屋敷などもこの内城地区に多くあったと思うのですが、薩摩の時代になって以降の政治の中心地は和泊村です。昔の内城村は山深い場所で生活の利便性もさほど良くはなかったようですが、そんな場所で薩摩系の家...Vol.435宗家一族の繋がりを見てきたところで
こちらのgooblogさんですが、2025年11月18日でサービスが終了するということで、記事の投稿も10月1日が最後になるそうです。沖永良部島の先祖調査を始めてから、その過程で知ったこと分かったことなど色々投稿してきました。ブログの開設から今日で1545日で、もう4年ほど記事を書いております。小さな南の島のご先祖探しの記録ですが、思いのほか沢山の方にご訪問頂き、閲覧数は30万件を超え、訪問者の方も20万件ほどです。沢山の情報を頂き、そして沢山の方々とお知り合いになってきました。有難いブログ様です。もう4年もやってたらそろそろ先祖のことも分かったんじゃ?と思われるかもしれませんが、なんせ合間の時間での調査。そして謎多きご先祖さまはそう簡単には姿を現してくださいません。まだまだボチボチですが調査と記録は続く...お知らせ:ブログの引っ越し予定について
46.村吉(佐江村屋)村吉家の始まりは不明です。お爺さまの記録では、佐江村という人物が始祖で、幕末頃に生きた人物です。お爺様の曽祖父になる佐久田(1839年生まれ)の妹であった乙が佐江村に嫁いでいます。①佐江村→②佐江利→③佐江綱→その後は不明始祖の佐江村には佐江利の他に佐江秋、佐江流、佐江春、マスの4名の子供がいました。男子はそれぞれ分家したようです。47.村吉(佐江秋屋)46番の佐江村の次男であった佐江秋の家佐江村→①佐江秋→②ウト→③ミサエ→現在に続く佐江秋の妻の名ははヲシとありますが詳細は不明。娘のウトしかおらず、ウトは栄寿伯との間にミサエとミドリという娘がいましたが、ミサエが佐江村屋を継いでいます。48.村吉(佐江流屋)46番の佐江村の三男であった佐江流の家佐江流の妻はチヨとありますが、それ以外...Vol.434宗家一族の繋がり⑩46~51
連載しております宗家一族の繋がりをご覧になった関係者の方から、新たな情報を頂いたりしております。宗家の歴史を探る上でも貴重な情報を頂いており、大変有難いです。シェアできる情報は、また別記事でまとめて書いていくようにします。41.橋口(出城)豊山家からの別れの家琉球式のお墓であるチュラドゥール中央から東側は豊山家一族の墓石が建っていますが、その中に橋口家もあります。以前に橋口家の奥様にお話を伺ったことがありますが、明治の頃に出城(小字名)を出て現在のお住まいに移住されたときに、橋の入り口に住んだので名字を橋口としたということでした。宗家と直接的な繋がりは見つけることはできませんでしたが、橋口家のご先祖様であり始祖である豊嶺の妻は宗家の娘でしたから、昔から婚姻関係では繋がっている家になります。①豊光→②梅→③...Vol.433宗家一族の繋がり⑨41~45
体調不良で長らくご無沙汰しておりました。やっと復活しましたので、続きを書いていきたいと思います。36.桂(屋号不明)35番の弟の家35番の桂民二の弟である桂久保が始祖となる家である。桂久保には嫡子であった久敏、久勝、ヨシ、ツルと4名の子供がいたようです。ヨシは江夏家へ嫁にいったようです。その後の子孫いついては、詳細な情報は記載されていません。37.白川・陽(当の屋)もともとは陽(ミナミ)家で、改姓して白川となる陽家は琉球王子と島の女性との間にできた男児が始祖となる家だと伝わっています。昭和初期頃に白川に改姓されていますが、陽姓のままの家も残っています。お爺さまの書には1800年代の生まれの人物から記録がありました。①清澄→②清賢→③清保→④清賢(この4代目の時に白川に改姓)②清賢の妻は宗の本家8代目善保の...Vol.432宗家一族の繋がり⑧36~40
31.武宮(屋号不明)29番と30番の兄弟の家宗の本家から分かれた武宮家の初代である平安禮には、男子の子供が3名いたようで、こちらは3男であった惟明の家です。惟明の娘は、宗の本家の嫁となっています。惟明→英夫→子孫不明お爺さまの記録が無く、子孫の方が現代に続いているかは不明です。29番~31番の武宮家の始祖となる平安禮の息子2人には、和泊町誌によればこのようなエピソードがありました。慶應3年(1867年)に内城と玉城の間の川に自費を投じて石橋かける。内城の横目:宗悦(本城家)、掟:平安明(平安禮の長男)とその弟である平安良(平安禮の次男)、和村の掟:玖米統(前家)。雨が降ると川の水量があがり、内城と玉城間の行き来ができなくなり困っていたため、宗家一族の家が自費を投じて川に石橋をかけて人々の生活を便利にした...Vol.431宗家一族の繋がり⑦31~35
昨年書いたVol.426の20番のクンバテヤですが、その後の子孫の方々の消息が不明でしたが、一族の方から嬉しい知らせがあり、現在も子孫の方々は島外ですが元気に暮らしておられるという情報を頂きました。今回も一族情報の続きです。26.本城(平安功屋)6番本城家の5代目平安功の三男であった宗徳の家系平安功が1800年代の人物であるので、江戸後期あたりに分家した家である。内城の小字である中村の本城家の本家から片平山に分家して屋敷があったようです。平安功→①宗徳→②宗安→③宗佳→④宗善→・・・現代に続く27.本城(片平山)26番の宗徳の長兄であった宗佑熹弟の宗徳と共に本家から分家して片平山に屋敷を移したようである。長男であるが分家するというのは、やはり島の風習だったようですね。宗佑熹の妻は為冝志の妹の兼という娘だっ...Vol.430宗家一族の繋がり⑥26~30
新年早々から嬉しいことがありました。お爺様の上花城から別れた一族の方からのご連絡でした。このブログを読んでくださり、離ればなれになっていた一族の方々からご連絡を頂けることは、本当に嬉しいことです。ことし1年も先祖探しの活動が実りあることを願って活動していきたいと思います。昨年に続き、一族の紹介です。21.桂(東宗:アガリゾ)宗の本家8代目平安頴善保の弟である長庵の家系兄である平安統善保が1815年生まれですので、弟である長庵はそれ以降の生まれです。①長庵→②久勝→③久保→④忠博→・・・現代に続く長庵は薩摩の島津家の分家に当たる桂民右衛門という人物の家に養子に入って桂家を継いでいます。その成り行きには、こういったエピソードがありました。桂民右衛門が島津公の命を受けて琉球に向かっている際に、船上で病気になって...Vol.429宗家一族の繋がり⑤21~25
前回は新年のご挨拶とともに、急な3号墓の墓石の話になってしまいましたが、その続きを少し書きたいと思います。これが3号墓で、両サイドに大和式の墓石があります。正面右側の墓石に掘られているかもしれない「上嘉鉄西〇居」の文字。喜界島の南西部に上嘉鉄(かみかてつ)という集落があることが分かりましたが、小字名でマチィチャ・ウックダ・ウフドゥンムの付近一帯に大量の土器や石器の破片が出土したことがあったようです。縄文晩期の遺跡であったようです。このように2300年~3000年ほど前から集落があった場所ですが、この集落の1つには上嘉鉄西と呼ばれる場所があるようです。墓石の文字が「上嘉鉄西〇居」であったとしたら、この喜界島の上嘉鉄西の集落の人物であったのか?小字名のマチィチャも気になる言葉です。沖永良部の世之主はマチジョ(...Vol.428新年のご挨拶と、、、②
新年あけましておめでとうございます。日頃からこのブログを読んでくださっている皆様、いつもコメントや情報を送ってくださる皆様、大変有難く感謝しております。本業の仕事の方が多忙になっており、思うように調査が進まず発信の方もボチボチといったところですが、今年も少しずつ記録していきたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願い致します。ただいまちょうどブログでは宗家一族の繋がりを連載しているところでしたが、今回は新年のご挨拶と、昨日でしたか急に飛び込んできたX(旧Twitter)での「いいね!」のことを少し書きます。ちょうど先祖調査をスタートさせてブログを書き始めた3年ほど前のことなのですが、お爺さまの系統である屋号上花城のお墓があるチュラドゥールのすぐ西側に、3号墓と呼ばれる(本当の墓名ではなく歴史調査用につけ...Vol.427新年のご挨拶と、、、①
16.竹(屋号不明)1774年に与人をしていた玉江原の家系手々知名に居住していた家系のようです。①玉江原(お爺さまの記録では玉江春)→②夏再志→③玉江川→④名前不明お爺さまの記録には、この家から宗の本家に嫁いできた嫁の名前がありました。②夏再志の娘の宇志は宗の本家7代目である平安統惟雄の妻③玉江川の娘の真須は宗の本家8代目である平安頴善保の妻④の娘である宇志は宗の本家9代目である宗善寛の妻このように3代続けて竹家の娘が嫁いでいます。琉球からやってきた一族なのか薩摩系なのかは不明ですが、3代も続けて嫁をもらっているので、与人仲間なのか何か親密な付き合いや関係があったのだと思います。17.宗(西宗:イヒゾ)宗の本家からの分家の家宗の本家の4代目である平安統惟貞(示現流の人)の子供が分家した家です。昔は短命の家...Vol.426宗家一族の繋がり④16~20
11.宗(佐久間)5番の屋号である上花城の2代目の子孫上花城の2代目であった池悦が隠居して、内城の佐久間と呼ばれた場所(小字では川根あたりと推測される)に住んでいたそうです。その時にできた子供が屋号佐久間の始祖です。①池悦(1968年生まれ)→②名は不明→③名は不明→④生悦→⑤佐久行→⑥佐久行→⑦池悦→⑧テツ→⑨利武→・・・・・④生悦の妻は乙。⑤佐久行の妻は宇志。⑥佐久行の妻はトミ。弟は池悦。⑦池悦の妻はツル。弟は利明。⑧テツの夫は沖家からだったようです。⑨利武の妻はハツ。12.陽(シャビント)具永久を始祖とする琉球王子と島の女性との子孫といわれている家柄陽と書いてミナミと読みます。この陽家の始祖は具永久という人物で、薩摩統治時代に与人をしていたようで、1711年頃にその名が見えます。琉球王子と屋者の島家...Vol.425宗家一族の繋がり③11~15
前回に続き一族の記録の紹介です。7.前(メース)1700年代前半に和集落に居住で与人をしていた久米村の家系宗家の記録上の始祖である中城と同じ世代に久米村という人物がいて、3代続けて久米村の名前があります。3代目の久米村に、当家2代目の池久保の三女の宇志が久米村に嫁いでいます。3代目の久米村の姉か妹であった思田兼は、本城家の始祖になる朝登の妻です。名前が久米村ということは、琉球の久米村からやってきた人物であると思われます。この時代に琉球から沖永良部島に役人としてやってきていた可能性がありますね。8.町田(中城:ナカスク)代官附役町田勘左衛門實利と島妻の子孫となる家町田家がある手々知名の字誌によれば、町田家は沖永良部島に代官附役としてやってきた町田勘左衛門實利の子孫であるということですが、町田姓で薩摩から島に...Vol.424宗家一族の繋がり②7~10
沖永良部島のご先祖調査のこと、島の歴史などを多岐に渡って書いているこのブログですが、読んでくださった方の中には当家と繋がる縁者の方もいらして、直接ご連絡を頂くことがあります。その中には先祖から宗家とは親戚と聞いているけど、どこでどう繋がっているのか分からないといわれる方もおられます。長い歴史の中で、宗家の分家筋、婚姻によってできた親戚、養子に行った先など様々で、お爺さまの記録には膨大な家と人々の記録があります。お爺さまが調査をされていた昭和初期頃の記録として、500名近い人物の名前が書かれていますが、まぁ何といいますか全部整理されて書いてあるわけではなく、閲覧や関係を理解するのが非常に困難な状況です。私にはこれを整理することがまず必要なのですが、この作業は物凄く時間を要します。しかもまとまった時間を確保し...Vol.423宗家一族の繋がり①1~6
Vol.279にヘンダマチガマの伝承①で書いた、世之主の妾として伝承が残る古里地区の娘であった真千鎌(マチガマ)。その真千鎌の子孫である小山家にはお宝が保管されているということでしたが、縁あって島の本家の叔父がその小山家の親族の方と知り合いであることが分かり、興味深い写真を撮影してくれました。小山家には世之主が馬に乗っていると伝わる石像があったのです。現在は馬の部分しか残っていませんが、昔は馬の上に世之主が乗っていたのだそうです。獅子もありました。これらが伝承にある泉から拾った宝であるのかどうかは分かりません。この石像や世之主や真千鎌の話を聞きたかったのですが、大変残念なことに、このお屋敷に住まわれていたおばあ様は既に他界され、もう誰も詳しい話を知る方がいらっしゃらないそうです。何百年もの間ずっと口碑伝承...Vol.422世之主の妾であった真千鎌の屋敷には
本家のご先祖様の戒名に、神主と書かれている人物が3名いたことは以前の記事で書きました。当時の考察では、宗家が内城の世之主神社の神主を代々やっていたからであろうという考察で書きましたが、それを裏付けるヒントになる情報を見つけました。島の瀬利覚に宗岡家という旧家があります。「瀬利覚の昔話」という本に書いてあったのですが、こちらの家は昔は宗という名字だったようですが、改姓して宗岡家となったそうです。この宗岡家は、百(ひゃー)と呼ばれる役を3代続けてやっていたそうです。百とは、集落の長として政治と神事を取り扱っていたが、明治時代の頃は主として神事を執り行っていたそうです。島をあげての大行事であったシニグ祭は百が主役であったとのこと。確かに明治3年の最後に行われたシニグ祭でも各村の百が参加してシニグ祭りを取り仕切っ...Vol.421神主の謎
野間氏の本には、島の人から聞き取ったという世之主の母方の情報が書かれていました。口碑によれば、沖永良部島がまだ琉球の支配にあった頃、村ごとに琉球王のもとに貢物を届けていた。その時にはノロの他に生娘が伴われて行くのが慣例であり、ちょうどその時も同行していた。その娘は美しかったので、国王の目にとまり、王の子供を宿した。琉球から島に帰るときは臨月で船中でお産の傾向があったから、初め屋子母に船を着けて大津勘付近で分娩しようとしたが、ちょうどその時はシニグ祭りの時で、そんな汚れたことはお断りだと断られ、やむなく次の島尻に上陸しようとしたら、また同様に断られたので、自分の生まれ故郷の下城の下の沖泊に上陸し、下城の入間というところまで来た時、ここでも家々を追われ、路傍に付近から雨蓑を集めて産屋を作り分娩した。産後は体調...Vol.420昭和12年頃の貴重な記録から②
1600年代に琉球からやってきたノロの眞加戸。沖永良部島にいつやってきたのかは分かりませんが、眞加戸は1665(寛文5)年7月18日に52歳で他界したと伝わっているそうです。生まれは1613年ということになり、20歳ころに島に赴任してきたとしても1633年の頃で、時代は1609年薩摩侵攻後の世です。この頃には島にはまだ薩摩の代官所は無く、徳之島の代官所の方で管理されていたので、まだ完全な統治ではなく旧琉球の体制や文化が色濃く残っていた時期だったのでしょう。ノロには琉球王府からの辞令書が発行され、その任に着きます。この眞加戸も恐らく辞令書の発行があったのでしょうが、現在にはもう残されていないようです。もし辞令書が残っていれば、奄美地方では徳之島の深見家のご先祖にあたるマナベダル宛の1600年正月24日付の辞...Vol.412島伊名重の書から③屋者のこと
屋者の屋号シマクルと呼ばれていた島家ですが、まずは沖永良部島での島家の始祖となった眞加戸という人物についてです。この眞加戸というのは女性で、寛文5(1665)年7月18日、行年52歳と伝わっているそうです。知名町誌にも記載がありましたが、眞加戸はノロとして琉球の泊村ノロ殿内であった島袋家から赴任したといいます。赴任したのは1635年(22歳)頃ではなかったかと考えられています。そしてこの眞加戸の実家である島袋家は、なんとなんと、あの泊宗重が始祖になるのでした。あの泊宗重といいますのは、我が宗家の先祖としてお爺さまが書き残していた宗重という人物になる可能性があるのです。泊宗重(生年不詳-1514(正徳9)10月13日)は、琉球の第一尚氏時代の7代国王(在位1461-1469年)であった尚徳王の時代の人物です...Vol.411島伊名重の書から②島家のご先祖様は
先祖調査での出会いは、様々な情報を引き寄せてくれます。先日、島のある家の当主の方とお話をする機会を頂いて、大変貴重な情報を頂くことができました。こちらのご当主との橋渡しをしてくれた島のサポーターの方には、いつも大変感謝です。沖永良部島にいる宗の本家には、様々な古文書が保管されているのですが、その中の1つに不思議な文書がありました。歴史研究家の先生はこの文書に「覚書」というタイトルをつけてくださっていますが、この文書は今から110年ほど前の1913(大正2)年に、「島伊名重」という人物が書いた文書なのですが、まずこの人物についての詳細が分からずでした。1つだけ大正から昭和の初期頃にかけての教育者であったことまでは分かっていたのですが、現在の島にはその子孫の方もいらっしゃるのかどうかも分からない状況だったので...Vol.410島伊名重の書から①島伊名重とは
第二次世界大戦中、南国の沖永良部島にも戦争の影があり、この島にも日本軍と現地召集による守備隊が編制されていました。幸いにしてアメリカ軍の上陸はありませんでしたが、空襲などは頻繁にあっていたようで、以前の記事にも書きました。(Vol.291~299)近年には、米軍が沖永良部島に上陸する計画があったことが明らかになったそうで、米軍による沖縄攻略作戦「アイスバーグ作戦」の三段階の中の1つであった第三段階で攻略が予定されていたのが、伊平屋島・粟国島・沖永良部島・宮古島・喜界島だったようです。米軍は宮古島・喜界島・沖永良部島について、具体的な上陸計画を立てていたようで、上陸作戦案は三案作成されていたそうです。結果的には島での飛行場建設が困難な地形であるなどの理由と終戦を迎えたこともありアメリカ軍による上陸はなかった...Vol.409忘れ去られた慰霊碑:久木留隊長
私が調査しているご先祖様の地である沖永良部島。本土からはなかなか遠くてすぐに足を運べる場所ではないのですが、歴史も文化も食も魅力あふれた島です。そんな魅力いっぱいの南国の島の特産品が、久しぶりに大阪で開催されます。パンフに掲載のパッションフルーツは、最近のミスドのドリンクにもマンゴーとのミックスで販売されていましたね。爽やかな酸味で夏にぴったりの美味しいドリンクでしたので、自宅で味わえるのは最高です。島バナナは最高ですよ。スーパーに売っているフィリピン産とは全然違った美味しさがあります。めったに味わえない品ですので、これを機会にぜひ味わってみてください。アップルマンゴーのジェラート。これも甘くて美味しいです。かなり濃厚なお味で、本物のマンゴーみたいです。私が日ごろ島食材を購入して送ってもらっている「まると...Vol.408「おきのえらぶ島TROPICALFESin大阪」の開催
Aさんの母方の徳之島のご先祖様である尚家ですが、現在も島にはその姓のお宅が数件あるようです。1879(明治12)年に作成された竿次帳(さおつぎちょう)という資料によると、以下の村に尚姓の家がありました。ちなみに竿次帳というのは、地租改正のための基礎資料として作成されたものです。全国的には1873(明治6)年から始まっていましたが、鹿児島県は西南戦争のために実施が遅れて明治12~14年に行われたそうで、徳之島の竿次帳も明治12年作成だったようです。旧土地台帳よりも10数年前に作成されている一番古い土地関係の記録でありますが、宗門人別改帳などが存在しない奄美の島々にとっては、名前の記載がある貴重な資料といえるようです。・阿権(あごん)村・犬田布(いぬたぶ)村・秋徳(あきとく:現在の亀徳)村・兼久(かねく)村・...Vol.407徳之島の尚家④ご先祖様はどこに繋がるのか
1864(元治元年)年に徳之島では犬田布騒動という事件が起こりました。犬田布というのは地名です。犬田布は島の南西部にある伊仙町にあります。今から160年ほど前に、この犬田布で騒動が起こっていたのです。事の始まりは、島で生産の砂糖が見積高に達しないと言うことで、福重という人物が隠ぺいの可能性があるということで、犬田布にあった薩摩の代官の役所で、福重の娘婿がひどい尋問を受けていました。娘婿は隠ぺいはしていないと主張し更に酷い尋問をうけたようです。その時に隠れ見ていた村人達がみかねて、多数で役所になだれ込み暴れたのだそうです。仲間を助けようとした村人たちは勇敢でしたね。しかしその結果、その騒動の責任を取らせる形で、当時の島役人たちを遠島罪などにして付近の島々に行かせたのだそうです。その遠島罪を受けた人たちの中の...Vol.406徳之島の尚家③犬田布騒動
徳之島の尚家には家系図が存在していました。Aさんはその家系図の一部を大阪の叔母さまからコピーで頂き保管されていたことは前回書きました。その家系図がこちらです。系図の公開については、Aさんが今後の徳之島や沖永良部などの研究のために、ぜひ公開してくださいとおっしゃってくださったので、掲載しております。現物を拝見していないのではっきりとは分かりませんが、このページの他に平成の時代にご存命の方のお名前などが書かれている個所がありますので、この家系図が書かれたのは昭和から平成の時期なのではないかと思われます。最終と思われるページの間には始祖から続くご先祖様たちが書かれているようですので、古くなった系図を書き直した可能性があります。残念ながら全ページが拝見できないことをもどかしく感じます。Aさんが大阪の叔母さまにコン...Vol.405徳之島の尚家②尚家の家系図
少し前の出来事ですが、徳之島にご先祖さまが繋がる関東在住の方からご連絡を頂き新たな出会いがありました。お名前をAさんとします。Aさんは、母方の祖母について生前のお母様から時々話を聞かされたことがあり、ご先祖様に少し興味を持ち、当時大阪在住であった叔母さんに家系図の一部をコピーして送ってもらっていたそうです。日々の生活の中ですっかり忘れていたところ、最近になって思い出すきっかけがありネットで色々と調べていたところ、こちらのブログに辿り着いたそうで、直接ご連絡を頂いた次第です。Aさんの祖母は奄美大島で育っており、結婚して福岡に行かれたそうです。生涯を終えるまで福岡で過ごされたとのことで、AさんもAさんのお母様も徳之島のことについては、詳しくは分からないのだそうです。そしてこのAさんの祖母は、旧姓を「尚ちよ」と...Vol.404徳之島の尚家①出会いと尚家のこと
琉球時代の北山王の二男であり沖永良部島の島主で世之主と呼ばれた真松千代のお墓であるウファについて、ご先祖調査の過程で新たに分かったことを書き留めておこうと思います。1.墓荒らしによる被害1969(昭和44)年の「薩南の島々」という本の記事によれば、精神異常者のいたずらにより3つの厨子甕の中が荒らされてしまい、どの遺骨が世之主のものかが分からなくなってしまったということです。写真の蓋を開けている厨子甕は、世之主のものなのか分かりませんが、すでに荒らされた後の状態だと思われます。書籍:薩南の島々出版:朝日新聞社1969年この話は以前に聞いたことがありますが、時期が不明でした。記事が書かれた本が出版されたのが1969年ですから、それ以前の出来事となります。また、1965年に出版された「電気とガス」という本には、...Vol.403ウファ(世之主の墓)のこと
南の島々には毒蛇のハブがいることは知られていますが、奄美群島の場合は全ての島々に生息しているわけではありません。ハブのいない島があるのです。奄美大島・加計呂麻島・請島・与路島・徳之島にハブはいますが、喜界島・沖永良部島・与論島にはいないのです。喜界島・沖永良部島・与論島のハブのいない島は標高が低い珊瑚隆起の島です。これに対してハブが生息している他の島は、標高の高い火山島です。ハブの生息に関しては理由が諸説あるようですが、よく言われている理由を2つあげてみます。これらの島々がむかしむかしに陸続きだった時代に、ハブはその陸地の至る所に生息していたが、海面上昇によって珊瑚隆起の場所だったところ(現在のハブのいない島)が完全に沈んでしまい、そこに住むハブは滅んでしまったと言われています。火山島は完全に沈んだわけで...Vol.402ハブのいない奄美の島々と交易の拠点
ウパマの4つの洞籠墓は海岸沿いの崖の上の方にありました。現在は道路が整備され東西から行くことができますが、昔は今のような道路が無く全方位から侵入することが難しかったようで、急な坂を下り西側から巡回するか、干潮時にリーフ上を東から回り込むかの進入路しかなかったそうです。ここは風葬墓だったわけですが、こんなに侵入するのが難しい場所に、どうやって亡くなった方を運んでいたのか?この崖の上の外城原には島見し当があったようですので、亡くなった方に最後にこの世を見せお別れの儀式をこの場所で行っていたということです。そうなれば、その後はすぐにお墓に亡くなった方を安置となるでしょうが、そこからご遺体を巡回したりして足場の悪い道から運び込むのはかなり難しかったのではないかと思うのですね。沖縄の今帰仁にある崖上にある洞窟のお墓...Vol.401畦布の運濱(ウパマ)②海の中道
沖永良部島の畦布の湾門(ワンジョ)と呼ばれる浜の東側に、運濱(ウパマ)と呼ばれる小さな浜があります。そこの崖に4基の洞籠墓(トゥール墓)があります。この場所は以前は崖下の海岸まで降りてから、墓の場所まで登っていったようですが、現在はワンジョの海水浴場から道路が作られ、道路沿いから墓に行き着けます。お墓は木々に覆われていて、海岸の方からは全く確認できないようです。海の方から見た場所は、ピンクのラインの辺りです。運濱のビーチに沿って道路が走っていますが、道路の奥の崖に洞籠墓があります。この4基のトゥール墓は、島の昔の琉球スタイルであった風葬墓として使われていたものです。昭和初期の調査記録によれば、近年までは使われていたということですので、100年ほど前までは使われていた墓になります。上の写真の左側が東、右が西...Vol.400畦布の運濱(ウパマ)①洞籠墓
沖永良部出身の方やその関係者で構成されている沖洲会という団体が全国にあります。地方から都会に出てきた方々で組織する〇〇県人会みたいなやつです。私が住むエリアの会合が2月に開催され、お誘いがあり参加させていただきました。私の先祖調査のことでお世話になっている方々に初めて直接お会いしたり、島の話ができたりと大変貴重な時間を過ごすことができました。その中である方から、世之主の家臣の一人であった後蘭孫八の居城があった後蘭地区についての話題がありました。この後蘭地区は、現在は島に2つある行政区のうちの和泊町になるのですが、町境を見てみると、直線ではなく曲線を描いて後蘭地区が和泊町になっているのだそうです。確かに地図を見ると知名町の方にぐっと入り込んだ場所(後蘭孫八の城跡となっている個所)ですが、和泊町になっています...Vol.399後蘭はなぜ和泊町なのか?
幕末維新の立役者、西郷隆盛が遠島刑となりやってきたのが沖永良部島。この西郷が沖永良部島で過ごしたのは1862年8月から1864年2月までの1年6ヵ月ほどで、その期間に西郷のお世話をしたのが土持政照です。土持政照は、薩摩藩士であった土持叶之丞綱政の子として1834年に沖永良部島で生まれました。彼は天保年間に沖永良部島に3度赴任しており、島妻・鶴との間に生まれたのが、土持政照ということになります。成人した政照は間切横目(現代の警察官)という島役人であり、西郷は政照とその母であった鶴の優しさと人柄に感動し、義兄弟の契約を交わすほどに親交がありました。この土持政照の母であった鶴の旧姓は豊山でしたが、一説にはこの鶴は世之主の子孫であったと伝えられています。世之主の子孫と伝わる当家の宗家一族と豊山家は婚姻関係で親戚で...Vol.398宗家に連なる人々9:沖島曽勲
1300年代中期頃に、北山王の二男であった真松千代が沖永良部島の世之主(島主)として島へ派遣され、島の中心にある越山の南側に、家臣であった築城の名手:後蘭孫八に命じて築いたといわれている城が「世之主城」です。現在は城の建物や城壁などがはっきりとわかる状況ではないのですが、親元である今帰仁城によく似た作りだったようであるといった話もあります。ここはずっと昔から古城地であったという伝承ですが、近年では世之主神社が建立され、神社がある場所というイメージの方が強かったようです。そしてこの城跡一帯は木々で覆われていて、その全貌が分からない状態であったのが、2016年に世之主600年祭が行われたときに、周りの木々を伐採したことによって、隠れていた石積みの城壁跡や城としての景観がリアルに見えてきたのだそうです。このショ...Vol.397世之主城址の文化遺産登録に向けて:①現在の状況
記録上の2代目当主であった池久保の妻は、薩摩から地検の測量にやってきた出水郷士の武宮大覚左衛門の娘であった梅千代であると当家の資料に記録されています。しかし、墓石の調査によると池久保の妻は名前が千袈裟とあります。墓石は池久保の孫であった平安統惟貞が建立していますので、自分の祖母の名前を間違うことはないでしょう。この写真の墓石は既に引退させられた墓石で、現在は墓の隅に置かれています。左側面である写真のこの面に「俗名喜美留与人池久保」、その横に「俗名千袈裟」と書かれていたようですが、今は風化しており池久保の名はうっすらと見えますが千袈裟の名は見えません。墓石の正面には、池久保と妻の戒名や卒年が書かれており、妻の卒年は1721(享保6)年5月10日とあり、記録にある梅千代の卒年と同じです。池久保の妻には名前が2...Vol.396出水郷士の娘であった梅千代のこと
昭和の時代のことです。1953(昭和28)年2月4日未明に、沖永良部島の知名町屋子母沖で旅客船「新生丸」(18・5㌧)が沈没した事故がありました。新生丸は定員51人を上回る82人が乗船して沖縄県那覇市から知名町小米港へ向けて航行中、高波を受けて沈没。生存者は2人で、乗員乗客81人が死亡・行方不明となったのだそうです。当時は奄美群島が米軍政下にあり、沖縄へ出稼ぎに行く島民が多く、新生丸には旧正月に合わせて帰省する人達が乗船してのだそうです。屋子母集落の方々は、遭難事故から60年経った2013年から毎年2月4日に慰霊祭を開催しました。そして2014年には、島民や出身者から協力、寄付を得て集落内のこの海の見える越之山神社境内に慰霊碑が建立されました。このブログを読んでくださっている島出身の方のご親族も、この船に...Vol.395越之山神社:新生丸の慰霊祭
ユタの助言によってアダンの森から海の見える高台に移ったお墓ですが、またまた移動をすることになりました。海の見える高台にあったお墓の土地は、屋号「ウントの家」と呼ばれる人が持ち主でした。あるときに、このご一家の皆さんが揃って頭痛に悩まされたのだそうです。その時にお隣の徳時の有名なユタの占示によると、「テエの神を祭れ。家中、村中こぞって祭りなさい。あまり粗雑なため、石ころが落ちてきて頭を割ってしまった。みんなの頭痛はそのせいだ。」とのことでしたので調べてみたら、その占示の通り、遺骨の入った板蓋が壊れて、乗せた石が頭蓋骨を割っていたのだそうです。信神深い初代ウントの家の当主は、あまりの明示に恐れを恐れをなし、資財を投じてテエの山を聖域とし、徳時の「かみさまあじ」を神官にお願いして祭ることになったのだそうです。土...Vol.394越之山神社:世之主の妹のお墓の移動②
アダンの森に葬られた世之主の妹ですが、そのまま静かに眠りにつくことができなかったようです。海岸線の道路では、昼下がりが来ると女用の麦わら帽子を小脇に抱え、身の丈ほどの長い黒髪を後ろに垂らした若い女の人の姿が通行人の前方に忽然と現れるようになったのだそうです。そしてまた煙のようにいつの間にか消えてしまうという評判が広がって、昼下がりにこの道を通る人がいなくなってしまったのだとか。それでユタに頼んで占ってもらったら、「このヤマガマは村の下に当たるので、昇天できずに彼女の霊はさまよっている。村の上の高いところで海の彼方の見えるところに移し祀れ」という神の啓示があったとのことで、ニューガニメエのテエの山の南に向いた洞穴を選んで移し祀ったのだそうです。それがノロ墓と言われていた洞窟墓です。越之山神社の裏手の山にあり...Vol.393越之山神社:世之主の妹のお墓の移動①