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琉球史と絡む先祖調査の記録です https://blog.goo.ne.jp/yononushi

琉球が三山時代であった北山王の次男と言われる沖永良部の島主「世之主」 当家のご先祖様であるという伝承をもとに、ご先祖調査をしており、その内容をブログに記録しています。

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2021/02/12

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  • Vol.417 与論島にも直城があった

    ご先祖さまが住んでいた沖永良部島は沖縄本島の2つ上にある島なのですが、その真ん中には小さな与論島があります。この与論島は昔から沖永良部島とは兄弟島といわれており、1400年頃に当家のご先祖さまであった世之主は琉球北山王の次男の真松千代(マチジョ)、与論島は三男の王舅(オーシャン)という兄弟で、それぞれの島を統治していたそうです。与論島は、太古の昔に女神アマミクと男神シニグクが島の瀬礁に辿り着いたところ、海底から地面が浮き上がり今の島が造られたと言う神話があります。古来より島はユルヌまたはユンヌと呼ばれていましたが、琉球や大和(薩摩藩)により漢字が当てはめられ「与論」となったそうです。地理的には対岸に琉球(沖縄)が見えるほど近いため昔から琉球との関係は深く、1609年の薩摩侵攻以降は支配層代官の設置があり、...Vol.417与論島にも直城があった

  • Vol.416 容家は尚家の人だった

    1609(慶長14)年の薩摩侵攻以前の中世の時代の沖永良部島の歴史は、記録されているものが殆ど存在せずなかなか見えてこないのですが、琉球士族の家譜の中に、沖永良部の役人になったり実際に赴任していたと思われる記録がわずかに残っています。今回はその中でもVol.367で以前にも書いたことがありますが、1575年3月の尚永王の時代に35歳(1540年生まれ)で沖永良部島の役人になった容義貫の話です。容義貫は実際に沖永良部島に赴任していたかどうかは明確ではありませんが、彼は沖永良部島の永良部首里大屋子の娘であった真鶴と結婚しています。容家の家譜からは、義貫は役人としか記載が無いので首里大屋子であったかは不明です。この頃に首里大屋子として沖永良部の大屋子であったのは栄吉久という人物です。彼は1568年に35歳で任命...Vol.416容家は尚家の人だった

  • Vol.415 島伊名重の書から⑥驚きましたよ!

    可能な範囲で調べた島伊名重やシマクル(屋号)について書いてきましたが、なんとなんと驚くべきことが。先日、本土在住の島家の子孫の方からご連絡を頂いたのです!島伊名重の直系の方ではありませんが、伊名重の兄弟の子孫にあたる方です。Aさんとしましょう。このAさんは少し前から先祖調査を始められていて、私のこのブログに辿り着いたのだそうです。何というタイミング、、、南海にある小さな小さな沖永良部という島のご先祖さまについて調べていらっしゃる過程で、私のブログを見つけてくださった偶然。これはもうきっとご先祖様が導いてくださったご縁でしょうね。近いうちに直接お会いしてお話をすることとなりました。とても楽しみです♬沖永良部島のご先祖探し、本当に様々な方々とご縁が繋がってきております。私が思っていた以上に、いろいろな家と繋が...Vol.415島伊名重の書から⑥驚きましたよ!

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