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奥井みさき
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2010/04/17

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  • 稚内から名寄まで、国道40号線南下旅 … 最後に、『抜海』全部出し

    美深を出てからは国道40号線を名寄まで南下し下川、西興部を経由し滝上まで行きました。名寄から先は国道40号線南下旅ではなくなるので旅行記は昨日で終わりです。最後に、『抜海」を全部出しします。『抜海』は独立した村でしたが稚内と併合し稚内の一部になりました。その名残が今も“抜海村”として地名になって残っています。その『抜海』の語源は「パッカイ・ペ」(子を背負う・もの)で、抜海市街地の南外れにある抜海岩に由来します。大きな岩が小岩を背負うような形をした岩です。この岩の下には海食小洞窟があり、オホーツク文化初期の「抜海岩陰遺跡」もあります。あとは抜海駅の本編でアップしなかった抜海駅の画像をどうぞ。これで稚内から名寄まで、「国道40号線南下旅」は終わります。稚内から名寄まで、国道40号線南下旅…最後に、『抜海』全部出し

  • 稚内から名寄まで、国道40号線南下旅 … 旧国鉄美幸線資料室(美深町交通ターミナル内)

    美深町交通ターミナルとは要するにJR美深駅なのですが、中には売店、観光案内所、観光協会などがあり、この資料室も併設されています。交通ターミナルとしてはJRの他に仁宇布までのデマンドバスの起終点になっているだけで、名士バスのメインとなる恩根内線(名寄ー恩根内)は立ち寄りません。そのデマンドバスのもとになった旧国鉄美幸線は美深から仁宇布に至る路線で、当初は北見枝幸まで延伸する予定で一部工事も着工していました。仁宇布まで開通したのは1964年、日本一の赤字線として知られ、当時の長谷部町長が東京・銀座や大阪・心斎橋へ行き切符の販売をするなど全国的な話題になりました。奮闘も空しく、美幸線は1985年に廃止になりました。その美幸線の貴重な資料を展示しているのが「旧国鉄美幸線資料室」です。室内には美幸線の年表、看板、切...稚内から名寄まで、国道40号線南下旅…旧国鉄美幸線資料室(美深町交通ターミナル内)

  • 稚内から名寄まで、国道40号線南下旅 … 美深町文化会館COM100郷土資料室

    美深市街地の西、天塩川に近い辺りに役場などが集まる一角があります。その“官庁街”の一番西側に「美深町文化会館COM100」があります。ここには大・小のホール、図書室、視聴覚室などがありその中に“郷土資料室”があります。町の教育委員会もここにあり、町の文化の発信基地になっています。展示で気になったことを二つ書きます。ひとつは松浦武四郎のこと。天塩川流域の各自治体にとって松浦武四郎は特別な存在です。25日のブログにも書きましたが流域を探検した様子が「天塩日記」に記されているので。その探検の様子が解説されています。道の駅の敷地内に「松浦武四郎踏査之地」の碑もあります。もうひとつ、昔の市街地図から。それを見るとまずは澱粉工場が多いこと、それと「糸屋銀行」の名があったこと。澱粉工場が多いということは当時の農業の様子...稚内から名寄まで、国道40号線南下旅…美深町文化会館COM100郷土資料室

  • 稚内から名寄まで、国道40号線南下旅 … 恩根内駅跡

    稚内を出発し順調に南下、美深町までやってきて最初に寄ったのは恩根内駅跡。開業は1911年、1986年に無人化し列車交換設備を撤去した際に車掌車の駅舎になり、1993年に現在の駅舎が完成しました。2021年に美深町による維持管理に移行、今年3月に廃止、利用者数は1日1人以下でした。美深町内では同じく今年、初野駅が廃止され町内の駅は美深駅だけになっています。さて駅跡地はというと、今年廃止されたばかりなので駅舎はそのまま残っています。当然、安全上駅舎の中には入れませんが。旧ホームへも“線路進入禁止”の表示がありますが封鎖されているわけではなく、駅舎ともども廃止前のままです。恩根内は小さいながらも市街地が形成され、郵便局や役場出張所、駐在所もあります。そして名士バスの停留所が。駅廃止前の列車本数は稚内方面が4本、...稚内から名寄まで、国道40号線南下旅…恩根内駅跡

  • 稚内から名寄まで、国道40号線南下旅 … 筬島駅

    エコミュージアムセンターに来たついでに筬島駅に寄りました。開業は1922年、現駅舎は各地によくみられる貨車駅舎ですが、木造駅舎時代の土台の上に建っています。この駅もご多分に漏れず利用が低迷、JRは駅の廃止を打診していましたが今は音威子府村が管理しています。現在の利用者数は1日0.2人、1週間に1人ほどしか利用がありません。停車する列車は稚内、名寄両方面とも各3本、運行時間も有効時間とは言い難く、これでは地域の方々も日常の利用はできないだろうと思います。ちなみに稚内行の発車時刻は5:43、9:16、17:11、名寄行は7:32、12:59、20:37です。また5月~10月は音威子府村の地域バスが平日は4往復、土日祝は5往復あります。その地域バスも11月~4月は運休です。土日祝が運休という公共交通機関はよくあ...稚内から名寄まで、国道40号線南下旅…筬島駅

  • 稚内から名寄まで、国道40号線南下旅 … エコミュージアムおさしまセンター(BIKKYアトリエ3モア)

    彫刻家の故・砂澤ビッキは1931年生まれ、22歳の時に彫刻を始め北海道と東京を中心に創作活動をしていました。1978年、音威子府村筬島(おさしま)に移住し廃校になった小学校跡にアトリエを構えました。1989年にお亡くなりになっているので、ここでの活動は11年ほどになります。そのアトリエをリニューアルしたのがここ、通称・砂澤ビッキ記念館です。中に入ると7つのエリアに分かれており、それぞれビッキの作品と解説などがあります。アートに関しては私の専門外なので何も述べません。ただ、私は砂澤ビッキの存命中から作品のファンだったということだけは申し上げておきます。最後のエリアはカフェにもなっていて、オリジナルグッズも販売しています。ショップにはおといねっぷ美術工芸高校の卒業生の作品もあります。おと高卒業生の作品というこ...稚内から名寄まで、国道40号線南下旅…エコミュージアムおさしまセンター(BIKKYアトリエ3モア)

  • 稚内から名寄まで、国道40号線南下旅 … 北海道命名之地

    北海道は江戸時代まで、「蝦夷」と呼ばれていました。幕府から見ると辺境の未開の地、ですね。ロシアの南下により、これではだめだということで明治政府になってから、様々なことを端折って結論だけ言うとこの地は「北海道」となりました。なぜ「北海道」という名になったかというと、そこには松浦武四郎が関係してきます。松浦武四郎が天塩川沿いを探検、音威子府村筬島の鬼刺辺川付近で野営中、アイヌの古老にアイヌ語の“カイ”は「この国で生まれた者」という意味だと教えてもらった。このことは「天塩日誌」に記録されています。これにより松浦武四郎は蝦夷の新しい名前を「北加伊道」とし、そこから「北海道」という名前に決まりました。もっといろいろな経緯があるのですが、再び端折るとこうなります。松浦武四郎が野営した地がこの辺りになります。ここの詳細...稚内から名寄まで、国道40号線南下旅…北海道命名之地

  • 稚内から名寄まで、国道40号線南下旅 … 天塩中川駅

    宗谷本線の中で今まで幾度も車窓から見ていて一度訪問してみたい駅として16日に抜海駅を書きました。その抜海駅と並び一度訪問したかった木造駅がここです。現駅舎は1953年に完成、その後改修され使われていましたが、2014年に中川町が駅舎を譲り受け地元産トドマツを用いた復元工事を施しました。今は駅舎落成当時の雰囲気を再現しています。外壁は昭和中期頃までによく見られた「下見板張り」という工法で、木の板が少しずつ重なり合うように横方向に張られています。階段状に張ることで雨水の浸透を防ぎ、取り外しもしやすいためメンテナンスもしやすい、気象状況の厳しいところでよく採用された建築様式です。時代が進むと工法が変わり、より耐寒耐雪に適した駅舎になっていきます。16日にアップした抜海駅の駅正面の画像がまさにそれですね。天塩中川...稚内から名寄まで、国道40号線南下旅…天塩中川駅

  • 稚内から名寄まで、国道40号線南下旅 … 北緯45度通過点

    北緯45度は赤道と北極の中間点(実際はやや北)、日本では幌延、浜頓別、中頓別、枝幸の各町を通過します。幌延町には45度の緯度線を通る道路の何か所かに「北緯45度通過点」の看板などがあります。一番有名なのは前日も通った道道106号線のモニュメントです。私が今回北緯45度を跨いだのは幌延市街地から国道40号線へ向かう途中の道道121号線、「萌える天北オロロンルート」と名付けられています。言った者勝ちとはこのことだね。看板は道の両側に設置されています。そうですか、ここが北緯45度ですか。日本で幌延町というとかなり北に位置すると思いますが、ヨーロッパだとフランス、イタリア、黒海などを通過しています。イギリスはもっと北、ロンドンは北緯51度ほどになります。今年オリンピックが行われるパリも北緯48度ほどで稚内より北に...稚内から名寄まで、国道40号線南下旅…北緯45度通過点

  • 稚内から名寄まで、国道40号線南下旅 … 宮の台展望台

    ここからは稚内を出て名寄までひたすら国道40号線を南下していきます。稚内から行くと豊富市街地の手前、2021年に廃止になった徳満駅の辺りから細い道を丘に上ります。道の途中にサロベツ原野が一望できる展望台があります。国道に看板が出ているので入口はわかると思います。サロベツ原野は東西8㎞、南北27㎞、面積は約2万ヘクタール、要は“広い”のである。これだけ広いと湿原の中に入ってしまうと何が何だかよくわからなくなります。湿原全部とは言いませんが、その全容を見たいと思い訪れたのがここです。残念ながら、前日に続き天気があまりよくない。晴れていれば広大な牧場の向こうに原野が広がり兜沼なども見え、砂丘の向こうに日本海と利尻山も見えるはずなのですが…。普段の行いが悪いとこうなるという見本ですね。とはいえ、サロベツ原野の雄大...稚内から名寄まで、国道40号線南下旅…宮の台展望台

  • 稚内・市内散歩 … 旅館 似木似(いこい)

    稚内のお宿事情は5月~10月のオンシーズンとそれ以外のオフシーズンでは全く違います。オンシーズンとオフシーズン、月の境の1日で宿泊料金が全く違ってしまい、混雑状況もこれまた段違い。オンシーズンの半年で1年分の稼ぎをしなければいけないのでこれは仕方ないのは承知しています。私が最近、稚内で定宿にしていたお宿もオフシーズンの倍以上したしな。そのシーズンの境目、私が稚内に宿をとったのは5月2日でした。今年の曜日の配列のこの微妙な一日、その隙をついてお宿を予約しました。いろいろな要素がありこのお宿に決めたのですが、それを書いていくとキリがないので省略。お宿の場所は稚内駅から徒歩10分ほど、要は街中の便利な場所にあるということ。私は車なので立地は関係ないのですが、街中の便利なところにあるのは何かと助かります。お宿は2...稚内・市内散歩…旅館似木似(いこい)

  • 稚内・市内散歩 … 日本最北のマクドナルド(40号稚内店)

    稚内にあれば何でも『日本最北』なのです。何事にも例外はあるのですが。牛丼屋は「すき家40号稚内大黒店」、駅は稚内駅、コンビニは「セイコーマートとみいそ店」、ファミレスは「ヴィクトリアステーション稚内店」(ペリカンはもっと北)など、稚内にあれば何でも日本最北端なのです。その最北端でも、あの世界のマクドナルドともなると観光名所になります。稚内周辺の観光WEBサイトにも観光スポットとして紹介されています。→https://www.north-hokkaido.com/spot/detail_1063.htmlこのお店はいろいろな方が取り上げているのでご存じの方も多いでしょう、敷地の中に日本最北端店舗のモニュメントがあり、ベンチにはドナルドが座っています。春の大型連休の最中、お店はお客様で賑わっていました。日本最...稚内・市内散歩…日本最北のマクドナルド(40号稚内店)

  • 稚内・市内散歩 … 稚内地名発祥の地

    稚内の地名はアイヌ語の「ヤム・ワッカ・ナイ」が語源になっています。意味は“冷たい水の出る沢(川)”です。伝聞によると古来稚内は質のいい水が得にくい土地場所だったのですが、港に流れる川からいい水が得られたことから名がついたとされています。物語としてはこれで終わりで、その川が実際にどこにあったのかなど詳細は不明です。少なくても私が調べた限りではここという場所は見当たりません。地名が付けられたのはアイヌ文化時代のはるか昔なので正確な場所の特定は無理だろうに。港1丁目に真言寺という寺院があります。この境内「稚内地名発祥の地」の看板があります。この寺院の横に流れる川が稚内の語源になった川なのだという。この川は1年中枯れることなく流れていたのだそうです(FMわっぴ~より)。事の真偽はともかく、ここが稚内地名の発祥とい...稚内・市内散歩…稚内地名発祥の地

  • 稚内・市内散歩 … 稚内市樺太記念館

    樺太(サハリン)は第2次世界大戦前は南半分が日本の領土でした。稚内からは大泊(コルサコフ)と本斗(ネベリスク)まで連絡船が出ていました。鉄道が北防波堤ドームまで乗り入れ、連絡船に乗り換えていたのです。昨日ブログに書いた北方記念館もそうですが、稚内を歩いていると樺太関係のお話が多い。今でも経済的な結びつきが強いので樺太(ロシア)が身近だということもあるのでしょう。2019年まではコルサコフまでの定期航路がありましたし、ホテルサハリンなどというお宿もあります。その樺太の資料をまとめて展示しているのがここになります。こういう網羅的な展示をしている施設があるのは有り難い。樺太への連絡船のこと、樺太の産業、各地の町の様子、ロシアとの国境、また大戦時に殉職した電話交換手(九人の乙女)の展示もあります。個人的には樺太に...稚内・市内散歩…稚内市樺太記念館

  • 稚内・市内散歩 … 稚内市北方記念館・開基百年記念塔

    稚内市の開基100年を記念して1978年、稚内公園に建設された建物です。稚内だといつが開基になるのかわかりませんが、市では戸長役場が置かれた1879年としています。1階と2階は「稚内市北方記念館」となっており、稚内や樺太などの郷土資料、間宮林蔵とその足跡、アイヌ民族に関する資料が展示されています。要は市立博物館ですね。展示内容についての細かい解説はここではしません。さて1階からエレベーターに乗ってタワーに上ると海抜240mの展望室があります。晴れていれば利尻・礼文両島や樺太、更に樺太の東側にある海馬島(モネロン島)も見えるのだとか。海馬島(モネロン島)は大韓航空機撃墜事件で飛行機が墜落した現場に近い。残念ながらこの日は風が強く天気も薄曇り、利尻山の山影がかすかに見えただけでした。また同じく強風のため外観の...稚内・市内散歩…稚内市北方記念館・開基百年記念塔

  • 札幌から稚内まで、オロロンライン北上旅 … 抜海駅

    毎年、廃止だ存続だと話題になっている日本最北の木造駅です。私は車窓から見ることはありましたが、実際に訪問するのは初めて。開業は1924年、現在の駅舎は1940年に建てられたもので鉄板ぶき切り妻屋根、厳しい自然環境の中何度も改修され今に至っています。特に駅正面、日本海側は厳しい風雪に耐えられるように改修され、ホーム側とは全く違う表情となっています。駅舎の中に入ると待合室を挟み入口とホームの間にそれぞれ風除室が設けられています。これは冬季の地吹雪に備えた、抜海駅ならではの工夫です。ホームは相対式ホーム2面2線、稚内駅行は1番ホーム、幌延方面は2番ホームを使っていますが、今年9月に運行管理システムの更新により2番線の使用を停止する予定です。今現在、当駅で列車の行き違いもないですし1線スルー化によって除雪費も節約...札幌から稚内まで、オロロンライン北上旅…抜海駅

  • 札幌から稚内まで、オロロンライン北上旅 … 天塩川歴史資料館

    1951年に建築された旧役場庁舎を利用し1989年に開館した資料館です。レンガ造り、地元では『赤レンガ』として親しまれていたそうです。さて、天塩町とはどんなところなのでしょうか。明治の開拓期は小樽から途中を経由し天塩に至る航路が開設されました。小樽以北の日本海沿岸は小樽と結ばれる航路が重要でした。当時の北海道の経済の中心である小樽と直接つながっていることが経済の発展に欠かせなかったのです。天塩が他の地域と違ったことは、天塩川の河口にあったこと。小樽からの物資や人はここから『長門(ながと)船』と呼ばれる船で天塩川の奥地に運ばれました。海運は天塩の先、稚内を経由してオホーツクへ、あるいは利尻・礼文などへと延びています。これにより天塩は海運と舟運の交通の結節点として栄えることになり、道北の中心都市の一つとして栄...札幌から稚内まで、オロロンライン北上旅…天塩川歴史資料館

  • 札幌から稚内まで、オロロンライン北上旅 … 日本最北の水田

    こんなところに水田が?そうなんです、こんな北にも水田があり、そこが日本最北の水田耕作地になっています。遠別市街地から北上すること数分、国道と道道119号線が分岐する手前700mにこの看板があります。実際の最北の水田はさすがに海岸沿いではなく、道道を内陸に進んだ場所になります。作付けされているのは「はくちょうもち」をはじめとしたもち米です。かつてはうるち米を栽培していましたが、1982年にもち米に転換しました。名寄市風連ももち米の産地として有名ですが、もち米は冷涼な地でもすくすく育つらしい。ここで水田経営が成り立つ理由はいくつかありますが、一番の要因は対馬海流が流れていること。太平洋のはるか南に源流を持つ暖流は日本列島で南北に分かれます。南に流れた海流は黒潮(日本暖流)となり太平洋に流れます。北に分かれた海...札幌から稚内まで、オロロンライン北上旅…日本最北の水田

  • 今日と明日は出かけます

    皆さん、オーロラはご覧になりましたか?さて先日、稚内に行ったばかりなのですが、今日と明日はまた出かけます。単純に今日は函館に行って1泊、そして帰ってくるだけなのですが。道中は休憩がてら何か所かに立ち寄り、函館では仕事の合間に少し観光ということになりそうです。そんな単純な道中ではなさそうですが。ブログは明日はお休みし、14日から再開します。道中のことはSNSでご確認ください。では、行ってきます。今日と明日は出かけます

  • 札幌から稚内まで、オロロンライン北上旅 … 天登雁村鬼鹿村發祥之地・碑

    今日は小平町の北部の歴史について。1880年、番屋の沢に鬼鹿村と天登雁村の戸長役場が設置されました。場所は旧花田家番屋を少し北上したところ、番屋沢川という小河川の河口南口にあります。「金子漁業部」という会社が目印、その前に建っています。1880年、この地に天登雁(てんとかり)村・鬼鹿村両村戸長役場が設置されました。村は2つに分かれていますが実際は一体として運営されていたようで、1906年には天登雁村が廃され鬼鹿村に併合されています。戸長役場は1884年、番屋の沢からその後に発展した鬼鹿に移転されています。行政の中心としては、狭隘な番屋の沢より平坦な鬼鹿が良かったのでしょう。鬼鹿はその地形により、市街地としても発展したであろう。その鬼鹿村は昨日のブログの通り、1956年に小平村に編入されています。小平町は南...札幌から稚内まで、オロロンライン北上旅…天登雁村鬼鹿村發祥之地・碑

  • 札幌から稚内まで、オロロンライン北上旅 … 小平蕊村發祥之地・碑

    留萌市のすぐ北、小平町は小平市街地と臼谷地区を中心とする南側と、旧花田家番屋を含む北側の鬼鹿地区はに分かれます。廃止された羽幌線を走破していた急行「はぼろ」も小平駅と鬼鹿駅に停車していました。今回はその南側の、小平市街地と臼谷地区を含む旧小平蕊村のお話です。この地区は元々、留萌町(現・留萌市)の一部でしたが、1919年に分離独立し「小平蘂(おびらしべ)村」となりました。最初に役場が置かれたのは臼谷地区で、そこに「小平蕊村發祥之地」の碑が建てられています。所在地は廃止になった羽幌線臼谷駅跡で、「おびらしべ記念公園」として整備されています。国道より山側にありますが、この公園は元は鉄道跡地ということでその場所はすぐわかります。その公園の中に建つのがこの碑です。小平蘂村の役場は1924年に現在の小平市街地に移転、...札幌から稚内まで、オロロンライン北上旅…小平蕊村發祥之地・碑

  • 札幌から稚内まで、オロロンライン北上旅 … 増毛町道路元標

    「増毛町道路元標」、設置場所は役場の横、厳島神社の一角にあります。裏には「昭和三年建〇北海道〇」とあり、最後の文字が埋没しています。他の道路元標を参考にすると「昭和三年建設北海道廰」となります。増毛町に戸長役場(増毛村)が置かれたのは1874年、1900年に増毛町になり、道路元標が建てられたのが1928年(昭和3年)になります。増毛は古くから栄えていただけあって町制施行が早い。それにしても、1文字分とはいえ埋もれているとは残念ですね。誰か掘り起こしてきちんと保存してくれないだろうか。その場合は、場所は移してはダメだぞ。札幌から稚内まで、オロロンライン北上旅…増毛町道路元標

  • 札幌から稚内まで、オロロンライン北上旅 … はじめに

    4月2日~3日、お出かけしておりました。2日は札幌を出て天塩までは国道231号線をまっすぐ北上、天塩からは道道106号線と254号線を走り稚内に入りました。要は海岸線に忠実にノシャップ岬まで北上し、宗谷湾を回り込み稚内市街地に行ったのです。北海道の中でも天塩から先の風景はここにしかないものです。宗谷丘陵を代表するのは周氷河地形、サロベツ湿原と海岸沿いに伸びる砂丘、風力発電の風車、豊富牛乳に代表される広大な牧場、海に浮かぶ利尻富士など…。風景は広大過ぎてスマホの写真ではそのすごさがよくわからないのが難点だな。そしてそこに暮らす人々の暮らし。宗谷は江戸時代以前から宗谷海峡を挟んで樺太やシベリアとの交易の拠点でもありました。また南下するロシアに対抗する最前線の防衛基地であり、国境の街でもあります。稚内や宗谷地方...札幌から稚内まで、オロロンライン北上旅…はじめに

  • 5月4日の芝ざくら滝上公園

    先日、実家に行ってきました。その際に、咲き始めた芝ざくらを観てきました。芝ざくら滝上公園の広さは約10万㎡で日本最大級です。あまりに広すぎて公園の中に入ってしまえばその全容がよくわからない。公園全体を俯瞰するなら滝上神社の境内からがお勧めです。ということで、5月4日の朝の芝ざくら滝上公園の様子です。撮影場所はもちろん滝上神社の境内です。上の方はかなり開花しています。この調子なら今週末から見ごろになりそうです。11日からはいろいろなイベントが行われるしな。→http://takinoue.com/wp-content/uploads/2024/05/24%E3%83%81%E3%83%A9%E3%82%B7_%E4%B8%A1%E9%9D%A2.pdfそして今月いっぱいは芝ざくらが楽しめるぞ。芝ざくらは桜と...5月4日の芝ざくら滝上公園

  • 滝南特別教授場跡

    北海道の開拓期には今考えると信じられないような奥地に集落や学校がありました。今日ご紹介するのはそんな学校のお話です。滝上の市街地から上川に向かうと順に、滝上、白鳥、滝西、滝奥に学校がありました。ここまでならご存じの方はいらっしゃると思います(現存するのは滝上小学校のみ)。実はその奥に、「滝南特別教授場」がありました。場所は国道273号線沿い、滝奥地区から上川方面にしばらく行くとチェーン着脱場があります。そこから更に奥に行くこと約2.5㎞、滝上方面から行くと左手に古びた石碑があります。周囲は国道が通るだけの原野、滝奥地区よりも浮島トンネルの入り口の方が近い。昔はこんなところまで開拓の鍬が入ったのかと思います。この地区に学校設置の議が起こったのは1919年、教授場設置の許可があり、片田丑五郎が校舎建築費600...滝南特別教授場跡

  • 今日から出かけます

    今日はオロロンラインを北上し稚内まで、途中のターゲットは天塩町です。明日は稚内を出て豊富町、中川町、名寄市を経由し滝上まで、明後日は滝上を出て下道をのんびり走って帰札します。先日、層雲峡温泉に泊まったばかりだというのに何てことかねぇ…。今まで稚内は仕事で何度か行きました。去年は乗り鉄で1泊2日で行ったりもしました。仕事で行っても乗り鉄で行っても、なかなか観光は出来ないのです。今回は今まで行きたくても行けなかった観光スポットを狙っているのですが、さてどうなることやら。それにしても稚内は春の大型連休の前後でホテルの宿泊料が全然違うな。1年の稼ぎを半年で賄う、北海道ではそのような観光地は少なくないでしょうね。ということで、このブログは少なくても6日まではお休みします。途中のことはX(旧ツイッター)やFacebo...今日から出かけます

  • 旧幌向駅逓所(南幌町)

    “幌向”とありますが、今の岩見沢市幌向地区ではなく南幌町にあります。南幌町は「幌向原野」にあったことからかつては“幌向村”と名乗っていましたが、岩見沢市に幌向地区があり紛らわしいことから町制施行の際に“南幌町”と改称した、その名残です。その南幌町にある旧駅逓所ですが、設置されたのは1912(M45)年とされています(異説あり)。現存されているこの建物は1928(S3)年に建造、夕張鉄道開通により廃止されたのが1931(S6)年です。この建物は駅逓としては3年ほどしか活躍していなかったのですね。その昔に廃止された建物が現存しているということはその後も何かに活用されていたと思うのですが、それが調べても今のところわからない。こういう建物はその後が大事だと思うのですが、そういうところは南幌町に頑張ってほしいな。町...旧幌向駅逓所(南幌町)

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