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アートプラス京めぐり https://blog.goo.ne.jp/korede193

京都の探索中、記事数5200、まち歩き・寺院神社・石碑道標・陵墓・看板 京都府南部も始めました

アートプラス京めぐり
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2015/02/19

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  • 運動記録 1月23日 現在 3年1ヶ月目

    2022年1月階段昇降90回で高さ270mの往復階段数なら1260段の往復、ダンベル1回で2個16㌔200回で3.2トンを持ち上げる。階段昇降120回で1680段、あべのハルカスのビルの階段は1637段22日休みCD1497回21日休みCD1498回20日休みCD1499回19日休みCD1500回18日ダンベル200回【1600回】腹筋50回【400回】17日休みCD1501回16日ダンベル200回【1400回】腹筋50回【350回】15日ダンベル200回【1200回】腹筋50回【300回】14日休みCD1502回13日階段昇降100回【680回】ダンベル200回【1000回】腹筋50回【250回】12日休みCD1503回11日階段昇降100回【580回】ダンベル200回【800回】腹筋50回【200回】10日...運動記録1月23日現在3年1ヶ月目

  • 運動記録 12月 31日 現在 継続中2年12ケ月

    2021年階段昇降1回で高さ3mの往復、ダンベル1回を2個16㌔で11月の運動記録1日階段昇降90回、ダンベル192回、腹筋50回運動記録10月31日現在継続中2年10ケ月10月の運動記録階段昇降【1920回】、ダンベル【3666回】、腹筋【889回】9月階段昇降1550往復、ダンベル3312回、腹筋【1514回】8月の運動記録階段昇降1220往復、ダンベル3780回、腹筋【991回】、CD残り1547回7月の運動記録階段昇降1700往復、ダンベル、1529回、腹筋247回、CD残り1555回6月の運動記録階段昇降1500往復、ダンベル2150回、腹筋258回CD1568回5月の運動記録4257往復【高さ12771㍍】、ダンベル3528回【56トン】、腹筋882回ウォーキング0歩【0㎞】、CD1583回4月の運...運動記録11月1日現在継続中2年11ケ月

  • 運動記録 10月31日 現在 継続中2年10ケ月

    2021年階段昇降1回で高さ3mの往復、ダンベル1回を2個16㌔で10月の運動記録1日階段昇降60回、ダンベル188回、腹筋106回9月階段昇降1550往復、ダンベル3312回、腹筋【1514回】8月の運動記録階段昇降1220往復、ダンベル3780回、腹筋【991回】、CD残り1547回7月の運動記録階段昇降1700往復、ダンベル、1529回、腹筋247回、CD残り1555回6月の運動記録階段昇降1500往復、ダンベル2150回、腹筋258回CD1568回5月の運動記録4257往復【高さ12771㍍】、ダンベル3528回【56トン】、腹筋882回ウォーキング0歩【0㎞】、CD1583回4月の運動記録3357往復【高さ10071㍍】、ダンベル3276回【52トン】、腹筋820回ウォーキング101320歩【59㎞】...運動記録10月1日現在継続中2年10ケ月

  • 運動記録 9月 30日 2年と9ヶ月目

    2021年階段1回で高さ3m往復、ダンベル1回・2個で16㌔8月1日階段昇降100往復、ダンベル180回、腹筋32回7月の運動記録階段昇降1700往復、ダンベル、1529回、腹筋247回、CD残り1555回6月の運動記録階段昇降1500往復、ダンベル2150回、腹筋258回CD1568回5月の運動記録4257往復【高さ12771㍍】、ダンベル3528回【56トン】、腹筋882回ウォーキング0歩【0㎞】、CD1583回4月の運動記録3357往復【高さ10071㍍】、ダンベル3276回【52トン】、腹筋820回ウォーキング101320歩【59㎞】、CD1590回運動記録2021年4月2年と4ケ月目3月の運動記録1640回4920m、ダンベル342054.7トン、腹筋920、ウォーキング36606歩20㎞2月の運動記...運動記録8月1日2年と8ヶ月目

  • 運動記録 7月 31日 2年7ヶ月目

    2021年階段1回で高さ3m往復、ダンベル1回・2個で16㌔7月の運動記録9日8日CD残り1562回7日階段昇降100往復【200】、ダンベル176回【352】、腹筋30回【50】6日階段昇降100往復、ダンベル176回、腹筋20回5日CD残り1563回4日CD残り1564回3日CD残り1565回2日CD残り1566回1日CD残り1567回6月の運動記録階段昇降1500往復、ダンベル2150回、腹筋258回CD1568回5月の運動記録4257往復【高さ12771㍍】、ダンベル3528回【56トン】、腹筋882回ウォーキング0歩【0㎞】、CD1583回4月の運動記録3357往復【高さ10071㍍】、ダンベル3276回【52トン】、腹筋820回ウォーキング101320歩【59㎞】、CD1590回運動記録2021年4...運動記録7月8日2年7月目

  • まち歩き中1745 間之町通【南北】ここは 竹屋町通【東西】

    間之町通は分断されている、高辻通~松原通で再び出現して、また松原通~万寿寺通で遮断される。そこから七条通まで枳殻邸の横を通って、七条通にまでまっすぐに通じている。途切れ途切れに続くのが間之町通。ここは竹屋町通を南方向に見ています。まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1744民家この柵は何のために?次回の記事⇒1746下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1745間之町通【南北】ここは竹屋町通【東西】

  • 蔵のある風景中0435回 屋根だけ見えるのだが・・・

    蔵のある風景前回の記事⇒蔵のある風景井手0434井手町次回の記事⇒0436回下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます蔵のある風景中0435回屋根だけ見えるのだが・・・

  • まち歩き中1744 民家 この柵は何のために?

    戦国期のおよそ百年、京都は一条通以北に上京の町々があり、下京の町々はほぼ三条通以南、松原通以北に集中していた。まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1743御冠烏帽子の店次回の記事⇒1745下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1744民家この柵は何のために?

  • まち歩き中1743 御冠 烏帽子 の店

    現在の間之町通のスタート地点は丸太町通で、ここから南下すると、すぐ姉小路通で行き止まりとなる。この行き止まりは高辻通まで続く。神祭具御冠烏帽子の店まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1742間之町通北の端丸太町通次回の記事⇒1744下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1743御冠烏帽子の店

  • まち歩き中1742 間之町通 北の端 丸太町通

    間之町通約2㎞高倉通と東洞院通の間にできた通りなので「間之町通」(あいのまちとおり)と呼ばれた。豊臣秀吉の都市大改造によって誕生した通り。ここから南へ行くことにします。北の端京都御苑西を見る南を見る進行方向になります。まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1741落ち葉次回の記事⇒1743下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1742間之町通北の端丸太町通

  • まち歩き左1741 落ち葉

    まち歩き前回の記事⇒また歩き左1740落ち葉次回の記事⇒1742下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1741落ち葉

  • また歩き左1740 落ち葉

    2019年11月12日撮影まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1739植物園から比叡山を見る景色次回の記事⇒1741下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまた歩き左1740落ち葉

  • まち歩き左1739 植物園から比叡山を見る景色

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1738連理の枝永遠の愛の象徴次回の記事⇒1740下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1739植物園から比叡山を見る景色

  • 石碑左0243 小野蘭山 顕頌碑

    小野蘭山顕頌碑石碑前回の記事⇒石碑左0242府立植物園開園記念次回の記事⇒0244下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石碑左0243小野蘭山顕頌碑

  • まち歩き左1738 連理の枝 永遠の愛の象徴

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1737桜の立体標本次回の記事⇒1739下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1738連理の枝永遠の愛の象徴

  • まち歩き左1737 桜の立体標本

    府立植物園には約70種の桜が植栽されていますまち歩き前回の記事⇒まち歩き左1736植物園内の彫刻植物に覆われて詳細不明次回の記事⇒1738下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1737桜の立体標本

  • 石碑左0241 府立植物園 開園記念

    丸い所は時計が埋め込まれていた。文字は明治天皇の歌が詠まれている。との事らしい。石碑前回の記事⇒石碑左0241太平有象京都植物園設立記念碑次回の記事⇒0243下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石碑左0241府立植物園開園記念

  • まち歩き左1736 植物園内の彫刻 植物に覆われて詳細不明

    関連記事⇒まとめ020彫刻まち歩き前回の記事⇒まち歩き1735植物園内の彫刻「十五夜の力士」抜水政人2003年次回の記事⇒1737下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1736植物園内の彫刻植物に覆われて詳細不明

  • 石碑左0241 太平有象 京都植物園設立記念碑

    設立記念碑解説大典記念京都植物園設立記念碑この石碑は、当植物園の開園に際して尽力された第10代京都府知事大森鍾一氏と三井家の功績をたたえて昭和3年にたてられたものです。碑文には、大森知事が大正天皇の御大典記念に植物園の創設を企画したこと、代々京都に在住していた三井家(総本家当主第10代三井八郎右衛門)が建設費・維持費の総額55万円を数回に分けて寄付されたこと、大正6年4月9日に着工し、同12年11月10日に竣工したことなど、開園にいたるまでの経緯が記されています。御大典紀念碑のあるところ⇒まとめ051関連0008御大典記念のあるところ石碑前回の記事⇒石碑右0240右京区越畑の經王塔次回の記事⇒242下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石碑左0241太平有象京都植物園設立記念碑

  • まち歩き1735 植物園内の彫刻 「十五夜の力士」 抜水政人 2003年

    関連記事⇒まとめ020彫刻まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1734植物園内の彫刻「おもい」久間秋夫作次回の記事⇒1736下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き1735植物園内の彫刻「十五夜の力士」抜水政人2003年

  • まち歩き左1734 植物園内の彫刻 「おもい」 久間秋夫 作

    おもい1963年久間秋夫作彫刻前回の記事⇒まち歩き1444植物園内の彫刻「風と舞う」江里敏明次回の記事⇒下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1734植物園内の彫刻「おもい」久間秋夫作

  • 神社左0254 府立植物園内に半井神社(なからいじんじゃ)

    世界文化遺産・上賀茂神社末社半木神社(なからぎ)流木神社とも云い、この周辺は京都絹織物発祥の地といわれ、織物業の守護神・府立植物園開園後は植物園の守り神として崇敬され、毎年4月・11月に行われる春秋の祭典には多数の関係者が訪れます。多くの木や花が実を結ぶ処に因み、試験の合格や恋愛成就の願いが叶うとの信仰が厚く、その努力が実を結ぶお守り『実守』を上賀茂神社で授与しております。神社前回の記事⇒神社右0253樒原四所神社次回の記事⇒255下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます神社左0254府立植物園内に半井神社(なからいじんじゃ)

  • 花左066 植物園 ツルソバ

    花前回の記事⇒花左065植物園キセワタ次回の記事⇒067下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます花左066植物園ツルソバ

  • 花左065 植物園 キセワタ

    関連記事⇒花左039植物園キセワタ花前回の記事⇒花左064植物園アキノキリンソウ次回の記事⇒066下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます花左065植物園キセワタ

  • 花左064 植物園 アキノキリンソウ

    関連記事⇒花左056植物園アキノキリンソウ花前回の記事⇒花左063植物園タマムラサキ次回の記事⇒065下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます花左064植物園アキノキリンソウ

  • 花左063 植物園 タマムラサキ

    花前回の記事⇒花左062植物園シロヨメナとトンボ次回の記事⇒064下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます花左063植物園タマムラサキ

  • 花左062 植物園 シロヨメナ と トンボ

    2019年11月12日撮影関連記事⇒花左044植物園シロヨメナ花前回の記事⇒花左061大原花の名前わからず次回の記事⇒063下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます花左062植物園シロヨメナとトンボ

  • 神社右0253 樒原 四所神社

    嘉永5年1852年の建立四所神社征清紀念日清戦争への従軍かな明治28年9月と記されている四所神社四所神社は、室町時代の天文21年(1552年)、愛宕山白雲寺福寿院の幸海僧正によって、白雲寺奥の院と清滝からの愛宕山参道の途中にあった清滝四所明神を原村「かぶとの森」へ勧請したことに始まると伝えられる。かつて白雲寺奥の院には、鎌倉時代から幕末まで日本一の大天狗として信仰された太郎坊が祀られ、愛宕山の本尊・勝軍地蔵とともに愛宕大権現と呼ばれて、篤い信仰を集めていた。また、清滝四所明神には、役行者や白山の泰澄が愛宕山を開いたときに参道の大杉に現れた天狗たちを祀られた。明治時代の神仏分離により清滝四所明神は廃絶したが、樒原の四所神社は愛宕山の神々を祭神に迎え、村の鎮守として今も人々の信仰を集めている。現在の社殿は江戸時代の...神社右0253樒原四所神社

  • 道標右0324 越畑 樒原の道標

    みぎこしはたかみなし道せきす道標前回の記事⇒道標井手0323山背古道蟹満寺現代の道標次回の記事⇒0325下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標右0324越畑樒原の道標

  • 石碑右0240 右京区 越畑の經王塔

    石碑前回の記事⇒石碑右0239廻池築造記念碑次回の記事⇒0241下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石碑右0240右京区越畑の經王塔

  • まち歩き右1733 町名 嵯峨越畑南ノ町

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き亀岡1732郷土出身石田梅岩の展示亀岡ガレリア次回の記事⇒1734下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き右1733町名嵯峨越畑南ノ町

  • 史跡亀岡086 丹波国分寺跡

    史跡丹波国分寺跡附八幡神社跡丹波国分寺跡は、現在の国分寺境内に塔跡の礎石がすべて残り、またその鎮守社と考えられる八幡神社の跡があることなどから、貴重な遺跡であるとして昭和3年に国の史跡に指定されました。平成18年には発掘調査の結果、寺域が追加されました。これまでの発掘調査により、伽藍配置や各建物の規模等は概ね解明されていることから、国分寺の往時の姿を感じ取っていただくために、現在、環境整備工事を進めています。東面回廊跡丹波国分寺回廊跡丹波国分寺は東に塔、西に金堂、その背後に講堂を配置する伽藍です。回廊は伽藍(仏地と僧地)を画する細長い建物で、塔と金堂、さらには講堂を取り囲む場合、また金堂や講堂に取り付く場合など様々です。丹波国分寺では、回廊が僧房まで取り囲んでいる点が特徴的ですが、講堂に取り付く築地が想定され、...史跡亀岡086丹波国分寺跡

  • 寺院亀岡0781 穴太寺 西国33所観音霊場 第21番札所

    2019年11月10日撮影西国21番穴太寺亀岡市曽我部町穴太天台宗本尊・聖観音菩薩穴太寺は菩提山と号し西国33所観音霊場の21番札所として知られています。古くは「穴穂寺」「穴生寺」「菩提寺」などと呼ばれていました。宝徳2年(1450)にかかれた「穴太寺観音縁起」によると、文武天皇の慶雲年中(704~708)大伴古麻呂大臣が薬師如来を本尊として開創したと伝えています。当時早くから世に知られるようになったのは、聖観音像にまつわる「身代わり観音」の霊験譚によります。「本朝法華験起」(1040~1044)「扶桑略記」(平安時代後期)「今昔物語」(平安時代後期)によれば応和2年(962)丹波桑田郡の宇治宮成が京都から仏師感世を招き金色の観音像を造立したと伝えます。また「穴太寺観音縁起」は観音像の造立を寛弘7年(1010)...寺院亀岡0781穴太寺西国33所観音霊場第21番札所

  • 運動記録 6月3日 2年6ケ月目

    2021年階段1回で高さ3m往復、ダンベル1回・2個で16㌔6月の運動記録3日階段昇降100往復【200】、ダンベル172回【344】、腹筋43回【86】2日CD残り1582回1日階段昇降100往復【】、ダンベル172回【】、腹筋43回【】5月の運動記録4257往復【高さ12771㍍】、ダンベル3528回【56トン】、腹筋882回ウォーキング0歩【0㎞】、CD1583回4月の運動記録3357往復【高さ10071㍍】、ダンベル3276回【52トン】、腹筋820回ウォーキング101320歩【59㎞】、CD1590回運動記録2021年4月2年と4ケ月目3月の運動記録1640回4920m、ダンベル342054.7トン、腹筋920、ウォーキング36606歩20㎞2月の運動記録【2520】7560㍍、ダンベル【4212】6...運動記録6月3日2年6ケ月目

  • 石碑右0239 廻池 築造記念碑

    四三廻池築造記念碑明治11年此地を地元の肝煎にて貯水池築造を企画し仝12年工事着手仝13年完了築造以来80年を経て年々漏水甚だしく危険溜池として昭和33年より改築昭和45年7月旭土地改良区石碑前回の記事⇒石碑木津川0238南山城水害記念碑北河原地区次回の記事⇒0240下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石碑右0239廻池築造記念碑

  • 神社亀岡0252 亀岡 走田神社

    享保3年4月の鳥居(1717年)走田神社走田神社は社伝等によると和銅4年(711)に創祀されたといわれます。また、平安時代の「延喜式」の「神名帳」に記載されている丹波国桑田郡19座の内の1社です。祭神は彦炎出見尊、豊玉姫尊、彦波・・・の3社をお祀りしています。この彦炎出見尊は神話「海幸彦、山幸彦」に登場する山幸彦にあたります。豊玉姫尊は、山幸彦が海幸彦の釣り針を探しに行かれた龍宮に住む海神の娘で彦炎出見尊の妃となった方です。・・・・はこの2神の御子です。昔社殿に掛けられていた絵馬から馬が毎夜抜け出て草を食べ歩き、やがてその蹄の跡が窪地となり川になったといわれます。この川は増水の時でも川音を立てないことから「不鳴川」とも呼ばれます。この川は、干ばつの時でも枯れることがなく、近隣の田畑を潤しました。また、この川の改...神社亀岡0252亀岡走田神社

  • まち歩き亀岡732 郷土出身 石田梅岩の展示 亀岡ガレリア

    梅岩は、江戸時代中頃の享保期を中心に活躍しました。この時代は、近世封建社会のおおきな転換期にあたり、徳川吉宗の「享保の改革」にみられるように、幕藩体制の矛盾が表面化します。その反面、商業の発達により町人が台頭してきます。梅岩の教えはその町人層にひろまり、大阪・兵庫・奈良方面への出張講釈を行うようにもなりました。「人の人たる道」を求めながら、同時に商業活動における営利追及を積極的に肯定し、勤勉と倹約を説き正直を勧めたことから、町人の自覚を高めることとなり、この時代の風潮に適合していたと言えます。長年の研究成果の総決算として、元文4年(1739)55歳で『都鄙問答』、さらに、延享元年(1744年)59歳で倹約成果の総決算として、さらに延享元年(1744)59歳で「倹約斉家論」を刊行しました。同年9月24日、60歳の...まち歩き亀岡732郷土出身石田梅岩の展示亀岡ガレリア

  • 神社木津川0251 涌出宮(わきでのみや) 和伎神社

    和伎神社(わきじんじゃ)和伎坐天乃夫岐賣神社(わきにますあめのふさめ)神社古来より天下の奇祭「いごもり祭」で世に知られる涌出宮(わきでのみや)森に鎮座する古社である。創建は、1200年前の、称徳天皇の天平神護2年(766年)に伊勢国度合郡五十鈴川の畔より、御祭神としてこの地に勧請された。昭和44年境内地の発掘調査の際、多数の弥生式土器片や石器類が出土し、弥生時代の集落跡であることが判明した。綺原神社と共に当地方屈指の古社です。本殿前の左右の四角形石燈籠(重要美術・南北朝)は高さ2m。居籠祭毎年2月15日から3日間行われる当社の祭礼。期間中はいっさい外出をやめ、物音を立てることを禁じる風習となっている。神社前回の記事⇒神社木津川0250木津川春日神社次回の記事⇒0252下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると...神社木津川0251涌出宮(わきでのみや)和伎神社

  • まち歩き木津川1731 ブロック塀の一部に井戸の井桁の石が使われています

    井桁の向こうは井戸があるのでしょうかまち歩き前回の記事⇒まち歩き木津川1730天井川不動川をくぐるJRのトンネル反対側から見ると次回の記事⇒1732下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き木津川1731ブロック塀の一部に井戸の井桁の石が使われています

  • 寺院木津川0780 久遠山 阿弥陀寺 浄土真宗 仏光寺派

    この寺はもともと寺子屋のようなものであったが、しだいに信者が集まるようになり開基となる。その後宝暦8年(1785)に寛住法師がお堂を建て現在にいたる。寺院前回の記事⇒寺院木津川0779西福寺浄土宗次回の記事⇒0781下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院木津川0780久遠山阿弥陀寺浄土真宗仏光寺派

  • 寺院木津川0779 西福寺 浄土宗

    西福寺は、上狛環濠集落内の磯垣内に所在する念仏山浄雲院の山号を持つ寺院です。創建については、不詳でありますが、永禄3年(1560)に僧道春が中興したと伝えています。西福寺には山城国一揆を組織した国人衆の一人である狛山城守秀の子孫と考えられる狛佐馬進秀綱肖像画が残されています。天正12年(1584)4月9日の狛秀綱の没年月や「常雲禅定門」の戒名裏には狛佐馬進源綱之遺像などの墨書があり、天正12年に35歳で没した狛秀綱の死後に描かれた肖像画であることが確認されています。秀綱は織田信長に仕官し、その配下として上狛における地位や勢力の拡大を図ったとみられる人物で、狛弁財天社の再興も行ったと考えられています。当寺には、秀綱の肖像画とともに彼の位牌も現存する他、上狛惣墓から発見された墓石も境内に安置されています。また、11...寺院木津川0779西福寺浄土宗

  • 神社木津川0250 木津川 春日神社

    神社前回の記事⇒神社左0249大原飯導寺神社次回の記事⇒0251下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます神社木津川0250木津川春日神社

  • 寺院木津川0778 正塔山 延命寺

    鎌倉時代の石造物寺院前回の記事⇒寺院木津川0777正覚山阿弥陀寺浄土宗次回の記事⇒0779下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院木津川0778正塔山延命寺

  • 寺院木津川0777 正覚山 阿弥陀寺 浄土宗

    浄土宗知恩院派大永元年(1521)村人の要請で建立され開基となる。天正7年(1579)焼失するが、慶長2年(1597)信誉上人により再建される。安政6年(1859)には、荒れた寺を雷雨上人が中興する。大正12年(1923)に現在の建物を建立し現在に至る寺院前回の記事⇒寺院木津川0776浄光山西音寺次回の記事⇒0778下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院木津川0777正覚山阿弥陀寺浄土宗

  • 古墳木津川30 木津川 椿井大塚山古墳

    現在地から実線に沿って古墳の頂上部まで行きました。カラスウリ後円部を見る史跡椿井大塚山古墳椿井大塚山古墳は、木津川を望む段丘上に立地する古墳時代前期初頭の前方後円墳です。墳丘の規模は、全長約175m、後円部直径約110m、前方部長約80m、前方部墳端幅約76mを測り、高さは後円部約20m、前方部約10m程度であったと考えられます。築造時期は、奈良県桜井市の箸墓古墳を頂点とする定型化した前方後円墳の出現時期(3世紀後半)にあたり、いわゆる邪馬台国の時代の古墳です。昭和28年(1953年)、古墳後円部を横断する鉄道の改良工事が実施され、偶然に発見された竪穴式石室から、三角獣神獣鏡30数面を含む40面近くの銅鏡や、おびただしい量の副葬品が出土しました。三角獣神獣鏡については、邪馬台国の女王卑弥呼が中国の魏の皇帝から賜...古墳木津川30木津川椿井大塚山古墳

  • 石仏木津川058 木津川 北河原 の石仏

    石仏前回の記事⇒石仏左057大原石仏小さな祠次回の記事⇒059石仏木津川058木津川北河原の石仏

  • 石碑木津川0238 南山城 水害記念碑 北河原地区

    昭和28年8月15日豪雨洪水でこの地区で7名の方が亡くなっている石碑前回の記事⇒石碑左0237一福茶屋次回の記事⇒0239下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石碑木津川0238南山城水害記念碑北河原地区

  • 寺院木津川0776 浄光山 西音寺

    創立文亀2年(1502年)浄土宗知恩院派元禄3年に阿弥陀如来を寄進される寺院前回の記事⇒寺院井手0775浄土宗知恩院派高倉山阿弥陀寺次回の記事⇒0777下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院木津川0776浄光山西音寺

  • まち歩き木津川1730 天井川 不動川をくぐるJRのトンネル 反対側から見ると

    トンネルの向こうが京都方面トンネルの上は天井川の不動川関連記事⇒まち歩き木津川1728一級河川不動川まち歩き井手1727トンネルの上は川が流れていますまち歩き前回の記事⇒まち歩き木津川1729初めて見た米つき石次回の記事⇒1731下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き木津川1730天井川不動川をくぐるJRのトンネル反対側から見ると

  • まち歩き木津川1729 初めて見た 米つき石

    左側の石何に使うのかと調べると米をつくときの棒の支点になる石だったくびれたところに棒をわたしてばったんばったんと米をつく手前の石まち歩き前回の記事⇒まち歩き木津川1728一級河川不動川次回の記事⇒1730下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き木津川1729初めて見た米つき石

  • まち歩き木津川1728 一級河川 不動川

    不動川(ふどうがわ)は京都府木津川市山城町を流れる一級河川。淀川系の木津川支流。河川延長は6キロメートルである。上流部は洪水堆積物が、下流部はレンズ状の堆積物が堆積している。木津川流域を流れる最大の天井川。不動川の大きさは河川敷45メートル、高さ15メートル、川巾5メートルで花崗岩の風化した砂が堆積している。上流で平水時地上水があるところでは、6メートルの川幅の中を水が樹枝状にゆっくりと流れている。1つの流れの幅は10~20センチメートルで、深さは10センチメートルほど。まち歩き前回の記事⇒まち歩き井手1727トンネルの上は川が流れています次回の記事⇒1729下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き木津川1728一級河川不動川

  • 道標井手0323 山背古道 蟹満寺 現代の道標

    道標前回の記事⇒道標左0322大原左寂光院次回の記事⇒0324下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標井手0323山背古道蟹満寺現代の道標

  • まち歩き井手1727 トンネルの上は 川が流れています

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き井手1726井手町稲の実り次回の記事⇒1727下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き井手1727トンネルの上は川が流れています

  • 蔵のある風景井手0434 井手町

    蔵のある風景前回の記事⇒蔵のある風景左0433回大原土蔵次回の記事⇒0435下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます蔵のある風景井手0434井手町

  • 祠井手063 大日如来

    祠前回の記事⇒祠城陽062若王子稲荷石碑城陽0234記念碑次回の記事⇒064下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます祠井手063大日如来

  • まち歩き井手1726 井手町 稲の実り

    2019年11月6日撮影まち歩き前回の記事⇒まち歩き井手1725JR奈良線を跨ぐ「天井川」次回の記事⇒1727下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き井手1726井手町稲の実り

  • 寺院井手0775 浄土宗 知恩院派 高倉山 阿弥陀寺

    創立者僧円輪度々の水害により資料は流失したが、言い伝えによると創立は奈良時代といわれている。平安時代末期に後白河法皇の第2皇子、高倉以仁王の菩提寺であったともいわれています。この以仁王は治承4年(1180)も平家討伐のため全国の源氏に挙兵の令を発したが平家の大軍におされ南部に逃げる途中、光明山寺の鳥居の前で平家の追手に殺されたという。この以仁王の死を偲んで刻んだ石仏が現在も、寺の境内に祀ってある。関連記事⇒陵墓府021以仁王神社府0108高倉神社寺院前回の記事⇒寺院左0774西徳寺次回の記事⇒0776下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院井手0775浄土宗知恩院派高倉山阿弥陀寺

  • まち歩き井手1725 JR奈良線を跨ぐ「天井川」

    北方面を見る南方面を見る手前は左が上流、右が下流。フェンスの向こう下側に線路が見えるこの川はいわゆる「天井川」になっていますまち歩き前回の記事⇒まち歩き左1724森前橋(親柱)次回の記事⇒1726下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き井手1725JR奈良線を跨ぐ「天井川」

  • まち歩き左1724 森前橋 (親柱)

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1723大きな灯籠ユニークな形次回の記事⇒1725下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1724森前橋(親柱)

  • ポスター0146 写真集 大原の里

    ポスター前回の記事⇒ポスター0145八坂神社舞楽奉納次回の記事⇒0147ポスター0146写真集大原の里

  • 石仏左057 大原 石仏 小さな祠

    石仏前回の記事⇒石仏左056大原蠟燭が灯り、線香から煙が出ています次回の記事⇒058下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石仏左057大原石仏小さな祠

  • まち歩き左1723 大きな 灯籠 ユニークな形

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1723大きな灯籠ユニークな形

  • 石仏左056 大原 蠟燭が灯り、線香から煙が出ています

    石仏前回の記事⇒石仏左055大原灯籠と共に次回の記事⇒057下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石仏左056大原蠟燭が灯り、線香から煙が出ています

  • まち歩き左1722 大原の風景

    南東方面を見る東方面を見るまち歩き前回の記事⇒まち歩き左1721大原薮こき次回の記事⇒1723下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1722大原の風景

  • まち歩き左1721 大原 薮こき

    道がなくなっていました。この草むらならすぐに通りぬけられると思ったのですが・・・・目の高さまで草が生い茂っていました。足元はほとんど見えず普通に歩けませんようやく通り抜けられましたまち歩き前回の記事⇒まち歩き左1720大原の風景次回の記事⇒1722下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1721大原薮こき

  • 石仏左055 大原 灯籠と共に

    石仏前回の記事⇒石仏左054大原での石仏次回の記事⇒056下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石仏左055大原灯籠と共に

  • 寺院左0774 西徳寺

    寺院前回の記事⇒寺院左0773寂光院次回の記事⇒0775下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院左0774西徳寺

  • 蔵のある風景左0433回 大原 土蔵

    蔵のある風景前回の記事⇒まち歩き中1529京の通り・堺町通NO6蔵のある風景0432回次回の記事⇒0434回下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます蔵のある風景左0433回大原土蔵

  • 愛宕灯籠左099 大原 愛宕神社のお札がある 火廼要慎

    関連記事⇒愛宕燈籠一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます愛宕灯籠左099大原愛宕神社のお札がある火廼要慎

  • まち歩き左1720 大原の風景

    東方面を見るまち歩き前回の記事⇒まち歩き左1719大原まち並み次回の記事⇒1721下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1720大原の風景

  • 神社左0249 大原 飯導寺神社

    飯導寺神社(はんどうじじんじゃ)野村町の鎮守の森で農耕神の飯導大権現を祀る。「はんどじさん」と呼ばれ、宮座(村の若衆の組織)で毎年10月秋祭り(お湯)の行事が行われている。かつては、中央の土俵で神さん相撲が奉納され、その日ばかりは見物人の声援でこの森が沸き返ったといわれている。「淋しさに宿を立ちて出でてなかむればいづこも同じ秋の夕ぐれ」と詠んだ良暹(りょうぜん)法師の庵があった。良暹山もここから近いこの社は飯導大権現を祀る神社として創建された。飯導大権現は、農耕と修験道の神様で、滋賀県甲賀にある飯導神社から勧請されたといわれている。神社は信仰心のあつい野村地区の人々によって護持されており、社の姿は創建当時の面影を残している。毎年秋ごろになると巫女さんが大原中をまわって湯上げ式を行い、野村地区では10月10日に行...神社左0249大原飯導寺神社

  • 石仏左054 大原での石仏

    石仏前回の記事⇒石仏左053大原での石仏簡素なほこら次回の記事⇒055下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石仏左054大原での石仏

  • 石仏左053 大原での石仏 簡素なほこら

    石仏前回の記事⇒石仏左052大原祠に守られて次回の記事⇒054下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石仏左053大原での石仏簡素なほこら

  • 愛宕灯籠左098 大原 愛宕の御札がある

    関連記事⇒愛宕燈籠一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます愛宕灯籠左098大原愛宕の御札がある

  • まち歩き左1719 大原 まち並み

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1718大原祖世野池(そよのいけ)次回の記事⇒1720下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1719大原まち並み

  • まち歩き左1718 大原 祖世野池(そよのいけ)

    祖世野池(そよのいけ)現在は小さな泉ですが、三条小鍛冶宗近(さんじょうこかじむねちか)が使った「小鍛冶の水」とも呼ばれ、左手前には刀を鍛えたとされている平らな鉄盤石が残されています。関連記事⇒関連0001三条小鍛冶宗近まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1717大原の風景次回の記事⇒1719下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1718大原祖世野池(そよのいけ)

  • 石仏左052 大原 祠に守られて

    石仏前回の記事⇒石仏左051石仏祠にありました次回の記事⇒053下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石仏左052大原祠に守られて

  • まち歩き左1717 大原の風景

    南方向を見る遠くの山は比叡山まち歩き前回の記事⇒まち歩き左0716大原乙が森次回の記事⇒1718下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1717大原の風景

  • まち歩き左0716 大原 乙が森

    乙が森大原の里には悲しい村娘乙の伝説があり、最後に大蛇に化けて復讐を図った乙の鎮魂の墓が3ケ所あります。乙が森では、大蛇の頭、花尻の森には尻尾、西之村霊神之碑には胴を葬ったとされています。年に一度、乙の法要が今でも丁重に行われています。大原の昔ばなし昔大原の里にはおつうという娘が住んでおりました。ある日上落の若狭の殿さまの目にふれおつうは玉の輿、殿様の国元に召されたのです。それはそれは夢ごこちの毎日をすごしていたのですが、やがておつうが病にかかると殿さまの心も変わって、おつうは戻されてしまったのです。おつうは悲しみのあまり大原川の女郎淵に身を投じました。するとたちまち、その美しい姿は大蛇に変わりました。そしてある日、都入りする殿様の行列が大原の花尻橋を通りかかったところを襲ったのです。暴れ狂う大蛇は家来によって...まち歩き左0716大原乙が森

  • 道標左0322 大原 左 寂光院

    右端の道標左寂光院明治42年6月奥田久(久兵衛?1909年)道標前回の記事⇒道標左0321左寂光院右朧の清水次回の記事⇒0323下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標左0322大原左寂光院

  • 道標左0321 左 寂光院 右 朧の清水

    左寂光院右朧の清水明治43年6月(1910年)京都中井三郎兵衛建立関連記事⇒まとめ059道標中井三郎兵衛氏建立の道標まち歩き左1711大原朧(おぼろ)の清水道標前回の記事⇒道標左0320左寂光院次回の記事⇒0322下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標左0321左寂光院右朧の清水

  • まち歩き左1715 大原 草生町

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1714大原の風景次回の記事⇒1716下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1715大原草生町

  • まち歩き左1714 大原の風景

    北東方面を見るまち歩き前回の記事⇒まち歩き左1713大原建礼門院庵室跡地次回の記事⇒1715下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1714大原の風景

  • 愛宕灯籠左097 大原 愛宕大神

    関連記事⇒愛宕燈籠一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます愛宕灯籠左097大原愛宕大神

  • 愛宕灯籠左096 愛宕大神

    関連記事⇒愛宕燈籠一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます愛宕灯籠左096愛宕大神

  • 墓所左011 大原 建礼門院の侍女たち

    左は建礼門院庵室跡地右は侍女たちの墓入口墓の案内前列阿波内侍、大納言佐局、治部卿局、右京太夫後列小侍従局この階段を登ったところにある前列、後列と墓が並ぶ石柱にも先ほどの立て札と同じように書かれていました建礼門院の庵室跡を見下ろしている後ろから見たところ階段登り口を見下ろしたまち歩き前回の記事⇒墓所左010智弁僧正の墓次回の記事⇒012下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます墓所左011大原建礼門院の侍女たち

  • まち歩き左1713 大原 建礼門院 庵室 跡地

    中央に「御庵室遺蹟」としるした石碑があるまち歩き前回の記事⇒まち歩き左1712大原草生町次回の記事⇒1714下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1713大原建礼門院庵室跡地

  • 神社左0248 神明神社

    境内には伊勢神宮と同じく内宮・外宮の2つの社殿がある。天照・豊受両大神を祀る。由緒等ははっきりしないが、古文書では文明8年(1486年)6月16日当社の拝殿にて送別の宴がひらかれた。神社前回の記事⇒神社左0247大原勝手神社次回の記事⇒0249下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます神社左0248神明神社

  • 寺院左0773 寂光院

    寂光院天台宗延暦寺に属する寺。『平家物語』がつたえる蓮礼門院ゆかりの地として知られ、多くの人が訪れる。寺伝によると、推古天皇2年(594)聖徳太子が用明天皇の菩提を弔うために建立され、太子の乳人玉照姫が初代の住職をつとめたとある。また一説には、承徳年間(1097~99)聖応大師良忍の開基ともつたえる。来迎院配下の子院として平安末期に創建されたものである。中世以降は近江の国坂本の聖衆来迎寺に属し、同寺で得度した尼僧が寂光院の歴代の住職をつとめるならわしとなり、現在におよんでいる。建礼門院が当院の傍らに一宇をむすび、平家一族の菩提を弔われたのは、文治元年(1185年)9月と伝え、次いで後白河法皇が夏草の茂みをふみわけ大原へ御幸されたのは、その翌年の陰暦4月下旬であったことは『平家物語』によって知られるところです。こ...寺院左0773寂光院

  • 道標左0320 左 寂光

    左寂光院明治43年(1910年)6月京都中井三郎兵衛建関連記事⇒まとめ059道標中井三郎兵衛氏建立の道標道標前回の記事⇒道標左0319右寂光院次回の記事⇒0321下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標左0320左寂光

  • 運動記録 5月 2年と5ケ月目

    2021年階段1回で高さ3m往復、ダンベル1回・2個で16㌔5月の運動記録1日階段昇降152回【】、ダンベル168回【】、腹筋42回、【】4月の運動記録3357往復【高さ10071㍍】、ダンベル3276回【52トン】、腹筋820回ウォーキング101320歩【59㎞】、CD1590回運動記録2021年4月2年と4ケ月目3月の運動記録1640回4920m、ダンベル342054.7トン、腹筋920、ウォーキング36606歩20㎞2月の運動記録【2520】7560㍍、ダンベル【4212】67トン、腹筋【1053】ウォーキング9300歩5㎞⇒運動記録2年と2ケ月目一番大切なことは続けること1月の運動記録3330往復(高さ9990m)、ダンベル4560回(73トン)、腹筋1140回、ウォーキング7180歩(4㎞)CD159...運動記録5月2年と5ケ月目

  • 陵墓左041 建礼門院大原西陵

    小さな五輪石塔がしるし見えない女院は平清盛の二女として生まれ、17歳で高倉天皇の女御となり、次いで中宮となつて安徳天皇を生んだ。崩御や享年は説によって様々で、建久2年2月・1191年・37歳、貞応2年3月・1223年・69歳、建保元年12月・1213年・59歳といろいろある。崩御の場所も一般には寂光院となっているが、一説には東山鷲尾といわれ、はっきりしない。これらの屋根は寂光院の本堂関連記事⇒寺院東0358清閑寺2関連記事⇒まとめ042陵墓下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます陵墓左041建礼門院大原西陵

  • まち歩き左1712 大原 草生町

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1711大原朧(おぼろ)の清水次回の記事⇒1713下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1712大原草生町

  • まち歩き左1711 大原 朧(おぼろ)の清水

    わずかに水が湧いている建礼門院がおぼろ月夜にこの井水に姿を写し、身の上を嘆かれたといわれ、古来歌枕として知られる。寂光院は近い。寂然、源俊頼、兼好、与謝蕪村の歌が残っている。まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1710大原草生町次回の記事⇒1712下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1711大原朧(おぼろ)の清水

  • 花左061 大原 花の名前わからず

    2019年11月5日撮影花前回の記事⇒花左060サザンカか次回の記事⇒062下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます花左061大原花の名前わからず

  • 愛宕灯籠左095 大原 愛宕大神

    昭和35年7月建立関連記事⇒愛宕燈籠一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます愛宕灯籠左095大原愛宕大神

  • まち歩き左1710 大原 草生町

    大原草生町(くさおちょう)まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1709大原風景次回の記事⇒1711下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1710大原草生町

  • まち歩き左1709 大原 風景

    南東方面を見るまち歩き前回の記事⇒まち歩き左1708大原トンボ次回の記事⇒1710下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1709大原風景

  • まち歩き左1708 大原 トンボ

    2019年11月5日撮影まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1707京都大原学院次回の記事⇒1709下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1708大原トンボ

  • 石仏左051 石仏 祠にありました

    石仏前回の記事⇒石仏左050石仏祭壇のようにしてある祀られている次回の記事⇒052下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石仏左051石仏祠にありました

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