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根来戦記の世界 https://negorosenki.hatenablog.com/

 戦国期の根来衆、そして京都についてのブログ。かなり角度の入った分野の日本史ブログですが、楽しんでいただければ幸甚です。

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2022/07/22

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  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑩ 踊り念仏・一遍 「信不信を選ばず、不浄を嫌わず」

    ※前回、浄土真宗つながりで本願寺・蓮如の記事を書いてUPしましたが、2回目以降の記事を下書きをしてみたところ、どうも長いシリーズになりそうで(多分6記事ほど)、流石に別のシリーズとして独立させることにしました。先の記事は1回取り下げて、「本願寺を強大化させた男・蓮如」シリーズとして後日UPし直します。ご了承ください。 鎌倉新仏教の中で、現代に生きる我々にとって最も馴染みがない宗派が「時宗」であろう。現代にも時宗の寺は存在する。総本山は神奈川県藤沢市にある清浄光寺である。全国にある時宗の寺の数は、2014年時点で411、信者(というか檀家数)は5万8950人である。10年前のデータなので、今はも…

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑩ 本願寺・蓮如(上) 本願寺を強大化させたカリスマ

    1262年11月26日、親鸞は入滅する。その遺骨は京・鳥部野北辺の大谷に葬られた。10年後、親鸞の死を看取った末娘・覚信尼により、墓は改葬され「大谷廟堂」となる。 親鸞亡き後しばらくは、この覚信尼が弟子たちのまとめ役であったと見られている。そして大谷廟堂は以降、覚信尼の血筋の者が継ぐことになるのだが、あくまでも「留守職」つまり墓守りとしてであって、その勢力は大きいものではなかった。廟堂を建てる際の建設費は、そのすべてを東国からの寄進で賄ったようだ。 覚信尼の孫である覚如の代に、大谷廟堂は寺院化して本願寺を号するようになる。これが1321年のことで、この年が本願寺の実質的な始まりといえる。 さて…

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑨ 法然の弟子たち・親鸞 教団によって脚色された?その人生

    「鎌倉仏教のミカタ」という、中世史を専門とする本郷和人氏と、宗教学者である島田裕克已氏が行った対談本がある。これがなかなか面白く大変勉強になったので、その主張を一部紹介してみたい。 特に刺激的なのが、親鸞の経歴に関してである。先の記事で1204年に法然が比叡山から訴えを起こされたとき、弟子たちを激しく諫めた、と書いた。この時に法然が弟子たちに示したのが、「七か条制戒」である。 内容としては「他の仏や菩薩を誹謗するな、無知にも関わらず知識のある人たちに対して諍いを吹っ掛けるな、この戒めに背くものは門人ではない」などといった、門人たちに対して厳しく指導するものだ。内容から法然自身は穏健派であったの…

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑧ 法然の弟子たち 親鸞の教え・「絶対他力」浄土真宗

    法然はその生涯で数回の法難に遭遇しているが、第1回目のそれは1204年に起きている。比叡山から天台座主・真如に、専修念仏の停止を求める訴えが起こされているのだ。こうした動きに対し、法然は弟子らを厳しく窘めるなどの動きに出た。反発することなく慎重に対応したのである。 その甲斐あって、この時はことなきを得たのだが、2回目のときはそうはいかなかった。何しろ時の最高権力者であった、後鳥羽上皇を怒らせてしまったのである。 きっかけは1205年に、興福寺より朝廷に出された奏状である。内容としては第1回目と同じ、主に専修念仏の教えの停止を求めたものであった。これ自体はそこまで問題になったわけではなく、うまく…

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑦ 法然の専修念仏(下) 本覚思想との相似性

    さてここまで、法然の思想を紹介してきた。彼の分かりやすい「万人を救う」教義は瞬く間に支持を集め、多くの信者を獲得する。 法然の教団――彼は生前、自宗を興さなかったので、この記事では教団と表現する――はしかし、次第に既存の仏教勢力から敵視されるようになる。 彼の唱える「専修念仏」、つまり念仏第一主義は、突き詰めて考えていくと念仏以外の行を否定するものであったから、それらを第一義とする旧仏教サイドとの衝突は、必然であったといえる。 更に状況を悪化させたのは、一部の門下による振る舞いである。念仏は誰でも等しく救う――ということはつまり、悪人でも救われるわけだ。どうも当時の記録を読むと、法然の元に集ま…

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑥ 法然の専修念仏(中) 念仏さえ唱えれば「誰でも」往生できる

    他力とは「仏の意志は絶対で、人はそれに関与しない」と考えるものだ。ぶっちゃけて言うと、人間の意志や努力を無下にする考え方でもあるので、現代の多くの日本人からすると、馴染み難い考え方かもしれない。しかし当時の多くの人たちにとって、この考え方はとても前向きに受け止められたのである。なぜか? 法然の有名な弟子のひとりに「平家物語」にも出てくる、熊谷直実(なおざね)の名が挙げられる。彼は武蔵国・熊谷に住んでいた鎌倉幕府に仕える御家人のひとりで、源平合戦の際に敵将を討ち取っている。しかしこの敵将はこの時、数えでまだ17歳であった童顔の少年・平敦盛だったことに衝撃を受け、出家を志すことになる――というのが…

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