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アートプラス京めぐり https://blog.goo.ne.jp/korede193

京都の探索中、記事数5200、まち歩き・寺院神社・石碑道標・陵墓・看板 京都府南部も始めました

アートプラス京めぐり
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2015/02/19

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  • 花左061 大原 花の名前わからず

    2019年11月5日撮影花前回の記事⇒花左060サザンカか次回の記事⇒062下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます花左061大原花の名前わからず

  • 愛宕灯籠左095 大原 愛宕大神

    昭和35年7月建立関連記事⇒愛宕燈籠一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます愛宕灯籠左095大原愛宕大神

  • まち歩き左1710 大原 草生町

    大原草生町(くさおちょう)まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1709大原風景次回の記事⇒1711下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1710大原草生町

  • まち歩き左1709 大原 風景

    南東方面を見るまち歩き前回の記事⇒まち歩き左1708大原トンボ次回の記事⇒1710下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1709大原風景

  • まち歩き左1708 大原 トンボ

    2019年11月5日撮影まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1707京都大原学院次回の記事⇒1709下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1708大原トンボ

  • 石仏左051 石仏 祠にありました

    石仏前回の記事⇒石仏左050石仏祭壇のようにしてある祀られている次回の記事⇒052下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石仏左051石仏祠にありました

  • 道標左0319 右 寂光院

    右寂光院左京道明治43年6月(1910)京都中井三郎兵衛建関連記事⇒まとめ059道標中井三郎兵衛氏建立の道標道標前回の記事⇒道標左0318右寂光院次回の記事⇒0320下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標左0319右寂光院

  • まとめ059 道標 中井三郎兵衛氏 建立の道標

    5道標左0318右寂光院4道標左0267魚山敦賀街道3石碑東0114将軍塚付近井上2道標東0106地主神社前にある道標1道標東0109清水寺高台寺山縣公記念樹まとめ059道標中井三郎兵衛氏建立の道標

  • 石仏左050 石仏 祭壇のようにしてある 祀られている

    石仏前回の記事⇒石仏左049大原和田石仏阿弥陀坐像鎌倉時代次回の記事⇒051下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石仏左050石仏祭壇のようにしてある祀られている

  • 道標左0318 右 寂光院

    右寂光院左魚山京道明治43年6月京都中井三郎兵衛建(1910年)関連記事⇒道標左0267魚山敦賀街道石碑東0114将軍塚付近井上道標東0106地主神社前にある道標道標東0109清水寺高台寺山縣公記念樹道標前回の記事⇒道標左0317大原村道路元標次回の記事⇒0319下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標左0318右寂光院

  • まち歩き左1707 大原学院

    ホームページより京都市の中心部から北東へ15km、まわりを山に囲まれた小さな盆地状の土地に、わたしたちの大原があります。ここには、若狭からの鯖街道が通り京都へと続いています。また、三千院や寂光院など古くからの社寺があり、紅葉の季節には観光に多くの人が来られます。畑はシソの紫色と、ヒガンバナやコスモスの花で彩られます。ここに私たち京都市立の小中一貫教育校京都大原学院があります。1875(明8)年5月28日大原校創立(大長瀬町梅の宮に)1879(12).12.小出石校創立1891(24)..大原校および小出石校を大原尋常小学校・小出石尋常小学校と改称1891(24)..尾見分教室創立1892(25).1.小出石尋常小学校が大原尋常小学校小出石分教室となる1893(26)..尾越分教室創立1902(35).7.28本...まち歩き左1707大原学院

  • 石仏左049 大原和田石仏 阿弥陀坐像 鎌倉時代

    石仏前回の記事⇒石仏左048大原での石仏次回の記事⇒050下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石仏左049大原和田石仏阿弥陀坐像鎌倉時代

  • まち歩き左1706 大原の風景

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1705大原京都市左京区編入記念植樹碑次回の記事⇒1707下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1706大原の風景

  • まち歩き左1705 大原 京都市左京区編入 記念植樹碑

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1704法然上人腰掛石次回の記事⇒1706下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1705大原京都市左京区編入記念植樹碑

  • 愛宕灯籠094 大原で 愛宕大神

    関連記事⇒愛宕燈籠一覧下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます愛宕灯籠094大原で愛宕大神

  • 石仏左048 大原での石仏

    石仏前回の記事⇒石仏左047最胤法親王墓の近くにある石塔・石仏次回の記事⇒049下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石仏左048大原での石仏

  • 花左060 サザンカ か

    2019年11月5日撮影花前回の記事⇒花左059サガギクだろうか次回の記事⇒061下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます花左060サザンカか

  • 石仏左047 最胤法親王 墓の近くにある 石塔・石仏

    石仏前回の記事⇒石仏城陽046石仏たくさん集められています次回の記事⇒048下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石仏左047最胤法親王墓の近くにある石塔・石仏

  • 陵墓左040 最胤法親王 墓

    41代最胤法親王(伏見宮邦輔王子)関連記事⇒まとめ042陵墓下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます陵墓左040最胤法親王墓

  • まち歩き左1704 法然上人 腰掛石

    法然上人が勝林院に通うたとき、この石上で休息したと伝わります。まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1703大原熊谷鉈(なた)捨薮次回の記事⇒1705下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1704法然上人腰掛石

  • 寺院左0722 勝林院

    勝林院魚山と号する天台宗の寺院。円仁(慈覚大師)が唐から持ち帰り、比叡山に伝承した法儀声明の修練道場として、弟子の寂源が長和2年(1013)に創建し、後に天台声明の根本道場となった。声明とは、インドで始まったバラモンの学問の一つであるが、日本では仏を讃える歌謡や経を読む音律として広がり、仏教のほか民謡などの日本音楽にも大きな影響を及ぼした。文治2年(1186)に、天台宗の顕真が浄土宗祖の法然を招き、専修念仏について論議した「大原問答」が行われた所でもある。伝説では、その際に、本尊の阿弥陀如来が手から光明を放って念仏の衆生済度の証拠を示したといわれ、本尊は「証拠の阿弥陀」と呼ばれた。本尊を安置する本堂は、鐘楼とともに、京都市の有形文化財に、また、創建当時の梵鐘と境内東側の石造宝篋印塔は、国の重要文化財に指定されて...寺院左0722勝林院

  • 御陵左039 後鳥羽天皇・順徳天皇 法華堂

    法華堂後鳥羽天皇の皇子であり、順徳天皇と同腹であった尊快法親王が、その頃、梶井宮第20代の門主として在職されていた。同親王は御母修明門院(藤原重子)と計らい、父帝の御所であった水無瀬御所の材を移し、御陵として法華堂を営まれた。法華堂は享保21年(1736年)に焼失し、明治年間に御陵が宮内庁の管理となるに及んで、陵外西北部に再建されるに至った。関連記事⇒まとめ042陵墓下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます御陵左039後鳥羽天皇・順徳天皇法華堂

  • 寺院左0771 実行院

    寺院前回の記事⇒寺院左0770来迎院次回の記事⇒0772下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院左0771実行院

  • 陵墓

    後鳥羽天皇・順徳天皇父子後鳥羽天皇は承久の乱に敗れ、隠岐の島に流され、在島18年余、延応元年(1239)2月、60歳で亡くなった。また、順徳天皇は佐渡島に流され、在島21年、父が亡くなってから3年後の仁治3年(1242)46歳で亡くなられた。遺骸は配所にて火葬され、遺詔により、この地に埋葬された。関連記事⇒まとめ042陵墓下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます陵墓

  • まち歩き左1703 大原 熊谷鉈(なた)捨薮

    熊谷腰掛石熊谷蓮生坊は、師の法然が「大原問答」中、この石に腰をかけ、法問の勝劣を聴聞したと言われている。熊谷鉈捨藪熊谷蓮生坊は、「大原問答」で法然が敗れた場合、その法敵を討ち果たそうとひそかに袖に鉈をかくしもっていたが、法然に強くさとされ、鉈をこのところに投げ捨てたと伝えられている。熊谷直実⇒寺院右0712宝樹寺西山浄土宗三宅石碑まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1702大原来迎院参道次回の記事⇒1704下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1703大原熊谷鉈(なた)捨薮

  • まち歩き左1702 大原 来迎院 参道

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1701火の始末ここまで、何年かかったのだろう次回の記事⇒1703下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1702大原来迎院参道

  • まち歩き左1701 火の始末 ここまで、何年かかったのだろう

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1700大原音無の滝次回の記事⇒1702下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1701火の始末ここまで、何年かかったのだろう

  • まち歩き左1700 大原 音無の滝

    音無の滝聖応大師良忍上人は、来迎院を建立して天台声明(しょうみょう、仏教の儀式音楽)や融通念佛宗を興された高僧でした。その上人が、この滝にむかって声明の修行をしていると滝の音と声明の声が和して、ついには滝の音が聞こえなくなったという故事からこの名があります。律川の上流にあります。まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1699大原魚山(ぎょざん)次回の記事⇒1701下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1700大原音無の滝

  • まち歩き左1699 大原 魚山(ぎょざん)

    魚山(ぎょざん)中国の山東省にある声明(仏教の儀式音楽)の聖地魚山に、この辺り一帯が似ていることから名付けられた。かつては、来迎院を始め多くの寺院が建っていて天台宗の修行の地として栄えた。音無しの滝や呂川、律川など声明にまつわる地名が今も残っている。苔むした石仏比叡山へ4時間まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1698大原来迎院参道の苔むした石次回の記事⇒1700下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1699大原魚山(ぎょざん)

  • 寺院左0770 来迎院

    来迎院魚山と号する天台宗の寺院で、仁寿年間(854~854)に円仁(慈覚大師)が、唐で学んだ梵唄(梵語の仏教歌謡)などの声明の修練道場とし創建したものである。声明とは、インドで始まった学問の一つであるが、日本では仏を讃える歌謡や経を読む音律として広がり、仏教のほか民謡などの日本音楽にも大きな影響を及ぼした。その後、平安時代末期(1094年)に、融通念佛の開祖・良忍が再興して、円仁に始まる声明を大成した。この声明は、魚山流と呼ばれ、以後、天台声明の根本道場として栄えた。勝林院と並ぶ声明音律の中心となした。応永33年(1426)火災によって堂舎を焼失したが、永享年間(1429~41)に再建され、さらに天文年間(1532~55)に改修したのが現在の建物です。本堂には、藤原期の薬師・阿弥陀・釈迦三尊仏(重要文化財)を安...寺院左0770来迎院

  • 寺院左0769 浄蓮華院

    来迎院の子院寺院前回の記事⇒寺院左0768蓮成院来迎院の小院次回の記事⇒0770下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院左0769浄蓮華院

  • 寺院左0768 蓮成院 来迎院の小院

    どこもが苔むしている寺院前回の記事⇒寺院城陽0767深広寺浄土宗次回の記事⇒0769下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院左0768蓮成院来迎院の小院

  • 神社左0247 大原 勝手神社

    由緒書き、説明板も何もない参道本殿神社前回の記事⇒神社城陽0246賀茂神社次回の記事⇒0248下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます神社左0247大原勝手神社

  • まち歩き左1698 大原 来迎院参道の苔むした石

    苔で覆われていますまち歩き前回の記事⇒まち歩き左1697大原三千院朱雀門次回の記事⇒1699下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1698大原来迎院参道の苔むした石

  • まち歩き左1697 大原 三千院 朱雀門

    三千院の外、南の道から朱雀門を見る。まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1696大原・来迎院案内板・境内図次回の記事⇒1698下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1697大原三千院朱雀門

  • まち歩き左1696 大原・来迎院 案内板・境内図

    良忍上人空也上人まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1695町名大原勝林院町次回の記事⇒1697下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1696大原・来迎院案内板・境内図

  • 石碑左0237 一福茶屋

    石碑前回の記事⇒石碑左0236歌大原「女ひとり」歌碑・永六輔作詞次回の記事⇒0238下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石碑左0237一福茶屋

  • 道標左0317 大原村道路元標

    道路元標⇒まとめ048関連0005道路元標道標前回の記事⇒道標左0316梶尾三千院門跡次回の記事⇒0318下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標左0317大原村道路元標

  • 道標左0316 梶尾 三千院門跡

    梶井三千院門跡重要文化財三重石塔融通念佛宗宗祖聖應大師良仁上人御廟昭和48年9月総本山大念仏寺建立右上三百米来迎院裏道標前回の記事⇒道標城陽0315梨間の宿の碑三宅の石碑次回の記事⇒0317下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標左0316梶尾三千院門跡

  • 地蔵尊左068 大原 地蔵石仏

    土台も石だ地蔵尊前回の記事⇒まち歩き長岡京1274西国街道・長岡京市地蔵尊長岡京067次回の記事⇒069下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます地蔵尊左068大原地蔵石仏

  • 花059 サガギク だろうか

    花前回の記事⇒花城陽058城陽の水主あぜ道で次回の記事⇒060下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます花059サガギクだろうか

  • 石碑左0236 歌 大原「女 ひとり」 歌碑・永六輔 作詞

    石碑前回の記事⇒石碑城陽0235忠魂碑次回の記事⇒0237下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石碑左0236歌大原「女ひとり」歌碑・永六輔作詞

  • まち歩き左1695 町名 大原勝林院町

    2019年11月5日撮影まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1694地下鉄・国際会館バス停の京都市バスおもてなしコンシェルジュ次回の記事⇒1696下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1695町名大原勝林院町

  • まち歩き左1694 地下鉄・国際会館 バス停 の 京都市バス おもてなし コンシェルジュ

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1693京の通り・高倉通り北の端NO89丸太町通次回の記事⇒1695下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き左1694地下鉄・国際会館バス停の京都市バスおもてなしコンシェルジュ

  • まち歩き中1693 京の通り・高倉通り 北の端 NO89 丸太町通

    2019年11月1日撮影まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1692京の通り・高倉通り北へNO88竹屋町通町名・坂本町次回の記事⇒1694下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1693京の通り・高倉通り北の端NO89丸太町通

  • まち歩き中1692 京の通り・高倉通り 北へ NO88 竹屋町通 町名・坂本町

    坂本町右京区に梅津坂本町があるまち歩き前回の記事⇒まち歩き中1691京の通り・高倉通り北へNO87レンガ造りの塀次回の記事⇒1693下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1692京の通り・高倉通り北へNO88竹屋町通町名・坂本町

  • まち歩き中1691 京の通り・高倉通り 北へ NO87 レンガ造りの塀

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1690京の通り・高倉通り北へNO86蔵次回の記事⇒1692下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1691京の通り・高倉通り北へNO87レンガ造りの塀

  • まち歩き中1690 京の通り・高倉通り 北へ NO86 蔵

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1689京の通り・高倉通り北へNO85古書籍組合町名・福屋町次回の記事⇒1691下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1690京の通り・高倉通り北へNO86蔵

  • まち歩き中1689 京の通り・高倉通り 北へ NO85 古書籍組合 町名・福屋町

    京都府古書籍商業協同組合福屋町の名称はここだけにしか使われていないまち歩き前回の記事⇒まち歩き中1688京の通り・高倉通り北へNO84夷川通次回の記事⇒1690下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1689京の通り・高倉通り北へNO85古書籍組合町名・福屋町

  • まち歩き中1688 京の通り・高倉通り 北へ NO84 夷川通

    北方向を見る南東角の店まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1687京の通り・高倉通り北へNO83これは何・・・次回の記事⇒1689下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1688京の通り・高倉通り北へNO84夷川通

  • まち歩き中1687 京の通り・高倉通り 北へ NO83 これは何・・・

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1686京の通り・高倉通り北へNO82工事中次回の記事⇒1688下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1687京の通り・高倉通り北へNO83これは何・・・

  • まち歩き中1686 京の通り・高倉通り 北へ NO82 工事中

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1685京の通り・高倉通り北へNO81民家次回の記事⇒1687下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1686京の通り・高倉通り北へNO82工事中

  • まち歩き中1685 京の通り・高倉通り 北へ NO81 民家

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1684京の通り・高倉通り北へNO80二条通次回の記事⇒1686下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1685京の通り・高倉通り北へNO81民家

  • まち歩き中1684 京の通り・高倉通り 北へ NO80 二条通

    北方向を見る東方向を見るまち歩き前回の記事⇒まち歩き中1683京の通り・高倉通り北へNO79民家・町名松屋町次回の記事⇒1685下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1684京の通り・高倉通り北へNO80二条通

  • まち歩き中1683 京の通り・高倉通り 北へ NO79 民家・ 町名 松屋町

    松屋町まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1682京の通り・高倉通り北へNO78寺・浄光寺次回の記事⇒1684まち歩き中1683京の通り・高倉通り北へNO79民家・町名松屋町

  • まち歩き中1682 京の通り・高倉通り 北へ NO78 寺・浄光寺

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1681京の通り・高倉通り北へNO77民家次回の記事⇒1683下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1682京の通り・高倉通り北へNO78寺・浄光寺

  • まち歩き中1681 京の通り・高倉通り 北へ NO77 民家

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1680京の通り・高倉通り北へNO76蔵次回の記事⇒1682下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1681京の通り・高倉通り北へNO77民家

  • まち歩き中1680 京の通り・高倉通り 北へ NO76 蔵

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1679京の通り・高倉通り北へNO75押小路通次回の記事⇒1681下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1680京の通り・高倉通り北へNO76蔵

  • まち歩き中1679 京の通り・高倉通り 北へ NO75 押小路通

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1678京の通り・高倉通り北へNO74お寺次回の記事⇒1680下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1679京の通り・高倉通り北へNO75押小路通

  • まち歩き中1678 京の通り・高倉通り 北へ NO74 お寺

    本龍寺まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1677京の通り・高倉通り北へNO73室町幕府発祥の地次回の記事⇒1679下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1678京の通り・高倉通り北へNO74お寺

  • まち歩き中1677 京の通り・高倉通り 北へ NO73 室町幕府発祥の地

    室町幕府発祥の地足利尊氏邸・等持寺跡この付近は、室町幕府初代将軍足利尊氏(1305~1358)の「三條坊門第」(二条万里小路第)のあっちところである。尊氏邸の範囲については諸説があるが、二条大路、三條坊門小路(御池通り)、万里小路(柳馬場通)、高倉小路に囲まれた南北250m、東西120mの土地を占めていたと考えるのが最も合理的であろう。尊氏はこの邸宅で政務をとり、延文3年(1358)にはここで亡くなった。この地は、後に「室町幕府」と呼ばれた政権の発祥の地であったわけである。後にこの邸宅は「等持寺」という寺院に改められた。尊氏は3つの寺院を建てるを願ったが果たせず、そのため「等持寺」の文字の中には3つの「寺」の字が含まれることになったとつたえられている。等持寺は足利氏の菩提寺として崇敬を集め、室町時代の政治・文化...まち歩き中1677京の通り・高倉通り北へNO73室町幕府発祥の地

  • まち歩き中1676 京の通り・高倉通り 北へ NO72 御池通

    東方向を見る南方向を見る2019年11月1日撮影北方向を見るまち歩き前回の記事⇒まち歩き中1675京の通り・高倉通り北へNO71御所八幡宮次回の記事⇒1677下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1676京の通り・高倉通り北へNO72御池通

  • まち歩き中1675 京の通り・高倉通り 北へ NO71 御所八幡宮

    記念碑皇太子殿下御成婚2019年本殿由緒鎌倉時代の弘安元年(1278)10月13日二条内裏焼失により翌11月8日の夕、後宇多天皇(第91代)が前内大臣中院通成の三條坊門萬里小路邸に行幸あり、しばし内裏となり俄に四足門を造立せられたることは「増鏡」に記すところである。【この地は第77代後白河天皇(1155)の皇子で平家の横暴を懲らしめようと源氏の一族に令旨を下し挙兵を(久寿・保元の乱)要望された高倉宮以仁王の邸が三條高倉にあったので高倉殿とも呼ばれていた。】村上源氏の一門である中院氏が源氏の氏神である。石清水の若宮を邸内祠として、いつの世にか勧請奉斎していたことは当然であるが、この行幸にて御帝が親しく八幡宮を祝いまいらせたる社としてその後は御所八幡宮と名付け奉斎してした。建武の大乱以後南北朝に入るに及んであたりの...まち歩き中1675京の通り・高倉通り北へNO71御所八幡宮

  • まち歩き中1674 京の通り・高倉通り 北へ NO70 法衣・仏具店

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1673京の通り・高倉通り北へNO69姉小路通クランクになっている次回の記事⇒1675下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1674京の通り・高倉通り北へNO70法衣・仏具店

  • まち歩き中1673 京の通り・高倉通り 北へ NO69 姉小路通 クランクになっている

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1672京の通り・高倉通り北へNO68店・アンティーク次回の記事⇒1674下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1673京の通り・高倉通り北へNO69姉小路通クランクになっている

  • まち歩き中1672 京の通り・高倉通り 北へ NO68 店・アンティーク

    JAPANESEANTIQUESと書かれていますまち歩き前回の記事⇒まち歩き中1671京の通り・高倉通り北へNO67蔵次回の記事⇒1673下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1672京の通り・高倉通り北へNO68店・アンティーク

  • まち歩き中1671 京の通り・高倉通り 北へ NO67 蔵

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1670京の通り・高倉通り北へNO66ギャラリー次回の記事⇒1672下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1671京の通り・高倉通り北へNO67蔵

  • まち歩き中1670 京の通り・高倉通り 北へ NO66 ギャラリー

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1669京の通り・高倉通り北へNO65文化博物館・公共建築百選次回の記事⇒1671下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1670京の通り・高倉通り北へNO66ギャラリー

  • まち歩き中1669 京の通り・高倉通り 北へ NO65 文化博物館・公共建築百選

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1668京の通り・高倉通り北へNO64三条通次回の記事⇒1670下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1669京の通り・高倉通り北へNO65文化博物館・公共建築百選

  • まち歩き中1668 京の通り・高倉通り 北へ NO64 三条通

    2019年11月1日撮影元日本銀行京都支店重要文化財まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1667京の通り・高倉通り北へNO63店・陶器次回の記事⇒1669下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1668京の通り・高倉通り北へNO64三条通

  • まち歩き中1667 京の通り・高倉通り 北へ NO63 店・陶器

    ホームページより当店は1921年創業しました食器専門店です。初代のころより京都を中心に料亭・お料理屋さんとお取引をさせて頂いており、「うつわはお料理の脇役」という考えのもと、お料理をより引き立てるうつわを取り揃えております。京都をはじめ、全国の作家や窯元の作品を取り揃えておりますまち歩き前回の記事⇒まち歩き中1666京の通り・高倉通り北へNO62民家次回の記事⇒1668下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1667京の通り・高倉通り北へNO63店・陶器

  • 運動記録 2021年4月 2年と4ケ月目

    2021年4月の運動記録階段1回で高さ3m往復、ダンベル1回・2個で16㌔4日階段昇降60回【180】、ダンベル164回【492】、腹筋41回【123】3日階段昇降60回【120】、ダンベル164回【328】、腹筋41回【82】2日ウォーキング9200歩1日階段昇降60回【】、ダンベル164回【】、腹筋41回【】、ウォーキング歩【】3月の運動記録階段1回で高さ3m往復、ダンベル1回・2個で16㌔階段昇降1640回4920m、ダンベル34205.47トン、腹筋920、ウォーキング36606歩20㎞⇒2月の運動記録階段1回で高さ3m往復、ダンベル1回・2個で16㌔階段昇降【2520】7560㍍、ダンベル【4212】67トン、腹筋【1053】ウォーキング9300歩5㎞⇒運動記録2年と2ケ月目一番大切なことは続けること...運動記録2021年4月2年と4ケ月目

  • まち歩き中1666 京の通り・高倉通り 北へ NO62 民家

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1665京の通り・高倉通り北へNO61新築工事中次回の記事⇒1667下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1666京の通り・高倉通り北へNO62民家

  • まち歩き中1665 京の通り・高倉通り 北へ NO61 新築工事中

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1664京の通り・高倉通り北へNO60店次回の記事⇒1666下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1665京の通り・高倉通り北へNO61新築工事中

  • まち歩き中1664 京の通り・高倉通り 北へ NO60 店

    ホームページより昭和33年7月創業昭和41年9月設立事業内容:呉服卸業(紬を中心とした織物の全国呉服店への卸売)まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1663京の通り・高倉通り北へNO59民家次回の記事⇒1665下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1664京の通り・高倉通り北へNO60店

  • まち歩き中1663 京の通り・高倉通り 北へ NO59 民家

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1662京の通り・高倉通り北へNO58六角通クランクになっている次回の記事⇒1664下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1663京の通り・高倉通り北へNO59民家

  • まち歩き中1662 京の通り・高倉通り 北へ NO58 六角通 クランクになっている

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1661京の通り・高倉通り北へNO57民家次回の記事⇒1663下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1662京の通り・高倉通り北へNO58六角通クランクになっている

  • まち歩き中1661 京の通り・高倉通り 北へ NO57 民家

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1660京の通り・高倉通り北へNO56民家和久屋町次回の記事⇒1662下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1661京の通り・高倉通り北へNO57民家

  • まち歩き中1660 京の通り・高倉通り 北へ NO56 民家 和久屋町

    町名・和久屋町中京区にもう1ケ所同じ町名があるまち歩き前回の記事⇒まち歩き中1659京の通り・高倉通り北へNO55石碑次回の記事⇒1661下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1660京の通り・高倉通り北へNO56民家和久屋町

  • まち歩き中1659 京の通り・高倉通り 北へ NO55 石碑

    高倉小学校開校記念碑立誠・生祥・日彰・明倫・本能・初音・城巽の各校のいずれも我々の先人が明治2年、自らの力で番組小学校として創設(初音・城巽両校は後に中学校となる)。以来、120有余年にわたり幾多の優れた人材を輩出するとともに、地域のシンボルとして愛され親しまれてきた。しかし、都心部における児童数減少の中、子供達により良い教育環境を与えたいとの思いの上に、21世紀人づくりをめざして5校の統合を決意、ここに高倉小学校として開校することとなった。開校に当り5校の輝かしい歴史を進めた七学区区民の英知溢れる決断を後世に伝えるため、これを記念碑として残すものである。平成7年4月1日(1995)日彰学区の沿革ここは和久屋町(元日彰学区)です。六角通から南は蛸薬師通に至る、天正時代に豊臣秀吉が町界を定めたとされる、両側町とな...まち歩き中1659京の通り・高倉通り北へNO55石碑

  • まち歩き中1658 京の通り・高倉通り 北へ NO54 高倉小学校

    独特な形をした校舎だまち歩き前回の記事⇒まち歩き中1657京の通り・高倉通り北へNO53店・和菓子屋次回の記事⇒1659下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1658京の通り・高倉通り北へNO54高倉小学校

  • まち歩き中1657 京の通り・高倉通り 北へ NO53 店・和菓子屋

    銘菓「したたり」で知られる亀廣永。したたりは、かつて洛中名水の一といわれた「菊水の井戸」にゆかりの深い菊水鉾に献上する菓子として生まれました。まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1656京の通り・高倉通り北へNO52蛸薬師通次回の記事⇒1658下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1657京の通り・高倉通り北へNO53店・和菓子屋

  • まち歩き中1656 京の通り・高倉通り 北へ NO52 蛸薬師通

    2019年11月1日撮影まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1655京の通り・高倉通り北へNO51蔵を店に次回の記事⇒1657下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1656京の通り・高倉通り北へNO52蛸薬師通

  • まち歩き中1655 京の通り・高倉通り 北へ NO51 蔵を店に

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1654京の通り・高倉通り北へNO50のれん・ざぶとんの店・レンガ造り次回の記事⇒1656下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1655京の通り・高倉通り北へNO51蔵を店に

  • まち歩き中1654 京の通り・高倉通り 北へ NO50 のれん・ざぶとん の店・レンガ造り

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1653京の通り・高倉通り北へNO49石碑・青々塾次回の記事⇒1655下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1654京の通り・高倉通り北へNO50のれん・ざぶとんの店・レンガ造り

  • まち歩き中1653 京の通り・高倉通り 北へ NO49 石碑・青々塾

    菁々塾は,西谷淇水(1824~91)が開設した私塾。淇水は,江戸中期より手跡指南所篤志軒を営む西谷家の8代目であった。慶応3(1867)年・翌明治元年に小学校設立を建言。明治2(1869)年京都市中に64の小学校が開設されたが,それは寺子屋などの私塾を基礎としたものであり,菁々塾もその一つで下京第四番組小学校(日彰小学校)に発展した。まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1652京の通り・高倉通り北へNO48民家次回の記事⇒1654下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1653京の通り・高倉通り北へNO49石碑・青々塾

  • まち歩き中1652 京の通り・高倉通り 北へ NO48 民家

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1651京の通り・高倉通り北へNO47錦小路通次回の記事⇒1653下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1652京の通り・高倉通り北へNO48民家

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