藤の開花時期と合わせて開園され、藤まつりが開催される。最長1m45㎝にもなる藤の花房、白・紫・ピンクなどの花が、谷風に揺らぐ、そして魔性の香り
藤の開花時期と合わせて開園され、藤まつりが開催される。最長1m45㎝にもなる藤の花房、白・紫・ピンクなどの花が、谷風に揺らぐ、そして魔性の香り
多井畑厄除八幡宮のすぐそば、本来なら海岸付近に生息するウバメガシの広がる大きな枝の傘の下、猿田彦神社に2024年最初の参拝。
🔷時系列でメモ代わりにダラダラとクリップしていきます
8世紀後半から伊蘇志臣/いそしのおみが拠点としていた地に立つ式内の大社。祭神は須佐之男命、宝塚随一の古社で、兵庫スサノオ四社のひとつ
行者山などが連なる山脈の端に位置し祭神は大山祇尊、境内にある恵比寿神社社殿は元清荒神清澄寺にて三宝大荒神が祀られていた社殿、見事な天保年間<1831-1845年>の作。
樹齢600年のさざんか、花の時期に遅かったのだがその雄姿を見たくて立ち寄ってみた。
法道仙人千日の行法の地、葛野庄/かどののしょうの総氏神、主祭神は神武天皇の父、咩咩草葺不合尊/ウガヤフキアヘズノミコト
牛馬の守護神舟城の天王さん、そして身を護る不思議の4文字サムハラの御神札授与とある。神仏習合の名残りたっぷり
兵主神社/ひょうずじんじゃ、は日本に19社ある兵庫/つわものぐらの鎮守、奈良時代、天平18年/746年の創建。疱瘡の守護神として広く知られる。
1960年以降埋め立て以前は大鳥居周辺は砂浜であり、文字通り「海の神社」であった。伊和神社・粒坐天照神社とともに播磨三大社とされる。
直良信夫の発掘調査により縄文時代の前期(約5,500年前)の土器が出土し、さらに旧石器時代(約12,000年前)のナイフ形石器も出土。近畿地方を代表する縄文遺跡である。
紫陽花と紅葉が有名な真言宗の寺院、最も美しい楼門と言われる雄姿、その先に見える紅葉参道が圧巻だ、立ち寄らないわけにはいかない。
古くは神功皇后、そして八幡太郎義家、そして4代将軍 徳川家綱ゆかりのこの地、かつては船寺という寺があったことからその鎮守としての始まりだった
一本の木を見る、というより会いに行く。群生の木花も見ものだが、ここ数年は一対一に面白みを感じている。南あわじ市の八木のしだれ梅、色合い、枝ぶりと実に見事だった。
箕面勝尾寺参拝のあと、車を北へ豊能町方面だ、戦国の武将、キリシタンであり利休七哲の一人でもある高山右近の故郷を見てみたい。
勝尾寺では「勝つ」とは他者を打ち負かすことではなく「自分と向き合い、自分の弱い心に打ち勝つ」という意味
箕面大滝の見事な美観に酔いしれたあとは一目千本、中千本と西側の山手を歩いた。滝道の混雑とは違い出会った方は数名だった。
瀧安寺のすぐ横の紅葉橋から、箕面大滝までを記録する。途中五月山への分岐、勝尾寺への参道と好奇心が騒いだ。
日本最初にして最古の弁財天と言われる。この日も芸能関係と思われる人が参拝されていた。宝くじ発祥の地というのも興味深い
みのお聖天 西江寺を出て滝に向かって歩く。道々の建物や風景を楽しみながら
丹波紅葉三山の一つとして有名な圓通寺だがこの春、一本のイトザクラを観るために行くことにした。
ことのほか一本桜というものに強く惹かれる。数年前に圧倒された岐阜の薄墨桜の感動が私をそのように仕上げてくれたような気がする。樽見の大桜、県下最大のエドヒガン桜、樹齢は千年超え
日本古来の原種のヤブツバキ、樹齢は不詳だがその大きさから千年椿と呼ばれている。一帯は丹後天橋立大江山国定公園のエリアだ。
周囲は宝塚にあって川西の飛び地にある満願寺、聖武天皇の勅願によって勝道上人が創建して以来、それぞれの時代時代のヒーローたちに重要視されてきた寺院。高野山真言宗、本尊は開眼阿弥陀如来/めあきのあみだにょらい
樹齢300年を超えるエドヒガン桜の見事な枝ぶりと、丁寧に手をかけておられる境内をゆっくりと楽しませていただいた。
美女丸と幸寿丸の悲しくもはかない物語を今に残す寺、そしてそっと見守るかのように頼光四天王の筆頭である渡辺綱の御廟が境内を見渡せる場所にある。
明治に入り神社に移行した多田院/多田神社と区別するため地元では「たぶとじんじゃ」と呼ばれている。wikiより
源満仲をはじめ、頼光、頼信、頼義、義家の五公を祀る、清和源氏の聖地だ
三木市吉川町に国指定重要文化財の本殿がある2社を訪ねた
『如意寺旧記』によれば、大化元年/645年 法道仙人が多聞天の教化により当山に櫨/はぜの木に刻んだ地蔵菩薩と毘沙門天を祀ったのが起源とされる天台宗寺院
🔷長田神社廣田神社・生田神社とともに神功皇后以来の歴史を持つ名社、祭神は事代主大神、かつては境内には数百の鶏が飼われており、外国人からは「チキンテンプル」と呼ばれていたそうだ。
鎌倉時代の本殿と、10年毎に能楽を奉納する舞殿、三田市の大川瀬住吉神社に2023年正月に
和気清麻呂公開基、称徳天皇の勅願寺にして弘法大師大願成就のお寺が再度公園に隣接してある。この日は厳寒の折、ご住職は境内に私一人にもかかわらず黙々と火を燃やし続けてくれた。
かつての生田神社の神域領内で供米/くまい地だった熊内/くもち、滝寺と呼ばれる滝勝寺の鎮守として寺伝によれば文武天皇の時代に役小角が建立したという。
多数の磐座群、境内外より弥生土器や石斧、石剣など種々の遺物が出土したこと、社頭の灯明台の神火は「灘の一つ火」と呼ばれる常夜灯...保久良神社の社記によると、神功皇后が三韓征伐から帰られた後、広田・長田・生田神社を祭った後、保久良に宝物を収めたとされてい
浄土寺の国宝阿弥陀如来像が有名だが。街中の庶民の信仰場所を覗いてみた
現地の案内板に創建年代について人皇十代とも養老6年/722年ともとある。古書は焼失したとのことだが人皇十代といえば紀元前の話、定かではないが崇神天皇のころになる。
記録を書き始めるにあたって、HPを読んだが、その情熱の塊のような内容に驚くと同時に、私に何かできないだろうかとも思わせるものがあった。
江戸時代寛文年間に行われた出雲大社本殿造営に際して当社の神木妙見杉を部材に提供した御礼として、出雲大社から譲られたという三重塔、寛文5年/1665年3月に移建された。三重塔、本殿、拝殿の3棟が国の重要文化財に指定されている。 近世以前は但馬妙見と呼ばれ、妙見(北
799年/延暦18年4月9日、布引の滝の大洪水で崩れかけた場所から、村人の刀祢七太夫が御神体を背負い、7,8日ご鎮座地を探しめぐっていると、突然御神体が重くなったため「これは御神意であろう」と安置したという。その場所が今の生田の杜である。