chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
意志による楽観主義のための読書日記 https://blog.goo.ne.jp/tetsu814-august

面白きこともなき世を面白くするのは楽観力、意志に力を与えるのが良い本 *****必読****推奨**閑なれば*ム

意志による楽観主義のための読書日記
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2015/07/14

arrow_drop_down
  • 秀吉と海賊大名 藤田達生 ***

    信長・秀吉・家康が東海地方から西に向けて進出して天下統一を目指したとき、その鍵を握ったのが瀬戸内海。伊予は中国、四国、九州を結ぶ要、瀬戸内海での鍵となる地域となっていた。そこで活躍した海賊衆が村上氏、来島氏らで、彼らを束ねたのが河野氏と毛利氏。彼らは西国に向けて天下統一を進めようとする秀吉との衝突を余儀なくされた。日本における「海賊」は外国のように一般の船を追い回して積荷を奪うような盗賊ではなく、設けられた海における海関を通る商用船など一般の船から決められた関銭を徴収することを権力者から任された存在だった。彼らは軍船を巧みに操る技を持つため守護大名や戦国大名の軍隊の一翼を担うこともあり、学術的には水軍と呼ばれる。瀬戸内地域では水路は陸路と表裏一体の位置づけであり水軍である彼ら一族が荘園の代官を務めることも...秀吉と海賊大名藤田達生***

  • 紫式部と藤原道長 倉本一宏 ***

    2024年大河ドラマ「光る君へ」の時代考証を務めた筆者が、ドラマの主人公二人について、史実を一次資料をもとに確認しながら、中世史専門家として二人にまつわる歴史的流れを推測していく一冊。解説は章立てに従うと次の通り。1.紫式部と道長の生い立ち紫式部の父藤原為時は文章生出身の学者であり、式部は生母と早くに死別した。出身地は当時の東京極大路と鴨川の間であり、現在の廬山寺あたり。一方の道長は藤原兼家の五男として966年生まれ、紫式部が973年生まれとすると7歳年上と推定できる。兼家が藤原家系であっても摂関家として確立したシステムはその時点ではなく、天皇家との関係において、次期天皇を生むことになる后を誰の家系から入内させるかという権力闘争が始まっていた。道長の幸運としては兄たちが成人する時点では父親の立場が不遇であ...紫式部と藤原道長倉本一宏***

  • AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争 ***

    以下Amazon解説より。本書には、「カラー化された」戦前から戦後にかけての写真が収録されています。当時の写真は、もっぱらモノクロです。カラーの写真に眼が慣れた私たちは、無機質で静止した「凍りついた」印象を、白黒の写真から受けます。このことが、戦争と私たちの距離を遠ざけ、自分ごととして考えるきっかけを奪っていないでしょうか。私たちはいま、AI(人工知能)と人のコラボレーションによって写真をカラー化し、対話の場を生み出す「記憶の解凍」プロジェクトに取り組んでいます。戦前の広島・沖縄・国内のようす。そして開戦から太平洋戦線、沖縄戦・空襲・原爆投下・終戦。自動カラー化ののち、写真提供者との対話、資料、SNSでの時代考証などを踏まえて仕上げた、約350枚のカラー化写真が収録されています。しあわせな暮らしが、少しづ...AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争***

  • 歴史探偵昭和の教え 半藤一利 ***

    2021年1月に逝去した著者のエッセイ集。生涯のテーマの一つだった二・二六事件を始めたとした昭和史、幕末、戦国時代の歴史の真相に迫るエッセイが綴られている。2.26事件を引き起こしたメンバー内では、宮城の占領計画があったというのは「昭和史発掘」で紹介された。近衛歩兵第三連隊の中橋中尉は、当日の自連隊が宮城護衛当番であったことを利用して、高橋是清邸襲撃後に、宮城に侵入して天皇を奉戴しクーデターを成功させようともくろんでいた。それが、他の連隊からの襲撃報告を受けた宮城護衛任務に就いていた将校により入門を拒否され失敗していた。クーデター首謀者たちは蜂起さえすれば天皇は味方してくれると信じていたが、現実は正反対であり、天皇はクーデター軍を反逆軍として激怒した。エッセイーは古事記、日本書紀の時代から戦中、戦後史に至...歴史探偵昭和の教え半藤一利***

  • 日本の近代とは何であったかー問題史的考察 三谷太一郎 ****

    政治史学を専門分野とする筆者による日本における明治維新による近世から近代に向けた変革ポイントは何だったのかを解説した一冊。近世と近代の違いについては、19世紀後半に英国のジャーナリストであったウォルター・バジョットの考察を紹介。近代とは「議論による統治」であり、前近代でもある近世の要素とは「慣習の支配」だとした。バジョットが慣習の支配からの変革要因として示したのは貿易と植民地化であり、議論による統治のために必要だったのは憲法と議会だった。日本では議会制と政党政治が明治初期に成立し、幕藩体制で胚胎していた「公議輿論」の要請に対応し東アジアでは例外的に成立した複数政党制が成立した。貿易に関しては明治政府が掲げた「殖産興業」政策の実現が良い影響を与えた。もう一つは租税制度の確立で国家資本の源泉となった。その資本...日本の近代とは何であったかー問題史的考察三谷太一郎****

  • なぜ必敗の戦争を始めたのか 陸軍エリート将校反省会議 半藤一利 ***

    太平洋戦争において陸軍中枢にいた高級参謀の将校たちが、戦後の昭和51年に大いなる反省を込めて情報と意見交換を行った座談会を、半藤一利が解説付きで編集したもの。特に、昭和15年(1940年)9月の日独伊三国同盟、北部、南部仏印進駐、独ソ開戦、御前会議、東条内閣成立、対米開戦のタイミングをそれぞれ軍参謀本部ではどのような視点で分析議論決断していったのかを紹介する。実際の歴史では、ワシントン体制、ロンドン軍縮条約などで軍備を抑え込まれた反動として起きてしまった1931年の満州事変、リットン調査団、国連脱退あたりからすでに引き返すことができない坂道を下り始めていた日本だったはずだが、開戦決断の直前まで政府内部では開戦回避の努力は続けられていたということ。本座談会で分かるのは、日本軍部の内部構造として、陸軍対海軍、...なぜ必敗の戦争を始めたのか陸軍エリート将校反省会議半藤一利***

  • 歴史でたどる領土問題の真実 保阪正康 ***

    北方領土、尖閣、竹島の話になるとナショナリスティックになってしまい、相手の言い分を聞くという姿勢になれない日本人が多く、そして相手国人も同様である。「わが国固有の領土」という言い方があるが、「固有」というのはずっと以前より継続的に認知された、という意味を持つが、いずれのケースでもそうとは言い切れない、というのが本書。事情はそれぞれ異なる。日本にとっての国家体制は江戸時代と明治維新以降の明治政府、そして太平洋戦争後の日本国政府でそれぞれ大きな変化があり、国民の意識も同様である。ロシアでは帝政ロシアから第一次世界大戦を経て1917年のロシア革命があり、1945年2月のヤルタ会談があり、そこでは8月の対日参戦を前提としたルーズベルトとスターリンの間でクリル諸島の領土化合意があったと考えている。ソ連軍はその合意に...歴史でたどる領土問題の真実保阪正康***

  • 日本軍政下のアジア ー「大東亜共栄圏」と軍票ー 小林英夫 ***

    東南アジアでは太平洋戦争中に日本軍による軍政下、国により状況は異なるが、貨幣としての軍票が現地における資材や食料などの調達用資金として使用された。軍票発行は戦争初期から末期に向けて急激に増加し、現地住民は超が付くインフレにより塗炭の苦しみにあった。アジア各国におけるインフレ率を示す物価指数は以下の通り。こうした経済状況に各国住民の対日感情は悪化、日本軍はその対応のための懐柔策として独立運動を支援する姿勢に転じ、形式的な独立を認めたが、実質的には日本軍政への協力を強制され、上辺だけの独立は、住民の困窮に対して何の足しにもならなかった。戦後賠償では1951年のサンフランシスコ講和条約に基づく国家単位での借款による施設建設や賠償が行われたが、ソ連、ポーランド、チェコスロバキアは調印せず、49か国による調印となっ...日本軍政下のアジアー「大東亜共栄圏」と軍票ー小林英夫***

  • 日英同盟 同盟の選択と国家の盛衰 平間洋一 ***

    日英同盟締結は1902年、日露戦争の2年前であり、イギリスが欧州で対立するロシアを東側からの牽制勢力としての新興国日本に期待しての同盟だった。朝鮮半島を舞台に東アジアでの権益でロシアと張り合っていた日本にとっても渡りに船であり、欧米諸国に伍していきたいという当時の日本のプライドにも合致した、世界の一等国英国との同盟だった。締結直後に出来した日露戦争では、ロシアへの牽制委勢力としての英国は、大きく迂回して進むバルティック艦隊への、途中の補給基地における妨害を通じて、日本の海戦勝利に大きな役割を果たした。小さなアジアの小国日本の勝利は欧米諸国にもアジアにおける国民国家誕生を知らしめた。しかし、日露戦争後の日本の戦後賠償に対する姿勢は、領土意欲が強烈であり、その後の大陸進出への懸念から欧米からの不信を生じる結果...日英同盟同盟の選択と国家の盛衰平間洋一***

  • ジョン・モリスの戦中ニッポン滞在記 *****

    筆者のジョン・モリスは戦後のBBC日本語部長であり、1938年から1942年7月までの戦中は日本の外務省により招かれた外務顧問であり、東京文理大学や慶應義塾大学で英文学を教えていた経歴を持つ。パールハーバー、英米との宣戦布告後は、多くの外国人が敵性外国人として拘束される中、外務省により招聘されたという身分から、特高から尾行されながらも拘束は免れていたという。1895年イギリス生まれで、ケンブリッジ大学を第一次大戦の兵役をはさんで卒業、、インドに渡航、旅行や探検、登山に従事、ケンブリッジ大学でマスターの学位を得たのち、1935-38年にはイギリス陸軍で少佐となり退役。1938-42年7月まで日本滞在、帰国後の1942年11月頃に本書を執筆した。執筆内容は、政治や経済はもとより、家庭、家、電話、お手伝い、和食...ジョン・モリスの戦中ニッポン滞在記*****

  • 学びとは何か 今井むつみ ***

    「学ぶ」とは「教わったことを覚える」「学習」と同義ととらえられる。学習するのは運動、言語、数の数え方、数学や物理、将棋や囲碁、掃除の仕方、機械の使い方など範囲は広い。人は誰もが自分で学ぶ力を持っているが、その最初のステップが母語の学習。親や先生に文法や語彙を教えてもらうことなしに、そもそも言語とは何かをも認識することなく発語、意味、規則などを一つ一つ学んでいく。言葉の意味を類推し語順の規則を覚えていくそのプロセスは「自分で問題を発見し、考え、解決策を見つける」つまり学習の基本的要素をすべて含んでいる。教育現場における教育の方法で「主体的に学ぶ力」がキーワードになるが、その子供の言語の学びにこそそのヒントがありそうだ。しかし、小中学生になり「第二言語」を学ぶ際には、外国語は苦手、途中でつまずいてしまうことが...学びとは何か今井むつみ***

  • 戦国仏教 中世社会と日蓮宗 湯浅治久 ***

    鎌倉時代から江戸時代にかけては一時的な寒冷期であり、特に15世紀には各地で干ばつ、冷害、地震などによる飢饉が連続して起きていた。一方、鉄器による灌漑や農耕技術の発展により鎌倉時代の初めころからは農民の自立が進んでいた。東国における武家政権樹立は旧来からの国家や貴族、そして奈良の旧仏教勢力による土地支配から、農民階層が離反したり自立を目指しての武装が進む。こうした状況は農村における貧困を助長し、全国規模での戦乱の増大を招いて、農村では疫病、飢餓が広がり、人々は信仰にすがった。しかし旧仏教は巨大な荘園を所有し武家による政権を補完する勢力でしかなく、鎌倉時代にその濫觴をもつ新仏教はこうした人々の期待にこたえるよう全国的な広まりを見せた。本書では、鎌倉仏教と呼ばれている浄土宗、浄土真宗、時宗、臨済宗、曹洞宗、そし...戦国仏教中世社会と日蓮宗湯浅治久***

  • 16世紀「世界史」のはじまり 玉木俊明 ***

    世界史のなかでのグローバル化は16世紀に始まったというのが本書。その先駆けとなったのはポルトガルとスペインの二国。イエズス会という組織に関係しながらイベリア半島に位置するこの二国が世界に進出、日本にも到達した。ヨーロッパでは1517年にマルチン・ルターにより宗教改革が引き起こされ、その影響は西欧全体に及んだ。プロテスタントが始めたその改革はカトリックが対抗宗教改革で世界にも飛び火、欧州各地で宗教戦争が勃発した。これが財政規律を国家に対して必要とすることにより中世的国家も国民国家としての近代化を進める結果となる。宗教改革の影響は信者獲得競争となって広がり、ライバルとしてスレイマン1世が率いるオスマントルコ帝国が目の前に現れた。勢力拡大を進めるイベリア半島の二国は世界を二分する契約を結び、スペインは主としてア...16世紀「世界史」のはじまり玉木俊明***

  • 空白の日本史 本郷和人 ***

    中世史を専門分野とする本郷和人が歴史上の多くの疑問に自説を展開する歴史エッセイ。白村江の戦があったのは中大兄皇子が友好国だった百済の滅亡を前に最後の抵抗を手助けする戦いだったが、唐の援助を得た新羅・唐連合軍に大敗北を喫した。遣唐使を送り続けていた大和朝廷は、国のお手本として見立てていた唐の国力を知っていたはずで、果たして勝てると考えていたのか。大和朝廷として朝鮮半島の南部に維持していた鉄供給拠点の権益も完全に失った。その結果、この敗戦以降は朝鮮半島への進出は秀吉の朝鮮半島侵攻まで900年以上も考えられなくなった。唐による日本列島への侵攻を恐れた中大兄皇子は、奈良の飛鳥から大津に遷宮して、九州や瀬戸内海沿岸、近畿に朝鮮式の山城を建設、北九州には防人を派遣し水城も築いた。中大兄皇子の死後、その子大友皇子と大海...空白の日本史本郷和人***

  • 細川家の叡智 組織繁栄の条件 加来耕三 ***

    本書は「細川家」とあるが、特に細川藤孝にかんする伝記である。藤孝は室町幕府の幕臣として生まれ12代室町将軍足利義晴、13代義輝に仕えた。15代義昭の擁立にも関与、義昭が織田信長に滅ぼされる折には上手く立ち回り、明智光秀の娘でガラシャ夫人として有名になった玉を息子の忠興の嫁に迎えたにもかかわらず、本能寺の変以降の混乱を生き残った。秀吉のもとでは朝廷との関係や敵将との交渉を担当して、秀吉から師父のように慇懃に遇され、家康も同様の扱いをつづけた。一方、まばゆいばかりの栄光があるかと言えばそれはない。老境に差し掛かると京の吉田に居を構え花鳥風月を友としてこの世を去った。息子忠興は家康の豊前小倉39万9千石の大名となり、孫の忠利は肥前熊本54万石の大大名となっている。藤孝自身は忠興とは別に死去するまで丹後4万石、但...細川家の叡智組織繁栄の条件加来耕三***

  • 地形と歴史から探る福岡 石村智 ***

    福岡と言えば思い起こすのは、明太子、豚骨ラーメン、人によっては中州や屋台、そして熱烈なファンも多いソフトバンクホークス。福岡、庶民にとっては博多、その地は荒海の玄界灘に臨み、遠い昔から新しい文化や人たちが朝鮮半島や中国大陸からの入り口ともなっていた。海を通してもたらされる文化や情報の影響を強く受けた福岡は、古代以前の縄文時代以来、日本列島の中でも最も早く稲作が始まった地であり、平安時代にはすでに唐人町があったとされる。博多は朝鮮半島との距離から、歴史的に外部からの侵攻を受けやすい場所、刀伊の入寇、元寇の襲来を受ける場所でもあった。一方、玄界灘から東シナ海、南シナ海をまたにかける倭寇は、当初は九州北部を拠点とし、後期には、中国大陸の人たちが中心となって活動をつづけたという。博多は商人たちが唐、宋、明などとの...地形と歴史から探る福岡石村智***

  • 飛鳥の木簡 ー古代史の新たな解明 市大樹 ***

    古代史と言えば、『日本書紀』『古事記』そして中国に残された史書の記述を頼りに事実を類推するのが関の山だったが、1990年代後半以降、3万点以上の飛鳥時代の木簡の出土が相次ぎ、古代史に関する新たな解明が進み始めた。発掘された木簡が使われたのは7世紀中ごろから8世紀中ごろまでの飛鳥時代から奈良時代初頭にかけてで、発掘場所は飛鳥浄御原宮跡から飛鳥京跡、藤原宮跡あたり。日本のこの時代の文字使用では紙が筆写材料として普及したころであり、木簡は何らかの意思伝達手段である「文書木簡」、物品管理用の「荷札木簡」、その他として文字の練習用として使われた「習書木簡」と考えられている。3は藤原宮跡からの出土品で役人の自画像のようであり、「渥」というサインが入っている。その下は「大」「夫」「干」のような文字が見られ人物が描かれる...飛鳥の木簡ー古代史の新たな解明市大樹***

  • 相続の日本史 安藤優一郎

    平成天皇時代には生前退位が話題になった天皇位。古代では終身在位が慣例で、40歳くらいの立派な成人になっていることが皇位継承の前提となっていた。そのため、崇峻が暗殺されたときにはまだ成人していなかった厩戸皇子は即位できないため、敏達の后だった額田部皇女が推古となり女帝として初めて即位した。また兄弟がいる場合には兄弟継承という基本ルールもあったが、天智天皇は大海人皇子ではなく直系の子孫である大友皇子に継がせようとする動きが生まれることで壬申の乱のような争乱が続発し始める。天武天皇没後、長男の高市皇子は筑紫豪族の娘との子だったため、鸕野讚良(持統)との間の次男草壁皇子、大田皇女との間の三男大津皇子が後継者候補となる。しかし草壁皇子は28歳で早世、大津皇子は謀反の罪をかけられ死去、鸕野讚良が即位して持統天皇となる...相続の日本史安藤優一郎

  • 「阿修羅像」の真実 長部日出雄 ***

     2009年、東京国立博物館で開かれた「国宝阿修羅展」に訪れた方は多いと思う。天平時代に作られた国宝八部衆像と国宝十大弟子立像の現存する14体が、鎌倉時代に作られた薬王、薬上両菩薩像、四天王像などの重要文化財とともに興福寺を出て、東京と九州の国立博物館で記録的な165万人という入場者を集めた。あの印象的な表情を持つ阿修羅像を興福寺でのようにガラスケース越しではなく直接像を拝観できるスタイルだった。本書は、本尊釈迦如来像を護衛する八部衆の中でスーパースター的な役割を与えられている修羅像のモデルはいるのかという問いへの一つの回答、それは聖武天皇の皇后、光明皇后ではないかというものである。飛鳥から奈良時代にかけては、厩戸皇子が推進した仏教導入、大陸文化重視の制震を受け継いだ中大兄皇子、唐風一辺倒に楔を打ちながら...「阿修羅像」の真実長部日出雄***

  • 宣教師ニコライと明治日本 中村健之介 ***

    駿河台に建つニコライ堂の名前や建物自体を知っている人は多いと思う。テレビや映画、文学作品にもよく登場するために、その建物や名前は東京の風景に溶け込んでいて、周りのビルに挟まれても、何かしら風格のようなものを漂わせている。1891年に竣工した建物の高さは35メートルで、平屋が多かった当時ならば、文明開化を迎えて多くの文明を受け入れ始めていた時代の人々でもをさぞ驚かせただろう。日本に正教会の教えをもたらしたロシア人司祭のニコライにちなんで建てられたのでそう呼ばれているが、この日本ハリストス正教会復活大聖堂をつくった大主教・ニコライ自身は、このお堂ほど一般には知られていない。本書の筆者はロシア文学の研究者、ドストエフスキーとニコライのかかわりを辿るうち、サンクトペテルブルクの歴史古文書館で大主教の日記を発見した...宣教師ニコライと明治日本中村健之介***

  • 金印偽造事件 「漢委奴國王」のまぼろし 三浦佑之 ***

    学校時代に習った「漢委奴國王」金印は本物なのか、その疑問について追及した一冊。決定的な証拠はないが、偽物と主張できる状況証拠は大いにある、という主張。X線による金属組成分析を行うことにより、同時代とされる中国にて発見された金印と比較可能であり、今後真偽に決定的な証拠が提出される可能性もある。本書調査時点では金成分95.1%の23Kであり、同時代の中国出土金印と同程度で、真贋論争に決着はついていない。疑問点は以下の通り。1.鋳造持ち手の部分の作りが稚拙であり、蛇を形どって鋳造しようとしたが蝋型が鋳造過程でつぶれてしまい鎌首と尻尾が胴体にくっついてしまったのではないかと疑われる。2.篆刻漢時代の篆刻は彫りあとは、本金印のようにV字型になるような薬研彫りではないはず。志賀島で発見された金印はきれいに彫り込まれて...金印偽造事件「漢委奴國王」のまぼろし三浦佑之***

  • 大江戸 武士の作法 監修 小和田哲男 ***

    図解が分かりやすい江戸時代の将軍、旗本・御家人たちの暮らし、作法、行事、仕事、軍事警備、専門職などについて解説した一冊。楽しみながら読める。一章暮らしの作法下級藩士の基本給は1日あたり玄米5合朝顔栽培や金魚の養殖は下級武士の収入源藩士たちの住む家は4畳半の極狭物件毎朝、髪を結ってくれる出張サービスが存在した他二章武術の作法剣術の流派の数は700以上あった多くの武士は刀だけでなく素手でも強かった甲冑の着方を知らない武士はたくさんいたかなり奇抜で個性的!和洋折衷な幕末の軍装他三章行事の作法元日の朝、家の主人が真っ先に向かうのは井戸!将軍自ら家臣にお菓子を渡す厄除けの行事8月1日は武士にとって正月の次に重要な日鬼は外!福は内!豆をまくのは12月他四章仕事の作法弱小大名でも将軍並みに偉くなれた出勤は朝5時!勘定奉...大江戸武士の作法監修小和田哲男***

  • 和姓に井真成を奪回せよ 越境の会 ***

    2004年、中国の西北大学歴史博物館から、唐時代の日本人・井真成の墓誌についての発表があった。西安の工事現場から発見された墓誌銘は、蓋と墓誌の二枚の石からなっていた。そこには、開元22年(734年)に36歳で遠く日本から遣唐使一員として渡来し勉学に励んでてきた若者、井真成が思いがけず亡くなったことが記されていた。その死を悼んだ当時の唐皇帝・玄宗は井真成に「尚衣奉御」という従五品上という官位を授けたという。当時の新聞報道では、遣唐使では唐代の名前に名字、名前を変える事が多かったとの考察より、井真成は河内の国紀郡井於郷出身の日本名は葛井(ふじい)、井上、白猪(しらい)との推論を発表した。本書は、その推論に疑念を持ち、「井」という和姓が現存し、そのまま唐でも名乗っていたのではないかという主張をしている。2005...和姓に井真成を奪回せよ越境の会***

  • 山東直砥 明治を駆けぬけた紀州人 中井けやき ***

    1840年生、明治維新後に教育、出版、薔薇輸入などで活躍した民間人で、紀州生れ、同郷の陸奥宗光の懐刀ともいわれたという。参議院議員の山東昭子の曽祖父。若くしては尊王攘夷思想に感化され、蝦夷地情勢を背景に北方防衛の必要性を感じて箱館裁判所に勤務。京にあっては、坂本龍馬、後藤象二郎、松本奎堂、松本良順などとも交わった。三河出身の松本奎堂は昌平黌の俊才として知られ私塾双松岡塾を開き山東と行動をともにしたが天誅組の変で自刃。土佐出身の坂本龍馬に山東は蝦夷地防衛の重要性を訴え共感を得たという。後藤象二郎には坂本龍馬とともに出会ったが、その後事業で困窮した後藤を山東が度々援助した。紀州出身の陸奥宗光と山東は、坂本龍馬とともに乗船した夕顔丸で出会う。下関条約締結時の外相を務めた陸奥と懇意だった山東は陸奥の懐刀と呼ばれた...山東直砥明治を駆けぬけた紀州人中井けやき***

  • 「地図感覚」から都市を読み解く 今和泉隆行 ***

    現在ではWebで見る地図が自宅においては最も便利で、出先でもスマホで確認が可能。出先で車移動するときにはナビがある、という状況が一般的。仕事や観光で未知の町に行くときでも、Googleで経路検索をして利用する交通手段を選ぶことができる。紙の地図の出番はあるのか、それは一覧性、2つ以上の情報参照などによる全体感把握。本書では、デジタル、アナログを問わず、地図を読むための感覚を研ぎ澄ますための情報を集めている。本書で言う「地図感覚」とは、1.距離感をつかむ2.道路や周辺環境より街の新旧を想像する3.主要施設の分布から街の発展過程、集客力を想像するそのために最初に、航空写真、地形図、昭文社地図とGoogleMap、Yahoo!地図、マピオン地図など様々な地図の特性に馴染むことを推奨する。そのうえで、身近な場所の...「地図感覚」から都市を読み解く今和泉隆行***

  • 秀吉を討て 松尾千歳 ****

    家康は海外交易に熱心だった。中国、東南アジアに赴く朱印船貿易にも力を入れ、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスとの貿易も奨励した。特に朝鮮出兵でずたずたになった明・朝鮮との関係修復に力を注いだが、明との強い結びつきを持つ島津氏に頼ることが必要だった。秀吉の死後、慶長の役から帰国した島津義弘が連れてきた明の軍将は義弘の引合せで家康に謁見し、家康は日明勘合貿易の復活を希望する書状を託し帰国させた。明国はこの書状を受け入れて慶長6年(1601年)福建から2隻の船が派遣されたが硫黄島沖で堺の商人に襲撃され船は沈められてしまい、この事件で勘合貿易の賦活は頓挫した。こうした事態の修復のためには島津による協力が不可欠、関ヶ原合戦後の島津氏処分が他の西軍大名に比べて遥かに軽微、というより全くお咎めがなかった理由はここ...秀吉を討て松尾千歳****

  • 日本人のルーツ探索マップ 道方しのぶ ***

    本書では日本人ルーツの探し方として次のポイントを上げている。1.なるべく多種多様の資料(遺跡データ、人骨、DNA、古気候、環境変化)に目を配る。2.特定の資料に過大な重みを付け初めに結論ありきで突っ走らない。3.分析結果の意外性や矛盾を切り捨てないでその原因も探る。そこで、時代を次の3つに分類して日本人の祖先となる候補地を探ってみたのが本書。最初に日本列島に渡った旧石器人のルーツとしては①南の島々のロードを遡る東南アジアの人々②狩人たちがサバイバル戦略として移住してきた南シベリアから中国北部の人々。③ローカルな多島海を挟んだ韓半島からロシア沿海州などの人々その後の縄文時代を支えた縄文人としては④大型ピアスのルーツを持つロシア沿海州南部から遼河流域の人々⑤縄文イネと木の匠のルーツでもある長江下流域の人々⑥漁...日本人のルーツ探索マップ道方しのぶ***

  • 井伊直虎 戦国井伊一族と東国動乱史 小和田哲男 ***

    おんな城主「直虎」として大河ドラマにも取り上げられたのが井伊直虎。同時代には、何人かのおんな城主がいた。一人は岩村城主遠山景任の妻で信長の叔母、もうひとりは赤松政則の妻洞松院尼、さらに今川寿桂尼は京都の公家中御門宣胤の娘で今川氏親に嫁いだ。氏親の死後落飾した後の名前が寿桂尼。それまでの名前も生年もわかっていない。このようにこの時代には男子の跡継ぎがいなくなった際に女子がしばらく跡継ぎを務める事例があり、今川領の遠江において女地頭として家督を継いでいたのが井伊直虎である。戦国時代の井伊氏は遠江守護となった斯波氏に臣従する浜名湖近辺の地方領主の一つだった。今川氏に攻め込められた井伊氏は1513年屈服させられ、その後今川氏に臣従した。井伊直平の娘は今川義元の側室となり、その後関口親永の妻となる、のちの家康の妻と...井伊直虎戦国井伊一族と東国動乱史小和田哲男***

  • 科学する麻雀 とつげき東北 ***

    2004年に発刊され、麻雀界隈では話題になった一冊。賛否両論あるというが、インターネット麻雀で無料利用できる「東風荘」はデータや牌譜を残しながら実践的にゲームを科学できるベースとなるというのが本書。筆者は統計的手法により、このゲームから得られた結果を分析し、あらゆる確率を算出、様々なケースに分類して負けない確率をあげるための方策を提示している。実例をいくつか上げてみる。法則1「自分が先制リーチならばテンパイ即する」例外は①ハネマン以上②ダントツTOP③6400以上のチートイ法則2「相手先制リーチへの対処→ノーテンなら降り」法則3「11順目迄にテンパイが難しそうであれば積極的に鳴く」法則4「配牌からの切り順①孤立した1,9牌②オタ風牌③役牌」法則5「相手へ圧力をかけろ。リーチと鳴き仕掛けが大事」法則6「チー...科学する麻雀とつげき東北***

  • 切腹の日本史 大野敏明 **

    自分で自分のお腹を刀で切り裂いて死ぬこと、これが切腹。人の手にかけられて斬首されたり馘首されるよりはずっと名誉ある武士の死に方とされ、農民や町民には名誉ある死に方とは認められてはいない。記録に残る初めての切腹事例は平安時代の袴垂、988年のことらしいが、はっきりした嚆矢は1186年の砂糖忠信と源義経。義経は衣川の館で追い詰められて妻の郷御前を刺殺した後刀で腹を切り、内臓を掴みだして自害したと伝えられる。自ら腹を切ることで死をまっとうするのは日本人独特な死に方とされる。切腹の理由としては、刑罰、責任を取る、潔白証明、抗議、殉死が考えられる。江戸時代以前は自分に不都合なことがある場合などにも切腹したが、次の合戦などで手柄を立てれば主君から認められる可能性も多かった。しかし江戸時代になると合戦がなく、不名誉は主...切腹の日本史大野敏明**

  • 海の日本史 江戸湾 石村智、谷口榮、蒲生眞紗雄 ***

    東京湾がその形を形成した頃、日本列島はまだ大陸と陸続きでナウマンゾウが日本列島に、そして江戸湾近辺にもいたことがわかっている。都営地下鉄新宿線の浜町駅工事中に発見された三体のナウマンゾウ化石、1万5千年前ころと考えられているが、それは後期旧石器時代、ヒトもこの東京の地に生きていた。ナウマンゾウ化石は田端、日本銀行本店、明治神宮前などでも見つかっている。ヒトの生活痕跡は3万5千年前の地層から斧型石器などが立川ローム層から見つかっており、これが日本列島の最も古い段階の石器文化と考えられる。ナウマンゾウは2万年前ころの最終氷期で絶滅していると考えられ、旧石器時代の狩猟活動もその要因かもしれないという。埼玉県富士見市の水子貝塚ではしじみ、牡蠣、ハマグリなどの貝塚あとが見つかっているが、縄文時代の海は関東平野の内陸...海の日本史江戸湾石村智、谷口榮、蒲生眞紗雄***

  • パンデミックvs.江戸幕府 鈴木浩三 ***

    ドラマでは描かれることが少ないが、日本史は疫病と災害の歴史でもあった。記録が多く残るのは江戸時代、初期は天然痘と麻疹、後半は外国からの流入が増えたインフルエンザとコレラが流行を繰り返した。初期には将軍や大奥を守る対策に終始したという対応だったのが、中期以降は町民の生活意識が高まり、災害や飢饉をきっかけにした打ち壊しが江戸の街機能を大きく損なう事態も出来したため、その対策を講じるようになった。その一つが御救銭給付で、1802年享和二年のインフル流行時に、江戸町奉行所は町民50万人の約半分を対象とした特別給付金配布を行った。単身者300文、二人以上の世帯には一人当たり250文。その日稼ぎと呼ばれる人たちがインフルに罹患すれば稼ぎに出られずすぐに生活に窮する。本人が無事でも家族が罹患すれば看病のために仕事は休ま...パンデミックvs.江戸幕府鈴木浩三***

  • 反骨の知将 帝国陸軍少将・小沼治夫 鈴木伸元 ****

    昭和時代の日本陸軍という硬直的な組織の中で、大佐、少将という高級将校、それも参謀本部に所属していた小沼治夫は、論理的思考方式と分析力を持っていたが、組織人、そして日本人としての愛国心ももっていた。最初にその真骨頂を発揮したのはノモンハン事件における分析報告である。近い将来、ソ連は今よりもさらに優勢な勢力となり我が国に対する脅威となるという分析。近代戦においては戦車の機動力や砲兵、飛行機による地上戦力の支援、ロジスティックスが必須であるという至極真っ当な主張だった。当時、日本兵の強みは寡兵であっても精神力が旺盛であることだと考えていた陸軍内部においては、ソ連の火力、兵站、経済的優勢を主張するのは相当な覚悟が必要。反体制的な主張ではなく、今の戦力ではソ連に勝てないよ、という冷静な分析だった。参謀本部上層部はそ...反骨の知将帝国陸軍少将・小沼治夫鈴木伸元****

  • 遊王 徳川家斉 岡崎守恭 ****

    在位50年、子どもは50人以上、種馬公方などと揶揄されることもある家斉は、映画やドラマでは主役というよりも愉快な脇役的扱いが多い。寛政の改革時代から文化文政の華やかな世の中、そして天保の改革の緊縮時代までを治めた伸びやかで好き放題を過ごした、江戸時代の絶頂とも言える時代の将軍の生涯を描く。八代将軍吉宗は紀州家、家康に倣い自分の血脈を続けるべく御三家以外に自分の血脈の次男宗武の田安、四男宗尹の一橋、孫の重好の清水の御三卿を創設した。この時代の将軍継承順位は将軍家の男子、田安家、一橋家、清水家となる。家斉は一橋家に生まれた。清水家は孫であり、その次の血脈が途切れ養子に次ぐ養子となり実質上の番外。当然吉宗の次の将軍は長男家重、そしてその長男家治となる。ここで一橋家の治済の思惑が田沼意次の協力を得て、継承順位が上...遊王徳川家斉岡崎守恭****

  • 江戸を歩く 文 田中優子、写真家 石山貴美子 ****

    江戸時代260年をかけて江戸の街は発展を遂げてきた。江戸の街に生まれ育ってきた文化に思いを馳せる時、現代の東京の街を歩いてみたい気がするもの。本書は写真家石山貴美子が撮影した東京の現代写真スナップを軸に、田中優子が江戸の街への思いを綴った。江戸の街とは朱引内と言われるあたりで、北は板橋、王子、千住、柴又、東は向島、浅草、両国、深川、木場、南は台場、品川、目黒、西は新宿、雑司が谷ここいらあたりのこと。本書では、入谷、千駄木、白山、根津、上野、湯島、本郷、小石川、神楽坂、四谷、神田、両国、日本橋、佃、芝、こうした場所を巡る。向島百花園、骨董屋の佐原鞠塢が隠居後の文化元年(1804年)に膨大な土地を購入して文人墨客を招くソロン的庭園を開いた。文人たちには梅の樹の寄付を呼びかけ、360株が集まり植物園とした。寄付...江戸を歩く文田中優子、写真家石山貴美子****

  • 旗本婦人が見た江戸のたそがれ 井関隆子のエスプリ日記 深沢秋男 ***

    タイトル通りの日記紹介で、幕末も近い水野忠邦の天保の改革が行われている天保11-15年の5年間にわたる個人の日記である。本書著者は昭和女子大学の名誉教授で「仮名草子」の研究者。本書は幕末期、江戸城に近い九段坂下(現在の九段会館の東隣)に暮らす一人の旗本婦人、井関隆子が56ー60歳までの5年間、亡くなる直前の898日間の記載がある日記。井関隆子は天明5年(1875年)四谷表大番町の旗本の家に生まれた。父は3000石をとる先祖から400石を分知された分家、大番(江戸城の警備)を務めていた庄田安僚(やすとも)。隆子は最初の結婚では事情があり一度離婚して、30歳のときに旗本井関親興と再婚。源氏物語などの古典や当時の書籍も含めた読書家であり、社会に対する批判的姿勢も含めて客観的視点を有するインテリであった。井関家は...旗本婦人が見た江戸のたそがれ井関隆子のエスプリ日記深沢秋男***

  • 海江田信義の幕末維新 東郷尚武 ***

    本書に紹介される海江田信義は西郷隆盛、大久保利通の同時代人であり、薩摩人。歴史上そんなに有名でない理由は、人によって彼の人格への評価がまちまちであり、特に江戸城引き渡し以降の薩長の指揮命令系統の乱れから、大村益次郎との確執があり、その後、大久保により京への異動を申し付けられたり、大村殺害の元凶と疑いをかけられたりしたことが影響しているのかもしれない。司馬遼太郎は大村益次郎を取り上げた「花神」でこの点を取り上げて、大村益次郎と対比させて、時代遅れで傲岸狷介、功利主義の小人として矮小化して表現している。海江田信義は、幕末の薩摩藩で極貧の武家に有村仁右衛門の長男として生まれ、11歳で俊斎を名乗る。その後、結婚して海江田を名乗るが、それまでは有村俊斎を名乗る。俊斎が西郷、大久保と知り合い尊王攘夷運動に挺身する様は...海江田信義の幕末維新東郷尚武***

  • 名門水野家の復活 福留真紀 ***

    江戸時代の水野家といえば、家康の母於大の方に連なる譜代の名家だが、6代の忠恒が享保10年(1725年)江戸城松の廊下で刃傷沙汰を引き起こして、水野家松本藩7万石は改易、水野家は信濃佐久藩7000石の旗本とされてしまった。本書はその後の水野家子孫たちがお家復興を遂げた物語。復活のきっかけは享保16年(1732年)に誕生した8代忠友が9歳にして、将軍吉宗の後の世子となる家重の子三歳の家治(幼名竹千代)の御伽役として側に仕えることとなることから始まる。御伽役の選抜基準は1万石以下3000石以上の家の惣領で8-10歳のもので、同時に選ばれたのは名門の血筋で後に老中となる久世広明、若くして亡くなる関盛時。忠友は吉宗に可愛がられ、家重にも重用されることになる。12歳で信濃佐久の家督を相続した忠友は家治付きの西丸小姓に...名門水野家の復活福留真紀***

  • 殿様と鼠小僧 老侯・松浦静山の世界 氏家幹人 ***

    甲子夜話の筆者として知られる松浦静山は本名は松浦清(まつらきよし)、江戸時代中期の大名で肥前平戸藩の第9代藩主である。松浦清は天保12年(1841年)に82歳でこの世を去ったが、生まれたのは宝暦10年(1760年)浅草鳥越の平戸藩上屋敷。母は上屋敷に務める女中久昌だった。平戸藩ではその3年前に世子(藩主の後継者)の松浦邦が26歳で病死したため、急遽世子となった政信の初めての男子だった。幼名は女中腹だったため内々の儀とされ山代英三郎殿と呼ばれた。しかしその後も政信には嫡子が生まれず、英三郎は嫡子となり、政信も37歳で逝去したため12歳の英三郎は次期藩主となり清と呼ばれる。1774年にはじめて将軍家治に拝謁、安永4年に祖父の誠信が藩主を引退し、清が16歳にして藩主の地位につき、平戸藩主松浦壱岐守清となる。以後...殿様と鼠小僧老侯・松浦静山の世界氏家幹人***

  • 幕末下級武士のリストラ戦記 安藤優一郎 ***

    山本政恒は天保12年(1841年)に徒士一番組山本左衛門の子として生まれ、本家の養子となり、徒士組としての勉学と剣術などの訓練に励む。安政3年御徒お抱えとなり、将軍家定の警固、とくに将軍外出時には影武者として振る舞うことを仕事とする。職場では先輩たちのいじめにもあうが我慢の末、ようやく仕事にも慣れてくる。しかし幕末になり、薩長勢への対抗のためには幕府側にも銃を装備した軍隊の必要性が高まり、徒士組は鉄砲隊となり、それまで行ってきた剣術、水術、槍術などの訓練は無用となり、射撃の訓練に明け暮れる。おまけに将軍警固職はなくなり、大政奉還、王政復古で職を失う。徳川宗家は800万石を抱え、6000人の旗本、36000人の御家人を養ってきたが、徳川宗家は70万石のいち大名扱いとなる。家族を抱え御家人の端くれとしての選べ...幕末下級武士のリストラ戦記安藤優一郎***

  • 江戸文化評判記 中野三敏 ****

    江戸文化に魅せられた筆者が、興味が尽きない江戸時代の文書から読み取れる主に文芸、絵画、思想などの分野に関するおもしろネタを披露した一冊。江戸時代の文化を鑑賞、評価するためには、大まかに江戸時代を三分類して考えてみようというのが筆者のおすすめ。前期は元禄をピークとする西鶴、近松、芭蕉の時代、中期は享保の改革から寛政の改革まであたりで国学蘭学が発展した時期にあたり上田秋成、平賀源内、杉田玄白、恋川歌町など。後期は化政期から明治初期(江戸時代生まれが大半)までで、一茶、山東京伝、十返舎一九、馬琴、三馬、北斎、春水、柳亭種彦などが活躍。前期は上方文化優勢の貴族的伝統文化、「雅」の時代で、後期になればなるほど江戸の庶民文化、「俗」な文化が優勢となる。浮世絵であれば、前期は菱川師宣、懐月堂派の美人画であり、美人の立ち...江戸文化評判記中野三敏****

  • おくのほそみち 芭蕉・蕪村・一茶 名句集 日本の古典を読む20 ***

    俳諧は、遠くは和歌、その後連歌を経て江戸時代に文芸として隆盛を極めた。江戸時代の文化を前期(17世紀)、中期(18世紀)、後期(19世紀)と分けて鑑賞してみる。17世紀の江戸文化といえばまず花開いたのが元禄時代。綱吉の治世で、俳諧では芭蕉が自然と人間を対比しながら、悠久の歴史と人の人生の儚さを詠む。「静けさや岩に染み入る蝉の声」「夏草や兵が夢の跡」「荒海や佐渡によこたふ天の河」。同時代には西鶴の浮世草子、人形浄瑠璃の近松門左衛門が人情と義理の間に立たされる人間の営みを描いた。18世紀になると吉宗の治世は享保の改革、田沼意次の経済対策、松平定信の寛政の改革など社会変革があり、飢饉や災害も相次いだ。画家としても才能を発揮した与謝蕪村は俳諧をより耽美的、叙情的なものに昇華。「牡丹散りてうちかさなりぬ二三片」「菜...おくのほそみち芭蕉・蕪村・一茶名句集日本の古典を読む20***

  • 江戸ー平安時代から家康の建設へ 齋藤慎一 ***

    江戸のまちは平安時代にその端緒がありそうだ。此地の支配者は埼玉県北部に根拠地を持つ秩父平氏であり、その後は畠山、河越、葛西、豊島氏などが鎌倉御家人となっている。清盛政権下では四男の平知盛知行地であり、秩父平氏一族その知行国の管理に携わった。江戸氏もそのうちの一族だったが、居留地だった豊島郡江戸郷の場所は特定されていない。名字は地名と連動し、芝崎殿ー大手町付近、桜田殿ー霞が関付近、国府方殿ー麹町、四谷、板倉殿ー東麻布、小日向殿ー小日向などがある。秩父平氏は河越氏を入間川渡河地点に、江戸氏を平川渡河地点に展開させたと推測され、鎌倉街道と平川の交差地点付近が根拠地と推定できる。室町時代、鎌倉公方を治めたのは足利氏、それを支えたのが関東管領の上杉氏で、太田道灌の時代には山内上杉氏と扇谷上杉氏の2家である。太田道灌...江戸ー平安時代から家康の建設へ齋藤慎一***

  • 日本書紀(上・下) 風土記 日本の古典を読む2,3

    日本書紀は天地開闢、神代の時代に始まり、持統天皇11年までの歴史を描く。第一巻二巻が神代、第三巻以降神武に始まり概ね天皇一人に一巻が割り当てられる。漢字自体の使用は5世紀以降と考えられるため、書紀においても5世紀以降の記述に信憑性の可能性が高まる。あとからの改変の履歴が散見され、大宝令以降の用語である「国司」「郡」などが推古天皇時代の記述に使われている例などがある。「天皇」という呼び名も本来は持統朝以降であり、その内容の信憑性には議論がある。実際、編纂時期から考えると、舒明天皇あたりからは当時の貴族たちの父や祖父の時代に当たり、古代氏族制から律令制に移行する中央集権の国家形成期。乙巳の変から大化の改新、壬申の乱への波乱に満ちた変動の時代であり、編纂担当者も祖父母、知人にも直接取材したであろう内容があるため...日本書紀(上・下)風土記日本の古典を読む2,3

  • 江と戦国と大河 日本史を「外」から問い直す 小島毅 ***

    帯に「伯父は信長、義兄は秀吉、義父は家康、夫は秀忠、息子は家光、娘は天皇の母」とある。お江は信長の妹である市の産んだ三女で、秀吉の弟に嫁ぎ、その後家康の息子秀忠に嫁いで、家光となる息子を産み、その娘は後水尾天皇の中宮となり、明正天皇となる娘を産んだ。江には5つの名前があったことが知られる。江、江与、小督、達子、徳子。このことから読み方は「ごう」であり、家康の娘にも江がいたため、於江与(おえよ)と呼ばれたらしい。秀忠が太政大臣となり、娘も中宮となったため、◯子という朝廷風で平安以来の伝統的名が付けられたが、こちらの読み方は不明である。女性で名前がわかっているのは将軍の正室や皇后、中宮などが記録に残るが、紫式部や清少納言など、呼び名はどこにも記録として残っていない。また彰子や定子という名前の読み方も不明であり...江と戦国と大河日本史を「外」から問い直す小島毅***

  • 雨月物語 冥途の飛脚 心ぢゅう天網島 日本の古典を読む19

    上田秋成は二作の浮世草子を明和三年(1766年)に書き、明和五年から八年をかけて「雨月物語」を著したという。本書ではその中から、菊花の約(ちぎり)、浅茅が宿、吉備津の釜、青頭巾の四話を紹介。菊花の約では、播磨国の学者丈(はせ)部左門は知人宅で病魔に臥す病人に出会い看病の結果、赤穴宗右衛門というその旅人は命拾いをする。意気投合した二人は義兄弟の契りを結ぶ。宗右衛門は生国の出雲で城主が討たれたとして、動静をうかがいたいと言い、重陽の節句には必ず戻ると約束して出雲に出立するが、魂だけが現れ、新城主尼子経久に命じられた赤穴の従兄弟に逆に討ち取られたという。左門は義兄弟赤穴の仇を取るべく出雲に向かい、仇である赤穴の従兄弟を見事に打ち取る。浅茅が宿。下総の富農を零落させてしまった勝四郎は、京で絹商人になり一旗揚げて秋...雨月物語冥途の飛脚心ぢゅう天網島日本の古典を読む19

  • 中世日本の予言書ー<未来記を読む> 小峯和明 ***

    本書に予言書として登場するのは「野馬台詩」、梁の武帝に命により宝誌和尚が作成したとされる。日本には遣唐使で中国にわたった吉備真備が持ち帰ったとされる。真備は717-735年にかけて唐の国に滞在し、752年にも再入唐したとされる。そこに書かれていたのは五言廿四句の漢詩で、中には「黄鶏代人食」黄鶏人に代わって食し「黒鼠喰牛腸」黒鼠牛腸を喰らう⇒このように下剋上で世の秩序は崩壊する、というような如何ようにも解釈できそうな詩歌。詩の冒頭に「東海姫氏国百世代天工」東海にある姫の国では百代の時代を経て天に代わり人の治める国となった、というくだりがあり、天皇家は100代まででその後は治世が大変化する、とも読める。日本では度々起きる天変地異や謀反、下剋上、内戦のたびに、こうした解釈が可能な出来事が起きて、そのたびに本書が...中世日本の予言書ー<未来記を読む>小峯和明***

  • 世間胸算用・万の文反古・東海道中膝栗毛 日本の古典を読む18

    出版がビジネスとなるようになったのは日本では江戸時代、寛永年間1620年代に、版画のように版木に文字や絵を彫りつけて刷る印刷技術により大量印刷が可能となったことによる。多くの消費者に届けようとするため、連歌、漢詩文、能狂言という文芸にとどまらず、近世小説、演劇、俳諧という庶民ジャンルの作品が世に出た。井原西鶴は寛永19年(1642年)生まれで刀剣を扱う商家の生まれだという説があるが不明。若いときから俳諧師として活躍、矢数俳諧という詠んだ句の多寡で評価する俳諧興行で一日で2万句を詠んだという。浮世草子というジャンルで1682年に「好色一代男」を発表、その後遊里を描く「諸艶大鑑」、諸国の奇談集「西鶴諸国ばなし」市中の恋愛事件などを描いた「好色一代女」町人の経済生活を取り上げた「日本永代蔵」そして庶民の大晦日に...世間胸算用・万の文反古・東海道中膝栗毛日本の古典を読む18

  • 風姿花伝・謡曲名作選 日本の古典を読む17 ***

    観阿弥と世阿弥親子により芸能の一大分野として確立された猿楽・能は、将軍義満により評価され保護育成された。1333年生の観阿弥は大和の多武峰付近で活動していた山田猿楽の美濃太夫の養子の三男。少年、女性、鬼、ありとあらゆる役を自在に演じ分ける芸域の広さを身に着けていた。1375年、今熊野での演能で演じられた猿楽が義満の目に止まった。観阿弥は御用役者として将軍家近辺での活動をするきっかけとなり、世阿弥は二条良基に引き合わされ、「藤若」(藤原氏の氏の長者から藤の一字を賜る栄誉)を得た。その後、観世大夫となった世阿弥は能のさらなる改革を試みる。1408年義満が死ぬと、義持は自分を冷遇した父への不満から父の政策をことごとく否定。増阿弥を贔屓とした。その後書かれたのが「風姿花伝」であり、世阿弥が競合する他の芸能者たちに...風姿花伝・謡曲名作選日本の古典を読む17***

  • 大奥の奥 鈴木由紀子 ****

    大奥が幕政に大いなる影響力を持っていたことを多くの事例で示す一冊。徳川将軍家では大奥、諸大名では奥向もしくは奥御殿、大奥ができたのは江戸城本丸の修築がほぼ完成した1606年で、秀忠が本丸に入った時。その時の大奥支配者は秀忠の御台所於江与、信長の妹お市の方の三女である。この於江与と対立したのが秀忠長男竹千代(後の家光)の乳母となったお福、後の春日局であり、明智光秀の家臣斎藤利三の娘、家光が将軍となるころ後々までの大奥の姿が固まった。徳川家の大奥は信長と光秀の子孫により支配されることで始まったと言える。ちなみに、於江与とお福は秀忠の長男竹千代と三男国松(後の駿河大納言忠長)のどちらを次の将軍とするかで対立するが、お福が強力に働きかけたことも影響したのか、家康の判断で長男が長子単独相続を定着させるとして竹千代を...大奥の奥鈴木由紀子****

  • 古事記 日本の古典を読む1

    古事記は和銅5年(712)に書かれた現存する最古の書物。しかし考えてみると現在からは1000年も前になる平安文学の源氏物語に先立つこと更に300年。時代感覚を取り違えそうになる。まだ平仮名もカタカナも発明される前に、中国から輸入した文字である漢字だけを使って古事記は書かれた。上中下巻3巻のうち、上巻では天地の始まり、神々の誕生、国土の生成を経て地上世界の主となる天皇の祖先が天の世界から降臨した経緯が語られる。伊邪那岐、伊邪那美という男女神が夫婦となり国土の島々を産んだ話、太陽神の天照大御神がきかん気で乱暴な弟の素戔嗚尊の振る舞いにより天ノ洞窟の引きこもり、天地が真っ暗になってしまう話、素戔嗚尊が八俣の大蛇を退治して英雄になる話、などが描かれる。葦原中津国という人間世界、神々の世界である高天原、死んだ伊邪那...古事記日本の古典を読む1

  • 宇治拾遺物語・十訓抄 日本の古典を読む15

    いずれも鎌倉初期の成立とされる説話集。宇治拾遺物語は源高明の孫で四納言の一人源俊賢の息子隆国が序文を寄せたとされ、宇治大納言と呼ばれた隆国が聞き集めた説話を元に加筆されたものというが、本当のところは不明。十訓抄のほうも編者不明の説話集。高校の古典の教材に取り上げられることも多い宇治拾遺物語は日本昔ばなしとして紹介されることもある説話も多い。宇治拾遺物語。伴大納言による応天門への放火の罪を源信になすりつけようとして罰せられた話。平貞文が本院の侍従に一途な恋心を抱いた話。藤原保昌が下向の途中で出会った平致経の父、得も知れぬ雰囲気に気圧され、下馬しない無礼を咎めることができなかった話。博打打ちの顔の悪い息子が見事な戦略で長者の娘と結婚した話。安倍晴明が少将の憑き物を見破って命を救った話。金峰山から金を採掘したが...宇治拾遺物語・十訓抄日本の古典を読む15

  • 河内源氏 元木泰雄 ***

    河内源氏は武士の始まりに連なる一族の一つ。本書は清和源氏の一つと言われる河内源氏に焦点を定めて清和天皇の孫に当たる源経基、その子源満仲の子の世代、摂津源氏の頼光、大和源氏の頼義、そして河内源氏の頼信を紹介。頼朝はその6代孫に当たる。摂津源氏では頼光の孫の代に多田源氏となる頼綱、美濃源氏となる国房がいる。河内源氏の派生には頼信の子で頼義、その子が八幡太郎となる義家がいて、その兄弟からは、佐竹氏、平賀氏、小笠原氏、武田氏が派生する。義家の子の世代が嫡流の義親がいて為義、義朝、そして頼朝へとつながる。義朝の兄弟に義賢がいてその子が木曽義仲。義親の兄弟に義国がいてその子の世代が新田義重と足利義康となる。武士の始まりは地方の荒くれ者ではなく、荒くれ者たちを束ねて統率し一定の目的を定めて土地を守る人たちの集団へと成長...河内源氏元木泰雄***

  • 古今和歌集・新古今和歌集 日本の古典を読む5

    今日は大晦日。今年出会った本の中でも本シリーズ「日本の古典を読む」は秀逸。以前チャレンジして二度も挫折していた源氏物語を始め、高校時代の古典の時間にわずかに触れただけであった「枕草子」「平家物語」など、書全巻を通して読むことは高いハードルであり、それでももう少し日本人なら知っておきたいという、微妙な距離感にあった日本の古典に親しむ機会になった事に感謝。本書は、そうした日本の古典の中でも、再三登場する和歌の集大成として日本の古典文学の中でも屹立する2つの山を紹介する。905年に成立した古今和歌集と1205年頃に成立した新古今和歌集は、勅撰和歌集の二大和歌集とも言える存在。古今和歌集の背景にあるのは、摂関政治で娘を入内させることで権力を握り続けた藤原氏の存在である。入内させた娘たちをより輝かせるために、その時...古今和歌集・新古今和歌集日本の古典を読む5

  • 徳川某重大事件 殿様たちの修羅場 徳川宗英 ****

    徳川家にまつわる歴史的エピソード集、文章が巧みなので読みやすく記憶にも残る。あわせて、筆者自身が徳川田安家の宗家、歴史的出来事が自分につながる、そのことをある意味自分事として捉えていて、歴史と現在のつながりを意識しているため、読者にも身近に感じられることが読みやすさにつながっている。読者にも身近に考えられる明治維新以降の出来事を第一章に配置して、第二章は家康関連、第三章が徳川時代の幕府と朝廷の関係、第四章が将軍家関連のおもしろエピソード、第五章が一揆やスキャンダルなど事件となっている。戊辰戦争では朝敵となったはずの徳川家だが維新後は華族の一員になっている。徳川八家の宗家、慶喜家は公爵、御三家は侯爵、三卿は伯爵、大正時代には水戸家が「大日本史」編纂が評価され公爵に叙された。天皇家はこうした徳川家との繋がりを...徳川某重大事件殿様たちの修羅場徳川宗英****

  • 日本の古典を読む4 万葉集

    古今和歌集のように整然とは編集されず、複数の編者により長い時間軸で編纂されたという万葉集。推古朝の時代から遣隋使やその後の遣唐使で伝えられる大陸の文化に対しても、倭国にも詩歌の文化がかくあリ続けている、という誇りを持てるよう作り出したようにも思える。全20巻のうちの第一巻の前半部が7世紀後半に成立し、そのあとに第一巻ののこりと第二巻で構成される初代万葉集が形作られた形跡があるという。第一巻が儀礼や旅の歌、宴席での歌である雑歌、第二巻は男女が主に交わす贈答歌である相聞歌と人の生死に関わる挽歌で構成された。その補遺として第三巻から16巻が位置づけられ奈良時代半ばに編纂されて、ここまでが第一部となる。第17巻から20巻が第二部であり奈良時代の終わりまでに完成する。このような継ぎ足した形をあえて残しているのは、日...日本の古典を読む4万葉集

  • 「その後」が凄かった! 関ケ原敗将復活への道 二木謙一 ***

    1600年に行われた関ヶ原の戦いは、その後徳川家康による政権が安定したため、西軍・東軍それぞれに加担した大名たちの260年にわたる運命を決定づけることになった。東軍に味方した諸将は優遇されて所領を増やし、西軍に味方した150名ほどの諸将の運命は惨憺たるものだった。本書はこの150名に焦点を当てて、関ヶ原のあとの各将の行方を決めた処世術や運命の分かれ目になった事柄を分析し、復活を遂げる知恵を探るもの。信長亡き後に権力を振るう秀吉に仕えることになった家康は、利家との力学を図りながら秀吉の寿命が尽きるのを辛抱強く待っていた。朝鮮出兵で秀吉家臣団の中に大きな亀裂が生じていたのをつぶさに観察していた家康は、秀吉の死後、五大老、五奉行、そして秀吉子飼いの諸将たちを、仲違いさせる方向に舵を切る。家康が豊臣家の置き目をな...「その後」が凄かった!関ケ原敗将復活への道二木謙一***

  • 日本の古典を読む13 平家物語 市古貞次 ***

    「徒然草」の作者兼好法師は、平家物語は後鳥羽院の御代の信濃の国の国司を務めた経験者で学識豊かな行長という人物が作者だと記した。平家物語成立後100年ほどの記述なので証言としては有力だが、信濃の国ではなく行長という人物は下野の前司は実在した。平家物語の作者として必要な知識や条件は次の通り。都の知識人、朝廷や宗教界、特に比叡山の情報に詳しい、歴史に関心が深いなどを考慮すると、行長である蓋然性は高い。行長の父である行隆は実務官僚として平家全盛時代に朝廷に精勤していた。朝廷の事情に通じ、平家物語の中にも登場する。比叡山延暦寺で天台座主に4度なった慈円は、保元の乱以降の戦乱の犠牲者を供養している。承久の乱直前には後鳥羽院を諌めようと愚管抄を書いて日本歴史を振り返り、当時の危機的状況を見つめている。そうした慈円の元で...日本の古典を読む13平家物語市古貞次***

  • 天皇陵の謎 矢澤高太郎 ****

    読売新聞で古代史を担当して古墳取材を続けてきた筆者による古代史と古墳被葬者解明に向けた情熱の1冊。日本にある宮内庁管轄の天皇陵、陵墓は896もあるが、立入禁止、発掘禁止であり、古代史研究者の現在の見解からすると、その9割の被葬者は宮内庁主張の被葬者とは別人だという。古代史専門家の森浩一によると、第9代開化天皇から42代文武天皇までの32基の陵墓の被葬者を評価、被葬者に疑問がないのは天武・持統合同陵と天智天皇陵の2つのみ。他の研究者がほぼ妥当と評価する用明、推古、舒明の各陵を含めても被葬者の疑いのない陵墓は5/32となる。森浩一の評価には実在しないとされる初代から8代目は除外されており、それも含めれば40基の宮内庁管理天皇陵のなかで、被葬者が宮内庁の主張どおりなのは5基のみということになる。陵墓には天皇陵以...天皇陵の謎矢澤高太郎****

  • 日本の古典を読む16 太平記 長谷川端 ***

    1991年の大河ドラマ「太平記」、おぼろげな記憶ではあるが足利尊氏は真田広之主演だったような。本書は太平記の現代語訳版。「太平記」は現存流布本で全40巻もある大書であり「南北朝・室町時代の最大の文学的遺産」とも評価されている。鎌倉時代後半の後醍醐天皇即位から鎌倉幕府滅亡、建武新政、室町幕府成立、観応の擾乱、義満の時代まで、数十年にわたる南北朝時代の戦乱を描く内容である。全体としてみると、全3部構成で、後醍醐天皇即位から鎌倉幕府の滅亡までの第1部、建武の新政とその失敗、南北朝分裂から後醍醐天皇の崩御までの第2部、南朝方の怨霊の跋扈による足利尊氏と直義、高師直対立など幕府内部の混乱を描いた第3部からなる。太平記の中でも特筆されるのは楠正成の英雄像造形であり、後醍醐天皇による倒幕運動に参画した正成が河内の国の赤...日本の古典を読む16太平記長谷川端***

  • 思考脳力のつくり方 仕事と人生を革新する四つの思考法 前野隆司 ***

    システムとは日本で言えば「コンピュータ・システム」のように使われることが多くて、システム・エンジニアといえばコンピュータ技術者なので、IT関連用語のように受け取られることが多い。本書では広義に捉えて、2つ以上の複雑な要素により組み合わされて成り立つ系のことで、人工物も自然物をも含まれる。本書では、会社や組織において仕事をする中で、学びや成長を経験していくと、自分自身の能力を活かすためにどのような専門性と考え方を身につけるかという分析論を展開する。成長の度合いや方向性は人がそれぞれに目指す方向性に依存する。1.まずは専門性を高めて仕事や研究対象を要素に分類、論理的、分析的に考える。多くの新入社員は、研修受講後に配属され、それぞれの部署に必要なスキルをOJT、OffJTを通して身につける最初の段階に当たるだろ...思考脳力のつくり方仕事と人生を革新する四つの思考法前野隆司***

  • 日本近現代史講義 成功と失敗の歴史に学ぶ 山内昌之、細谷雄一 ***

    日本近現代史というと明治維新を始点として語られるが、日本近代の礎は徳川政権の江戸幕府開始から築かれ始めていた。それまでの戦国混沌の時代から、国内戦闘がない全国統治が行われ、土地保有や貨幣鋳造、徴税制度についても日本全国の大名は江戸幕府の指示に従った。世界で見ればかつてのドイツ帝国やハプスブルグ帝国領邦国家としての王国や大公国、今のUAEにも近しいものがある。この時代は260年の安定を誇った。これを近代日本1.0とすると、明治維新後の日本が2.0、太平洋戦争後の日本が3.0と見ることが可能。本書は維新後の近代史を、立憲革命、東アジアと日清戦争、世界から見た日露戦争など、日本史を客観視する姿勢を示し、近視眼的歴史観を抑制しようとする。明治以降の日中関係は明治以降の日本史を中国視点でまとめており参考になる。近代...日本近現代史講義成功と失敗の歴史に学ぶ山内昌之、細谷雄一***

  • 日本の古典を読む14 方丈記・徒然草・歎異抄 神田秀夫 ***

    方丈記の作者、鴨長明は1155年京の賀茂御祖(下鴨)神社の生禰宜であった鴨長継の子として生まれた。順調であれば父の跡をついで禰宜になるはずだったと思われるが、父が早逝、長明の人生は暗転した。父方の祖母を頼ってあとを継いでいたがその祖母も他界。鴨家と縁が切れてしまった長明は小さな庵に一人住まいを始めた。和歌には才能を見せ、34歳には千載集に1首が掲載される名誉に浴した。和歌の師は金葉集の選者である源俊頼の子俊恵。46歳になった長明は後鳥羽院主催の正治百首の歌人として選ばれ、以後、後鳥羽院の歌壇の一人として歌合に参加した。後鳥羽院に認められたのちは、新古今和歌集選集のための編集委員である和歌所の寄人に任命された。長明を評価していた後鳥羽院は下鴨神社の摂社である河合社の禰宜に推奨するが、神社統括の祐兼の反対に遭...日本の古典を読む14方丈記・徒然草・歎異抄神田秀夫***

  • 人はいかに学ぶか 稲垣佳世子、波多野誼余夫 **

    学校でのお勉強が嫌だった時代、面白く感じたとき、それぞれあるのではないだろうか。実際に日常生活で必要になったことが、たまたま学校で教えられたこととつながると、一気にお役立ち感が増して、もっと知りたくなるもの。しかし、一般に学校教育では、易しいものから順に、クラス大多数が理解しやすいように工夫しながらも、しかし教える手間を最適化するために手順を考え、そして徐々に進むのである。個々の生徒にとっては関心がなくとも、順序よく効率的に教え込まれるため、生徒側は受動的になってしまうことが多い。伝統的な教育方法論では、人間は意図的、意識的に外部から知識を伝達されない限り学ぶことはできないとされてきたが、生活の必要上、環境に働きかけ効果的な手続きを学ぼうとする存在である。さらに言えば、本来的に好奇心が強く、そうした手続き...人はいかに学ぶか稲垣佳世子、波多野誼余夫**

  • 日本の古典を読む6 竹取物語 伊勢物語 堤中納言物語 ***

    竹取物語は平安初期の編纂と言われ仮名手で書かれた最初の物語。舞台は散吉(さぬき、大和の地名)で翁は造(みやつこ)といい、ある日竹林で見つけた3寸の小さな女の子を見つけて家に持ち帰る。3ヶ月で美しい女性に成長。この間には竹取の翁はたびたび竹の中から黄金を見つけ、徐々に裕福になっていたので、朝廷から御室戸の斎部の秋田を呼んで裳着の儀式とともに「なよ竹のかぐや姫」と名付けてもらった。物語の意味を象徴するような序盤部分、「竹」は早く成長し、「なよ竹」は吹き付ける風にも折れずに耐え抜く、斎部氏は朝廷に出入りする儀式を司る役割であり、内裏などで働く女房などを選ぶ役割も持つ。この美しい娘の噂はすぐに広がり、多くの求婚者たちが翁、媼の前に現れる。翁の前に現れたのは5人の求婚者で、かぐや姫に会ったこともないのに熱心である。...日本の古典を読む6竹取物語伊勢物語堤中納言物語***

  • 最期の日本史 本郷和人 ***

    日本における死生観は病魔への対応、怨霊、死にかた、死への姿勢、お墓、葬儀などに影響する。日本歴史において、こうした死生観が歴史を決める、変えることもあった。1.首戦闘の結果、敵将の命を奪ったことの証明として一番確かなものは首。武士にとっての一番の辱めは生首を晒されること。だから敵将の首を自身の主君の前に持ち帰り、主君は首を確認して部下の殊勲を称える。しかし人間の首を切り取り持ち帰ることは容易ではなく、多くの武士にとって一度の戦いで持ち帰ることができたのは一つ。一生に一度でも兜首を持ち帰れば、武士としての面目は立ったと言われた。平安時代以降戦国時代までの成人男子は、烏帽子を被り、寝るときにも取らなかった、つまり烏帽子がない状態の頭を見られるのは恥辱とされたのも、首をさらされることを嫌った理由。烏帽子がない状...最期の日本史本郷和人***

  • 日本の古典を読む12 今昔物語集 ***

    平安末期の12世紀前半に成立したとされるのが今昔物語と呼ばれる説話集。全31巻で、天竺(インド)と震旦(中国)が第1巻から10巻、11巻-31巻が本朝(日本)における主題を扱う説話集であり、当時考えられる全世界の説話が収集された。本書では本朝の説話を収蔵する。印象に残る説話は以下の通り。1.真言宗の開祖、弘法大師が、天皇の御前で同僚の高僧の面目を潰すなどをして仲違い、お互いに「死ね死ね」と罵り合いの末、空海が一計を案じ嘘の噂を流して相手を騙し油断したところを呪い殺した、というもの。2.日本国中咳き病が流行するとき、化けて出てきたのは應天門の変で殺された伴善男だった。その化け物が言うには、騙されたうえで殺されてはしまったが、この世には世話になったので、人々が死んでしまう病ではなく、咳き病で苦しむ程度で収めて...日本の古典を読む12今昔物語集***

  • 信長の親衛隊 戦国覇者の多彩な人材 谷口克広 ***

    信長には近親・一族衆とも言える信広ら連枝衆、織田家家老の林秀貞、譜代武将である丹羽長秀や木下秀吉、外様衆で美濃の国人佐藤紀伊守や尾張の国人水野信元などがいたが、本当の近臣で、小姓、馬廻衆、吏僚と呼ばれたのが親衛隊であり、尾張、美濃の土豪出身者で固められる。近臣の吏僚とは奉行衆で信長のおそばにいつも常在している者、右筆、同朋衆と武辺の馬廻衆、小姓衆がいた。近臣の仕事とは、客の取次ぎや贈呈品の受け渡しをする奏者(武井夕庵、松井友閑など)、朱印状などに添える但書のような副状の発給を行う近習は経緯や細目説明を行う役割。使者を務めるのも近習で平時と戦時とがあり使い分けられる。作戦参謀のような検使、来客の接待役、各種奉行(起請文発行や普請の監督)などが近習のお仕事となる。役割や近習メンバーは時代ごとに変化するが、本能...信長の親衛隊戦国覇者の多彩な人材谷口克広***

  • 枕草子 日本の古典を読む7 ***

    「光る君へ」を視聴しながらの読書は、登場人物の顔が思い浮かんできて実に生き生きと情景を思い浮かべられる。枕草子は清少納言が定子中宮の女房として出仕して、定子が一条天皇との子を懐妊し出産する頃から始まり、定子が里帰り出産、彰子入内、長徳の変、定子出家と還俗、内親王出産後の死などを女房として経験する間に執筆されたという。内容的には随筆といわれるが、日記でもあり、人物評論的な部分や、世の中への考え方を述べるなど多岐にわたる。記述された中で印象的なエピソードを紹介する。定子が出産のために平生昌邸に赴いて侍者たちも一緒に家に入る場面で、定子はちゃんとした四本柱の門構え玄関から入る。侍者たちは北の門から入るが、そちらは門が小さくて、車のままでは通過できないために一旦降りて歩くために、雨が降ってぬかるんだ道に筵を敷いて...枕草子日本の古典を読む7***

  • 女装と日本人 三橋順子 ***

    女装するのが好きな男性、という筆者がそのカテゴリーを追求した一冊。性別と性指向には明確な境界線がなく、グラデーション的に様々な嗜好と傾向を持つ人達が世の中に入るということ、そしてその事実を理解してほしいというのが本書。そのために、日本史における女装の歴史を振り返り、西洋キリスト教では異端として扱われる同性嗜好、異性装などが、日本や東洋では歴史的に受け入れられてきたことを紹介している。古代から顧みると、建国の英雄ヤマトタケルは熊襲征討では女装して熊襲健兄弟を殺害。女装による相手の油断を狙った、巫女であったヤマトヒメの衣装を借りて望んだ計画的殺害だった。男性が女装することにより霊的な力を獲得するという考え方が古代にはあったということ。女装の巫人のような双性的な人が神と人との仲介をする例は世界にも多く存在し、日...女装と日本人三橋順子***

  • 日本の古典を読む11 大鏡 栄花物語

    「大鏡」は長命な老翁である大宅世継と夏山繁樹が清和天皇から後一条天皇までの天皇記を紹介していき、その時代に活躍した摂政関白である藤原北家の代表的な人物を紹介、エピソード的に列伝を語るというもので歴史書となっている。一方の「栄花物語」は大鏡と同様に道長の政治と活躍を肯定的に紹介するものではあるものの、宇多天皇から堀河天皇までを歳月を追いながら紹介する形式で、歴史書というよりはエピソード集。大鏡は栄花物語よりもずっとあとになって編集されたものであり、天地人という巻に分類され、天の巻で天皇を紹介した後に列伝として冬嗣から師尹までを紹介。地の巻で師輔から兼家、道隆、道兼を紹介、人の巻で道長が執政者となってから出家し亡くなるまでをカバーする。栄花物語でも同じような展開が見られるが、道長の時代がより詳細に紹介される。...日本の古典を読む11大鏡栄花物語

  • 「土佐日記」、「蜻蛉日記」、「とはずがたり」 日本の古典を読む7

    本シリーズは面白い。最初にあらすじが示されたうえで、現代語訳文に続いて原文が少しずつ掲載され、理解に必要となる地図や系図、図絵も掲載されているので理解が進む。抄訳なので途中で諦めたりすることもなく読了まで行けるので達成感も味わえる。源氏物語で味をしめたので本書も手に取った。いずれも日本史のお勉強で名前くらいは目にしたことはある日記やエッセイ。「土佐日記」は「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」で始まる。古今和歌集編者である紀貫之による土佐国司としての赴任先からの帰京を、随行の女性が記した日記としたもの。内容的には実際の旅行記というよりも、経験した旅行を思い出しながら、面白そうなエピソードを、貫之お得意の和歌を交えて書き連ねたもの。934年12月21日に国司の館を出発した一行が、船旅で風雨...「土佐日記」、「蜻蛉日記」、「とはずがたり」日本の古典を読む7

  • 継体天皇と朝鮮半島の謎 水谷千秋 ***

    「謎の大王継体天皇」を昨年も再読している。文献による研究では記紀以外の新文献発掘が難しい現状では、新史実発見は難しいはずだが、考古学的発見は新たな事実を掘り起こしてくれる可能性がある。本書についても以前読んでいる。歴史学者たちは慎重だが、継体天皇の時点で、一度皇統は変更されている可能性が高いのではないか。応神から雄略の王朝は「倭の五王」として知られるが、朝鮮半島進出の信認を大陸の権威に求め続けたのがその時代。継体天皇のその後の政策も国際性、開明性はそれ以前の王朝の方向性を引き継いでいるといえる。継体天皇は、半島において活躍し帰国した各地の首長に、広帯二山式冠や捩じり環頭太刀を与えて評価した。秦氏などの渡来人を重用し、旧勢力の代表である葛城氏に厳しい姿勢で臨んだ、これらは継体天皇のそうした性格を表している。...継体天皇と朝鮮半島の謎水谷千秋***

  • 日本の古典を読む 源氏物語(上・下) ****

    大河ドラマ「光る君へ」を見ながら、まひろが源氏物語を書き始めたら本書を読んでみようと思っていた。実家にあった「谷崎版」は第一巻で挫折、その後円地文子版は読み進んだのが「明石」で挫折。今回こそと、上下巻で読める本書を手に取った。ちょうど11月3日の放映が宇治十帖の書き始めだったので、上下巻にしたおかげで読み終えるのが適時に間に合った感がある。ドラマがどこまで史実に忠実なのかは分からないが、彰子中宮と一条天皇のことを頭に思い描いて書かれた物語だと思い読み進めることで、物語に一層のふくらみが出たのは確か。光源氏が一条天皇や道長にも重なり、明石の君や国司の娘はまひろ、殿御たちにもてあそばれながらも、しかるべき地位を得ることで生活の安定を得ることができる女性たちの弱い立場にも思いをはせる。本書には、内裏における各殿...日本の古典を読む源氏物語(上・下)****

  • 源氏将軍断絶 坂井孝一 ***

    鎌倉幕府成立後の頼朝と時政、義時、時房、泰時、そして梶原景時や和田義盛、比企氏など鎌倉殿の13人を巡る暗闘は大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で詳しく描かれた。当時、背景を知るために「考証鎌倉殿をめぐる人びと」を読んだ。当時の事情をよく表すとされる北条氏が編纂した吾妻鏡では、北条得宗家の執権としての正当性をしっかりと示しておく、ということが歴史書としての役割だった。しかし事実に反することは記述はできないため、都合が悪いことは記述しない、という方策がとられた。初代頼朝を偉大な将軍、二代目頼家は暗愚、三代目実朝は京風で頼りなく不吉な将軍と描くことで、頼朝の政道を正当に継承するのは北条得宗家であると強調したかった。吾妻鏡には重大事件である頼朝の死の前後記述がない。娘である大姫の急逝による入内失敗、頼朝の死、その後義時...源氏将軍断絶坂井孝一***

  • 武士の日本史 高橋昌明 ****

    武士の発生は古くは古代から中世にかけてのことで、当時は武芸を身につけた民の一種である芸能民と分類されていた。筆者によれば当時の分類では、出生の別として、出生したイエが貴族、侍、百姓、それ以外の4種類に分けられ、当時の官位として従五位下以上が貴族、官位を持たないのが百姓、百姓と貴族の間にあるのが侍であり、生活のよりどころたるイエを持たない身分がそれ以外となる。職業としては文士(学問や儒学、文学に携わる)・武士(馬術、弓、鑓使い)、農人・浦人・山人(農林水産林業などの一次産業従事者)、道々の細工(手工業)の3種類に分類できる。出生したイエが属する社会的機能が決められており、侍のイエが持つ機能は文士もしくは武士であった。イエには得意とする芸能分野があり、芸能には琵琶法師や白拍子、雅楽、猿楽、蒔絵、紙漉き、鍛冶、...武士の日本史高橋昌明****

  • 異端の数 ゼロ チャールズ・サイフェ ***

    ゼロを扱う本書は当然かもしれないが、ゼロ章から始まる。ゼロ章には本書で述べられるゼロの歴史が概説される。ゼロが古代に生まれながら東洋で成長して欧州で受け入れられるには大いなる苦闘が必要だった。その後西洋では現代物理学にとって常なる脅威となるまでの物語。本書を貫くテーマはゼロと無限、扱われる分野は数学、美術、哲学、宗教、物理学、化学と多様であり、話題も多岐にわたる。世界各地で生み出された古代文明が編み出す数体系とゼロに対して抱いた恐れ。ゼロの発見を妨げたギリシャの数哲学。一方、東洋で受け入れられてきたゼロの概念を西洋はいかに受け入れたのか。教会はなぜゼロを異端視したのか。ギリシャの思想と聖書の思想の間にある無と無限を巡る対立に神学者たちはどう対処したのか。微積分が考え出されたとき、それがゼロを巡るどんな論理...異端の数ゼロチャールズ・サイフェ***

  • ゴールデンカムイ 絵から学ぶアイヌ文化 ****

    「ゴールデンカムイ」は野田サトルによる漫画であり「週刊ヤングジャンプ」で、2014年から2022年まで連載された。Wikipediaによれば累計2900万部(2024年8月現在)を突破し、2018年4月からはテレビアニメが放送され、2024年1月には実写版映画も公開された。本書の特徴は作品のアイヌ語監修者が熱く語る「アイヌ文化」、それも原作者によるマンガとともに展開された徹底解説である。マンガを読んでいない読者にも十分理解できるように、ゴールデンカムイの登場人物とあらすじが最初に解説され、物語が展開される地図、地名まで説明。そこから、アイヌの精神文化について、カムイ、アイヌ、アイヌの伝統的風習、コタンの生活風景、アイヌが使っていた道具、衣服、食器、調理器具、運搬用具、遊び、舟、祭具などをすべて絵つきで紹介...ゴールデンカムイ絵から学ぶアイヌ文化****

  • 出雲と大和ー古代国家の原像をたずねて 村井康彦 ***

    本書では大国主命(大名持命、大物主命)に着目して、出雲系の神々を求めて各地に出かけて、各地に伝わる神話と記紀の記述とを読み解くことから、神話に秘められ歴史的事実に思いをはせた結果、古代史に秘められた歴史の仮説を検証してみたという一冊である。その仮説とは出雲系の勢力こそが大和地方に邪馬台国を形成した一族であり、それを九州から東征してきた勢力が制圧した、それが大和政権だったというもの。出雲ゆかりの土地を歩きながら、記紀、出雲国風土記、魏志倭人伝などを読み解いて古代史における出雲系勢力の存在と役割にせまる古代史仮説である。仮説の根拠の一つが山そのものが御神体とされる三輪山の存在である。その祭神は大物主神であり出雲系。8世紀の初めに出雲国造が朝廷に出かけて奏上した神賀詞(かみよごと)の中で貢置を申し出た「皇孫の命...出雲と大和ー古代国家の原像をたずねて村井康彦***

  • ノンアル生活のススメ

    2017年2月末不整脈のためカテーテルアブレーション手術を受けた。暫くは大人しくしていたが、数年経過して、同窓会や飲み会の際には飲みすぎてしまうことも増えた。2024年4月に大腸ポリープの検査のため内視鏡を入れたところ、「4箇所程有りますねえ」とのことでしたのでその場でワイヤーで摘んで除去。医師と共に画面で見ながらの処置でしたので、もう終わり?というほどの施術でしたが、暫くは禁酒を宣告されたので2週間ほど継続。もともと血圧が高めなので継続的に測定していたなか、禁酒2週間で見事に正常値に。気分が良くなりもうしばらく禁酒を継続したところ、朝のウォーキング/スロージョギングでも快調なパフォーマンスが出せるようになり更に継続をきめました。禁酒とはいえ、夕食のお供のビールは飲みたいのでノンアルビールに。近年この味の...ノンアル生活のススメ

  • 日本の方言地図 徳川宗賢 ***

    本書が依拠したのは1957-1965年にかけて全国実地調査を行い調べ上げた「日本言語地図」であり、日本全国2400箇所、研究者が現地に赴いて土地の方々から直接方言を聞き取る形で調査されたもの。地図は合計300面あったというが、本書ではそのうち50面を選択、略図化して掲載したという。当時聞き取りをした対象者は主に明治20年以降生まれの男性に聞き取りし、中には1903年以前出生の高齢者にも聞き取りをした例もある。本書ではその中から、方言分布、方言の単語、方言流動の変遷、日本語の歴史などについても考察した。1979年発刊であり、文献としての残りにくい話し言葉を記録していることから貴重な方言地図である。柳田國男が有名にした蝸牛考でも取り上げられた「カタツムリ」の方言、デンデンムシ、マイマイ、ツブラメ、ツノダシ、ナ...日本の方言地図徳川宗賢***

  • 知られざる大隈重信 木村時夫 ****

    筆者も書いている通り、大隈重信への評価はまちまちである。立憲政治、政党政治への貢献、大学設立などのプラス面と21か条問題、シベリア出兵などによる後の対中国対立のきっかけとなった問題との両面を見てのこと。本書は大隈擁護論に満ちあふれていて、褒めすぎへの反発を持って読むこともできるが、日清日露戦争を経て、対華21か条要求問題やシベリア出兵が欧米各国からの日本に対する厳しい視線をもたらし、その後の日中戦争、太平洋戦争への道筋をつけてしまった道程が明確に読める、という点で評価に値する。1839年天保9年佐賀生れの大隈を育てたのは、佐賀藩主鍋島閑叟の教育と西洋文明に対する開明論のおかげであり、砲台指揮官で上級藩士であった父親の自然科学に対する知識や両親の教育への熱心さがあった。大隈は佐賀藩校での「武士道、葉隠れ論」...知られざる大隈重信木村時夫****

  • 日本仏教の思想 受容と変容の千五百年史 立川武蔵 ***

    日本では仏教伝来以前からそれぞれの豪族の祖先の霊や農業神が結びついて氏神などとして崇拝されてきた。そこにもたらされたのが仏教であり、元来アニミズムであった土着の氏神様とは要素の異なる対立するものとして入ってきたとも考えられる。しかし実際には両者はお互い補い合うように受け入れられ、実際仏教も中国と朝鮮半島を経由することとあわせてインドの仏教とは異なる姿となった。そもそもインドにおける仏教でさえ多様であり、オリジナルの形から新派、大乗仏教、密教と変容している。日本での仏教の特徴は「諸法実相」、つまり、森羅万象が真実の姿、実相であると捉えた。眼前に見える樹木や岩、人間の身体こそがそのままで真実の姿であると。自然崇拝の神道形態と似ているとも思える。日本仏教における、諸法、実相に空、仏性というキーワードを加えて、解...日本仏教の思想受容と変容の千五百年史立川武蔵***

  • 日本史のミカタ 井上章一、本郷和人 ****

    日本史の「東西対決」のようで面白くよめる。歴史学者ではない井上章一の打つ変化サーブを、中世史が専門の歴史学者本郷和人が打ち返そうとするが、思わぬ変化をして、レシーブ球は隣のコートに返球されてしまう。史実を文書で裏取りするような地道な持久戦が得意な本郷は、井上の京都風の思いつき学説による空中戦に敵わない、と思ったら意外にもふんわりと受け止めて、最近の若手の不甲斐なさに矛先を逸らしたりすることで先輩を立てているし、井上先生の蘊蓄は読者にも思わぬ気づきを与えてくれる。応仁の乱以降、荘園からの上がりや天皇家からの補助が激減した伊勢神宮は、新たな収入源を求め、日本全国の民衆が「お伊勢参り」をするように、朝廷の神話と伝説を御師が全国に説いて回った。本居宣長などの学者よりも御師の力のほうがずっと強かったというのが井上説...日本史のミカタ井上章一、本郷和人****

  • 訂正する力 東浩紀 ****

    謝らない政治家、間違いを認めない官僚、こうした報道を見ていて本書を手に取った。発言を訂正できない理由は、一貫性の維持というアイデンティティに執着するから。一度口から出た発言をもとに議論を始めて、相手から発言の矛盾を突かれることで「論破されてしまう」、これは柔軟な発想や相手の意見を受け入れながら前に進むという進歩を阻んでいるのではないか、という切り口でもある。政治における議論とは、保守とリベラル、右派と左派が互いの立場を主張し、同時に異なる意見でも尊重することで、より良い結論を導き出すという民主主義の根幹とも言える本質。一部の政治家、極端な右派や左派が持論を曲げないことで主張の強さをアピールするのは、政治家としての未熟さを露呈している可能性がある。持論が変わる用意がなければそれはもはや議論ではなく主張の表明...訂正する力東浩紀****

  • Z世代のアメリカ 三牧聖子 ***

    1997年から2012年にかけて生まれた世代がZ世代。アメリカのこれからを支えていく世代でもある。アメリカ国内の人口構成はまさに多様性が進行した状態であり、人種、宗教観、価値観、ライフスタイル、国家観、世界認識は日本に比べると比較にならないほどに多様である。アメリカは「世界の警察官」と呼ばれた「例外主義(Exceptionalism)」時代が長く続いてきたが、今その時代は変わりつつある。アメリカ第一主義をとなえる当時のトランプ大統領は、気候変動や国連における国際的な枠組みから撤退し、MAGAを主張。アメリカにおけるZ世代は、例外主義を前提としない国家観をアイデンティティに持つ世代となる可能性がある。アフガニスタンからの撤退はその象徴であった。超大国による大義なき侵略を受けるウクライナへの軍事支援をどの範囲...Z世代のアメリカ三牧聖子***

  • 戦国ラン 手柄は足にあり 黒澤はゆま ***

    「手柄は足にあり」とは上杉謙信の言葉だそうだが、歴史小説家だという著者は戦国時代の食事に着目した著書「戦国まずい飯!」では武将たちは味噌と生米を水に浸して食べて戦ったという。本書では、騎馬の武将に徒歩で従って走ったという足軽たちに思いをはせて、自分でも古戦場あとを走ってみたという。実際にに走ってみるとこんな道は1万以上の軍勢では通り切れない、とか、アップダウンが激しすぎて無理、などと言うことが感じられたという。大坂夏の陣では信繁による家康本陣突撃を体験、真田は凄かったと。各武将ごとに街道を担当しているため、戦場に向かうための味方同士の街道の分捕り合戦も激しかったと。歴史書では明確になっていないと思われる家康の失敗と地形の関係、戦場となった天王寺駅周辺で家康本陣が崩れた地点、家康の逃げ回った経路、信繁終焉の...戦国ラン手柄は足にあり黒澤はゆま***

  • 地形と水脈で読み解く! 新しい日本史 竹村公太郎 ***

    古代ヤマト政権は、古代には藤原京あたりに存在したと思われる奈良湖が流入してくる土砂と埋め立てで田畑を開墾した。湖のありかは古代の豪族たちの勢力圏地図を見るとそこに大きな空白地域があることから浮かび上がってくる。あとから勢力を増した蘇我氏の勢力地域が湖の岸辺に広がることまでうかがえる。古代の道である山野辺の道が最初にできた藤原京と奈良をつなぐ道であり湖を迂回するように作られ、その後、上つ道、中つ道、下つ道と東から西へと湖埋め立てが進むにつれて作られたことを思わせる。朝鮮半島との交流は瀬戸内海、難波、大和川経由で続いていたが、その後、都建設のために伐採されてはげ山になった周囲の山、洪水に見舞われた奈良盆地では環境悪化が続いていたはずである。恭仁京などへの遷都の努力は実を結ばなかった。京都の町は淀川で瀬戸内海と...地形と水脈で読み解く!新しい日本史竹村公太郎***

  • こころの人類学 煎本孝 ***

    世界に存在する民族や小さなグループが持っている神話や言い伝えには人類が原初の昔から大切にしている物語が入っている。本書によればそれは「ヒトのこころ」の現われでもあり、様々な神話や神の話を聞いて比べることで、人類共通の「ヒトのこころ」をあぶりだしたい。筆者は人類学のフィールドワークを進める文化人類学者。トナカイ遊牧民であるカナダインデアン、極北ロシアのトナカイ遊牧民コリヤーク、北海道のアイヌ、モンゴルの遊牧民、インド北西部のラダック王国、チベットなどのフィールドワークを通してヒアリングし調査してきた多様な文化的逸話を集約してきた。そこに含まれるのは宗教とそのもとになる神話、文化的源泉、死生観、自然と自分たちとの関係性など、文化文明と人類生活との関係性を追求した。カナダインデアンでは動物は人間の言葉を話し、自...こころの人類学煎本孝***

  • 漂海民 羽原又吉 ***

    漂海民とは、本書によれば1.土地・建物を陸上に直接所有していない。2.小船を住居にして一家族が暮らしている3.海産物を中心とする各種の採取に従いそれを販売、もしくはノン産物と物々交換しながら一か所に長くとどまらず、一定の海域をたえず移動している。親・子・孫すべて海に生まれ波にゆられながら、一生を船の上に送ってきた漂泊漁民をとりあげ、アジア各地の漂海民と比較しつつ、海に生き漁村を開いてきた彼らの足跡をたどる。漁業史・漁民史の一側面として興味深く、またアジア民俗史を考える上で、貴重なデータが盛りこまれている。目次1漂海民とはなにか2漁業はいかに発達したか3漁民の移動4アマとその移動5アマと家船との関係6瀬戸内海の家船7九州の家船(付、沖縄)8南海の漂海民9珠江の蛋民https://amzn.to/3ZgKWT...漂海民羽原又吉***

  • 人類の起源 篠田健一 ****

    2006年に実用化され始めたDNA分析の手法、次世代シーケンサーはPCR検査の手法を用いたもので、サンプルに含まれるすべてのDNAを読み込んで解析することが可能となるとのこと。それまで古い人骨はミトコンドリアDNA分析しかできなかったため母系でしか先祖をたどることができなかったが、父系でも可能となった。それを象徴するのが2022年のノーベル賞受賞ペーボ博士で、古人骨に残るわずかなDNA抽出と解析技術を確立したことによるものだった。本書ではそうした古代DNA研究の最新研究結果をもとに人類の起源をたどる。約6万年前にアフリカ大陸を出た現人類、ホモサピエンスはネアンデルタール人やデニソワ人と交雑する。欧州では45000年前のホモサピエンス進出から数回の集団交代を経て、ヨーロッパで主流となる現代人集団が形成された...人類の起源篠田健一****

  • 自然科学の視点から考える日本民俗学 橋口公一 **

    再読本。私がタイトルをつけるなら「橋口先生の居酒屋放談」。土木工学、機械工学のセンセイらしく、全部で4章ある第3章は「自然科学研究者雑感」となっていて、科学技術とその応用の関係を密接化する、理学部と工学部の一体化の主張などは一読に値すると思う。その他の各章の特徴を表すとすれば、第1章は日本の風土・風俗分析で「橋口センセイの日本文化論」、第2章が「世界の中の日本を切る」、第4章は「この際なんでもぶった切り、男と女」、居酒屋で濃いめの芋焼酎を飲ませてもらい、気さくな女将と笑いながら、上機嫌の先生に直接話を聞いたら面白いんだろうな、と思う。着目すべきと考えた指摘・主張を取り上げてみる。1.古いしきたりに固執する大相撲界は近代化すべき。2.殺人や詐欺、ヤクザなどの犯罪行為をメインテーマとする小説は面白くない。3....自然科学の視点から考える日本民俗学橋口公一**

  • 梅棹忠夫 ー「知の探検家」の思想と生涯 山本紀夫 ***

    私が1973年に大学生になり4年生の時に研究室のメンバーになると、年上の先輩たちと過ごす時間が増えて、最初に教えてもらったのが「京大式カード」によるメモと整理術だった。スチール製の小さな箱に入ったB6サーズのカードがきれいに分類されて、研究テーマや読んだ本、自分の興味分野などについてメモや関連書籍情報とともに収まっていた。とても素敵に見えて、その先輩の真似をしたくてカードを購入して自分なりのボックスを作ったりしたが、自分には長く続かなかった。「知的生産の技術」で紹介されたこの京大式カードを提唱したのが梅棹忠夫、民族学者であり探検家、国立民族学博物館生みの親である。昆虫少年であった少年時代、太平洋戦争の時代と重なる青年時代には登山、探検に励んだが戦後は海外への扉が一時閉ざされた。青年の興味と関心は生物、民族...梅棹忠夫ー「知の探検家」の思想と生涯山本紀夫***

  • 陰謀の日本中世史 呉座勇一 ****

    新書「応仁の乱」の著者が専門分野の日本中世史によくみられる「陰謀説」について論説したエッセイで、歴史好きならすべてのエピソードが面白く読める歴史エッセー。歴史学者である筆者は、歴史的史実と思い込みや我田引水的なフィクションは明瞭に違うという。本書でいう「陰謀論」とは、特定個人ないし組織があらかじめ仕組んだ筋書き通りに歴史が信仰したという考え方で、陰謀をめぐらしたシナリオ通りに世の中が進んだという考え方。世にある陰謀論にはいくつかの特徴がある。一つは因果関係の単純明快すぎる説明である。歴史上の出来事には複数の、多くの場合に複雑な原因が絡まりあうのが普通なのに、一要因に単純化していること。本能寺の変には黒幕に家康がいた、という説では、普段から信長に不満を募らせていた光秀が家康討伐を信長から命じられ、逆に家康と...陰謀の日本中世史呉座勇一****

  • 院政 もうひとつの天皇制 美川圭 ***

    「院政」は譲位した上皇による執政のことで、律令制の始まる藤原時代の持統が孫の文武天皇に譲位し太上天皇と称られたときに上皇の濫觴がある。奈良時代までの上皇は持統、元明、元正、聖武、孝謙、平安時代になると平城、嵯峨、淳和、清和、陽成、宇多、朱雀、冷泉、円融、花山、三条、後三条と続くが、この時代には院政とは呼ばれない。その後の白河、鳥羽、後白河の三人が院政で約100年に亘り専権をふるい、鎌倉に入っても後鳥羽が鎌倉幕府側と権力を競い、後鳥羽による承久の乱以降、その権力は武士側の鎌倉殿、北条政権に移る。しかしその後も院政自体は継続し、形としては江戸時代まで残った。古代の天皇には摂政という形で聖徳太子、中大兄皇子、草壁皇子という最有力な皇位継承者として位置付けられたが、摂政が幼帝の地位を脅かすことになりこの二者の両立...院政もうひとつの天皇制美川圭***

  • 明治の日本 熊谷充晃 ***

    明治時代の出来事は知らないわけではないが、歴史の授業や教科書では三学期時間切れになりがちな部分。文明開化から日清・日露戦争を経て世界の一等国を目指した時代。その時代に起きていた、教科書には紹介されにくい隠れた話題を紹介するのが本書。ミスコンの優勝者は学生だったため退学処分、日本人が好んだ新しい味はカレーライス、ビール、アイスクリーム、力士は相撲がプロスポーツとして確立するまでは消防士を兼務、空を飛ぶ物体は物の怪あつかい、武士の商売にお茶の栽培、選挙では賄賂合戦、大学生は本物のエリート。英米独仏の代理戦争だった日露戦争、戦争を陰で支えた明石元二郎、不正乗車の罰則が高額、鉄道敷設技術が進歩、電灯に郵便システムなどの文明、ハワイと日本の皇族による縁組案、徴兵逃れのための養子縁組。伊藤博文の天敵は獅子身中の虫、清...明治の日本熊谷充晃***

  • 平安王朝 保立道久 ****

    平安時代と言えば藤原氏が摂関政治で専横を極めていて、桓武以降で、平城、嵯峨から後三条、院となり権力をふるいだした白河あたりまでの天皇は政治的に前に出てくることは少ない時代、という認識だった。大河ドラマで平安時代に起きた事件が出てくると、そういえばそういう天皇がいたな、というくらいの記憶。しかし藤原氏の中で氏の長者となるための権力争いには、娘を入内させて王権奪取の運動を自らの権力獲得に利用した摂関家の論理が見え隠れする。本書では平安遷都以降平家滅亡までの天皇家と摂関家の権力闘争の流れを概括する。本書によれば、この時代は学者としては古代史と中世史の狭間に抜け落ちた位置づけで内部事情により古代史家は奈良時代までを研究し、中世史家は院政時代から保元・平治の乱を確認することから始めるという。平安時代の宮廷文化が注目...平安王朝保立道久****

  • 色彩の心理学 金子隆芳 ***

    ゲーテは著作「色彩論」で物理論とは真逆の持論を述べたというが、現在ではほとんど言及されることはない。しかしそこで述べられている色彩についての感覚論や主観的色彩の心理的印象論、錯覚などについては、今も研究や発展が進んでいるという。本書では色彩が持つ色の印象や感触、光と影、主観的印象や音と色の関係、光沢と色彩、感性的色彩論などについて概括している。印象派の画家たちが写実的絵画から主観的表現に進んでいった時代は、画材の進歩により多数の色彩をキャンバスに表現できるようになった時代と重なると指摘。できるからやる、でありそうした幅広い表現や現場に絵の具を持ち出すことができるようになるチューブ入り絵具の登場などが、印象派の出現を助長したいう。感覚を具現化するという技術の進歩による新派到来、ということになる。これは音楽や...色彩の心理学金子隆芳***

  • 都市と日本人 ー「カミサマ」を旅するー 上田篤 ***

    日本の都市を欧州や中国の都市と比較しながら、古代における吉備から平安京、中世では鎌倉と安土、近世の江戸、そして近代では再び京都と近畿へと移る中で概説し、併せて北海道における大雪山や旭川にも自ら足を運んで、住んでいた経験ももとに都市についての考察と観察についての持論を述べたエッセイ。内容をいくつか紹介する。吉備には古代、大きな内海があったという。その周辺には半島や大陸から渡来した製鉄と稲作の技術を持った人たちが住み着いていた。多数の三角縁神獣鏡を出土した備前車塚古墳や箸墓古墳と副葬品が酷似する浦間茶臼山古墳、仁徳天皇陵の規模に匹敵する造山古墳などとともに多くの貝塚などが見つかっている。桃太郎伝説の原型と思われる「キビツヒコの鬼退治」伝承では、百済から来た大男の温羅(うら)を大和朝廷から派遣された五十狭芹彦命...都市と日本人ー「カミサマ」を旅するー上田篤***

  • 京都・イケズの正体 石川拓治 ***

    タイトルから見ると「なぜ京都人はイケズをするのか」などの解説本だと勘違いするが、京都礼賛本である。「奇跡のリンゴ」の筆者がなぜ京都が好きなのかを自己分析、日本人の多くが京都に憧れにも似た感情を抱く理由を考察した一冊。「イケズ」に思えるのは、京都人が旅人や客人、移住者との間に取る「少し遠めの距離感」に戸惑っているから。京都生まれ、宇治育ち、就職後は東京に暮らすの私から見ると、離れてみる京都の良さを再確認できる本、と考え手に取った。他府県民から見た京都と言えば「はんなり」で「みやび」な印象を持ちがちだが、そればかりではないのが京都、本書では京番茶を例に挙げる。京都人が毎日飲んでるお茶は、夏なら麦茶、その他の季節は番茶、ちょっとお客が来れば上等の「御煎茶」、めったに飲まないのが玉露。その番茶は筆者によれば煙草の...京都・イケズの正体石川拓治***

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、意志による楽観主義のための読書日記さんをフォローしませんか?

ハンドル名
意志による楽観主義のための読書日記さん
ブログタイトル
意志による楽観主義のための読書日記
フォロー
意志による楽観主義のための読書日記

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用