新型コロナウイルス以前は15日間のチケット は1日で完売するほど加熱していた。今は 過熱どころか空席が目立つほどである。七月 場所の平日は空席がブロックでできていた。 さて地方場所を経て再びおこなわれ
九月場所の番付が発表された。照ノ富士が 横綱に昇進したことで、残った大関の弱体化 が際立ってきた。正代は先場所千秋楽でよう やく勝ち越すほどである。貴景勝は九月場所 カド番である。九月場所、両大関の優
昭和20年夏場所は軍部の命令で開催された。 東京健在を示すのが目的であった。物資の 乏しい時代で塩、紙、桶、柱がなく、そろ えるのはたいへんな苦労をともなった。場所 はわずか7日間。天井をぶち抜かれ、
優勝制度は大正15年に始まった。それととも に不戦勝不戦敗制度、取り直し制度が整備 されていった。国技館開設とともに始まった のは時事新報社による幕内最高成績者の写真 額を国技館に掲げる制度である。現
昭和47年最初の4場所は大混乱の場所だった。 一人横綱北の富士が乱調、4大関はたよりに ならない存在だった。そのため、誰が優勝 するのかまるでわからなかった。その年は 小結から関脇さらに大関に昇進した
昭和8年、春秋園事件で脱退した力士の復帰が別席で別に番付に付けられた。興行は初日 月曜、千秋楽月曜がしばらく続いた。昭和 11年夏場所千秋楽が日曜になったが、単発で 終わった。双葉山が初優勝したのは昭
照ノ富士が明治神宮で横綱の推挙式と初土俵 入りを披露した。通常ならば場所後の金曜、 相撲ファンが見守る中で行われるが、巡業は なく、コロナのデルタ株が猛威をふるいケタ はずれの感染者数を出すご時勢とあ
昭和40年から部屋別総あたりが始まった。 大関が長かった佐田の山が横綱に昇進した。 その勢いのまま年間最多勝力士となった。 佐田の山にとっては唯一の年間最多勝となっ た。その翌年昭和41年、柏戸が初の
白鵬が柔道会場日本武道館を訪れた件に関し てどうでもいい派と芝田山(元大乃国)広報 部長が「問題だよ」「横綱失格だよ」という 言葉を受けてのこだわり派がいるようである。 白鵬はぶらりと寄ったわけではな
大正が12月25日で終わると即日昭和になった。 したがって大相撲は昭和2年から始まること になる。東西合併の最初の場所は昭和ととも に始まった。大阪からは横綱宮城山など6人 が幕内に加わった。それとと
昭和35年、時代は栃若から大鵬へと移って いった。三月場所は栃錦、若乃花が千秋楽 全勝決戦という大正15年優勝制度始まって 以来初のケースとなった。これが最後の見せ 場となった。若乃花が初の全勝優勝を
夏が異常に暑くなって久しい。35度以上、 40度は珍しくなくなってきている。海外では 山火事が頻発している。夏の大相撲といえば 七月場所である。愛知県体育館は冷房の届か ない客席がけっこうある。廊下に
国技館の火災によって大相撲は晴天興行を せざるをえなくなった。大正7年春場所は 靖国神社で興行したが、かえって関心を呼び、 人気となった。ただ、横綱太刀山・西ノ海、 大関朝潮、平幕土州山が全休、10力
昭和29年、蔵前国技館が完成すると昭和30年 夏場所10日目に天覧相撲が実現した。その 夏場所千秋楽、大内山のやつでのような手が 栃錦を襲う。栃錦は防戦一方でたじたじ。 最後は飛び上がるように大内山の
現在の大相撲は15日制で初日日曜、千秋楽 日曜が定着している。それを可能にしている のが雨天でも興行が可能な施設である。東京 なら国技館、地方なら体育館・スポーツセン ターである。例外は昭和天皇が亡く
相撲界は戦後の混乱期にはいっていった。 日本の古いものはすべてだめで関心はまるで なかった。食料事情の悪さが加わった。なに より国技館が接収された状態だった。昭和21 年は秋場所の1場所のみの開催で終
関脇と小結は同じ給料とはいえ、力士として は最高位小結より関脇のほうがいい。また 相撲ファンが受ける印象も違ってくる。九月 場所幕内在位が想定される力士で最高位が 小結の力士は6人いる。最高位小結未満
引き続き昭和11年から20年までの年間最多勝 をみていこう。昭和19年こそ年3場所であっ たが、ほかは年2場所である。昭和11年、 玉錦が5回目の年間最多勝に輝いた。だが、 これが最後の年間最多勝にな
平成29年三月場所、大関照ノ富士は新横綱 稀勢の里との優勝決定戦後、優勝争いから 遠ざかっていった。平成29年五月場所は12勝 3敗だったが、白鵬が15戦全勝優勝している ので優勝争いまでいかなかった
年間最多勝は相撲ファンが注目するタイトル であるが、協会の制度ではないので、どこか で忘れられてしまうところもある。特に低 レベルの年間最多勝が続くとどこか白けて しまう。年間最多勝は年6場所とともに
今年に入って3つの部屋が閉鎖になった。 東関(元高見盛)部屋、峰崎(元三杉磯)、 鏡山(元多賀竜)部屋である。峰崎は定年に よるものだが、東関は部屋を継いだものの、 無理があった。鏡山は2人の弟子が続
照ノ富士大関2場所目の平成27年九月場所、 横綱白鵬・日馬富士は休場。残された横綱 鶴竜と大関照ノ富士の間で優勝が争われた。 鶴竜は横綱に昇進したものの、8場所連続 優勝なしが続いていた。照ノ富士は初
照ノ富士が横綱として九月場所、始めての 場所を迎える。そのとき照ノ富士は約29歳 10カ月になる。これは横綱が実質地位化した 常陸山以降の東京横綱ではどの変に位置する のだろうか、調べてみた。なお、横
七月場所では白鵬と千秋楽全勝決戦で熱戦の 末惜敗した照ノ富士。また、照ノ富士はよく 優勝決定戦に負けてきた。五月場所初めて 優勝決定戦に勝利した。優勝するためには 優勝を争う相手に直接勝つことは重要な
以前横綱10大史を発表した。 横綱10大史1その起源 横綱10大史2制度の継続 横綱10大史3横綱番付に登場 横綱10大史4歴代横綱登場 横綱10大史5横綱地位となる 横綱10大史6根拠のない土俵入り
横綱照ノ富士が日本国籍を取得した。これで 将来親方として協会に残り、場合によっては 部屋持ちになり、指導者・経営者としての 道が開かれたことになる。日本名の姓は師匠 伊勢ヶ濱(元旭富士)の杉野森である
昭和40年代輪島以降照ノ富士までをみていこ う。次期横綱は19人。横綱誕生!そのとき 次期横綱の地位大関は10人である。稀勢の里 が横綱になったとき、照ノ富士は大関だった。 このとき二人は優勝決定戦で
引退、十両落ちがあれば、一方で新しい力 あるいは復帰した力士で幕内は形成されて いく。2021年九月場所幕内在位と思われる 力士の年齢はどのように構成され、どのよう な順位なっているのか番付にしてみた
戦後、昭和30年代、40年代の琴櫻までをみて いこう。横綱最初の場所、そのとき次期横綱 は15人。そのうち大関の地位にいたのは8人 である。戦後の群雄割拠の時代、大関でちょっ と強ければ横綱になれた時
横綱照ノ富士が誕生した。2017年三月場所、 稀勢の里が横綱でデビューしたとき照ノ富士 は大関だった。ただし、その後序二段まで 番付を落としたことはよく知られている。 照ノ富士は例外としても、横綱が誕
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2日目、愛知の相撲仲間と出会った。彼から様々な情報を得ることができた。2日目は客足が早かった。理由は炎鵬が序ノ口に登場するからである。応援空しく敗れたという。首はこわい。体が不自由になる恐れがあった木
七月場所が始まった。初日は幸い危険な猛暑とはいかず、霧雨がいくぶんあったほどであった。 先場所優勝した大の里は新関脇として登場した。対戦相手は番付を成績以上に大きくアップ下御嶽海である。御嶽海はここの
土俵の目撃者をいつもご愛読いただき誠にありがとうございます。足を使い、この目で見た生の大相撲をお届けするために、七月場所の初日から千秋楽まで愛知県体育館で観戦します。 <七月場所の案内> 名古屋で観戦
14日から酷暑の七月場所が始まる。第2日曜として最も遅い日になった。そのためオリンピックと重なる日が出てくる珍しい興行となった。あくまで予定だが、愛知県体育館が会場となるのは今年が最後である。 <大の
■難敵引き続き3人目以降の難敵をみていこう。 11(××〇×××)10高安かなり接近した対戦成績である。貴景勝が初優勝したときははずみで負けている。もつれると貴景勝は危ない。 1(××××〇●)1平戸
令和元年は五月場所から始まり、現在30場所を経過した。令和2年に1場所中止になっている。開催したものの無観客が1場所ある。また13時入場の場所もあった。 令和の関脇以下の優勝力士キラーは誰か。ただし、
■三賞獲得9回 鶴竜 殊2・技7鶴竜は志願兵だった。大相撲の入門志願をしたため日本語がわかる教授に翻訳してもらい、それを日本相撲振興会に送った。受け取った会長は会員と相談後井筒(元逆鉾)に託して入門が
貴景勝は3場所連続休場中である。三月場所角番だったが、七月場所再び角番である。こうした状況は貴景勝の角番が容易ならざるものにしている。貴景勝の具体的な対戦相手から角番脱出がなるか、検討してみよう。 ■
先場所優勝した大の里。場合によっては七月場所の成績・相撲内容次第では大関もあり得る。実現したら入幕5場所目に大関という年6場所制では驚異の記録になる。 これは大の里がすごいのか。筆者は長年大相撲をみて
■三賞獲得9回今回取り上げる力士は偶然横綱までいった方々である。 旭富士 殊2・敢2・技5立浪(元安念山=2代目羽黒山)部屋の分家大島(元旭國)部屋出身。近大に進学したが、2年のとき中退。柔軟な体で津
大関の座を開け渡した霧島が復帰にむけて始動している。首の痛みが引き、優勝を目指すつもりで10勝以上をあげるという。大関から落ちた直後の場所、10勝以上で復帰できる規定によるものである。 6場所制ととも
照ノ富士の一人横綱が続いている。照ノ富士が新横綱のとき白鵬はコロナ部屋ごと休場だった。場所後引退した。照ノ富士の一人横綱は番付上きたる七月場所で17場所に及ぶ。その照ノ富士は休場がちである。すでに晩年
■三賞獲得9回 大麒麟 殊5・技4体が柔軟でもろざしから吊り。うっちゃりもあった。四つは右四つで素質・素材はすばらしかった。ここ一番に弱く大関のチャンスを2度逃し、3度目で手中にした。優勝はついになか
プロレスの本を読んでいると、相撲につながる知られざる面が多々ある。本は闘魂と王道というタイトルで副題として昭和プロレスの16年戦争としている。著者は堀江ガンツ氏で株式会社ワニブックスより発行された。5
7月に入って、七月場所の番付が発表された。1横綱3大関と寂しくなった。先場所優勝した大の里は新関脇となった。入幕から4場所目のことであるから驚異の新人である。 <大の里(右)> 平戸海が小結に昇進した
阿炎阿炎が優勝したのは2022年十一月場所である。優勝決定巴戦を制しての結果であった。その後の阿炎は73勝62敗である。大関戦は8勝10敗である。負け越しは1場所しかない。阿炎としてはよくやっている、
■三賞獲得8回引き続き三賞8回獲得者をみていこう。 黒姫山 殊4・敢3・技1幕下にいる黒姫山の祖父である。立ち合いの強烈なぶちかましからの突き押しでD51と呼ばれた。再入幕2場所目に敢闘賞を受賞した。
照ノ富士混迷の時代、照ノ富士は3回優勝している。7回目、8回目、9回目の優勝である。それだけ聞くとよくやっていると思いがちだが、つぶさに検討すると、そうはいかない。7回目の優勝後の成績は58勝25敗9
三賞が実施されたのは昭和22年秋場所であった。相撲人気の低迷脱出に記者クラブと相撲協会が考案した。ファンにも力士にも好評であった。優勝はどうしても限られた者、選ばれし者になってしまう。三賞なら誰にでも
混迷の時代は2022年一月場所から始まった。誰が優勝するか場所前から予想できない。ときには思いがけない力士が優勝したりする。混迷の時代の優勝者はその時はヒーローである。しかし、その後はどうしているのか