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2009/10/24

  • 今日も1日、無礼講

    第二もこれと同様である。 「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」。 これら二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている。 (マタイ福音書22:39) この第二の戒めにおいて、強調されてゐるのは 「隣り人を愛せ」 といふことであるやうに見えます。 しかし本当に大事なのは、前半の 「自分を愛する」 のほうではないかと、つねづね思ふのです。 といふのは、「自分を愛する」ことなしに「隣り...

  • 直観の弟子と概念の弟子

    お釈迦様が悟りを得られたあと、最初の弟子になつたのは5人の比丘だつたと言はれます。 その5人は、もともとお釈迦様と一緒に修業をしてゐた人たちです。彼らは長い間、とても厳しい修業に明け暮れてゐたが、お釈迦様はあるとき「苦行では悟りを得られない」と考へられた。それで苦行をやめて、菩提樹のもとで瞑想を始められたのです。 それを見た、同行者であつた5人の比丘は最初、 「ゴータマは苦行から脱落した」 と思ひ、見...

  • 幼子の何が偉いのか

    よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。 (マタイ福音書18:3-4) 幼な子が天国では一番偉いといふ、よく知られた聖句です。 この聖句の前後の文脈を見ると、弟子たちがイエス様に 「天国で一番偉いのは誰ですか」 と尋ねたのに対して、答へておられる。 弟子たちが言ふ「偉い」...

  • ありのまゝの愛情

    先日の記事「どの子に死に水を取ってもらふか」に、コメントを寄せてくださつたかたがゐます。 斎藤一人さんの 「子どもには可愛い子どもと可愛くない子どもがゐて、たいていの親は可愛がらなかつたほうの子に世話になつて死んでいくんだよ」 といふ言葉を紹介したところ、 「自分のお腹を痛めて生んだ子に、可愛いとか可愛くないとかはありません」 と言はれるのです。 多分女性のかたでせう。実感かもしれません。 改めて自分...

  • 「サル発言」の深層

    「謝罪」といふことが、最近気にかかります。 人は「謝罪」に何を求めてゐるのか。誰が誰に「謝罪」を求めるのか。「謝罪」で何が解決するのか。さう言つたことを、改めて考へます。 気になるきつかけは、最近話題の所謂「小西問題」です。 立民参議院議員の小西洋之氏が、憲法審査会の開催について、 「サルのやること」 「蛮族の所業だ」 などと発言。 それに対して関係者は相当気分を害したが、その中でも維新の馬場代表は...

  • 神は「善の神」か

    【ニール】でも、わたしは善と悪が存在すると教えられて育ちました。善と悪は対立すると教えられてきました。神の目には、あるものはまずい、いけない、受け入れられないと教えられてきました。 【神】神は何でも「受け入れる」。存在するものを神が受け入れないはずはない。拒否するというのは、その存在を否定することだ。 (『神との対話』ニール・ドナルド・ウォルシュ) ニールが最初に「でも」と言つて、神...

  • 「理由」のある幸福

    インドの伝統哲学ベーダーンタ学派(「ベーダ聖典の極意」の意)の言葉に、次のやうなものがあるさうです。 「理由」のある幸福は、形を変へた不幸である。なぜなら、その「理由」はいつでもたやすく取り去られる可能性があるから。 「理由」は「条件」と言ひ替へてもいゝでせう。 つまり、 「これこれでないと、私は幸福ではない」 といふのが、「理由」のある幸福です。 「お金が...

  • どの子に死に水を取つてもらふか

    Youtubeのショート動画で、斎藤一人さんがこんなことを話してゐます。 子どもには可愛い子どもと可愛くない子どもがゐて、たいていの親は可愛がらなかつたほうの子に世話になつて死んでいくんだよ。 統計的な根拠があるのかどうかしらないが、面白い着眼点だと思ふ。 親も子も、行く末がどうなるかなど、分かりはしない。親は何人かの子どもを育てながら、どうしても可愛い子と可愛く...

  • 私を映す鏡

    私が自分の生涯で最も長く深く付き合ふ人と言へば、それはもちろん自分自身に違ひない。しかし、その自分をどれくらゐ知悉してゐるかと自問すれば、かなり心許ないでせう。 なぜ心許ないか。我々の目も意識も、自分自身を見ることに長けてゐないのです。 顔に埋め込まれた目は、直に自分の顔を見ることができない。どうしても見ようとすれば、鏡を覗くか、カメラの目を通して写してもらふかしかない。 意識も、これと似たところ...

  • 行動で問題を解決しようとしない

    自分に何かの問題が起こつたとき、我々はまづその問題を解決しようとする。当たり前ですね。問題があるまゝでは支障があつてつらいし、放つておいてこぢれたらますます困る。だから、問題は一刻も早く解決しなければと思ふのです。 解決するためには、原因は何か、そしてそれにどう対処したらいゝかと考へなければならない。しかし我々は、「考へる」ことによつて問題を解決しようとは思つても、「考へ方を変へる」ことで問題を解...

  • 信仰は今見てゐる事実を確認する

    新約聖書の「へブル人への手紙」の中に、有名な聖句があります。 信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。 (へブル人への手紙11:1) 「望んでいる事がらを確信」する。これをふつう、我々は「信仰」と考へるでせう。「私が願つてゐることは必ず実現するはずだ」と確信するその度合ひが強ければ強いほど、その人は「信仰が強い(篤い)」と見...

  • 神の言ふことを信じるな

    あなたがジレンマに陥らないよう、言っておこう。わたしの言うことを信じるな。ただ、そのとおりに生きてごらん。経験してごらん。それから、何でもいいから、ほかの生き方をしてみなさい。そのあとに、経験を見つめて真実を探しなさい。 (『神との対話1』ニール・ドナルド・ウォルシュ) この神は、一風変はつた神です。神なら「わたしの言ふことを信じよ」と言ひそうなのに、反対に「信じるな」と言ふのです。...

  • 真理はどこにあるか

    『原理講論』の「総序」には、「真理」といふ言葉が繰り返し出てきます。 宗教とは何か。内的無知を克服して内的知に至るため、内的真理を探究してきたものである。 科学とは何か。外的無知を克服して外的知に至るため、外的真理を探究してきたものである。 しかし、その2つの真理がバラバラではいけない。いつかはそれらが統合され、一つになる必要がある。そしてそれを「新しい真理」と呼ぶ。 ク...

  • 観察する神

    神はあなたがたの人生すべての創造者であり、決定者であると信じているなら、それは誤解だ。 神は観察者であって、創造者ではない。神はあなたがたの人生を助けるが、あなたが期待しているような助け方はしない。 (『神との対話1』ニール・ドナルド・ウォルシュ) 「神は観察者であって、創造者ではない」 これはちよつとショッキングな自己紹介ですね。「神が観察者」だと言ふのは、何だかあまりによそよそし...

  • 人心の改革

    「改革」について、少し考へを進めてみようと思ひます。取つ掛かりとして参考にするのは、ネットの「まいどなニュース」にあつた記事です。 そのタイトルは、 「主婦が始めた投稿で(スーパーマーケットの)投稿コーナーが激変」 といふもの。 どのスーパーにもその一角に必ずあるのが「お客様の声」コーナーです。買ひ物客が意見や要望などを投稿すると、スーパー側からの返答とセットになつて掲示される。 投稿には、批判やク...

  • 宗教改革は何を改革するのか

    彼(ウェスレー)の躊躇を見た伝道者(モラビア教の牧師シュパンゲンベルグ)は言った。 「あなたはキリストをご存じですか?」 「はい、彼は世の救い主であられます」とウェスレー。 「その通りです。しかし、彼があなたを救われたことをご存じですか?」 「私は彼が私の救いのために死なれたことを望みます」 ウェスレーの答えに、シュパンゲンベルグは重ねて尋ねた。 ...

  • 五感を駆使する

    巨匠・宮崎駿監督は数々の名作アニメを世に送り出して、その時代時代の子どもたち(多分かなりの数の大人たちも)を熱狂させてきた人なのに、自分の仕事を後悔することもあるといふ。 作り手としては当然、子どもたちを感動させ、喜ばせようとする。そしてその狙ひ通り、子どもたちはその作品に熱中して、ビデオ画面に釘づけになる。ところがそのことによつて、却つて、子どもたちが現実に触れる機会を奪つたのではないか。宮崎さ...

  • さうならなくてもいゝけど

    何かを実現しようとするとき、 「さうならなくてもいゝけど、さうなつたら嬉しい」 といふスタンスが、一番実現可能性が高くなるらしい。 さう教へてくれたのが、作家の小林正観さんです。尤もこの方法、現実の厳しい競争社会では採用されさうに思へない。 私自身は競争に弱い。意志力強固で、「一度決めたら、絶対やり通す」といふやうなタイプではない。 だから、そんな緩いスタンスで実現可能なら、私に向いてるなと思つたの...

  • 正しくない人になる

    「正しい人にならない」あるいは「正しくない人になる」。今後、これをもつと目指さうと思つてゐます。 「正しい人」といふのは、 「私は正しい」 と思つてゐる、正義の人です。 反対に「正しくない人」とは、 「私は正しくない」 と思つてゐる人ですが、かと言って不正義の人といふわけではない。 大抵の人は 「私は正しい」 と思つてゐるでせう。 誰かと喧嘩をするとき、 「私がおかしい。相手が正しい」 と思ひながら喧嘩を...

  • 否定も肯定もしない

    どんな人も、どんな出来事も、一切否定しない。一切裁かない。 そのやうに決めて生きたら、人生はどうなるでせうか。 私自身、「否定しない、裁かない」といふ生活態度を心がけてはゐるものの、「一切」といふレベルにはまつたく達してゐない。そのレベルは、ほとんど不可能に見えます。 しかしそもそも、どうしてそんな生活態度を目指さうとするのでせうか。そんなことに一体どういふ功徳があるのか。 私がこのブログを始めて...

  • 脳で見、脳で聞く

    この季節、鶯が山で鳴き始めてゐますね。 日本人である私には、その鳴き声が 「ホーホケキョ」 と聞こえる。 しかし、当の鶯がほんとうに「ホーホケキョ」と鳴いてゐるかといふと、さうではないでせう。多分、人間の文字でそれを正確に表すことはできない。これはどういふことか。 我々は 「耳ではなく、脳で聞いてゐる」 のです。 鳴き声ばかりではない。仮令、山で鶯が熱心に鳴いてゐたとしても、私が別の何かに没頭してゐた...

  • 君はまだ、自分を出してゐない

    Netflixオリジナルドラマ「ナイト・エージェント」の中に、こんなセリフが出てきます。 米国副大統領の娘が大学で美術を専攻し、毎日絵の研鑽に励んでゐる。彼女の描く絵を見て、教官がこんなふうに評するのです。 「君はまだ、自分を出してゐないね。隠してゐる。世界の変化を訴へるなら、自分が見られることを恐れるな」 もう一つ、別の場面。男女2人組のプロの殺し屋がゐる。女性もプロらしく暗殺に対しては冷酷なところがあ...

  • その問題の原因は私の中にある

    カウンセラーは、悩みを抱へた人が訪ねてきたら、アドバイスをする。上司は、部下がヘマをしたら、注意をするか助言をする。父母は、子どもがおかしなことをしさうなら、忠告をしたり叱つたりもする。 カウンセラーも上司も父母も、自分の役割を弁へており、必要な場面ではそれを果たさうと思つてゐるのです。しかし、それは本当に彼らの役割だらうか。やゝ疑問に思ふところがあります。 カウンセラーとクライアントの関係を例に...

  • 求めれば、神は何をくださるか

    何で読んだか(あるいは聴いたか)思ひ出せないのですが、 「どんな熱心な祈りも、神に無視されることは決してない」 といふ言葉が頭に残つてゐます。 そしてもう一つ、 「神は我々が祈り求める前から、我々に何が必要であるかをご存じである」 とも聞いた記憶がある。 それとこれとを合はせ、今考へてみると、 「神は我々の祈りの内容よりも、むしろ祈りの熱心さに関心がある」 といふふうに思へます。 我々の祈りが熱心であれ...

  • 隣人を愛するほど、自分を愛せる

    数ある律法の中で、最も重要な律法は何ですかと問はれたとき、イエスは二つあるうちの第二として、 「自分を愛するやうに、あなたの隣人を愛しなさい」 と教へられた。 この簡潔な教示について、私は繰り返し何度も考へることがあるのですが、最近になつて、ふと思つたことがあるのです。 「そのまゝ聞けば、自分を愛することが先で(あるいは、それが前提で)、隣人を愛することがそのあとに来るやうに思はれる。しかし実は、逆...

  • 神の真実に対する誤り

    原因は最初の誤りにある。神の真実に対する誤り、神を信頼しないという誤りだ。だから、神の愛を頼れない。神が条件つきであなたがたを受け入れると思う。神の愛がつねに存在すると信じられなくて、いったい誰の愛を信頼できるのか。 (『神との対話1』ニール・ドナルド・ウォルシュ) ニールに語る神によれば、我々には誤りがあるといふ。神を信頼しないといふ誤り。神が条件つきで我々を受け入れる...

  • 自己完成の責任

    万物は原理自体の主管性、または自律性により、成長期間を経過することによって完成する。けれども、人間は原理自体の主管性や自律性だけでなく、それ自身の責任分担を全うしながら、この(成長)期間を経過して完成するように創造された。 (『原理講論』創造原理第5節) こゝで出てくる「責任」といふ概念。これの意味を辞書的に押さへると、「立場上、当然負はなければならない任務や義務」となります。 「立...

  • 「あること」に軸をおく視点

    何らかの問題が起こつたとき、視点が2つあると思ふ。 一つは、その問題を「どうやつて解決するか」といふ「やること」に軸をおく視点。 そしてもう一つは、その問題を「どのやうに見、どのやうに扱ふ自分であるか」といふ「あること」に軸をおく視点です。 そして、我々は往々にして、第一の視点に主軸をおくことに慣れてゐる。 一例を挙げてみませう。 親として、我々は始終子どものことが気になるものです。学校に通ふ時期...

  • 幸福でゐる方法

    人間は、何人(なんびと)といえども、不幸を退けて幸福を追い求め、それを得ようともがいている。 (『原理講論』総序) 大著の書き出しとして、いかにも力のこもつた、なかなかの名文だと思ふ。特に「もがいている」の一句は、印象が強烈です。 我々は誰でもみな、幸福になりたくて「もがいている」。水に落ちて、溺れさうになり、藁にもすがる思ひで「もがく」。「もがく」には、さういふ必死な響...

  • 答へを求めない

    学校で出される試験問題には、必ず答へがある。それが当たり前だと思って、教育を受けてきた。ところが、現実の生活では、容易に一つの答へが出ることばかりではない。むしろ、答へが出ないことのほうが多いといふのが実感でせう。それが悩みの種になる。 評論家の小林秀雄は、「質問と答へ」について、こんなふうに言つてゐますね。 実際、質問するというのは難しいことです。本当にうまく質問する...

  • 私の現実は、どこにあるか

    「私の現実は、どこにあるか?」 と問へば、ふつうには、 「私の目の前にある」 と考へるでせうね。 今、私の目の前で刻々と展開されてゐる現象。それが現実である。この考へに不都合はないやうに見えますが、実はこゝに、かなり深刻な誤解があると思ふ。 それなら、現実は一体どこにあるといふのか。 「私の現実は、私の目の前ではなく、私の頭の中にある」 これがより真実に近い答へだといふ気がします。 一例を挙げて、考へ...

  • われ、思はせられる

    17世紀の哲学者デカルトは、 「われ思ふ、ゆゑにわれ在り」 といふ有名な言葉を残した。 「自分が絶対的な確実性をもつて知り得ることがあるか?」 と考へ詰めた挙句に、彼が出した答へです。 この答へはつまり、「わたし」のアイデンティティを「思考」と同一化したものです。デカルト自身は、これによつて究極の真実を発見したと考へたけれども、この答へにはある重要なことが見過ごされてゐる。それに気づいたのが、同じフラ...

  • 私の願ひはすでに叶つてゐる

    我々は、一体いつになつたら身心一如になり、個性完成できるのでせうか。10年後なのか、30年後なのか。それとも、自分の人生ではそれは無理で、自分の子孫に託すしかないのか。 仏教ではすでに2500年あまりに亘つて、この境地を模索してきたものゝ、誰がそれを達成したのか、定かではない。仏教でいふところの悟りには52も段階もあり、その最高位にまで達したのは、お釈迦様ただ一人。龍樹菩薩と無著菩薩が41段階でそれに続き、か...

  • いかにして、灯る電灯になるか

    オペラ「フィガロの結婚」の中で、「恋とはどんなものかしら」と題して、こんなふうに歌はれます。 あなた方は知ってますよね、 愛とは何か。 女性の方たち、確かめて下さい 僕の心を。 愛情を感じつつ、 欲望に満ちているのです。 今は、喜びであり、 同時に苦しみでもあります。 「知ってますよね」とは歌ふものゝ、女性たちは本当のところ、「愛とは何か」を知らないでせう。知つ...

  • 許可を出したのは私である

    我々の人生には、大小さまざまな苦痛が起こる。その苦痛をどう受け止め、どう対処するかといふことが、我々の人生そのものだと言つても過言ではないやうにも思へるほどです。 苦痛の対処法について『原理講論』が具体的に触れてゐる箇所があります。 苦痛の由来を 「悪霊の再臨現象」 と見ます。 私に対する神の恩恵を拡大するために、神は一つの摂理を計画する。悪霊を私に送つて、苦痛を与へるのです。そしてそのとき、私がそ...

  • 概念で生きない

    私自身、日々の生活の中で、「何か失敗したな」と感じるとき、あるいは誰かとの関係がこじれたりするやうなときがある。さういふときは、「概念」の力が「良心」の力よりも強く、「概念」優先で動いたときだなと思ふのです。 この厄介な「概念」といふもの。これについて、少し考へてみます。 大きめの概念から考へてみますと、例へば、 「国があり、民族がある」 といふ、かなり強い概念があります。 国境線とか、特定の民族グ...

  • サタンと戦はない

    サタンについて考へるのは、誰にとつてもあまり気が進むことではないでせう。そこで、考へなくてもいゝ、あるいはむしろ考へないほうがいゝ、といふことについて考へてみようと思ひます。サタンは実在するのか、と言へば、実在するとは思ふ。長い間、私はづつとさう信じてきました。聖書の冒頭、エデンの園の物語で登場して以降、ヨブの物語にも姿を現すし、イエスが40日間の断食を終へた直後にも、試みるために現れる。『原理講論...

  • 世界とは「変化」である

      イタリアの理論物理学者、カルロ・ロヴェッリの『時間は存在しない』は、ありがたいことに、数式がほぼ出てこない。お蔭で私にも何とか歯が立つが、それでもややこしいところは随時出てきて、さういふところは適当に流し読む。 内容は、非常にそゝられる。ミリオンセラーだけのことはある。中でも特に面白いのは、かういふ部分です。 事物は「存在しない」。それは「起きる」。世界とは「変...

  • 神に祈らない

    神に祈らなくていゝ、むしろ祈らないほうがいゝ、といふことを考へてみます。 時代はすでに、祈る時代から報告する時代に移行してゐます。「祈る」と「報告する」とは、どう違ふのでせうか。 祈り方の一般的ガイドラインは、 ① より広く、次元の高いこと(世界のこと、国家のことなど)から祈り始め、 ② 次第に範囲を狭めて(氏族や家庭)、最後に自分のことを祈る といふものです。 ①はとても良いことのやうに思へますが、往...

  • これから書きたいこと

    これから自分が書きたいと思ひつくことを、いくつか箇条書きにしてみます。 神に祈らない サタンと戦はない 人を愛さず、自分だけを愛する 正邪を決めない 幸福を求めると幸福になれない 責任分担とは自分が変はり成長することである 過去のことは考へず、今にだけ生きる(後悔しない) どんな人をも裁かない(自分も含めて) 今起こるすべてのことに感謝する 良いことがあつても喜ばな...

  • 過去に戻つて後悔しない

    後悔といふものがあります。聖書を見ると、あの偉大な創造主にさヘ、後悔があるらしいことが分かる。 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、 「私が創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。私は、これらを造ったことを悔いる」 と言われた。(創世記6:6-7) 神でさへ悔いることがあるのなら、まして不完全な我々に悔いがあつても一向...

  • 透明になる

    「無我」「悟り」といふことを「透明になる」といふイメージで考へてみたいと思ひます。 「我を無くす」「悟りを得る」などは仏教的修業の文脈の中で語られることが多いわけですが、大半の我々日常生活者にとつて特別な修行などは無縁の話です。そこで、日常生活をしながら心霊的な成長をする道はないかと考へると、「透明になる」といふイメージが私には浮かんでくるのです。 「透明」になればなるほど、光をそのまゝ透過させる...

  • 「戒律」といふ概念

    社会学者で東大名誉教授の上野千鶴子さんが、ある男性と密かに入籍してゐたと『週刊文春』が報じて、少し話題になつてゐるやうです。 『文春』は「密かに入籍」と書くけれども、入籍するに当たつていちいち「私入籍しました!」といふステートメントを世間一般に発表する必要はないでせう。役所に行つて粛々と(密かに)手続きすればそれでいゝことです。 入籍が特に話題になるのは有名人に限つたことに違ひない。上野さんも有名...

  • 加害者は誰が作るか

    今まで自分の知らなかつた良いものがあると誰かが紹介してくれ、 「それがあれば、生活がもつと快適になりさうだ」 と思ひ、手に入れてみて使つてみると、あまり良くはなく、却つて思はぬ副作用が出たとします。 さういふ事態になつたとすれば、私の心は穏やかではおれませんね。どんな思ひが湧いてくるでせうか。 「これを使つて、私の生活は却つて不便になつた」 「これが本当に良いと思つて紹介してくれたんだらうか」 「生産...

  • 原因の特定はあなたにお任せします

    私が自分自身を見るにおいても、誰か他の人を見るにおいても、見えてゐるのは実際にあるもののごく一部であると思ふ。ほとんどのものは隠されてゐて見えない。 しかし、今まで見えてゐなかつたものが見えてくることがある。それはそれを見るにふさわしいときが来たといふことであり、見ることによつてそれに関はる課題を解くチャンスが訪れたといふことではないかと思はれます。 最近ある人(Aさん)と話してゐるとき、話題は母...

  • 「私の中の世界」を創造する

    18世紀の哲学者イマヌエル・カントに 「我が上なる星空と、我が内なる道徳律」 といふ有名な言葉があります。 頭上に展開する星空と、自分の内心に働く道徳律。この2つのものは、新しい感嘆と畏敬の念をもつて私の心を満たし続けると『純粋理性批判』の最終章で書いてゐるのです。 聖書的な世界観から見れば、この2つともに創造主・神に由来してゐると考へられるでせう。しかし由来は同じだとしても、両者には大いに違ひがある...

  • 我々の真の創造性

    神が人間に責任分担を与へたのは、それを完遂することで神の創造性までも似るやうにするためであつた。さらには、神との共同創造主といふ権限によつて、万物の主管主といふ立場も与へようとなさつた。 人間の創造性について、『原理講論』ではそのやうに説明されてゐます。しかしその創造性とは一体どんなものか、その内容については具体的に触れられてゐない。 そこで『統一思想要綱』を参考にすると、 「創造性とは創造の能力...

  • 無極から出て無極へ還る

    易学では、宇宙の根源は太極または無極だと言ふ。そしてその太極から陰陽が生じ、陰陽から木火土金水の五行が、五行から万物が生成されたと説きます。 太極と無極の関係については、学者の間でも議論の余地があるやうなので、こゝでは無極とします。 『原理講論』ではこの無極こそが創造主としての神だと言ひ、その神は陰陽二性性相の統一的(中和的)核心であると言ひます。このことから、神にも陽と陰の二極があるとも考へるの...

  • 水が氷になる世界

    神秘思想家として知られるルドルフ・シュタイナーは『神秘学概論』の中で、この世の起源について、かういふ譬へで説明してゐます。 この世(物質的宇宙)の素材のすべては霊的なものから生じた。この世が生じる前は、霊的なものだけが存在してゐた。現在の仮説で言へば、ビッグバンで今の宇宙が生じる前には霊的な宇宙があつたと言へるでせうか。 それは水と氷に譬へることができます。 最初は水だけが存在してゐた。それがある...

  • なぜ「甘受」がベストなのか

    前回の記事「甘受したときにのみ幸いである」に関連して、もう少し書いてみようと思ひます。 『原理講論』の説明によると、地上人が抱へる何らかの罪を清算するために神は悪霊を彼に送つて、苦痛を与へることを許諾する。苦痛と言つても一様ではない。事故に遭ふ、病気になる、詐欺に遭ふ、事業が失敗する、人から誤解される、夫が家事を手伝つてくれない。いろいろあるでせう。 いづれにせよ、このとき地上人が受けた苦痛を「甘...

  • 「甘受」したときにのみ幸いである

    精神や魂、あるいは霊性などを重んじる人たちの間では、ある行為においてよ「動機」をより重んじる傾向があると思ふ。しかし考へてみると、神は「動機」よりも「結果」を重んじる、あるいは敢へて「動機」を無視するかたであるやうにも思へるのです。 その根拠は、『原理講論』の「復活論」にある「悪霊の再臨復活現象」にあります。 神が我々を救済したいと切望しておられるのは間違ひないとしても、その遂行は決して容易ではな...

  • 当てにならない語り手

    小説における「当てにならない語り手問題」といふのがあるさうです。茂木健一郎さんはこのことに触れて、いくつかの例を挙げてゐます。 例へば、カフカの『変身』。ある朝、主人公が目覚めると自分が虫に変身してゐたといふ奇抜な設定の小説です。彼自身は自分が虫になつてゐると主張し、また傍証もあるのですが、彼の主張は信じられるのか。もしかしてすべてが幻想だといふ可能性だつてある。 あるいは芥川龍之介の『藪の中』。...

  • 「あるがまゝ」に見ることのできる自分

    我々には五感があつて絶えず外界の情報を収集してゐますが、その中でも視覚情報が最も多い。全情報の8割から9割近いやうです。 五感から入つてきた情報のほとんどは脳で処理されるのでせう。処理されて初めて、我々はその情報を認知する。ふつう我々は外界そのものを認知してゐると思つてゐますが、実はさうではない。脳で処理された情報を認知してゐるのです。 例へば、目の前に薔薇を見てゐるとします。 花びらのみずみずしい...

  • 天国人にならうとする人

    「天国を創らうとする人は、天国を創れない」 といふ考へが、あるとき、フッと浮かんできたのです。 それなら、どういふ人が天国を創れるのだらうと思つてゐると、 「私が天国人にならうとする人だけが、天国を創れる」 といふ答へのやうなものが返つてくる。 この問答が自分の内面でなされたあと、 「これはどういふことだらう? 本当にその通りだらうか?」 と、今度は理性的にその是非を確認しようと思案する。 「天国を創...

  • 病気は「もの」ではなく「こと」である

    『感染症は実在しない』(岩田健太郎)とはちよつと目を引くタイトルです。 「実在しない」とはどういふことだらう? この3年間世界中をパニックに陥れたコロナパンデミックも幻想に過ぎなかつたとでもいふのでせうか。 岩田医師は感染症の第一人者で、このパンデミックの最初期、クルーズ船ダイヤモンド・プリンセスに乗り込んで対策の最前線に立つたことで、当時その名前が知られた。その専門医がありもしない感染症と闘つた...

  • 誰が神の偶像か

    あなたは自分のために刻んだ像を作ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるもののいかなる形も。あなたはそれにひれ伏しても、それらに仕えさせられてもならない。 (『出エジプト記』20:4-5) 旧約聖書の中でもよく知られる「モーセの十戒」の第2戒です。「刻んだ像」を「偶像」と言ひ、それを拝むことを「偶像崇拝」と呼んで、厳しく戒めてゐ...

  • 感謝は道を開くか

    夫が長く勤めた会社が別の大きな別の会社に買ひ取られることになり、その社員が全員解雇されることになつた。不測の事態に気をもんだ奥さんがあるかたに相談したところ、その人は短くかうアドバイスしてくれたさうです。 あなたは今ご主人のリストラだけを心配しておられるけど、考へてみたら、ご主人はありがたい人だよね。毎月何十万も稼いでゐながら、自分の小遣ひはわづか数万で文句も言はず、働き...

  • 包みつゝ包まれる

    『福岡伸一、西田哲学を読む』の中で、福岡氏の対談相手である池田善昭氏が「逆限定」といふ概念を紹介してゐます。 池田氏は西田哲学つまり西田幾多郎の構築した独自の哲学の研究者。「逆限定」とは西田哲学の述語です。 生命は環境に包まれながら、逆に環境を包んでゐるといふ、その働きを指して、西田は「逆限定」と言ふ。西田哲学に不慣れな者には判りにくいので、池田氏はいつくか実例を挙げます。 例へば、今西錦二の「棲...

  • 変はらない字句、変はる解釈

    善知識にあふこともおしふることもまたかたし。 よくきくこともかたければ、信ずることもなほかたし。 真の知識にあふことは、かたきが中になほかたし。 (『浄土和讃』親鸞聖人) 「知識」とは今とは違ひ、「教師」のことを言ひます。それで「善知識」とは「正しく教へる導師」といふ意味です。 仏教において「善知識」の元祖はお釈迦様でせう。その教へは数多くの経典に残されてゐる...

  • 記憶が霊人体を作る

    我々の人生は、記憶を集積していくことだと言つてもいゝでせう。さまざまな体験をし、その都度それにまつはる感情が生まれる。それらすべてが記憶として積み重なつていくわけです。 記憶の中でも最も主要な長期記憶は一体どこに貯蔵されていくのか。脳研究が進むにつれて、脳の旧皮質にある「海馬」といふ器官が関係してゐることが分かつた。ところがさらに研究を進めると、海馬自体が記憶の最終的貯蔵庫ではないことも分かつてき...

  • 自分自身になりたい

    銀行員になりたい人は銀行員になるし、法律家になりたい人は法律家になる。なりたいものがある人はそれになつて満足するが、自分自身になりたい人はどこに行つたらいゝのか分からない。 (『獄中記』オスカー・ワイルド) 引用元は『獄中記』と書いたが、正直に言へば私が直にそれを読んだのではない。茂木健一郎氏のyoutube動画からの拝借です。 ワイルドはアイルランド生まれの文筆...

  • 強張りを緩める

    もうかれこれ半年近く、首筋の強張りとつき合つてゐます。これまでにも首が凝ることはときどきあつたものの、今回の強張りは並大抵ではない。整体にだいぶ通つた今なほ、完治する気配は見えない。 首の強張りは首だけの責任でないこと、それは分かつてゐます。首の筋肉が他の筋肉とつながり合つてゐるのはもちろん、骨格とも複雑に連携してゐる。問題の元が腰のあたりにあることは見当がついてゐながら、整体師と言へども容易には...

  • 見えない人の名を呼ぶ

    食欲こそまだあまり衰へずにあるものゝ、ほぼ寝たきり状態のおばあちやんは、日に何度も私の名前を呼ぶことがある。 尿意を催して呼ぶこともあるが、それはむしろまれで、大抵は大した用事がない。一寝入りして目が覚めると、周りに誰の気配もない。目が見えないから、暗闇の中にゐる。それが不安になつて私の名前を呼ぶのです。 昼間私が家にゐて、別の部屋からでもその声を聞きつければ、駆けつける。 耳が遠いので顔を近づけ...

  • 「ありがたいこと」はどのやうにふえるのか

    50日ほど前から玄関の下駄箱の上に鉢植ゑのプリムラを置いてゐる。3日に一度くらゐの水やりで、黄色の花がきれいに咲き続けてくれてゐる。 変はらない光景なのに、先日出がけにふと見ると、 「きれいだなあ」 と思つた。 そしてその瞬間、「アッ」と一つのことに気がついたのです。 「ありがたいことが増えるのは、それまでなかつたことが起こるやうになるのではない。それまで気づかなかつたありがたいことに気づくやうになる...

  • 自分を許したいのなら

    「そこに行き着く」道は「そこにいる」ことだ。行きたい場所にいなさい。幸福になりたいか? では、幸福でいなさい。愛がほしいか? では愛になりなさい。 (『神との対話3』ニール・ドナルド・ウォルシュ) ニールとの長い対話のほぼ最終章で神がニールに与へる箴言です。どういふ意味でせうか。何だか分かりにくいですね。 そこに行きたければ、今ゐるところ出発し、そこに向かつて進まねばなら...

  • 「こよみ」で生きる

    江戸時代の古学者本居宣長によれば、中国から「暦」といふ漢字と緻密な時の読み方の体系が入つてくる前から、「こよみ」といふ我が国固有の観念があつた。 「こよみ」の元をたどれば、「来経数(きへよみ)」といふ古い言葉がある。1日1日が次々に来ては経ていくのを数へるといふ意味です。「きへよみ」が「けよみ」になり、「こよみ」になつた。 固有の「こよみ」は今の「暦」の観念からすれば、ずいぶんと大らかなものだつたや...

  • 「天寿」はあるか

    家の廊下の柱に取り付けている地元の有線通信網の端末から、ときおりお悔やみ放送が流れる。90過ぎの男性もゐれば、60代の女性もゐる。どんな人にもそれぞれの人生があるには違ひなく、寿命の長短だけでは判断できないその人なりの哀歓があるものでせう。 私の妻は2人の子どもを生んだあと、平均寿命の半分あたりでこの世を去つた。これについては私自身、長い間苦悶したのです。 いくらガンだとしても、治療して長生きする人も...

  • 悪善変換装置

    「天上天下唯我独尊」 といふ宣言は、お釈迦様の悟りの境地についての一つの表現だらうと推察します。 どういふ境地だらうとあれこれ想像はしてみるものの、実感も、それ以上の説明もできない。もちろんお釈迦様自身、そんなことは期待しておられないでせう。 悟りは悟った者のみの絶対の所有である。厳格にいえば、他の何びとの証認をも必要としない。 さういふ意味の...

  • 動的平衡とメロディー生命論

    分子生物学者の福岡伸一博士は生命を 「動的平衡」 と表現する。 数学者の故岡潔博士は生命を 「メロディー」 と表現する。 福岡さんは、生物学を土台とした哲学者。岡先生は、数学を土台とした宗教者。私にはさういふイメージが浮かびます。 福岡さんの言ふ「動的平衡」とはどういふことか。 2つの変化の過程が互ひに逆向きに、しかも同じ速度で進行するとき、系全体としては時間変化せず平衡状態を保つてゐる。動いてゐるの...

  • 駿河路や花橘も茶の匂ひ

    数学者岡潔博士の随筆集『春風夏雨』に明治時代の物理学者寺田寅彦博士の逸話が出てきます。 芥川龍之介を夏目漱石の末の弟子といふなら、寺田博士は初めの弟子ともいふべき人で、そこからも分かる通り、単なる物理学者ではない。俳人、随筆家としても才のあつた人です。 寺田さんが初めて夏目先生に会つたのは、彼が旧制高校の学生だつたときのこと。夏目先生は英語の担任だが、俳道にも長けてゐた。 そこで寺田青年は夏目先...

  • 「観の目」で人生を観る

    日本の代表的剣豪である宮本武蔵。彼は何かを「みる」において二通りあると体得してゐたやうです。 一つは「見る」。もう一つが「観る」です。 例へば、剣を持つて立ち会ふとき、 「観(かん)の目は強く、見(けん)の目は弱くみるべし」 と言つてゐます。 「見の目」とは通常の目の働きです。立ち合ひおいては、相手の動きがあゝだかうだと分析的、知的に把握する。さういふ見方です。 一方の「観の目」は相手を全体的に直覚...

  • 心情蹂躙されない

    「心情蹂躙をしない」 といふのは天法三大原則の一つだといふ。 「心情蹂躙」といふ言葉の意味するところはどんなものでせうか。「人権蹂躙」あるいは「人権侵害」といふ言葉はある。あるいは、SNS上で炎上を引き起こす「誹謗中傷」といふものもあり、だんだんうるさく言はれるやうになつた「ハラスメント」といふものもある。 何が「蹂躙」か。何が「侵害」で何が「誹謗」か。これはなかなか厄介な問題です。明確な定義がないだ...

  • 神は神以外のものになれない

    人は様々な可能性を抱いてこの世に生まれて来る。彼は科学者にもなれたらう。軍人にもなれたらう。小説家にもなれたらう。しかし彼は彼以外のものにはなれなかつた。これは驚くべき事実である。 (『初期文芸論集』小林秀雄) この一節は、小林の数ある言説の中でも、私がしばしば立ち返るフレーズの一つです。 我々は確かに、自分の能力や意志、あるいは人生の成り行きによつて、科学...

  • 未確定で生きる

    1987年にノーベル生理学・医学賞を受賞した利根川進博士がこんな話をしてゐます。 有能な科学者とさうでない科学者の差は、最初に立てる仮説の違ひである。 ノーベル賞を取るくらゐの学者でないとなかなか大上段に言へない言葉です。しかし、なるほどさうかとも思ふ。 最先端の科学はつねに「既知の世界」と「未知の世界」との境界線に立つてゐるわけでせ...

  • 自分の記事に祝杯

    わたしには何人か小説家の知人がいるが、彼らに話を聞くと、一様に「小説家は頭の中で見えるものを書く」と言う。随筆の「見知ったこと(事象)を考えて(心象)書く」というのとは根本的に違う脳の働きだ。彼らの頭の中では映画のようなものが上映され、それを文字に起こしているのだ。 (『読みたいことを、書けばいい。』田中泰延) 漫画家を志望し、今では小説を2冊出版した息子にも...

  • 鯛になつて泳いでみる

    料理作りの参考にいろいろな料理チャンネルを見るせいか、2ヶ月ほど前、Youtubeのお勧めにアニメ「美味しんぼ」が出現した。原作は1983年。アニメ化が1988年。もうずいぶん昔の昭和のアニメです。 ところが覗いてみるとこれがなかなか面白くて、見れるものはぜんぶ見尽くした。中には、2回3回と見返すものもある。 脚本がしつかりしてゐる。料理や食材についての蘊蓄が半端ない。主人公の山岡士郎をはじめ、登場人物のほとんどが...

  • 人事を尽くして天命を待たない

    ある人と話してゐて、 「人事を尽くして天命を待つ」 といふフレーズを久しぶりに聞いた。 「こんないゝ諺があつたんだなあ」 と改めて思ふ。 調べてみると、この諺は南宋時代の儒学者の胡寅(こいん1098~1156)の言葉らしい。 自分としてできる限りの力を尽くし、それ以上のこと、あるいはその結果は天に任せる。人間として最大限の努力をすることを勧め、結果までは主管しないやうにする。良い心がけのやうに響きます。 こ...

  • ロゴスの山のその向かう

    分子生物学者の福岡伸一さんは、少年のころ虫捕りに熱中してゐた。虫と自然の魅力に憑りつかれており、長じて生物学者の道に進んだのです。 福岡さんの研究の道を登山に譬へるなら、長らく「ロゴスの山」を登り続けた。生物とは文字通り「生きてゐるもの」だが、研究ではそれを切り刻み、DNAといふ微小なものを顕微鏡で観察する。細胞は元来ほゞ透明なものだが、観察しやすいやうに人工的に彩色したりもする。 そんなふうに「ロ...

  • 続・「ありがたう」の種はいかに育つか

    100万回の「ありがたう」の翌日と翌々日に立てつづけに起こつた出来事。悲劇的ではあるが、喜劇的とも言へさうなこれらは、どうして起こつたのか。 これまで私なりに思ひついた解釈は、大体かういふことです。 この世の出来事には元々「ありがたい」も「ありがたくない」もない。それを自分の基準ではなく、あるがまゝに受け止めれば、基本的にはすべてが「ありがたい」。しかし実際には、自分の基準に照らし合はせて見るので、...

  • 「ありがたう」の種はいかに育つか

    おばあちやんの自宅介護を始めて、もうかれこれ3年近くになります。なかなか楽なことではない。 緑内障が進んでほぼ失明したので、食事の世話も下の世話もふえる。2年前に脳梗塞で倒れたことも、それに拍車をかける。 しかしそれでもラッキーだなと思ふことがあります。おばあちやんはとにかく感謝の多い人なのです。しかも認知が進むにつれて、それはふえてゐるやうな気がする。 ほぼルーティンの食事にもかかはらず、毎回「お...

  • 「心情」と「心」

    母親が自分の赤ん坊を生んだとしても、隣村の乞食、もしくは貧民の息子娘がお乳を飲めずにいれば、彼らに自分の息子娘のようにお乳を飲ませてあげてこそ、心情が生じるのです。 (『天聖教』12-3-4-2) 今日のこの時代は、心の指向する方向と心情が求めている方向が、全く違う形で流れていっています。 (同12-3-4-6) 心は相対的な条件いかんによって...

  • 臓器の声を聞く

    臓器の声が聞こえるといふ人がゐるやうです。(『潜在意識3.0』藤堂ヒロミ) 例へば、ランチタイムに行き着けのレストランで食事をしてゐると、 「あ~、忙しい、忙しい。休む暇もないけど、働きつづけなくちや」 といふ叫びにも似た声が聞こえてくる。 声のするほうを見ると、男女2人がランチをとつてゐる。男性は上司のやうで、しきりに何か指示をしつづけてゐる。一方の女性は俯き加減。無言で食事を口に運んでゐる。 聞...

  • 丁寧に、丁寧に

    書道家武田双雲さんにとつて、最も身近で効果的な幸福の条件はヘアドライヤーだといふ。 ヘアドライヤーは温風を出して濡れた髪の毛を早く乾かすための道具。だからそれを使ふとき我々はふつう「早く乾け」としか思つてゐないでせう。 ところが双雲さんは、ドライヤーから出てくる風を丁寧に丁寧に感じながら使ふと、とても幸せな気持ちに満たされていくといふのです。スイッチ一つでさへ何気なく押さない。 「聖なる風よ、出で...

  • 宗教と科学の行く末

    人間は、あくまでも論理的であると同時に、実証的なもの、すなわち科学的なものでなければ、真に認識するということはできないので、結局、宗教も科学的なものでない限り、よく知つてそれから信ずるということが不可能となり、宗教の目的を達成することはできないという結論に到達するのである。 (『原理講論』総序) 一読すると、 「なるほど。確かにさうだなあ」 と思ふ。 ところが...

  • 「ロゴス」と「ピュシス」

    『福岡伸一、西田哲学を読む』(池田善昭x福岡伸一)の中で対談者の2人がしきりに「ロゴス」と「ピュシス」について論じてゐます。 池田さんは西田(幾多郎)哲学研究の第一人者で、 「西田哲学は西洋哲学の主流であるロゴスのアンチテーゼとしてピュシスを掲げ、独自の考へを深めていつた」 と言ふ。 そして福岡さんに向かつて、 「あなたの唱へた『生命=動的平衡』といふ概念は、西田の哲学に通じると思ふんだよ」 と言ふが...

  • 私の環世界

    「環世界」 といふ言葉はあまり聞き慣れないものですが、興味深い概念なので、簡単にご紹介しようと思ひます。 この概念はドイツの生物学者ヤーコブ・フォン・ユクスキュル(1864-1944)が提唱した。 我々はふつう、普遍的な時間と空間の環境があり、その中ですべての生物が生きてゐると考へる。しかしそれぞれの生物はそれ固有の知覚を持つて生きており、従つて、独自の時間・空間として知覚されてゐる。つまり、生物ごとに特有...

  • 創造しつゝ、創造される

    神が人間に責任分担を与へたのは、神の創造性を受け継ぐためであり、万物に対する主管性を持てるやうにするためであつたと『原理講論』には説明されてゐます。 神から受け継ぐ人間の創造性とは何だらうか。それが今に至るまで私の疑問の一つです。 神の側からみて、人間に創造性を受け継がせたかつたのは、万物の主人といふ権限を与へるためであると言ふ。それはそれで重要なことだとは思ふのですが、神には何かもつと本質的で重...

  • 無意識と対話する

    茂木健一郎さんの「お昼に何を食べたいか自問することから無意識との対話が始まる」はごく短いモノローグ動画ながら、深い示唆を含んでゐます。 「今日のお昼は何を食べるかな」 といふ自問はごくありふれた、自分の心の中の営みに思へます。 しかしその自問に対する自答には、実にさまざまな要素が含まれてゐるでせう。 例へば、ちやうどそのときネットでクッキング動画を見ていたとすれば、 「あっ、これを作つて食べてみよう...

  • 続・神目線を探す

    前回の記事「神目線を探す」の続きです。 カインは憤つてゐた。 「どうして神は弟のものだけを重んじて、長男である私のものを無視するのか。私も弟と同じやうに真心を尽くして供へたのに」 と思ふと、憤りを抑へることができない。 そのとき神の言葉がカインに臨んだと、聖書は記録してゐます。 なぜあなたは憤るのか。なぜ顔を伏せるのか。正しいことをしているのなら、顔を上げたらいいだろう。 ...

  • 神目線を探す

    物事を見るときに、3つの目線があると思ふ。 ① 自分目線 ② 相手目線 ③ 神目線 自分目線といふのは、自分から見て「正しい」と思ふこと、あるいは「自分の利益になる」ことに判断の基準をおく目線です。この基準は自分の頭、つまり「私といふ意識」から生まれる。意識はこれが得意です。 2番目の相手目線とは、相手が「正しい」と思ふこと、あるいは「相手の利益になる」と相手本人が考へてゐるであらうことを私が推測して、...

  • 批判する人ではなく

    「あなたがたの中で、自分には罪がないと思ふ者がゐれば、この女に石を投げなさい」 といふイエス様の言葉。 罪の現場を押さへられた罪の女を引きずり出して、 「この女をモーセの律法通り、石打ちの刑にしていゝと思ふか」 と問ひつめてやまない律法学者たちに対して、イエス様が上のやうに答へたと福音書は伝へてゐます。 この言葉について前回の記事「毒を飲まない」では、 「いかにも正義らしい言論でも、その裏には相手を批...

  • 毒を飲まない

    福音書が伝へる一つのよく知られたエピソードがあります。ときどきこれを思ひ出す。 姦淫の現場を押さへられた女が広場に引きずり出され、公開処刑に処されやうとする。引きずり出したのはユダヤ教の律法に精通した律法学者やパリサイ派の人たち。彼らは罪の女を使つてイエス様を姦計にかけようと目論んでゐるのです。 「モーセは、姦淫の罪は石打ちの刑に相当すると言つてゐます。教師イエスよ、あなたはどう考へますか?」 と...

  • 毎日新しい人

    おばあちやんを介護しながら何と言っても一番感心するのは、「ありがたう」を口にする回数の多さです。これはとても私の及ぶところではない。 「ありがたう」「ありがたい」ばかりではない。「嬉しい」「幸せだ」「おいしい」も口癖のやうに出てきます。 例へば、ご飯を食べさせるとき、一口食べるごとに 「おいしいねぇ!」 と感嘆する。 「こんなおいしいのを誰が作つたの?」 と訊くので、 「おばあちやんのためにぼくが作つ...

  • 神の価値論

    ある個性体の創造本然の価値は、それ自体の内に絶対的なものとして内在するものでなく、その個性体が、神の創造理想を中心として、ある対象として存在する目的と、それに対する人間主体の創造本然の価値追求欲が相対的関係を結ぶことによって決定される。 (『原理講論』創造原理) 前回の記事「『基準』を手放す」では、 「自分なりの基準がバカの壁を作る」 と考へました。 価値論から考へても、「...

  • 「基準」を手放す

    養老孟司さんの言ふ「バカの壁」は至るところにあるが、誰がその壁を作つてゐるかと言へば、他でもない、自分自身です。 壁があつて疎通がよくないなら、どうすべきか。その壁を自分で壊せばいゝ。 ところが、自分で壁を作つておいて、 「とかくこの世は壁ばかりで疎通がよくない。物事の道理が分からない奴が多すぎる」 などと、世の中に対して、他人に対して不平を鳴らすことが多いのです。 隣近所の身近な付き合ひであれ、国...

  • 神を見せる方法

    ピリポはイエスに言つた、「主よ、わたしたちに父を示してください。そうして下されば、わたしたちは満足します」。 イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は,父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか」 (ヨハネ福音書8:8-9) イエス様のこの返答は有名な一句であ...

  • 「縁」を与へて「因」を顕在化させる

    否定されると、「血統的な情」はそれを不快に思ふ。そして私を不快にした原因を私の外に探さうとするのです。しかし、これでは復帰摂理は進まない。 (「正しい心情の原動力」当ブログ) この記事にコメントもいただいたので、もう少し考へてみようと思ひます。 「否定」といふのは、表だつて、あるいは言葉で 「お前はダメだ。お前は間違つてゐる」 と言はれることばかりではない。 ...

  • 正しい心情の原動力

      結論は、皆さんの実体が本当に正しい心情の作用、心情の原動力をもつことです。 人間と付き合うときも日本的皮をむいて、血統的な情を超越して、神の愛の本性の主管性をもった自分にならないと、自分のやっている仕事を、神の立場で、神の代表者として責任を果たす可能性がないのです。 (「復帰摂理が根本」李耀翰) 我々がみな例外な...

  • 神は「原罪」、人は「原恩」

    「原罪の世界」と「原恩の世界」。この二つの世界は、どちらかが真実でどちらかが虚偽だといふものではないと思ふ。私たちは罪もあれば恩もある一つの世界に住んでゐるのですが、その世界が私の意識にどのやうに映るか。その意識の違ひによつて、「原罪の世界」にも見え「原恩の世界」にも見えるのです。 (「原恩の世界」当ブログ) 「原恩」とは、先般亡くなつた社会学者見田宗介さんが提唱した概念...

  • 神の存在証明戦

    キリスト教の歴史には、有神論者が無神論者を説得しようとする試みが随分あります。 例へば、中世随一の神学者トマス・アクィナスは「宇宙論的証明」と呼ばれる方法で、神の存在を証明しようとした。これはアリストテレスの「根本の原因者」といふ概念を借用したものです。 すべての事物や出来事には必ず原因があり結果がある。宇宙の物体がすべて運動してゐるなら、その原因があるはずである。そしてその原因を順次遡つていくと...

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