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2016/10/06

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  • 旧約と新約が描く個人の終末とは ー 終末論(3)(学び合いの会

    Ⅱ-3旧約時代の死後の観念以上はイスラエル民族または人類全体の終末についての旧約の考え方であるが、人間個人個人の終末または死についての考え方を以下の通りにまとめてみた。もともとユダヤ教の伝統は神とイスラエル民族全体との結合(つまり契約)がテーマであり、古代イスラエル人は個人の死についてはあまり問わなかった。旧約聖書全般では、長生きすること・富と子宝に恵まれること・社会的地位や名声を得ることが、人生の目的とされた。人間は死ぬと、シェオール(よみ黄泉、新共同訳では陰府)に下り、地上との関係のみならず神との関係も絶たれ、悦びも希望もない陰のような存在になると考えられていたようだ。知恵文学以外で死者の希望を語るものはまれだという。死後の「報い」について語るのは「知恵の書」だけである。だが、捕囚期以降、個人の死が問...旧約と新約が描く個人の終末とはー終末論(3)(学び合いの会

  • 終末に審判はあるのか ー 終末論(2)(学び合いの会)

    Ⅰ終末論の概念終末論eschatologia(ラ)eschatology(英)とは、最終の事柄(終末)に関する論述のこと。「時間の終わり」または「救いの完成」について(1)聖書が述べていることを吟味する神学的作業をさす。伝統的なスコラ神学では、終末論のテーマは、一方では個々の人間の死の後に起こる私審判、煉獄、天国、地獄という出来事を指し、他方では、世界の歴史の終わりの出来事、つまり、キリストの再臨、死者の復活、公審判を指していた。だが、20世紀半ばにカトリック神学に起こった人間学への接近により、終末論は「死についての神学」と位置づけられるようになる。人間の、生きている間になされた自由意志に基づく決断が、死に臨んで徹底的なものになると考えるようになる(K・ラーナー、ゼメロート)(2)。第二バチカン公会議で現...終末に審判はあるのかー終末論(2)(学び合いの会)

  • 「審判」論から「完成」論へ ー 終末論(1)(学び合いの会)

    2022年9月の学び合いの会は、台風一過、秋晴れのもとに開かれた。すがすかしい空気のもとで参加者も増え、10名はおられたようだ。今回のテーマは終末論である。カトリック神学のなかで「神学的人間論」のテーマで言えば、神論・創造論・原罪論・恩恵論に続く最後のテーマとなる。永らく誰も触れたくないテーマだったが、21世紀に入って終末論への関心が世界的に高まってきているという。昨日は年間第26主日(C年)で、福音朗読はルカ16:19-31だった。ラザロとファリサイ派の金持ちの話である。陰府の場面が出てくるからだろうか、YouTubeで与ったイグナチオ教会のミサでは神父様(日本人)はお説教でしきりに「今はお彼岸だからお墓参りしましょう」と言われ、彼岸・此岸の比較と「浄め」の説明をしておられた。言いたいことはわからなくも...「審判」論から「完成」論へー終末論(1)(学び合いの会)

  • 「新しいミサ式次第」の準備

    2022年9月24日(土)に梅村昌弘司教を講師とするカテキスタ会の公開講座(第24回)が雪の下教会で開かれたようだ。わたしは急用で出席できなかったが、90名ほどの出席者があったという。いずれ詳しい報告がなされるだろうが、新しいミサ式次第がすぐに始まる。横浜教区典礼委員会はその冊子「典礼の風」(No.27)などで周知を図っているようだが、わたしの所属教会ではこの冊子すら配布されず、神父様もお説教で11月からミサが変わることに一言の言及もない。さすが来月にはミサの練習がおこなわれるだろうが、他教会では準備が始まっているところもあると聞く。コロナ対策でミサは相変わらず地域割り・名簿順割が続き、練習どころではないのかもしれない。横浜教区典礼委員会は「新しいミサ式次第」の研修用動画を公開しているので大体の様子はわか...「新しいミサ式次第」の準備

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