多井畑厄除八幡宮のすぐそば、本来なら海岸付近に生息するウバメガシの広がる大きな枝の傘の下、猿田彦神社に2024年最初の参拝。
丹波紅葉三山の一つとして有名な圓通寺だがこの春、一本のイトザクラを観るために行くことにした。
ことのほか一本桜というものに強く惹かれる。数年前に圧倒された岐阜の薄墨桜の感動が私をそのように仕上げてくれたような気がする。樽見の大桜、県下最大のエドヒガン桜、樹齢は千年超え
日本古来の原種のヤブツバキ、樹齢は不詳だがその大きさから千年椿と呼ばれている。一帯は丹後天橋立大江山国定公園のエリアだ。
周囲は宝塚にあって川西の飛び地にある満願寺、聖武天皇の勅願によって勝道上人が創建して以来、それぞれの時代時代のヒーローたちに重要視されてきた寺院。高野山真言宗、本尊は開眼阿弥陀如来/めあきのあみだにょらい
樹齢300年を超えるエドヒガン桜の見事な枝ぶりと、丁寧に手をかけておられる境内をゆっくりと楽しませていただいた。
美女丸と幸寿丸の悲しくもはかない物語を今に残す寺、そしてそっと見守るかのように頼光四天王の筆頭である渡辺綱の御廟が境内を見渡せる場所にある。
明治に入り神社に移行した多田院/多田神社と区別するため地元では「たぶとじんじゃ」と呼ばれている。wikiより
源満仲をはじめ、頼光、頼信、頼義、義家の五公を祀る、清和源氏の聖地だ
三木市吉川町に国指定重要文化財の本殿がある2社を訪ねた
『如意寺旧記』によれば、大化元年/645年 法道仙人が多聞天の教化により当山に櫨/はぜの木に刻んだ地蔵菩薩と毘沙門天を祀ったのが起源とされる天台宗寺院
🔷長田神社廣田神社・生田神社とともに神功皇后以来の歴史を持つ名社、祭神は事代主大神、かつては境内には数百の鶏が飼われており、外国人からは「チキンテンプル」と呼ばれていたそうだ。
鎌倉時代の本殿と、10年毎に能楽を奉納する舞殿、三田市の大川瀬住吉神社に2023年正月に
和気清麻呂公開基、称徳天皇の勅願寺にして弘法大師大願成就のお寺が再度公園に隣接してある。この日は厳寒の折、ご住職は境内に私一人にもかかわらず黙々と火を燃やし続けてくれた。
かつての生田神社の神域領内で供米/くまい地だった熊内/くもち、滝寺と呼ばれる滝勝寺の鎮守として寺伝によれば文武天皇の時代に役小角が建立したという。
多数の磐座群、境内外より弥生土器や石斧、石剣など種々の遺物が出土したこと、社頭の灯明台の神火は「灘の一つ火」と呼ばれる常夜灯...保久良神社の社記によると、神功皇后が三韓征伐から帰られた後、広田・長田・生田神社を祭った後、保久良に宝物を収めたとされてい
浄土寺の国宝阿弥陀如来像が有名だが。街中の庶民の信仰場所を覗いてみた
現地の案内板に創建年代について人皇十代とも養老6年/722年ともとある。古書は焼失したとのことだが人皇十代といえば紀元前の話、定かではないが崇神天皇のころになる。
記録を書き始めるにあたって、HPを読んだが、その情熱の塊のような内容に驚くと同時に、私に何かできないだろうかとも思わせるものがあった。
但馬妙見 名草神社 出雲大社の三重塔ここにあり|養父市八鹿町
江戸時代寛文年間に行われた出雲大社本殿造営に際して当社の神木妙見杉を部材に提供した御礼として、出雲大社から譲られたという三重塔、寛文5年/1665年3月に移建された。三重塔、本殿、拝殿の3棟が国の重要文化財に指定されている。 近世以前は但馬妙見と呼ばれ、妙見(北
799年/延暦18年4月9日、布引の滝の大洪水で崩れかけた場所から、村人の刀祢七太夫が御神体を背負い、7,8日ご鎮座地を探しめぐっていると、突然御神体が重くなったため「これは御神意であろう」と安置したという。その場所が今の生田の杜である。
生田神社を調べるうちに、かつてはこの布引渓谷のある場所、砂子山(いさごやま)別名円山にあったという。今では布引山と言われるあたりのことらしい。
甑岩神祠/しんしは甑岩村にあり祭神巨岩にして倚畳甑/きるいこしきの如し、此地の産土神/うぶなすがみとす。古代からの磐座信仰をしっかりと守りつつ、今の時代、えべっさんを主祭神とされている。
えべっさんの名で関西では有名な神社の一つ。元は廣田神社の境外摂社であり、主祭神の変更、社名の変更など気になる歴史を持つ神社だ。延喜式神名帳の摂津国菟原(うばら)郡に記されている大国主西神社の比定地をめぐって越木岩神社との結論は未だ出ていないようだ。
廣田神社の境外摂社・末社の中で六甲山神社/むこやま--が唯一飛び出した場所にある。まぁかつては六甲山も廣田神社の社領であったのだからおかしくはなく、廣田神社の奥宮と言う説もあるようだ。ところが調べてみると石の宝殿を作ったのは越木岩神社の関係の人だというから複
廣田神社のHPの摂末社のご案内で紹介されている境外末社を、前回の摂社5社同様、記載されている順に参拝してみた。末社は全部で6社あるが、最後の六甲山神社のみ後日改めて記録する。
廣田神社のHPの摂末社のご案内で紹介されている中で、境外摂社、境外末社を順次参拝してみた。甲山に六甲山から、御前浜に至るまでに及ぶ廣田神社の社領は広大だ。
神功皇后が建国初の海外遠征に大勝利を収めて瀬戸内海を通り難波宮に凱旋する途中、船が動かなくなり西宮の港に入ったところ、天照大御神荒御魂のおつげがありこの地に祀られることになった
生田裔神八社の中の八柱目、八宮神社は、神戸市中央区楠町に鎮座、六宮神社を合祀している。
生田神社の八柱の裔神を祀った一宮から八宮までの生田裔神八社の中の七柱目。祭神の大己貴命が七つの名を持つことから七宮神社と呼ばれた経緯、平清盛ゆかりの地、そして兵庫にて栄華を極めた北風家の先祖神の天児屋根命を祀る。
生田裔神八社の中の六柱目、六宮神社はかつて現在の広厳寺/楠寺の前に鎮座されていたが、明治42年12月に、楠高等小学校の新設により、八宮神社の御社殿に合祀されることになり今に至る。
生田裔神八社の中の五柱目、五宮神社は、住所もそのまま兵庫区五宮町にある。古来より奥平野の鎮守であった。
生田裔神八社の中の四柱目、四宮神社は兵庫県庁の北側にある。ビルとビルの隙間に赤い鳥居と弁財天ののぼりがはためいている。
生田神社の八柱の裔神を祀った一宮から八宮までの生田裔神八社の中の三柱目。境内からは神戸大丸も見え三宮の名の由来でもある。
生田神社の八柱の裔神を祀った一宮から八宮までの生田裔神八社の中の二柱目。まさに勝、吾は必ず勝ちて負けること無し、勝ち進む速さは日の昇るがごとし とホームページにある。
時は201年、神功皇后が三韓征伐から凱旋帰国の途中、生田神社を建立。そして神のお告げにより生田神社周辺の八社を巡拝、その参拝順に従って一宮~八宮と名付けられたそうだ
伊勢神宮内宮にお祀りされる天照大神の和魂/にぎみたま、あるいは妹神と伝えられ、稚くみずみずしい日の女神様であり、物を生み育て万物の成長をご加護する神様として、ご崇敬を集めています。HP由緒より
瀬織津姫、旅先でのその名を知ること幾度、調べるも神秘的な謎が深まるばかりだった。そして子供のころからよく登った六甲山がその重要な場所だと知って驚いた。
寺伝によれば651年/白雉2年、孝徳天皇の勅願により法道仙人が開山したとされ、延命地蔵と称する地蔵菩薩を本尊とする。さらに747年/天平19年、行基が薬師堂を建立し、823年/弘仁14年、嵯峨天皇の勅願により三重塔を建立したとの伝えもある。山号は岩嶺山。
神戸市北区山田町の総鎮守、六條八幡宮。由緒には神功皇后に始まり、基燈法師、そして源為義が名を連ねる。名の由来は当時山田庄の領主であり社殿を寄進した源為義の通称が六条判官であったことに由来する。。三重塔がそびえ、神仏習合の名残を感じる。
飛鳥時代に創建され、大日如来を本尊とする。平安仏9体の内5体は国の重要文化財、1体は県の重要文化財。
🔷伽耶院/がやいん飛鳥時代に法道仙人による開基、寺の歴史は様々な物語を奏でており、今は近畿地方では最大の規模を誇る大護摩が行われる修験寺院として名を馳せている。
本尊は薬師如来。聖徳太子の開基、行基菩薩の中興、巨大な古代寺院を含む34もの堂宇があったとされる。直近に訪れた「黒谷若宮八幡宮」「秋津住吉神社」とついさっきの「天神一之宮神社」も掎鹿寺/はしかじと習合していたのだ。
正確な創立は不詳のようだが、714年成立の播磨風土記に記載があることから歴史深い場所なのだ。加東市、一之宮神社へ。
全国2300社の住吉神社の中で「住吉七社」に比定される秋津住吉神社に行ってきた。ここでは毎年4月29日に奉納される、雨乞い神事「秋津百石踊」が名高い。
天平2年/730年に創建されたと伝わる日岡神社に立ち寄った。安産の神として有名だが、日本武尊の母の日岡御陵も興味深い。
秋祭りは報恩寺の神輿、隣りの平之荘神社では2月には小学6年生による狂言舞台。そして鎌倉時代から室町時代にかけての石造遺品の宝庫と聞き加古川市平之荘に行ってみることにした。
秋祭りは報恩寺の神輿、隣りの平之荘神社では2月には小学6年生による狂言舞台。そして鎌倉時代から室町時代にかけての石造遺品の宝庫と聞き加古川市平之荘に行ってみることにした。
厳格な世襲的宮座制度によって7世紀の永きにわたって伝え続けられてきた神事舞、五穀豊穣・無病息災を願って毎年10月に行われる。歴史感たっぷりの上鴨川住吉神社を訪れた
軒唐破風造は全国的にも希少で、神社建築では現存する最古のもの。建立時期については、内陣の羽目板壁に記された墨書の内容から永禄7年/1564年に上棟したことがわかっている。
🔷朝光寺法道仙人により孝徳天皇白雉2年/651頃、開基されたと伝えられている。本尊は十一面千手観世音菩薩。本堂は国宝に、鐘楼は国の重要文化財に指定。高野山真言宗。山号は鹿野山(ろくやさん)
🔷栢谷山(かやたにさん)西林寺白雉2年/651年に法道仙人の開基平安時代中期に源信(恵心僧都)により中興高野山真言宗
🔷法華山 一乗寺 奥の院
🔷法華山 一乗寺 西国三十三か所第二十六番札所の天台宗の寺院。創建は650年、孝徳天皇の勅願寺でもあり本尊は聖観世音菩薩。国宝三重塔は平安時代末期、承安元年/1171年の建立、日本を代表する古塔だ。
🔷太山寺(たいさんじ) 奥の院縄文時代から変わらぬ原生林とのこと。一抹の恐怖をも感じる自然の強烈なパワーが渦巻くといったイメージだった。三重塔と観音堂の間に奥の院への道がある ⊳境内図
🔷太山寺(たいさんじ) 三身山(さんしんざん) 天台宗 本尊薬師如来 定恵和尚開山 新西国三十三箇所第25番札所🔹裏ワザ!覚えやすいメールアドレスでEメール上級者の仲間入り! 🔹じゃらん⊳料理、温泉、おもてなし…クチコミで選ばれた人気宿
播磨国とは東は神戸市須磨区、西は赤穂市、北は三木、小野、西脇、神戸市北区淡河、そして南は瀬戸内海になる広いエリアだ。故に格式の高い神社も多く、5之宮までを各付けしている。🔷播磨国五之宮 高岳神社 /たかおかじんじゃ
播磨国とは東は神戸市須磨区、西は赤穂市、北は三木、小野、西脇、神戸市北区淡河、そして南は瀬戸内海になる広いエリアだ。故に格式の高い神社も多く、5之宮までを各付けしている。🔷播磨国四之宮 白國神社 🔹裏ワザ!覚えやすいメールアドレスでEメール上級者の仲
播磨国とは東は神戸市須磨区、西は赤穂市、北は三木、小野、西脇、神戸市北区淡河、そして南は瀬戸内海になる広いエリアだ。故に格式の高い神社も多く、5之宮までを各付けしている。🔷播磨國三之宮 住吉神社🔹裏ワザ!覚えやすいメールアドレスでEメール上級者の仲間
播磨国とは東は神戸市須磨区、西は赤穂市、北は三木、小野、西脇、神戸市北区淡河、そして南は瀬戸内海になる広いエリアだ。故に格式の高い神社も多く、5之宮までを各付けしている。🔷播磨國二之宮 荒田神社🔹裏ワザ!覚えやすいメールアドレスでEメール上級者の仲間
最高のドライブ日和5月3日、車を西へ走らせた。120年ぶりの大掛かりな修復を終えたばかりの観音堂と、日本一古いと言われる農村歌舞伎舞台を目指す。
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多井畑厄除八幡宮のすぐそば、本来なら海岸付近に生息するウバメガシの広がる大きな枝の傘の下、猿田彦神社に2024年最初の参拝。
🔷時系列でメモ代わりにダラダラとクリップしていきます
8世紀後半から伊蘇志臣/いそしのおみが拠点としていた地に立つ式内の大社。祭神は須佐之男命、宝塚随一の古社で、兵庫スサノオ四社のひとつ
行者山などが連なる山脈の端に位置し祭神は大山祇尊、境内にある恵比寿神社社殿は元清荒神清澄寺にて三宝大荒神が祀られていた社殿、見事な天保年間<1831-1845年>の作。
樹齢600年のさざんか、花の時期に遅かったのだがその雄姿を見たくて立ち寄ってみた。
法道仙人千日の行法の地、葛野庄/かどののしょうの総氏神、主祭神は神武天皇の父、咩咩草葺不合尊/ウガヤフキアヘズノミコト
牛馬の守護神舟城の天王さん、そして身を護る不思議の4文字サムハラの御神札授与とある。神仏習合の名残りたっぷり
兵主神社/ひょうずじんじゃ、は日本に19社ある兵庫/つわものぐらの鎮守、奈良時代、天平18年/746年の創建。疱瘡の守護神として広く知られる。
1960年以降埋め立て以前は大鳥居周辺は砂浜であり、文字通り「海の神社」であった。伊和神社・粒坐天照神社とともに播磨三大社とされる。
直良信夫の発掘調査により縄文時代の前期(約5,500年前)の土器が出土し、さらに旧石器時代(約12,000年前)のナイフ形石器も出土。近畿地方を代表する縄文遺跡である。
紫陽花と紅葉が有名な真言宗の寺院、最も美しい楼門と言われる雄姿、その先に見える紅葉参道が圧巻だ、立ち寄らないわけにはいかない。
古くは神功皇后、そして八幡太郎義家、そして4代将軍 徳川家綱ゆかりのこの地、かつては船寺という寺があったことからその鎮守としての始まりだった
一本の木を見る、というより会いに行く。群生の木花も見ものだが、ここ数年は一対一に面白みを感じている。南あわじ市の八木のしだれ梅、色合い、枝ぶりと実に見事だった。
箕面勝尾寺参拝のあと、車を北へ豊能町方面だ、戦国の武将、キリシタンであり利休七哲の一人でもある高山右近の故郷を見てみたい。
勝尾寺では「勝つ」とは他者を打ち負かすことではなく「自分と向き合い、自分の弱い心に打ち勝つ」という意味
箕面大滝の見事な美観に酔いしれたあとは一目千本、中千本と西側の山手を歩いた。滝道の混雑とは違い出会った方は数名だった。
瀧安寺のすぐ横の紅葉橋から、箕面大滝までを記録する。途中五月山への分岐、勝尾寺への参道と好奇心が騒いだ。
日本最初にして最古の弁財天と言われる。この日も芸能関係と思われる人が参拝されていた。宝くじ発祥の地というのも興味深い
みのお聖天 西江寺を出て滝に向かって歩く。道々の建物や風景を楽しみながら
今年の<2023年>紅葉狩りの締めくくりに、箕面公園で丸一日過ごすことにした。見どころたっぷりで、本当に楽しい一日だった。
丹波紅葉三山の一つとして有名な圓通寺だがこの春、一本のイトザクラを観るために行くことにした。
ことのほか一本桜というものに強く惹かれる。数年前に圧倒された岐阜の薄墨桜の感動が私をそのように仕上げてくれたような気がする。樽見の大桜、県下最大のエドヒガン桜、樹齢は千年超え
日本古来の原種のヤブツバキ、樹齢は不詳だがその大きさから千年椿と呼ばれている。一帯は丹後天橋立大江山国定公園のエリアだ。
周囲は宝塚にあって川西の飛び地にある満願寺、聖武天皇の勅願によって勝道上人が創建して以来、それぞれの時代時代のヒーローたちに重要視されてきた寺院。高野山真言宗、本尊は開眼阿弥陀如来/めあきのあみだにょらい
樹齢300年を超えるエドヒガン桜の見事な枝ぶりと、丁寧に手をかけておられる境内をゆっくりと楽しませていただいた。
美女丸と幸寿丸の悲しくもはかない物語を今に残す寺、そしてそっと見守るかのように頼光四天王の筆頭である渡辺綱の御廟が境内を見渡せる場所にある。
明治に入り神社に移行した多田院/多田神社と区別するため地元では「たぶとじんじゃ」と呼ばれている。wikiより
源満仲をはじめ、頼光、頼信、頼義、義家の五公を祀る、清和源氏の聖地だ
三木市吉川町に国指定重要文化財の本殿がある2社を訪ねた
『如意寺旧記』によれば、大化元年/645年 法道仙人が多聞天の教化により当山に櫨/はぜの木に刻んだ地蔵菩薩と毘沙門天を祀ったのが起源とされる天台宗寺院
🔷長田神社廣田神社・生田神社とともに神功皇后以来の歴史を持つ名社、祭神は事代主大神、かつては境内には数百の鶏が飼われており、外国人からは「チキンテンプル」と呼ばれていたそうだ。
鎌倉時代の本殿と、10年毎に能楽を奉納する舞殿、三田市の大川瀬住吉神社に2023年正月に
和気清麻呂公開基、称徳天皇の勅願寺にして弘法大師大願成就のお寺が再度公園に隣接してある。この日は厳寒の折、ご住職は境内に私一人にもかかわらず黙々と火を燃やし続けてくれた。
かつての生田神社の神域領内で供米/くまい地だった熊内/くもち、滝寺と呼ばれる滝勝寺の鎮守として寺伝によれば文武天皇の時代に役小角が建立したという。
多数の磐座群、境内外より弥生土器や石斧、石剣など種々の遺物が出土したこと、社頭の灯明台の神火は「灘の一つ火」と呼ばれる常夜灯...保久良神社の社記によると、神功皇后が三韓征伐から帰られた後、広田・長田・生田神社を祭った後、保久良に宝物を収めたとされてい
浄土寺の国宝阿弥陀如来像が有名だが。街中の庶民の信仰場所を覗いてみた
現地の案内板に創建年代について人皇十代とも養老6年/722年ともとある。古書は焼失したとのことだが人皇十代といえば紀元前の話、定かではないが崇神天皇のころになる。
記録を書き始めるにあたって、HPを読んだが、その情熱の塊のような内容に驚くと同時に、私に何かできないだろうかとも思わせるものがあった。
江戸時代寛文年間に行われた出雲大社本殿造営に際して当社の神木妙見杉を部材に提供した御礼として、出雲大社から譲られたという三重塔、寛文5年/1665年3月に移建された。三重塔、本殿、拝殿の3棟が国の重要文化財に指定されている。 近世以前は但馬妙見と呼ばれ、妙見(北
799年/延暦18年4月9日、布引の滝の大洪水で崩れかけた場所から、村人の刀祢七太夫が御神体を背負い、7,8日ご鎮座地を探しめぐっていると、突然御神体が重くなったため「これは御神意であろう」と安置したという。その場所が今の生田の杜である。