カトリック社会学者のぼやき
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住所
逗子市
出身
逗子市
ハンドル名
kempisさん
ブログタイトル
カトリック社会学者のぼやき
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/kempis
ブログ紹介文
カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいています
自由文
-
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44回 / 355日(平均0.9回/週)

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カトリック社会学者のぼやき
  • 啓示神学の現状ー現代の啓示論(5)

    四啓示の伝承と教会1啓示の伝達者が使徒使徒は啓示の伝承者だから特別の地位を有する。イエスによって成就された啓示を直接体験した使徒たちのみが権威ある啓示の仲介者とされた。使徒たちは福音が伝えられるよう後継者を司教として残し、この伝承が聖書と聖伝として保存された(1)。啓示は信者個人によって伝えられるものではなく、教会の中に保たれ、繰り返し提示される。教会は教える権威を持つが、啓示に取って代わることはできない(1)。2伝承と聖書使徒たちの証言は最初はもっぱら口頭によって伝えられた。その後文書化され、新約聖書としてまとめられた。聖書は伝承として現れた使徒たちの教えの記録である。聖書と聖伝(HolyTradition)は教会に託された神の言葉である(2)。3啓示と教導職ここから啓示という神の委託物を後世に伝える使命と責...啓示神学の現状ー現代の啓示論(5)

  • 啓示神学の課題ー現代の啓示論(4)

    久しぶりの学び合いの会は、来日されるフランシスコ教皇様の教皇ミサの話から始まった。東京では、PapalMassinTokyo11月25日15:30~17:45東京ドームの募集が始まったのだ。私どもの教会では参加希望者が90名を超えている。当教会への割り当てが何名になるのか、抽選に漏れれば個人申し込みしか方法はなさそうだが、これも抽選だろう。楽しみに待とう。今日の会は、前半は「啓示憲章」の内容の紹介、後半は小笠原優師の啓示論の紹介であった。まず、「啓示憲章」の内容だ。これは、わずか20ページ余の短い文章なので、要約するより読んだ方が早いし、理解も正確なる。念の為要約しておこう。・序文この憲章は、トリエント公会議と第二バチカン公会議を踏まえながら、神の啓示とその伝達についての正真の教えである・第1章啓示そのものにつ...啓示神学の課題ー現代の啓示論(4)

  • ディアスポラ(離散)と宣教ー現代の啓示論(3)

    8月の学びあいの会はお休みなので、最近話題の啓示論を勉強して、9月の会に備えたい。この新しい啓示論は、フランスの神学雑誌『RecherchesdeScienceReligieuse』の編集長のクリストフ・テオバルド師(ドイツ系フランス人のイエズス会司祭、神学者)が、K・ラーナーが第二バチカン公会議以前の1954年に発表した論文を再読して、ラーナーの「ディアスポラ・キリスト教」論を現代の文脈で評価・解釈したもののようだ。論文のタイトルはずばり「ディアスポラ・キリスト教」で、南條俊二氏が翻訳されたものだ。出典は、「カトリック・あい」(catholic-i.net)である。わたしが今回この論文に興味を持ったのは、このところ第二バチカン公会議は行き過ぎだったという声がますます強くなってきていて、わたしはそういう声になに...ディアスポラ(離散)と宣教ー現代の啓示論(3)

  • 啓示憲章 ー現代の啓示論(2)

    Ⅲ第二バチカン公会議の開催経緯1公会議再開の試み第1ヴァティカン公会議(第20回公会議)は、教皇ピオ9世により召集され、1869年12月8日-1870年10月20日に開催された。これはイタリア統一戦争(1815-1871)で1870年にローマの教皇領の残りが併合されたため中断された。つまり、この公会議は完了していなかったので、その後、歴代の教皇はこれを補完・完成させる必要があると思っていたようだ。ピオ(ピウス)11世(1922-1939)は1922年に、、ピオ12世(1939-1958)も1948年にその再開の準備をしようとしたが、結局は実現に漕ぎ着けなかった。2ヨハネ23世と公会議の準備1958年10月ににピオ12世が死去すると、ヴェニスの大司教ロンカリ枢機卿が教皇に選出される。ヨハネ23世(1958-196...啓示憲章ー現代の啓示論(2)

  • 啓示とは何か ー現代の啓示論(1)

    7月も終わるというのに長梅雨があけない。7月の学びあいの会のテーマは啓示論であった。S氏の持論の展開というよりは、既存の議論を整理したいということのようであった。整理の仕方はいろいろあるだろうからここではできるだけ主要な論点だけを取り上げておきたい。啓示論はカトリック信仰において最も重要な「教義」であるにもかかわらず、最近は入門講座以外ではあまり聞かないテーマだ。啓示という耳慣れない言葉を聞くとすぐに「ヨハネの黙示録」(1)が思い出されて、なにかおどろおどろしい、まがまがしい、理解不可能な出来事と思われるからだろうか。他方、臨死体験や体外離脱など「啓明」と呼ばれることもあるテーマはテレビや雑誌などマスメディアのお好みのテーマのようだ。心霊現象やパワースポット観光案内も人気がある話題らしい。したがって、啓示という...啓示とは何かー現代の啓示論(1)

  • 『9条入門』を読むー加藤典洋氏を悼む

    加藤典洋氏が亡くなった。この5月16日だという。突然の訃報なので驚いている。71歳とはあまりにも若すぎる。わたしは加藤氏の熱心な読者ではなかった。面識もない。かれの著作には宗教性は感じない。フランス文学出身とはいえ宗教には関心をもっていなかったようだ。だがわたしは、『敗戦後論』以前からかれを少しずつフォローしていた。それは、かれのポストモダニズム批判の姿勢が興味深かったからだ。戦後思想の評価に関してもかれは、左翼からも、また右翼からも批判を受けていたようで、その立ち位置と主張は興味深いものであった。今回ちょうど『9条入門』を読み終わったところなので、この思いはさらに強まった。本書(2019年4月、創元社)は、憲法9条を巡る初期の歴史をあつかったもので1950年頃までをカバーしている。加藤氏は当然この後の安保での...『9条入門』を読むー加藤典洋氏を悼む

  • 『SNSと宗教』を読むーSNSは宣教に役立つのか

    日本カトリック司教協議会諸宗教部門が昨年9月22日に主催したシンポジウム「SNSと宗教――LINE・Facebook・Twitterがわたしたちに問いかけるもの」が「2018シンポジウム記録」として先日冊子として配布された。無料なので送ってもらって読んでみた。特に目新しい話はなかったが、ここで展開された議論を自分の教会に引きつけて考えたとき、いろいろ刺激を受けたので、少し触れてみたい。この昨年のシンポジウムは麹町教会(四谷のイグナチオ教会)で開かれたもので、出席者も100人を超えていたようだ。主催は諸宗教部門。諸宗教部門は司教協議会(1)の直轄の委員会で、「教団関連・諸部門Sections」のひとつだという(2)。パネリストは、中山義紹(曹洞宗熊本県第一宗務所副所長)、阿部仲麻呂(サレジオ会司祭)、志立正嗣(ヤ...『SNSと宗教』を読むーSNSは宣教に役立つのか

  • 現代のキリスト論 ー キリスト論の展開(7)

    20世紀以降のキリスト論は新しい段階を迎える。特に第二バチカン公会議をはさんで新しいキリスト論が続々と登場してくる。スコラ学から新スコラ神学へ、そしてさらに婚姻神秘主義へと、多様化が進んでいく(1)。Ⅰ新スコラ学から新しい神学への変化従来の教会の公式神学は新スコラ学または新トマス主義(ネオ・トミズム)であったが(2)、これを乗り越えようとする「新しい神学」形成の動きが出てくる。神学校ではトマス哲学が教えられていたが、どう考えてもトマス主義者とは呼べない神学者たちが登場してくる。このような動きの先駆けとしていつも名前が出てくるのが、ドイツのカール・アダム(1876-1966)とロマーノ・グアルディーニ(1885-1968)である。カール・アダムはイエスの人間性を強調して、史的イエス研究に好意的な立場をとっていたと...現代のキリスト論ーキリスト論の展開(7)

  • 「救われる」とはどういうことか ー キリスト論の展開(6)

    6月の学びあいの会は「キリスト論の展開」の第三回目であった。朝方の地震と大雨の中でおこなわれたが、出席者の顔ぶれはいつもと変わらない。今日のテーマは救済論だった。救われる、救済される、とはどういうことなのかを考える機会となった。仏教が輪廻からの脱出、業からの解脱が目標なら、キリスト教は救済が目標の宗教だ。キリスト教はユダヤ教、イスラム教とならんで救済宗教と呼ばれるが、ではキリスト教では救われるとはどういうことなのか。Ⅰ2種類のキリスト論S氏は川中師に倣って、キリスト論には広義・狭義のに二種類があるという。1つはいわゆる狭義のキリスト論で、「受肉のキリスト論」と呼ばれる。イエスとは誰か、何者だったのか、と問う普通のキリスト論だ。細かい議論はあったものの、カルケドン公会議(451)以降特に進展はなく、新しい教義は出...「救われる」とはどういうことかーキリスト論の展開(6)

  • 恩人を5人挙げよ

    知人と雑談をしていたら、「恩人を5人挙げるなら誰か、その中に信者さんはいるか」と問われた。あまり普段考えたことのない問いで一瞬驚いた。本当はいつも胸に秘めて感謝していなければならない人々のはずだが、きちんとまとめて考えたことはなかった。考えてみると、これは難しい問いだ。そもそも恩人とは誰のことか。領域ごとに異なるかもしれない。進学や職業選択でお世話になった人、思想や信仰面で影響を受けた人、金銭面でたすけてもらったことのある人、日常生活でお世話になっている人、趣味とかお稽古ごとの指導者などなど。小中高の先生を挙げる人もいるかもしれない。または職場の上司を挙げる人もいるかもしれない。5人、というのも難しい。まず、両親を挙げる人は多いだろう。だが5人の中に両親を含めてしまうと、数が足りなくなるかもしれない。または、5...恩人を5人挙げよ

  • キリストとは誰かー古代公会議でのキリスト論(5)

    Ⅴエフェゾ公会議1テオトコス(神の母)論争聖母マリアは、テオトコス(神の母)か、アンドロポストコス(人間の母)か、キルストコス(キリストの母)か、という論争。論争の発端は、コンスタンチノープルの大司教ネストリオスが428年に、伝統的な「神の母」の称号は正しくなく、「キリストの母」が正しいと主張したことにある。つまり、マリアは、キリストの人性の母であって、神性の母ではない、と主張した。これが大問題に発展した。2エフェゾ公会議431年この公会議ではキリストの神性と人性の結びつきがテーマであった。アレキサンドリア学派(キュリロス派、キュリロスはアレキサンドリアの大司教で、公会議の議長)とアンチオキア学派(ネストリオス派)が対立した。権力闘争でもあったため両派は激しく争い、結局ネストリオス派は排斥される。マリアは「神の...キリストとは誰かー古代公会議でのキリスト論(5)

  • キリストとは誰かー古代公会議でのキリスト論(4)

    5月の学びあいの会、「キリスト論の展開」の第二回目、は猛暑の中でおこなわれた。高齢者は外出を控えたくなる異常な暑さで、出席者も少なかった。今回は古代の6回の公会議の特徴の紹介であった。カテキスタのS氏や岩島師の独自の解釈が紹介されたわけではない。今日のポイントは、最初の6回の公会議のなかで(これを古代と呼んでいる)いわゆるキリスト論の教義は完成し、以後今日まで新たなキリスト論の教義は制定されていない、ということを繰り返し確認することであった。キリストとは誰か、イエスとは何者なのか。この問いへの答えは教義としては確立している。使徒信条である。イエス・キリストは神であり同時に人である。だが、この教義の確立までざっと400年かかっている。第7回の第二ニケア公会議まで含めれば約500年ということになる。そして以後現在ま...キリストとは誰かー古代公会議でのキリスト論(4)

  • 令和元年の初ホタルが飛ぶ

    今年、令和元年(2019年)5月16日午後7時45分に、今年初めてホタルが飛ぶのを見た。一匹。田越川のいつもの場所だ。今年の春は寒さが続いていたので心配したが、なんとか生き延びていたようだ。昨年は飛んだことは飛んだがあまりにも数が少なかったので、これでお終いかと友人知人と心配していたところだった。ホットしました。ちなみに、初めてホタルが飛んだ日付は以下の通り。2019年5月16日2018年5月15日2017年5月12日2016年5月12日2015年5月17日今年は来週の週末あたりがピークになるだろうか。令和元年の初ホタルが飛ぶ

  • 協会共同訳と新共同訳はどこが違うのか(3)

    Ⅱ翻訳のプロセス1パラテキスト今回の聖書協会共同訳は新共同訳の改訳ではなく、原文からの全く新しい翻訳だ。この新たな翻訳作業は、「パラテキスト」(ParaTExt)という翻訳支援ソフトを使ってなされたという。このアプリは画期的なものらしく、訳語の調整、修正、ルビの入力など完全なデジタル入力が可能なものだという。作業は、「聖書協会世界連盟」という組織のサーバーにすべて送られ、翻訳者は自分のパソコンをこのサーバーに同期させながら作業したという。今回の翻訳はインターネットの発達がなければ実現できなかったわけだ。2原語担当者と日本語担当者今度の聖書が新共同訳と大きく異なるのは、日本語担当者の比重が非常に高かったことらしい。原語担当者と日本語担当者の数の比率で言うと、新共同訳のときは9対1だったが、今回はなんと7対3だった...協会共同訳と新共同訳はどこが違うのか(3)

  • 協会共同訳と新共同訳はどこが違うのか(2)

    Ⅰ新共同訳と協会共同訳の共通点と違い1共同訳の原則聖書の共同訳に関する標準原則は第二バチカン公会議で作られたわけだが、どの国でも聖書の改訳は自国の事情に合わせて30年おきくらいに行われているらしい。日本での翻訳は、聖書協会訳は(1)、明治訳(1887)、大正改訳(1917)、口語訳(1955)、[共同訳(1978)]、新共同訳(1987)と続いてきたが、現在の新共同訳が「一般向け」という性格をもつのに対し、今回の協会共同訳はあえていえば「教会向け」という性格づけが強いらしい。新共同訳の時は委員会の構成はカトリックとプロテスタントが「同数ずつ」という原則だったが、今回は同数原則は廃止され、結果的には4:6くらいの割合だったらしい。新共同訳のときはカトリックのほうがより大きな影響力を持っていたようだが、今回は比重は...協会共同訳と新共同訳はどこが違うのか(2)

  • 協会共同訳と新共同訳はどこが違うのか(1)

    今日は憲法記念日で、大船教会で開催された講演会に出てきた。テーマは、「聖書聖書協会共同訳ーー回顧と展望」で、講演者は日本聖書協会の岩本潤一氏、主催者は「栄光同窓カトリックの会」であった。出席者は、われわれのように栄光学園とは関係のない人も含めて50人ほどはいたであろうか。このテーマの講演が憲法記念日の今日にぶつけて開催されたのは特別なにかを意図したものではなかったようだ。むしろ同窓会を開いたという印象で、和気藹々の集まりであった。講演者の岩本氏は上智大学大学院の哲学を修了し、現在は日本聖書協会所属。今回の「協会共同訳」聖書の翻訳・編集の事実上のマネージャーの方だったようで、8年にわたる今回の新しい聖書作りのほぼすべてを見てこられた方のようである。今日は、氏が書かれた論文「『聖書聖書協会共同訳』ーー回顧と展望」を...協会共同訳と新共同訳はどこが違うのか(1)

  • 増田祐志師を悼む

    今日のごミサのあと、知人と増田師の神学について話し合った。増田師とはわれわれは面識はない。だが、師の神学から学ぶことが多かったので、ここで少しふれて弔意を表したい。増田師はイエズス会司祭。上智大学神学部教授。この3月9日に逝去。1963年生まれだから享年55歳。なんとも惜しまれる。専門は教義学、特に教会論という。『カトリック教会論への招き』(2015)は現在でも良く読まれているという。ここでは、師が編集された『カトリック神学への招き』(2009)のなかで展開された師の神学の特徴をみてみたい。第6部「現代の神学」のなかの第16章「現代神学の課題」である。この章で、師は、「神学の究極の課題は「救い」についてである」と述べる。神学とは救済論だと断定する。だがこの救済論は多様性を持たざるを得ない。それは、「教会はどのよ...増田祐志師を悼む

  • あなたは社会とどう関わっているのか ー キリスト論の展開(3)

    表題は岩島師の「心すべき点」の三点目。師は、「伝統的宗教の踏襲ではなく、今の教会・日本社会・世界との関係で信仰をつかみ直」せ、と言う。個人的信心だけではなく、実践が大事ですよ、ということであろう。私なんぞは、時々駅前で署名したり献金したりして、これといって何もしていない日頃の怠惰から生まれる罪意識をかすかに解消して自己満足しているだけ。師から、何かをしなさい、と言われても何も思いつかない。しょうがないから、続きを書いてみます。Ⅳ3世紀のキリスト論1異端の再登場3世紀のキリスト論は第二の巨大な異端説、モナルキア主義への反駁が中心だ。モナルキアとは神の単一支配を意味する。正統なロゴス・キリスト論(1)、つまりキリストを神のロゴスの受肉と考えた教父たちに対抗して、神の単一支配、一神教に固執した異端が再度登場してくる。...あなたは社会とどう関わっているのかーキリスト論の展開(3)

  • あなたの信仰の意味は何か ー キリスト論の展開(2)

    表題は先に触れた岩島師の「心すべき点」の二点目。自分の信仰が、自分自身にとって、自分の人生にとって、どんな意味を持っているかを問いなさい、という意味だろう。信仰を持っていても、教会に通っていても、現代の日本ではそれで特に人生が変わったとか、職場で影響を受けているとかいう人は少ないだろう。もちろん信仰が人生そのものという人もいるだろうが、私なんぞはそれで人間関係が少し広がり、深くなったという程度のもので、岩島師の言葉には反省しきりである。Ⅱ新約聖書のキリスト論新約聖書のなかにみられるキリスト論の特徴は、パウロと共観福音書とヨハネ福音書ではキリスト論の強調点が少し異なるところだろうか。共通する原点は言うまでもなく復活体験であり、復活体験を通してキリスト信仰に到達している。中心命題は明確である。「ナザレのイエスは、神...あなたの信仰の意味は何かーキリスト論の展開(2)

  • あなたは何を信じているのか ー キリスト論の展開(1)

    今月の学びあいの会はカテキスタのS氏によるご自身のキリスト論の紹介であった。神学に造詣の深いS氏がご自分の信仰をどのように語るのかと興味を持って会に出た。実際には氏の報告は、氏が神学に関して強く影響を受けているイエズス会の岩島忠彦師のキリスト論を自分なりに整理したもののようであった。とはいっても、S氏の個人的信仰論も垣間見られ、興味深いものであった。長い四旬節、聖週間、過越の三日間、と、みなさん疲れた(体重も減ったか)。だけど昨日の復活祭でお祝いしてみなさん晴れやかであった。出席者も多かった。岩島師は組織神学がご専門のようで、キリスト論と教会論が中心のようである(1)。岩島師は、現在の日本のカトリック者が自分の信仰を見直すためには以下の三点が必要だという。①正確な知識―私たちが何を信仰しているのかを反省し、人に...あなたは何を信じているのかーキリスト論の展開(1)

  • 足を洗ってもらった ー 洗足式にて

    今日は聖木曜日。聖週間も聖なる過越の三日間が始まった(1)。洗足式にお呼びがかかり、神父様に足を洗ってもらった。久しぶりの洗足式で印象深かった(2)。ミサもゆっくりしたものであった(3)。洗足式とは、最後の晩餐の時、イエスが弟たちの足を洗ったのにならい、司祭が12人の信徒の足を洗う儀式だ(4)。「愛」と「へりくだり」が主要なメッセージのようだ。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである」(ヨハネによる福音書13:14、聖書協会共同訳)(5)。実際の洗足式のやり方はいろいろあるようだが、われわれは、神父様に足をっ洗てもらうのだから、恐縮というか申し訳ないという気持ちでいっぱいになる。、今日は、われわれが、たらいに足を入れそこに神父様が水差し(魔法瓶)から水...足を洗ってもらったー洗足式にて

  • イエスの復活の証言 ー 復活物語(3)

    イエスの復活は物語として伝承されていく。復活物語は二つの部分を持っている。①空の墓の物語②出現物語。子ども向けのマンガ聖書ではもっともよく好まれる場面だという。1)「空の墓」の物語これは、マルコ16:1-8,ヨハネ20:1-10だ。特に、福音書記者マルコが「三人の女」を登場させてくるのが印象的だ。「また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた」(マルコ15:40)女性たちはいつも十字架のイエスのまわりにいた。女性蔑視観のつよいこの時代に福音書がいつも女性の存在を強調していることに驚く。イエスが最初に現れたのも女性だった。2)「出現」物語イエスの出現物語は、ヨハネ20:11-18とか、ルカ24:13-35が中心だ。ここで、「見た」という言葉が繰り...イエスの復活の証言ー復活物語(3)

  • イエスの復活の証言 ー 信仰告白(2)

    イエスの復活の証言には二つの類型があるという。①信仰告白の伝承と、②復活物語の伝承だ。1)信仰告白伝承の類型信仰告白には、「復活」論と「高挙」論の二種類がある。①イエスの復活に関しては、「神はイエスを復活させた」というロマ書が中心で、主語は神だ。神がイエスを復活させた。「口でイエスを主であると告白し、心で神がイエスを支社の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」(ローマの信徒への手紙10:9)ここでは主語は神で、能動態だ。他方、「イエスは復活した」とイエスを主語とする文言もある。「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。それならば、神はまた同じように、イエスにあって眠りについた人たちを、イエスとともに導き出してくださるのです」(第一テサロニケの信徒への手紙4:14聖書協会共同訳...イエスの復活の証言ー信仰告白(2)

  • イエスの復活 ー 使信に見る(1)

    いよいよ復活論である。イースターももうすぐだし、時宜にかなったテーマだった。季節の変わり目で体調を崩された方が多く、3月の学びあいの会の出席者は少なかった。昨年6月から続けてきた川中師のイエス論もこれで最終回となる。復活はキリスト教信仰の中核中の中核で、イエスの復活への信仰なしにキリスト教信仰は成り立たない。ところが、「復活」といわれてもなかなかイメージが定まらない。「からだの復活」とはなんのことか(1)。さすが現在では、「復活」を「蘇生」(生き返り)と同一視する人はいないだろうが、呪術信仰が強い人の中にはまだ残っているかもしれない。むしろ、現在では「復活」とは「死者の思い出」、「死者の記憶」だという理解が、誤解が、広がっているように思える(2)。だが、復活は記憶ではない。現在のキリスト教神学のなかで旧態依然の...イエスの復活ー使信に見る(1)

  • お彼岸に「お墓教」に思う

    平成最後の春のお彼岸。私どもも習慣で墓参りに行ってきた。暖かい春の小春日和というところか。桜もちらほらと咲いていた。今年はなぜか「お墓教」を強く思った。師匠の一人を最近亡くしたせいかもしれない。人出が多かったせいかもしれない。この人たちはほとんどが「お墓教徒」で、「仏教徒」ではない。仏様を信じているのではない。お墓を信じているのだ。信仰の対象はお釈迦様ではなく、お墓そのもなのだ。この人たちの今日の行動を想像してみる。朝、車に乗って(歩いて、バスで)お寺さんに向かう。途中お供えの花を購入する。お寺さんに着くと、そのまま自分の墓所に向かう。本堂には向かわない。お寺の和尚さんには挨拶しない。従って手土産も渡さないし、世間話もしない。もちろんお布施を包むこともない。つまり、かかわりと持とうとしない。線香やマッチは水屋に...お彼岸に「お墓教」に思う

  • 平成最後の灰の水曜日に思う

    今日の灰の水曜日からから四旬節が始まった。ヨーロッパでも南米でもカーニバルの大騒ぎが終わって静かさが戻ったことだろう。日本では平成最後の四旬節となる。典礼暦にとって平成は特に意味は無いが、この11月にはフランシスコ教皇さまが来日されるとのことだし、この四旬節は平成時代をふり返るひとつの機会なのかもしれない(1)。四旬節は回心と節制の季節だ。回心は悔い改めを含むから、悔悛(改悛)と言った方がわかりがよいか。今日の灰の水曜日は大斎・小斎の日なので断食の日といわれることもあるようだが、四旬節は40日間の節制の季節と言った方がわかりが良さそうだ。断食は絶食ではないし、空腹感を常に感じて感覚を研ぎ澄ますのだから、やはり節制の方が言葉としてはわかりやすい気がする。四旬節は当初は洗礼志願者の準備期間だったらしいが、幼児洗礼が...平成最後の灰の水曜日に思う

  • ご受難(4)ー 十字架刑 新約聖書とイエス(17)

    Ⅰイエスの十字架刑十字架刑はローマ帝国に対する反逆罪に適用されるが、非ローマ市民にのみ適用される極刑のことだ(1)。ローマ市民には斬首が用いられた。川中師はここでJ・ブリンツラーを引用して、極刑を描いていく(2)。残酷な描写だが念のため引用してみよう。「死刑の宣告を受けたものはーイエスの場合はすでに先立って執行されたが、鞭打ちを受けた後ー地面の上で両腕を伸ばした姿勢でまず横木へ釘付けされ、それからそれを自分で背負って処刑場まで引いてゆかねばならなかった。そこに着くとその横木は罪人の身体もろともつるし上げられ、地中深く垂直に立てられた柱へ固定され、さらにこの柱へ彼の両足が釘付けされた。柱のほぼ中央に丸太材が取り付けられていて、身体の垂れ下がるのを支えた。」イエスは、9時に十字架につけられ、12時に全地は暗くなり、...ご受難(4)ー十字架刑新約聖書とイエス(17)

  • ご受難(3)ー ゲッセマネと裁判 新約聖書とイエス(16)

    2月の学びあいの会は、インフルエンザと花粉症が同時に襲ってきて、出席者は少なかった。内容は、ご受難の最後の場面に近づいていく。最後の晩餐の後、イエスは次のステップに進まれる。①ゲッセマネの園での祈り②イエスの裁判③十字架刑と続く。十字架につけられた死刑という、斬首よりも残酷な極刑。このままで終わってしまっては残酷な話のひとつで終わってしまう。この話は「復活」という光の中に位置づけなければ理解できない。Ⅰゲッセマネのイエスゲッセマネの園でのイエスの最後の祈りの話は、マルコ14:32ー,マタイ26:36ー,ルカ22:39ーにみられるが、やはり中心はマルコだ。ゲッセマネとは油を絞るという意味らしく、今でもあるらしい。巨大なオリーブの樹が茂っていて、岩の上に教会が建っているという。イエスはここでよく祈っていたようだ。こ...ご受難(3)ーゲッセマネと裁判新約聖書とイエス(16)

  • おひとり様時代の教会奉仕について

    この記事は主にカト研の皆さんへのご報告です。カト研の皆さんも少しずつお年をとってこられているのでおわかりいただけると思っての投稿です。私の所属教会で動いているある高齢者の集まりで話をする機会を与えられました。これと言った話題も思いつかなかったので、最近考えている教会の奉仕活動について何か話してみようと思いました。奉仕活動と言っても教会のお茶当番すらおぼつかないのにおこがましいと言われるのを承知でお引き受けしました。と言っても、どういう角度から議論するか迷いましたが、この会はご高齢の方が多いので、「おひとり様」という視点から論じてみたいと思いました。おひとり様論も色々あるようですが、自分なりに最近考えていることをまとめたものを話してみました。配付した資料を添付しましたので、ご覧ください。内容はくどくと説明しなくと...おひとり様時代の教会奉仕について

  • 集会祭儀かみことばの祭儀かー典礼研修会に出て(3)

    午後の講演はまず、O師による「ことばの典礼ーみことばを受ける、応える-」というタイトルでおこなわれた。午前中の師の講演とは異なり、よく準備され、テーマが絞られたよい講演であった。師はまず、ことばの典礼はユーカリスチア(聖餐、共食、聖体、イエスのパン割き)の前半部分なのではなく、独立した「場面」であると強調された。聖変化前の単なる導入、準備ではないということなのであろう。続いて、「第一朗読・答唱詩編・第二朗読・アレルヤ唱・福音朗読・説教・信仰宣言・共同祈願」と、式次第の流れに沿って個別に詳しく説明された。特に強調されたのは、ことばの典礼は「神と人とのやりとりー応答」だという点だった。応答とは信者の「参加」が不可欠であり、具体的には神からの呼びかけに信者が応える「態勢」をとることだという。典礼憲章がいう信徒の行動的...集会祭儀かみことばの祭儀かー典礼研修会に出て(3)

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