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ブログタイトル
カトリック社会学者のぼやき
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/kempis
ブログ紹介文
カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいています
更新頻度(1年)

81回 / 365日(平均1.6回/週)

ブログ村参加:2016/10/06

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kempisさん
ブログタイトル
カトリック社会学者のぼやき
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カトリック社会学者のぼやき

kempisさんの新着記事

1件〜30件

  • 中国の影 ー ポスト・コロナの五島列島巡礼の旅(3)

    今回の旅では何人かの地元のガイドさんにお世話になった。たまたまか、みな信者さん(カトリック)だった。詳しい説明の端々に垣間見えたのは、「中国の影」とでも呼びたいような中国へのおびえのようなものだった(1)。1交通手段さまざまな乗り物を使わないと五島列島の観光はできないようだ。飛行機、バス、タクシーは当然として、小さな海上タクシー、高速艇、フェリーが島々を、つまり教会と教会をつないでいる。たとえば、頭ヶ島天主堂は小さな専用バスに乗り換えないとたどり着けない。観光バスは入れない。どの島にも電車はない。完全な車社会だ。軽自動車の世界だ。ガイドさんは「スズキの世界」と言っていた。乗っている車で誰かがわかるのだという。大型の観光バスは狭い道を塞いでしまい、追い越しもできないために、島では嫌われ者だという。大きな橋がやっと...中国の影ーポスト・コロナの五島列島巡礼の旅(3)

  • 仏壇を祭壇に ー ポスト・コロナの五島列島巡礼の旅(2)

    五島列島の教会巡りをして一番強い印象に残ったのは、仏教式の「仏壇」がそのままカトリックの「祭壇」に使われていることだった。現代だけではない。キリシタン時代からの慣習の継続なのだろうか。カトリックに戻った潜伏キリシタンの家では幼児洗礼だから、家には普通の家庭祭壇があるだろう。だが、現在の日本で成人洗礼を受けた人のなかでほとんどの人は仏教的環境の中で育っており、家にいわゆる「仏壇」がある人も多いことだろう。仏壇の前で朝夕お祈りする人は少ないとはいえ、中には先祖の位牌が納められているだろう。洗礼を受けた後、この「仏壇」を「祭壇」に切り替える人が多いという。切り替えると言っても、仏壇には位牌とともに大日如来やお釈迦様の仏像が納められているだろうからこれは取り除かねばならない(1)。しかし実際には仏壇の中には位牌しかおか...仏壇を祭壇にーポスト・コロナの五島列島巡礼の旅(2)

  • ポスト・コロナの五島列島巡礼の旅(1)

    五島列島の教会巡りをしてきた。長い間一度は訪ねてみたいと思っていた願いがやっとかなった。影山さんを初めカト研の皆さんにはずっと勧められていたので、今回思い切って訪ねてみた。コロナ禍が治まったわけではないが旅行もできるようになり、GoToTravelキャンペーンが始まったこともあり(1)、行ってみた。この地は2年ほど前に世界遺産に指定されたこともあり良い機会であった。台風一過青空の秋晴れが連日続いた。文字通り観光日和であった。空の青と海の碧のコントラストが素晴らしかった。巡礼とは称しても短い旅ではあったが、ろいろな思いが湧いてきていて、まだ印象を整理できていない。とはいえ、忘れないうちにメモを記しておきたい(2)。長崎大司教区発行の「五島巡礼手帳」なるものを手に教会を回ったが、とにかく教会の数が多すぎて、今でもど...ポスト・コロナの五島列島巡礼の旅(1)

  • コロナ・ミサの平均出席率は17%くらいか

    年間第27主日の分散ミサに出てきた。コロナ対策とはいえ、信者の聖体拝領のときでさえ、司祭は「キリストの御からだ」とは唱えず、われわれも「アーメン」とは答えてはいけないことになっている。なんか変だな、これでは霊的聖体拝領とあまり変わらないなとか思うが、緊急事態だから致し方ない。(分散ミサ)私どもの教会では地区ごとにミサの曜日と時間が割り当てられている。全体で9組に分かれており、土曜日16時、日曜日7時・10時のどれかに順番に割り当てられる。教会の典礼委員会がミサの参加者の数を数えているので、今回簡単に集計をとってみた。興味深い傾向が浮かんできた。7月と8月の分だけを集計してみた。この教会の信徒数は2019年で1492名。7月の10回のミサ(一つの組が複数に分割されているため組の数とミサの回数は一致しない)の総参加...コロナ・ミサの平均出席率は17%くらいか

  • 「教会の外に救いなし」は今日でも通じるのか ー教会論(13)

    第15章は「教会の外に救いなし」と題されている。この表現または命題は教会の宗教的排他主義を示すものとしてかってはよく使われた。最近はあまり聞かないので「またこの話か」という感がないわけではないが、岩島師は教会論としては触れずに避けるわけにはいかないテーマであろう。これは、Extraecclesianullussalusという言葉の訳語だ。extraとは、~の外という意味、ecclesiaは「人々の集まり(教会)」という意味だ。nullusは否定形、salusは「救い」という意味。直訳すればnosalvationoutsidethechurchとでもなる。これはカトリックの教導職(1)が現代に至るまで固持している思想・信仰である。この信仰についてはいろいろなところでいろいろな人がいろいろ言っているが、結局は、信徒...「教会の外に救いなし」は今日でも通じるのかー教会論(13)

  • 教会論的異端と修道生活ー転機(その2)

    Ⅱ教会論的異端「異端」という言葉は日本語では「正統」の対概念で、「正統から外れている・・・思想・信仰・学説」(広辞苑第7版)とされ、「謬説」と同義語とされることが多い。ギリシャ語(hairesis)では、分派、選択を意味していたらしく、日本語の語感とは少し異なるようだ。つまり、異端にはいろいろあるが、ここでは「教会論的」異端が取り上げられる。異端とは教会論的には、信仰の真理のある一面のみを極端に主張することを意味する。謬説とか間違いとか敵の思想とかいう文脈で理解すると異端は何でも悪いという誤解を導きかねない。古代教会では教会理解に関して3つの大きな異端が生まれた。これらと戦うことで教会は自分自身を鍛え上げていく。1モンタノス派創始者モンタノスは2世紀後半の人らしい。パラクレートス(聖霊)の働きを重視し、キリスト...教会論的異端と修道生活ー転機(その2)

  • 古代教会の自己展開(重要な転機)ー学びあいの会(教会論11)

    学びあいの会が再開された。前回は2月24日だったので約7ヶ月ぶりということになる。コロナ禍はまだ続いているが、教会の活動は少しづつ再開され始まっているようだ。十分に警戒しながらも、ミサと勉強会くらいは出たいと思い、私も教会に向かった。出席者はさすがに少なかったが、半年ぶりに会ってお互いの無事を確認できただけでもホッとしたひとときであった。共にコロナ禍を生き延びた喜びと言えば大げさだが、皆で静かに再会を喜び合った。岩島忠彦師の教会論の続きである。原著は『キリストの教会を問うー現代カトリック教会論ー』(1987)である。現代と言っても随分古い著書だが、岩島師は現在イグナチオ教会のネット上の「神学講座」で同じく教会論を講じておられる。講義内容に特に変化があるとも思えないが、YouTubeで受講できる。わざわざ四谷まで...古代教会の自己展開(重要な転機)ー学びあいの会(教会論11)

  • 被昇天祭と終戦記念日 ー 「主よ、どうかお助けください」

    8月15日の関口教会の聖母被昇天祭のミサに与った。聖母マリアの被昇天をお祝いするミサである。8月15日は日本では同時に終戦記念日でもある。教会の平和旬間は8月6日から昨日15日までの10日間だ。6日の広島原爆記念、9日の長崎原爆記念、そして15日の終戦記念にいたる10日間である。8月15日の聖母被昇天祭はこの平和旬間の締めくくりの日になる。この日は、1549年にザビエルが日本に到着した日でもあり、教会にとっては特別な日である。マリアと終戦。直接の関係はないが、日本のカトリック信者にとってはいろいろな思いを持って祈る日である。しかもこのコロナ禍のなかで迎えた8月15日は例年になく特別な一日だった。関口教会の聖母被昇天祭のミサは普段とは少し異なっていた。侍者には何人か子供の侍者が加わっていたし、女性の侍者もいた。聖...被昇天祭と終戦記念日ー「主よ、どうかお助けください」

  • 「お任せ」か「平和旬間」か

    年間第19主日のミサは、分散ミサの順番が私どもの組(班)に今日回ってきたので、午前7時からのミサに出た。7時からの朝ミサにはあまり出たことはなかったので新鮮な経験だった。出席者は20名弱。名簿上は100名くらいの規模の組なので、出席率は高い方かもしれない。高齢女性ばかりで男性は3名のみ。男女比の数字は逆転していて良さそうなのに不思議なものだ。ごミサは30分もかからなかった。記念唱で「・・・わたしたちの司教ラファエル梅村昌弘・・・」と唱えるべきところ姓名が省略されたりで、「省エネの****」の名に恥じぬ超スピードのミサだった。お説教は興味深かった。福音書はマタイ14:22~33で、「湖上を歩く」奇跡のところだ。ペテロは、怖かったけれどイエスを信じて「お任せ」していたら湖の上を歩けた。しかしお任せをやめて自分の力で...「お任せ」か「平和旬間」か

  • 映画 「グレース・オブ・ゴッド 告発の時」を観た

    映画「グレース・オブ・ゴッド告発の時」を観てきました。カト研の皆さんのなかにももうご覧になられた方もおられるかもしれません。どういう印象をもたれたでしょうか。私の印象は一言で言うと「後味の悪い映画」で、映画鑑賞後の解放感はない。だが、映画としては見ごたえのあるものだった。良い映画だという印象が強く残りました。この映画は(フランスの)現代教会の病巣を感情的にではなく静かに描いている。こういう教会のあり方に疑問の声を上げ始めた人々がいることを描いている。こういう映画が作られ、公開され、しかも観客もいるという事実に、単純に驚かされる。監督はフランソワ・オゾンという人で、映画通には知られている人らしい。この映画は2019年のベルリン国際映画祭で銀熊賞(審査員グランプリ)を受賞しているという。(グレース・オブ・ゴッド)映...映画「グレース・オブ・ゴッド告発の時」を観た

  • 教会とWHO ー 分散式ミサに出る

    年間第16主日のミサは、分散式ミサの順番が私どもの組に回ってきたので、土曜日のミサにでた。雨のせいか、コロナの感染が怖いからか、出席者は少なかった。20名ほどだったか。大きなお聖堂に1列(8名席)に2〜3名で、しかも列をあけて座るのだから本当にパラパラだ。聖堂がこれだけガラんとしているとミサの臨場感がない。神父様もなにかプラスチック製みたいなフェイス・マスクをつけ、祭壇や朗読台にはアクリル板がついていた。奉納なし、オルガンなし、聖歌なし、侍者なしのないないづくしで、感染予防は完璧なようだった。コロナといえば、菊地東京大司教は7月13日に教区の信徒あてにメッセージをだされ、3つの指針を示された(1)。ミサでご一緒した知人によると、教会のこういうコロナ感染対策は、基本的にはWHO(世界保健機関)のディレクティブにそ...教会とWHOー分散式ミサに出る

  • ブログは何のために書くのか ー 年間第15主日ミサに出て

    年間第15主日のミサは関口教会のミサに出た。習慣だから日曜の朝10時から与った。ごミサが少し変わっていた印象を持った。朗読には侍者がついていて「神に感謝」と唱えてくれてホッとしたり、答唱詩篇ではシスターが答唱まで歌ったりしていた。奉献文も第2で私には久しぶりで新鮮だった。お祈りもコロナ禍のなかなので印象的だった。第1朗読はイザヤ55:1−〜11で「み言葉の力」のところ、,第2朗読はローマ8:18〜23の「将来の栄光」の話しだ。福音朗読はマタイ13:1−9で、「種を蒔く人」の譬えのところだ。種を蒔く人とはイエスのことだろうが、菊地大司教のお説教はこの部分をとりあげ、教会の現状と対比させながら素晴らしいお話をされた。教会活動の中でもボランティア活動や宣教活動の重要性を説かれていたように聞こえたが、私は深く感じ入った...ブログは何のために書くのかー年間第15主日ミサに出て

  • 霊的聖体拝領の潜在的機能(1)

    潜在的機能というとなにか大げさだが、要は、このコロナ禍のなかで霊的聖体拝領が一般化することが、教会に対してどのような意図せざるまたは期待せざる効果をもたらすかを考えてみたいということだ。ほかにうまい表現が思い浮かばないのでこの用語を使うが、カト研の皆様にはおわかりいただけると思う。菊池大司教はご自身のブログ「司教の日記」の中で、2月27日に「ミサに関する文書への補足」という文書を載せられた。この文書の中で、「公開ミサ」という表現がもともとあったわけではなく、香港教区で使われているPublicMassということばを翻訳したものであること、ミサは「中止」されておらず、中止されたのは公開ミサだけであって、「公開されていない」ミサは通常通り挙げられていることが指摘されている。そのうえで、霊的聖体拝領についての『教会憲章...霊的聖体拝領の潜在的機能(1)

  • 日常化した配信ミサ

    日常化した配信ミサ年間第14主日のミサは午前10時からの麹町教会からの配信ミサに出た。司式はボニー・ジェイムズ神父であった。昨年この教会に助任司祭として赴任されたインド出身の神父様のようだ。所作はお若い印象だが40歳代とお見受けした。働き盛りということであろう。今日の福音朗読はマタイ11:25−30で、聖書の小見出しは「私のもとに来なさい」。お説教は、「私の軛(くびき)を負いなさい」(11:29)の説明であった。結局それは「分かち合う」ことであり、具体的にはミサに出ること、ゆるしの秘跡に与ることの二点だと言われた。聖体拝領では、洗礼を受けていない人にも「祝福」があるとの案内があったので(1)、かなりの人数の人がミサに出ていたようだ。配信ミサに参加しているわれわれには霊的聖体拝領の祈りが表示されていた。霊的聖体拝...日常化した配信ミサ

  • 麹町教会 vs. 関口教会

    今日は年間第13主日である。自分の教会のミサには次の順番が来るまで参加できないので、麹町教会(聖イグナチオ教会)の配信ミサ(ネット公開ミサ)に出た。前回まで関口教会(東京カテドラル聖マリア大聖堂)にでていて、麹町教会のミサは久しぶりであったので、印象の違いを記しておきたい。福音朗読の箇所はマタイ10:37-42。聖書の小見出しは「平和ではなく剣を」(新共同訳)、「平和ではなく分裂」(フランシスコ会訳)と、厳しい。「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」(10:38)。麹町教会は信徒数1.6万人以上と日本一大きい教会だ。外国語のミサは、英語・スペイン語・ポルトガル語・ベトナム語・インドネシア語・ポーランド語であげられ、籍は置いていないがミサに与る外国人も多いと思われる。関口教会は信徒数...麹町教会vs.関口教会

  • 分散式公開ミサにはじめて与る

    私どもの組にミサの順番が回ってきて、今日はじめてリアルな分散式公開ミサに与った。年間第12主日で、祭服も緑に戻っていた。分散式なのでミサに集まったのは40人ほどだったと見受けられた。4人がけの椅子は二人がけに限定され、しかも椅子も一列あけて座るという安全策が取られていた。祭壇、説教台、司会者席にはアクリル板がおかれ、消毒用のアルコールディスペンサーも置かれていた。聖体拝領でも、信者の拝領の時、「キリストの体ーアーメン」とは言わずに、事前に一斉に唱えておいて、いただく時は黙っていただき、神父様はマスクをしているという徹底ぶりだった。口からの聖体拝領は禁止、祝福もなし、ということだった。聖体拝領の列も間隔をとって並ぶ。なにもかにもはじめてのことで、面食らうことも多々あった。歌は歌わないし、献金袋は回ってこないし奉納...分散式公開ミサにはじめて与る

  • 洗礼後のあゆみ ―下巻『信仰の神秘』―

    今まで見てきた『キリスト教信仰のエッセンスを学ぶーより善く生きるための希望の道しるべ』は、入門講座の「基礎コース」用で、このあとの「発展コース」用の本が『信仰の神秘』である。下巻とも銘打たれている。師のカテキスタ養成講座ではもうすでに用いられているようだが、まだ刊行されてはいないようだ。発展コースではどういうテーマが取り上げられるのだろうか。この本の目次は以下のようになっているようだ。第1部キリスト教の人間観第1章人間であることーその特徴第2章人格的存在である人間第3章聖書の人間観第2部キリスト教信仰を生きる第1章信仰の恵みに答える生き方第2章自己の成長ー過ぎ越しの神秘を生きる第3章教会と共なる歩み第4章カトリック信者のライフスタイル第5章世の塩・世の光であれ第3部付録:カトリック信者の心得つまり、基本的には二...洗礼後のあゆみ―下巻『信仰の神秘』―

  • 結び・キリストを信じて生きる

    結びは「キリストを信じて生きる」と題されている。洗礼を受けた後の生き方の指針を語っているようだ(1)。師は以下の6項目を順番に説明していく。1み言葉は人となった2再び「導入」に戻って3信じるものになりなさい4信仰を生きるということ5証しされていく信仰6洗礼を受ける師は言う。「言葉(ロゴス)が時満ちて生身の人間(肉)になって、人間の歴史の中に入り込んできた。それがナザレのイエスである」。神が人間の歴史に介入する。そんなことがあるのか。あるのです。師は、それを信じるのがキリスト教信仰の根本です、と断言する。「み言葉は人となった」を信じなさいという(2)。「そう言われても・・・」受講者の声が聞こえるかのように、師はたたみかける。「あなたはわたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:24...結び・キリストを信じて生きる

  • だれが復活するのか ー エッセンス(8)

    第6章のタイトルは「死を超えた希望を生きる」となっている。われわれのからだが復活するとはどういうことなのか。本章は2節からなり、第1節は死またはお迎えについて、第2節はからだの復活と永遠のいのちについてである。どちらも重い話だが、入門講座が、教会の「葬儀の祈り」までカバーすることに驚いた。入門講座などに出たことのない旧い信者さんは、教会の冠婚葬祭の典礼には詳しくとも、『儀式書・葬儀』は読んだことないのではないか。小笠原師の説明を聞いてみよう。1死を超えて「メメント・モーリ」mementomoriという言葉をわたしも聞いたことがる。「汝、死すべきことを覚えよ」。中世キリスト教世界で流行ったラテン語の句だと言う。現代社会は平均寿命が伸び、超高齢化社会などと呼ばれている。だが死亡率は相変わらず100%だ(1)。小笠原...だれが復活するのかーエッセンス(8)

  • キリストの聖体の主日ー最後の非公開ミサ

    今日6月14日は年間第11週のキリストの聖体の主日(A年)である。公開ミサの自粛が3ヶ月半続いて、6月10日に菊池大司教から「6月21日からの、教会活動再開について」という発表がなされたあとの最初の主日である。この発表はやっと出たということで、東京教区に限らず日本中の教会や信徒がホッとしたと思う。わたしの教会でも、昨日から分散ミサが始まった。わたしの組はしばらくは順番が回ってこないので、聖体拝領には与れない。そこで関口教会の配信ミサにでる。関口教会では今日が最後の「非公開ミサ」なのだという。10時の動画配信ミサも今日でおしまいのようだ。配信ミサははじめての試みだったのでわたしもあちこちの教会のミサを覗いてみたが、関口教会の動画は安定していてよかった。準備された方々に感謝したい。菊池大司教のお説教も心なしが安堵感...キリストの聖体の主日ー最後の非公開ミサ

  • 旅する教会ーエッセンス(7)

    第5章は「キリスト教の誕生」と題されている。4節からなるが、内容は歴史論ではない。秘跡論である。「秘跡」について詳しい説明がなされる。入門講座だから、キリスト者になるとはどういうことなのか、小笠原師は福音宣教を教義に重点を置きながら説明していく。1キリスト教の誕生と福音宣教イエスの復活という出来事を通してキリスト教信仰が生まれてくる。イエスが「キリスト(救い主)」と告白される。では、「救い」とはなにか。救われるとはどういうことなのか。師は、救いには2つの側面があるという。それは、「心」が、①とらわれから自由(解放)になる②確かなこと、変わらないことで満たされるつまり、「心の渇きが癒やされる」ことだという。師は、イエスのおいて示された救いの道を、「過ぎ越しの奥義」の視点から詳しく説明していく(1)。師は、ヨハネ福...旅する教会ーエッセンス(7)

  • 天国も三密ーエッセンス(6)

    第4章は「イエスの死と復活」と題されている。いよいよ復活論である。復活論には二つある。イエスの復活の話と、われわれの復活の話だ。これは区別しておかないと、話が混乱する。イエスの復活はキリスト教信仰の原点だ。この出来事がなければキリスト教は生まれなかった。本章は4節からなり、50頁余におよぶ。要約は無理なので、ポイントだけをふれる。神学の話も入るので、小笠原師の神学院での講義を彷彿とさせる。人間の復活の話は第6章でとりあげられる。1イエスの宣教活動の終わりイエスは過ぎ越し祭(1)に合わせて日曜日に都エルサレムに入り、月曜日から水曜日まで神殿内でサンヘドリン(最高法院)と論争する(2)。大雑把に言えば、木曜日(過越祭)の夕方に最後の晩餐をし(3)、捕まる。金曜日に処刑され、夕方に葬られる。土曜日は安息日で、日曜日に...天国も三密ーエッセンス(6)

  • 愛と赦しの教え ー エッセンス(5)

    第3章の後半部分である。主の祈りの説明が中心となる。5イエスが説く愛とはキリスト教は「愛の宗教」と呼ばれる。なぜそう呼ばれるのか。それは、イエスが「神の支配の到来」を告げ、「神と隣人を愛しなさい」と教えたからだ。ではその「愛」とはなんなのか。ここで小笠原師は、愛の根本を物語るエピソードをいくつか紹介する。興味深い説明の仕方である(1)。まず、マルコ10:17-22が紹介される。「金持ちの若い男」の話だ(2)。若者がイエスに問う。「永遠の命を受け継ぐために、私は何をすればよいのでしょうか」。次に続くイエスとこの青年とのやり取りが興味深い。長文なので引用する余裕はないが、要は、イエスは、①律法主義からの解放②隣人への無関心からの解放の2つを求める。特に、助けを必要としている隣人への無関心から自分自身を解放すること、...愛と赦しの教えーエッセンス(5)

  • 三位一体の主日 ー 関口教会

    年間第10週に入ったようだが、今日は三位一体の主日だ。私どもの教会では相変わらず公開ミサはおろか分散ミサも始まっていないので、関口教会の動画配信ミサにでる。菊池大司教はお説教の中で、「教会はもはや灰の水曜日以前に戻ることはありません」と断言しておられた。言われてみれば、2月26日の灰の水曜日のミサが最後の公開ミサであった。4旬節が始まってからもう3ヶ月以上ご聖体拝領をしていないことになる。司教は「ミサに集まれない教会は共同体と呼べるのか」と問い、なにが教会共同体を「繋げているのか」と問う。「onlineのミサが繋げているのではない・・・それは神の愛であり・・・私達が教会なのだ」と言われた。そのとおりだろう。だが、人が集まらなくてどうして共同体などといえるのか。司教は「少し光が見えてきた・・・集まる準備を始めます...三位一体の主日ー関口教会

  • 神の支配とはなにか ー エッセンス(4)

    第3章は、「イエスの教えと行動」と題されている。7節から構成されており、本書の中核部分のようだ。イエスの宣教活動と、そこでの教えを説明している。神の国(支配)の到来という教えの説明が中心となる。1イエスの宣教のはじめここでは、洗礼者ヨハネの登場、イエスの水による洗礼、宣教開始の第一声、そして突然のイエスの出現に驚く人々の反応が説明される。イエスの洗礼の話は、マルコ1:10-11を一緒に読むことから始まる。そして、イエスの第一声は印象深いものだった。洗礼者ヨハネがヘロデ・アンティパスに捕らえられた後、イエスは宣教活動を始めたとマルコ福音書は書いている。27年頃らしい。その第一声とは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1・15)時が満ちるとは、神の国とは、近づくとは、福音とは、なにか。小笠...神の支配とはなにかーエッセンス(4)

  • イエスは誰に話しかけていたのかーエッセンス(3)

    第2章は「イエスをめぐ歴史的な背景」と題されている。ここでは、イスラエル民族についての簡単な説明と、イエスが誕生した頃のイスラエル社会の特徴が素描される。イエスがどういう世界に生まれ、誰に向かって話しかけていたのか、を説明している。よく知られた話ではあるが、小笠原師の整理の仕方が興味深い。1イエスに至るまでの長い道のりイエスを理解するためには、ユダヤ教についての知識が必要であるとして、師はユダヤ教の説明から入る。まず、イエスラエルは民族名、ユダヤは宗教名、パレスチナは地域名としておこう。イスラエル民族のルーツはアブラハムで、神は「ヤーヴェ」と呼んでいた。イスラエル民族はBC1250年頃の「エジプトからの解放」という出来事を通して深い神体験を持つ。ヤーヴェはモーゼを通してイスラエルの民とシナイ山で「契約」(1)を...イエスは誰に話しかけていたのかーエッセンス(3)

  • 心の渇き ー キリスト教のエッセンス(2)

    導入本論に入る前の「導入」部分である。タイトルは「キリスト教信仰のエッセンスを学ぶーより善く生きるための希望と道しるべー」と題されている。これからの学びのための「視点」が述べられる。知識としてのキリスト教ではなく、より善く生きるための道しるべとしてのキリスト教信仰を学ぶことが強調される。より善く生きるとはどういうことか。師は、聖書から4箇所を取り上げる。マルコ8:36(イエスに従う者),テトス3:1-7(信徒の務め),フィリピ2:6-11(模範であるキリスト),ヨハネ1:1-2(神であるみ言葉)だ。どれも短くはないが、参加者全員の読みあわせから始まるのであろう。最初から聖書の説明だ。結局、イエス・キリストとの「関わり」が人に大きな「変化」を引き起こし、「心の渇き」が満たされるということが説明される。「信仰」が「...心の渇きーキリスト教のエッセンス(2)

  • 教会の誕生日ー聖霊降臨の主日(ペンテコステ)

    緊急事態宣言は解除され、最初の日曜日となる。今週も関口教会のミサに出る。関口の後、山手教会の英語ミサも覗いてみる。久しぶりの英語ミサだったが、言葉も典礼もなにか古臭い印象が残った。日本語ミサは現代的なのかもしれない。聖霊降臨の主日。復活節第8主日とは言わないようだ。明日から「年間第9週」にもどる。ペンテコステとは、歴史的には春の最初の収穫祭だったようだが、現在は教会の誕生日とされている。教会にとっては重要な主日だ。新型コロナウイルス対策の2020年度第2次補正予算案を巡り、「持続化給付金」の対象に教会など宗教法人は含まれないことになったようだ。憲法89条違反の疑いとは大げさだが、今回のコロナ禍に各宗教団体がどのように対応したか、いずれはっきりしてくるだろう。菊池大司教はお説教の中で、結局、公開ミサの予定について...教会の誕生日ー聖霊降臨の主日(ペンテコステ)

  • 使徒継承ーキリスト教のエッセンス(1)

    これから、入門講座で用いられるテキスト、『キリスト教のエッセンスを学ぶーより善く生きるための希望の道しるべ』(小笠原優)を読んでいきたい。神父様には僭越のそしりを免れないことを承知の上で、私の個人的感想も付け加えてみたい。本書は、主に6章からなり、260頁の大著である。目次をみてみよう。はじめに導入キリスト教のエッセンスを学ぶーより善くいきるための希望と道しるべー第1章なぜ「キリスト教」というのか第2章イエスをめぐる歴史的な背景第3章イエスの教えと行動第4章イエスの死と復活第5章キリスト教の誕生第6章死を超えた希望を生きる結びキリストを信じて生きるタイトルで見るとイエス論が中心のようだが、各章で聖書が引用され、詳しい説明がなされている。つまり、福音の解説が中心だ。また、キリスト教の発展の歴史も触れられており、さ...使徒継承ーキリスト教のエッセンス(1)

  • 入門講座で何を学ぶのか(3)ー受洗後の世界

    6入門講座の内容入門講座では何を学ぶのか。というより、なにが教えられているのか。いくつかの教会の入門講座の案内をネットで検索してみたが、なにか統一した指針があるわけではなさそうだ。基本は対象(受講者)次第らしい。イグナチオ教会のように「基本的に未信者の方対象」(1)と限定しているところと、私の教会のように信者さんもどうぞというところでは、講座の内容も、教材も、異なることだろう。とはいえ、洗礼を目的と考えれば、結局は二つのテーマが必ず取り上げられていることが解った。一つは「福音」のメッセージの解説だ。もう一つは「イエスの生涯」を追うことだ。同じことといえば同じことだが、視点を変えて同じことを説明するということらしい。結局は、共観福音書を学ぶことが入門講座の中心らしい。「聖書を通してキリスト教の信仰の基礎を学ぶ」と...入門講座で何を学ぶのか(3)ー受洗後の世界

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