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『碧巌録』より 第六則 雲門十五日 / 雲門日日好日 (その7)
この舜若多という虚空神の、その存在が悲しい。他からの光に照らされてはじめて存在する。そういう悲しい存在の存在を想像した、その想像力こそが尊い。仏教神話は、そういう悲しい透明な存在物を想定し得たから、人間は悲哀をまぬがれえていたのかと思う。今はそういう悲しい存在物を想定しえない。だから人間そのものが悲哀を背負っていかなければならない。
『碧巌録』より 第六則 雲門十五日 / 雲門日日好日 (その6)
本当の智慧、苦しみを乗り越え平穏な心境にたどり着くための智慧は、以心伝心でしか伝えることができないことや、その伝え方の尊い有り様を示した問答である。機に適う一期一会の瞬間を実に色彩豊かに感動的に描いている。だが、スブーティの「わかった」は、天人の知る所となった。これではまだ不十分だ。天人にも悟られず、一切の痕跡を消すことが求められる。
『碧巌録』より 第六則 雲門十五日 / 雲門日日好日 (その5)
正しい認識が得られれば、意識は滞留することはないということ。そうすれば、生死の境を脱却できるということ。
『碧巌録』より 第六則 雲門十五日 / 雲門日日好日 (その4)
世界の中でモノ自体が本来を露わにしている。しかし、そこに親疎を立て分別するのが人間の認識。私たちの認識の閾値を低め、低めてモノ本来が露わになるようにしてやる。そこではモノがモノ本来の本然の姿で現れている。
『碧巌録』より 第六則 雲門十五日 / 雲門日日好日 (その3)
「打成一片(だじょういっぺん)」という言葉がある。区別・差別を建てないものの見方だ。われわれに入ってきた外界の事物は、われわれの中で区別される。善・悪という道徳的な判断がされ区別が建てられ、好・悪という感情的な判断がなされる。
『碧巌録』より 第六則 雲門十五日 / 雲門日日好日 (その2)
死中に活路を求めること、ぎりぎりの状態に追い込まれた死地からどう生還するか、それを教えるのが禅だ。死中に活を求めるには、思惟を働かせてはだめだという。思惟の働きは遅い。一瞬の閃電光のひらめきのように即断即決できれば、死地から生還できる行動を起こせる。
『碧巌録』より 第六則 雲門十五日 / 雲門日日好日 (その1)
「日日是好日」は禅から出た有名な句で、日常生活の中でも目にすることが多い。私は、一日一日が素晴らしい、活力あふれる清新な日のなかに生きることの心境を述べたものだと思うが、しかし、こういう句は、本当はその場その場で、その場にいる人や発話した人の機境に応じて発せられた言葉であって、その瞬間に意味があったものである。