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意志による楽観主義のための読書日記 https://blog.goo.ne.jp/tetsu814-august

面白きこともなき世を面白くするのは楽観力、意志に力を与えるのが良い本 *****必読****推奨**閑なれば*ム

意志による楽観主義のための読書日記
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2015/07/14

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  • 海江田信義の幕末維新 東郷尚武 ***

    本書に紹介される海江田信義は西郷隆盛、大久保利通の同時代人であり、薩摩人。歴史上そんなに有名でない理由は、人によって彼の人格への評価がまちまちであり、特に江戸城引き渡し以降の薩長の指揮命令系統の乱れから、大村益次郎との確執があり、その後、大久保により京への異動を申し付けられたり、大村殺害の元凶と疑いをかけられたりしたことが影響しているのかもしれない。司馬遼太郎は大村益次郎を取り上げた「花神」でこの点を取り上げて、大村益次郎と対比させて、時代遅れで傲岸狷介、功利主義の小人として矮小化して表現している。海江田信義は、幕末の薩摩藩で極貧の武家に有村仁右衛門の長男として生まれ、11歳で俊斎を名乗る。その後、結婚して海江田を名乗るが、それまでは有村俊斎を名乗る。俊斎が西郷、大久保と知り合い尊王攘夷運動に挺身する様は...海江田信義の幕末維新東郷尚武***

  • 名門水野家の復活 福留真紀 ***

    江戸時代の水野家といえば、家康の母於大の方に連なる譜代の名家だが、6代の忠恒が享保10年(1725年)江戸城松の廊下で刃傷沙汰を引き起こして、水野家松本藩7万石は改易、水野家は信濃佐久藩7000石の旗本とされてしまった。本書はその後の水野家子孫たちがお家復興を遂げた物語。復活のきっかけは享保16年(1732年)に誕生した8代忠友が9歳にして、将軍吉宗の後の世子となる家重の子三歳の家治(幼名竹千代)の御伽役として側に仕えることとなることから始まる。御伽役の選抜基準は1万石以下3000石以上の家の惣領で8-10歳のもので、同時に選ばれたのは名門の血筋で後に老中となる久世広明、若くして亡くなる関盛時。忠友は吉宗に可愛がられ、家重にも重用されることになる。12歳で信濃佐久の家督を相続した忠友は家治付きの西丸小姓に...名門水野家の復活福留真紀***

  • 殿様と鼠小僧 老侯・松浦静山の世界 氏家幹人 ***

    甲子夜話の筆者として知られる松浦静山は本名は松浦清(まつらきよし)、江戸時代中期の大名で肥前平戸藩の第9代藩主である。松浦清は天保12年(1841年)に82歳でこの世を去ったが、生まれたのは宝暦10年(1760年)浅草鳥越の平戸藩上屋敷。母は上屋敷に務める女中久昌だった。平戸藩ではその3年前に世子(藩主の後継者)の松浦邦が26歳で病死したため、急遽世子となった政信の初めての男子だった。幼名は女中腹だったため内々の儀とされ山代英三郎殿と呼ばれた。しかしその後も政信には嫡子が生まれず、英三郎は嫡子となり、政信も37歳で逝去したため12歳の英三郎は次期藩主となり清と呼ばれる。1774年にはじめて将軍家治に拝謁、安永4年に祖父の誠信が藩主を引退し、清が16歳にして藩主の地位につき、平戸藩主松浦壱岐守清となる。以後...殿様と鼠小僧老侯・松浦静山の世界氏家幹人***

  • 幕末下級武士のリストラ戦記 安藤優一郎 ***

    山本政恒は天保12年(1841年)に徒士一番組山本左衛門の子として生まれ、本家の養子となり、徒士組としての勉学と剣術などの訓練に励む。安政3年御徒お抱えとなり、将軍家定の警固、とくに将軍外出時には影武者として振る舞うことを仕事とする。職場では先輩たちのいじめにもあうが我慢の末、ようやく仕事にも慣れてくる。しかし幕末になり、薩長勢への対抗のためには幕府側にも銃を装備した軍隊の必要性が高まり、徒士組は鉄砲隊となり、それまで行ってきた剣術、水術、槍術などの訓練は無用となり、射撃の訓練に明け暮れる。おまけに将軍警固職はなくなり、大政奉還、王政復古で職を失う。徳川宗家は800万石を抱え、6000人の旗本、36000人の御家人を養ってきたが、徳川宗家は70万石のいち大名扱いとなる。家族を抱え御家人の端くれとしての選べ...幕末下級武士のリストラ戦記安藤優一郎***

  • 江戸文化評判記 中野三敏 ****

    江戸文化に魅せられた筆者が、興味が尽きない江戸時代の文書から読み取れる主に文芸、絵画、思想などの分野に関するおもしろネタを披露した一冊。江戸時代の文化を鑑賞、評価するためには、大まかに江戸時代を三分類して考えてみようというのが筆者のおすすめ。前期は元禄をピークとする西鶴、近松、芭蕉の時代、中期は享保の改革から寛政の改革まであたりで国学蘭学が発展した時期にあたり上田秋成、平賀源内、杉田玄白、恋川歌町など。後期は化政期から明治初期(江戸時代生まれが大半)までで、一茶、山東京伝、十返舎一九、馬琴、三馬、北斎、春水、柳亭種彦などが活躍。前期は上方文化優勢の貴族的伝統文化、「雅」の時代で、後期になればなるほど江戸の庶民文化、「俗」な文化が優勢となる。浮世絵であれば、前期は菱川師宣、懐月堂派の美人画であり、美人の立ち...江戸文化評判記中野三敏****

  • おくのほそみち 芭蕉・蕪村・一茶 名句集 日本の古典を読む20 ***

    俳諧は、遠くは和歌、その後連歌を経て江戸時代に文芸として隆盛を極めた。江戸時代の文化を前期(17世紀)、中期(18世紀)、後期(19世紀)と分けて鑑賞してみる。17世紀の江戸文化といえばまず花開いたのが元禄時代。綱吉の治世で、俳諧では芭蕉が自然と人間を対比しながら、悠久の歴史と人の人生の儚さを詠む。「静けさや岩に染み入る蝉の声」「夏草や兵が夢の跡」「荒海や佐渡によこたふ天の河」。同時代には西鶴の浮世草子、人形浄瑠璃の近松門左衛門が人情と義理の間に立たされる人間の営みを描いた。18世紀になると吉宗の治世は享保の改革、田沼意次の経済対策、松平定信の寛政の改革など社会変革があり、飢饉や災害も相次いだ。画家としても才能を発揮した与謝蕪村は俳諧をより耽美的、叙情的なものに昇華。「牡丹散りてうちかさなりぬ二三片」「菜...おくのほそみち芭蕉・蕪村・一茶名句集日本の古典を読む20***

  • 江戸ー平安時代から家康の建設へ 齋藤慎一 ***

    江戸のまちは平安時代にその端緒がありそうだ。此地の支配者は埼玉県北部に根拠地を持つ秩父平氏であり、その後は畠山、河越、葛西、豊島氏などが鎌倉御家人となっている。清盛政権下では四男の平知盛知行地であり、秩父平氏一族その知行国の管理に携わった。江戸氏もそのうちの一族だったが、居留地だった豊島郡江戸郷の場所は特定されていない。名字は地名と連動し、芝崎殿ー大手町付近、桜田殿ー霞が関付近、国府方殿ー麹町、四谷、板倉殿ー東麻布、小日向殿ー小日向などがある。秩父平氏は河越氏を入間川渡河地点に、江戸氏を平川渡河地点に展開させたと推測され、鎌倉街道と平川の交差地点付近が根拠地と推定できる。室町時代、鎌倉公方を治めたのは足利氏、それを支えたのが関東管領の上杉氏で、太田道灌の時代には山内上杉氏と扇谷上杉氏の2家である。太田道灌...江戸ー平安時代から家康の建設へ齋藤慎一***

  • 日本書紀(上・下) 風土記 日本の古典を読む2,3

    日本書紀は天地開闢、神代の時代に始まり、持統天皇11年までの歴史を描く。第一巻二巻が神代、第三巻以降神武に始まり概ね天皇一人に一巻が割り当てられる。漢字自体の使用は5世紀以降と考えられるため、書紀においても5世紀以降の記述に信憑性の可能性が高まる。あとからの改変の履歴が散見され、大宝令以降の用語である「国司」「郡」などが推古天皇時代の記述に使われている例などがある。「天皇」という呼び名も本来は持統朝以降であり、その内容の信憑性には議論がある。実際、編纂時期から考えると、舒明天皇あたりからは当時の貴族たちの父や祖父の時代に当たり、古代氏族制から律令制に移行する中央集権の国家形成期。乙巳の変から大化の改新、壬申の乱への波乱に満ちた変動の時代であり、編纂担当者も祖父母、知人にも直接取材したであろう内容があるため...日本書紀(上・下)風土記日本の古典を読む2,3

  • 江と戦国と大河 日本史を「外」から問い直す 小島毅 ***

    帯に「伯父は信長、義兄は秀吉、義父は家康、夫は秀忠、息子は家光、娘は天皇の母」とある。お江は信長の妹である市の産んだ三女で、秀吉の弟に嫁ぎ、その後家康の息子秀忠に嫁いで、家光となる息子を産み、その娘は後水尾天皇の中宮となり、明正天皇となる娘を産んだ。江には5つの名前があったことが知られる。江、江与、小督、達子、徳子。このことから読み方は「ごう」であり、家康の娘にも江がいたため、於江与(おえよ)と呼ばれたらしい。秀忠が太政大臣となり、娘も中宮となったため、◯子という朝廷風で平安以来の伝統的名が付けられたが、こちらの読み方は不明である。女性で名前がわかっているのは将軍の正室や皇后、中宮などが記録に残るが、紫式部や清少納言など、呼び名はどこにも記録として残っていない。また彰子や定子という名前の読み方も不明であり...江と戦国と大河日本史を「外」から問い直す小島毅***

  • 雨月物語 冥途の飛脚 心ぢゅう天網島 日本の古典を読む19

    上田秋成は二作の浮世草子を明和三年(1766年)に書き、明和五年から八年をかけて「雨月物語」を著したという。本書ではその中から、菊花の約(ちぎり)、浅茅が宿、吉備津の釜、青頭巾の四話を紹介。菊花の約では、播磨国の学者丈(はせ)部左門は知人宅で病魔に臥す病人に出会い看病の結果、赤穴宗右衛門というその旅人は命拾いをする。意気投合した二人は義兄弟の契りを結ぶ。宗右衛門は生国の出雲で城主が討たれたとして、動静をうかがいたいと言い、重陽の節句には必ず戻ると約束して出雲に出立するが、魂だけが現れ、新城主尼子経久に命じられた赤穴の従兄弟に逆に討ち取られたという。左門は義兄弟赤穴の仇を取るべく出雲に向かい、仇である赤穴の従兄弟を見事に打ち取る。浅茅が宿。下総の富農を零落させてしまった勝四郎は、京で絹商人になり一旗揚げて秋...雨月物語冥途の飛脚心ぢゅう天網島日本の古典を読む19

  • 中世日本の予言書ー<未来記を読む> 小峯和明 ***

    本書に予言書として登場するのは「野馬台詩」、梁の武帝に命により宝誌和尚が作成したとされる。日本には遣唐使で中国にわたった吉備真備が持ち帰ったとされる。真備は717-735年にかけて唐の国に滞在し、752年にも再入唐したとされる。そこに書かれていたのは五言廿四句の漢詩で、中には「黄鶏代人食」黄鶏人に代わって食し「黒鼠喰牛腸」黒鼠牛腸を喰らう⇒このように下剋上で世の秩序は崩壊する、というような如何ようにも解釈できそうな詩歌。詩の冒頭に「東海姫氏国百世代天工」東海にある姫の国では百代の時代を経て天に代わり人の治める国となった、というくだりがあり、天皇家は100代まででその後は治世が大変化する、とも読める。日本では度々起きる天変地異や謀反、下剋上、内戦のたびに、こうした解釈が可能な出来事が起きて、そのたびに本書が...中世日本の予言書ー<未来記を読む>小峯和明***

  • 世間胸算用・万の文反古・東海道中膝栗毛 日本の古典を読む18

    出版がビジネスとなるようになったのは日本では江戸時代、寛永年間1620年代に、版画のように版木に文字や絵を彫りつけて刷る印刷技術により大量印刷が可能となったことによる。多くの消費者に届けようとするため、連歌、漢詩文、能狂言という文芸にとどまらず、近世小説、演劇、俳諧という庶民ジャンルの作品が世に出た。井原西鶴は寛永19年(1642年)生まれで刀剣を扱う商家の生まれだという説があるが不明。若いときから俳諧師として活躍、矢数俳諧という詠んだ句の多寡で評価する俳諧興行で一日で2万句を詠んだという。浮世草子というジャンルで1682年に「好色一代男」を発表、その後遊里を描く「諸艶大鑑」、諸国の奇談集「西鶴諸国ばなし」市中の恋愛事件などを描いた「好色一代女」町人の経済生活を取り上げた「日本永代蔵」そして庶民の大晦日に...世間胸算用・万の文反古・東海道中膝栗毛日本の古典を読む18

  • 風姿花伝・謡曲名作選 日本の古典を読む17 ***

    観阿弥と世阿弥親子により芸能の一大分野として確立された猿楽・能は、将軍義満により評価され保護育成された。1333年生の観阿弥は大和の多武峰付近で活動していた山田猿楽の美濃太夫の養子の三男。少年、女性、鬼、ありとあらゆる役を自在に演じ分ける芸域の広さを身に着けていた。1375年、今熊野での演能で演じられた猿楽が義満の目に止まった。観阿弥は御用役者として将軍家近辺での活動をするきっかけとなり、世阿弥は二条良基に引き合わされ、「藤若」(藤原氏の氏の長者から藤の一字を賜る栄誉)を得た。その後、観世大夫となった世阿弥は能のさらなる改革を試みる。1408年義満が死ぬと、義持は自分を冷遇した父への不満から父の政策をことごとく否定。増阿弥を贔屓とした。その後書かれたのが「風姿花伝」であり、世阿弥が競合する他の芸能者たちに...風姿花伝・謡曲名作選日本の古典を読む17***

  • 大奥の奥 鈴木由紀子 ****

    大奥が幕政に大いなる影響力を持っていたことを多くの事例で示す一冊。徳川将軍家では大奥、諸大名では奥向もしくは奥御殿、大奥ができたのは江戸城本丸の修築がほぼ完成した1606年で、秀忠が本丸に入った時。その時の大奥支配者は秀忠の御台所於江与、信長の妹お市の方の三女である。この於江与と対立したのが秀忠長男竹千代(後の家光)の乳母となったお福、後の春日局であり、明智光秀の家臣斎藤利三の娘、家光が将軍となるころ後々までの大奥の姿が固まった。徳川家の大奥は信長と光秀の子孫により支配されることで始まったと言える。ちなみに、於江与とお福は秀忠の長男竹千代と三男国松(後の駿河大納言忠長)のどちらを次の将軍とするかで対立するが、お福が強力に働きかけたことも影響したのか、家康の判断で長男が長子単独相続を定着させるとして竹千代を...大奥の奥鈴木由紀子****

  • 古事記 日本の古典を読む1

    古事記は和銅5年(712)に書かれた現存する最古の書物。しかし考えてみると現在からは1000年も前になる平安文学の源氏物語に先立つこと更に300年。時代感覚を取り違えそうになる。まだ平仮名もカタカナも発明される前に、中国から輸入した文字である漢字だけを使って古事記は書かれた。上中下巻3巻のうち、上巻では天地の始まり、神々の誕生、国土の生成を経て地上世界の主となる天皇の祖先が天の世界から降臨した経緯が語られる。伊邪那岐、伊邪那美という男女神が夫婦となり国土の島々を産んだ話、太陽神の天照大御神がきかん気で乱暴な弟の素戔嗚尊の振る舞いにより天ノ洞窟の引きこもり、天地が真っ暗になってしまう話、素戔嗚尊が八俣の大蛇を退治して英雄になる話、などが描かれる。葦原中津国という人間世界、神々の世界である高天原、死んだ伊邪那...古事記日本の古典を読む1

  • 宇治拾遺物語・十訓抄 日本の古典を読む15

    いずれも鎌倉初期の成立とされる説話集。宇治拾遺物語は源高明の孫で四納言の一人源俊賢の息子隆国が序文を寄せたとされ、宇治大納言と呼ばれた隆国が聞き集めた説話を元に加筆されたものというが、本当のところは不明。十訓抄のほうも編者不明の説話集。高校の古典の教材に取り上げられることも多い宇治拾遺物語は日本昔ばなしとして紹介されることもある説話も多い。宇治拾遺物語。伴大納言による応天門への放火の罪を源信になすりつけようとして罰せられた話。平貞文が本院の侍従に一途な恋心を抱いた話。藤原保昌が下向の途中で出会った平致経の父、得も知れぬ雰囲気に気圧され、下馬しない無礼を咎めることができなかった話。博打打ちの顔の悪い息子が見事な戦略で長者の娘と結婚した話。安倍晴明が少将の憑き物を見破って命を救った話。金峰山から金を採掘したが...宇治拾遺物語・十訓抄日本の古典を読む15

  • 河内源氏 元木泰雄 ***

    河内源氏は武士の始まりに連なる一族の一つ。本書は清和源氏の一つと言われる河内源氏に焦点を定めて清和天皇の孫に当たる源経基、その子源満仲の子の世代、摂津源氏の頼光、大和源氏の頼義、そして河内源氏の頼信を紹介。頼朝はその6代孫に当たる。摂津源氏では頼光の孫の代に多田源氏となる頼綱、美濃源氏となる国房がいる。河内源氏の派生には頼信の子で頼義、その子が八幡太郎となる義家がいて、その兄弟からは、佐竹氏、平賀氏、小笠原氏、武田氏が派生する。義家の子の世代が嫡流の義親がいて為義、義朝、そして頼朝へとつながる。義朝の兄弟に義賢がいてその子が木曽義仲。義親の兄弟に義国がいてその子の世代が新田義重と足利義康となる。武士の始まりは地方の荒くれ者ではなく、荒くれ者たちを束ねて統率し一定の目的を定めて土地を守る人たちの集団へと成長...河内源氏元木泰雄***

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