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  • 継体持統⑧:二人の桜井之玄王

    淡海三船が「皇極」と名をつけた天皇。まさに皇を極めた天皇であるが、出自が謎めいている。 皇極天皇の母方の系譜 日本書紀によると皇極天皇の母は吉備姫王であり吉備姫王の両親の記載はない。出自を記載しない方針であったように見える。 後世の系譜資料では、吉備姫王は、欽明天皇の子、桜井皇子を父とし、母不詳としている。 二人の桜井之玄王 吉備姫王の父とされる欽明天皇の子である桜井皇子、日本書紀では堅塩媛の第十子桜井皇子であり、古事記では桜井之玄王とされている。 古事記では桜井之玄王は二人いる。堅塩媛の皇子の桜井之玄王と、敏達天皇推古天皇の子=堅塩媛の孫の皇女の桜井玄王である。 吉備姫王の親の名は桜井玄王で…

  • 継体持統⑦:漢王の妹、大俣王

    淡海三船が「皇極」と名をつけた天皇。まさに皇を極めた天皇であるが、出自が謎めいている。 皇極天皇の父方の系譜 日本書紀によると皇極天皇の父は茅渟王であり祖父は押坂彦人大兄皇子となっている。茅渟王の母に関する記載はない。 古事記では押坂彦人太子の子の智奴王の母は「漢王の妹、大俣王」としていて、大俣王の父母が誰か書かれていない。 漢王の妹、大俣王 大俣王については同名の大俣王が敏達天皇妃の春日老女子の第四子にいるが、敏達天皇の子に漢王の名がない。 春日老女子の第四子の大俣王の同母兄としては難波王、春日王がいて、いずれかの別名が漢王であれば当該大俣王が智奴王の母との解釈も可能となる。 また後世の資料…

  • 継体持統⑥:押坂彦人大兄皇子の微妙な立ち位置

    敏達天皇の正嫡である押坂彦人大兄皇子。系図を眺めると政治的立ち位置が見えてくる。 太子彦人皇子 日本書紀には丁未の乱の直前に押坂彦人大兄皇子の記事が出てくる。 587年4月2日に用明天皇が天然痘に罹患し死の床についたことで紛争が勃発。「群臣が大連を陥れようとしている」との噂から物部大連守屋が本拠地の河内国に避難。物部氏側の中臣勝海は『太子彦人皇子』と竹田皇子を呪詛するも、事の成り難きを知り、彦人皇子に帰順するが、彦人皇子の舎人に斬られた。 このように、日本書紀は、押坂彦人大兄皇子は物部氏側の中臣勝海を斬っており、物部陣営には属さず、推古天皇寄りの立場に居たと記している。 系図からわかること 事…

  • 継体持統⑤:聖徳太子が開いた道

    用明天皇と聖徳太子の違いは何か?聖徳太子はなぜ『用明天皇のような天皇』の扱いをされなかったのか? 用明天皇第一皇子田目皇子 聖徳太子=厩戸皇子は用明天皇の第一皇子ではない。第一皇子は蘇我石寸名の子で田目皇子である。 この田目皇子は、父の皇后である穴穂部間人皇后を娶った。これは政治的には田目皇子が用明天皇の後継を狙ったものと解釈できる。 父の正妻を娶って後継となるのは珍しいことではなく、「鎌倉殿の13人」でも奥州藤原氏で秀衡の長男国衡が秀衡の正妻を娶って、秀衡後継体制の安泰を図ろうとしていた。 田目皇子は父の皇后との結婚に成功し、権威を得たものの、崇峻天皇との後継争いには敗れたようだ。 なお田目…

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