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2022/08/15

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  • ちょっといっぷく35

    朝夕の温度差で風邪をひいたのか少し熱っぽい。こんな時、明治時代の大阪人は、医者や薬屋ではなくうどん屋へ行った。「毎度。いらっしゃい。なにしまひょ」「ちょっと風邪ひいたみたいや。いつもの頼むは」「へい、少々お待ちを」出てきたのはきつねうどん。その横に紙に包まれた薬が一つ割り箸にはさまれている。3世紀の中国の『傷寒論(しょうかんろん)』という書物に、「風邪のひきはじめには消化の良い熱い汁物と薬を飲めば薬力が上がる」と書かれているのを見た大阪のうどん屋が始めたという。これが評判になって、あちこちのうどん屋で薬を売るようになった。その薬を作っていた明治9年創業の「うどんや風一夜薬本舗」という薬屋が今でも東住吉に現存している。HPには「『うどんや』にある『風(かぜ)』が『一夜』で治るお『薬』」が名前の由来とある。い...ちょっといっぷく35

    地域タグ:大阪府

  • 畑――命の落花生

    ピーナッツが好きで、酒のアテには欠かせない。だから、個人的には「命のピーナッツ」とよんでいる。それほど好きならば自分で作ろうと、栽培しだして15年ほどになる。一度に全てを収穫するのではなく、何度かに分けて収穫する。落花生の塩ゆでを食べるためである。塩ゆで落花生は収穫二日以内の新鮮なものでないと極端に味が落ちる。だから、スーパーに並べられることはない。そこで、その日採った一部はアテの塩ゆでにして、残りは乾燥させて後日にピーナッツにしている。これも農家の特権である。今年は近くの畑仲間にもらった「おおまさり」という塩ゆで専用の落花生と、今までの「ジャンボ落花生」を半分ずつ栽培。葉が少し黄色くなってきたので「おおまさり」から収穫開始。いくらピーナッツ好きでも、そんなに多くは食べられないので、昨日から近くの道の駅に...畑――命の落花生

    地域タグ:大阪府

  • 畑――意外な白菜

    一つ前に書いた天満菜(大阪しろ菜)を絶滅危惧種に追いやった白菜だが、意外なことに、日本にやってきたのはキャベツ(=明治元年渡来)よりも後である。明治8年(1875)名古屋で開かれた国際博覧会に中国の「山東白菜」が出品された。これを愛知県がもらい受けて栽培されるようになる。白菜といえば鍋物に欠かせないのだが、意外なことに鍋物として食べられていない。例によって御浸し、和え物、漬物が主だった。この山東白菜は今でいう「山東菜」で、完全に結球しない半結球白菜だった。鍋にするには柔らかすぎるし、ボリュームもなかった。この山東白菜の球をより大きくしようと、愛知県が改良を始めるがうまくいかない。白菜と同種のアブラナ科の植物が日本には多くある。まれに大きく結球しても、咲いた花が他のアブラナ科の植物と交配してしまうために、ま...畑――意外な白菜

    地域タグ:大阪府

  • 畑――しろ菜

    彼岸の中日の23日に植えた「大阪しろ菜」がいち早く芽を出した。右の菜の花はまだ発芽していない野菜の中で「大阪」の冠名がつくのはこの「大阪しろ菜」だけである。江戸時代から大阪北区の天満界隈で盛んに作られていたので「天満菜」ともいう。アクやクセがなく柔らかいので誰でも食べることができる。暑さにも強いので、野菜の少ない夏場には「しろ菜とアゲのたいたん」が毎日出されたという。ところが、徐々に市場に並ばなくなる。「しろ菜」を漢字で書くと「白菜」で、球にならない非結球白菜の一種だ。昭和の初期に結球した「白菜」が市場に出回りだすと、「しろ菜」の人気が一度に下がった。さらに戦後は、小松菜に押されて、とうとう市場から姿を消してしまう。再び姿を現すのは、2005年に「大阪市なにわの伝統野菜」に認定されてからである。大阪の冠名...畑――しろ菜

    地域タグ:大阪府

  • 畑――楽

    ペットは買っていない。旅行やグルメにも縁がない。だから、ブログを書くネタに苦労する。楽ではない。まあ、趣味・道楽といえば百姓仕事か。百姓にとって彼岸がくると楽しくなる。彼岸花が一斉に咲き、地温が20度前後に落ち着いてきたことを教えてくれる。たいがいの種を蒔いても芽が出る。真東にある二上山の真ん中から陽が昇り、真上を通って極楽があるという西方浄土に沈む。それを体感したかったのだが、あいにくの雨。そこで、MP3の聞けるラジオで演歌の音楽をかけながら、家のガレージで種まき。墓花用の撫子と桔梗。野菜は法蓮草と大阪しろ菜に野沢菜。畑に直接まいても良いが、水やりや間引きがじゃまくさい。セルに植えて、本葉が出そろった頃に畑に定植する。この方が楽である。ここで、ふと考えた。「楽」という漢字に〈身体的負担が少ない〉いう意味...畑――楽

  • 滑稽勧進帳②

    【舞台転換】上手(右)より吉原大門、真ん中に関所の建物。弁慶が関所を通ろうとすると勘太が上手より出て止める。勘太「節季に借金、お払いそうらえ」弁慶「あいや我々は吉原へ女郎買いに参る者にて候。わけなくここをお通し下され」勘太「近頃、養子の常公殿と鎌倉屋殿との間の勘定払いにつき、時貸(とがし)の催促〈富樫左衛門の洒落〉殿より一人も通すなとのご命令」弁慶「それは鎌倉屋に借りのある者のこと」勘太「たとえ借り無き者にもせよ、借りある者が姿を変えて通行するがため。今も今とて一人の男の衣類三枚はぎ取って候」弁慶「そりゃ借りある者は苦しからねど、借り無き者の衣類はぎ取るはいかがなものか」勘太「やあ?」弁慶「返答いかに!」勘太「さあ?」弁慶「さあ!返答いかに、いかーに[見得を切る]」奥から関守の富樫左衛門〈=富蔵〉の声。富...滑稽勧進帳②

    地域タグ:大阪府

  • 畑――はぼたん

    「はぼたん」だが「葉牡丹」ではない。漢字では「甘藍」と書く。「葉牡丹」は江戸時代にオランダから長崎に持ち込まれた。花の少ない冬に牡丹の花のように葉を広げるので葉牡丹と名づけられた。今や正月には欠かせない園芸植物になっている。一方、「甘藍」は明治元年にアメリカから日本に持ち込まれた。野菜の少ない冬でも藍(あい=青=緑)を保って甘味があるので甘藍と名づけられた。今や一年を通して最もよく食べられている野菜である。この甘藍が葉牡丹と同じ品種であることを知った学者は、「甘藍」を「はぼたん」と訓読みした。すると、園芸植物と食用野菜の二つの「はぼたん」が存在することになる。そこで、二つの違いを明確にするために、野菜の甘藍を「玉菜(たまな)」「牡丹菜」と呼ぶようになる。『ちしゃのぬた』にも書いたが、戦前の日本人は野菜を生...畑――はぼたん

  • 滑稽勧進帳①

    曾我廼家五郎・十郎が人気を博すきっかけとなった喜劇『滑稽勧進帳問答」の台本を紹介する。歌舞伎の『勧進帳』のあらすじ①~⑥をそのまま利用している。【あらすじ】①兄の源頼朝から謀反の疑いを掛けられて追われる身となった源義経一行は、山伏姿に変装して、東北へ落ち延びようとしていた。②石川県の安宅の関の関守・富樫左衛門は、関を通ろうとしていた義経一行を疑い、山伏なら持っているはずの勧進帳(東大寺再建の寄付を募った巻物)を読むように命じる。③弁慶はとっさに何も書いてない巻物を取り出し、勧進帳の内容が書かれているかのように朗々と読み上げた。④なおも疑う富樫は、山伏の心得や装束、いわれ、秘呪などを次々と問いただすが、弁慶はよどみなく答えて見せる。⑤富樫は怪しみながらも通行を許可し、お詫びにと酒を献じる。ほっとした一行は関...滑稽勧進帳①

    地域タグ:大阪府

  • 俄――またしても転換期

    〇着物の両腕に大きな風呂敷を掛けて素袍を着ている体。頭に鉢巻きをして前に扇子を挟み、忠臣蔵の三段目、殿中の刃傷の場の趣向。師直の物真似で、「判官殿、貴殿のような侍は」と言いながら、袖の中からお椀の蓋(ふた)を一枚、また一枚また一枚と三枚出して、「蓋だ、蓋だ、蓋三枚だ」※「鮒だ鮒だ、鮒侍だ」杜陵や淀川の批判をよそに、俄興行は人気を博し、大阪名物として全国に鳴り響いていく。江戸時代末の俄を記した書がいくつかあるのだが、活字に直されたもの(翻刻)がない。なんとか解読してやろうと思ったが、翻刻されている『古今俄選』でさえ、オチの意味がわからないものが2/3あるのでやめた。しかたなく、話は明治へと飛ぶ。明治に入り、大阪船場の御霊神社や座摩神社を中心に、大和屋宝楽、信濃家尾半、初春亭新玉、初春亭二玉(後の鶴家団九郎)...俄――またしても転換期

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  • 俄――転換期

    〈座敷俄〉は座敷でするので、「人に見せる」ことより、「自分たちで楽しむ」ことが中心で、夏祭り期間の素人の遊びには違いなかった。ところが、大勢でする芝居がかった〈座敷俄〉が大転換をもたらす。やがて、俄好き(数奇者たち)が「谷」と呼ばれる集団をつくり、神社や寺の境内に小屋を設けて興業をするようになったのだ。数日にわたる興業なので、決まった演目、しかもそれなりの長さを持ったものでなければならない。そこで歌舞伎、浄瑠璃の演目を縫い合わせて笑いにする〈縫い俄=俄芝居〉となる。俄は俄師によって興業化され、より華美になっていき、大阪俄が全国に広まるきっかけともなった。しかし、俄の本質が衰退していくことを嘆く者もあった。江戸時代末期の嘉永(1848~)に書かれた『古今二和歌集』で、作者の倉腕家淀川は次のように述べている。...俄――転換期

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  • 俄の味

    日本全国に残っている俄からいくつかを紹介する。【博多にわか】〇あの相撲取りゃぁ、朝から晩まで酒飲みづめじゃが、稽古も強かが、土俵に上がっても酔うとる。※良く取る〇今日は十五夜で幸い友達がみな寄っとるけん、月見で飲もうじゃなかや。酒ん肴は何んが好いとるや?「俺らあ下戸じゃけん望月」※餅好き【美濃流しにわか】〇トランプ大統領の乱暴な言動は嘆かわしかねえ。「でも本心は優しからしやて」。そらまたどうじゃら?「トランプにもハートがあるわな」〇東京五輪は、あげいに巨額のお金をかけてええんかいのう?「へともなかね」。これまたどうしてじゃな?「必ずせいかは上がるわな」【佐喜浜にわか】高知県〇行政を批判した有識者に市長が「なんぞ確かな証拠かあるか?」と尋ねた。有識者は腰掛けを取り出し、腰掛けの足をたとえにして、「一つ一つは...俄の味

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  • 畑――無農薬

    自分で作って食べる野菜くらいは化学肥料を使わないで無農薬のものを食べたい。そう思って家庭菜園を始める人は多い。かくいう私もその一人だった。就職して間もない二十代前半の頃に、親戚の300㌃ほどの土地を借りて菜園を造った。1970年代から奈良県桜井市で無農薬、無肥料、不耕の「自然農=自然栽培」を起こした川口由一という人のニュースを見たのがきっかけだった。さすがに不耕というのは無理があったので、家のトラクターを使ったが、農薬と肥料は買ったことがなかった。それでもなんとか野菜が育ったのは、始めて畑にした土地には永年蓄えられた地力があるからだ。借りた土地の1/3には広葉樹が植えられていたので、落ち葉で堆肥を作ることができた。農薬を使わずにすんだのは、企業団地の真ん中にある、工場に囲まれた「ぽつんと一軒家」的な畑で虫...畑――無農薬

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  • 俄の本質

    司馬遼太郎の小説に『俄浪華遊侠伝』というのがある。俄師の話ではなく、維新前後の浪花を舞台に生き抜いた大親分の波瀾万丈の物語である。その主人公万吉が、晩年に己の人生を振り返って述懐する。「わが一生は一場の俄のようなものだった」と。たった一度の短い人生、アハハと笑うてオチをつけてお終いや、そんな思いなのだろう。「ほな往てくるで」と陽気にこの世を去っていく。司馬遼太郎が小説の題名に『俄』と付けたのは、人生は俄のようなものだと言いたかったのだろう。死ねば全てが終わる〈一回性〉、何が起こるかわからない〈意外性〉、そのときどきを生きる〈即興性〉、笑いで吹き飛ばす〈滑稽性〉、良くも悪くも良しとする〈遊戯性〉、最後にすべてを納得させる〈饗宴性〉、より良かれを神仏に祈る〈神事性〉が人生と俄の本質だと。若いころ、32年ぶりに...俄の本質

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  • 俄のオチ

    河内俄のオチは単なる駄洒落ではない。なぞかけ(三段なぞ)」の発想に近い。前回、紹介した俄を例にすると、〇「亭主の浮気」とかけて、「女房が牛の刻詣りをしたが効きめがなかった」と解く。その心は「浮気の相手が糠屋の娘」〇「百姓息子の改心」とかけて「大根」と解くその心は「いつか孝行になる」A「こないだ、嫁はんに浮気がバレてしもうた」B「えらいこっちゃ、どないしたんや?」A「うちの嫁はん一升飲み干すほどの酒好きやから、仲直りしよう思うて、五合徳利に酒を買うて、持って帰ったがな」B「ホー、嫁はん、喜んだやろ!」A「それがや。えらい怒られたがな」B「ハテ、なんて怒られたんや?」A「一生(一升)つまらん、言われた」〇「酒飲みの女房への浮気のお詫び」とかけて「五合徳利の酒」と解くその心は「一生つまらんと怒られた」大阪人が社...俄のオチ

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  • もじり俄

    お茶屋で演じられた〈座敷俄〉は、お囃子を入れることができる。そこで、しだいに芝居じみたものになり、次の明和(1764~)になると歌舞伎を真似た〈もじり俄〉が登場する。その例を一つ。意味不明部分は省き、歌舞伎調なので七五調に近づけて現代語にした。声を出して読んでもらうと自然とリズムが出てくる。〇牛の刻詣り三味線の出囃子がはいる。女「あらうらめしの女子(おなご)やなあ」女が登場女「枕はほか(他の女)とは交わさじと、言いし亭主も今はあだ浪、浪は越すとも松山の、女子(おなご)につもるこの恨み。とり殺さいでおこうか」【浄瑠璃】右に持ちたる灸箸で、左のモグサひとつかみ、女子に灸をすえてやると、神社に伸べ伏す松の木を、憎い女と狙い寄り、幹のくぼみに目をつけて、女「ここぞ女子の咽ぶえなり」【浄瑠璃】モグサをいくつも並びか...もじり俄

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  • 俄――遊びをせんとや

    不動明王の真言(お経)に「のうまくさんまんだばざらだんせんだまかろしゃだそわたやうんたらたかんまん」というのがある。それをふまえたうえで〈座敷俄〉の一例。山伏「わしは葛城より熊野へ駆け抜けの山伏。来たるほどに人跡絶えて家もなきが、ぽつんと一つの家。もしもし、あるじ(主人)に申し上げます。葛城より熊野へ通る山伏なれど、今日のひもじさ。先へも後へも参りがたし。空腹な時にもむない物なし。冷めたお粥を一杯だけでも、お頼み申します」主人「お安いことながら、我さえ食べる物がなく、飢えて死ぬのもいつの日やら。ほかをお頼みなされませ」山伏「そんならそなたも空腹か」主人「なにとぞご推量くださりませ」と泣く。「今しばし、思い出したることがある。この向こうの畑に誰かが芋を作ってございます。その芋盗んで食わしゃりませ」山伏「実に...俄――遊びをせんとや

    地域タグ:大阪府

  • 座敷俄

    浪花の夏の風物詩となった俄は、町の辻々で演じる〈流し俄〉だった。〇黒装束の忍者姿の男忍者「源氏の財宝、この白旗。手に入れたからには大願成就。ああ、嬉しや」と白布を押しいただいて行く。すると後から寝まき姿の男が出てきて、男「曲者(くせもの)待て!わしのふんどしをどこへ持っていく」このような〈流し俄〉が、嶋内や道頓堀、曾根崎や堀江界隈の花街に広がっていった。それを商家の旦那衆が座敷へ上げて俄をさせる。「ほんなら、わしも俄とやらをやつてみよ」と、俄はやがて旦那衆の趣味・遊びとなり、太鼓持ちや仲居を巻きこんだ〈座敷俄〉となる。〇揚屋(遊女屋)の掛け取り(借金取り)が出て来る。反対側から数人の家来を連れた侍が出て来る。掛取「コリャ、よい所で出会うた。ここで会うたが百年目、サア、五十両の揚代を返せ」侍「イヤ、ここは途...座敷俄

    地域タグ:大阪府

  • 畑――花も実もある

    難儀な台風11号のために雨続き。ようやく昨日は降雨なし。今日は午後から雨模様なので、朝の6時に畑へ。土は多少湿っていたが、今日やるしかないと意を決して、耕うんと畝立て。久々の鍬使い。土が重い。一筋立てては休憩しながら2時間ほどで完了。黒のビニールでマルチングをして完成。これで来週にはニンニクを植えることが出来る。幸いに曇り空で汗をかくほどではない。よっしゃ、やったろ!畑の中央に設けた通路の草抜き。売り物用の落花生。畝間(うねま)どころか通路にもはびこっていて、ここは草抜き不可能。カラス除けの糸の張り直しをとて、草抜き再開。ナスの畝までたどり着く。8月の上旬に剪定して秋ナス用にしたのだが、まだ大きな実がついている。まだまだ夏か・・・と思いつつ草抜き。ようやく終点のニラの畝に到着。いつの間にやら花が満開。近寄...畑――花も実もある

  • 俄――大阪 vs 東京

    ウィキペディアで「俄」を調べると、次のような説明がある(以下抜粋)。「俄とは、またの名を茶番(ちゃばん)。俄狂言(にわかきょうげん)の略。遊廓などで、多くは職業的芸人でない素人によって演じられた」全国に広まった俄だが、「茶番・俄狂言」などと呼んでいるところはない。みな「にわか」だ。それに、俄は神に奉るという〈神事性〉が根本にあるので遊郭のものではない。あきらかに東京びいきの人によって書かれた茶番(下手な芝居・行ない)である。この説明の大元となっているのは、江戸後期に書かれた『新吉原略説』という書物で、俄の発祥は享保19年(1735)の江戸の吉原であるとしている。そして、この説をもとにまとめられた『演劇百科大事典全6巻』(1961年早稲田大学演劇博物館)によって権威づけられ、俄の定義は一人歩きしていく。天下...俄――大阪vs東京

  • 俄のチカラ

    建武3年(1336)の湊川の戦いにおいて、南朝の名将楠正成を敗死させたという伝説が残る大森彦七という侍がいる。功績により讃岐国を与えられる。この彦七が、伊予の国のある寺へ向かう途中、矢取川で楠正成の怨霊の「鬼女」に出くわしたという伝説がある(太平記)。それをあつかった俄である。〇男が、大きな布を頭にかぶった女を背負って出てくる。男「さてもさても、えらい重たい。重たいぞ」女「そっちは深い、こっちは浅いぞえ」男「ほに、そなたは賢い。えらいなあ。えらいついでに思い出したが、大森彦七が鬼女を背負ったという話がある。どうもこのふわふわとした尻が怪しい。どれ、一度、顔を見てやろう!」そう言って女を下ろし、かぶっていた布を取るとタコの頭。男「さては、大タコに教えられて・・・浅瀬じゃなあ!」※諺「負うた子に教えられて浅瀬...俄のチカラ

  • 俄――祭

    再び大阪俄に話をもどそう。享保末(1730年頃)に起こった大阪俄は大阪市中に広まり大流行となる。とはいえ、一年中やっていたわけではなく、六月、七月の夏祭の期間中だけである。夏祭は天災や疫病を引き起こす神をなだめることを目的としている。したがって、俄には笑いで神を慰め、心安らかにしてもらうという大義名分があった。「俄じゃ、俄じゃ」とことわるだけで、多少はめをはずしても誰も文句はなく、お上も大目に見てくれた。現代でも、全国各地の俄が祭りの中の一つの出し物であるのはそのためだ。この〈神事性〉が俄の本質の一つである。〇ある年、どうしたことか、六月の祭りがはなはだ寂しく、遊里では軒に吊るすはずの提灯もなく、行き交う客もまばらなことがあった。俄をする者もなかった中で、痩せ細った背の低い男が、金襴の直垂(ひたたれ)に金...俄――祭

  • 俄――もんさくす

    俄の発祥の一つとして、〔京都島原発祥説〕がある。江戸時代、井原西鶴『好色一代男』(1682年刊)の中にある太鼓持ちたちの思いつきの遊びを記した部分を俄の最初とするものだ。――道を隔てた数件の揚屋〔あげや=遊女と遊ぶ店〕の二階へ、太鼓持ちたちがそれぞれ上がり、おのおのが窓から姿を現して趣向を競う。揚屋丸屋の二階から恵比須大黒の人形が差し出されると、柏屋からは二匹の塩焼きの小鯛が差し出され、これを見て庄左衛門が瀬戸物の焙烙(ほうらく)に釣髭を付けて出す。今度は弥七が烏帽子をかぶって顔を出せば向かいの家から十二文の包み銭が投げられるという具合だ――。物で見立てた発想をつなげていく遊びで、答は次のようになろうか。恵比須様の人形(福の神)……塩焼きの小鯛(供え物)……焙烙に釣ひげ(大黒様の顔)……烏帽子(神官)……...俄――もんさくす

    地域タグ:富田林市

  • 水が運んだ俄

    現在、大阪府内で俄という芸能が残っているのは南河内の一部の地域だけだ。南河内という限定された土地に、なぜ俄が残ったのか。そのヒントとなるのが物流だ。図は大阪南部の江戸時代にあった主たる街道である。河内長野市にはほとんど俄が残っていない。河内長野市は南北に通る四つの街道の合流地点で、陸路で大阪とつながっていた。対して、河内俄が残っている地域は、大和川の支流石川の水運によって大阪とつながっていた。江戸時代、喜志村には剣先舟の船着き場(喜志の浜)があった。喜志より上流は水流が強いため、喜志の浜から富田林、河南町、千早赤阪村へと物資が運搬されていた。喜志の浜から米・木綿・酒・油・材木・綿花などを積み出し、石川、大和川を経て大阪へと運び、帰りは大阪からの塩・肥料(干鰯)・荒物・大豆などを積み喜志の浜に下ろしていたの...水が運んだ俄

    地域タグ:富田林市

  • 畑――レタス

    今、あたりまえのようにレタスを植えて食べている。ところが、ちしゃ=レタスの記事を書いていて、ふと思った。わしが、レタス、いや、生野菜=サラダを初めて食べたのは、いつあったんかいなあ?そう考えると、意外と新しいのではないかと思った。江戸時代までは「掻きちしゃ=チマサンチュ」を「ぬた=酢味噌あえ」あるいは「おひたし」にして食べていた。明治以降から太平洋戦争が終わるまで、様々な西洋レタスが入ってくるが、高級洋食店でしか食べられていない。一般家庭では野菜を生で食べることはなかった。食べるとすればキャベツの千切りくらいだった。肥料に人の糞尿(人肥)を使っていたからである。大正・昭和の小説家である長与善郎が、戦後十年ちかく経ったときに、当時の農民の不満として「天秤棒でカツグ二桶の人肥は一と握りの金肥に及ばざるが如し」...畑――レタス

    地域タグ:富田林市

  • 畑――ちしゃのぬた

    こんな上方落語がある。病気になった父親のために息子が医者を呼びに行く。医者を連れ家に帰る途中、医者が疲れたというので道端に腰をおろし一休みしていると、急に辺りが暗くなった。医者「このあたりでウワバミ(大蛇)が出ると言う噂を聞いたことがある」息子「ではここはその腹の中ですか?このままでは腹の中で溶けてしまいますがな」医者「うろたえるでない、下剤を調合しよう」腹の中で下剤をバラまく。ウワバミは苦しみ、やがて二人を尻の穴から外へドバ~。臭いを気にしつつ家に着き、苦しむ父親を医者が診察すると、父親は萵苣(チシャ)を生で食べたと言う。医者「これは食中毒じゃ。チシャに当たったようやなあ。夏のチシャは身体に悪い」薬を調合しようと思ったところで、薬箱をうわばみの腹の中に忘れてきたことに気がついた。返してもらうよりしょうが...畑――ちしゃのぬた

    地域タグ:大阪府

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