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2016/10/06

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  • 見て、信じた ー 「見る」とはなにか(2024年復活祭)

    ご復活祭おめでとうございます。今年のイースターは3月31日と早く、しかも晴天に恵まれ(1)、当教会では多くの方がミサに与った。昨年はまだ分散ミサが続いており全員がそろうことはできなかったが、今年は皆でお祝いすることができた。高齢の男性にはネクタイ姿が多く、女性も正装に近い人が多かった。今日の福音朗読はヨハネ20・1-9で、「空のお墓」の話、または、「復活」のシーンの話だ。M神父様は当教会で初めての復活祭のミサを挙げるということで力が入っておられたように見受けられた。受洗者も3名おられ喜びもひとしおだったようだ。お説教は本日の福音朗読の箇所に何回か出てくる「見る」という言葉についてであった。聖書に出てくる「見る」という言葉には様々な意味が込められているというお話であった。「体の目、心の目、信仰の目」という区...見て、信じたー「見る」とはなにか(2024年復活祭)

  • 信徒大会か信者総会か ー 四旬節のなかで

    四旬節第3主日のごミサに出たら先週の教会「信徒大会資料」が配布されていた。2021年度、2022年度の信徒大会はコロナ禍の中で開催されず、「年次報告」が配布されていただけなので、信徒大会は3年ぶりの開催ということのようだった。資料によると、教会活動は平常に戻りつつあるようで、サマーパーティやバザーも開催された。2023年度は信徒総数は昨年より11名減の1443名(女性信徒62%)、受洗者数は6名だったという。主日ミサの人数制限(地区別)がなくなり、新しい神父様をお迎えしたこともあり、ごミサに与る人数も増えつつあるようで、ミサ献金も増えているという。大きな修繕もなく、予算の執行状況はほぼ予算案通りだったようだ。収支決算の確認がなされ、教会の行事予定が発表され、教会各部の活動報告もなされたようだ。いつ頃からか...信徒大会か信者総会かー四旬節のなかで

  • 人生はV字型ですよ ー 2024年四旬節黙想会

    四旬節に入ったので教会で黙想会がもたれた。土曜日と日曜日の二日にわたる。初日は講話と告解とミサ、二日目は講話の続き。指導司祭は阿部仲麻呂神父様。阿部師の黙想指導は昨年の待降節中にももたれたので当教会としては二度目となる。第一日目の今日土曜日は30人ほど参加されたように見えた。M主任司祭の紹介の後1時間弱の講話があった。短い休憩の後お二人の神父様による告解があった。ほとんどの方が残って告解されたようだ。今日の講話のテーマはフィリピの信徒への手紙の第2章6~11節。古代教会で実際にうたわれていた賛歌だという。この手紙はパウロが54年ごろフィリピという名前の町(1)の信徒に送った複数の書簡を一つにまとめたものだという。パウロが偶然にも手紙の中に、当時実際にうたわれていた賛歌を書き記していてくれたので、現在まで残...人生はV字型ですよー2024年四旬節黙想会

  • 大斎は守られているか ー 2024年の灰の水曜日

    今日2月14日は灰の水曜日なので、ごミサに出てきた。いつも通り多くの方が来ておられた。「灰の祝福」があるのでミサの流れは通常とは少し異なる。今年はB年だが灰の水曜日なので福音朗読はマタイ6:1~6,16~18が読まれた。「施し・祈り・断食」について教えるイエスの言葉だ。「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」という話だ。「灰の祝福」では全員額に灰(1)を回心(2)のしるしとして受けた。四旬節の始まりだからだ。今日は大斎なので、断食を守らなければならない。大斎は灰の水曜日と聖金曜日の年に二回しか定められていないので、結構みなさん守っておられるようだ(3)。断食といってもまったく一日中食事をしてはならないというわけではなく、60歳以上の高齢者は免除されていると聞く。わたしの家では3食ちゅう1食...大斎は守られているかー2024年の灰の水曜日

  • これが教会一致(エキュメニズム)か ー 聖公会との合同礼拝式

    今日は年間第3主日だが、当教会では午後4時から聖公会との合同礼拝式がもたれた。正式名称は「聖公会とカトリック合同夕の礼拝」というものだった。「横浜教区からのお知らせ」によると、カトリック教会としては「2024年キリスト教一致祈祷週間」の行事ということのようだった。聖公会との合同礼拝は以前にも持たれていたようだが、今回は久しぶりとのことだった。エキュメニズムとか教会一致という言葉は近年あまり聞かれなくなった。公会議直後はよく話題になったが、近年は「諸宗教対話」(1)に関心が集中してしまい、肝心の聖公会との合同礼拝は少し関心が薄れてしまったのかもしれない(2)。エキュメニズムとか教会一致とか言っても、今までの教会の説明は理念や歴史の話が中心で具体的には何のことかよくわからなかったので、わたしは今回の合同礼拝に...これが教会一致(エキュメニズム)かー聖公会との合同礼拝式

  • ご公現 ー ミサには等級がある(Ⅰ~Ⅳ)

    今日は1月6日ではないが、日曜日なので(1)、「主の公現」のごミサがあった(2)。日本では「守るべき祝日」(3)ではないけれど「祭日」である(4)。多くの方がミサに与った。降誕節は来週の「主の洗礼」の「祝日」まで続くが(5)、当教会ではお御堂前の馬小屋は今日のごミサの後撤去するとのことであった。と、簡単に書いてきたが、この文面には誤解を招きかねない表現がいくつかあるので少し注記を残しておきたい(6)。今日のミサでは、いくつか興味深い「ミサの式次第」の変化があった。「成人の祝福式」がお説教(7)の後に組み込まれ(8)、また、「今週のお知らせ」が「閉祭の儀」のなかにそのまま組み込まれ、「司祭の召命を求める祈り」と「アヴェ・マリアの祈り」が「派遣の祝福」の前に唱えられた(9)。どうという変化ではないのだが、新し...ご公現ーミサには等級がある(Ⅰ~Ⅳ)

  • クリスマスとコンテ(コンテンポラリー・ダンス)

    教会のクリスマスは午前10時のミサに出た。神父様がサンタクロースに扮して子供たちにクッキーを配っておられた。おこぼれに与るお年寄りも多かったようだ。そのあとの茶話会は晴天に恵まれ盛会だった。【待降節が過ぎイエス様が飼い葉桶に収まる】【サンタに扮した神父様】午後は11歳の孫娘のダンス発表会に誘われた。ダンスといってもいわゆる「コンテ」だ。コンテといっても高齢者は聞いたこともないし、なんのことだがわからないだろう。コンテとはコンテンポラリー・ダンスの略らしい。コンテンポラリー・ダンスといっても聞いたことがない方が多いだろう。東京五輪開会式で森山未來が披露したダンスといえば思い出されるかもしれない。コンテンポラリー・ダンスとはいわゆる「モダン・ダンス」を批判する形で登場した新しいダンスだという。モダン・ダンスも...クリスマスとコンテ(コンテンポラリー・ダンス)

  • カト研と真生会館

    上智カト研(カトリック研究会)の歴史を調べているうちに興味深い関連資料がいくつか見つかったので記録として残しておきたい。カト研の歴史についてはこのブログでも数回投稿している。カト研は戦前に岩下壮一師によって始まったが(1)、その活動は事実上「聖フィリッポ寮」(現在の「真生会館」)の活動と一体だった(2)。戦後のカト研は1950年代、60年代に活動のピークを迎える。1946年には東京・京都・大阪で「カトリック学生連盟」が結成され、発足する。2年後には「日本カトリック学生連盟」が発足し、事務局は上智学院におかれた。1947年から新制大学が動き始めると全国の大学にでカト研(カトリック研究会)が活動を開始する(3)。東京では各大学のカト研は真生会館を中心として活動していったようだ。1950年代、60年代はカトリッ...カト研と真生会館

  • カトリック司祭の老後と介護(Ⅱ)

    数年前に投稿した「カトリック司祭の老後と介護ー「人生の歩みを続ける途で」(外川直見神父ロヨラハウス館長)」という投稿へのアクセスがすこぶる多い(1)。外川神父様(2)が「カトリック生活」(3)に書かれた文章をそのまま紹介しているだけなのだが、司祭の老後に対する関心が高まっている証しのように思える(4)。私が添付した文章(画像)が読みにくいという苦情が多く、お詫びを兼ねてここに再度掲載する。【人生を歩み続ける途で】注1https://blog.goo.ne.jp/kempis/e/90079b022254e47faba4a016503dcc2c2外川直美神父様は1939年生まれ。阪大卒業後上智大学に入られ、カト研などで活躍された。召命があってイエズス会に入られ司祭の道に進まれた。栄光や六甲などカトリック系の...カトリック司祭の老後と介護(Ⅱ)

  • ミサが日本語になった時は嬉しかった ー 96歳信徒の信仰の歩み

    「王たるキリスト」の祝日の翌日、つまり教会暦では今年A年最後の週の今日、当教会の信徒の集まりである「アカシアの会」で私どもが敬愛するSさんのお話があった。テーマは「わたしとカトリック信仰」というものだった。96歳(1927年生まれ)のSさんが戦前をどのように過ごし、戦後日本のカトリック教会でどのような信仰生活をおくられてこられたのか、を聴きたいと思い、わたしは普段はあまり出たことのないこの集まりにいそいそと出掛けた。お集まりになったのは10数名で普段ほど多くはなかったようだが、お話はすこぶる興味深いものだった。Sさんは次のような順番で話題を提供された。1カトリックとの出会い2教会と共に3頂いたいのち、神と共に歩む日々4皆様より少し高齢を経験している私1時間以上にわたって、ゆっくりとしかも丁寧に話された(1...ミサが日本語になった時は嬉しかったー96歳信徒の信仰の歩み

  • 難民と入管 ー カトリックがみる難民問題

    今日はわたしの所属教会で難民問題に関する講演会が開かれた。テーマは「日本に辿り着いた難民達をめぐる問題と入管問題」というもので、講師は弁護士の駒井知会氏(「入管を変える!弁護士ネットワーク共同代表」)だった(1)。主催者は横浜教区の委員会のひとつである共同宣教司牧サポートチームの第4地区「神の愛を証しする力を育てる部門」だった(2)。参加者は多かった。50名ほどはおられたであろうか。とはいえ参加者は他教会所属の信者さんがほとんどのようで、わたしの顔見知りの方は少なかった。講演は熱のこもったものだった。講演の内容は話しが多岐にわたり焦点が解りずらかったが、講師の駒井氏の熱意はよく伝わってきた。駒井氏は話したいことがたくさんあるらしく、パワーポイントを使って早口で1時間40分休みなく話し続けられた。かなり専門...難民と入管ーカトリックがみる難民問題

  • カトリックの家庭集会 ー 関心は告解と終油に集中した

    久しぶりに家庭集会(1)が教会で(2)開かれた。コロナ禍をはさんで5年ぶりだという。当教会では今年は各組ごとに月1回くらいの頻度で持たれているようだ。月1回といっても2000人前後の信徒数で9組に分かれているのでなかなか順番が回ってこないようだ。私どもの組は6つの班から構成されていて、今日は各班長さんを含めて20名ほどの参加者があった。家庭集会といってもカトリックとプロテスタントではその形態が大分違うようだし、カトリック教会の家庭集会も教区ごとの違いは大きいらしい。家庭集会とはこういうものだと一概には言い切れないようだ。家庭集会は何のためにするのか。そこで何をするのか。カトリック教会の場合はどうなのか。一般的な姿は解らないので今日の様子を少し記録にとどめておきたい。今日は、まず主の祈りの後、参加者の一人あ...カトリックの家庭集会ー関心は告解と終油に集中した

  • 信徒は司牧者を育てて欲しい ー 阿部仲麻呂師指導の黙想会

    2024年の待降節第一主日は今年の12月3日なので(1)、当教会では11月の18・19日に黙想会がもたれた。コロナ禍で黙想会も長い間開かれなかったのでわたしは久しぶりの参加だった。黙想会と言えば修道院かどこかに泊まってするものと思っていたが、現在は日帰り黙想会とかいろいろな形の黙想会があるようだ。今回は二日がかりで、一日目は講話と赦しの秘跡(告解)とごミサ、二日目は通常のミサの後の第二講話という構成だった。黙想会はかならずなにか黙想のテーマが与えられるが(2)、今回は「フィリピの信徒への手紙」の第1章と第2章を読むことだった(3)。わたしは一日目は出られなかったのが残念だった。今日は講話だけで、通常のミサの後だったので、参加者は多かった。ほとんどの方はミサの後そのまま残っておられたようだ。指導司祭は阿部仲...信徒は司牧者を育てて欲しいー阿部仲麻呂師指導の黙想会

  • 八ッ場ダムは紅葉に燃えているか

    11月上旬快晴が続く。季節外れの暖かいある日、ふと思い立って吾妻渓谷に紅葉を見に行きたくなった。久しぶりの片道3時間のドライブ。あがつま峡は町営の無料駐車場が渓谷の途中にありクルマで少しは入れる。山は全山紅葉でその美しさに感嘆した。来た甲斐があったと納得した。さすが足腰の弱った身で渓谷沿いのハイキングは無理だったが、歩道は整備されており紅葉をゆっくりと楽しめた。色とりどりの紅葉は最盛期だった。【あがつま渓谷】しばらく歩くと突如八ッ場ダムが現れた。見上げるとその威容に圧倒された。東京タワー並みの高さだという。エレベーターで上に上ってみる。ダムの貯水量の大きさは解らないがとにかく巨大だ。周囲の山は青空に映えて美しい。だが紅葉を楽しむ場所ではない。このダムはダム工法としても独特らしくダムカードコレクター間でも評...八ッ場ダムは紅葉に燃えているか

  • ジュリー(沢田研二75歳)は健在か ー 映画『土を喰らう十二ヵ月』を観る

    機会があって沢田研二の映画を観てきた。わたしは別にジュリーのファンだったわけでもないし、ヴィーガンでもないが、絵がきれいな映画だということで覗いてきた。ジュリーは老いたが、沢田研二は健在だった(1)。この映画は水上勉のエッセイが原案で、1年前の映画らしい。わたしは小説はほとんど読まないので水上勉は名前しか知らない。主演は沢田研二。75歳。かってのアイドル歌手。アイドルがどのようにして壮年期を乗り越え、そして老年期を迎えるのか、キャリアーの過ごし方に興味があった。映画のストーリ(2)はどうということない。主演の沢田研二もなにか変わったことをするわけでもない。信州の山奥での自給自足生活を24節季を通してきれいに、丁寧に描く、というものだ。水上勉もこういう生活を試みたことがあるらしい。この映画の第一の特徴は映像...ジュリー(沢田研二75歳)は健在かー映画『土を喰らう十二ヵ月』を観る

  • 3年ぶりの教会バザーは盛会だった

    教会でバザーが3年ぶりに開かれた。出店数や出し物はだいぶ数が減ったようだが、それでも3年ぶりの開催ということで大賑わいだった。喫茶室は満室で人が入りきれなかったし、焼きそばはいつも通り一番人気だったようだ。サンパウロも出店していて、来年のカトリック手帳やカレンダーはすぐに売り切れになったようだ。わたしのなかなか手に入りずらい本やクリスマスカードをいくつか購入することができた。神父様や一時滞在中のベトナムからの神学生も信者に囲まれ楽しそうであった。こうしてバザーが開かれてみると、教会がコロナ禍をなんとか乗り越えることができたことが実感できた。【バザー2023の風景】3年ぶりの教会バザーは盛会だった

  • クリミア半島は誰のものか ー ロシアのメンタリティ(2)

    ウクライナに侵攻するロシアの主張の背景として4点指摘されていた。少し見ておこう(1)。①ロシアの被害者意識ロシアの歴史は9世紀のキエフ公国建設に始まり、モスクワ公国に繋がるが、高い山脈や大河のような天然の要害のない大平原に生まれた弱小国で、常に外敵(モンゴル・ポーランド・リトアニア・スウェーデンなど)の侵略と支配を受け、弱小国の被害者意識がロシアのDNAとなった・・・要するに、ロシアは世界最大の領土を有しても常に外敵に襲われるという被害者意識を捨てられないのである(2)。②ウクライナの独立性の問題要はウクライナは独立国だったのかロシアの一部だったのか、と言う話しだ。ウクライナはロシアと同じスラブ民族で、言語も同一ではないが近い関係にある。歴史的にはキエフ公国が先行したとはいえ、ウクライナは長い期間ロシアの...クリミア半島は誰のものかーロシアのメンタリティ(2)

  • カトリックは「ウクライナ戦争」をどう見るか ー ロシアのメンタリティ

    今日は久しぶりに教会の「アカシアの会」(1)に出てきた。この会の毎月一回の例会自体もコロナ禍で永らくお休みだったようで、今日の出席者は10名ほどだった。皆さん高齢者ばかりだがどなたも論客で、楽しくも有益な懇話会だった。今日の話題提供者はSさんで、テーマは「ロシアのメンタリティ」というものだった。わたしはテーマに惹かれて(2)、ロシア正教の正統派と古儀式派の比較の話し(3)かと期待して出かけたが、実際には「ーウクライナ戦争に関連して」というサブタイトルが付加されていて、極めて時事的な話題であった。わたしはこのブログではあまり時事的な話題は取り上げないことにしているのだが、今日はテーマがテーマなので少しカレントなテーマに触れてみたい。Sさんの結論は、「たとえロシアの立場を斟酌したとしても、ロシアのウクライナ侵...カトリックは「ウクライナ戦争」をどう見るかーロシアのメンタリティ

  • 終油の秘跡から塗油の秘跡へ ー 4年ぶりの敬老の集い

    今日は年間第24主日なのだが、「祖父母と高齢者のための世界祈願日」でもあるそうだ。そのうえ明日は旗日(敬老感謝の日)ということで、今日のごミサの中で希望者に塗油の秘跡があった。また、ミサの終了後は敬老の集いが開かれ、記念写真の撮影が行われた。わたしはやっと敬老会に参加できる資格年齢に達したので、今日は皆さんとご一緒できてホッとしている(1)。ミサは病者の塗油の秘跡が入るので普段よりも長かった(2)。塗油の儀式はお説教と信仰宣言の間に挟まれた(3)。秘跡には七つあるとは知ってはいても(4)、塗油の秘跡はあまり考えたことがないので、今日のごミサはありがたかった(5)。ごミサの後、敬老の集いが行われ、80歳以上の方が祭壇の前で記念撮影をした(6)。そのあと日曜学校の子供たちがアーメン・アレルヤなど聖歌を歌ってく...終油の秘跡から塗油の秘跡へー4年ぶりの敬老の集い

  • 500円で購入のジャンクマザーが動いた

    わたしはパソコンの自作のまねごとを趣味の一つとしている。古いノートブックやデスクトップのなかをいじってみたり、ジャンクのマザーボードを入手してパソコンに組み立てたりする。壊しては組み立て、組み立てては壊すの繰り返しが楽しい。cpu,メモリー、電源、ssd、ケースなどはほとんど使い回しだ。先日、ジモティーで近所の方からAsusPrimeH97-proを¥500で譲り受けた。500円だから当然ジャンクだ。ただ、i5-4460に4Gのメモリーが2枚刺さっている。何とかならないかといじり始めた。当初は、起動はしたがBios画面は出ずお手上げ状態だった。半日かけて、メモリーを替えたり、cpuを替えたり、色々やってみた。結局最後はbiosが立ち上がった。ただちにbiosのversionupを施した。LGAは1150で...500円で購入のジャンクマザーが動いた

  • 蔵書整理で廃棄処分のカール・ラーナーとハンス・キュンク

    先日教会の図書室で本棚を覗いていたら驚くべき光景に出くわした。私どもの教会の図書室は図書室といえるほどの独立した部屋ではなく、集会室の壁の一部に本棚が数本置いてあるだけである。とはいえ、この書架には、昔の聖書、カトリック大辞典、資料集、製本された過去の月報、他教会からの会報など重要なものがきちんと整理保存されている。図書室をどの程度充実させるかはその時の主任司祭や教会委員会の意向によって変わるので、時代の変化を知ることもできる。今回、「蔵書を整理するので不要な本を処分します。ご入用の方はお持ち帰りください」との掲示とともに段ボール箱に数十冊の本が放り込まれていた。何気なく覗いてみるとそこにはなんと、「キリスト教とは何か」(カール・ラーナー)、「公会議に現れた教会」(ハンス・キュンク)が無造作に置かれていた...蔵書整理で廃棄処分のカール・ラーナーとハンス・キュンク

  • やられたらやり返せ ー 「僕たちの哲学教室」を観る

    暑い中を映画を見に出かけた。コロナ禍で映画館は避けていたので久しぶりだった。この映画の原題はYoungPlatoだという。「少年プラトン」とか「子どもプラトン」とかいう意味だろう。プラトンとはギリシャの哲学者プラトン(前428-前347)のことである。プラトンのように哲学する小学生という意味のようだ。では何を哲学するのか。結局は、子ども同士のけんかを例にとりながら、「暴力は暴力を生む」(Violencebreedsviolence)という問題を子ども自身に考えさせながら、北アイルランド問題やベルファストの将来を展望させるということらしい。北アイルランドのベルファストにあるホーリークロス男子小学校(HolyCrossBoy'sPrimarySchool)が舞台だ。つまり女の子はこの映画には登場しない。主役は...やられたらやり返せー「僕たちの哲学教室」を観る

  • 96歳の誕生会 ー 信者の鑑からロールモデルへ

    教会の先輩の誕生会に招かれた。96歳の女性の誕生会である。ホテルの一室にお祝いに駆け付けたのは(招待されたのは)4組のご夫婦の方々を含む9名ほどだが、全員戦前生まれだ。つまり80歳代の人々の会食ということになる。楽しい集まりであった。先輩のSさんによれば、誕生会の名を借りてコミュニケーションの場を持ちたいと思ったからだという。彼女は自らパソコンを操り、スマホを操作し、招待状を作られたという。感心するどころか、ただただ驚くばかりだった。これは高齢化が進む今日のカトリック教会の一つの姿であり、印象を少し書き残しておきたい。どこの教会でも見られる姿ではないだろうが、かといって例外的な出来事とも言えないだろう。Sさんは、教会では入門講座を担当しており、また、いくつかのグループをつくって教会のリーダー的役割を果たし...96歳の誕生会ー信者の鑑からロールモデルへ

  • 孫の初聖体を喜ぶ

    今日の「キリストの聖体」の祝日に孫二人が初聖体のお恵みを受けることができた。コロナ禍で延び延びになっていたが、やっとたどり着けたということでホッとしている。孫たちは所属教会が別なので、朝早く雨の中を勇んで出かけた。6名の子供たちが初聖体だった。男女3人ずつだったようだ。初聖体は一応現在は7歳前後ということになっているようだが(1)、今日は小学2年生から5年生までの子供たちだった。コロナ禍はこんなところまで影響を及ぼしているのだろう(2)。ご聖体をいただく前に最初の告解がある。今は罪の赦しというらしい。子供たちはご聖体は待ち遠しかったようだが、告解はなんのことかよくわからなかったようだ。初聖体は秘跡だが、その前に赦しの秘跡を受けなければならない。そのための準備と勉強は子供にとっては大変なようだ。驚いたことに...孫の初聖体を喜ぶ

  • 巨大な浦賀ドックに驚く

    従兄弟が「咸臨丸子孫の会」の関係者ということで「咸臨丸フェスティバル」に初めて顔を出してきた。フェスティバルは要は地元のお祭りで、咸臨丸は浦賀を出港したということだけのことで、お祭りとはあまり関係ないようだった。吹奏楽団が入ってなにか式典がおこなわれていた。従兄弟は幕府遣米使節随伴艦の咸臨丸の測量方(士官)の小野友五郎広胖(1817-1898)の末裔だ。咸臨丸は最初に太平洋を渡った日本の船と言うことで広く知られている。出港は1860年1月のことだったという。勝海舟、ジョン万次郎、福沢諭吉など歴史上の人物の名前は知られているが、小野友五郎も重要な人物だったらしい。測量士というよりは幕末の数学者として知られているようだ。船上での勝や福沢は小野からは頼りなく見えたようだ。わたしは咸臨丸よりは「浦賀ドック」に興味...巨大な浦賀ドックに驚く

  • 知覧・無言館・靖国遊就館・広島平和資料館

    全国旅行支援がもらえるというので鹿児島にツアー旅行にでかけた。旅行代金に1万円の補助と、クーポンが3000円もらえるという誘惑に負けた。天候にも恵まれ、種々の温泉を堪能した。いくつかハプニングもあり、印象深いツアーだった。ツアーの同行者は70歳代の方が中心だったが、戦前生まれの方(ほぼ80歳代)も6組近くおられ、ツアーには珍しく最初から打ち解けた雰囲気が心地よかった。色々なところを廻ったが、結局は知覧の特攻平和会館の印象が強かった。ホテルでの夕食時の話題は多岐にわたったが最後は知覧の印象に戻った。特攻はなかなかセンシティブな話題なので皆さんの話しぶりは慎重だったが、結局は、知覧特攻平和会館と、上田の無言館、靖国の遊就館、広島の平和記念資料館の与える印象との比較の話が多かった。私自身は、どこも訪ねたのは随分...知覧・無言館・靖国遊就館・広島平和資料館

  • 2023年の初ホタルを5月15日に確認した

    2023年度の初ホタルを先ほど1匹確認した。5月15日月曜日午後7時半頃、前の川を一匹飛んでいた。今日は雨模様で天気は悪く、気温も低いので全く期待していなかったが、念のため外を見たら飛んでいた。例年より少し早まっているようだ。上流ではすでに発生しているかもしれない。明日から暖かくなるという天気予報なので、今月一杯はホタルを見られることであろう。【ホタルを初めて観測した日】2023年5月15日2022年5月18日2021年5月14日2020年5月13日2019年5月16日2018年5月15日2017年5月12日2016年5月12日2015年5月17日2023年の初ホタルを5月15日に確認した

  • 愛の抗体 ー エゴはコロナより悪質なウイールスだ (司教ミサと堅信式)

    今日の復活節第6主日は当教会では司教ミサだった(1)。つまり堅信式だった(2)。5人もの方が堅信を受けられた(3)。実に五年ぶりだったような気がする。ごミサに出た人も200人近かったのではないか。久しぶりに元のミサに戻ってきた印象を受けた。現在の信徒数1454名から見れば喜べる数ではないが、U司教さまのご来訪を喜ぶ人たちがよくこれだけ集まったと思う。ミサ後の茶話会も盛大だった。天候が良くなかったので室内での茶話会だったが、司教様や神父様にご挨拶する人の行列が絶えなかった。司教様のお説教は興味深いものだった(4)。今日の聖書朗読の箇所を丁寧に説明なさっていたが、主な話しはコロナ禍後の教会の在り方についてだった。2020年7月に緊急出版されたフランシスコ教皇の『パンデミック後の選択』(5)を下敷きにお話しされ...愛の抗体ーエゴはコロナより悪質なウイールスだ(司教ミサと堅信式)

  • 56歳で叙階の新主任司祭の初ミサ

    今日の復活節第二主日のミサから当教会のミサは元に戻った。コロナ禍をなんとか乗り越えることが出来たわけだ。地区別の分散ミサは終了した。晴天にも恵まれ、実に3年ぶりにすべての地区の信者が集った。今日は恐らく100人を超えたのではないだろうか。今日のミサは新たに赴任された新主任司祭のM師によるものだった。新主任司祭の意向だろうか歌ミサだった。皆が声を合わせて歌うのは久しぶりだった。賛歌をはじめ歌詞や祈祷文が変わったところもあり、オルガンや聖歌隊のリードが印象的だった。献金袋もきちんと以前のように回ってきた(1)。今日の福音朗読はヨハネの20章で、復活したイエスが弟子たちの前に初めて姿を現す場面だ。誰も信じない。イエスは言う。「見ないのに信じる人は幸いである」(29節)。神学的には興味深いシーンだ。師は原稿を前も...56歳で叙階の新主任司祭の初ミサ

  • ご復活を信じなければ司祭にはなれませんよ ー 2023年イースター

    主のご復活おめでとうございます。私の所属教会はまだ分散ミサが続いており、全員が一緒にこのミサに与れたわけではありませんでした。とはいえ、快晴にも恵まれ、多くの方がごミサに集まり、主の復活をお祝いしました。コロナ禍のせいでここ数年見たこともない人数の参加者数でした。ごミサでは続唱やアレルヤ唱は全員で声を出して歌うことが許されました。さすがグロリアは聖歌隊が歌いましたが、会衆が一緒に声を出して歌うのは実に3年ぶりでした。なんだかんだ言ってもマスクはみなさんまだしておられ、歌うといってもマスク越しでなんとも時世を感じさせるものでした。聖歌隊はさすが張り切っておられ、お御堂に歌声が響き渡りました。主任司祭のS師は今日が最後のミサということで、お説教にも熱が入っていました。福音朗読は復活の主日はヨハネの29:1~9...ご復活を信じなければ司祭にはなれませんよー2023年イースター

  • 2023年枝の主日 ー コロナ禍を乗り越えて

    今日は受難の主日(枝の主日)だった。ローソクは4本ともった。まだ分散ミサとはいえ、多くの方が集まった。聖歌が戻った。聖歌隊が歌い、我々も初めて賛歌など声を出して歌った。実に声を出すのは3年ぶりだった。ご聖体拝領もアーメンと唱えることが許された。入堂式(主のエルサレム入城の記念)では神父様が入堂され、棕櫚の枝が祝別された。神父様のお説教も力が入っていた。イエスを歓喜の声を上げて祝った群衆がやがてイエスを十字架につけろと叫ぶ。われわれもこの両側面を持つ存在なのだと言うことを忘れるなと言われているように聞こえた。福島野菜の販売も再開された。徐々にコロナ前に戻りつつあるようだ。いよいよ過越の3日間が始まる。盛大な復活祭を迎えたいものだ。【2023年受難の主日】2023年枝の主日ーコロナ禍を乗り越えて

  • 贖罪論的救済論からの脱出 ー 救済論(3)(学び合いの会)

    Ⅴ中世以降1アンセルムスの充足説中世の贖罪論的救済論は、カンタベリーのアンセルムス(1033-1109)の充足説によって明確な形をとることになった(1)。アンセルムスは、『神はなにゆえに人と成り給うたか』(CurDeushomo?)という著作において次のように述べる。前稿でも紹介したが、繰り返せば、絶対者に対する罪の償いは人間は有限で小さい存在であるゆえに人間には不可能である。神は愛であるから、人間の罪を赦したいと思うが、同時に神は正義であるから、人間の償いを受け入れられない。この矛盾を解決する唯一の方法は、神ご自身が人となって神に償うことである。そのため、キリストが人と成り、十字架上の死を通して人類の罪を贖ったのである。こういう罪中心の救済論はアウグスチヌスの原罪論のライン上にあり、キリストの受難と十字...贖罪論的救済論からの脱出ー救済論(3)(学び合いの会)

  • 贖罪は救済か ー 救済論(2)(学び合いの会)

    Ⅱ旧約聖書ー救済とは約束の成就のこと救済の歴史は旧約から始まる。出エジプトのシナイ山の「契約」がイスラエルの救済史の基本的出来事である。ここに、「約束を成就する」という意味での救済の構造がみられる。つまり、救済とは約束を実現する、という意味がこめられる。この構造は聖書の救済史的考え方の根本になる。神の業は現在も続いており、終末論的に完成すると考えられている。Ⅲ新約聖書ー受肉から贖罪へ新約聖書はナザレのイエスをキリストだと信じる初代教会の信徒たちの信仰告白である。全文書がイエスの救済の業(わざ)をテーマとする。受肉・公生活・受難と死・復活・再臨が救済の業として提示される。特に人類に罪の赦しをもたらす十字架上の死を中心におく。そして十字架上の死は贖いだと考える(1)。こういう贖罪論を示す聖書の該当箇所は枚挙に...贖罪は救済かー救済論(2)(学び合いの会)

  • 救済は教義にあらず ー 救済論(1)(学び合いの会)

    2023年3月の学び合いの会は桜が満開の27日に開かれた。学び合いの会は今回で一応ピリオドが打たれるということで参加者は13名を数えた。テーマは「救済論」である。このテーマの報告は実はこの学び合いの会では2019年6月になされた「キリスト論の展開ーその3」と同じものである。この2019年のテーマ「キリスト論の展開」については同年4月から6月にかけて7回ほどこのブログに書いている。ご参照いただけると嬉しいが、実は報告の視点は前回と今回とではかなり変化している。コロナ禍のせいか、ロシアのウクライナ侵略のせいかはわからない。フランシスコ教皇の日本訪問以降の日本のカトリック教会の姿勢の変化のせいかもしれない。いずれにせよ救済を論じる視点は変化してきているので、ここで改めて報告し直しておきたい(1)。今回の目次は以...救済は教義にあらずー救済論(1)(学び合いの会)

  • コロナ解禁後初の四旬節ミサ

    今日のミサはコロナが事実上3月13日に解禁されたあと初めてのミサであった。四旬節第4主日で、10時のミサは人数制限が大幅に緩和された。私どものこの教会は地区別に9組に別れているが、組は今回新たに大きく2つに分類された。今日は5〜9組の出席が許された。ミサに出席が許されるというのも変な話だが、ミサに預かっても良いというのはありがたいことだ。教会の座席もすべて開放され、誰がどこに座っても良いことになった。参加者は100人くらいはいたのではないだろうか。人数も多かったので整体奉仕者もおられた。マスクは全員がしていた。神父様もフェイスマスクをしてお説教をなさっていた。コロナの全面解除というわけではなさそうだった。それでも久しぶりに他の組の人と一緒にミサに預かれるわけだから、ミサ後のおしゃべりはあちこちで花が咲いて...コロナ解禁後初の四旬節ミサ

  • 映画「大河への道」を観た

    知人に誘われて近くの映画館で映画「大河への道」を観てきた。2022年度の作品らしい。2時間ほどの映画だった。原作は立川志の輔の創作落語だという。200年程前の1821年に完成された日本初の全国地図「日本沿海輿地全」の制作秘話というところか。伊能忠敬は地図完成前に実は死亡していたが、周囲が頑張って完成させたという話だった。佐原の伊能忠敬の話なのでわたしは懐かしさもあって興味を持ってみた。ストーリーは江戸と令和の二つの時代を舞台に展開されていく。歴史ものではない。伊藤忠敬をNHKの大河ドラマに取り上げてもらいたい地元香取市の努力の話しということで、特にどうということはなかった。一緒に行った知人はコミカルで面白かったと気に入っていたようだ。監督がどういう方かは知らないが、出演者たちはどこかで見たことのある顔だっ...映画「大河への道」を観た

  • 傘寿の高校同窓会

    傘寿を共に祝う高校の同窓会に出てきた。高齢社会になったとはいえ(1)、傘寿を名目に同窓会が開かれるとはどういうことかと思い、思い切って顔を出してきた。コロナ禍でどこでもここ数年同窓会は開かれなかったと聞いていたので、よくぞこの時期に集まれたものだ。なんとかコロナ禍も治まりつつあるようで、幹事の皆さんも胸をなで下ろしたことであろう。卒業生全8組400人中70名の出席があったという。約2割だ。この人数が多いのか少ないのかはわからないが、よく集まったというべきであろう。聞くところによれば、コロナ前には米寿を祝う同窓会も開かれたことがあるという。クラス会や仲良しグループでの集まりはあっても、学年全体の傘寿や米寿の同窓会は珍しいのではないか。これが小・中学の同窓会ではなく、高校の同窓会というのが面白い。日本の同窓会...傘寿の高校同窓会

  • ルター派神学は保守的か ー ルターの宗教改革(4)(学び合いの会)

    Ⅳ教会改革運動の分裂1霊的熱狂主義の出現ルターには両側に敵がいた。右側にはローマに従う伝統主義者たち、そして左側には霊的熱狂主義者たちである。特に左側の敵は危険な存在であった。すでに1522年にヴィッテンベルクで熱狂主義的な混乱、騒乱、画像破壊運動がルターの名前を引き合いに出して広がり始めていた。熱狂的な宗教的主観主義、個人的啓示、聖霊体験(内的な声・内的な光)などの過激な運動が起こった。それらはルターにとって危険な存在であった。やがてルターのライバルとなっていく司祭トマス・ミュンツアー(1489−1525)(1)は教会改革が社会改革の理念と結合し、必要とあれば暴力で改革を貫徹すべきだと主張した。2上からの改革政治的にはルターは「上からの改革」という展望に囚われていた。ミュンツアーにかぎらずエンゲルスもブ...ルター派神学は保守的かールターの宗教改革(4)(学び合いの会)

  • ルター・ルネッサンスとルターの評価 ー ルターの宗教改革(3)(学び合いの会)

    Bルターをどう評価すべきかかなり大仰な表題だ。ルター・ルネッサンスというので、きっと1917年の宗教改革400周年事業と、2017年の宗教改革500周年事業の比較の話かと思った(1)。ところがそうではなかった。ここは先だって亡くなったハンス・キュンクの『キリスト教思想の形成者たちーパウロからカール・バルトまで』(1994邦訳2014)の第5章「マルチン・ルター」の要約的な紹介であった。この章は12節からなるが、ここでは第9節から第12節までが取り上げられている。小笠原師のキュンク理解の特徴がわかるものである(2)。Ⅰルターの正しかった点1ルターの出発点は新約聖書の文書である。ルターの神学ー「ただ恩寵によってのみ・ただ信仰によってのみ・同時に義人であり罪人ーは「新約聖書をその背景に持っている」。①義認論はパ...ルター・ルネッサンスとルターの評価ールターの宗教改革(3)(学び合いの会)

  • ルターは悪魔の存在を信じていた ー ルターの宗教改革(2)(学び合いの会)

    Ⅱルター思想の基礎となった種々の要因3ルターの個人的苦悩の問題と悪魔の存在①ルター思想の原点は極めて個人的なものであった。つまり自分の救いの問題であった。ルターは極端な個人主義者で、救いを実感しないと満足しない完璧主義者でもあった(1)。②ルターは当時の悪魔信仰を持っていた。悪魔の存在を信じる世界観の中に生きていた(2)。ルターは生涯に渡って様々な病気に苦しみ(痛風・不眠症・カタル・痔・便秘・結石・目まい)、それを悪魔の仕業とみなした。ルターは悪魔の存在を当然のこととみなし、その現実性を強調した。実際、かれは自分の悪魔体験を書き記している。ヴァルトブルク城で深夜に悪魔がクルミを落とす音を聞いた。そして部屋の隅にいる悪魔にインク壺を投げつけたという。かれほど生涯に渡って悪魔を意識し続けた神学者はいない。だが...ルターは悪魔の存在を信じていたールターの宗教改革(2)(学び合いの会)

  • ルターは敵か仲間か ー ルターの宗教改革(1) 学び合いの会

    2023年2月の学び合いの会は晴天のもと、まるで春が来たかのような温かい日に開かれた。まだマスクはとれないが、10名の方が集まった。今回はルター論である。M・ルター個人を論じるのか、ルター派を論じるのか、その区別は明確ではなかった。カトリック教会とルター派との微妙な関係が反映されたためかもしれない。表題の「ルターは敵か仲間か」はちょっと大袈裟で気が引けるが、これは私個人がつけたもので勉強会で用いられたものではない。とはいえ、この表題には2つの意味を込めている。一つは、ドイツ農民戦争(DeutscherBauenkrieg1524~25)のなかで農民から見てルターは仲間だったのか、敵だったのか、という意味にもなるし、もう一つは、ルター・ルネッサンスとエキュメニズムの流れのなかで生まれた1999年のバチカンと...ルターは敵か仲間かールターの宗教改革(1)学び合いの会

  • エックハルトはキリスト教の趙州従諗か ー 仏教概論(13)(学び合いの会)

    ここでは、上田閑照氏の「禅と神秘主義」という論文が紹介される(1)。この論文は、西洋思想の中では禅の思想に最も近いと言われるエックハルトを禅と比較し、両者の異同を明らかにした試みだという。つまり、エックハルトと趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)を比較して、キリスト教神秘主義と禅がどこで類似していて、どこが異なるのかを、明らかしようとする。【趙州従諗】【マイスター・エックハルト】Ⅲ禅と神秘主義1趙州従諗の問答趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)とは、中国の9世紀の禅僧である。中国の唐の時代の大禅匠(最も偉い高僧)と呼ばれるようだ。趙州の禅問答は前回すでに紹介したが、もう一度見てみよう。「如何是祖師西来意庭前柏樹子」(如何なるか是れ祖師西来意庭前の柏樹子)意味は、祖師(達磨大師)がインドから中国に来た目的や意義...エックハルトはキリスト教の趙州従諗かー仏教概論(13)(学び合いの会)

  • エックハルトは異端か ー 仏教概論(12)(学び合いの会)

    Ⅱ神秘主義1神秘主義とは何かここでは、キリスト教神秘主義の歴史、その定義、論争などが紹介された。議論の焦点はドイツ神秘主義であり、エックハルトの評価であった。キリスト教神秘主義の定義はトマス・アクイナスを持ち出すのが常道らしいが(神の体験的認識cognitoexperimentalis)、要は、神秘主義では、信仰を前提として、神を、分析的にではなく直観的に、認識することを意味するようだ。信仰が前提であること、直観的であること、が強調される。このように神秘主義とは本来はキリスト教に固有の概念なのだが、実際には、他宗教にも神秘主義が見いだされるというのが今日の我々の理解だ。キリスト教の独占物ではない。なぜか。なぜ他宗教にも神秘主義が見いだせると考えるようになったのか。それは、キリスト教では神秘主義は神からの賜...エックハルトは異端かー仏教概論(12)(学び合いの会)

  • 禅は神秘主義思想だ ー 仏教概論(11)(学び合いの会)

    2023年1月の学び合いの会は大雪が予報された厳寒のなかで開かれた。コロナ禍第8波のなかマスク解禁も取り沙汰されるも、お集まりの皆さん10名は全員マスクをしておられた。今回は仏教概論の第4回目で、タイトルは「仏教とキリスト教ー禅と神秘主義」となっている。内容は、禅の話と、神秘主義思想の話、「禅と神秘主義」という上田閑照氏の論文の紹介である。実はこのレジュメは2018年5月のこのブログですでに報告してある。内容を再度繰り返すのもおかしいので、ここではこの報告を聞いた私の個人的印象をコメント風に少し記してみたい。本報告の論点は、結局は、禅は宗教ではなく神秘主義思想である、というものだ。宗教や神秘思想をどう定義するかで変わるので限定的な命題だが、キリスト教との対比でいえばわかりやすい命題のように思える。というか...禅は神秘主義思想だー仏教概論(11)(学び合いの会)

  • 禅は宗教にあらず ー 仏教概論(10)(学び合いの会)

    Ⅷ仏教とキリスト教ここでは、カトリック大辞典に依拠しながらキリスト教と仏教の比較がなされた。と言っても全く異なる宗教なので比較は難しいというのが共通理解であった。そこで、話は主にキリスト教と仏教の「創始者と教え」の比較に集中した。そうはいっても、キリスト教の創始者は誰か、は難しい問題だ。同じことは仏教、特に大乗仏教についてもいえるだろう。そもそも創始者という問題の立て方自体が成立しないともいえる。報告の詳細は2018年3月の本ブログ記事をご参照いただきたい。結局は、イエスとシッダルタ(釈迦)の比較の話になるのだが、イエスは神の子であり(つまり人間)、シッダルタは、先の「三人のブッダ」説を採れば、ブッダの一人(人間)である、ということになる。この種の義論は、歴史のイエス論、歴史的釈迦論につながり、信仰のイエ...禅は宗教にあらずー仏教概論(10)(学び合いの会)

  • ブッダは3人いる ー 仏教概論(9)学び合いの会

    Ⅶ日本仏教の各宗派ここでは日本仏教の各宗派の誕生の背景とその教義の特徴が紹介された。仏教関連の書物では、仏教の説明は、宗派の説明が中心になるか、教祖の説明が中心になるか、に分かれるようだ。思想別に見ていく(例えば華厳系、密教系、浄土系など)こともあるようだし、教義別で見ていく(例えば華厳経系、般若経系、法華経系など)こともあるようだ。仏教学界でどれが主流なのかは知らないが、わかりやすいのは宗派別と教祖別の説明だろう。①宗派別の説明配布された第一の資料は「日本の宗教史」と題されていた。出典は不明だが、よく見る整理の仕方だ。「神仏習合→国家神道→政教分離」と言う流れでの歴史的説明が中心だった。【日本の宗教史】こういう説明の仕方はあまりにも教科書的で、内容に踏み込んだ議論が同時になされているケースが少ない印象を...ブッダは3人いるー仏教概論(9)学び合いの会

  • にわかサッカーファンの仏教論 ー 仏教概論(8)(学び合いの会)

    昨日の夜中のW杯を観戦した。アルゼンチンがフランスを破って優勝した。わたしはにわかサッカーファンなのでどちらかを応援するほどの知識は無い。フランシスコ教皇様の母国と言うことでなんとなくアルゼンチンを応援していた。教皇様は2019年の来日の折に広島で「自分はサッカーが下手だから教皇になった」と冗談めかしておっしゃったそうで、サッカーファンらしい。【フランシスコ教皇とマラドーナ】それにしてもペナルティーキック合戦でのW杯王者とは劇的な幕切れだった。PK戦とはなにかと考えさせられた。日本代表も同じ憂き目に遭ったからだ。なにかサドンデスみたいにどちらかが得点するまで戦わせるのは選手に対して酷すぎるのだろうか。サッカーは、ラグビーとは異なり、歴史的には労働者のスポーツとして生まれたと聞く。ルールを決める視点が独特な...にわかサッカーファンの仏教論ー仏教概論(8)(学び合いの会)

  • 映画「PLAN75」を観てきた

    機会があって映画「PLAN75」を観てきた。この6月に公開されたばかりの映画だという。カンヌ国際映画祭カメラドール特別表彰の作品とのこと。監督は早川千絵さん、主演は倍賞千恵子さん。2時間近い長編映画だった。鑑賞後の第一印象は後味の悪さだった。映画だから、フィクションだからと言えばそれまでだが、なんとも気持ちの晴れない映画だった。まるでノンフィクションのようだ。冒頭の銃殺事件。まるで安倍元首相暗殺事件や相模原障害者施設殺傷事件を想起させるようなシーン。しかも背景の音楽はピアノだ。かといって後のストーリーにつながっているわけではなさそうだった。映画全体としても何を言いたいのかよくわからなかった。各自お考えください、なのだろうが、後味の悪さだけが残った。安楽死(尊厳死ではない)をテーマにした高齢化社会批判と言え...映画「PLAN75」を観てきた

  • 「いずも」の巨大さに驚く ー 「横須賀のりものフェスタ」

    「いずも」の艦内を見学してきた。「横須賀のりものフェスタ2022」が3年ぶりに開催されるというので行ってみたら、海上自衛隊基地も一般公開されていた。そして「いずも」の艦内の一部が公開されていた。行ってみて、とにかくその巨大さに驚かされた(1)。写真は上下する昇降機から見た艦橋である。【昇降機から見た艦橋】「いずも」は「ヘリコプター搭載護衛艦」と言われるようだ。護衛艦がどういうものか、何を護衛するのか、は良く知らない。ただ、destroyerと説明されていたので駆逐艦のようなものらしい。といっても、憲法上、自衛隊は軍艦は持てないので護衛艦という曖昧な名称を使っているようだ。日本独自の、国内向けの用語らしい。ただ素人から見ると、どう見ても航空母艦だ。カタパルトはまだついていないからヘリ空母と言われるらしい。大...「いずも」の巨大さに驚くー「横須賀のりものフェスタ」

  • 大乗経典は般若経と法華経に尽きる ー 仏教概論(7)学びあいの会

    今朝はW杯で日本を応援するために朝4時に起きた。2:1の逆転勝利にキーボード上の指が今でも震える。こういうことが起こりうるのだ。日本代表を讃えたい。今回も、報告内容の概要紹介は2018年2月のブログの繰り返しになるのであえてふれない。ここでは引き続きコメント風に私見を書き連ねてみたい。今回のポイントは、大乗仏教には無数の経典があるが、結局は般若経と法華経に尽きるという点だ。浄土教は別世界の話になる。Ⅵ大乗経典ここからは大乗経典の話だ。主な大乗経典である、般若経・法華経が紹介される。さらに、観音経、維摩経、華厳経、浄土三部経、涅槃経、大日経が紹介される。このようにお経をずらずら紹介されてもおのおのがどう違うのか、どれが大事なのか、予備知識がないとさっぱり解らない。大乗経典は3000種類以上あると言われる。と...大乗経典は般若経と法華経に尽きるー仏教概論(7)学びあいの会

  • 顕教か密教か ー 仏教概論(6) 学びあいの会

    Ⅴ様々な仏教(浄土教・禅宗・密教)第5章は基本的には大乗仏教の分類論だ。報告の詳細は2018年2月のブログに載せてあるので、ここでも私見をいれながら報告へのコメントをしてみたい。今回のポイントは、日本仏教では浄土教の影響が圧倒的に強いということ、そして禅宗は信仰ではなく修行方法だから仏教の一つと見なさなくとも良いのではないか、という点だ。1顕教と密教仏教の各宗派をどのように分類・整理するのかは定説はないようだ。上座部仏教・大乗仏教との分類がよく見られるがどこまで定説なのかはわからない。日本仏教を見ても、奈良仏教・平安仏教・鎌倉仏教と時代別に分類したり、13宗派56派とわけたり、ご本尊別に分類したりもするようだ。浄土宗系・禅宗系という分け方もあるようだ。伝統宗教・新興宗教・新新宗教という切り方もあるようだ。...顕教か密教かー仏教概論(6)学びあいの会

  • 釈迦からブッダへ ー 仏教概論(2) 学びあいの会

    アドヴェント(待降節Advent)が始まった。昨日のごミサでは4本中最初のローソクに灯がともされた。4週間後のクリスマスまで一本づつローソクに灯がともっていく。家ではアドヴェント・クランツ(リース)を飾った。街中では、楽しいのは子どもだけではなく、大人もクリスマス・ショッピングで忙しい期間だ。11月の学びあいの会は寒さが戻った曇天の中で開かれた。昨日のワールドカップでの日本代表の思いがけない敗戦の翌日と言うことで、集まりは寂しかった。仏教概論の二回目である。テーマは仏教の歴史的展開と諸宗派の比較の話だった。ポイントは、釈迦の仏教がブッダの仏教、大乗仏教に変化していく過程を知ることだ。今回の講義の要旨は既に2018年2月17日のブログに載せてあるので繰り返さない。ここでは主要な論点だけをピックアップして私見...釈迦からブッダへー仏教概論(2)学びあいの会

  • 「またあなたとともに」が始まる ー 待降節・新年・A年

    今日から待降節が始まった。教会暦でいえば新年が始まった。聖書朗読は今年はA年で、主にマタイが読まれる。B年のマルコ、C年のルカに較べると何か難しい。今日のミサから「新しいミサ式次第」が実施された。新形式による初めてのミサである。私どもの教会ではまだ地区ごとの分散ミサが続いているが、私の組は幸運にも今日の朝10時からのミサに割り当てられた。出席者は多かった。50人くらいはおられたであろうか。新しい「ミサの式次第(会衆用)」が配られた。横浜教区発行のものだ。各人が氏名記入の上持ち帰るように指示された(1)。ごミサそのものは何の混乱もなく無事挙げられた。司祭や司会者に若干の言い間違いはあったが、なにぶん練習なしのぶっつけ本番なのだから致し方ない。【ミサの式次第】新形式の式次第は、内容を細かく見ると大分変更点があ...「またあなたとともに」が始まるー待降節・新年・A年

  • 奥只見の紅葉にみた全国旅行支援

    コロナもほとぼりが冷めたようなので奥只見湖とドラゴンドラに紅葉旅行を楽しんできた。険しい場所らしく自分でクルマを運転しては行けそうもないところらしいので諦めていたが、ツアーがあったので思い切って申し込んでみた。奥只見湖の紅葉は評判に違わず素晴らしい景色だった。俳句や絵心でもあればこの感動を表現できるのだろうが、無趣味で不器用な自分はただ息を飲み込むだけだった。苗場ドラゴンドラは紅葉もさることながらゴンドラの設計にも圧倒された。聞きしに勝る景観だった。【苗場ドラゴンドラから】外国人観光客もちらほら見られた。コロナによる3年にわたる長い蟄居期間からやっと解放されるのだから、観光地はどこも高齢者の観光客で一杯だった。コロナと言えば、全国旅行支援なるものが急遽実施され、旅行は様変わりだ。我々の今回のツアーは、この...奥只見の紅葉にみた全国旅行支援

  • 無粋な自分にあきれる ー 映画「ドライブ・マイ・カー」を観た

    映画「ドライブ・マイ・カー」を観てきた。3時間の長編だった。中休みがあったが、年寄りにはつらい。観客はほとんど高齢者、しかも女性。村上春樹原作だからだろうか。わたしは村上春樹はほとんど読んだことがないので予備知識ゼロだった。2021年のカンヌ国際映画祭の作品賞など賞をたくさんもらった映画らしいという程度の知識だった。映画が終わった直後の印象はこれは宗教映画なのではないか、というものであった。なにか宗教的なシーンが出てくるわけではないが、映像の余韻は宗教的だった。ストーリーとしては、妻に死なれた主人公の苦しみと立ち直りを描いているのだが、無神論者の宗教性みたいなものを描いているような印象を受けた。チェーホフの「ワーニャ伯父さん」が劇中劇だからかもしれない。この映画の評価は日本国内より海外で高いのはそのせいで...無粋な自分にあきれるー映画「ドライブ・マイ・カー」を観た

  • 日本仏教は大乗仏教の形骸か完成か ー 仏教概論(4)

    Ⅲ修行生活と教団第3章は「修行生活と教団」と題されているが、教団論ではない。修行という出家の生活様式の話である。在家の話ではない。出家の話だ。サンガ(僧伽)は出家した修行者の集団、いわば共同体だ。修行についての考え方の変化が仏教の日本化を進め、現代日本の葬式仏教という特有の仏教の形態を生み出しのではないか、というのが私の仮説だ。インドでも中国でも仏教は衰退したと言われる。現代日本の仏教を葬式仏教と呼んでよいのなら、葬式仏教は形骸化した大乗仏教なのだろうか。それとも、大乗仏教は日本でこそ葬式仏教という形で一つの完成形に辿り着いたと言えるのだろうか(1)。修行(spiritualexperience)とは何らかの宗教体験を通して自分の信仰を強めることだと考えるのなら、どの宗教にも修行のようなものは有るのだろう...日本仏教は大乗仏教の形骸か完成かー仏教概論(4)

  • 教義は輪廻と空 ー 仏教論(3)

    第2章は「仏教の教義」と題されている。仏教にはいわゆる共通の教義はないとよく言われる。これは褒め言葉で使われる場合と、蔑称だったり、また自ら卑下して使われる場合もある。教義を教理とは区別された概念とするなら(1)、仏教のすべての宗派に共通の教義はないと言えそうだ。教理として考えるなら、仏教の各宗派(原始・大乗・小乗・浄土・密教・禅など)ごとに議論せざるを得なくなる。我々が目にする仏教の解説書はほとんど各宗派の教理論であり、その比較であるといえそうだ。ここではあえて、宗派にとらわれずに、小乗の「輪廻」論、大乗の「空」論を教義に近いものとして考えてみる(2)。シーダルタ(シャカ)の輪廻論(縁起論)からナーガールジュナの空論へという展開の中で仏教の教義の変化・発展を無理矢理整理してみる。1輪廻説をシーダルタの教...教義は輪廻と空ー仏教論(3)

  • 知ってそうで知らない仏教 ー 仏教概論(2)

    「はじめに」での問いは「なぜ仏教を学ぶのか」であった。報告では4点が指摘された。①現代は「諸宗教の神学」の時代だから②仏教はキリスト教、イスラームとならぶ世界三大宗教だから③仏教が日本の精神文化に与えた影響が大きいから④仏教研究を通してキリスト教信仰を再確認したいからどれももっともな理由だが、それ以上ではない。現代日本の仏教は「葬式仏教」として我々の目の前にある。普遍宗教だというが、日本が乗り越えなければならない諸問題、たとえば財政破綻について、ウクライナについて、コロナについて、津波と原発事故について、なにかを語っているわけでもない。一人一人の人間の苦難と救いについて手がかりを与えてくれているわけでもない。キリスト教やイスラム教ではそれが出来ているというわけではないが、仏教はなぜか静かに佇んでいる。葬式...知ってそうで知らない仏教ー仏教概論(2)

  • 旧統一協会は3大異端のひとつ ー 仏教概論(1)

    2022年10月の「学び合いの会」は肌寒い10月末に開かれた。急に寒くなったので出席者も少なかった。テーマは「仏教概論」である。わかったようでわからない仏教について素人なりに学んでみましょうということのようだ。なぜこの時期に仏教概論をとりあげるのか。明示はされなかったけれど背景に旧統一協会問題があることはみなわかっていた(1)。旧統一協会はキリスト教では異端である(2)。だが、旧統一協会問題は宗教問題でもあると同時に政治問題でもあるのでカトリック教会内ではなかなか表だっては話題にしずらい。そこで補助線を引いてみる。仏教にはなぜ異端がないのか。仏教は拡大・拡散するだけでなぜ異端が生まれないのか。今回のテーマである仏教概論は実は2018年の学び合いの会ですでに取り上げられたものである。1月から数回にわたって学...旧統一協会は3大異端のひとつー仏教概論(1)

  • 煉獄と浄化 ー 終末論(了)(学び合いの会)

    Ⅳ教義史的観点1世界史的次元聖書の終末論、すなわち神の国の使信は教義史の中で受けつがれていった。アウグスチヌスの「神の国」(413~26)は特に大きな影響を与えた。「神の国」によれば、世界史の起源と目標は、神と、時間を超越した永遠の意志の中にある。歴史とは、創造と終末の完成という二つの極の間の巡礼の旅に他ならない。信仰か不信仰かの決断だけが、歴史を神学的に評価する基準となる。そこには、二つの国、つまり「神の国」(civitasDei)と「地上の国」(civitasterrena)という理念がある。神の国は、神によって回心させられ、神の愛に生きる人々によって構成される。地上の国は自己愛にこもり、神によって解放されることを受け入れない人々によって構成される。この二つの国は歴史の中では分かれがたく存在している。...煉獄と浄化ー終末論(了)(学び合いの会)

  • 旧約と新約が描く個人の終末とは ー 終末論(3)(学び合いの会

    Ⅱ-3旧約時代の死後の観念以上はイスラエル民族または人類全体の終末についての旧約の考え方であるが、人間個人個人の終末または死についての考え方を以下の通りにまとめてみた。もともとユダヤ教の伝統は神とイスラエル民族全体との結合(つまり契約)がテーマであり、古代イスラエル人は個人の死についてはあまり問わなかった。旧約聖書全般では、長生きすること・富と子宝に恵まれること・社会的地位や名声を得ることが、人生の目的とされた。人間は死ぬと、シェオール(よみ黄泉、新共同訳では陰府)に下り、地上との関係のみならず神との関係も絶たれ、悦びも希望もない陰のような存在になると考えられていたようだ。知恵文学以外で死者の希望を語るものはまれだという。死後の「報い」について語るのは「知恵の書」だけである。だが、捕囚期以降、個人の死が問...旧約と新約が描く個人の終末とはー終末論(3)(学び合いの会

  • 終末に審判はあるのか ー 終末論(2)(学び合いの会)

    Ⅰ終末論の概念終末論eschatologia(ラ)eschatology(英)とは、最終の事柄(終末)に関する論述のこと。「時間の終わり」または「救いの完成」について(1)聖書が述べていることを吟味する神学的作業をさす。伝統的なスコラ神学では、終末論のテーマは、一方では個々の人間の死の後に起こる私審判、煉獄、天国、地獄という出来事を指し、他方では、世界の歴史の終わりの出来事、つまり、キリストの再臨、死者の復活、公審判を指していた。だが、20世紀半ばにカトリック神学に起こった人間学への接近により、終末論は「死についての神学」と位置づけられるようになる。人間の、生きている間になされた自由意志に基づく決断が、死に臨んで徹底的なものになると考えるようになる(K・ラーナー、ゼメロート)(2)。第二バチカン公会議で現...終末に審判はあるのかー終末論(2)(学び合いの会)

  • 「審判」論から「完成」論へ ー 終末論(1)(学び合いの会)

    2022年9月の学び合いの会は、台風一過、秋晴れのもとに開かれた。すがすかしい空気のもとで参加者も増え、10名はおられたようだ。今回のテーマは終末論である。カトリック神学のなかで「神学的人間論」のテーマで言えば、神論・創造論・原罪論・恩恵論に続く最後のテーマとなる。永らく誰も触れたくないテーマだったが、21世紀に入って終末論への関心が世界的に高まってきているという。昨日は年間第26主日(C年)で、福音朗読はルカ16:19-31だった。ラザロとファリサイ派の金持ちの話である。陰府の場面が出てくるからだろうか、YouTubeで与ったイグナチオ教会のミサでは神父様(日本人)はお説教でしきりに「今はお彼岸だからお墓参りしましょう」と言われ、彼岸・此岸の比較と「浄め」の説明をしておられた。言いたいことはわからなくも...「審判」論から「完成」論へー終末論(1)(学び合いの会)

  • 「新しいミサ式次第」の準備

    2022年9月24日(土)に梅村昌弘司教を講師とするカテキスタ会の公開講座(第24回)が雪の下教会で開かれたようだ。わたしは急用で出席できなかったが、90名ほどの出席者があったという。いずれ詳しい報告がなされるだろうが、新しいミサ式次第がすぐに始まる。横浜教区典礼委員会はその冊子「典礼の風」(No.27)などで周知を図っているようだが、わたしの所属教会ではこの冊子すら配布されず、神父様もお説教で11月からミサが変わることに一言の言及もない。さすが来月にはミサの練習がおこなわれるだろうが、他教会では準備が始まっているところもあると聞く。コロナ対策でミサは相変わらず地域割り・名簿順割が続き、練習どころではないのかもしれない。横浜教区典礼委員会は「新しいミサ式次第」の研修用動画を公開しているので大体の様子はわか...「新しいミサ式次第」の準備

  • 恩恵論は予定説を超えたか ー 恩恵論4(了)(学び合いの会)

    Ⅳ恩恵の教義カトリック教会の恩恵に関する教義は以下の通りである。①ペラギウス論争(1)の結果、救いのためにはキリストの恩恵が前提で、救いの恩恵は神から無償で与えられている(484年のカルタゴ教会会議、529年の第2回オランジュ教会会議)②トリエント公会議の「義化の教令」は、神の恩恵と人間の協力(善行)の必要性を説き、恩恵によって実現される人間の内的変化の現実性を強調した③ヤンセニズムとの論争の結果、ピウス5世、イノケンチウス10世、アレキサンドル8世、ピウス6世は、キリストの救いが特定の人に限定されるという考えを排斥した。④第二バチカン公会議はキリストと聖霊の恩恵の働きの普遍性を教示した。キリスト教徒以外の者にも恩恵があるとした(現代世界憲章第22項「新しい人キリスト」、教会憲章第16項「キリスト教以外の...恩恵論は予定説を超えたかー恩恵論4(了)(学び合いの会)

  • ペラギウス論争からヤンセニズム批判まで ー 恩恵論3(学び合いの会

    Ⅲ教義史恩恵論は古代・中世から宗教改革に至るまでの激しい論争の中で整備されてきた。近代神学・現代神学の中で論争はさらに激しくなるが、ここでは主な恩恵論の発展を要約する。1古代①教父たちの恩恵論の共通点古代ギリシャ・ローマ世界では二つの救済論が支配的であった。一つはストア的禁欲主義の救済論(1)。もう一つは密儀宗教の秘密の儀式による救済論だ(2)。古代教父たちはこれらの汎神論的救済観念や、人間と神の本性の区別を軽視した哲学思想を否定した。古代教父たちは、神の超越性を主張し、神の恩恵によりイエス・キリストを通して救われることを強調した。他方、教父たちは、ストア派を批判しながらも、逆に倫理を軽視した運命論に対しても批判を展開し、神の恩恵なしには救いはなく、恩恵を受け入れ、実らせること以外に救いは無いと主張した。...ペラギウス論争からヤンセニズム批判までー恩恵論3(学び合いの会

  • 「贖い」と「償い」が区別できない現代の日本人 ー 恩恵論2(学び合いの会)

    Ⅱ聖書1旧約聖書①神の恵みという考え方は、旧約聖書においては世界創造の物語の中ではっきりと示されている(創世記1ー2,知恵の書11:24-26)「あなたがお造りになったもので、あなたが忌み嫌うものは何一つない。憎んでおられるのなら、造られなかったはずである・・・」(知11:24)②さらに、アブラハムの選びと祝福の中でも示される(創12:3)(1)「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う人をわたしは呪う・・・」・小さな民族イスラエルの「選び」によっても明らかにされる。(申7:7)。・神の慈しみは人間の罪を超えて、人を神と和解させる。罪を悔い改める民を神は赦す(エレ31:20)。・もともと神はその義のゆえに正しい人に報い、罪人を罰すると言われる。しかし後に、神の義はすべてのイスラエルの罪を赦し、民を...「贖い」と「償い」が区別できない現代の日本人ー恩恵論2(学び合いの会)

  • 恩恵論はカトリックとプロテスタントの分断の源か ー 恩恵論1(学び合いの会)

    2022年7月の学び合いの会は、第7波に入った新型コロナ感染拡大の中で開かれた。猛暑とコロナのせいで参加者は10名ほどのいつものの顔ぶれであった。今回は神学的人間論の第3弾としての恩恵論である。神学的人間論は創造論、原罪論と検討してきたので、残るは恩恵論ということになる(1)。恩恵論は伝統的には「救済論」として論じられてきた(2)が、救済論というカテゴリーはキリスト論と恩恵論(秘跡論)を含むので、現在の神学教育では別のコースとして設けられているようだ。現代の恩恵論の課題は明確だ。現代社会を支配する能力主義・業績主義・理性中心主義は様々の問題点を産みだしていることは誰もが認めているが、それを乗り越える視点を、自己決定する主体(自分自身)ではなく、「恩恵」(恩寵・聖寵・恵み)に求める試みを明確化することのよう...恩恵論はカトリックとプロテスタントの分断の源かー恩恵論1(学び合いの会)

  • 特別展「発掘された日本列島2022」に驚く

    特別展が終わるというので昨日思い切って埼玉県立博物館(歴史と民俗の博物館)を訪ねた。文化庁主催の全国巡回展だそうだが、内容の素晴らしさに驚いた。上野の国立博物館でなぜ展示しないのだろうと思うほどの特別展だった。わたしは、発掘だの古墳だの遺跡だのという考古学には全くの音痴だが、近年の日本の考古学上の発見が、われわれが昔学校で習った昔ながらの縄文・弥生・古墳時代の観念を覆すほどの大発見が続いていると言うことは側聞していた。縄文時代にも稲作がおこなわれていた地域・時代があったらしいなどという話をどこかで聞いたことはある。どういうことなのだろうと思い、はるばる時間をかけて大宮まで行ってみた。行ってみて驚いた。展示物の多様さ、説明のわかりやすさ、全国的視点からの出土品の相互比較など、準備がよくなされていたことがわか...特別展「発掘された日本列島2022」に驚く

  • 現代日本人の罪理解(2) ー 原罪論8(了)(学び合いの会)

    4日本人の罪の意識R・ベネディクトにならって日本文化における「恥の文化」はユダヤ・キリスト教文化における「罪の文化」と対比されることが多い(1)。恥の文化の特徴は各自が自分の行動に対する世間の目を強く意識していることとされる。日本人にとって恥の意識が最重要の地位を占める。罪の文化の基礎は「罪責性」であるのにたいし、恥の文化のそれは「羞恥心」である(2)。恥の文化においては罪を告白するという習慣はない。伝統的日本文化において、「恥と穢れ」はキリスト教文化における「罪責性と悪」に対応するといえよう。【『菊と刀』】5罪理解を巡る今日の問題①宗教的空白という現実現代日本における宗教的空白の要因はさまざまであろうが、その一つは、折衷主義的な日本仏教各宗派が惰性化し、葬式仏教化していることにある(3)。各宗派は組織化...現代日本人の罪理解(2)ー原罪論8(了)(学び合いの会)

  • 現代日本人の罪理解(1) ー 原罪論7(学び合いの会)

    Ⅸ現代日本人の罪理解ここからは原罪論の補足として、日本人の罪意識、罪理解を考えてみる。小笠原優師は『信仰の神秘』のなかでこう問う。よくわれわれは、「聖書がいう罪とは何のことかよくわからない」という言葉を聞く。どういうことか。日本人は「罪深い」とか「罪づくりな事をする」など、罪という言葉をよく使う。ありふれた言葉だ。これは、法律に背いているという意味でcrime(悪事)のことかもしれないし、「人様に迷惑をかけた」という意味でのshame(恥)のことかもしれない。その意味する範囲は広そうだ。なぜか。現代の日本人の罪理解には様々な歴史的要素が混入しているからだろう。土俗宗教、神道、仏教、儒教などの影響を挙げられそうだ。1神道的要素①罪とは規範や秩序を乱す行為のことをいう(天つ罪・国つ罪)(1)近親相姦・獣姦・呪...現代日本人の罪理解(1)ー原罪論7(学び合いの会)

  • 現代神学の原罪論の方向 ー 原罪論6(学び合いの会)

    Ⅵ公式教義への批判1世界観の変化トリエント公会議時代の世界観と今日支配的な世界観の間にはギャップがあり、そこから問題点が浮上してくる。トリエント公会議の教義の原則は以下のようなものであった。①創世記の物語は歴史的事実で、アダムは歴史上の人物である②人類の起源は一つである③原罪は、模倣によってではなく遺伝によって伝わる④原罪は一人一人に固有なものとして内在する(幼児にも原罪はある)このような教義に対して次のような問題点が指摘された。①今日の聖書学によれば、創世記の人祖の物語は歴史的事実ではない②今日の科学の示すところによれば人類の起源は一つではない③アウグスティヌスは原罪は遺伝する罪だと考えたが、他の教父たちには遺伝という考えはなかったこのような批判は、研究の成果の表れではあるが、世界観の変化をも反映してい...現代神学の原罪論の方向ー原罪論6(学び合いの会)

  • トリエント公会議のカノン ー 原罪論5(学び合いの会)

    Ⅴトリエント公会議の原罪の教義1五つのカノントリエント公会議(1545~1563)(1)の原罪論は、第5総会の「5つのカノン」で表明された(2)。①第1カノン(DS1511)人祖アダムが楽園で神の掟に背いた結果、聖性と義を失い、神の怒りを買い、死を招き、悪魔の勢力に与することになった。②第2カノン(DS1512)アダムの罪と罰は彼だけではなく、その子孫である全人類に及ぶ。③第3カノン(DS1513I)アダムの罪は起源が一つであり、遺伝によって伝えられる。この罪はイエス・キリストの功績と洗礼によってのみ取り除かれる。④第4カノン(DS1514)自身の罪のない幼児も原罪を免れ得ないのだから、洗礼を受けなければならない(幼児洗礼の肯定)(3)⑤第5カノン(DS1515)洗礼によって原罪が赦され、神の愛児、相続人...トリエント公会議のカノンー原罪論5(学び合いの会)

  • 原罪の教義はいつ定着したのか ー 原罪論4(学び合いの会)

    Ⅳ古典的原罪論の展開1アウグスティヌス以前の教父たち①ギリシャ教父たち2・3世紀エイレナイオス、アレキサンドリアのクレメンス、オリゲネスなど彼らは人間の「罪」に関心を持った。「なぜ無垢の嬰児が死なねばならないのか」という問題意識から原罪について考察した。特に問題にしたのは、原罪が人祖からどのように子孫に伝わるのか、という点であった。エイレナイオスは、人祖が所有していた本来的な善は罪によって損なわれたが、洗礼によって回復されると考えた。この考えはアウグスティヌスに影響を与えたという。②ラテン教父たち2・3世紀キプリアヌス、テリトリアヌスなど。「悪」の起源について深い関心を払った。2アウグスティヌス(354-430)アウグスティヌスは教会の原罪についての公式教義の基礎を作った。①悪の問題について自分自身の体験...原罪の教義はいつ定着したのかー原罪論4(学び合いの会)

  • 罪の赦しは恵みか悔悛か ー 原罪論3(学び合いの会)

    Ⅲ新約聖書における罪の理解1罪をめぐるイエスの教えイエスは、罪とは「律法」違反のことではなく、神と隣人への「愛の欠如」の問題であるとした。そしてそれを「一人一人の問題」として扱う。罪の観念はここで大きく転換していく。①罪の赦しと病の癒やしを同時に行う(マルコ2~5章)②信仰が罪からの救いである(マルコ5:34「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」)③あなたの罪は信仰によって赦されたと宣言する(マルコ2~5章)④イエスは人間の罪からの解放のため自己を捧げる。そして罪の赦しの権能を弟子たちに与える(マルコ10~19章、ヨハネ20~23章)2パウロパウロは罪の意識を深く掘り下げる。パウロの罪の観念はキリスト教の罪観念のベースとなっていく。①罪は普遍的である(ロマ書3:23「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられな...罪の赦しは恵みか悔悛かー原罪論3(学び合いの会)

  • 罪は人間の内にあるのか ー 原罪論2(学び合いの会)

    Ⅱ旧約聖書における罪の理解1人祖の物語創世記第2・3章創世記は人類の発生をアダムとエバのドラマとして描く。神の計画により恵まれた原初の至福の状態と、堕罪後の神から見放された状態とを比較する(1)。人間は神の似姿として造られたが、すべてを許される自由が与えられたわけではなく、有限な存在である。しかし、人間は神のようになろうする欲求を持ち、自己の絶対性・全能性を求める。「禁断の木の実」は実は人間の有限性にもとづく制約のシンボルであり、「蛇」は悪の誘惑を表す。創世記の記述は、本来神により頼むべき人間の限界を踏み越えようとした人間の試みが、世界のすべての悪の根源であることを示す。創世記は、すべての人間にある罪への傾きとその結果を、人祖が自らの罪によって神との交わりを失ったことによって説明しようとする。神が創造され...罪は人間の内にあるのかー原罪論2(学び合いの会)

  • 原罪論はなぜ未熟な教義なのか ー 原罪論1(学び合いの会)

    6月の学び合いの会は猛暑の中で開かれた。まだ6月だというのに梅雨明け宣言が出たという。この暑さの中、出席者の数は当然少なかった。今回のテーマは原罪論である。何もよりによって原罪論を取り上げなくとも、と思わなくもなかったが、ロシアによるウクライナ侵攻を前にして、科学技術の発達が、社会制度の改革が、人間を悪から解放するという楽観主義が打ち砕かれ、もう一度「悪」の問題を神学的に問い直してみたいというのが趣旨のようであった(1)。神学的に問い直すと言っても、原罪論は「神学的人間論」の中ではもっとも評判の悪い、人気のないテーマのようだ(2)。キリスト教神学の中でキリスト論、三位一体論、教会論はそれなりに教義が整備され、体系化されているが、原罪論は未成熟である。特に古典的な(アウグスティヌス的な)原罪論はいわば袋小路...原罪論はなぜ未熟な教義なのかー原罪論1(学び合いの会)

  • 映画「ベルファスト」(アカデミー賞脚本賞)を観た

    やっと映画Belfastを観ることができました。アカデミー賞受賞作品だからと言うより、カト研のジョンストン師を思い起こすためでした。師は2010年に帰天しているので今年は仏教的に言えば13回忌になります。カト研の皆さんはもうすでにご覧になられたでしょうか。白黒映画でした。少年バディが主人公だが、過酷な時代の変化に抗いながら家族が一緒に未来へ踏み出していく姿を描いているように思えました。故郷ベルファストを讃えるご当地映画ともいえそうです。この映画は、1969年頃のいわゆる「北アイルランド紛争」(1)を直接正面から取り上げているわけではない。むしろ、それを背景としたファミリー・ドラマでした。監督・脚本はケネス・ブラナーで、著名な映画監督のようです。この映画は監督ご本人の自伝的な物語のようです。ローヤリスト、ユ...映画「ベルファスト」(アカデミー賞脚本賞)を観た

  • 創造論か進化論か ー 創造論5(学び合いの会)

    Ⅵ教義史1古代①使徒教父たち使徒教父たちはは聖書の創造に関する信仰を継続し、更に展開していった(1)。「ヘルメスの牧者」ー「無からの創造」(creatioexnihilo)(2)②ギリシャ哲学プラトン哲学は神の存在は認めるものの、この世界も永遠の存在であり、神による創造という思想はない。神も世界も永遠とされる。世界は、神の意志や、業の結果ではなく、すべては必然ないしは運命だと考える(3)。②グノーシス主義グノーシス主義は善悪二元論で、霊が善、物は悪とするから、物を造った創造の業は悪であり、創造主は悪い神だという悲観的世界観からなる(4)。③エイレナイオスエイレナイオスは2世紀後半のフランス・リヨンの司教。グノーシス主義の正体を暴露し、正統信仰を守ることを生涯の課題としたという。主著『対異端駁論』では、神による無...創造論か進化論かー創造論5(学び合いの会)

  • 人間は世界の管理者か ー 創造論4(学び合いの会)

    Ⅳ新約聖書新約聖書とはキリスト教が経典として認めている27文書(1)のこと。キリスト誕生以前に書かれた旧約聖書に対して、キリスト誕生後紀元50年から150年頃までに書かれた文書である。27文書が正典として認められたのはカルタゴ教会会議(397年)だという(2)。中身は旧約にならって、歴史・書簡・預言に分けられる(歴史書は4福音書と使徒言行録、書簡はパウロなど、預言は黙示録)。新約聖書には世界の創造を直接の対象として述べた箇所はない。なぜなら神による世界の創造はあまりにも明白な事実で、改めて述べる必要がなかったからだという。①神は言葉によって世界を創造したヘブ11:3、第2ペテロ3:5②神はすべての創造者マタイ19:4マルコ13:19③神が創造者であることは明白ロマ1:191コリ8:6④イエスは神の名において創造...人間は世界の管理者かー創造論4(学び合いの会)

  • 創造は恵みである ー 創造論3(学び合いの会)

    Ⅲ旧約聖書2預言書預言とは神から啓示を受け、それを告知することを意味する。日本語では神の言葉を預かるという意味だと説明されることが多い。予言ではない。だが預言者は神の言葉を告知するだけではなく、来るべき時代についても語った。預言者の資格・条件ははっきりしないが、神の霊そのものには求めず、神の言葉を「持っている」という事実・言明に求められたようだ(1)。預言者はサムエルの時代に登場するが、活動が活発化するのは王国の分裂以後である(2)。北王国にエリア、エリシャ、ミカヤが現れ、南王国にはイザヤ、ミカが現れ、以後続々と続く。イザヤ・エレミヤ・エゼキエルは三大預言者と呼ばれる。預言者の託宣や活動は多岐にわたるが、総じて祭儀を批判する点で共通する。自分たちのヤーウエ信仰を守るためであったのであろう。第2イザヤ40:27~...創造は恵みであるー創造論3(学び合いの会)

  • 創造物語は二つある ー 創造論2(学び合いの会)

    創世記には二つの創造物語が並列されている。1章と2章はそのまま連続しているわけではない。Ⅲ旧約聖書1創世記聖書の創造物語は、神・人・自然の創造に関する教説の重要な典拠である。人は、創造の始原に立ち返り、自らの生存の意義を確認する。自分は何のために生まれてきたのか。どこに向かっているのか。創造物語の根底には強烈な救済論的志向がある。つまり、救済と選びの信仰がある。創世記には実は二つの創造物語が並列されている。一般にはあまり知られていない論点なので少し詳しく見ていこう。これを理解するには、たとえば創世記1章と2章の違いを理解するためには、聖書の交差配列や旧約聖書についての知識が必要になってくる。誰でも知っている話と言われればそれまでだが、前もって少し整理しておきたい。旧約聖書は一応紀元90年頃編纂されて成立したとさ...創造物語は二つあるー創造論2(学び合いの会)

  • 無からの天地創造説は珍しい ー 創造論(学び合いの会)

    5月の学び合いの会は久しぶりの五月晴れのもとに開かれた。会合にはマスクをしない人も数人おられ、コロナ禍も少しづつ落ち着き始めているようだ。今回からはいわゆる「神学的人間論」が取り上げられる。神学的人間論というのもわかりづらい表現だが、どうもカトリック神学の視点からの人間論という意味のようだ(1)。具体的には、創造論・原罪論・恩恵論・終末論を指し、さらに神論とマリア論を含むようだ。一言で言えば救済論のことのようだ。神学の中で言えば、教義学の中で(つまり実践神学以外で)キリスト論と教会論には含まれない領域を扱う幅広い分野を指すようだ。今回は創造論が取り上げられた。テーマとしては以下の通りだ。1概要2さまざまな創造神話3旧約聖書4新約聖書5聖書における人間観6教義史7結び細かく、専門的な議論が続くが(2)、私が理解し...無からの天地創造説は珍しいー創造論(学び合いの会)

  • やっと2022年度の初ホタル

    2022年度の初ホタルを先ほど確認した。5月18日(水)午後8時頃、10数匹飛んでいた。今日は一週間ぶりに晴れて、気温も高く、風もなく、月も出ていなかった。絶好のホタル日和ということになる。5月18日に初発見というのはこの20年近い定点観測の中では一番遅い日付になる。場所は馬場橋から谷戸の空橋の間で、法勝寺橋から上流はまだ湧いていないようだった。来週末には町内会による川ざらえ(ゴミ掃除)があるというので心配だが、来週いっぱいは楽しめることだろう。スマホでフラッシュをたいて写真を撮る人が今年はいないことを望もう。近年、洗濯水や台所の汚水をそのまま川に流している家がまだあるのでホタルの絶滅が心配されていたが、まだなんとか生き延びているようだ。大量発生の復活を祈りたい。ホタルを初めて観測した日2022年5月18日20...やっと2022年度の初ホタル

  • 従順な婢女から弁護者へ ー 聖母マリア(了)(学びあいの会)

    Ⅷマリア信心(崇敬)とは何か崇拝(Latria)と崇敬(Dulia)の区別は定着して、最近はあまり誤用はみられないようだ。マリアは崇敬の対象とされる(1)。1概要マリア信心とは古くから形成されてきたマリアへの崇敬心のことをいう。マリアを敬い、取り次ぎを願うキリスト者の態度とそれを表す様々な行為や行事のことをいう。個人か集団を問わず、態度・行為・儀式をさす幅広い概念のようだ。具体的には、ロザリオの祈り、スカプラリオ(2)、不思議なメダイユ(3)、巡礼(4)、詩歌(5)、行列(6)、聖画像(7)などをいう。2歴史2-1古代マリア信心の芽生えは、ルカ1:42「女のなかで祝福された方」、1:48「幸いなる者」という呼称にみられる。マリアの取り次ぎを願う最古の祈りは3世紀頃の「あなたの保護に寄りすがる」(「スブ・トゥウム...従順な婢女から弁護者へー聖母マリア(了)(学びあいの会)

  • マリアの出現を信じますか ー 聖母マリア(16)(学びあいの会)

    Ⅶマリアの出現1マリアの出現(1)は中世以来数多く伝えられている。だが世界的に大きな影響を及ぼした出現は19世紀から20世紀にかけて起きた。主な出現を挙げてみる。①カトリーヌ・ラブレーへの出現:1830年パリ「不思議なメダイ」の起源(2)②ラ・サレット(南仏の地名)での出現:1846年2人の子どもにマリアが出現した③ルルドのベルナデッタへの出現:1858年ルルドの水により病者の奇跡的回復がみられ(ルルドの泉)、毎年数百万人の巡礼者が訪れるという最も有名な奇跡といわれる(3)④ファティマ(ポルトガル)での出現:1917年⑤その他教区司教により真実と認められたものボンマン(フランス1871年)ボーラン(ベルギー1932年)バヌー(ベルギー1933年)秋田(日本1973年)(4)フインカ・ベタニア(ベネズエラ1976...マリアの出現を信じますかー聖母マリア(16)(学びあいの会)

  • 祈りのなかのマリア ー 聖母マリア(15)(学びあいの会)

    Ⅵマリアの祈りマリア信心の表れとして教会はマリアに関する様々な祈りを生み出した。ここでは主なものを取り上げてみる(1)。1アヴェ・マリアの祈りこれはマリアと共にキリストを観想する(2)基本的な祈りである。アヴェ・マリアの祈り前半は、大天使ガブリエルの受胎告知の言葉(ルカ1:28)と、エリザベトの喜びの声(ルカ1:42)を組み合わせたものである。後半はマリアへの祈願である。このように、この祈りは祈りとしては独特の形式をとっているが、現在の章句の形式は6世紀から16世紀までの発展を経て成立したと言われる。2ロザリオの祈りロザリオの祈りとは、基本的には珠(たま)を繰りながら、「アヴェ・マリアの祈り」を数えながら唱え、キリストの出来事を黙想していくお祈りのことを言う。数珠(じゅずたま玉・珠)を祈りに使う伝統は様々な宗教...祈りのなかのマリアー聖母マリア(15)(学びあいの会)

  • 典礼暦のなかのマリア ー 聖母マリア(14)(学びあいの会)

    聖母マリア論は第2部「マリア信心(崇敬)」に入った。5月連休直前の今日の例会は晴天に恵まれたが出席者は少なかった。Ⅴ典礼典礼(1)とは教会がおこなう祭儀である。典礼暦(2)は4世紀頃(3)東西両教会で定着する。マリア信心もこの頃から盛んになる。エフェゾ公会議(431年)におけるマリアの「神の母(テオトコス)」宣言はマリア信心をさらに促進し、マリアの祝祭日(4)が祝われるようになった。祭日と祝日と記念日が区別されている。1マリアの祭日現行の教会暦のマリアの祭日は以下の三つである①神の母聖マリア(1月1日)②聖母被昇天(8月15日)③無原罪の御宿り(12月8日)2マリアの祝日①聖母の訪問(5月31日)マリアのエリザベト訪問(ルカ1:39~50)を記念する祝日。ローマでは8世紀に降誕節中に祝われたという。東方教会では...典礼暦のなかのマリアー聖母マリア(14)(学びあいの会)

  • 典礼歴のなかのマリア ー 聖母マリア(14)(学びあいの会)

    聖母マリア論は第2部「マリア信心(崇敬)」に入った。5月連休直前の今日の例会は晴天に恵まれたが出席者は少なかった。Ⅴ典礼典礼(1)とは教会がおこなう祭儀である。典礼暦(2)は4世紀頃(3)東西両教会で定着する。マリア信心もこの頃から盛んになる。エフェゾ公会議(431年)におけるマリアの「神の母(テオトコス)」宣言はマリア信心をさらに促進し、マリアの祝祭日(4)が祝われるようになった。祭日と祝日と記念日が区別されている。1マリアの祭日現行の教会暦のマリアの祭日は以下の三つである①神の母聖マリア(1月1日)②聖母被昇天(8月15日)③無原罪の御宿り(12月8日)2マリアの祝日①聖母の訪問(5月31日)マリアのエリザベト訪問(ルカ1:39~50)を記念する祝日。ローマでは8世紀に降誕節中に祝われたという。東方教会では...典礼歴のなかのマリアー聖母マリア(14)(学びあいの会)

  • ご復活祭おめでとうございますー3回目のコロナ禍のもとで

    ご復活祭おめでとうございます。コロナ禍の中でのイースターは3回目となります。私どもの教会では分散ミサが続いており、、ご復活祭といっても特定の班のみ出席可能なごミサです。私どもはたまたま今日のミサに当たっていたので出ることが出来ました。長い四旬節、聖週間、過越の3日間と、私どももカト研の皆さんと同じように、それなりに過ごしてきました。例年なら、教会のみなさんと一緒に盛大にごミサを挙げ、みなでお祝いするところですが、今年も寂しい復活祭となりました。復活徹夜祭で洗礼を受けた方もおられなかったようです。世界中どこでも同じなのかは解りませんが、残念なことです。ごミサ後のお祝いのパーティーもなく、子どもたちからのイースターエッグもなく、顔見知りの人と挨拶することもかないませんでした。コロナだからと言われれば返す言葉もありま...ご復活祭おめでとうございますー3回目のコロナ禍のもとで

  • 「神学ダイジェスト」にみる今日のマリア論 ー 聖母マリア(13)(学びあいの会)

    現代のマリア論の理解のために、上智大学神学会発行の機関誌「神学ダイジェスト」131号(2021年冬季号)の特集「今日のマリア論」が紹介された。5論文中4本の論文の要旨が紹介された。わたし自身はこれらの論文を読んでいないので不正確な紹介になるかもしれないが、現代のカトリックの神学者たちが、マリア論の中でなにを主要な問題として捉えているかを知る手がかりとして、簡単に目を通しておきたい。現代カトリック神学におけるフェミニズム神学、解放の神学のインパクトの大きさを垣間見ることができる。なお、この機関誌の編集長は光延一郎師のようだ(1)。神学ダイジェスト*目次は次の通り*〈巻頭言〉今日のマリア論について………………………………………岡立子神学の内に示されるマリア論の新たな方向性……………………………M・マッケンナ貧しい人...「神学ダイジェスト」にみる今日のマリア論ー聖母マリア(13)(学びあいの会)

  • 望ましいマリア信心とは ー 聖母マリア(12)(学びあいの会)

    それでは、新しいマリア論はどのような形をとるのだろうか。新しいマリア崇敬はどのような方向に進もうとするのか。それは、プロテスタントからの批判に耐えるものであり、解放の神学やフェミニズム神学の成果を取り入れ、エコロジー神学の展望を見据えるものとなるだろう。光延師は、聖霊とマリアのつながりを強化し、神の女性的側面と三位一体の交わりがつながることにマリア論の新しい展開を展望しているようだ。それは次回紹介する『神学ダイジェスト』(師が編集長である上智大学神学会の機関誌)特集号からも読み取ることができる。1解放の神学とフェミニズム神学解放の神学とフェミニズム神学は、その成立の背景も主張も異なるとは言え、実は「マグニフィカト聖母の讃歌」(ルカ1:46~56)に描かれる「解放の霊感」に共に注目している(1)という。マグニフィ...望ましいマリア信心とはー聖母マリア(12)(学びあいの会)

  • マリア崇敬をめぐる現代のマリア論 ー 聖母マリア(11)(学びあいの会)

    現代のマリア論の中心的論点はマリア崇敬だ。特に、エキュミニズム運動の進展の中で、カトリック教会とプロテスタント諸教会とのあいだで理解の違いが明確になってきた。また、解放の神学、フェミニズム、エコロジー神学など、新しい運動の登場の中で、マリア崇敬は新しい形を求められるようになっている。新しいマリア崇敬とはどのような形をとるのだろうか。1エキュメニズムとマリアマリア論はエキュメニズムの対話において重要なテーマの一つとなっている。マリア崇敬について東方教会(1)は本来はカトリックと同じ神学的伝統を持っている。プロテスタント諸教会はマリア崇敬に関しては消極的な傾向がある。マリア崇敬はカトリック教会では19・20世紀に強まったが、これは東方教会にもプロテスタント諸教会にとっても当惑の的となった。たとえば、プロテスタント側...マリア崇敬をめぐる現代のマリア論ー聖母マリア(11)(学びあいの会)

  • 教義宣言されなかった「恩恵の仲介者マリア」説 ー 聖母マリア(10)(学びあいの会)

    3-5恵みの媒介者なるマリアマリアに関する教義は神学的には多方面にわたる。神の母説はキリスト論に、無原罪の御宿り説は原罪論に、被昇天説は終末論に密接に関わっていた。そしてこの「恵みの媒介者」説は「教会論」に深く関わっている。マリアの「霊的母性」の教えは、マリアが願いの取りなし手、恩恵の仲介者であるとの信仰を強めた。そして、マリアは信仰者の共同体である教会の母であると敬われてきた。だが、マリアがキリストの「協贖者」(Coredmptrix)であるとの考えはまだ教義として認められていない。現代マリア論の最大の焦点のようだ(1)。①私たちにとってのマリアとは伝統的にマリアは信仰者のためにとりなす媒介者、取り次ぎ手、代願者medeatrixとされてきた。こういう表現は使徒信条の「聖徒の交わり」という言葉に通じる。「聖人...教義宣言されなかった「恩恵の仲介者マリア」説ー聖母マリア(10)(学びあいの会)

  • 終末に煉獄や中間期はない ー 聖母マリア(9)(学びあいの会)

    3-4マリアの被昇天被昇天の教義はマリア論ではあるが中心は「終末論」だ。終末論とは人間の(個人の、そして人類全体の)終末についての議論・洞察のことだ。つまり、人は死んだらどうなるのか、人類の歴史の終わりはどうなるのかと問うことである(1)。人は死んだら無に帰る。それでよいではないか。何であれこれ考えるのか。日本人の多くは、宗教心はあっても、神を信じないから、死んだら無に帰ると言われても、特に不安にもならない。せいぜい今の自分の人生を楽しんでおけばよい。あとは野となれ山となれだ。自分たちのために戦争などで亡くなられた方には申し訳ないと思う。でも、とりあえずは神社でお札でももらって健康とお金を願っておけばよい、と考えている。大げさに無神論などと騒ぎ立てない。ご先祖様のお墓参りはするが、自分は散骨でも樹木葬でもよいの...終末に煉獄や中間期はないー聖母マリア(9)(学びあいの会)

  • 原罪は遺伝する ー 聖母マリア(8)(学びあいの会)

    3-3マリアの無原罪の御宿り無原罪の御宿りの教義はマリア論ではあるが中心は「原罪論」だ。つまり罪と恵みの関係の問題だ。では、原罪とは何のことなのか(1)。原罪という言葉を聞くとすぐにいろいろな疑問が脳裏に浮かぶだろう。わたしは何も悪いことをしていないのにどうして罪人などと呼ばれるのか。自分がいつか死ぬのは罪を犯したからなのか。マリアはいつ原罪を免れたのか。イエスを宿した時か。それとも自分が生まれたとき(母アンナの胎内に宿ったとき)か。アダムが罪を犯したから全人類が原罪を免れなくなったのか。だから人間は必ず死ぬのか。ではマリアは死を免れているのか。生まれたばかりの赤ん坊(幼児)は無垢ではないのか。どうして汚れのない子どもが幼児洗礼を受ける必要があるのか。マリアの無原罪の御宿りの教義はこういう古くからある問いをめぐ...原罪は遺伝するー聖母マリア(8)(学びあいの会)

  • マリア神学は教皇至上主義の支柱か ー 聖母マリア(7)(学びあいの会)

    2マリア論の展開マリア論とは教義神学の一つで、マリアへの信仰や崇敬を対象として教義神学の中に位置づけようとする。歴史的経緯から実践神学としては教会論の中に位置づけられ(1)、また、教皇至上主義を擁護する議論として考えられてきたようだ(2)。マリア論Mariologiaという用語は、17世紀初めのニジド著『マリア論大全』(1602)で最初に使われ、19世紀には定着して用いられるようになったという。とはいえ、古代中世にもマリアを扱った著作は多い。たとえば、トマスなど中世のスコラ学者たちはマリアを受肉論のなかで扱い、中世の神学者スワレスも『キリストの生涯の秘跡』(1592)のなかでマリア論を展開していたという。おなじく、ペトロ・カニージオも『無比なる乙女マリア』(1577)のなかでマリアを論じているという。19世紀以...マリア神学は教皇至上主義の支柱かー聖母マリア(7)(学びあいの会)

  • マリアの「特権」とはなにか ー 聖母マリア(6)(学びあいの会)

    新型コロナウイルス対応で18都道府県に適用されていた蔓延防止等重点措置が3月22日に、全面解除された。当地では桜も満開を迎えた。だが当教会では4月も分散ミサが継続され、復活祭も皆でお祝いすることはできないようだ。ウクライナでの状況も予断を許さず、3月の学びあいの会も出席者の数は少なかった。満開の桜Ⅱマリア神学とは何か大仰なタイトルだが、議論の視点を定めるためにも、一応最低限の了解事項を共有しておく必要があるということであろう。1マリア神学の基礎マリアは「神の母」であることがマリア神学の基礎となる。「母」であるとはどういうことなのか。神の救いの業とは、神が御子キリストの「受肉」(1)と「復活」および「聖霊」の派遣によって人間を神と和解させ、永遠の命を与えることである。キリストは神と人間との「唯一の仲介者」である。...マリアの「特権」とはなにかー聖母マリア(6)(学びあいの会)

  • マリア信仰かフェミニズム神学か ー 聖母マリア(5)(学びあいの会)

    Ⅴ近・現代のマリア運動啓蒙思想の時代にはマリア信心は衰退したが、19世紀に入るとマリア信心は復活し始める。19世紀も近代と呼ぶなら(1)、この時代に多くのマリア大会が開催され、マリア関連の諸作が増え、マリア出現への関心が高まる。歴代の教皇に対して多くの国の司教からマリアを「恩恵の仲介者」と宣言するよう嘆願書が出される(2)。歴代の教皇たちはこの表現は誤解を招きやすく、エキュメニズムの思想に合わないとして永らく回避してきた。また、19世紀から20世紀前半にかけてマリア論者たちはマリアの「特権」を強調した。キリストについて当てはまることはマリアにも適用できるとして、マリアをキリストとの「共済者」として教義宣言するよう主張した。さすがこれは行きすぎたマリア信心だとして反省運動が起こり、第二バチカン公会議にまで議論は持...マリア信仰かフェミニズム神学かー聖母マリア(5)(学びあいの会)

  • マリアは恩恵の仲介者か ー 聖母マリア(4)(学びあいの会)

    Ⅲ中世西欧中世は停滞した暗黒の時代だったという、昔の日本の教科書によく見られた見方は現在ではほぼ消えたといえよう。中世は独自のダイナミズムを持つ豊かな時代だったという理解が支配的になってきているという。西欧中世をいつからいつまでと考えるかは諸説あるのだろうが、西ローマ帝国の滅亡(478)からアメリカ大陸の発見/到着(1492)までと考えてみる(1)。つまりざっと1000年間となる。中世をさらに初期(5~10世紀)・中期(11~15世紀)・後期と分けることも多いようだ。マリア崇敬で言えば東方教会では8世紀に頂点を迎え、西欧中世は13世紀を頂点とみてよいだろう。マリア論は修道院神学から大学神学へと中心が変化し、その姿も変貌していく。1修道院神学のマリア西方教会における神学は修道院でなされていた(2)。修道院神学は典...マリアは恩恵の仲介者かー聖母マリア(4)(学びあいの会)

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