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2022/08/15

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  • 畑――そくる

    稲刈りを終えた隣の畑から「藁(わら=稲わら)いらへんか?」「ああ、ちょっとだけもろとくは」「慌てんでええから、ゆっくりそくって」「おおきに。雨降るまでそくるわ!」「そくる」という言葉がある。標準語だと思っていたら辞書には無かった。インターネットで調べていくと、愛媛弁の「そくる」=「失敗する」=損くる俗語の「そくる」=「その場・その時にすぐHする」=即る弓道の用語の「そくる」=「的に当たる」=束るではない!これ以上調べても損くるかと思っていたら、五巡目にして、ようやく束った。出雲弁の「そくる」=「束(たば)ねる」=束るなのである!!大国主命を主神とする美具久留御魂神社の氏子だけに、やはり出雲人の血が流れていたのだと確信。ゆっくりと天日で干してから束ろうと思っていたら、どうやら明日は雨模様。そこで慌てて藁を即...畑――そくる

  • 畑――じゃまくさい

    夏野菜を片づけた今の畑が最も秋らしい畑。ニンニクの奥は九月に植えた菜っ葉たち。必殺七種混合栽培。菊名・小松菜・しろ菜・野沢菜・青梗菜・葱・レタス。特に意図はない。あちこち耕すのがじゃまくさかっただけ。キャベツ・玉レタス・白菜・リーフレタスが大きくなってきた。キク科のレタスのおかげか、虫がついていない。人雨降ればもう一まわり大きくなって玉になってくれるはず。今が農薬散布のチャンスだが、じゃまくさい。落花生105袋はめでたく完売!早々に耕してイチゴとタマネギを植える準備。イチゴを早く植えたいが、水やりがじゃまくさいので雨待ち。サツマイモがあったのだが、ヌートリアがきれいに食べてくれた。当初は頭にきたが、今となっては掘る手間がはぶけた。残りは八つ頭。正月のおせちの縁起物。八は末広がり。頭は頭(トッブ)に立つ。そ...畑――じゃまくさい

  • ちょっといっぷく37 ぶりぶり

    三年ぶりの秋祭り。同じ村に住んでいても、しばらく会ってなかった人がかなりの人数。「ひさびさやなあ。どないや?」「まあ、ぼちぼちですわ」「そうか。そらよかった。気いつけや」と年配者から言われる祭り。校区の同級生とも久しぶりの再開。「おっ、久々やないかい。元気か?」「あかん。ぼろぼろや・・・では、祭りに来てないやろ!」「そやなあ。ほなら、また!」それで互いに通じるのが祭り。都市型の大きな祭りではなく、鎮守の森の昔ながらの祭り。それだけに、祭り=地域のコミニティー=結び=連帯を感じた久々の祭り。三年ぶりではなしに、やっぱり、年に一度の秋祭り。というわけで、久しぶりの記事投稿。そして、四日ぶりに、心身ともに癒えて、五日ぶりの畑仕事。里芋、赤芽大吉、小遣い稼ぎ。ちょっといっぷく37ぶりぶり

    地域タグ:富田林市

  • その27 幕末「松陰独行」③

    安政元年(1854)10月24日、吉田松陰は萩の野山獄の囚人となり一年余りを過ごすことになる。安政二年(1855)12月15日、藩主毛利敬親の温情により、病気保養の名目で野山獄を出され、実家の杉家に閉門蟄居する。家には人を入れられないので、松下村塾の納屋を改造、増築し多くの門下生を育て、明治維新へとつながっていく。二年間あまりのしばしの安穏の時だった。29年間の生涯の中で松陰が成し遂げた業績は、松下村塾で後進を育てた以外、形として残っているものは何もない。それどころか為すことすべてに失敗している。それは、どうしようもない現状を打破するために、真っ先に自ら艱難辛苦に飛び込んで行ったからだった。真個(しんこ=まことの)関西志士の魁(さきがけ)、英風(=立派な姿は)我が邦(くに)を鼓舞し来たれり高弟高杉晋作の彼...その27幕末「松陰独行」③

    地域タグ:大阪府

  • その27 幕末「松陰独行」②

    富田林を旅立って、わずか二か月後に、24歳の吉田松陰が目の当たりにした「黒船来航」は、その後の松陰の人生を大きく変える。29才で刑に処せられるまでの五年間の半分を、獄舎の中で過ごすことになる。ベリーは開国を促す親書を幕府に手渡し、「1年後に再来航する」と告げて6月10日に浦賀を去った。黒船来航を目の当たりにした松陰はどう感じていたのか?松陰曰く、「天下の大義を述べて、逆夷(=外敵)の罪を征討(=討伐)すべし」。水戸藩と並んで長州も攘夷(じょうい=外敵を追い払う)思想の強い藩だった。それも単なる「攘夷」ではなく、「敵愾(てきがい=外敵と戦う)」という過激なもので、1863年の高杉晋作らによる四国艦隊下関砲撃事件(下関戦争)は、長州藩としては当然の行動だった。その一方では密航を試みる。佐久間象山の「男子たるも...その27幕末「松陰独行」②

  • その27 幕末「松陰独行」①

    若き吉田松陰の探求心、行動力には感心する。何が松陰をそこまで突き動かしているのか。今しばし松陰の話。4月1日に富田林を立った後の吉田松陰の行動である。松陰はまず大阪へ行き、再び大和の五條に赴いてしばらく逗留している。その後、八木、奈良、伊勢へ向かって、江戸に着いたのは6月1日だった。6月1日晴鎌倉を出発して、来た道を通って江戸に入る。長原武の家の前を通り鳥山家に宿る。すでに夜になっていた。6月3日晴佐久間修理(しゅり=佐久間象山)先生を訪ねる。近澤啓蔵が来る。6月4日晴渡辺春汀を訪ねるが不在。麻布藩邸に行き工藤・新山に逢う。桜田藩邸に帰り、道家竜助と逢って辺警(外敵が国内に侵入)があったことを聞く。すぐに佐久間塾に行くが、塾生は皆、今朝方に浦賀に行って誰もいなかった。藩邸に帰り、支度をして急いで浦賀に出発...その27幕末「松陰独行」①

  • その26 幕末「松陰一人旅」④

    2月23日に岸和田に着いてから3月3日までの十日間、二人は岸和田に逗留している。その間、佐渡屋と中家の仲を取り持つこともさることながら、岸和田の多くの学者と議論を交わしている。岸和田を立った後も堺、貝塚の学者を訪ね、3月18日の午後にようやく富田林に帰ってくる。それから4月1日に旅立つ11日間、富田林に逗留する。よほど居心地がよかったのだろう。3月27日晴弥生も末の七日、あけぼのの空朧々(ろうろう)として、月はありあけにて光おさまる。千早の峰々かすかに見えて、庭の中の桜花の梢(こずえ)はまだまだ心ぼそい。旅の疲れもようやく癒える。もうニ、三日もすれば江戸に向かうことを告げると、佐渡屋の六つばかりの子がよちよちと寄ってきて、膝の上に乗のって「いやや」と言う。散歩がてらに石川の堤にあがる。江戸までの前途三千里...その26幕末「松陰一人旅」④

    地域タグ:大阪府

  • その26 幕末「松陰一人旅」③

    2月15日晴なおしばし佐渡屋に逗留する。董其昌(とうきしょう)や趙礼叟(ちょうれいそう)などの中国の画家および空海の書や雪舟の龍虎図などを観る。どれもこれもめったには見ることの出来ないもので、節斎先生も大いにお褒めになっていた。また、伊勢神戸藩が河内の国に7000石を領しているが、近頃は財政困難に陥り、新しく領民たちに法令を掲げていうことには、「百両出せば名字帯刀を一代だけ許し、百五十両出せば苗字は世襲として帯刀は一代だけ許す。二百両出せば苗字太刀を世襲、二百五十両出せば名字帯刀持槍を世襲、三百両出せば名字帯刀槍騎馬を世襲とする」これによって7000石の地ながら三千両を得て、借金をことごとく返却したという。河内大和は公領(幕府直轄)で、管轄する組頭である伍長(五人組頭)や年寄(庄屋の補佐)や庄屋(村の長)...その26幕末「松陰一人旅」③

    地域タグ:大阪府

  • その26 幕末「松陰一人旅」②

    吉田松陰が富田林に向かうことになる理由を先に述べておく。嘉永五年(1852)富田林の造り酒屋佐渡屋と泉州熊取の大庄屋だった中家との間で縁談の約束が取りかわされた。ところが、両家との間になんらかのトラブルが生じてもめ事になった。そこで、佐渡屋は、中家当主の中左近が尊攘派学者として大和五條の森田節斎と知り合いであることを知り、節斎に両家の仲裁を頼んだ。佐渡屋徳兵衛の叔父増田久兵衛が五條に住んでいた関係から、森田節斎とも親交があったようで、節斎もこころよく引き受け、2月14日に富田林へ行くと約束をしていたのだった。さて、話を日記にもどす。2月13日雨午前1時頃に晴れる。竹内の宿場を立ち、今市(葛城市)を経て御所に着く。御所は公領なり。高取藩の植村出羽守に託されている。竹内から今北(御所市)に着く。土地はがらんと...その26幕末「松陰一人旅」②

    地域タグ:大阪府

  • その26 幕末「松陰一人旅」①

    受験まであと二か月に迫った頃だった。離れの自室で勉強をしていた。11月の半ばだったが、ぽかぽかと暖かかったので窓を開け放していた。するとそこへ春やんが骸骨のような顔をにゅうっと出した。少しどきりとした。親に用事があって来たのだろう。用事が終わってそのまま裏から回って来たのだ。「勉強か?しっかりやりや!」そう言って、めずらしく帰ろうとしたのだが、振り返って、「ええ言葉教えたろ。ちょっと紙と鉛筆かして」手渡すと春やんが紙に「至誠而不動者未之有也」と書いた。「至誠にして動かざる者、未だ之(これ)有らざるなりと読むんや。誠を尽くせば、人は必ず心動かされる。一所懸命にやれば物事は叶うという意味や。頑張りや」そう言って帰ろうとしたのだが、また振り返って、「誰の言葉か知ってるか?」知らなかったので首をかしげると、「松下...その26幕末「松陰一人旅」①

    地域タグ:大阪府

  • 畑――ネギ

    スーパーで買ってきた青ネギ(葉葱)の根を切り取ってプランターに植えておくと、みるみる葉っぱが伸びてくる。そのイメージがあるのか、ネギの種を植えてニ、三か月ほどで大きくなると思われがちだ。ところがどっこい半年かかる。白ネギ(根深葱)にいたっては一年。葉を食べる野菜としては栽培期間が長いので、露地植えの白ネギの農薬散布の平均は8~12回にもなる。ドエッと驚くが、ご安心を。関西でよく食べられる青ネギは、ビニールハウスの中で防虫ネットをかぶせた水耕栽培なので農薬は0~1回。家庭菜園では植える量が少ないし、良いところを選んで食べるので心配ない。9月中旬に蒔いたネギはまだ8センチほど。あと一か月ほど育苗して10月下旬頃に畑に定植する。食べることが出来るのは3月以降になる。ネギの根の付け根の少し膨らんだ部分が茎(鱗茎)...畑――ネギ

    地域タグ:大阪府

  • ちょっといっぷく36

    『万葉集』にある山上憶良の秋の七草を詠んだ和歌。「萩の花尾花葛花瞿麦(なでしこ)の花姫部志(をみなえし)また藤袴朝顔の花」さて、この中で食べることが出来るのはどれか?葛湯・葛餅・葛切りでおなじみの葛。食べているのは葛の根っこ。細かく砕いて水に晒し、沈殿したデンプンが葛粉。どこにでもある雑草だが、ツルは「葛布」という布になる。花は「葛花(かっか)」という二日酔いの漢方薬になる。根は食用だけでなく「葛根湯」の材料になる。詩集『道程』の中の高村光太郎の「葛根湯」という詩。かれこれ今日も午(ひる)といふのに何処とない家(うち)の中(うち)の暗さは眼さめず格子戸の鈴(りん)は濡れそぼち衣紋竹はきのふのままにて窓の外には雨が降る、あちら向いて雨がふるすげない心持に絶間もなく---町ぢゃちらほら出水のうはさ狸ばやしのや...ちょっといっぷく36

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